僕はぼんやりと、中学二年生の時には名前も用途も碌に知らなかったバックミラーの両端に微かに映る若かりし頃の両親を見ていた。
 ラジオから流れる曲は、今時では中々耳に入ってこない懐かしのヒット曲。
 少ししゃがれていたはずの妹の声は、生意気盛りと幼さが入り混じった高音でいつものように僕を毛嫌いしている。
 どこかで見た光景。
 嘘だ。
 いつ、どこで見たか覚えている光景だろ?
 意地悪な自分の悪戯な言葉に、僕はぐっと喉を閉じる。
 そうだ。僕は覚えている。今ここが、いつで、どこなのか。わかっているし、覚えている。忘れられるわけがない。
 だが、到底信じられるわけがなかった。この状態を。起こっている全てのことを。
 本当は耳を塞いで叫びだしたかった。この有り得ない状況を喚きながら否定したかった。よく映画や漫画で見る不安に駆られた人間が取る動作。今僕はそれぐらい、いや。それ以上に混乱を極めているし、何も受け入れたくなかったからだ。
 けど、現実は違った。手も口も、それ以上に動こうとしてくれない。
 どうして? どうして、体は動いてくれないのか。叫び出しても可笑しくないだろ? 僕は今スーツを着ているはずなんだ。学生服なんて今、持ってすらいない。
 僕は今二十七歳で、就職を機に一人、東京で暮らしている。東京から遠い実家には五、六年帰ってもいないし、父親の車は七年前に買い替えていて、今家族で乗っているこの白い車は既に廃盤されている。妹は商業高校を出た後に就職し、比較的すぐに結婚出産をしたと母から聞いた覚えがある。この車には子供の泣き声一つしなければ、その妹自体が子供じゃないか。
 ガクリと音を立てたかのように、僕の頭が下にさがった。頭だけは嫌になるほど動いているのに、体を支える力が何故だか抜てしまったのだ。
 もしかしたら不安に押し潰れそうと暴れられるのは、一種の才能なのかもしれない。才能がなかった僕は、ただ音もなく静かに不安に押しつぶされるだけなのか。
 今見た、聞いた現実を僕は受け止めきれない。
 信じられない。
 いや、これは信じたくない。
 こんなことが起きるはずがないんだ。
 だって僕は先ほどまで社会人だったじゃないか。仕事を任され、大人として責任ある社会人を全うしていたじゃないか。
 そうだっ! 僕は今日も仕事をしなきゃいけなくてっ! 社会人だった僕は会社に向かったはずだっ! そして駅に着いて、原因不明の眩暈から駅のホームに転落して、そこに電車が着て、そして……。
 力の入らなかったはずの手が、急に僕の心臓を抑える。
 そして?
 そして、何だ?
 今度は急に頭が動かなくなった。
 何も考えられないように力が抜けていくし、思考が停止し意識が薄れていく。
 なら、良かったのに。
 それなら、どれだけ良かったか。
 手で心臓を支えながら、肩で息を繰り返す。
 僕の頭はこれ以上考えたくないのに動いていて、僕の頭はこれ以上気付いてはいけないことに気付こうとしている。
 僕は、死んだのか?
 あの光を僕に向けた電車に、轢かれてしまったのか?
 誰にも気づかれず、助けてももらえず?
 死んでしまったのか?
 胃の中から、何かが込み上げてくる。それは、電車に当たって散らばった僕の体液がまた外に出たいと喚いているように。
 死んでるはずなのに、生きている様に。
「ちょっと、本当にキモいっ! キモっ! キモいっ! お母さんっ! お兄ちゃんが吐きそうなんだけどっ」
「え? お兄ちゃん、大丈夫? 袋いる?」
「あっち向いて吐いてよっ! キモ過ぎるんだけどっ」
「酔っちゃったの? 早く言いなさいよ」
「きっもー!」
「アンタはうるさいわね。ほら、袋。これ使いなさい」
「最悪なんだけどっ!」
 妹はいつも僕を馬鹿にするし、毛嫌いしていたがここまでだったのか記憶にない。いつしか僕も僕を見て喚いたり、悪態を付く妹を居ない存在として扱っていたせいだろうか。
 母は何度もそんな妹を窘めるが、父はこれだけ車内で煩く妹か騒いでも何も言わない。ただ窘めても止められなかった母に、家で文句を言うだけだった。
 母は母で、父に文句を言われて𠮟るのは僕にだけだった。妹が煩くなる原因は僕なのだから、自分で気を付けてくれ。お兄ちゃんなんだからと、何度も言われた。
 昔を思い出すのと同時に、吐き気がスーッと引いて行くのを感じた。
 口を開いて、自分が死んだんだと、大人になった僕がここにいるのは可笑しんだと両親に助けを求めようと思った頭が急激に冷えていく。
 この家族に言って、何になるんだろうか。
ただ、僕が怒られ損で終わるだけじゃないか。
 子供の頃ずっと考えていたことが、制服の内側から蘇ってくる。
「本当、今日最悪っ。服もダサいしっ。私もひまりちゃんみたいな可愛いリボンがついた服がよかった!」
 珍しく僕には関係ないことを怒り出した妹の服装を見ると、確かに僕の子供時代でも多少古臭いと感じる素朴なデザインだった。
 あっ。
 僕は吐き気の引いた口を、小さく開ける。
「今日しか着ない服なんだから、文句言わないの」
「ひまりちゃんは今日のために買ってもらったって言ってたよっ」
 ひまりと言う名前に聞き覚えがある。確か、妹より一、二歳年上の従姉妹だったはずだ。
「ひまりちゃんの家とうちは違うでしょっ!」
 母が先ほど妹を叱った声りも大きく、声を荒げた。
 余りの気迫に、妹がぐっと下唇を噛んで自分の主張を無理やり止める。
 そんなに怒ることではないと思っていた妹の目には、薄っすら涙の膜が張っていた。
 妹の気持ちも、勿論わかる。内容的には、なにも不思議はない会話だ。よそはよそ、うちはうち。大多数の子供が親の口から聞く常套句。友達が持っていたから、自分も欲しい。誰かがやっていたから自分もやりたい。子供なら誰でも言いたくなる言葉だ。でも、そんなことを一々叶えていればキリがない。だからこそ、親は窘める。子供に忍耐を覚えさせるために。でも、声を荒げてまで怒ることかと言われたら、そうじゃない。
 でも、この時は母の心境もそれと違っていたのだろう。
 僕は知っている。この中学二年生の時にこの家の中で起こっていた出来事を。
 両親は僕が知っているなんて知らないし、妹なんてそんなことが起きていることすら今尚知らないままだろう。
 僕は知っているんた。後、数か月すると父の会社は倒産する。
 父はその事実を知っていて、転職を試みるも上手くいかない。
 母は父にその事実を知らされてから慣れないパートに出で、心身ともに疲れ切っている。
 妹の新しい服すら、今この家に買える余力があるわけがない。残された金で一家四人どこまで暮らせられるのか、わからないんだから。
 妹の服で、全てを思い出してきた。
 そうだ。我が家は今傾きかけている真っ最中なのだ。
 一番、最悪な時期だ。
 この時期、両親が何度も離婚を考えていたことも僕は知っている。
 偶然見てしまった深夜のに喧嘩。裏図けるように見つかる記入された離婚届。ギスギスした家の中。いつも疲れて気が立っている母と、その母に何もしない父。反抗期を迎えてしまった妹と、学校でイジメられて情緒が不安定だった僕。
 中学二年生、それは僕が人生で一番最悪な毎日を過ごしていた時代だ。
 僕はこの時期、学校で酷いイジメを受けていた。
 きっかけは、なんだっけ?
 ああ、そうだ。二年生に上がったばかりの時に僕をイジメていた連中が部活動に使っていた備品を壊していたことを担任に告げ口したのがバレたからだ。
 そして更に最悪だったのは、その告げ口の内容が間違えていたこと。
 あの時、僕はまだ自信に満ち溢れていた。
 成績だって学年では上の方で、二年に上がり生徒会の手伝いもさせてもらえるようになった。期待に満ち溢れていたし、正義感、責任感への憧れもあったと思う。
 素行の悪かったクラスメイト達を、心のどこかで見下していたのかもしれない。
 だから良く確認もせずに気持ちばかり焦って行動を起こしてしまった。実際は彼等が壊したわけでもなく、壊れた備品をただ仕舞っていただけだったらしい。
 それから、彼らは僕に嫌がらせをするようになった。
 最初は小さく僕の机にゴミを並べて片付けさせるとか、消しゴムの粒をぶつけて僕の少しボリュームのある髪にどれだけ入れられるか競ったり。
 その時はただただ、恥ずかしかった。
 イジメられている自分が恥ずかしかった。
 惨めな自分に涙と怒りが込み上げてくる。けど、それだけだった。まだ僕は、彼らのことを苦手なクラスメイトだとしか思っていなかった。
 だけど、彼らは次第にラインを越えて来る。
 一か月経つ頃には、僕は彼等の奴隷になった。自分のものは全て捨てられたり汚されたり、持つことが許されなかった。金を取られて何かを要求されて。時には犬で、時には椅子で、時にはゴミ箱で。ご主人様たちに逆らえなくなっていた。
 惨めさは、人生で一番だろう。
 知らない女子生徒に下着の色を聞いてこいと言われて、拒否をすれば殴られて蹴られて。鼻血が出た状態で泣き、土下座をしながら他の生徒が大勢いいる中で言わされた。
 笑う人、悲鳴をあげる人、先生を呼びに行く人。多くの人たちがいた。そして、皆僕の後ろで笑い転げていた彼らを見ていた。
 だけど、誰も彼等には何も言わなかった。
 先生か出てきたら全て僕のせいで、先生に土下座をさせられた。あの時、生活指導と担任は僕を怒らなかったが助けてもくれなかった。
 嫌な事は嫌と言う勇気を持てと言われたが、僕の切れた唇と鼻血には何も触れてくれなかった。
 二か月経てば、奴隷は玩具になった。
 もう、人ではなかった。僕が、玩具になった。
 服を脱がされ、一年の教室に投げ込まれた。授業なんて、受けさせてもらえなかった。
 先生は何度も彼に怒ってくれそうだけど、何も起きなかった。
 何も変わらなかった。
 何度も逃げたり隠れたりする度に、暴力と羞恥を振りかざして来る。
 何度も、何度も。
 誰でもいいから縋り付きたかった。助けて欲しかった。
 世界を変えて欲しかった。
 学校に行きたくない。行かなくていいならどれほど幸せなんだろう。毎日毎日、学校に行かなくていい日々を想像していた。けど、そんな日はこなかった。
 家に帰る度に、両親の顔を見る度に、ギスギスした家の空気を吸う度に、僕の言葉は奥へ奥へと押し込まれていったからだ。
 疲れ切った母親に負担なんてかけたくない。
 今まで何もしてくれなかった父親に何が出来る?
 妹に言ったところでまた馬鹿にされるだけじゃないか。
 もう、惨めさなんて感じなかった。ただただ、早く死にたかった。辛かった。死にたいと何度も何度も思って泣く。ある日彼らの前で死にたいと泣いた日の地獄は今も目に焼き付いている。
 大人になった今でも、思い出しては震えるぐらいに。
 そう、今だって。
 祖母がいてくれたら違ったのかな。祖母はいつでも僕の味方になってくていた。何でも話せられたし、祖母は僕のことを兄だからと妹と比べたりはしなかった。
 五月に亡くなった優しくて大好きな祖母を思い出す。妹がこの服を着ていたのは、確か祖母の四十九日だったはずだ。
 そうか、祖母はここにいないのか。
 その事実が自分の中で認識できた時、自分は死んでここは死後の世界ではないのだと実感を持てた瞬間だった。
 そうだ。僕は死んだのに死後の世界と呼ばれる場所にいない。
 僕が今いるのは、過去。
 僕が人生最悪だと思っている、中学二年の六月。
 あの地獄の中に僕は今、生きている。
 そう、生きているのだ。
 ブルりと体が震えた。僕がこの過去で生きていると言うことは、またあの地獄の中で僕は過ごさなければならないと言うことじゃないか。
 思い出した恐怖。
 救いのない事実。
 また、一から?
 大人なんだから上手く躱せれると思っても、そんなことはない。殴られたら痛い。逃げたら何をやられるか僕は知っている。大人でも怖い。嫌だ。無理だ。
 家族の状況だって、あの時以上に僕は理解しているのだ。逃げ込めるわけがない。
 それに、一回目で試さなくても何も起こらないことは誰よりも知っている。
 恐怖と絶望が、まだ成長しきっていないこの小さな体に押し寄せる。
 あの時は、僕一人が我慢すればまた何もかも元通りに戻るって信じていた。ギスギスした実家も、母も、父も、妹も、クラスメイト達さえも。僕一人が我慢してやり過ごせば、またあの何もなかった時に戻るんだって。
 けど、現実はそう甘くない。
 ここより少し進んだ未来は、どれも僕の希望を叶えてくれなかった。
 僕は何も変わらなかった。
 ただ、僕以外の全てが変っただけだった。僕はいつまでも二〇〇七年に取り残されていたのに。
 僕は未来を知っている。
 だからこそ、希望と期待なんて何もない人生をもう一度歩かされる絶望と恐怖から逃げられない。
 震えが止まらない。
 怖い、嫌だ、助けて。
 けど、誰にそれを言えばいいんだ?
 居場所なんてどこにもないのを知っていて、どこに逃げ込んで隠れて、座ることが出来ると言うんだ。
 ああ、何で僕は死んだんだ?
 あの時、電車に轢かれて死んだんだ。
 この時、誰も僕を死なせてくれなかったじゃないか。
 なんで、今なんだっ!
 ぎゅっときつく握った左手に暖かい温度が寄り添う。
 そこには、白く細い手があった。
 右に座っている妹の小さな手じゃない。
 僕と同じくらいの大きさの、綺麗な白い手。
 僕は左に顔を向けると、そこには。
「泰也君、大丈夫?」
 僕の名前を呼ぶ、見知らぬ金髪の女の子が座っていたのだった。