夏の海辺、奇跡の桜

 翌日には、さっそく夏澄から連絡があった。
 夏澄:それっぽい写真、何枚かみつけたから送るわー。思い当たるのがあったらええけど。
 待っていると、リンクを通して三枚の画像が送信されてくる。
 一枚目の正面には、赤く大きな花を咲かせる木。おそらくこの花を撮ろうとしたのだろう。その向こうには、葉を黄金色に染めたイチョウの木々がある。
 二枚目は、一本の木の幹を随分間近で撮っている。太い木の幹には真横に一本の線が走っていて、これが恐らく彼女たちがつけた傷だろうと窺われる。だがあまりに近すぎて周囲の様子が分からない。
 そして三枚目。思わず文也は息を呑んだ。
 わざわざ集めたのだろう、大量のイチョウの葉の上で、三人の子どもたちが川の字になって眠っている。右側に文也、真ん中に桜。左端は、当時は髪型が同じだったせいでわからないが、双子のどちらかが目を閉じている。三人は一本の木の根元に頭を向けていた。そして黄色い絨毯は写真の一面に敷き詰められているが、左奥には、一枚目で見たのと同じ、赤い花を咲かせた木がある。
「この枕にしてるの、探してるイチョウの木かな」
 saku:きっとそうだよ。よく見て、幹に傷がある。
 目を凝らすと、桜の言う通り、頭を向けている木の幹には一本の傷がある。ズームしてみて、それが二枚目の写真と近しい傷であることがわかった。
「これだ」確信する声が震える。「この木の下に、桜の思い残しがある」
 急いで電話をかけた。すぐに夏澄が出る。
「わかった、この三枚目の場所で間違いない」
「ほんま? よかったー」
「ありがとう、助かったよ」
 会話をしていると、向こうの方で、夏澄によく似た声が「私にも喋らせてよ」と抗議しているのが聞こえた。「もー、うるさいな」文句を言いつつ夏澄が葉澄と交代する。
「葉澄も、ありがとう。見つけてくれて」
「押し入れひっくり返した甲斐があったよ。それで、探しに行くの」
「うん。一応、他のみんなにも伝えてから探しに行く」
「それなら、私も行きたい! ねえ、夏澄」
「行く行く! 文也と桜ちゃんのタイムカプセル見たい!」
「手伝うから、行ってもいい?」
「そりゃあ、手伝ってくれたら助かるけど……」
 彼女たちは随分と手助けをしてくれた。この上更に手伝わせるのは気が引ける。「本当に、いいのか。せっかくの休み潰して」
「こんな面白いことあらへんもん! 行かしてや」
「杉ヶ裏まで来るんでしょー。すぐそこなんだし、手伝わせてよ」
 それならばと、了承した。双子が歓声を上げてハイタッチする音が聞こえる。どこまでも明るい二人だ。
「あたしらいつでも空いとるから。決まったらゆうてね」
 返事をして二言三言会話をし、電話を切る。急いで颯介と虎太郎にも連絡をする。二人とも朗報を喜び、それぞれ薫子と重三に知らせてくれるとのことだった。
 そしてみんな、掘り返すときは誘ってくれと口をそろえたのに文也は驚いた。ここまで自分たちの思い出を気にする相手がいるとは思わなかった。こうなれば最後まで見届けたい、全員がそう思っている雰囲気で、文也にも断る理由などどこにもない。日程を調整し、三日後の日曜日に約束を取り付けた。
 saku:ありがたいね。ふーだけだったらどうにもならなかったよね。
「そうだな。どうしようもなかった」
 各々に連絡を終えて一息ついた文也は、桜の言葉に素直に頷いた。これでやっと、桜は向こうにいける。それが願うべき、彼女の幸福。
 土曜の夜、早めに床に就いたが、少々興奮気味なのか寝つけられない。寝返りを打ち、横を向いて、手探りでスマートフォンを探し、その先のお守りを指ですくう。すっかり手に馴染んだ感触。
 桜は忘れたといった思い出。幼い頃のプロポーズ。あれも、タイムカプセルを埋めた木の下だった。大人になったら、けっこんしよう。そう言うと、桜は嬉しそうに笑って大きく頷いた。

 わたし、ふーちゃんとけっこんする。

 その左手の薬指に、指輪をはめた。おもちゃだったが、自分にとっては立派な約束の指輪だった。桜の細く小さな指にはまだ少しだけ大きく、二人で顔を見合わせて笑い合った。
 それを桜が外してしまったのは、悲しかった。しかし学校で怒られるなら仕方がないと納得した。
「ふーちゃん、ごめんね」
 そう言って涙を流して謝る桜。彼女が庭先でずぶ濡れになっていたのは、そのほんの数日前のこと。
 引っかかりを覚える文也の耳に、電子音が届く。
 saku:ふー、寝られないの?
「桜は寝ないのか」
 saku:意地悪言わないでよ。私は寝られないもん。
「ごめんって。拗ねるなよ」
 彼女の体温を感じる。存在しないはずの温もりが、背中に触れている。小さな桜の背がくっついているのを感じる。彼女は今、すぐ隣にいる。
 だから、振り向けない。見えない事実を、見たくない。
「楽しかったよ。本当に」
 saku:うん。とっても楽しかった。
「俺のところに来てくれて、ありがとうな」
 画面越しでしか話せない桜。死んでしまった桜。この世にいるはずのない桜。
 saku:私のこと、忘れないでね。
「忘れるわけないだろ。変なこと言うなよ」
 楽しそうな笑い声が、聞こえる、気がする。振り向きたい、振り向けない。
 saku:ふーと出会えてよかった。
 saku:私は、そばにいるから。
「桜……!」
 思わず振り向いた先には、誰もいない。なのに、背中の温もりだけがほんのりと残っている。
 その温みが消えないうちに眠ってしまおう。文也は瞼を閉じた。
 颯介と薫子と待ち合わせ、昼前には杉ヶ裏の駅に着いた。そこでは夏澄と葉澄の双子が待っていた。
 五人揃ったところで宗像家に向かう。お盆を迎えた田舎道、家々の玄関先ではナスやキュウリの精霊馬が風情を謳っている。入道雲の湧く空は底抜けに青く、蝉の鳴き声に交じり時折どこかで風鈴の鳴る音が聞こえる。
「おー、なかなか大所帯になったなあ」
 出迎えてくれた虎太郎に続き、宗像家に上がった。縁側に前足をかけ、何ごとかと興奮するムギの姿が庭先にある。
「これ、二人が写真を撮ってたのを、送ってくれて……」
 画面では見づらいので、拡大してプリントアウトした写真を文也は取り出し、座卓に置いた。双子は自分たちの功績に胸を張っている。
「これは、フミと桜ちゃんと……」
「私だよ。葉澄」一緒に写っているのは葉澄で、撮影したのが夏澄のようだ。
「みんな小さいね。すごく可愛い」薫子が写真を見て声を弾ませ、颯介も頷いた。
「フミってこんな感じの子どもだったんだ」
「文也って無邪気だったんだな」
「俺のことはいいんだよ」感心する三人の言葉を遮り、写真に写るイチョウの木を指さす。「ここに傷があるだろ」もう一枚を取り出した。傷のついた幹の写真。「これ、夏澄たちがつけた傷なんだけど、形が同じだから、ここで間違いないと思う」
「木に傷をつけおって」
 重三に睨まれ、双子はそろってぺろりと舌を出した。
 文也は自分たちの写る写真を手に取る。「だから、この風景を辿れば見つけられると思う」
「なにか目印になるものはないかな」颯介が文也の隣で身を乗り出した。
「周りも、ほとんどイチョウの木みたいだね」薫子も写真を覗き込む。「夏澄ちゃん、撮った時のことは覚えてないの」
「流石に覚えてへんなー。いっぱい撮ってたもん」
「ねえ、この花は?」葉澄が写真の隅を指さした。イチョウとは異なる木に、綺麗な赤い花が咲いている。
「サザンカだな」重三が言った。「秋の花だ」
「じゃあ、サザンカがこの角度に見えるイチョウの木を見つけたらいいんだな」虎太郎が嬉しそうな顔をする。「取り合えず、探しに行こうよ」
 虎太郎と重三を含め、さっそく七人で山に向かうことにした。子どもでも上れる小さな山には木漏れ日が差し込み、傾斜も緩やかで穏やかだ。
「空き家があったのは、このあたりだ」
 少し開けた場所で重三が言った。草が生い茂る中を歩きながら、向こうを指さす。「すぐそこが傾斜になってるからな、気をつけろ」
 言葉の通り、小屋から少し西に歩くと、急な下りの斜面が姿を現した。下方の隣町を右に見ながら、緩やかな坂を南に上ると、すぐにイチョウの木が並び始めた。
「これのどれかやなー」
「文也、紙見せて」
 双子が寄ってくるのに、文也は写真を広げる。一本を正面に見て、左手奥にサザンカの木。
「サザンカを探した方が早いかもね」
「この写真、秋みたいだけど。今はサザンカの花って咲いてるの?」
「まだ咲いてないと思うよー。秋の花だから。でも葉っぱを見たらわかると思う、ツバキみたいなやつ」
 颯介と薫子に、容易く虎太郎は回答する。「鞍馬、良く知ってるな」文也が感心すると、彼は満足げな顔をした。「よく爺ちゃんのとこに遊びに行って、聞いてるから」
「気いつけろよ、葉の裏に毛虫がいるかもしれん」
 重三の言葉に、双子は「げー」と嫌な顔をした。「あたし、毛虫嫌いや」「手袋持ってきたらよかった」そう口をそろえる。
 皆で手分けをしてサザンカの木を探す。もともとイチョウの木が多いせいか、「あった!」とすぐに葉澄が声を上げた。
 三メートルを越える木には、パリッとした濃緑色の葉が茂っている。「これだな」と木を見上げて重三も頷いた。
「じゃあ、これを左手に見て……」颯介が文也の持つ写真を覗き込む。後ずさりし、少し斜面を上りながら、文也は一本ずつ写真と照らし合わせていく。腕を伸ばして写真を見て、視線をずらして実際の風景を見て。
 やがてそれらは限りなく一致した。
「これだ……!」幹に手を当て、文也は声を漏らした。
 立派な一本のイチョウの木。当然、双子がつけた傷は見当たらないが、間違いないだろう。当時から大きな木だったが、それは身長が小さかったからだと思っていた。しかしその存在感は今も変わらず、どっしりと八年ぶりの再会を迎えていた。
 今度こそ絶対に見失わないよう、色のついたロープを幹に巻いておく。それから一度山を下りることにした。これからが本番だ。重三の案内で、駅の近くにある定食屋で昼食を摂る。
「なあ、文也。タイムカプセルに何入れたか覚えてんの?」
 隣でうどんをすすりながら虎太郎が話しかける。親子丼を食べる手を止め、文也は眉を寄せて考える。
「確か、手紙だったかな。将来の自分に」
「へー、なんかかっこいいな。なんて書いた?」
「さあ。よく覚えてないけど……」
「でも、もうすぐわかるよ」薫子が言い、文也も頷く。
「そうだなー。楽しみだな」人の良い虎太郎は今日も楽しそうに笑った。

 昼食を終えて少し休憩した後、再び山に向かった。目印をつけていた木を見つけ、文也は持ってきていた鞄からシャベルを取り出す。夏澄と葉澄、虎太郎は家から持ってきていたから、颯介と薫子の分を合わせて三つ。
「なかなか硬いな」颯介が靴先で地面をつつく。乾いた地面は易々とは掘れなさそうだ。「それで、どこから進めたらいいんだ」
「思い出したんだ」
 あの日の記憶が鮮明に浮かぶ。
 桜とは、これからも毎日一緒に遊べるものだと思っていた。だが彼女は違った。明日には母と杉ヶ裏の家を捨てて逃げる。文也とは今生の別れになるかもしれない。幼い彼女は、その運命に抗うべくタイムカプセルを提案し、逃亡の前日に埋めた。その心を考えると苦しくなる。
 夕刻の山の中、楽しい会話をしながらシャベルで穴を掘り、箱を埋め、しっかり土をかけて。二十歳になったら掘り起こそうと約束し、指切りをした。文也は二十歳になるまでの間も、自分たちは一緒にいるものと信じて疑わなかった。しかし「ふーちゃん」と桜は呼んだ。
「わたしのこと、わすれないでね」
 決して泣いてはいなかった。それでも泣きそうな顔で、桜は笑っていた。その頬を西日が朱に染めていた。綺麗な笑顔にただ見惚れた。
 そう、桜はまさにここにいた。
「並んで埋めた後に、隣の桜の方を向いたんだ。俺から見て右側に斜面があって、正面の桜の右頬に夕陽が当たってた」
 文也は顔を右に向ける。下りの斜面の向こうに、陽は沈んでいった。
「だから丁度、西日が当たる位置。だいたいこのあたりだと思う」
 イチョウの木の西側に立った。きっとすぐそばに、タイムカプセルは埋まっている。
「ここまでわかれば、見つかるかもな」
「必ず見つける」虎太郎の言葉に文也は大きく頷く。「それじゃあ、掘るか!」声を上げると、皆の歓声が被さった。
 陽を浴びて乾燥した土を掘り進むのには力が必要だった。
 木を中心に半円を描いて並び、全員でシャベルを地面に突き立てる。熱中症に気を付け、疲れたら交代して水を飲み、再び作業に加わる。
「ミミズ、ミミズが出たー!」
 並んでスコップを握る双子が悲鳴を上げ、「地元だろー」と虎太郎が呆れ声をかけた。
「苦手なものは苦手なの!」
「そんなら虎太郎が追い払ってやー」
 わいわいと賑やかに地面を掘り続けるが、いくら葉が茂っていても真夏の山の中、小さなシャベルで穴を掘り続けると体力を奪われる。柄を握る手が痛くなり、地面につける膝に石ころが食い込む。
「虎太郎くん、そういえばお爺さんは」
 汗を拭って顔を上げた颯介に、虎太郎はそういえばと辺りを見渡した。少し前から重三の姿が見当たらない。
「えー、爺ちゃん逃げた?」
 こんなところで逃げるかよとぶつくさ文句を垂れる孫の虎太郎。「暑いし、しょうがないかもね」と颯介がカバーする。
 しかし、少しすると聞き慣れた犬の声が近づいてきた。ムギを連れた重三が山を登ってくる。
「おまえら、男どもはこれ使って働け」
 持ってきたのは、文也が持ってきたような折り畳みの小さなシャベルではなく、穴を掘るのに本格的な大型のシャベルだった。これを使えば足に体重をかけて掘ることができる。礼を言って、文也と颯介と虎太郎はそれを手に取った。ごめん、と祖父を疑った虎太郎は小さく呟いた。
「まあこいつも、足手まといにはならんだろ」
 長いリードの先を木の枝に引っ掛ける。ムギは思わぬ散歩にはしゃぎ、地面のにおいを嗅ぎ、前足で土を掘っている。
「ムギ、わかっとるみたいやん」夏澄がそれを見て笑う。「案外、ムギが掘り当てたりして」葉澄もくすくすと笑った。
 それから七人で、ひたすら掘り続けた。汗をぬぐい、水を飲み、木陰で休憩し、再びシャベルを地面に突き刺す。
「フミ、ちょっとは休憩しろよ」
「わかってる」
 颯介の心配に頷きながら、文也はほとんど休憩を取らずに穴を掘り続けた。硬い地面は十分に力を入れないと掘り起こせない。汗がこめかみを伝い、頬を流れ、首筋を垂れていく。今日で決着をつける。その思いで、文也は身体を動かし続けた。

 ふーちゃん、タイムカプセルをうめよう。

 桜はどんな気持ちで、誘ってくれたのか。幼い彼女の愛情が痛いほどに胸を刺す。おとなになったら、あけようね。あの日に見た彼女の頬には痣があった。杉ヶ裏での毎日は、桜にとって幸福な思い出だけではなかっただろう。
 ただ、隣に居る桜はよく笑っていた。ふーちゃん、ふーちゃん。いつだってそばにいた。ふーちゃん、だいすき。躊躇わずに、そう口にしてくれた。桜の声で、言葉で言ってくれていた。
 桜は、大切なものをここに置いてきた。ふーちゃんという仲良しとの思い出を、幸せな記憶の欠片を埋めた。誰にも告げずに去らねばならなかった彼女は、大きなヒントを文也だけに教えてくれたのだ。
「今、見つけるから」
 文也は、さくちゃんに伝える。だいすきなさくちゃん。そして、大切な桜。彼女たちを結びつける最後の破片が、ここに埋まっている。
 座り込んだのは、双子だった。諦めるとは決して言わないが、最も年少の彼女たちが疲弊してしまうのは仕方のないことだった。
 次第に陽は傾き、西日が全員の背や頬を照らす。犬のムギも疲れたのか、虎太郎がペットボトルから垂らした水を飲み、地面に伏せて舌を出している。
 薫子を心配し、颯介が手を止めた。彼女は一つ年上なだけの女の子だし、そんな彼女は颯介の大切な人だ。説得して休ませ、颯介がタオルを手渡している。
 イチョウの木の周りには、いまやぽこぽこと穴が空いていた。その中から石が出てくる度に落胆は大きくなった。
 ここだ、ここにあるはず。文也は信じて掘り続ける。
 重三が手を休めて汗をぬぐい、最後に残った虎太郎の動きも重くなっている。誰一人、もうやめようとは言わないが、もしかしたらという疑心は膨れていた。この木の下ではないのでは。なにかが間違っているのでは。こんなに見つからないことがあるだろうか。夏の熱気は、確実に体力を奪い、精神力を削っていた。
 遂に、虎太郎も手を止めた。豆のできた手をペットボトルの水で洗う。「ちょっと休憩」と座り込む。
 文也が地面にシャベルを立てる音が響く。いつの間にかヒグラシが鳴き出していた。強い夕陽が彼の背中をじりじりと焼いていく。文也も焦っていた。今日を逃せばもう機会はない。しかし陽は確実に落ちている。暗くなれば作業はできない。もう少し、あと少しなのに。

 桜はもう、向こうにいかなければならない。いつまでも幽霊として、言葉だけを送る存在にしたくない。

 それだけを胸に思い切りシャベルの先を土に埋めた時、ムギが吠えた。腹の底を震わせる大声で、わんと鳴く。シャベルの先に硬いものが触れるのを感じた。土とは異なるものが埋まっている。
 シャベルを放り、地面に膝をつき、素手で土をかき分ける。指先に、硬くすべすべした感触。現れた銀色は、汚れているが光沢がある。
 爪の隙間に土が入り込み、豆がつぶれ、手に血が滲む。ひりつく痛みに奥歯を噛んで耐えながら、文也は両手で地面を掘った。わんわんと一層、ムギが吠えている。その力強さに勇気づけられるように手を動かす。
 やがて、両手に収まるほどの缶が一つだけ出てきた。側面にイラストが描かれたクッキーの缶。
「フミ……」
 颯介の声に、一度だけ頷く。
「これだ」
 ムギも吠えるのを止め、全員が集まる。「ほんまに出てきた……」と夏澄が驚きの声を零した。これが確かに、桜と文也が八年前に埋めたタイムカプセル。
「文也くん、ここで開ける?」薫子が尋ね、文也はもう一度頷いた。
 指でなぞり、少しだけ土を落として缶の蓋に手をかける。固く閉ざされたそれはなかなか開かない。僅かずつ隙間をつくり、ゆっくりと開く。
 中には水色の封筒が二枚入っていた。
 薄い封筒を一枚取り出す。右下には「つきしろふみや」と書いてある。
「文也が、自分に書いた手紙だ」
「中、なんて書いてあるの」
 虎太郎と葉澄が身を乗り出す。手の土をシャツで拭うと、そっと封筒を開け、中から一枚の便箋を取り出した。
「……おとなのぼくへ。ぼくは、さくちゃんと、いまもなかよしですか」
 文也は手紙を声に出して読む。それは、いつまでも桜と仲良しでいたいという、幼い自分の願いだった。
「ぼくは、さくちゃんがだいすきです。だから、おとなのぼくも、さくちゃんをだいじにしてください」
 幼い文也は、心の底から桜を愛していた。いつまでも一緒にいるのだと信じてやまなかった。身体の弱い桜を大切にして、明日も明後日も来年も十年後も百年後も、いつまでだって隣に居られるものだと思っていた。
 明日には桜との別れが待っているのだとも知らずに。
「ぼくはもう、おとなだとおもいます。だから、さくちゃんとけっこんしてください。ずっとずっと、さくちゃんといっしょにいたいです」
 たどたどしい字で書かれた手紙には、最初から最後まで「さくちゃん」が綴られていた。
「子どものフミも、桜ちゃんが大好きだったんだな」
 颯介が呟き、皆が頷く。文也は手紙を畳んで封筒にしまい、箱に戻した。残るのは、もう一枚の封筒。
「桜、開けてもいいか」
 口に出して尋ね、ポケットからスマートフォンを取り出し、地面に置いた缶の蓋の上に乗せる。全員が固唾を飲んで見守る中、「いいよ」と桜から返事があった。
 saku:ふーに、見て欲しい。
 わかったと返事をして、文也は手を伸ばした。疲労か緊張のせいか、指先が震えているのに気づき、一度強くこぶしに固める。覚悟を決めて手を開き、その右手で封筒を取り出した。
 封筒は少しだけ膨れていた。入っているのは手紙だけではないらしい。下の方には、「しいなさくら」の名前。
 封筒を傾けると、手のひらに小さな箱が転がり出た。それを一度缶の中に入れ、手紙を取り出す。
 拙いが丁寧な桜の文字。わたしへ、から始まっていた。
「わたしは、おとなになれていますか。びょうきは、なおっていますか。ふーちゃんに、またあえましたか」
 桜は自分が大人になるまで生きられない可能性を理解していた。それは、この頃も同じだったようだ。
「このてがみをみつけたのは、ふーちゃんとまたあえたからだと、おもいます。いまも、なかよしですか。けんかは、してないですか」
 自分の声が、桜の声と被って聞こえる。
「わたしは、ふーちゃんが、だいすきです。だから、さよならしたくないです」
 私のこと、忘れないでね。そう言った桜は、心から文也を愛していた。
「もしおとなになれてたら、ふーちゃんとけっこんしてください。ずっと、いっしょにいたいです」
 手紙の見せ合いなどしていない。けれど同じ内容を、かつての二人は手紙に書いている。
「ちゃんと、ごめんなさいしてね。みらいのわたし、げんきでね」
 声が震え、文也の声は掠れて消える。桜は大人になれなかった。二十歳まで生きられなかった。必死に涙を堪える。
「……桜」それでも今、隣にいる。彼女は同じ手紙を読んでいる。腕で目元をぬぐい、文也は問いかけた。「ごめんなさいって、なんのことだよ……」
 正面に置いている画面が点灯し、文字が並ぶ。
 saku:嘘ついてて、ごめんなさい。
「嘘って、なにが……」
 saku:その箱、開けて。
 手紙を入れた封筒を缶に戻し、代わりに小さな箱を手に出した。おもちゃの箱には、鍵穴がある。
 はっとして、文也はスマートフォンから桜のお守りを外した。桜貝がきらきらと光るお守りには、鍵が結び付いている。
 何の鍵なのか聞いたことがあった。しかし彼女はアクセサリーだよと言っていたから、あまり深く考えたことはなかった。
 桜が肌身離さず大事に持っていた鍵を、鍵穴にさす。カチリと小さな音が聞こえた。そっと箱を開ける。
 胸に熱いものがこみ上げて、文也は何も言えなかった。
 中には、指輪が入っていた。
 saku:学校で怒られるからだなんて、嘘ついててごめんなさい。
 saku:本当は、絶対に失くしたくなかったからなの。
 誰かが、「この指輪……」と口にする。その声に文也は、「ああ」と呻いた。
「俺が、桜にプロポーズして、指にはめた指輪だよ」
 saku:お父さんに捨てられて、なんとか見つけたけど、また捨てられるかもって思って。でも、ふーに言えなくて、嘘をついてたの。
 雨の降る庭で、桜は指輪を探していた。父親に捨てられた大事な指輪を探し、病弱な身体も顧みず、涙を隠して探していた。

 かえって。ふーちゃん。

 文也に協力を頼むわけにはいかなかった。大好きなふーちゃんからの指輪が見つからなければ。もしそれをふーちゃんに知られたら。そう思うと、文也に助けて欲しいなどと言えるはずがなかった。
 ばかだよ。さくら。それで俺が、さくちゃんを嫌いになるはずがないのに。
 saku:だから、ここに隠せば、結婚するまで守れると思ったの。
 我慢できない嗚咽が、文也の喉から漏れる。目元を汚れた腕で拭い、懸命に桜からの言葉を見つめる。
 saku:大人になって、私がまだ生きていて、ふーと再会できてたら。この指輪を、また指にはめて欲しかった。もう合わないねって、笑いたかった。
 桜は本気で、文也と一緒になりたかったのだ。だからタイムカプセルを提案し、手紙を書き、こっそり指輪を隠した。ふーちゃんとの未来を信じていた。
 桜はこんなにも自分を愛してくれていた。
 熱い涙がぼろぼろと頬を伝う。指輪を強く握りしめる。そんな将来があれば、どんなによかっただろうか。この指輪を桜の指にもう一度はめる未来があれば、どれほど幸せだっただろうか。
 saku:でも、私はまたふーと一緒にここにいる。
 saku:見つけてくれて、ありがとう。
 それでも、桜とさくちゃんは繋がった。優しくて明るくて前向きな少女は、今も隣にいる。求める未来を得られなくても、いつだって全力で咲き誇っている。
 まるで、満開の桜のような女の子。
「桜に会えてよかったよ」文也も涙を拭って笑った。「今まで本当にありがとう」
 saku:ありがとう、ふーちゃん。
 これが桜からの、最後のメッセージ。
 saku:私と、結婚してください。
 saku:ふー、さっさと宿題しないと、間に合わないよー。
「わかってるって」
 saku:わかってない。昨日も寝落ちしてたじゃんか。不真面目だなあ。
 はいはいと返事をして、渋々学習机の前に座る。文句を口にすれば延々と説教されそうな雰囲気に、だらだらと数学の教科書を開く。
 桜は消えなかった。タイムカプセルを掘り出した翌日の朝、気まずそうに「おはよう」と言った。あれだけのことをしてまだ向こうにいけないなんて、最早心残りの問題ではない気がしてくる。
「お祓いかなあ」シャープペンシルを走らせながらぼそっと呟くと「やだー!」とすぐさま返事がある。
 saku:ふーひどいよ。私、祟ってるわけじゃないのに。
「冗談だって。そんなことしねえよ」
 変わらない様子の桜は、変わらず近くにいる。彼女自身も、あれ以上の未練はなにも思い浮かばないそうだ。それなら本当に、修学旅行や七夕祭りだのといったイベントを全てこなさなければいけないのか。あまりに道のりが遠い。
「そろそろ行くか」
 教科書を閉じて立ち上がり、出かける準備をする。後半の補習授業が始まったが、今日は日曜日だ。
 saku:結局三十分しかしてないね。
「帰ったらやるよ」
 信憑性のない言葉を口にし、文也は家を後にした。
 午前中の部活を終えた颯介に会い、駅前の本屋に立ち寄り、ぶらぶらとさ迷い歩く。小腹が空いた頃、ファストフード店に流れ着いた。それぞれジュースを頼み、ひとパックのフライドポテトを両側からつまむ。
「そういえば、あの指輪、どうしたんだ」
 正面の席で颯介が言うのに、ポテトをかじりながら文也は答える。
「あれな、桜の家に行って供えたよ」
「そっか。それが一番かもね」
 結婚してくれと桜に渡した指輪を、文也が後生大事に持っていてもしょうがない。先日桜の家を訪れた時、自分たちが幼い頃に埋めたタイムカプセルを思い出して、それを掘り起こしてきたのだと律子に話した。おもちゃの指輪を差し出すと、彼女は目を潤ませて礼を言い、可愛らしいと笑った。それでも、流石に手紙は恥ずかしいから見せないでくれと桜に頼まれ、二通の封筒は押し入れの奥に一緒に隠している。
 ただあのお守りは、今もスマートフォンにつけている。桜がふーに渡して欲しいと直接母親に伝えたお守りだ。これは一生大切に持っていようと思う。昔のプロポーズなど忘れたといった桜は、タイムカプセルの鍵を肌身離さず、お守りとして大事にしていた。その桜の想いが詰まった鍵は、今度は自分が大切にする番だと誓った。
 学生や親子連れで賑わう騒がしい店内。ストローでオレンジジュースを飲み、「それにしても」と颯介は首をひねった。
「桜ちゃんは、一体なにが気になってるんだろうね」
「だよなー。もう検討つかねえよ」
「まだ忘れてることがあるんじゃないのか」
「流石にもうないと思うけどな」
「タイムカプセル以上なんて、想像つかないけどね。……それにしても、あの日は楽しかったな」
 タイムカプセルを掘った後、すっかり日が暮れてしまったから、慰労会もかねて重三の家にみんなで泊まった。久々に食べた出前のピザは、やたらと美味しく感じられた。
「俺、あんまり記憶ねえんだけど」ずずずと音を立ててジュースを飲む。
「まあ、フミはすぐに寝ちゃったからな」
「だって酒なんか飲ませねえだろ、普通」
「自分だって興味津々で飲んでたくせに」
 一番頑張ったからと、重三は文也のコップに酒を注いだ。これまで酒と縁がなかった文也も、興味を示したのは事実だった。それでも初めて摂取するには度数の高い酒に、疲れ切った頭と体は簡単に侵食され、気絶するように眠ってしまった。だから皆がどんな話で盛り上がっていたのかよく知らないまま、朝を迎えたのだ。その後、帰りの電車で一人になった時に「おはよう」と桜のメッセージを受信して目を疑ったのが、忘れられないあの日の一部始終だ。
「まあ、何ごとも経験だよ、経験」
「フミの口から出たとは思えないな」
「ふりだしに戻って悪いけど、またなんかあったら頼むよ」
「それはいいんだけど……本当に思いつかないな」
 ポテトを食べ終わり、紙ナプキンで指を拭いて、颯介は文也の手元に目をやった。「それ、桜ちゃん?」
「ああ、いや、違う」
 リンクの画面が見えていたらしい。相手は桜かと尋ねるのに、文也はチャットを彼に見せた。「夏澄と葉澄だよ。なんか、また皆で遊ばないかって。あの子ら、割と楽しんでたみたいだな」
 あの出来事を遊びとしてとらえるなんて、なんとも陽気な双子だ。もしくは、打ち上げがよほど楽しかったのか。「次いつ来るん?」と画面は夏澄の台詞を受信している。
「流石だなあ。フミはどうするんだ」
「楽しみにしてるんなら、行こうかと思ってるけど。そういえば、俺、自分の家がどうなったか見てないし」
「確かに、桜ちゃんの家には行ったけど、フミが住んでたとこも気になるな」
「だろ。それなら、颯介たちも行こうぜ」
 人数を増やそうと提案すると、是非にとすぐさま返事がある。再度繋がった双子との縁は、今しばらく続きそうだ。
「そうだ、薫子さんも、今度フミに会いたいって言ってたよ」
「俺に?」
「この前のこと話したいし、桜ちゃんのことも気になるし。それに、仕上がった作品、出来たら読んでもらえないかって」
「作品って、小説だよな。俺が読んでいいのか」
「彼女、あんまり周囲に公開するタイプじゃなくって、普段は部活繋がりの人にしか見せてないんだけど。新人賞に送る予定だし、部活の外の人に、意見を聞いてみたいって」
「そんでも、俺、大した意見言えないけど」
 読書感想文も苦手な自分が、まともな感想を伝えられるとは思えない。しかし颯介は笑って否定した。
「その方がいいんだよ。僕たちだと、どうしても作る側というか、偏った意見になりがちだし。それが正しいとも限らないからさ。読んで純粋にどう思ったかが知りたいんだ」
「そんなもんなのか」気張らなくていいのなら、その作品にも興味が出る。「俺でいいなら、全然構わないけど」
「そしたら、伝えておくよ」
 颯介たちも、各々の青春を邁進しているようだ。
「フミもなにか書いてみたら」
「冗談言うなよ。俺は読むだけでやっとだよ」
 顔を見合わせて、文也と颯介は笑う。彼らの努力がいつか実を結べばいい。文也は心の底からそう思う。
 後半の補習授業が幕を開け、御浜高校には再び生徒たちが登校を始めた。貴重な長期休暇が終わってしまったことを嘆きつつ、友人たちに会えた喜びに、生徒たちのテンションは上がったり下がったり。それが落ち着き始める一週間後は、補習授業の最終日だった。
 八月二十四日。まだ八月だというのに、翌日からは丸一日の授業が始まる。今日が遊びに行ける最後のチャンスとばかりに、放課後の教室はざわついていた。
「なあ、文也」
 帰り支度をする文也に、少し日焼けした虎太郎が話しかけた。「今日部活休みなんだけど、どっか行かない?」
「ああ、いいよ」
 断る理由が思いつかず、文也は了承した。虎太郎はいつもと変わらない人懐こい笑顔を見せる。
「じゃあさ、アイス食いに行こうよ。海の近く。よく部活の連中と一緒に行くんだ」
 文也と虎太郎は連れ立って学校を出た。話をしつつ十分ほど歩くと、視界には海が広がった。夏の海はきらきらと青く輝き、水平線で空の青と繋がっている。テトラポットも見えない一面の海面は穏やかに波打ち、砂浜には同じように遊びに来た学生たち、所々に小さな子供連れの姿がある。潮の香りが鼻をくすぐり、水面を撫でる風が髪に触れていく。
「爺ちゃん家も山だしさ、海が珍しくてよく通ってたら、すっごい日焼けしたよ」
「それ、部活のせいじゃなかったのか」
「部活もあるけど、終わってからも散歩してたからなあ。照り返しもあるし」
 日に焼けた健康的な腕をさする。こいつも中々に活発だよな、と文也は改めて思う。
 歩道から砂浜を眺めると、在りし日の記憶が蘇った。あれがたった二か月前のことだとは信じられない。車椅子を押す感覚も、明るく楽しげな皆の声も、昨日のことのように浮かんでくる。
 話しながら海沿いの道をゆっくり歩いていると、やがて脇に小さな店が見えてきた。こんなところにアイスクリーム屋があったのか。あの時は車椅子を押すのに夢中だったから、文也は気が付かなかった。
 青い屋根の店に入り、それぞれ一つずつ注文する。店の裏側は日陰のテラスになっていて、海が一望できる。四つあるテーブル席の一つでは女子大学生らしき三人組がお喋りに勤しんでいた。
 端の席に座り、アイスを口にする。甘酸っぱい爽やかな柚子の味。ひんやりと身体を内側から冷やしてくれる。
 いつも通り、虎太郎が話し役に回り、文也は聞き役に徹した。彼もサッカー部を随分と楽しんでいるようだ。
「そういえばさ」パリパリとコーンを食べながら、虎太郎は思いついた顔をした。「爺ちゃんが、また遊びに来いって言ってたよ」
「遊びにって、迷惑じゃないのか」
「迷惑って」文也の言葉に一度目を見張ると、彼は可笑しそうに笑った。「全然、そんなことないって」
「杉ヶ裏ってどんどん子どもも減ってるし、若者っていったらオレぐらいしか付き合いなかったからさ。オレたち見てると、自分も若返る気になるんだって」
「そんなもんなのか」
「そうそう。だからまた行こーよ。颯介たちも誘って」
 虎太郎はすっかり彼らとも仲良くなっていた。一緒に困難を乗り越えた関係ではあるが、共に過ごした時間はまだ短い。大した社交性だ。
「あの時、文也、すぐ寝ちゃったしさ」
「あれはおまえの爺ちゃんも悪いだろ」
「そうだなー。今度はもうちょっと弱い酒用意しとくってさ」
 あははと陽気に笑う虎太郎。次こそは酒に飲まれてやるもんかと文也は決意する。
「行ってもいいなら行くよ。ムギにも会いたいし」
「そうそう、ムギもあんなにはしゃぐことって、あんまりないしさ。あいつ、大勢で騒ぐのが好きなんだ。なんか柴っぽくないよなー」可愛らしい柴犬は、既に若者たちに随分懐いていた。文也が早々と寝てしまったあの夜も、立派な仲間の一員としてご馳走を美味そうに平らげた。
 一通り話し終わった頃、二人はアイスクリームを食べきり、しばらく海を眺めた。寄せては引いて、引いては寄せて、穏やかな波間は心を落ち着ける。直に八月も終わる。
「オレさ、正直言うと、天方さんがちょっとだけ気になってたんだ」
 こめかみをかく虎太郎に、文也は驚いて視線をやった。
「入学式の時さ、可愛い子がいるなーって思って。それでよく放課後に、玄関の前で立ってるのを見つけたんだ。その横にはいっつも文也がいたよ」
「おまえ、桜のこと狙ってたのか」
「ほんの数日だよ。彼女は身体が弱いらしいって噂聞いて、いつも隣に文也がいるのを見て、あー、この人はこの女の子がすっごく大事なんだなってすぐにわかってさ」
 近くを通りかかるときに聞こえてくる文也の台詞は、常に桜を心配するものだった。それに対して「ふー、心配し過ぎ」と呆れる彼女の様子を見て、すぐに諦めはついた。
「オレが入る余地なんてまるっきりないってわかったよ。それでさ、文也が同じクラスだって気づいて、こいつ絶対いいやつだってピンときた。あんだけ女の子のこと大事にできるんだし。だから友だちになりたいって思ったんだよ」
 虎太郎は桜との様子から、文也が「いいやつ」であることを確信した。だから文也が素っ気ない態度をとっても、あまり気にしなかった。いつか心を開くだろうと気長に付き合えたのだ。
「彼氏じゃないって知っても、どう見ても特別な関係だったからさ。……ちょっと信じられなかったけど」
「まあ、その後で付き合えたしな。桜は可愛いから仕方ない」
「急に惚気るなってば」
 二人は笑いながら話をした。それはどう見ても、仲の良い友人同士の姿だった。
 店を出て、海沿いを散歩しながらあれこれと話をし、しばらくしてから「オレ、そろそろ帰らないと」と虎太郎は言った。
「うちの犬、今日はオレが散歩させないとなんだ」
「こっちでも犬飼ってるのか」
「うん。コーギー。今度うち来る? めちゃくちゃ可愛いよ」
 どうやら犬好きの一族のようだ。そういえば虎太郎自身も、犬のような人懐こさを持っている。今はその顔で歯を見せて笑う。
「またクラスの連中と遊びに行くんだけどさ、文也もおいでよ。楽しいから」
「虎太郎が行くなら行くよ」
「オレがいない所に誘ってるわけないだろ」
「それにしてもよく遊ぶな」
「高校生なんだから、それぐらい許されるって」
 文也は、もう少し残って海を見ていくと言った。虎太郎は頷くと、「じゃあ、また明日」と手を振った。それに文也も右手を振り返した。
 文也は一人、低い防波堤に腰掛け、長い間海を見つめていた。足の下ではちゃぷちゃぷと波が立ち、目を凝らすと魚の影が見え隠れする。鞄から水筒を出して喉を湿らせ、再び飽きることなく海を眺めた。海風が優しく頬を撫でていく。
 どれだけそうしていたか。陽が傾きだした頃、ようやく歩道に下りて歩き出す。胸ほどの高さの防波堤。その向こうに広がる海と平行に歩みを進めながら、ゆっくりと駅に向かう。
 そこでようやく、スマートフォンに桜からメッセージが届いていることに気が付いた。返事をしながら歩く指先に、揺れる小さな桜貝がそっと触れる。
 saku:海、綺麗だね。
「そうだな」
 saku:夕焼けの海、私、好きだな。
 右手に広がる海は、いつの間にかオレンジ色に染まっていた。大きな夕陽が水平線の下に潜っていく。ため息が出るほどに美しい光景。
 そして文也は、夢がひとつ叶ったことを知る。桜と二人で海辺を散歩する。もう決して叶わないと思っていたが、桜は隣を歩いている。今まさに、二人きりで海辺を歩いている。夢は、叶った。
 saku:せっかくだし、ふー、泳いだら。
「着替え持ってねえし、無理だよ」
 saku:そっか、ふーは泳げないんだ。残念。
「泳げないなんて言ってないだろ」
 軽口を叩き合う幸せ。これ以上ない幸福感で胸が詰まる。
 思い返せば、桜はたくさんのものをくれた。弱く小さな身体で、とても大きく暖かなものたちをプレゼントしてくれた。かっこよくて、優しい桜。自分の前に再び現れてくれた、愛しい天方桜。
 saku:いろいろあったけど、楽しかったね。
「ああ、ほんとに楽しかった」
 ほら、今も隣に居る。
「あっという間だったね」
「そうだな。一瞬だった」
 桜は、隣を歩いている。
 弾む足取りで、肩を越す黒髪を揺らして、御浜高校の夏服を着た桜が歩く。かつて車椅子で通った道を、今は自分の足でしっかりと辿っている。
「ふーはもう、大丈夫だね」
 桜の真の心残りは、既に文也も理解していた。
 わかっているから、「大丈夫じゃない」と言いたくなった。「俺には、桜が必要だ」そんな言葉が喉元まで出かけた。
 それでも、何が一番大切なのかはわかっている。
「俺は、大丈夫だ」
 声になったのは、そんな台詞だった。
「桜のおかげだよ」
 桜がいれば何もいらないと思っていた。最低限の付き合いがあれば、あとはどうなってもいいとさえ考えていた。だから彼女が死んだ時、絶望の淵に立たされたのだ。世界にひとりぼっちな気がした。彼女のもとにいきたいと思った夜もあった。
 しかし、月城文也を何よりも心配していた天方桜は、奇跡を起こして助けてくれた。たくさんの縁を生んで、前に進む気力を取り戻させてくれた。
 桜の心残り、思い残し、最後の願い。それは、ふーがみんなと一緒に生きていくこと。
「よかった」
 立ち止まり、桜がにっこりと笑うのが見える。髪が夕焼けで橙に染まっている。なんて綺麗な女の子なんだろう。
「私は、これからもそばにいるから」美しく潤む瞳を細めて笑う。「だけど、ずーっと先にまた会えたら。いろんな話、たくさん聞かせてね。私はいつまでも待ってるから」
「ああ」文也も笑った。「ありがとう、桜」
「こちらこそ」桜は愛らしく微笑む。「ありがとう、ふー」
 八月の海に、満開の桜が咲くのを文也は目にした。四十九日の奇跡に形作られた桜。精いっぱい生き、輝いた命の桜。
「元気でね」
 鈴の音のような優しい声が、凛と響く。
「ふー、大好き」
 それは静かな余韻を残し、晩夏の夕暮れに消えていった。

 彼女の姿が見えなくなると、文也は静かに空を仰いだ。深く壮麗な夕焼け空。見ててくれよ、と声をかける。
 やがてゆっくりと歩き出す。澄み渡った晴れやかな心で、彼女の軌跡を胸にしまって。
 奇跡と共に、夏は終わりを告げていく。

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