小学校六年の秋、僕は予てから憧れていた鼓笛隊のトランペットを任される事になった。しかし、マウスピースから音を出すのがとても難しく、何度も何度も家で練習をするはめになってしまった。初めて音が出た時、僕は目を輝かせて飼い犬に掴んだコツを必死に説明した。優しくて賢くて大きな彼女は僕が話し出すと、顔を上げて僕の話を真剣に聞いてくれた。どんな大人よりも、どんな友達よりも、真剣に。僕はそれが嬉しくて、得意になって沢山沢山、花木に水をやるように。どんなくだらない話でも、彼女に話すようになった。
時には、泣き言を。誰にも言えない辛い気持ちすら、彼女の前なら素直になれた。
高校生になればギターを。気まぐれで始めたギターの観客は、最初から最後まで彼女だけが観客だった。
寝るのも、起きるのも、飯を食うのも。彼女は僕の近くを決して離れなかった。
辛い時も、悲しい時も。苦しくて、壊れそうなときも。
でも、彼女が辛い時、僕は近くにいてやれたのだろうか。
あの電話を受けたのは、まだ夏の空だけが遠い五月の午前四時の夜明け前のことだ。
いつもよりも少しだけ早く僕は目を覚ました。目覚ましアラームの代わりに蠢くスマートフォンの着信画面には短く『母』との文字だけが僕を責める顔して睨んでいる。勿論文字に顔なんでないというのに。一昨日から続く怒涛の着信とメールを無視しているからか、どうしても後ろめたくてそう感じてしまうのだろうか。
こちらも何も悪気があって無視を決め込んでいたわけではない。単純に仕事の時間だったのだ。朝の五時から夜中の一時までは仕事で連絡には出られないと前から言っているのに、母親という生き物はてんで人の話を聞いてくれない。ようやく業務時間外で電話が来たと思ったら、貴重な睡眠時間を潰してくれるだなんて。
文句はとめどなく、まだ働かないはずの寝ぼけた頭の中を駆け巡った。けども、やはり一昨日からの罪悪感だって忘れてはいない。
けれども会社の上司の真似の様に、僕は頭を掻いて短い舌打ちを鳴らした。
「もしもし」
どうやらその罪悪感はとても小さかったようだ。小さな小さな罪悪感を押し退けて、小さな怒りと小さなダルさが朝の挨拶を遠ざける。うんざりと、どんよりと。最近の僕の気持ちはまるで季節が早く来過ぎた梅雨のようだった。
『お兄ちゃん?』
久々の母の声は想像よりも老け込んで、弱弱しかった。未だに自分のことを役割名で呼んでくることも相まって、その弱弱しさは悲壮感までも連れて来くる。
「何?」
けど僕は突き放すように。
『お兄ちゃん、今日はお仕事お休みよね?』
部屋のカレンダーは二月のままで、今日が何曜日かも僕は知らない。
「違うよ」
でも、そんなことは関係がなかった。今日が何曜日か知らなくても、今日が連休最後の日であっても、僕には何一つ関係がなかった。
「今日も仕事だよ」
上司に休みだと言われなければ僕に休みの日はこない。昨日休んでいいと連絡がこなかったことは、そうこうことだろう。
『なら、今日は休めない?』
電話越しの、鼻のつまった声が急かすように。
僕は短いため息を吐く。
「無理だよ」
僕はもう学生じゃない。責任が伴う仕事についている社会人だ。そんな簡単に休めるわけがない。何でそんなこともわからないのだろう。母だって大人なのに。
『一日でもいいの。今日だけ、どうしても』
「だから無理だってっ!」
次は苛立ちを隠さずに突き放す。そんな自分勝手がまかり通ってなるものか。
「急に何? 誰か死んだの? そうじゃないなら無理なんだけど」
親戚に不幸があったぐいでは到底休めないが、せめて電話をかけるならばそれぐらいの理由があって欲しい。だが、母親の連絡と言うものはいつもいつも下らないことばかりだ。どうせ今回も例にもれずに妹に酷いことを言われたやら、親父と喧嘩したやら、なんやら。そんなものだろうなと決めつけて、僕は迫る出社時間に備えて動き出す。僕の時間は一分一秒でも無駄には出来ない。それが社会人というものだろう。
何もないなら電話を切るからと続けようとした時、思わぬ答えが母親の口から返ってきたのだ。
『そうなの……』
「えっ?」
嗚咽を含む返答に、服に伸びかけた手が止まる。
家族の誰かが、死んだ?
本当に、誰かが死んだのだろうか。五、六年会っていない両親や妹の顔を思い浮かべようとするが、どうも輪郭がぼんやりとして顔が浮かんでこない。母以外と電話のやりとりもないのだ。声すら判別できるか自信がなくなってくる。
だが、家族なんてそんなものだろう? 義務教育なんて随分と昔に終わっていて、取り分け何か必要な関係なわけじゃない。自分は家を離れて都心で暮らしているし、両親だって特別僕に積極的に関わる必要性はなかったのだから。
「誰が?」
まるで昔見ていたバラエティ番組のCMの間の様に、肝心な所をなかなか言い出さない母にしびれを切らした僕の方から踏み込んでいく。
母は何度も電話越しに深呼吸をして自分を落ちつけながら、名前を紡ぐ。
『花ちゃんがね、死んじゃうの』
ようやく届いた答えは、我が家の飼い犬の名前だった。
名前を言えた勢いからか、今年の正月ぐいから体調を崩し始め母はそれまで花の様態がどのように変わっていったか、どれだけ花が苦しんでも頑張っていたかを僕に話しはじめた。
要は小学生の時に我が家に来たあの大きくて優しい犬が、死んでしまうらしい。
二十年ぐらいは経つんじゃないか。犬の中では長生きした方だろう。僕は相槌も打たずに止めていた手を動かしはじめた。
ああ、なんだ。犬の話か。
『だからね、お兄ちゃん。今日だけなんとかしてお休みとれない? 花ちゃんはお兄ちゃんに会うために……』
「母さん、何言ってるの?」
ため息よりも、軽蔑の色が強い。
自分の親がこんなにも幼稚で恥ずかしい思考を持った大人だったなんて。がっかりを通り越して、同じ大人として軽蔑を覚えるのは無理もないだろうに。
母さんは一度も正社員として働いたことがないからわからないかもしれないが、それは大人として恥ずかしくないの?
でも、丁度良かった。そろそろ電話を切らなければ始発に乗り遅れてしまう。
「今日も仕事があるって言っただろ? こっちはそれどころじゃないんだよ。犬が死ぬぐらいで会社を休む大人なんてどこにもいないよ。じゃあね」
母親の言葉が返ってこないうちに僕は電話を切った。どうせ何度も嫌がらせの様にかかってくるんだろうな。もう電話を取るつもりもないけど。考えただけで億劫だ。
僕は手早くスマートフォンを鞄にら滑り込ませると、仕事着に着替え家を出る。玄関に置いてある時計を見れば、時計の針は四と六の文字盤の上にいた。いつもよりも十分も早いが、起きてしまったのだから仕方がない。
母親の電話がなければ十分も長く眠れたのに。だが本人に文句を言い返す気力は僕にはない。家中にある沢山の時計を見て遅れてないだけマシだと自分に言い聞かす事にした。
始発に乗り遅れる度に時計を増やせと契約書を書いてしまったせいで、僕の家には時計が溢れている。見る度に気を引き締めて社会人としての自覚を持ちなおす。最初はこの上司の言葉を、何を言っているんだと思っていたが、今ならわかる。
社会人としても大人として。僕は仕事を任せて貰えている立場なのだ。
だからこそ犬が死んだぐらいで、新幹線で何時間もかかる実家に帰れるわけがない。
だが、そんな無責任なことが出来ないというだけで、何もその犬が嫌いなわけではなかった。すっかりと忘れていたが、むしろ、あの家の中では僕が一番心を許していた相手だったと思う。
辛い時はいつも一緒にいたし、寝るのも飯を食うのも僕と花は一緒だった。花の世話は僕がしていたし、家を出たばかりのころは花に会えないことが辛かった。
花はゴールデンレトリバーの雌で、大きくて賢く、とても優しかった。いつもお日様みたいな匂いがして、僕の肌を金色の毛がくすぐる。それだけが辛かった日々で眩しい思い出だった。
人間は駄目だが犬とは仲良くできのか。と、妹に笑われたことがあったがその通りだ。当時は自分をただ侮辱されたと思い一人激怒していたが、今なら素直に認められる。
でも一点訂正しなければならない。
犬だからじゃない。きっと花だったからだ。花以外の犬だったらあれほと仲良くなれたか怪しいものだ。
花との思い出はどれも楽しいし、優しい気持ちにしてくれる。今までなんで花のことを思い出さなかったのか不思議なぐらいだ。
その花が死ぬ。
僕は駅までの道のりで何度も何度も繰り返した。
そして、何度も何度も僕は自分に呆れ返った。
矢張り、何も思わない。
花のことよりも、今日は帰れるのだろうか。
次に辞める人間の仕事は、一体誰に振られるのだろうか。
今日は何回ミスをしてしまうのだろうか。
頭にちらつくのは自分の恥ずかしい雑念だけだった。
悲しいとか寂しいとか、もう会えない、喋ることも出来ない動揺のようなものさえ一向に湧いてきてくれない。学生時代に祖母が亡くなった時に襲って来た絶望にも近い悲しさが。
大人になったんだろうか。
きっと、それよりも大切なものが出来てしまったからだろう。
何もなかった学生時代と違って、今の僕には認めてもらえる仕事がある。社会人として、大人として普通の人生を歩み始めたんたんだから、あたり前だ。
でも、花の死期を知って何も思わない自分にどこか落胆を覚えていたのも事実だ。だから何度も何度も自分の中で繰り返した。何も変わらなかったけども。
「疲れているのかもな……」
誰に対して言う訳でも、聞いて欲しいわけでもない言葉が口を吐いた。
そうかもしれない。でも、自分は一体何にこんなにも疲れているんだろうか。仕事に? 母親の対応に?
駅のホームで電車を待ちながら、ぼんやりと雲が多い朝の空を見上げる。休日の始発に並ぶ人は少なく、数えれる程しかいない。
疲れているのは、それとも、花の死に?
考えるつもりなどなかったのに、僕の思考は途切れず答えを探し始めていた。
だが、そんなことをしても無駄だ。
だって、なんだかどれも違うように感じたからだ。
どれも心に届かない、響かない、形に合わない。空欄が、埋まらない。
僕は今、何をしているのだろうか。
我ながら何とも呆れた疑問だなと笑っていると、電車が来ると構内のスピーカーたちが騒ぎだした。
ああ、いけない。仕事のことを考えなれば。気を引き締めなければ。会社に迎う時間も仕事の時間なのだから。
僕はもう学生ではないのだから。
切り替えるために、長い息を吐く。
その時だ。
「えっ」
ぐらりと、世界が回り動く感覚が僕を襲ったのは。
短い音が僕の口から漏れ出すが、それに何の意味はない。恐らく、誰にも聞こえていないのではないだろうか。
僕は迫りくる光の中、体勢を崩して身を前に倒れた。
ああ、どうしよう。線路に落ちる。
光に包まれる前に、僕は目を閉じた。
ここで終わるぐらいなら、どうしてもっと早く終わってくれなかったのだろうか。
軽快な音楽が聞こえて来る。
どこかで聞いたことがある、昔よくテレビで流れていた、高い女の人の歌声。
「お兄ちゃんっ」
誰かの声がする。聞いたことがあるような幼い声が。でも、こんな時間に子供なんて、いないはずなのに……。
「お兄ちゃんってばっ! いい加減こっちに倒れてくるの止めてよっ!」
右腕を押される感覚に、僕ははっと目を開けた。
「ちょっと、車の中で喧嘩しないでってお母さん言ったでしょっ」
「だって、お兄ちゃんがキモいんだもんっ!」
頭痛を覚える騒がしい声の方を見れば、見覚えがある女の子が座っていた。
その子は昔妹が好きだったアニメのキャラクターが付けていた髪飾りを付けている。僕の記憶では、妹が小学五年生に上がる時に壊れて捨ててしまったものだ。
「お兄ちゃんのことキモいと言わないのっ! 何回言ったらわかるの?」
少しヒステリックな声を上げている女性は、普段はしない化粧をしていた。その赤い口紅が僕には毒々しく見えて、少し苦手だった。
運転している男性は、女性と少女が言い争っていても何も言わずに無関心に車を運転していた。
ああ、嘘だろ?
僕はここを知っているし、この後何が起こるかも知っている。
「私は嘘言ってないのに、何でお母さんは怒るの!?」
この後、母はお決まりの脅しを言うのだ。
「言うこと聞けない子はここで降ろすわよっ!」
本当にするわけないと思っているけど、妹は何も言えずに窓の方を向く。
そして、父親はこの車の中では決して一言も発さない。
僕は車のバックミラーに映る自分の姿に息を呑んだ。
学生服を着た僕に、赤い口紅の母。お気に入りの髪飾りを付けている妹に、石のような父。
僕は今、祖母の四十九日の帰りの車に乗っていた。
それは今から十三年前の六月、二〇〇七年六月のおわり。
僕が地獄の中で生きていた中学二年生の日であることを、僕は知っていた。
時には、泣き言を。誰にも言えない辛い気持ちすら、彼女の前なら素直になれた。
高校生になればギターを。気まぐれで始めたギターの観客は、最初から最後まで彼女だけが観客だった。
寝るのも、起きるのも、飯を食うのも。彼女は僕の近くを決して離れなかった。
辛い時も、悲しい時も。苦しくて、壊れそうなときも。
でも、彼女が辛い時、僕は近くにいてやれたのだろうか。
あの電話を受けたのは、まだ夏の空だけが遠い五月の午前四時の夜明け前のことだ。
いつもよりも少しだけ早く僕は目を覚ました。目覚ましアラームの代わりに蠢くスマートフォンの着信画面には短く『母』との文字だけが僕を責める顔して睨んでいる。勿論文字に顔なんでないというのに。一昨日から続く怒涛の着信とメールを無視しているからか、どうしても後ろめたくてそう感じてしまうのだろうか。
こちらも何も悪気があって無視を決め込んでいたわけではない。単純に仕事の時間だったのだ。朝の五時から夜中の一時までは仕事で連絡には出られないと前から言っているのに、母親という生き物はてんで人の話を聞いてくれない。ようやく業務時間外で電話が来たと思ったら、貴重な睡眠時間を潰してくれるだなんて。
文句はとめどなく、まだ働かないはずの寝ぼけた頭の中を駆け巡った。けども、やはり一昨日からの罪悪感だって忘れてはいない。
けれども会社の上司の真似の様に、僕は頭を掻いて短い舌打ちを鳴らした。
「もしもし」
どうやらその罪悪感はとても小さかったようだ。小さな小さな罪悪感を押し退けて、小さな怒りと小さなダルさが朝の挨拶を遠ざける。うんざりと、どんよりと。最近の僕の気持ちはまるで季節が早く来過ぎた梅雨のようだった。
『お兄ちゃん?』
久々の母の声は想像よりも老け込んで、弱弱しかった。未だに自分のことを役割名で呼んでくることも相まって、その弱弱しさは悲壮感までも連れて来くる。
「何?」
けど僕は突き放すように。
『お兄ちゃん、今日はお仕事お休みよね?』
部屋のカレンダーは二月のままで、今日が何曜日かも僕は知らない。
「違うよ」
でも、そんなことは関係がなかった。今日が何曜日か知らなくても、今日が連休最後の日であっても、僕には何一つ関係がなかった。
「今日も仕事だよ」
上司に休みだと言われなければ僕に休みの日はこない。昨日休んでいいと連絡がこなかったことは、そうこうことだろう。
『なら、今日は休めない?』
電話越しの、鼻のつまった声が急かすように。
僕は短いため息を吐く。
「無理だよ」
僕はもう学生じゃない。責任が伴う仕事についている社会人だ。そんな簡単に休めるわけがない。何でそんなこともわからないのだろう。母だって大人なのに。
『一日でもいいの。今日だけ、どうしても』
「だから無理だってっ!」
次は苛立ちを隠さずに突き放す。そんな自分勝手がまかり通ってなるものか。
「急に何? 誰か死んだの? そうじゃないなら無理なんだけど」
親戚に不幸があったぐいでは到底休めないが、せめて電話をかけるならばそれぐらいの理由があって欲しい。だが、母親の連絡と言うものはいつもいつも下らないことばかりだ。どうせ今回も例にもれずに妹に酷いことを言われたやら、親父と喧嘩したやら、なんやら。そんなものだろうなと決めつけて、僕は迫る出社時間に備えて動き出す。僕の時間は一分一秒でも無駄には出来ない。それが社会人というものだろう。
何もないなら電話を切るからと続けようとした時、思わぬ答えが母親の口から返ってきたのだ。
『そうなの……』
「えっ?」
嗚咽を含む返答に、服に伸びかけた手が止まる。
家族の誰かが、死んだ?
本当に、誰かが死んだのだろうか。五、六年会っていない両親や妹の顔を思い浮かべようとするが、どうも輪郭がぼんやりとして顔が浮かんでこない。母以外と電話のやりとりもないのだ。声すら判別できるか自信がなくなってくる。
だが、家族なんてそんなものだろう? 義務教育なんて随分と昔に終わっていて、取り分け何か必要な関係なわけじゃない。自分は家を離れて都心で暮らしているし、両親だって特別僕に積極的に関わる必要性はなかったのだから。
「誰が?」
まるで昔見ていたバラエティ番組のCMの間の様に、肝心な所をなかなか言い出さない母にしびれを切らした僕の方から踏み込んでいく。
母は何度も電話越しに深呼吸をして自分を落ちつけながら、名前を紡ぐ。
『花ちゃんがね、死んじゃうの』
ようやく届いた答えは、我が家の飼い犬の名前だった。
名前を言えた勢いからか、今年の正月ぐいから体調を崩し始め母はそれまで花の様態がどのように変わっていったか、どれだけ花が苦しんでも頑張っていたかを僕に話しはじめた。
要は小学生の時に我が家に来たあの大きくて優しい犬が、死んでしまうらしい。
二十年ぐらいは経つんじゃないか。犬の中では長生きした方だろう。僕は相槌も打たずに止めていた手を動かしはじめた。
ああ、なんだ。犬の話か。
『だからね、お兄ちゃん。今日だけなんとかしてお休みとれない? 花ちゃんはお兄ちゃんに会うために……』
「母さん、何言ってるの?」
ため息よりも、軽蔑の色が強い。
自分の親がこんなにも幼稚で恥ずかしい思考を持った大人だったなんて。がっかりを通り越して、同じ大人として軽蔑を覚えるのは無理もないだろうに。
母さんは一度も正社員として働いたことがないからわからないかもしれないが、それは大人として恥ずかしくないの?
でも、丁度良かった。そろそろ電話を切らなければ始発に乗り遅れてしまう。
「今日も仕事があるって言っただろ? こっちはそれどころじゃないんだよ。犬が死ぬぐらいで会社を休む大人なんてどこにもいないよ。じゃあね」
母親の言葉が返ってこないうちに僕は電話を切った。どうせ何度も嫌がらせの様にかかってくるんだろうな。もう電話を取るつもりもないけど。考えただけで億劫だ。
僕は手早くスマートフォンを鞄にら滑り込ませると、仕事着に着替え家を出る。玄関に置いてある時計を見れば、時計の針は四と六の文字盤の上にいた。いつもよりも十分も早いが、起きてしまったのだから仕方がない。
母親の電話がなければ十分も長く眠れたのに。だが本人に文句を言い返す気力は僕にはない。家中にある沢山の時計を見て遅れてないだけマシだと自分に言い聞かす事にした。
始発に乗り遅れる度に時計を増やせと契約書を書いてしまったせいで、僕の家には時計が溢れている。見る度に気を引き締めて社会人としての自覚を持ちなおす。最初はこの上司の言葉を、何を言っているんだと思っていたが、今ならわかる。
社会人としても大人として。僕は仕事を任せて貰えている立場なのだ。
だからこそ犬が死んだぐらいで、新幹線で何時間もかかる実家に帰れるわけがない。
だが、そんな無責任なことが出来ないというだけで、何もその犬が嫌いなわけではなかった。すっかりと忘れていたが、むしろ、あの家の中では僕が一番心を許していた相手だったと思う。
辛い時はいつも一緒にいたし、寝るのも飯を食うのも僕と花は一緒だった。花の世話は僕がしていたし、家を出たばかりのころは花に会えないことが辛かった。
花はゴールデンレトリバーの雌で、大きくて賢く、とても優しかった。いつもお日様みたいな匂いがして、僕の肌を金色の毛がくすぐる。それだけが辛かった日々で眩しい思い出だった。
人間は駄目だが犬とは仲良くできのか。と、妹に笑われたことがあったがその通りだ。当時は自分をただ侮辱されたと思い一人激怒していたが、今なら素直に認められる。
でも一点訂正しなければならない。
犬だからじゃない。きっと花だったからだ。花以外の犬だったらあれほと仲良くなれたか怪しいものだ。
花との思い出はどれも楽しいし、優しい気持ちにしてくれる。今までなんで花のことを思い出さなかったのか不思議なぐらいだ。
その花が死ぬ。
僕は駅までの道のりで何度も何度も繰り返した。
そして、何度も何度も僕は自分に呆れ返った。
矢張り、何も思わない。
花のことよりも、今日は帰れるのだろうか。
次に辞める人間の仕事は、一体誰に振られるのだろうか。
今日は何回ミスをしてしまうのだろうか。
頭にちらつくのは自分の恥ずかしい雑念だけだった。
悲しいとか寂しいとか、もう会えない、喋ることも出来ない動揺のようなものさえ一向に湧いてきてくれない。学生時代に祖母が亡くなった時に襲って来た絶望にも近い悲しさが。
大人になったんだろうか。
きっと、それよりも大切なものが出来てしまったからだろう。
何もなかった学生時代と違って、今の僕には認めてもらえる仕事がある。社会人として、大人として普通の人生を歩み始めたんたんだから、あたり前だ。
でも、花の死期を知って何も思わない自分にどこか落胆を覚えていたのも事実だ。だから何度も何度も自分の中で繰り返した。何も変わらなかったけども。
「疲れているのかもな……」
誰に対して言う訳でも、聞いて欲しいわけでもない言葉が口を吐いた。
そうかもしれない。でも、自分は一体何にこんなにも疲れているんだろうか。仕事に? 母親の対応に?
駅のホームで電車を待ちながら、ぼんやりと雲が多い朝の空を見上げる。休日の始発に並ぶ人は少なく、数えれる程しかいない。
疲れているのは、それとも、花の死に?
考えるつもりなどなかったのに、僕の思考は途切れず答えを探し始めていた。
だが、そんなことをしても無駄だ。
だって、なんだかどれも違うように感じたからだ。
どれも心に届かない、響かない、形に合わない。空欄が、埋まらない。
僕は今、何をしているのだろうか。
我ながら何とも呆れた疑問だなと笑っていると、電車が来ると構内のスピーカーたちが騒ぎだした。
ああ、いけない。仕事のことを考えなれば。気を引き締めなければ。会社に迎う時間も仕事の時間なのだから。
僕はもう学生ではないのだから。
切り替えるために、長い息を吐く。
その時だ。
「えっ」
ぐらりと、世界が回り動く感覚が僕を襲ったのは。
短い音が僕の口から漏れ出すが、それに何の意味はない。恐らく、誰にも聞こえていないのではないだろうか。
僕は迫りくる光の中、体勢を崩して身を前に倒れた。
ああ、どうしよう。線路に落ちる。
光に包まれる前に、僕は目を閉じた。
ここで終わるぐらいなら、どうしてもっと早く終わってくれなかったのだろうか。
軽快な音楽が聞こえて来る。
どこかで聞いたことがある、昔よくテレビで流れていた、高い女の人の歌声。
「お兄ちゃんっ」
誰かの声がする。聞いたことがあるような幼い声が。でも、こんな時間に子供なんて、いないはずなのに……。
「お兄ちゃんってばっ! いい加減こっちに倒れてくるの止めてよっ!」
右腕を押される感覚に、僕ははっと目を開けた。
「ちょっと、車の中で喧嘩しないでってお母さん言ったでしょっ」
「だって、お兄ちゃんがキモいんだもんっ!」
頭痛を覚える騒がしい声の方を見れば、見覚えがある女の子が座っていた。
その子は昔妹が好きだったアニメのキャラクターが付けていた髪飾りを付けている。僕の記憶では、妹が小学五年生に上がる時に壊れて捨ててしまったものだ。
「お兄ちゃんのことキモいと言わないのっ! 何回言ったらわかるの?」
少しヒステリックな声を上げている女性は、普段はしない化粧をしていた。その赤い口紅が僕には毒々しく見えて、少し苦手だった。
運転している男性は、女性と少女が言い争っていても何も言わずに無関心に車を運転していた。
ああ、嘘だろ?
僕はここを知っているし、この後何が起こるかも知っている。
「私は嘘言ってないのに、何でお母さんは怒るの!?」
この後、母はお決まりの脅しを言うのだ。
「言うこと聞けない子はここで降ろすわよっ!」
本当にするわけないと思っているけど、妹は何も言えずに窓の方を向く。
そして、父親はこの車の中では決して一言も発さない。
僕は車のバックミラーに映る自分の姿に息を呑んだ。
学生服を着た僕に、赤い口紅の母。お気に入りの髪飾りを付けている妹に、石のような父。
僕は今、祖母の四十九日の帰りの車に乗っていた。
それは今から十三年前の六月、二〇〇七年六月のおわり。
僕が地獄の中で生きていた中学二年生の日であることを、僕は知っていた。