「え?」
 自分の口から間抜けな声が漏れた。
 あれだけ思い詰めていたのに、これから起こる全てのことに絶望していたのに。そんなもを吹き飛ばすぐらい、僕は見知らぬ美少女に驚いたのだ。
 だが、無理もない。ここは家族しか乗らない父の自家用車の中。行先は祖母の四十九日からの帰り、家に向かっている状態だ。完全な家族のプライベート空間。そこに美少女だろうが、なんだろうが。見知らぬ他人が乗っていたら誰でも驚くに決まっている。
 それに加え、僕は今過去に来たとようやく事実を受け入れようとしていると言うのに、過去の記憶でも隣の美少女は見覚えがない。
 海外のお嬢さんなのだろうか、瞳は僕達日本人よりも色素が薄いし、二つにまとめている金色の髪は長く綺麗だ。こんな容姿なら人生で一度関わっていれば忘れようがないはず。でも、僕は彼女を知らない。
 覚えていないのではない。知らないのだ。
「どうしたの? 泰也君」
 やや低めの綺麗な声も聞き覚えがない。
「泰也君?」
 首を傾げた彼女から後ずさりをしたいのに、シートベルトが邪魔で思ったように動けない。手を掴まれた恐怖から悲鳴を上げようとしたその時だ。
「向日葵ちゃん、手なんて握るとキモ菌が感染するって!」
 妹がさも当然のように、金髪美少女の彼女の名前を呼んでいた。
 向日葵?
 どう見ても外国人なのに、向日葵? 日本名など似つかわしくないはずなのに、その眩しさを放つ髪色から太陽の花が想像出来る。
 会ったこともないばすのに、なんてしっくりとくる名前なのだろうか。
 妹が受け入れている姿を見ていると、警戒し恐れていた自分が滑稽に見えた。
 誰か知らないけども、姿はただの女の子だし名前だって普通じゃないか。何だが怯えていた自分がばからしく思えてくるものだ。
 三十近いおじさんが、中学生ぐらいの女の子に怯えるなんて変だよな。昔のトラウマで、子供に怯えてしまう時もあるど……。
 彼女の優しい笑顔を見ていると、そんな気持ちすら沸いてこない。
 見とれていたわけでもないのだが、見れば見る程綺麗な子だ。自分の周りにいないタイプの容姿にただ物珍しさを感じているだけだなのだろうか。
「もう梨絵ちゃん、泰也君はキモくないってばっ! 優しくて、カッコいいでしょ?」
 そう言って、彼女は僕の手を握る。
 え? 手を?
 先ほどは触れたられただけの掌が。
 ぎゅっと優しく、暖かく、それでいて可愛らしい力が僕の手に伝わっていく。
「うっわ、キッモ。そんなこと言うの、向日葵ちゃんだけだし」
 女の子の手が自分の手を握っている。
 家族以外の異性。それも、自分が知らない女の子の手が。
 その事実に妹の声も、彼女の声も何も入ってこない。
 当時の流行りの曲だって。
 僕は未来で死んで、過去に来て、ここか如何に最悪で、ここが如何に世界の終わりで、ここには何もないと絶望していたのに。
「っ」
 声にならない悲鳴が僕の口から飛び出した。その衝撃で僕手が彼女の手の下から大きくはじけ飛ぶ。
「えっ?」
 驚いた彼女の声に、思わず何か言い訳を言わなければならない気がした。
 こんなの、二十七年間生きて来て初めてなんだ。
 全てが初めてなんだ。
 だからこそ、分からない。
 僕は自分でわかるぐらい真っ赤になった顔を逃げた手で隠しながら、必死に正解を探した。僕のその態度で彼女を傷つけたかもしれない。失礼な態度で不機嫌にさせたかもしれない。女の子のことなんて何も知らないんだから。
 でも、彼女はこんな僕に嫌な顔一つ向けなかった。
「どうしたの? 大丈夫?」
 心配そうに首を傾げ僕の顔を覗き込んでくれる。
 聞いたことがないぐらいの優しい声に、僕の口は完全に閉じてしまう。
 こうされては、僕は何も言えないし出来ない。先ほど以上に何をどうしていいのか見当もつかなくなってしまった。
「泰也君、ちょっと顔赤いよ? 熱でもあるの?」
 彼女の指先が僕の額に触れる。
 白く細い、美しい指先が僕の前髪を上げ、額に触れる。その動きにつられ、彼女自身が僕の方に大きく身を乗り出した。
 指よりも近い顔。
 前髪をあげられたことによって、防御力の下がった視界。
 僕にとって全てが衝撃で。全てが暴力的で。
「うわぁぁぁっ!」
 思わず、閉じたばかりの口から悲鳴が上がってしまった。
「うっさっ! 何っ? うざっ!」
「ちょっとお兄ちゃんっ! びっくりするでしょうっ! お父さん運転中なんだから静かにしなさいよっ!」
 妹と母親から非難を浴び、思わず僕は手で口を抑えて縮こまった。
「向日葵ちゃん大丈夫?」
「あ、うん。私は大丈夫だけど、泰也君がちょっと……。熱があるのかも」
「え? ただの車酔いじゃなかったの? もう中学生なんだから体調管理ぐらいちゃんとしなさいよ」
「ちょっとっ! 私に感染さないでよねっ」
「えっと、おばさん、梨絵ちゃん。私の見間違いだけかもしれないから。ごめんね、泰也君。私、何かしちゃった?」
 僕は何も言えずに俯いたまま首を横に振るうだけだった。
「お兄ちゃんまた吐きそうじゃんっ!」
「ほら、袋持ちなさいっ」
「マジで向こう行けっ! こっち近寄んなっ!」
 妹が土足で僕の膝を向こうに行かせようと蹴ってくる。
「梨絵っ! お兄ちゃんになにやっているのっ? やめなさいっ! お兄ちゃんなのよ?」
「お兄ちゃんだからって何? 隣でゲロされるの嫌なの普通でしょ?」
「いい加減しなさいっ! アンタは……」
 また始まった、母と妹の小競り合い。僕が家を出ていく少し前ぐらいの頃は随分と二人の関係も改善れていたが、この頃の母と妹はいつも言い争いが絶えなかった。今回のように僕をだしに使われることも少なくなかったが、大半は妹の度が越えた言動を母が指摘し妹が更に反抗に走るという悪循環。
 これが思春期であり、反抗期かもしれないがとばっちりを食らう立場の僕としては勘弁願いたいものばかりだった。
 何をしても気に入らない僕の行動にいちいちつっかかる妹に、それを兄だからと訳の分からない理由で抑えつけれらると思っている母。年上は敬えと言われても、兄の立場である僕すらピンとはこなかった。それを押し付けられる妹なんて、それ以上だろう。だが、妹の僕への文句もそれ以上よくわからないものが多かった。
 例えば、僕の歯ブラシがピンク色なのがキモい、とか。
 少し前まではこんな妹ではなかった。よく僕は妹に遊ぶのをせがまれていたし、歳の少し離れた
 兄妹としては仲が良い方だと自分では思っていた。
 だが、僕が認識していた仲の良いは、妹の認知の世界でこの家で一番下の生物かはたまた生物以下の何かに位置づけてしまったようだ。喧嘩という喧嘩もなく、僕は妹に多く道を譲ってきた結果がそれなのは少し寂しい。
 この妹との関係も、大人になった今でも戻らなかったことの一つだ。
 それにしても、家族じゃない誰かにこんな醜態を晒しているだなんて、二人共はずかしくないのだろうか。
 隣に居る彼女を見ていると、オロオロと母と妹を交互に見ていつ止めに入ればいいのかわからない顔をしていた。
 止めに入ったところで二人の言い合いは終わらない。
 何度も止めに入る度にうんざりした僕が言うのだ。間違いない。
 その時だ、車が急ブレーキで止まったのは。
 僕は驚き、シートベルトを握りしめる。
 あ、そうだ。二人を止める方法が一つだけあったんだ。
 僕は急ブレーキの原因をそっと前髪のカーテンの隙間から除き見た。
「お父さんっ! 危ないじゃないのっ」
「運転中に大きな声を出すなっ」
 不機嫌そうな声にトントントンと人差し指でハンドルを叩く音が、何とも居心地の悪いものか。
「今の話を聞いていたの? 梨絵がっ」
「車から降りてから叱りなさい」
「お兄ちゃんを蹴ったのよ? この場で叱らなきゃあの子またやるわっ」
 叱っても叱らなくても、蹴って蹴散らすぐらいなら何度もやられた。
「はぁ? お兄ちゃんが吐くのが駄目なんじゃんっ!」
「何でお兄ちゃんのせいにするのっ?」
「二人ともいい加減にしろっ! お前は子供同士の喧嘩に一々口を挟むんじゃないっ」
「普段から子供のことを何も見てない癖に、何よっ」
 この頃、父が口を開くと必ずと言っていいほどに母との口喧嘩が始まった。
 妹の方を見れば、父に怒られたくないのか口を閉ざして窓の方を見ている。僕に謝る素振りも何もないが、口うるさく騒ぐことは家に帰るまで決してしないだろう。
 母と父の罵り合いのような口喧嘩を聞いていると、スーッと現実に引き戻されて行く。
 隣の彼女に驚いたことや、初めて家族以外の異性が接してくれたこととか、そんなことどうでも良くなってくる。
 僕は過去に来たのだ。本当に来たんだ。
 妹に蹴られたり、疎まれたりするよりも何よりも嫌だった両親の喧嘩を見ているとより実感が湧いてきた。
 そう言えば、隣の彼女が座っていた場所はいつも祖母が座っていた場所だった。
 両親も妹も祖母がいた時はこんなことはなかったのに。
 車の中ですらただ、救いのない世界が広がって行った。



 あの空気の中、一時間ほどかけてようやく我が家に着いた。記憶の中の実家よりも外壁に色がのっている。重苦しい空気を払うように外の空気を吸い込むが、皆一様に口は閉ざしたままに家に入っていく。
 僕は玄関の前で足を止めた。
 口を閉ざしたまま家に入るのが両親と妹だけじゃないからだ。
 あの隣に坐っていた美しい彼女も、妹に続くように玄関の敷居を跨いだのだ。
 ここに来て、僕はようやくことの重大さに恐怖を覚えた。
 優しく可憐で美しい彼女。異国の髪と瞳の少女。そんな少女にどう恐怖を抱くのかと笑ってしまう気持ちも分かる。非力な少女が僕に襲い掛かって来ても、きっとどうにでもなると大人ではない僕だって思う。
 だが、違うのだ。
 ここは間違いなく、僕の過去だ。
 最悪だろうとなんだろうと、僕が一度通った過去に間違いがない。
 何故僕が死んだ後に過去に来たのかはわからない。しかも何故、この時なのか。受け入れられないし、認めたくない。だが、僕は今ここがいつでどこだかわかってしまう事実からは逃げられるわけがない。僕はあの電車の事故で魂が肉体を捨てて過去に来てしまった事実から。
 だが、それは余りにも現実離れしている。
 死んだ人間が過去に行くだなんて聞いたことがない。
 なによりも、魂云々なんて科学的に何一つ根拠のないことを僕は信じていないのだ。
 それよりも納得できるのはここが夢の中であること。
 そう、ここは僕の夢の中なのかもしれない。僕は今、運よく生き残って病院や救急車のベッドの上で生死を彷徨っていて、その間に脳が過去の記憶を頼りに作り出した空間なのかもしれない。そちらの方が、過去に戻って来たよりもまだ納得できる。
 でも、僕の夢なら絶対にこの時を選んだりしない。絶対にだ。
 それでも、もし、僕がこの時を選んだというのならば彼女は一体なんなのだろうか。
 一体、誰なんだ。
 何のために、ここにいるんだ。
 得体が知れない。それに恐怖を覚えず、何に恐怖を覚えればいいんだ。
「泰也君、どうしたの?」
 中々玄関に向かわない僕に笑いかける、僕の妹に向日葵と呼ばれた彼女が。
 何故、僕の名前を知っているのだろうか。誰も呼ばない、誰も知らないんじゃないかと時折思う僕の名前を。何故、彼女は呼ぶのだろうか。
 何でもないよ。
 どうもしてない。
 母親みたいに苛ついた態度で言葉なんてとても返せれない。
 どうしていいのか、本当にわからなかった。
 先ほど感じた戸惑いとはまったく別の、迷いだった。
 彼女と話していいのか、それとも悪いのか。
 僕が出来たことといえば、音もなく首を横に振り、足早く彼女の横を通り過ぎるだけ。これだけがやっとだった。
 たったこれだけで、嫌な汗が肌から滲むのを感じる。
 正解はわからないよりも、不正解がわからない方が何倍も怖かった。こんな態度を取り続けていればいつか僕は彼女に殺されてしまうかもしれない、それは遠い未来じゃないかもしれない。今がその限界値だったかもしれない。考えれば考えるほど、自分の行動が不正解ではないかと思ってしまう。けどどうしても、彼女と話すのが怖かったのだ。
 勿論その恐怖の原因は得体が知らないのもだがらもあるが、それ以上に彼女と言葉を交わしてしまったら彼女を違う何だと思ってしまいそうな自分が一番、怖かった。
 それが一番怖いのだ。
 これは本当に、夢であってくれるのか。
 それとも、何の因果か僕はこの時代にまた閉じ込められているのか。
 その答えをうっかり僕は知ってしまうのが怖いのだ。ブラックボックスの中の処理なんて僕に見せないでくれ、聞かせないでくれ。理解し、考えさせないでくれ。
 出力結果だけで十分だ。
 彼女から逃げ込むように駆けこんだ実家の玄関に思わず僕は息をのむ。それは、どこにでもある変哲もないただの玄関。だけども、思い出よりも随分と粗々しく、それでいて忙しなかった。
 母は綺麗好きだった。少なくとも、僕の記憶の中の母は、だ。
 実家を出ていく前はどこも整理されており、ゴミなどなかった。毎日毎日飽きもせずに掃除に片付けを徹底していた。
 そうだ、忘れていた。この時の我が家はその真逆だったことを。
 買った後、いつも定位置に運ぶはずの段ボールが積み上げられて、掃除道具も廊下に置いたままだった。
 パートに溜まった家事にと忙しそうな母の背中を見て、何度が自分なりに気を使って片付けたがどれも怒られてしまった。母の思う場所に運べなかったから。
 それが悲しい記憶だったから、すっかり忘れていた。
 別にテレビでよく見たゴミ屋敷というわけではない。本来の姿から少しだけ乱雑にものが散らばっている。それだけだ。気にすることではない。
 だけど、どうしてか僕の気持ちがささくれる。チクチクと何かが痛い。
 僕が哀愁を覚えていると、件の彼女が靴を脱いでいる。
 矢張り、この子もこの家に入るのか。
 家族でもないのに。
 しかし、彼女を窘める人間は誰もいない。
 どうもこの異様な光景に、僕は眉をひそめた。
 両親は何故彼女のことを何も言わないのだろうか。僕に何の説明もなく、知らない少女を
 家に招き入れるタイプの人間ではないはずだ。それに、うちは何度も言うがこの時期は特に経済的には明るくない。わざわざ食い扶持を増やす選択をするだろうか。
 もしかして、両親は彼女の存在に気付いていないのではないだろうか。
 車内の会話も偶然噛み合っていただけで、母は彼女の名前すら呼んではいないのではないだろうか。
 ああ、それは僕も同じか。
 だが、役職名は呼ばれて認識されている。
 もしかして彼女は幽霊で、妹にしか見えないとか。
 僕に見えるのは、僕が一度死んだからとか。
 しかし、この時期に妹は確かに変わってしまったが、見えない友達がいた記憶はない。忘れているだけかと思いたいのだが、そもそも妹が変ったのは僕への態度が主であってそれ以外は反抗的な行動だけだった。それに、流石に見えない友達とお話している妹を見れば、いくら無関心な僕でも覚えているはずだ。
 僕はまたも彼女から逃げる様に、実家の廊下をすいすいと進んでいく。
 居間には、父と妹の姿。
 どうせ怒られてはいないだろう。父も妹の豹変ぶりには驚き、この時期には叱るのさえ間接的で母に任せていたっけな。
 僕に対しては、くだらないことでも面と向かって怒るけどね。
 僕は特に僕の人生に関係ない二人がいる居間を通り越し、台所へ向かった。数十年しか経っていないのに家電がどれも古めかしく感じてしまう。
 しかし、今はそんなことはどうでもいい。
 僕は父のお茶の用意をしていた母に話しかけた。
「母さん」
 何年ぶりに、母と呼んだだろうか。
「ん? どうしたの? もう体調は大丈夫なの?」
 母の悪い癖に僕は思わずため息を吐く。こちらの一度の話に、母は何個も話を乗せて返す悪癖がある。
 余り僕はその悪癖が好きではなかった。人の話を軽くみているようで、時に酷く自分の心を苛つかせる。
 それは今も。だけど。
「うん、大丈夫。あのさ、母さん。ちょっと聞いてもいい? 車に乗ってた女の子のことなんだけどさ……」
 今、そんな些細な苛つき一つで貴重な情報源の一つを潰せない。
「女の子?」
 母は急須の中に茶葉を降らす手を止めず、怪訝な声。心当たりがなさそうな様子に、僕はほっと胸を撫で下ろした。
 やはり、僕の幽霊説は的を射た説だったのじゃないだろうか。
 妹しか見えない幽霊が相手ならば怖くないとも可笑しな話かもしれないが、実態がない相手の方が僕には救いがあった。無視、話さない、相手にしないは何も悪いことじゃないんだ。こからも見えないフリをし続けなければ。
「ちょっと、お兄ちゃん。女の子がどうしたの?」
 しまった。自分の中で結論がついてしまって母親のことを完全に忘れていた。
「いや、何でもないよ」
 咄嗟にいい訳なんて考えつくわけでもなく、かといって正直に話す気も更々ない。母はこの時代身を粉にして働いていたのだ。父や妹のように単純な戦力外通知ではなくただ、迷惑をかけたくないと思った気持ちが強い。当時の我が家の悲惨さを考えれば下手に話して心配をかけるのは、たとえ夢の中でも心苦しかったのだ。
「ちょっと、何よ。怖い話?」
 笑いごとのように母が言うが、まさしくその通りだ。僕は一つも笑うことが出来ない。そうだ。だって僕は幽霊の話をしているのだから。
 だけども、そう思っているのは僕だけだったみたいだ。
「そういえば女の子で思い出したけど、今日のお兄ちゃんは向日葵ちゃんに冷たいのね。何かあったの?」
「え?」
 何故、母が彼女の名前を?
「知らないんじゃ、なかったの?」
 車に乗っていた女の子と言われて、ピンとは来てなかったじゃないか。
「向日葵ちゃんを? お兄ちゃん、あなた何を言っているの? 七年近く一緒の家で暮らしているのに知らないわけがないでしょ?」
 七年前から?
 言葉の端々からどうやら、母は彼女のことを『女の子』として認識出来ないぐらい家族として接しているのがわかった。
 つまり、それは。
「車の中も様子がおかしかったし、本当に大丈夫なの? 熱があるなら病院行く?」
 母の心配そうな言葉が、途中から耳に入ってこなかった。それよりも、ぎゅっと心臓を掴まれたような感覚に苛まれた。
 そうだ。母の言葉はつまり……。
 彼女が今いるこの時代で幽霊でもなんでもないということを表しているに他ならない。
 あの彼女は幽霊じゃない。妹だけが認識している空想の友達でもない。大人でも、いや。誰であれ、彼女を認識出来るのだ。
 過去に戻るなんて現実的にどれだけ考えても有り得ない。これは間違いなく夢だ。もしかしたら、走馬灯と呼ばれる生と死の狭間の夢かもしれない。
 だが、その過去に類似した夢に、何故か異物が混じっている。
 その異物は、誰も呼ばない僕の名前を呼ぶし、優しそうに僕に語りかける。そして、僕の家族を侵食していた。
 都合のいい夢だったら、僕はこの地獄に常に求めていた祖母がいたはずだ。
 逆に考えると夢だからこそ、自分でコントロールが出来ない? 誰かに追いかけられる夢のような悪夢から自分のタイミングで逃げられないのと同じ仕込みなのだろうか?
 これも一種の悪夢と言うことか。
 だが、それも何だかそれもしっくりと来ない。悪夢と呼ぶにはこの地獄は余りにも地獄過ぎる。
 それにもこの家の質感、家族の温度、この時代の匂い。彼女以外はどれも本物と何一つ変わらないように感じる。本当にこの時代に戻って来たきたようだ。夢と呼ぶには余りにも五感がリアルで細部の表現が完璧なのだ。
 本当に……、これは夢なのだろうか。夢であってくれるのだろうか?
 まさか本当に、これは現実なのか? 会社に遅れた罰として、また地獄の底を這いずる日々を繰り返せと言われたから僕はこんなことになっているんじゃないのか……?
 喉の奥からヒュッと音がなる。何を馬鹿なことをと自分でも思っているのに思考がこびりつていて動いてくれない。
 そうだ。僕は社会人なのに会社に遅れてしまった。いや、遅れる所か出社も見込めないなんて責任のせの字もないじゃないか。
 僕はただでさえ人より何事も上手くできない。そんな事実さえも指を差されて笑われて、ようやく気付ける。だから人より早く行動しなきゃいけない。人より多く時間を取らなければいけない。始発電車で会社に行き、終電で家に帰る。人並みになるために、僕は休んではいけない。
 上司に言われなければ、僕は何も知らなかった。母みたいに体だけが大人で、それに精神がついてこなかっただろう。
 だから感謝していたはずなのに。
 どうして。なんでだ。いつからだろう。
 彼に叱られるのが怖いと思ったのは。彼の指摘に怯えるのは。彼の溜息に息が詰まるようになったのは。
 いつからだろう。今日は会社に行きたくないとすら、思えなくなったのは。
「お兄ちゃん?」
 母の声にハッと体が動いた。
 最近おかしいのだ。あれだけ尊敬していた上司に怯えているような感情が沸き上がる。
 考え過ぎだ。
 多少厳しいところがあると言っても流石に、電車に轢かれた、死にそうだと話したら怒ることなんてしないだろう。怪我をして、それも生死を彷徨っているぐらいの大怪我を負っているとなれば誰が何と言おうとも正当な理由になるはずだ。だから、大丈夫だ。
 でも、もしも、もしもそうではなかったら? この休みで仕事がが大幅に遅れた責任はどうとれるか考えてないのか? それを社会人と言えのか?
「本当に大丈夫?」
 いけない、これ以上仕事のことを考えては余計に深みに嵌ってしまう。
 体調の心配と言うよりも行動を訝しい目で母から見られて、僕は慌てて首を振った。
「大丈夫だからっ」
「またそれ?」
 今度は呆れた目を向けられる。
 そいえば中学校のこの頃に、僕は母に『大丈夫だから』しか言わなかった時期があったな。それ以外の言葉が思いつかなかったからだ。
 そして、それ以外の言葉になんの意味もなかったから。
「……大丈夫だから」
 大丈夫と聞いたのは母からなのに。
 でも、これ以外を口に出して余計な心配をかけたくなかった。今もそうだ。何を言っても気局は無駄でしかない。
「本当? 取あえず、熱計っておきなさいよ」
「大丈夫だって」
 僕は母から逃げ出すように台所を飛び出した。
 お決まりの言葉を吐きながら、顔を顰める。
 パートを辞めた母。
 転職に成功した父。
 結婚し子供を授かった妹。
 ずっと怯えたままの僕。
 大人なのに、僕は中学二年生から何も変わっていないんだ。家を出でも、仕事をしても、僕だけが、一人だけ、ずっとずっと、この時代に取り残されたままなんだ。
 僕だけが。
「ちょっと、邪魔んだけど」
 下唇に噛んだ痛みが届く前に、僕の後ろから声がする。
 振り返れば、まだ自分が子供を産み育てることすら知らない妹がいた。
「あ、ごめん」
 思わず反射的に謝れば、余計に妹の目尻が上に吊り上がる。
「謝るなら、早く退いてよっ」
「ああ、ごめんっ」
 僕は条件反射で謝ると、身を壁に寄せた。
「本当、おっそっ。きっもっ!」
 ここまで何でキモいと言われなきゃならないのか。当時には湧きあがらなかった怒りの代わりに不愉快さが込み上げてくる。
 やはり、いないものみたいに扱うべきだ。相手にしてはこちらが疲れてしまう。
 しかし、今はだけは我慢しなければ。
「待って」
 横を通り過ぎようとする妹の手を僕は掴んだ。
「は? やだっ! 離してっ! キモっ!」
 鳴き声は不快に僕の耳に残るが、次からは聞こえないように振る舞える。今は目的を果たすための代金だと思って不快を受け入れよう。
「あのさ、あの金髪の子って誰?」
 少なくとも、この家で一番彼女の情報を持っているのは、この妹だろう。そして一番話してくれるのも、妹だ。
「は? 金髪?」
 何の話だとばかりに妹は首を捻る。しかし、この下りは既に母親で経験済だ。
「お前、話してただろ? 車の中で」
「それって……、まさか向日葵ちゃんのこと?」
 信じられないと言った目で、妹が珍しく口ではなく目で僕を非難している。
 恐らく妹の中でも母と同じ記憶があるのだろう。だとするならば、七年ぐらい一緒に暮らしていた向日葵という名の少女を誰と言っている僕の発言を疑いたくもなるはずだ。
「え? 何かの冗談? マジでキモいんだけど……」
「冗談じゃないけど。彼女って僕達の兄弟なの?」
 まずは、彼女が我が家でどんな立ち位置なのか知りたい。僕は彼女にどう接すれば正解なのか、周りはどうすれば余計な心配をしないのか。
「何言ってんの? 向日葵ちゃんが兄弟とか頭マジでおかしくなった? どう見ても向日葵ちゃんに私たち似てないでしょ?」
 それ以前に彼女はこの世界に存在しないんだと、声を荒げたくなった。しかし、妹に言ってどうなる。もう見えなくなるのにわざわざ相手にしてどうする。夢の世界だというのに現実的に考えて、ただの悪手だ。怒鳴られて泣かれて、母が介入してそれを見て父が気分を害し母に当たり母がより一層可哀想に、そしてみすぼらしく見てるだけだ。そう思うと、僕は出かけた言葉を飲み込み、「違うなら何?」と、妹に続きを促した。
 いつもと様子が違う僕にたじろぎながら、妹は僕に囃し立てられるまま口を開く。
「マジでキモいんですけど……。向日葵ちゃんはアレでしょ? お婆ちゃんの知り合いの子じゃん。向日葵ちゃんのパパとママが海外にいるから家で預かってるって、私に教えてくれたの、お兄ちゃんじゃんっ!」
「七年前から?」
「知らないよっ。私はずっと向日葵ちゃんがいたんだもんっ」
 この時、妹は確か小学三、四年生ぐらいのはずだ。十歳ぐいらだとすると、妹が三歳の時から彼女はこの家に住んでいたこととなる。それは確かにいつから暮らしているかなんて覚えていないのは無理もないだろう。
 つまり、向日葵と名乗る彼女は僕と七年間兄弟同然に育っていたのだ。だから、僕の名前を知っているし、家族という枠組みで僕に優しいのかもしれない。
 けど、その優しさは他の家族のように偽りなのかもしれない。急に妹が変ったようにまた、彼女も僕を苦しめる存在に変わってしまうのかもしれない。
「……わかった。ありがとう」
 僕は妹の手を離すと自室に向かった。妹は何か後ろで文句を言っているように聞こえたが、僕の耳にはもう届かない。
 二階に登るとすぐ右手に見える茶色のドア。その向こうが小さな小さな僕が唯一逃げ込める場所だったのだ。
 自室に逃げ込むと直ぐに自作した鍵をしめる。
 そこで目に入るのは、まだ真新しい鍵。
 家を出る時には傷だらけになって少し錆びてしまっていたのに。
 鍵でさえ、僕を置いて変ってしまったのか。
 僕はその場に蹲り目を閉じる。
 今もまだ、僕の居場所はこの部屋だけなのかもしれない。
 どれだけ年が過ぎても馴染めない都会の一室。誰もが振り返らずに肩で風を切って歩く都会の道。僕の席があるだけで僕がいなくても変わらない会社のデスク。
 僕は今も尚、ここの部屋から出れていないのか。
 情けない。でも、怖い。
 考えれば考えるほど怖かった。
 これから僕はどうすればいいのか。
 ここが夢なのか、走馬灯の中なのか、僕にはわからない。
 でも、ここが夢ならばいつかは覚めていしまう。
 目覚めた後、僕はどうなる?
 現実社会に戻った時、僕の居場所は文字通りにこの部屋だけになっているのではないか。
 会社にいけば、あの上司が待ち構えているでないだろうか。
 また、用無しと罵られ、叱られ、恥をかかされ、こつかれ、汚物を口の中に入れられるのではなかろうか。
 怖い。戻りたくない、嫌だ。
 子供の様に、手足をバタつかせ体でを使って全力で抵抗していると誰かに知って欲しい。
 でも、これが走馬灯なら?
 僕はあの電車に轢かれた後、ただ死ぬことになる。
 走馬灯って、今までの出来事が脳内にコマ送りでフィルム映画の様に再生されると聞くが、エンディングが終わった後はどうなるのだろうか。
 やはり、ただ死ぬだけなのか?
 エンディングはどこまで? 電車に轢かれた瞬間までをもう一度見ることになるのだろうか?
 走馬灯は、今起こっているこの危機をどうすれば回避できるか、脳が過去を遡り類似している体験はないか探しているために起きる現象だとどこかの本で読んだ気がするが、流石に死にたいと泣き叫ぶ経験はあれど電車に轢かれて生き残る経験はない。どれだけ遡って検索をかけたところで答えはないのに。こんな非効率な作業に伴う苦痛を受けるなんて冗談じゃない。
 どこまでこの非効率な走馬灯に付き合わなければならないのか。これは僕にとっては一番の問題だ。
 死ぬなら、今すぐでもいい。
 僕はこの後に続く地獄をまた体験したくない。
 もう二度と、玩具になりたくない。
 心が痛い、体が痛い、どんな痛みも嫌だ。
 あの時何度も今死なせてくれと神に祈ったのに。叶えないどころか二回目を与えるだなんて……。本当に神というものがあるならば、なんて残忍で無能なのか。あの時、殺してくれなかったくせに。
 僕はカレンダーを見る。
 僕の記憶が確かならば、今日は日曜日。
 明日、僕には学校がある。
 ほら、無能じゃないか。せめてここは土曜日、または金曜日の夜にすべきなのに。
 それに……。
「泰也君」
 ドアを通して、聞きなれない声がする。
「気分悪いの大丈夫? 薬とお水持ってきたよ」
 僕は身体を縮めたまま息を殺し、ドアの方を振り向いた。鍵は閉めてある。ある程度の力ならば耐えられる。まして女の子の力ぐらい……。
 でも、彼女は正規の人間ではない。
 ここが夢でも、走馬灯の中でも、何でも。彼女は本来存在しない人間なのだ。
 もしかしたら、彼女は人ではないかもしれない。恐ろしい存在なのはかもしれないし、はたまたリアリティのない話で恐縮だが最初考えていた幽霊なのかもしれない。
 でも、本当の恐怖はそこではない。
「泰也君、寝ちゃったの?」
 どこか少し寂しそうな声。
 ドアに触れる事すらせずに、少し間が開けば小さな声で。
「おやすみなさい、泰也君」
 そう呟いて階段を降りる音が聞こえて来た。
 本当に下に降りていってくれたのか? 扉をあけたらこちらを覗いていたりはしないだろうな? いくら怖くないと言っても、ホラー体験は嫌だ。
 僕は半信半疑で鍵を外して、外を覗く。
 よかった。ホラー映画みたいに人の影はない。
 だけど。
「あっ……」
 僕の部屋の扉の前には昔母が買い込んでいた子供用の風邪薬と、水が入ったコップがおぼんに乗って置いてあった。
 これが、怖い。
 僕とって、一番怖い。
 優しくされたくない。名前を呼ばれたくない。見て欲しくない。
 どれも僕がしてほしくて、誰もしてくれなかったことをしてくるのがただただ怖い。
 彼女が誰かなんて、どうでもいい。ただあの、理由のない優しさがただただ怖い。
 ただただ、怖いのだ。
 得体の知れないあの優しさを、僕は疑わずにはいられないのだ。