五月の下旬、文也は病院にいた。透析が始まった桜の付き添いだった。そんなものいらないと彼女は言ったが、せめて慣れるまでの帰り道ぐらい付き合うと文也が言ったのだ。桜の家からは歩いて二十分程度の距離。文也が桜と居たい口実でもあったが、心配という感情が根底にあるのも確実で、それを知っている桜は「遅刻しないでよ」と言って許可をした。
 土曜日の午後四時、大きな総合病院である此花(このはな)病院に向かう。桜の透析は、一回四時間。これを週三回も行うのだから、生活においてなかなかの負担だ。治ることがあればいいのに、と痛切に思う。
 広い待ち合いでは、多くの患者や見舞客が行き交っていた。透析を行う部屋は三階だが、流石に部屋の前で待つわけにはいかない。
 一階の待ち合いに据えられた週刊の漫画雑誌を手にし、長椅子に腰掛ける。適当に開いて目にしたのは、一度死んだ主人公が生まれ変わって周囲にちやほやされる話。大事なのは現世だ、簡単に死んでたまるかよと、文也は胸中で悪態をつく。
 ぱらぱらとページを繰り、これなら颯介が貸してくれた本を持ってきた方が良かったとほんのり後悔していた時、ぱたぱたと足音が近づいてきた。
「ふー、こんなとこにいたの。もっと分かりやすいところにいてよ」
「無茶言うなよ」
 バッグを手にした桜が文句を言う。文也は雑誌を閉じ、右手を差し出した。
「貸して。俺持つから」
「いいよ」
「こんぐらいしないと、来た意味がないだろ」
 少し迷いながら、桜はバッグを手渡した。パジャマやタオルの入ったそれは軽いが、病人の荷物ぐらい持たなければ付き添いの意味がない。真面目な桜は透析中に勉強をしていたのか、英語の単語帳が見え隠れしている。
「桜、病院でも勉強してんだな」
「だって、四時間も無駄にできないでしょ。ふーもちゃんと勉強しなよ。置いてくよ」
 はいはいと返事をして雑誌を戻し、少し待って会計を済ませると、共に病院を出た。今日の日差しは雲にさえぎられているが、湿度が高く、もうじき来る梅雨を思わせる気候だった。
「桜、大丈夫か」
 十分ほど歩いた頃、目を伏せる桜に文也は話しかけた。いつも一緒に歩いている彼は、彼女の足取りの重さや何かを耐えている表情から、体調不良を察することができた。
「……ちょっと、休憩してもいい?」
 そんな文也に誤魔化しはきかないことを、桜も理解している。だから素直に気分が悪いと言った。
「病院戻るか」
「ううん。そこまでじゃないよ。少し座れたら楽になると思う」
 桜は、駅前のベンチを指さした。文也が登下校に使っている御浜駅には広場があり、点在する背の高い木を囲むようにベンチが据えられている。
「こんなとこじゃ休憩にならないだろ。どっかの店にでも入った方が……」
「大丈夫だって。ちょっと疲れただけだから、そこまでしなくていいよ」
 腎臓の悪い桜は、水分の摂取量を制限されている。だから喫茶店に入っても、自由気ままに注文することができない。商品を注文せずに居座る罪悪感が彼女にはある。それぐらい自分が二杯分頼めばいいし、なんなら桜が注文した分を代わりに飲んでもいいと文也は思う。しかし、桜が居づらく思いストレスを感じるのなら、従うしかない。
「透析始めると、体調不良が出たりするんだって。でも、身体が慣れたら平気になるらしいよ」
「もし今より気分が悪くなったら言えよ。俺が負ぶって家でも病院でも行ってやるから」
「はいはい。どうもありがとう」
 桜は笑うと、深く息をついた。大丈夫とは言うが、文也は心配で仕方がない。本当は救急車を呼ぶ状況なのではないか、このまま家に帰って何も問題はないのか、非常事態の前触れではないのだろうか。
 あらゆる想像をしてやきもきしている彼に、桜は笑う。
「心配し過ぎ。ふー、顔怖いよ」雲の隙間から日が差し込み、眩しそうに目を細める彼女の顔に木の葉の影が落ちる。
「桜のことなんだから、仕方ないだろ。俺やっぱ、負ぶって帰るよ」
「だから遠慮しとくって。大したことないもん。ふーに甘えすぎてちゃ、私、弱くなる一方だよ」
「甘えてくれたって、俺は全然構わないんだぜ」
「限度はわきまえなきゃ。自分で出来ることは、自分でする。それが私の、最後のプライド」
 きっぱりと言う桜は、弱いのに頼もしい。自分の病弱さに負けないよう、一生懸命に生きている。なんてかっこいいいんだと、文也はいっそう好きになる。あの漫画の主人公より何万倍も強いに違いない。
「あれ、ねえ、颯介くんじゃない?」すっかり見惚れている文也の背後に、桜は指をさす。振り返る文也も、「あれ」と声を出した。
「おーい。そーすけ!」
 文也は大きな声を出して手を振る。すると、駅の入口に向けて歩いていた彼は、立ち止まってこっちを見た。手に持っている文庫本を閉じ、片手を振り返す。
「フミと桜ちゃん。久しぶり」
 本を読みながら歩いていたのは、二人と歳の変わらない、高校一年生の小戸森(こともり)颯介(そうすけ)だった。同じ中学校だった三人は仲が良く、高校進学で離れても連絡を取り合っている。文也が学校で読む本は、いつも颯介からの借りものだった。
「颯介くん、本読みながら歩いてたら、事故っちゃうよ」
「そうだね、ごめん。本屋に行って帰ってたんだけど、どうしても我慢できなくって。少しだけって思ってたのに、つい止まらなくなってたよ」
 二人の元にやって来た颯介は、今日のじめじめした気候を感じさせない爽やかさで笑う。彼の周囲だけ湿度が十パーセントは下がるような、名前通り颯爽とした雰囲気を持っている。
「おまえ、本当に本好きだな」
「まあね。二人は、なにしてるんだ」
「桜の透析の帰り。送ってたんだ」
「そっか。透析始めたんだって言ってたね」颯介は文也の横に腰掛ける。「もしかして、具合悪いの」
「少しだけね。でも休憩したらすぐよくなるから。家まで、あと十分ぐらいだし」
「桜ちゃん、引っ越しもしたんだよね。どう、ストレスとか大丈夫」
「うん。学校も病院も近いし、便利だから。お母さんも職場が近くなったって喜んでたし、万々歳だよ」
 桜の話を聞いて、颯介は安心したように笑った。穏やかで思いやりのある彼は、やはり環境の変化に桜が戸惑っていないか、心配だったらしい。
「それは何よりだよ。病気も早く良くなるかもしれないね」彼は嬉しそうに言う。
「桜はさ、病気が治ったらなにがしたい」
 文也の質問に、桜は首を傾げた。「うーん」小さな手を口元に当てて考え込む。
「色々あるけど……。あっ、果物食べてみたいなあ」
「果物、駄目なんだっけ」
「うん。カリウムが多いからね」
 不思議そうな颯介に、桜は頷く。腎臓が悪いとカリウムが体内に溜まりがちになり、悪化すれば心臓病をも引き起こしてしまう。
「だから、思いっきり食べてみたいな。お見舞いでメロンとか貰ってる人を見たら、美味しそうで羨ましいの。涎が出ちゃう」
 いたずらっぽく笑う彼女。幼い頃に食べて味を知っているから、余計に食べたくなるのだろう。その姿は不憫だが、今の笑顔はどうにかして保存しておきたいほど可愛らしい。
「可愛いなあ、桜は」ため息交じりの文也。「相変わらずだな」と颯介。
 そして文也は、良い事を思いついたと手を叩いた。
「よし、それじゃあ、俺は将来農家になるよ」
 彼の決心した顔つきに、二人は目を丸くする。
「メロンでもスイカでもイチゴでも、飽きるまで食わせてやる」
「何言ってんの」桜が可笑しそうに笑った。「変な冗談、言わないでよ」
「冗談じゃねえよ。俺は本気だよ」
「フミが農家ね」颯介も呆れ顔だ。「似合わないなあ」
「うるせえなあ。ほっとけ」
「ふーは不器用だから、すぐに枯らしちゃいそうだね」
 桜までそんなことを言う。不貞腐れる文也を見て、二人は楽しそうに笑った。