後半の補習授業が幕を開け、御浜高校には再び生徒たちが登校を始めた。貴重な長期休暇が終わってしまったことを嘆きつつ、友人たちに会えた喜びに、生徒たちのテンションは上がったり下がったり。それが落ち着き始める一週間後は、補習授業の最終日だった。
八月二十四日。まだ八月だというのに、翌日からは丸一日の授業が始まる。今日が遊びに行ける最後のチャンスとばかりに、放課後の教室はざわついていた。
「なあ、文也」
帰り支度をする文也に、少し日焼けした虎太郎が話しかけた。「今日部活休みなんだけど、どっか行かない?」
「ああ、いいよ」
断る理由が思いつかず、文也は了承した。虎太郎はいつもと変わらない人懐こい笑顔を見せる。
「じゃあさ、アイス食いに行こうよ。海の近く。よく部活の連中と一緒に行くんだ」
文也と虎太郎は連れ立って学校を出た。話をしつつ十分ほど歩くと、視界には海が広がった。夏の海はきらきらと青く輝き、水平線で空の青と繋がっている。テトラポットも見えない一面の海面は穏やかに波打ち、砂浜には同じように遊びに来た学生たち、所々に小さな子供連れの姿がある。潮の香りが鼻をくすぐり、水面を撫でる風が髪に触れていく。
「爺ちゃん家も山だしさ、海が珍しくてよく通ってたら、すっごい日焼けしたよ」
「それ、部活のせいじゃなかったのか」
「部活もあるけど、終わってからも散歩してたからなあ。照り返しもあるし」
日に焼けた健康的な腕をさする。こいつも中々に活発だよな、と文也は改めて思う。
歩道から砂浜を眺めると、在りし日の記憶が蘇った。あれがたった二か月前のことだとは信じられない。車椅子を押す感覚も、明るく楽しげな皆の声も、昨日のことのように浮かんでくる。
話しながら海沿いの道をゆっくり歩いていると、やがて脇に小さな店が見えてきた。こんなところにアイスクリーム屋があったのか。あの時は車椅子を押すのに夢中だったから、文也は気が付かなかった。
青い屋根の店に入り、それぞれ一つずつ注文する。店の裏側は日陰のテラスになっていて、海が一望できる。四つあるテーブル席の一つでは女子大学生らしき三人組がお喋りに勤しんでいた。
端の席に座り、アイスを口にする。甘酸っぱい爽やかな柚子の味。ひんやりと身体を内側から冷やしてくれる。
いつも通り、虎太郎が話し役に回り、文也は聞き役に徹した。彼もサッカー部を随分と楽しんでいるようだ。
「そういえばさ」パリパリとコーンを食べながら、虎太郎は思いついた顔をした。「爺ちゃんが、また遊びに来いって言ってたよ」
「遊びにって、迷惑じゃないのか」
「迷惑って」文也の言葉に一度目を見張ると、彼は可笑しそうに笑った。「全然、そんなことないって」
「杉ヶ裏ってどんどん子どもも減ってるし、若者っていったらオレぐらいしか付き合いなかったからさ。オレたち見てると、自分も若返る気になるんだって」
「そんなもんなのか」
「そうそう。だからまた行こーよ。颯介たちも誘って」
虎太郎はすっかり彼らとも仲良くなっていた。一緒に困難を乗り越えた関係ではあるが、共に過ごした時間はまだ短い。大した社交性だ。
「あの時、文也、すぐ寝ちゃったしさ」
「あれはおまえの爺ちゃんも悪いだろ」
「そうだなー。今度はもうちょっと弱い酒用意しとくってさ」
あははと陽気に笑う虎太郎。次こそは酒に飲まれてやるもんかと文也は決意する。
「行ってもいいなら行くよ。ムギにも会いたいし」
「そうそう、ムギもあんなにはしゃぐことって、あんまりないしさ。あいつ、大勢で騒ぐのが好きなんだ。なんか柴っぽくないよなー」可愛らしい柴犬は、既に若者たちに随分懐いていた。文也が早々と寝てしまったあの夜も、立派な仲間の一員としてご馳走を美味そうに平らげた。
一通り話し終わった頃、二人はアイスクリームを食べきり、しばらく海を眺めた。寄せては引いて、引いては寄せて、穏やかな波間は心を落ち着ける。直に八月も終わる。
「オレさ、正直言うと、天方さんがちょっとだけ気になってたんだ」
こめかみをかく虎太郎に、文也は驚いて視線をやった。
「入学式の時さ、可愛い子がいるなーって思って。それでよく放課後に、玄関の前で立ってるのを見つけたんだ。その横にはいっつも文也がいたよ」
「おまえ、桜のこと狙ってたのか」
「ほんの数日だよ。彼女は身体が弱いらしいって噂聞いて、いつも隣に文也がいるのを見て、あー、この人はこの女の子がすっごく大事なんだなってすぐにわかってさ」
近くを通りかかるときに聞こえてくる文也の台詞は、常に桜を心配するものだった。それに対して「ふー、心配し過ぎ」と呆れる彼女の様子を見て、すぐに諦めはついた。
「オレが入る余地なんてまるっきりないってわかったよ。それでさ、文也が同じクラスだって気づいて、こいつ絶対いいやつだってピンときた。あんだけ女の子のこと大事にできるんだし。だから友だちになりたいって思ったんだよ」
虎太郎は桜との様子から、文也が「いいやつ」であることを確信した。だから文也が素っ気ない態度をとっても、あまり気にしなかった。いつか心を開くだろうと気長に付き合えたのだ。
「彼氏じゃないって知っても、どう見ても特別な関係だったからさ。……ちょっと信じられなかったけど」
「まあ、その後で付き合えたしな。桜は可愛いから仕方ない」
「急に惚気るなってば」
二人は笑いながら話をした。それはどう見ても、仲の良い友人同士の姿だった。
店を出て、海沿いを散歩しながらあれこれと話をし、しばらくしてから「オレ、そろそろ帰らないと」と虎太郎は言った。
「うちの犬、今日はオレが散歩させないとなんだ」
「こっちでも犬飼ってるのか」
「うん。コーギー。今度うち来る? めちゃくちゃ可愛いよ」
どうやら犬好きの一族のようだ。そういえば虎太郎自身も、犬のような人懐こさを持っている。今はその顔で歯を見せて笑う。
「またクラスの連中と遊びに行くんだけどさ、文也もおいでよ。楽しいから」
「虎太郎が行くなら行くよ」
「オレがいない所に誘ってるわけないだろ」
「それにしてもよく遊ぶな」
「高校生なんだから、それぐらい許されるって」
文也は、もう少し残って海を見ていくと言った。虎太郎は頷くと、「じゃあ、また明日」と手を振った。それに文也も右手を振り返した。
八月二十四日。まだ八月だというのに、翌日からは丸一日の授業が始まる。今日が遊びに行ける最後のチャンスとばかりに、放課後の教室はざわついていた。
「なあ、文也」
帰り支度をする文也に、少し日焼けした虎太郎が話しかけた。「今日部活休みなんだけど、どっか行かない?」
「ああ、いいよ」
断る理由が思いつかず、文也は了承した。虎太郎はいつもと変わらない人懐こい笑顔を見せる。
「じゃあさ、アイス食いに行こうよ。海の近く。よく部活の連中と一緒に行くんだ」
文也と虎太郎は連れ立って学校を出た。話をしつつ十分ほど歩くと、視界には海が広がった。夏の海はきらきらと青く輝き、水平線で空の青と繋がっている。テトラポットも見えない一面の海面は穏やかに波打ち、砂浜には同じように遊びに来た学生たち、所々に小さな子供連れの姿がある。潮の香りが鼻をくすぐり、水面を撫でる風が髪に触れていく。
「爺ちゃん家も山だしさ、海が珍しくてよく通ってたら、すっごい日焼けしたよ」
「それ、部活のせいじゃなかったのか」
「部活もあるけど、終わってからも散歩してたからなあ。照り返しもあるし」
日に焼けた健康的な腕をさする。こいつも中々に活発だよな、と文也は改めて思う。
歩道から砂浜を眺めると、在りし日の記憶が蘇った。あれがたった二か月前のことだとは信じられない。車椅子を押す感覚も、明るく楽しげな皆の声も、昨日のことのように浮かんでくる。
話しながら海沿いの道をゆっくり歩いていると、やがて脇に小さな店が見えてきた。こんなところにアイスクリーム屋があったのか。あの時は車椅子を押すのに夢中だったから、文也は気が付かなかった。
青い屋根の店に入り、それぞれ一つずつ注文する。店の裏側は日陰のテラスになっていて、海が一望できる。四つあるテーブル席の一つでは女子大学生らしき三人組がお喋りに勤しんでいた。
端の席に座り、アイスを口にする。甘酸っぱい爽やかな柚子の味。ひんやりと身体を内側から冷やしてくれる。
いつも通り、虎太郎が話し役に回り、文也は聞き役に徹した。彼もサッカー部を随分と楽しんでいるようだ。
「そういえばさ」パリパリとコーンを食べながら、虎太郎は思いついた顔をした。「爺ちゃんが、また遊びに来いって言ってたよ」
「遊びにって、迷惑じゃないのか」
「迷惑って」文也の言葉に一度目を見張ると、彼は可笑しそうに笑った。「全然、そんなことないって」
「杉ヶ裏ってどんどん子どもも減ってるし、若者っていったらオレぐらいしか付き合いなかったからさ。オレたち見てると、自分も若返る気になるんだって」
「そんなもんなのか」
「そうそう。だからまた行こーよ。颯介たちも誘って」
虎太郎はすっかり彼らとも仲良くなっていた。一緒に困難を乗り越えた関係ではあるが、共に過ごした時間はまだ短い。大した社交性だ。
「あの時、文也、すぐ寝ちゃったしさ」
「あれはおまえの爺ちゃんも悪いだろ」
「そうだなー。今度はもうちょっと弱い酒用意しとくってさ」
あははと陽気に笑う虎太郎。次こそは酒に飲まれてやるもんかと文也は決意する。
「行ってもいいなら行くよ。ムギにも会いたいし」
「そうそう、ムギもあんなにはしゃぐことって、あんまりないしさ。あいつ、大勢で騒ぐのが好きなんだ。なんか柴っぽくないよなー」可愛らしい柴犬は、既に若者たちに随分懐いていた。文也が早々と寝てしまったあの夜も、立派な仲間の一員としてご馳走を美味そうに平らげた。
一通り話し終わった頃、二人はアイスクリームを食べきり、しばらく海を眺めた。寄せては引いて、引いては寄せて、穏やかな波間は心を落ち着ける。直に八月も終わる。
「オレさ、正直言うと、天方さんがちょっとだけ気になってたんだ」
こめかみをかく虎太郎に、文也は驚いて視線をやった。
「入学式の時さ、可愛い子がいるなーって思って。それでよく放課後に、玄関の前で立ってるのを見つけたんだ。その横にはいっつも文也がいたよ」
「おまえ、桜のこと狙ってたのか」
「ほんの数日だよ。彼女は身体が弱いらしいって噂聞いて、いつも隣に文也がいるのを見て、あー、この人はこの女の子がすっごく大事なんだなってすぐにわかってさ」
近くを通りかかるときに聞こえてくる文也の台詞は、常に桜を心配するものだった。それに対して「ふー、心配し過ぎ」と呆れる彼女の様子を見て、すぐに諦めはついた。
「オレが入る余地なんてまるっきりないってわかったよ。それでさ、文也が同じクラスだって気づいて、こいつ絶対いいやつだってピンときた。あんだけ女の子のこと大事にできるんだし。だから友だちになりたいって思ったんだよ」
虎太郎は桜との様子から、文也が「いいやつ」であることを確信した。だから文也が素っ気ない態度をとっても、あまり気にしなかった。いつか心を開くだろうと気長に付き合えたのだ。
「彼氏じゃないって知っても、どう見ても特別な関係だったからさ。……ちょっと信じられなかったけど」
「まあ、その後で付き合えたしな。桜は可愛いから仕方ない」
「急に惚気るなってば」
二人は笑いながら話をした。それはどう見ても、仲の良い友人同士の姿だった。
店を出て、海沿いを散歩しながらあれこれと話をし、しばらくしてから「オレ、そろそろ帰らないと」と虎太郎は言った。
「うちの犬、今日はオレが散歩させないとなんだ」
「こっちでも犬飼ってるのか」
「うん。コーギー。今度うち来る? めちゃくちゃ可愛いよ」
どうやら犬好きの一族のようだ。そういえば虎太郎自身も、犬のような人懐こさを持っている。今はその顔で歯を見せて笑う。
「またクラスの連中と遊びに行くんだけどさ、文也もおいでよ。楽しいから」
「虎太郎が行くなら行くよ」
「オレがいない所に誘ってるわけないだろ」
「それにしてもよく遊ぶな」
「高校生なんだから、それぐらい許されるって」
文也は、もう少し残って海を見ていくと言った。虎太郎は頷くと、「じゃあ、また明日」と手を振った。それに文也も右手を振り返した。