文也は一人、低い防波堤に腰掛け、長い間海を見つめていた。足の下ではちゃぷちゃぷと波が立ち、目を凝らすと魚の影が見え隠れする。鞄から水筒を出して喉を湿らせ、再び飽きることなく海を眺めた。海風が優しく頬を撫でていく。
 どれだけそうしていたか。陽が傾きだした頃、ようやく歩道に下りて歩き出す。胸ほどの高さの防波堤。その向こうに広がる海と平行に歩みを進めながら、ゆっくりと駅に向かう。
 そこでようやく、スマートフォンに桜からメッセージが届いていることに気が付いた。返事をしながら歩く指先に、揺れる小さな桜貝がそっと触れる。
 saku:海、綺麗だね。
「そうだな」
 saku:夕焼けの海、私、好きだな。
 右手に広がる海は、いつの間にかオレンジ色に染まっていた。大きな夕陽が水平線の下に潜っていく。ため息が出るほどに美しい光景。
 そして文也は、夢がひとつ叶ったことを知る。桜と二人で海辺を散歩する。もう決して叶わないと思っていたが、桜は隣を歩いている。今まさに、二人きりで海辺を歩いている。夢は、叶った。
 saku:せっかくだし、ふー、泳いだら。
「着替え持ってねえし、無理だよ」
 saku:そっか、ふーは泳げないんだ。残念。
「泳げないなんて言ってないだろ」
 軽口を叩き合う幸せ。これ以上ない幸福感で胸が詰まる。
 思い返せば、桜はたくさんのものをくれた。弱く小さな身体で、とても大きく暖かなものたちをプレゼントしてくれた。かっこよくて、優しい桜。自分の前に再び現れてくれた、愛しい天方桜。
 saku:いろいろあったけど、楽しかったね。
「ああ、ほんとに楽しかった」
 ほら、今も隣に居る。
「あっという間だったね」
「そうだな。一瞬だった」
 桜は、隣を歩いている。
 弾む足取りで、肩を越す黒髪を揺らして、御浜高校の夏服を着た桜が歩く。かつて車椅子で通った道を、今は自分の足でしっかりと辿っている。
「ふーはもう、大丈夫だね」
 桜の真の心残りは、既に文也も理解していた。
 わかっているから、「大丈夫じゃない」と言いたくなった。「俺には、桜が必要だ」そんな言葉が喉元まで出かけた。
 それでも、何が一番大切なのかはわかっている。
「俺は、大丈夫だ」
 声になったのは、そんな台詞だった。
「桜のおかげだよ」
 桜がいれば何もいらないと思っていた。最低限の付き合いがあれば、あとはどうなってもいいとさえ考えていた。だから彼女が死んだ時、絶望の淵に立たされたのだ。世界にひとりぼっちな気がした。彼女のもとにいきたいと思った夜もあった。
 しかし、月城文也を何よりも心配していた天方桜は、奇跡を起こして助けてくれた。たくさんの縁を生んで、前に進む気力を取り戻させてくれた。
 桜の心残り、思い残し、最後の願い。それは、ふーがみんなと一緒に生きていくこと。
「よかった」
 立ち止まり、桜がにっこりと笑うのが見える。髪が夕焼けで橙に染まっている。なんて綺麗な女の子なんだろう。
「私は、これからもそばにいるから」美しく潤む瞳を細めて笑う。「だけど、ずーっと先にまた会えたら。いろんな話、たくさん聞かせてね。私はいつまでも待ってるから」
「ああ」文也も笑った。「ありがとう、桜」
「こちらこそ」桜は愛らしく微笑む。「ありがとう、ふー」
 八月の海に、満開の桜が咲くのを文也は目にした。四十九日の奇跡に形作られた桜。精いっぱい生き、輝いた命の桜。
「元気でね」
 鈴の音のような優しい声が、凛と響く。
「ふー、大好き」
 それは静かな余韻を残し、晩夏の夕暮れに消えていった。

 彼女の姿が見えなくなると、文也は静かに空を仰いだ。深く壮麗な夕焼け空。見ててくれよ、と声をかける。
 やがてゆっくりと歩き出す。澄み渡った晴れやかな心で、彼女の軌跡を胸にしまって。
 奇跡と共に、夏は終わりを告げていく。