桜は、文也に別れを告げた後、母親の元に向かっていたそうだ。だから声にした呼びかけに応えられなかった。彼女自身も、夜明けまでに自分はこの世から消えているだろうと思っていた。
「犬のことは、もう納得しただろ」
 文也の問いかけに、桜はそうだと言う。
 saku:ムギくんの心配は、なにもしてないよ。
 saku:私の心残り、これだけじゃなかったのかなあ。
 なんだよ、俺なんか泣いたんだぞ。そうは言わないまま、文也は少しだけほっとしてしまい、その思いを懸命に否定した。これでは、桜に良くない。きちんと送ってあげなければ。
 慌てて連絡をする。朝方の電話に怒ることなく、「ムギのことじゃなかったんだ」と颯介も驚いていた。彼もすっかり、桜はもう居なくなったものだと思っていた。
「それじゃあ、一体なんなんだろう」
「他に重大な未練があるってことだよな」
「きっとそういうことだね」
 不思議そうな彼との電話を切り、文也は考える。桜もそばにいるらしい。
「桜、たくさん心残りがあるって言ってたよな」
 saku:うん。夏休みでしょ、修学旅行でしょ。七夕祭りも。お母さんと出かけたり。そうだ、またみんなで海行きたい。クリスマスも友だちとなにかしたかったなあ。
「なんか増えてないか」
 以前に聞いた時と違う心残りが生まれている。若い桜には、やりたかったことがいくらでも溢れてくる。自室を出て、ダイニングキッチンのテーブルについて少し遅い朝食を食べながら、文也は途方に暮れた。母親はパートに出かけている。
「それ全部、解消するわけにはいかないしな」どれだけ時間がかかるかわからない。その間にも、やりたかったことはあれこれと出てくるだろう。
 saku:私、わがままなのかなあ。
「そういうわけじゃないと思うけど」
 しかし一番悩ましいのは、桜がこのまま幽霊としてさ迷い続けることだ。解決のためには一体何をすればいいのだろう。授業中よりもはるかに頭を悩ませながら、文也はトーストをかじった。