「幽霊ってさ、どうしたら成仏すると思う」
「幽霊?」
 夕飯の支度をしながら、母親は聞き返した。味噌汁の具材を切りつつ、「幽霊ねえ」と器用に考えている。「よく知らないけど、どうしたの急に」
「いや別に、なんとなく」リビングのテレビを点けながら、文也は何でもない顔をする。桜がここに居るからと言えば、確実に頭がおかしくなったと認定される。
「そうねえ。お祓いとかじゃない」
「お祓いって、テレビとかでやってるやつ?」
「そうそう、神社とかお寺でやるみたいじゃない」
「あれってヤラセじゃないの」
「さあ、わかんないけど」母は忙しなく、鍋に人参や大根を投入する。「少しぐらい本物もあるんじゃないの。神様とか幽霊とか、昔から話があるんだから、多少は根拠があるのかもね……そんなことより、あんたお風呂洗ったの?」
 心霊現象云々よりも、母は風呂場の汚れが気になるらしい。逆らって夕飯を抜かれても困るので、文也は渋々風呂場に向かった。

 夕食や風呂を済ませた後、部屋で提案してみたが、案の定「いやだ」と桜は拒否をした。
 saku:やだよー。私、悪い幽霊じゃないのに、お祓いなんてやだ。
「だよなあ」文也も同意する。お祓いをすれば桜も向こうにいけるかもしれないが、それは違う気がする。誰かを祟っているわけでもないのに、彼女が嫌々だか無理矢理だかでこの場を去るのは不本意だ。
 saku:もしかして、私がいるの迷惑だったりする?
「そんなわけねえよ。まあ、このままなのは良くないとは思うけど……。桜が納得して自分から向こうにいくのが一番だと思う」慌てて文也は、迷惑という彼女の言葉を否定した。「お祓いなんて俺も嫌だし、桜も嫌ならしたくない」
 saku:なんとかして、思い残し、探さないとね。
 そうはいえど、桜はいつも一生懸命生きていた。後に悔いることのないよう、病弱な身体でも可能なことは自分の力でこなし、いつだって全力で過ごしていた。「いつ死ぬかわからないから」。中学生時代、そんな言葉を笑って彼女が口にした時、文也は桜を尊敬し、同時に怒りと悲しみを覚えたものだ。「死ぬ」という言葉を口にして欲しくない、意識して欲しくない。そんな幼稚な想いで複雑な感情を抱き、上手に笑い返せなかったのを今でも覚えている。あの頃から桜は強く、いつも前向きだった。だから現世に縛られる思い残しが、なかなか思い当たらない。
 そうして片っ端から記憶を辿っていたせいか、その夜、文也は夢を見た。

 雨のそぼ降る杉ヶ裏。時刻はまだ夕暮れ時なのに、空には一面に雲が広がっていて、随分と暗かった。何かのお使いの行きか帰り。傘をさして長靴を履いて、小学校低学年の自分は歩いている。夜がすぐそこまで迫っている気がして、雨音に背中を押されるようにして、水たまりを避けて行く。心細く、背を追う闇が恐ろしく、足早に家々の合間を縫う。
 赤いポストを通り過ぎて、はたとその足を止めた。
 何度も訪れた家の前、見慣れた細い背中を見つけて立ち尽くした。
 幼い桜が、自身の家の庭にいる。雨の降る暗い夕刻、傘もささずカッパも着ずに、俯いてうろうろしている。隅に生える草をかき分け、小さな体で重いプランターをずらし、縁の下を覗き見ている。
 一生懸命、何かを探している。
 身体の弱い桜が、ずぶ濡れになって探し物をしている。風邪をひくかもしれない。彼女が昨年の冬、風邪をこじらせて街の病院に数日間入院をしていたのを思い出す。不安で心配で、毎日でも見舞いに行きたいと駄々をこねた。桜が無事に戻ってきた時は、安堵で泣いてしまった。それぐらい大好きな彼女。
 だから雨に濡れれば、彼女はまた体調を壊してしまうかもしれない。幼い頭でも容易にそれは想像できたから、文也は声をかけた。
「さくちゃん」
 傘の柄を握りしめて声をかけると、桜はやっとこちらに気が付いた。泥でよごれた顔を向けて、頼りなく細い声で返事をした。
「ふーちゃん」
 今にも泣き出しそうな桜。いや、雨に隠れていただけで、本当は既に泣いていたのかもしれない。そのことに気づけず、ただ彼女を助けたくて、てつだうよと言いかけた。だからさくちゃんは、お家にかえって。かぜひかないで。
 その言葉が出るのを遮るように、彼女はきっぱりと言った。
「いいの」
 まだ何も言っていなかったが、桜は文也が手助けしようとしているのを察した。だが、それを拒む台詞を、ずぶ濡れの桜は口にする。前髪が額に張り付き、サンダルを履いた足も泥まみれだ。それなのに、桜はきっぱりと言った。
「かえって。ふーちゃん」
 細い声は、鋭く重く、文也の心に突き刺さった。どうして、と文也は言えなかった。あまりに彼女が毅然としていたからか、その言葉に深い意味がこもっているのに気づいてしまったためか。一層強く傘を握り締め、後ずさった。
 そして逃げた。彼女が背負っている影が恐ろしかったのか、その言葉がショックだったのか。夕闇の満ちる杉ヶ裏を、必死で文也は走った。
 雨に濡れてこちらを見つめる桜の姿が、いつまでも瞼の裏にあった。

 はっとして、目を覚ます。雨音は夢の中の音だった。それでも身体が濡れている気がして、そっと腕をさする。目覚まし時計に目をやると、時刻はまだ朝の四時。
 大きく息を吐いて、暗い天井を見上げ、夢の続きを思い出す。あれは夢というより、記憶だ。暗い雨の日、庭で探し物をしていた桜。その彼女から逃げた自分。あのあと、一体どうしたんだっけ。
 唐突な通知音に驚き、寝たまま背筋を伸ばした。
 saku:ごめん、起きてるみたいだったから、いいかなと思って。
「いいよ。ちょっと昔の夢見てただけ」
 そういえば、桜は眠ることができない。一人きりで過ごす夜、彼女は寂しいだろうなと思う。
 saku:私の思い残し、きっとこれだよ。
 文也も、なんとなく理解していた。幼い頃の記憶をたぐり、これしかないと思い至った。
 saku:タイムカプセル。八歳の時に、二人で埋めた。
 あれがきっと、桜がこの世に留まる思い残し。心残りだ。