今日以上に憂鬱な朝は存在しないだろう。
 六月の終わりは特にイジメが激しくなった頃だ。また、あんな地獄が始まるのかと大人になっても足が震える。
 二度と思い出したくないのに、再び体験だなんて。
 今でも十分覚えいてるのに。
 ずっと忘れたいと願っていたが、叶ったことなんてない。思い出したくない記憶ほど鮮明に、それでいて些細なきっかけで脳の大部分を長時間支配してしまうものだ。
 十数年経ったというのに。お蔭で、十数年ぶりに手を通す制服を着るのだって慣れたものだ。この時間、今日は何をされるのか一人怯えて、泣いて、絶望して、そのせいで着替えるのだけで二時間もの長い時間を有した時期だ。
 恐怖で震えた手が上手くボタンを掴めない。
 どうやって服を着ればいいかわからなくなれば、学校にいかなくて済むのに。涙で滲んだ視界で何も見えなくなればいいのに。
 今思えば、なんて馬鹿なことを考えていたのか。中学二年生だとは思えない幼稚な考え。小学生の方がもっとまともなことを考えるだろう。
 だけど、不思議なことに当時僕はどの願いも真剣に願っていた。
 夜寝る時は、明日起きたら地球が無くなっていることを願って寝ていたし、起きたら起きたで、他人の不幸を願わずにはいられなかった。
 朝六時、母が朝食の用意を始める少し前。
 僕は読めることが出来ない教科書を、ボロボロの鞄をに詰め込んで家を出た。
 学校には行きたくない。
 けど、休むわけにはいかない。
 学校にいたくない。
 けど、いないわけにはいかない。
 ある日、僕の机はゴミで溢れていた。どこの誰のゴミかもわからない。使いかけの何かがくるまれていたり、汁が滴っていた何かだったり。その日、僕はいつも通りに家を出て教室に入った。それを見た瞬間、気持ち悪さと、自分か惨めな恥ずかしさが込み上がって来た。ゴミを処理している間、馬鹿にされている恥ずかしさ、犯人たち以外から憐れみの目で見られる惨めさ、それでいて何も言えず何も返せず僕の不甲斐ないさ。全てに涙が止まらなかった。
 誰がやったのかは知っている。わかっている。あいつらはずっと笑っていた。ゴミを片付ける僕に机はゴミ箱じゃないんだぞと笑いながら怒鳴られ、蹴られた。
 わかっているのに、いつやられたのかわからない。
 もう嫌だった。二度とされたくなかった。
 だから、朝の六時から夕方六時まで。学校が開いている時間、僕は自分の机にへばりついた。
 無意味なのは自分でもわかっている。もっと他に解決方法だってあるかもしれない。けど、これしか自分が守れるものがなかったんだ。
 大人になった今でも。
 六時十五分過ぎ。
 教室の鍵を開けて、僕は自分の机に歩く。
 座席表なんて覚えていない。けど、すぐにわかった。
 ゴミはないのに。
 僕は一つの机の前で止まる。
 社会人になって始発に乗れなければ遅刻だと上司に怒られていた同僚を見た時、僕は一人心の中で笑っていた。
 早起きは得意でよかった。昔から得意だった。朝四頃時を覚まし、六時に教室の机に座っている。ずっと僕がしてきたことだ。
 この地獄を抜けても、僕は常に人に怯えていたから。
 僕の前にある机には僕の前で書かれた沢山の落書きと彫刻刀で削った僕を表す無数の酷い文字が浮かび上がっていた。先生も最初は机を変えてくれたが六月に入り、違う先生に使い過ぎだと注意を言われたと変えてくれなくなったっけ。
「ずっと守って来たつもりだったのにな……」
 改めて見れば、これ程酷い机もない。
 本当は、何も守れてないじゃないか。
 守れていたものなんて何もない。指の隙間から砂の様に全てが零れ落ちていっていたのに。僕は必死に気付かないふりをして守った気だけしていて……。
 僕は……。
「泰也君っ!」
 僕はハッと顔を上げた。声のした教室のドアの方を見るためではない。六時半を少し回った時計を見る為だ。
 こんな時間に?
 何故?
「いつも学校行くの早いよっ! いつも私も起こして、って言っているでしょ?」
 茫然と時計を見ていると、制服姿の彼女、いや。向日葵が僕の席まで飛んできた。
 どうして彼女が?
 僕を追いかけて出てきたのか? でも、それこそどうして?
「泰也君っ! 聞いてるぅ?」
 顔が向日葵の両手に挟まれ、ぐっと顔を近づけられる。わっと叫ぼうとしても、彼女に挟まれた顔ではそれも敵わない。
 だからこそ、思わずこんな言葉が出た。
「ご、ごめん……」
 僕がそう言葉を漏らせば、彼女は見る見る太陽の様に微笑み、手を放してくれた。
「明日からはちゃんと起こしてよねっ! 約束だよっ」
「う、うん……」
 無邪気に笑う彼女。
 その姿に何とも毒気が抜かれてしまう。
 改めて向日葵が着ているこの中学校の制服姿を見ると、彼女もこの中学校に通っているのか。僕の姿を追ってこのクラスに入って来たとしても、中々戻らないし学年もクラスも一緒?
 だとすると、クラスの人数が一人増えているのだろうか? それとも一人減って変わらないとか? そちらの方が随分とホラーだが、如何せん十数年前のクラスの人数なんていくらなんでも覚えているわけがない。
 残念だが、どちらかはわからず終いになりそうだ。
「……」
 それにしても……。
「……」
 はぁ。
「あの……」
「ん?」
「席、戻らないの?」
 僕の隣に座っておにぎりを食べ始めた彼女に疑問を提示する。
 隣の席がだれだか知らないが、この中学校は基本食べ物の持ち込みを禁止されているはずだ。普通はお菓子だとかだろうが、流石におにぎりも駄目だろう。
 せめて自分の席で食べた方がいいと思うが……。
「何を言っているの? 私の席は泰也君の隣の席だよ?」
「え? それってつまり……」
「ここの席が私の席ってこと」
 そう嬉しそうに向日葵が笑う。
 席が隣、か。同じ家に住んでいるのに、なんて偶然なんだろう。普通、席もクラスも分かれるように学校側が配慮するんじゃないのだろうか。
「そうなんだ……」
 しかし、だから言ってこの危機が乗り越えるわけじゃない。
 彼女にとっては七年間一緒に育った兄弟のような幼馴染なんだろうが、僕にとっては急に生えて来た筍みたいなものだ。
 なんの思い出も思い入れもない。少し恐怖は薄まったぐらいで沸くものなど何もないに決まっている。
 つまるところ、僕はこの気まずい無言の空間が耐えられないでいた。なのに僕は彼女と談笑する話題も手段も度胸もない。と言う訳だ。
 いつも誰も彼もが僕の存在を見えないように扱っていた。なのに、急に認識されてこちらを見られ続けていると何だがいたたまれないのだ。
 僕は仕方がないと机に顔を伏せる。こんな時は寝たふりが一番いい。
 なのに。
「泰也君、眠いの?」
 こんな時に限って彼女から話題を振ってくれる。しかも、続かなそうな会話の出だしで。
「朝、早かったから……」
 本当は眠くはない。少し、疲れているかもしれないけど。本当に寝てしまえば、何をされるかもわからないし神経はいつも研ぎ澄まされている。
「そっか。ごめんね、ちょっと私、邪魔だったよね」
 まただ。昨日と一緒。
 どこか少し寂しそうな声。
 僕は勢いよく顔を上げて彼女を見る。
 僕に対して寂しいと本当に思うのだろうか。
 どんな顔をしているのか。
 どうしても、見たかったのだ。
「わっ」
 しかし、僕が突然顔をあげるものだから彼女の表情が驚きに変わった後しか見えなかった。恐らく、表情を見たいのならば腕に隠れてこっそり見るものだったのではないだろうか。人の表情が見たいと思ったことがなかったから、瞬時に考えつかなかった。
「ど、どうしたの?」
 驚く彼女が僕に問いかける。
 流石に、君の表情が見たかったなんて素直には言えない。それこそ本当に妹の『キモい』が鳴き声ではなく意味を持ってしまうではないか。
「いや、僕もお腹空いてて……」
 思わず目に入ったおにぎりを理由にしてしまう。
「あ、そうだよね。泰也君昨日から何も食べてないもんね」
 そうだ。僕は自分の部屋に逃げ込んだ後、一歩も外には出なかった。
 明日の憂いをずっと嘆いてたから。
「はいっ!」
 向日葵は僕には自分の前に並んでいたおにぎりを一つ差し出した。
「え?」
 自分の朝ごはんなのに。
「お腹空いたんでしょ? 食べて食べて」
 彼女の手は遠慮なく僕の机の迄入って来て、どうしていいのかわからない僕は彼女に言われるがままおにぎりを受け取った。
 本当は腹なんて空いてない。
 一日何も食べられない日だってよくある。最近は腹が減ったと思う感覚すら忘れていたのに。渡されたおにぎりから薫る米の匂いに混じって母がよく作ってくれた手作りの鮭フレークの匂いが鼻をくすぐる。
 どんなに忙しくても、これならお兄ちゃん食べられるんじゃないかしらと帰りの遅い僕のために母が握ってくれたおにぎりと同じ形。
 本来なら間抜けにぐぅっと鳴るはずの腹の虫が、ぎゅっと心臓を掴まれた音に変わってしまった。
「おいしよい」
 彼女が笑う。
 そうだね。誰よりも知っているよ。
「ありがとう……」
 腹が減っていたかはわからない。けど、久々に食べる懐かしい母の味は何よりも美味しいと思った。
「もっと持って来ればよかったね」
 貰った一つをぺろりと食べてしまった僕を見て、向日葵は不甲斐なさそうにおにぎりのゴミを受け取ってくれる。
「あ、いや、ごめん……」
 そうだ。本来なら彼女の胃に入らなきゃいけないおにぎりだったのに。僕に分けてしまったから物足りないのか。
「やっぱり断ればよかったね……」
 図々しい奴だな、僕は。
「えっ!? 違う、違うっ。泰也君の分を持ってこれば泰也君が沢山食べられたのにってことだよ」
「えっ」
「昨日の夜、泰也君が何も食べてないのに知っていたのにね。気が利かなかったなって」
「そんなことないよ。一つでも十分だし」
「でも、家では大きなおにぎり三つぐらい食べてるじゃない」
 そんなことも知っているのか。母が作ったおにぎりは家族が寝静まった深夜に隠れて食べていたはずなのに。
「あれは……」
「明日は沢山持ってくるね」
「明日?」
「そう。だって起こしてくれるんでしょ?」
 そう言えばそんな約束をしてしまったけ。
 明日もまた彼女と一緒にこんな時間を過ごすのか。
 けど、その前に……。
「君、どこの部屋で寝ているの?」
 起こすにしていも、向日葵が寝室として使っている部屋なんて僕は知らない。
 うちは何も広い家じゃない。部屋数だって普通で、家族が共通で使う納戸やリビングや客間以外だと子供が各一部屋、両親の寝室ぐらいしかない。
 昨日台所へ至る前に客間を見かけたが、特に誰かの寝室として使っている様子はなかった。両親たちと寝ているとは考えにくいし、妹と同じ部屋で寝ているのだろうか? それとも、この教室に存在しないはずの机と椅子があるように、我が家にも存在しない一室でも出来ているのだうか。
「えーっ! 私、昔から部屋変わってないよ?」
「ごめん、わかんなくて……」
 流石に一緒に暮らしていると言っても、兄弟ではない異性の部屋を正しく把握しているとは思えない。
「もう。一緒に寝てるのに気づいてないとか」
「え?」
 一緒に?
「ぼ、僕の部屋で!?」
「そうだよ。ずっと、そうでしょ?」
 彼女はまたも嬉しそうに笑う。
 まだ、不思議な部屋が我が家に出来てくれた方が精神的には良かった。
 でも、待てよ?
「君、昨日はどこで寝ていたの?」
 そうだ、昨日僕は自分の部屋の鍵をかけて寝たじゃないか。内側からしか開けられない構造になっている鍵を外側から外したとは考えにくい。
 なのに、だ。
「泰也君の部屋でだよ?」
 入れるはずがないのに? やっぱり彼女は……。
「泰也君が入れてくれたの忘れての?」
「え?」
 僕が?
「そうだよ。いつも寝る前に部屋をノックすると開けてくれるてじょ? 昨日寝る準備が終わってドア叩いたら開けてくれたよ」
 そんな記憶はどこにも無い。けど、僕はいつの間にはベッドから落ちて床に寝ていた事実はある。
「ベッドで寝てた?」
「うん。いつもそうでしょ? 泰也君は床でいつも寝てるじゃない」
 そう言えば、そんな気がしてきた。
 僕の記憶はなくても、この体に無意識に何か刻みついているのかもしれないな。
「だから、起きたらそのまま声かけてよ」
「うん」
「あと、私のこと君とか呼ぶなんて、何かヤダな」
「あ、うん」
 そうか。僕は彼女のことを何て呼んでいたんだろう。
「他人行儀みたい」
「そ、そうだね。ごめんね」
 他人じゃん。そんな意地悪な言葉が浮かんでは消える。
「いつもみたいに呼んでよ」
 いつも?
「え、えっと……」
 それがわからないんだ。いつもなんて、僕にはない。
 いっそのこと、ここで僕は未来から来た坂口泰也だと彼女に告げてしまおうか。彼女だってイレギュラーな存在で僕と同じじゃないか。
 それに、彼女は他の家族とは違う。
 もしかしたら……。
「な、なんて呼んでたっけ?」
 ぎこちなく、自分の口角が不自然に吊り上がっていく。
 言えるわけがない。家族にも言えないことを、何の信頼もない人間に言えるわけがない。
 そんな勇気があるわけないじゃないか。
 僕の下手くそな愛想笑いに、彼女はため息を吐くと困ったように笑った。
「向日葵って呼んでくれているの、忘れちゃった?」
 あ。
「ご、ごめん……」
 僕は顔を伏せる。
 深く考えてなかった今の僕が他の人間にどう映るかなんて。
 彼女の困ったような笑顔を見て、はっとなった。
 それは、寂しいような、期待していたような、それでいてがっかりしてしまったように、困惑しているように、そしてまた、彼女も得体が知れない僕を恐れているのだ。
 怖いよ。
 ずっと知っている筈の家族に似た同居人が、まったく知らない人間みたいに変わったなんて。考えただけでもゾッとするし、警戒する。
 僕がいい例だ。
 たかが僕の過去にいなかっただけの彼女を警戒し続けていた。勿論、今だって。気は抜けて、何も害がなさそうだと思う今でも。
 だってそうだろ?
 知らないは、怖いんだ。
 彼女も僕も。お互いを恐れるには十分な理由じゃないか。
 仕方がないと分かっているのに、僕は今彼女に裏切られた気持ちになっている。あの優しさを持って、僕を信じてくれないのかと。
 なんて自分勝手な人間なんだ、僕は。自分は良くて他人は駄目なんて。
 顔を伏して落ち込んでいると、彼女の手がぬっと飛び出し僕の頬を優しく抓った。
「ねぇ、泰也君」
「な、なに?」
「謝るぐらい悪いと思うなら、名前を呼んでよ」
「うん、これから呼ぶ……」
「違うよ。今すぐってこと」
 彼女は頬を膨らます。
「え? 今?」
「そう。昨日から呼んでくれなかったでしょ? 私のこと、本当に嫌いになっちゃったのかと落ち込んでいたの」
「そんなことは……」
「ないなら呼んでよ」
 今度は、期待に満ちた顔だ。
「お願い、泰也君」
 真剣な顔つきで、彼女が僕を見る。でも、やっぱり目だけは期待に満ち溢れているようだった。
 断りたい。名前なんて呼ぶほど親密な相手なんて僕にはいない。
 逆に僕のことを名前で呼ぶ人間も。母や父だってそうだ。
 そなに僕には少々荷が重すぎる。
 でも。
 何だが彼女の期待に答えたら、彼女も僕の期待に応えてくれそうな気がした。狡くて汚い言い方がけど、僕にはそれがなによりも重要で、何よりも必要で、何よりも欲しかった。
 つい先ほど裏切れた気分になったことも含めて。
「わかった。えっと……ひ、向日葵っ」
「わっ! わっ! わっ!」
 なんとか絞り出した声に、向日葵は飛び上がると嬉しそうに手を叩く。そんなに喜ぶことなのか?
「泰也君、嬉しいっ!?」
「え? 僕が?」
 何で僕が?
「あ、違った。気にしないでっ。それより、泰也君は課題やった? 私、日本史の……」
 何が違ったんだろうか。
 でも、その疑問は中々出せず、奥に奥に仕舞われていく。まるで出せない手紙のようだ。
 何故、疑問をしまう羽目になったのか。
 それは苦痛だと思っていた彼女との無音の時間が、会話で驚く程埋め尽くされてしまったからだ。
「泰也君、最近ギター触らないよね。飽きちゃった? 私、聞くの好きだったよ」
 とか、
「泰也君が昔好きだったアレを覚える? 最近梨絵ちゃんがね」
 とか、
「泰也君ってブロッコリー食べれるの? うっそ! 昔、私のお皿にこっそり入れてたのに? ちょっと信じられないな」
 とか。
 僕がどれだけ不愛想に「うん」とか、「そうかも」とか、「あ」とか返しても、向日葵は僕と喋ることを止めようとはしなかった。湯水のように自分の中にある話題が溢れているのか、僕から話をふることはなかった。
 戸惑うこともある反面、少しだけ嬉しかった。
 母以外の人間に根掘り葉掘り自分のことを聞かれる経験なんて僕には少ない。お蔭で返事にも「あ」とか「う」とか意味のない言葉が混じってしまうし、すぐに反応を返せられなかったり。それでも向日葵は嫌なをせずに僕の言葉を待ってくれた。例え、その返事がどれほと期待外れでがっかりな内容でも。
 彼女は嬉しそうに笑ってくれた。
 一回目の中学二年の六月は雨だった。明けない雨がいつも自分に降り注いでいた。
 けど、二回目は少し違う。六月は雨で、明けない雨が降り注いでいるのは変わらないけど、てるてる坊主が揺れている。
 いつもいつも、大人になっても。朝の時間は処刑台の階段を上る時間だった。けど、今日は。
「久々に泰也君と話したけよね。最近、あまり私に話してくれなくて、本当に嫌われちゃったのかと思っていたんだ」
「え、あ……。ごめん」
 恐らく二回目の僕もイジメが過激になってきた頃合いで、彼女を含め家族を遠ざけていたのだろう。
 全てが怖かった。家族に気付かれるのも、巻き込まれるのも、そのせいでイジメが今以上に酷くなるのも。怖かった。
 そうだ。僕にはこの状況を打破できることは何一つない。ただ向日葵が傍にいてくれる人生なだけで何も変わりはしないかもしれない。だって、大人になった今でさえ思いつかないぐらいなのだから。
 てるてる坊主はてるてる坊主でしかない。それで雨は、防げない。
 そう。こんな風にね。
「あれー? 今日は元気にお喋り出来るゴミ箱ぢゃんっ」
 楽しい時間は過ぎ去るのが早かった。既に教室には過半数以上の生徒が登校しており、奴らが教室に現れる時間にまでなっていたようだ。
「あー、調子いい感じ? いつものゴミ箱の方が良くね? 元気に笑われると腹立たん?」
「それはちょっと分かる」
 猿の合唱かと疑うほどの煩さと一緒に、頭のてっぺんから、冷たいピンク色の液体が落ちて来る。
 今の僕に傘はない。
「ゴミ箱喋るとか、うちの学校最新過ぎでしょ?」
「飲みかけのジュースも片付けてくれるって説明書に書いてあったよぉ?」
「うっそ、すげぇじゃん。見たいわ」
 僕は顔を上げる事が出来なくて、体を震わせるしかなかった。この後、僕を囲む五人の中で一番ガタイがいい大島友弥が僕の椅子を蹴り上げて、隣に立っている背が小さい渋谷竜二が棚橋愛璃にいいところを見せようと、僕の頭にのしかかり床に垂れたジュースを舐めて綺麗にするまで退かないと騒ぎ立てる。
 覚えている。ここから、彼らは僕をロボット掃除機と呼んで、汚物などを舐めさせられる行為が流行ったんだ。
 逃げなきゃ。
 次に何をれるか、僕は知っている。もう二度と床なんて舐めたくもないし髪の毛を掴まれ引きずられたくない。しかも、今ここに僕は家族がるんだ。いや、家族に繋がってしまう人間が。
 でも、体は動かない。動いてくれない。
 ただただ、足が震えるだけだ。
「取説にどうしたら零れたジュース掃除するって書いてあんの?」
「えー? 床舐めさせときゃ良くない? めっちゃキモいけど。床歩けなくなるよね」
「愛璃天才じゃん」
「はぁ? お前に言われても嬉しくねぇよ。てか、苺ミルク飲んでるお前もキモいんだけどっ」
「こわっ」
「めっちゃ機嫌悪っ」
「はぁ? 悪くないしっ」
「愛璃、お前機嫌悪いの?」
「友弥まで、うっざっ」
「今からおもしろいもん見せてやるから機嫌良くなるって」
「はぁ? なになに?」
「最新のゴミ箱の機能見たくない?」
「えー。それ愛璃が考えたやつだし。パクられたの感じ悪っ」
「見たら笑うって。ほら、今からやってやるから」
 大島の影が近づくことしか、今の僕にはわからない。
 今から蹴られるんだ。身を強張らせ、一層僕は下を向いた。
 怖い。
 止めてと呟く事すらままならない。
 誰か止めてくれ。先生を呼んでくれ。二十七歳になっても、情けなく他人を頼りたくなる。けど、僕は誰も助けてくれないのを知っているのだ。
 だから震えて耐えるしかない。
 耐えるしか。
 そう、思った時だ。
「やめてよっ! 泰也君はゴミ箱なんかじゃないっ!」
 向日葵が、僕と大島の間に飛び出して来た。
 僕は初めて顔をあげる。
 向日葵色の髪をなびかせて、彼女は僕を隠す様に彼らに立ちふさがったのだ。
 僕はただただ茫然としていた。直ぐにこの状況が理解できなかった。だって誰かに助けてもらったことなんて一つもない。
 なのに向日葵は、こんな僕を……。
「……は?」
 直ぐに僕の椅子を蹴ろうとしていた大島の、機嫌の悪そうな声が聞こえる。
 その声で僕の呆けていた頭が煩く警音を鳴らし始めた。
 こんなことをすれば、彼女が危ないっ! あれだけ僕に対してヤバいことをやってきた奴らだ。いくら女の子だって容赦なんてしないだろう。
 直ぐにでも彼女を止めなきゃ。
 止めてあげなきゃ。でも、やっぱり僕の体は動いてくれない。
「謝ってっ! 泰也君に謝ってよっ!」
「うっざ」
「きっも。ゴミ箱にゴミ入れて何で怒られるんだよ」
「馬鹿じゃないのっ? 泰也君がゴミ箱じゃないからに決まっているでしょっ!?」
「めんど。退かないと殴るけど、いいよな?」
「いいよ」
「お前じゃないのに返事すんなよ」
「どうせ大島は殴るんだらよくない?」
「どっちでもいいし。友弥、愛璃早く動くゴミ箱見たいんだけど」
「はーい。多数決で殴りまーす」
 駄目だ、止めなきゃ。
「私を殴るのはどうでもいい。それよりも早く泰也君に謝ってよっ。ゴミ箱って呼んで、ジュースかけて。それが楽しいことなの? おもしろいことなの? それなら、自分自身でやりなさいよ。理性で生きてる人間として、あんた達恥ずかしくないの?」
 彼女は一歩も引かずに彼らに対峙している。
 でも、駄目だ。そんな正論を理解できる脳なんて持ち合わせてないんだ。あったら、家の金を持ってこいと脅すわけないだろ? 本当に僕の家に入って母親の財布から金を抜くなんて犯罪するわけなんいだろ? 大体、人を殴ること自体が犯罪なのだ。中学二年生にもなって暴行罪を知らないわけがない。
 そんな彼らを言葉で止められるわけがない。
 無謀なことをして欲しくない。
 向日葵は、いい子だから。
 不意に僕の腕が動く。
 止めようと、彼女の肩に手を伸ばそうと……。
「何言ってんの? 殴んのはお前じゃなくてゴミ箱だけど」
「え」
 僕の伸ばした腕が大島に捕まえられる。
「やっ、泰也君っ!?」
 大島は僕大きく拳を振り上げて……。
 駄目だ。このままでは顔を殴れる。
 顔を殴られるのは頗る痛いのだ。当たり前かもしれないが、僕はこの中学二年までの人生で早々顔を殴られる機会はなく人生を過ごしていたため、初めて顔面を殴られた時の衝撃と恐怖は今でも忘れられない恐怖の一つだ。
 折角動けた腕が、また恐怖で力をなくしてしまった。
 ああ、そんな。
 なんで彼女なんて助けようとしたんだろう。
 一番思ってはいけない感情が胸に沸いた瞬間、僕は目を見開いた。
 僕に振り下ろされる拳に向かって、向日葵の顔が動いたんだ。
「向日葵っ!?」
 僕が叫ぶのと同時に、向日葵が殴られた拍子で僕にぶつかる。
「ひ、向日葵っ」
 急いで彼女を支えるが、彼女の小さな鼻からは赤に染まっていた。
「大丈夫っ!? 向日葵っ!」
「お、おーん……」
 僕の呼びかけに答えるように、恥ずかしそうに鼻を隠しながら向日葵が小さくピースサインを作った。
 大丈夫なわけがないのに。
 血が沢山出てる。意識はあるのか? 意味のない単語しか発してない。こういう場合は動かしては駄目じゃないか? どうれば……。
 グルグルと脳内に答えを探してると、イジメっ子達の笑い声が聞こえる。
「うっわ、鼻折れたんじゃね?」
「整形成功ラッキーじゃんっ」
「整形台三百万払って欲しいわ。テレビでそれぐらいだった」
「払って貰ってよ。愛璃欲しいものあるんだよね」
 これが殴った人間の言葉か?
 耳を疑いたいくなる言葉ばかりじゃないか。
「てか、キモ過ぎん? 何? お前、そのゴミ好きなのかよ」
「あー、一緒に暮らしてるんだっけ? うわぁヤッテんな」
 覚悟はしていたが、向日葵との関係をひやかされると恥ずかしくて頬が赤くなるのを感じる。今はそんな場合でもないのに。
「えー、ゴキブリと付き合った方がマシだろ」
「向日葵ちゃんはゴミが好きってこと? うわー、キモいー。キモ過ぎるぅー。殴られても庇ってくれない彼氏最悪過ぎだろ」
「殴ったのお前じゃん」
「交通事故だろ、これ。向うが飛び出してきて何で俺が悪いんだよ」
 最悪だ。
 最悪過ぎる。
 俺は一瞬過った考えを思い出して、肩を寄せた。そうだ。こいつらが言っていることも……。
「大切な家族が馬鹿にされて、傷ついてるのに守らないわけないでしょっ!」
 正しいと認めようとした瞬間、向日葵が鼻を抑えていた手を振り払い、血まみれで彼らに叫んだ。
「好きで何が悪いっ! 家族を思って何が悪いっ! 泰也君を守った私と、何もしてない泰也君を殴ろうとしたあんたのどちらがカッコ悪いっ!? どっちが気持ちわるいっ!?」
 血は滴るし、飛び散るし、痛そうだし。
「家族を守った私の何が悪いっ! 答えなさいよっ!」
 それでも、彼女は僕の前に立つ。
 助けてと言ってもないのに。
「助けることに理由をつけるなら、あんた達の暴力にも理由があるのか語ってから言いなさいよっ! 何の理由もない最低の暴力なくせにっ!」
 彼女は僕を助けてくれた。こんな最低な僕を。
「うわ、キモ……。生きてるだけでキモいからゴミ箱として愛璃たちが使ってあげようとしたのに、うっざ。うわ、てか先生来てんじゃんか。友弥、行こ。この教室そこのブス女の生理臭くて愛璃無理」
「俺も行くよっ」
「お前はくんなよ。うっざ」
 どよめく教室をイジメっ子達が退場していく。
 彼らと入れ替わるように先生達が入って来て、また辺りは騒めいたままだった。見ていた生徒たちが先生たちに事情を説明しているが、傍観者たちの意見も感想も今の向日葵には聞かせてあげたくなかった。
 僕がそうだったように。
 僕は向日葵の出血が止まらないことを理由に、彼女に付き添い保健室へ向かう。既にどのクラスも朝のホームルームが始まっている時間で廊下に人影はない。ふと渡り廊下から運動場を見ると、イジメっ子たちがゾロゾロと列をなして校門をよじ登り外へ出ようとしていた。
 帰ってもいいのなら登校しなければいいのに。
「泰也君? どうしたの?」
 突然立ち止った僕を不審に思って向日葵が声をかけてくる。あそこに彼らがいると、彼女に告げる勇気はにはない。これ以上彼女の前で彼らと同じカテゴリーに入ることをしたくなかったのだ。
「うんん。なんでもない。それより大丈夫? まだ血は止まらない?」
「うーん。手を離すと垂れる感覚があるから、まだ出てるかも」
 恥ずかしそうに、それでいて困ったように向日葵が答えた。
 僕も彼等に殴られて鼻血を垂らした時は恥ずかしかった。でも、それは僕がなんの無抵抗で怯え泣いていた恥ずかしさからだったかもしれない。きっと彼女には無縁の恥ずかしさだ。あれほど堂々と前を向いて、拳を向けた訳でもないのに『戦った』彼女には。
 では、何が故恥ずかしいのだろうか。
 あぁ。
「ご、ごめん。じろじろ見過ぎたね」
 女の子なのだ。いつの時か女の子が鼻血を出して恥ずかしい思いをしたと書籍で読んだ。おそらく、彼女もその恥ずかしさを感じているのだろう。
 それに気づかなかった鈍い自分に、逆に恥ずかしさを覚えて頬が染まる。
「え? そんな、気にしないよっ」
「え? でも恥ずかしったでしょ?」
「あー。恥ずかしいっていうか、みっともないなって思って」
「みっともない?」
 あれだけ、勇敢な姿とのどこが?
「結局、私口だけで謝らせなかったし、殴られるだけで終わって、泰也君に迷惑がけちゃってて……。なんか、みっともなくて情けなくて、でもごめんねって私が言ったらもっと泰也君が困っちゃう気がして」
 それは全て僕のことだった。
 全てが全て、僕のことだった。
「あの、さっ!」
 どうしても、聞きたかった。
「どうして向日葵は、僕を助けたの?」
 僕を助けたっていい事なんて一つもない。逆に悪い事だらけだ。
 なのに、こんな僕に彼女は身まで呈して。
「家族を助けるのに理由なんている? 当たり前のこと、しただけだよ」
「当たり前じゃないよっ! だって、僕は人生で一度も助けられたことなんてないっ!」
 そうだ。皆、見ているだけだ。
 彼女のように間に入ってくれた、文字通り助けてくれた人もこともなかった。
「その理由か家族だってのも、わかんないよ」
 家族ってなんだよ。
 だったら、あの家の、僕の家族はなんなんだよっ。
「家族だから仲良く? 思い合う? でも、家はずっとギスギスしてるじゃないか。向日葵だって気付いてるだろ? 誰かが助けてくれるわけがない。家族だって自分以外は他の人に違いないだろ? どうとでも変わる関係を理由に助けるなんて、有り得ない……」
 すくなくとも、今の現実はそうだ。
 余裕のない家庭に優しさも、穏やかさも、安らぎも、まして思うい合う絆すらないのだから。皆自分のことで一杯一杯じゃないか。出来るとこと言えばせめて他の人に迷惑をかけないようにすることだけ。
 それだけで、僕だって精一杯だ。
「でも、泰也君は違ったじゃない」
「僕?」
 向日葵の顔を見ると、真っ直ぐな瞳で僕を見ている。
「私の言い方も良くなかったかも。家族だって理由は勿論あるけど……。それは昔、泰也君が私を助けてくれた時に言ってた言葉だから真似しちゃってたんだ。凄く嬉しくて」
 僕が?
「覚えてる? 私が泰也君の家に来たばかりの時、ずっと私泣いてたの。ママが恋しくて、知らない場所が怖くて。そんな私を安心させようと、おばさんに怒られながらもずっと一緒にいてくれたの。私が怒られるときはずっと私を隠す様に抱きかかえてて、私が迷子になった時は泰也君が絶対に迎えに来てくれた」
 向日葵が、笑う。
 大輪が咲くように。
「いつもきまって、泣いてる私に家族だからって、言ってくれてた。私は、図々しくも泰也君の家に来たばかりの頃は本当の家族じゃないってずっと思ってて、私だけ違うんだって思ってて、それでも私が一人で泣くたびに泰也君か私に何度も家族だよって教えてくれて……、だから私とても嬉しかったの。私、そんな泰也君みたいになりたかった。家族だから助けるのは当たり前かもしれないけど、それ以上に泰也君が私のヒーローだったように、私だって泰也君のヒーローになりたかったの。いつも助けてもらってばっかりだったんだもん。今ぐらい、私がいる時ぐらい、私だって泰也君を助けたい」
 僕が?
「でも僕は立ち向かう君を……」
 今の僕は君を何一つ守っても助けても、いないなのに?
「泰也君はいつも私たちを守ってくれているでしょ? 家族みんなを泰也君が守ってること、私は知ってるよ。私たちを心配させないように頑張ってくれているのを」
 胸が熱くなる。
 自分ではない自分を、僕がこの時代に来る前の僕に対して向日葵が言っているのに。
 それでも、それでもその言葉を僕は手放せない。
 自分が初めて認められた気がして、自分の行動に救われた人がいて、無駄ではなかったとわかって。
 嬉しくて、嬉しくて。
「……ありがとう。助けてくれて」
 目頭が熱くなった。
 人生で初めて、自分を見てくれた気がして、嬉しかった。
「ふふ。どういたしましてっ!」
 初めて、自分の中で自分を認められる気がしたんだ。