声が掠れるほど泣いて、時間をかけて辛うじて涙を止めた文也は、なんとか電車に乗って家路についた。歩いている間にも、もう桜の家から御浜駅に歩くこともないんだなと思うと、景色が滲んだ。人目も気にせず腕で目元を拭い、鼻をすすって奥歯を噛み締めた。
住宅が立ち並ぶ閑静な橘(たちばな)町。変哲のないマンションの五階に帰った頃には、すっかり陽は傾き、どこかでヒグラシが鳴いていた。
泣き腫らした文也の横顔に、母親は食事を促さず、作ったばかりの夕飯にラップをかけた。
文也の父親は、単身赴任で県外に住んでいる。転勤が決まった時、父はついて来て欲しそうな顔をしていたが、妻子に無理強いはしなかった。文也も、桜や颯介のいる学校を離れるのは絶対に嫌だと主張した。既に中学二年生になっていた息子の心情を尊重し、彼には小学生の頃に一度転校を経験させている負い目を感じ、両親は父親だけ県外に出ることを選択した。
母と息子しかいない家の中は、今は随分と静まり返っている。足音さえも憚られる静寂が満ちている。
自室に戻ると力を振り絞って布団を敷き、文也は倒れ込んだ。もう一生分泣いた気がするのに、まだ熱い雫が瞼の隙間から零れてくる。彼女が若くして亡くなった悲しさや悔しさが溢れてきて、嗚咽が漏れる。大好きな彼女の死に目にも会えなかったことを思い出し、強く目を閉じ、咽び泣く。
泣き疲れて眠ってしまうなんて、思い出せないほど久々のことだった。
目を覚まし、ぼんやりしながら、天井の照明を見上げる。泣きすぎたせいで瞼が腫れぼったい。起き上がる気にもなれないまま、文也はただ仰向けに横たわる。
これからどうすればいいんだろう。
思考の霧はなかなか晴れない。霞がかった景色に、自分一人だけ取り残されているような気がする。桜がいれば、いつだって景色は色鮮やかだった。彼女を中心に、あらゆるものが新鮮で輝いて見えた。だから今は、灰色に燻った世界でどうやって生きていけばいいのか、それさえわからなくなっている。
ズボンのポケットに手を入れ、貰ったばかりのお守りを取り出した。組み紐の先に、小さな鍵と、小さな桜貝。桜を守ってくれるんじゃなかったのか。そう文句を言いたい半面、彼女がいつも大切に持っていたこれが、自分のてのひらにある悲しみが押し寄せる。洗って磨いたのだろう、貝殻はきらきらとして美しい。まさか、自分が拾ったこの桜貝が、再び自分の手元に戻ってくるだなんて、微塵も思わなかった。
お守りを枕元にそっと置き、反対のポケットからスマートフォンを出した。スイッチを押し、光る画面で今が午後の十時を過ぎていることを知る。四時間以上寝ていたことに、随分と疲れていたのだと気が付いた。
それでも起き上がる気力がなく、寝転がったまま指を滑らせアルバムを立ち上げ、写真を見返す。滅多に写真など撮らないから、枚数は少ないし、貰いものも多い。桜は恥ずかしいからと言って、記念の写真以外は、あまり撮らせてくれなかった。
薫子が送ってくれたのが、直近の写真。
海辺の公園で、四人で撮った記念写真。三人掛けのベンチに無理に四人で座り、窮屈ながらもみんな笑っている。この時に戻れたら、桜に忠告ができるのに。そんな仕方のないことを思う。
そして、自分と桜、二人だけの写真が五枚。ピースをしたり、万歳をしたり。不器用な自分は笑って写真に写るのが苦手だが、この日はうまく笑えていたように思う。桜は言わずもがな、いつも通りの可愛らしい笑顔だ。
ほんの先月のことを、何年も前の出来事のように感じながら、文也は最後の写真をじっと見つめた。
触れるだけのキスの写真。後ろには紫陽花が咲いている。この時の緊張は凄まじかった。心臓が破裂して壊れてしまう気がした。こうでもしないと本当に前進しないからと、後に颯介たちは言っていた。後押しがありがたい反面、このカップルには永遠にかなわないなと思った。
幸せだったのに。あんなに幸せだったのに。文也は枕に頬を押し付けたままため息をつき、途方に暮れる。これから桜のいない日常が待ち受けているのに嫌気がさす。
アルバムを閉じようと指をスライドさせたとき、ぽんと通知が届いた。画面の上に一行、「新着メッセージがあります」。文也は何も考えず、その一文に触れてリンクを立ち上げた。
トップ画面に、やり取りできる相手のアイコンが並ぶ。未読のメッセージが届いている場合、その相手のアイコンが緑色の枠で囲まれ、一番上に現れる仕組みになっている。
今しがたメッセージを送ってきた相手を確認し、思わず「えっ」と声を漏らして目を見開いた。
桜の花びらの写真。それを丸く切り取ったアイコンが緑の枠に囲まれ、新着メッセージがあることを表している。
あり得ない、不具合だろうか。不思議に思いながら、アイコンに触れてみる。
saku:久しぶり。今日は来てくれてありがとう。
飛び起きて、メッセージを凝視した。人違いかとも思ったが、「saku」の名前を使い、桜の花びらをアイコンにしている人物は、彼女しか登録されていない。現に、亡くなる数日前までのやり取りが、同じ画面にそのまま残っている。
saku:いつの間にか、すっかり夏になったね。
目の前で、次のメッセージが追加される。
「なんだ、これ……」
顔が引きつり、声が掠れる。頭が混乱する。確かに、桜は亡くなった。死んでしまったのだ。リンクを使うことなど出来るはずがない。
saku:今年の夏も暑いのかな。
呆然と画面を見つめていた文也だったが、ふつふつと怒りが込み上げてきた。どう考えても、これは誰かのいたずらだ。それもかなり悪質な。月城文也がこれ以上なく悲しんでいることを知っている者が、天方桜になりきってメッセージを送っている。ふざけんな、と文也は呻いた。
ふー:誰だ、おまえ。
打ち込んで待っていると、すぐに返事がくる。
saku:誰って、私だよ。
ふー:だから誰だよ。
saku:覚えてるでしょ、桜だよ。
「いい加減にしろ!」
怒鳴りつけ、興奮のあまり息を切らす。ひどすぎる、と思った。まるで桜が生きているかのように振舞って、知らない誰かは自分をからかっている。怒るのはまさに相手の思うツボだろうが、冷静でなんていられない。
誰かがこの様子を見て笑っているはずだと、窓に寄って外を確認する。五階の高さだから、一戸建ての家からでは覗けないだろう。それならマンションか。斜向かいに見える八階建てのマンションに目をやる。こちらには部屋のベランダではなく玄関のドア側が向いているから、廊下に出て双眼鏡でも使わない限り、そうそう覗き見は出来ない。そして今、電気の灯る廊下には人っ子一人姿はない。
不気味に思いながら、それでもカーテンを閉めた。手元でスマートフォンが振動する。
saku:ごめん、びっくりさせて。
saku:でももう遅いから、大きな声はだめだよ。
絶句し、やがて唇を軽く舐めた。相手は、さっき自分が怒鳴ったことを知っている。まるでこの部屋にいるかのような言い草だ。
気味が悪くなり、スマートフォンを布団に放り投げた。この様子も誰かに見られているのだろうか。寒気を覚えて部屋を出た。
食べれるだけ、食べなさい。リビングに居た母がそう言って寝室に引っ込む。夕飯を食べに出てくるのを待っていてくれたらしい。あれこれと詮索されないことが、ありがたい。
テーブルについて、皿のラップを外し、箸を取る。サバの味噌煮をほぐし、白飯と共に少しずつ口に運びながら考えるのは、先ほどの奇妙な現象のことだった。
桜の真似をして、一体誰がメッセージを送ってきているのか。
彼女のスマートフォンを触れる人物として、まず思い浮かぶのは母親である律子だ。
しかしとてもじゃないが、文也には彼女がそんな真似をする人間だとは思えなかった。つい数時間前にも、律子が桜のために泣いているのを目にしたばかりだ。母娘二人きりの生活で、いつだって二人は互いを大事に思いやっていた。母親が死んだ娘になり替わって、娘の幼馴染にメッセージを送るなど、あまりに不可解で非常識だ。物理的な可能性が高いのは彼女だが、そんな気の触れた行動を取るとは思えない。
大きな声はだめだよ。あのメッセージは相手が声を荒げたことを知らなければ送れない。
それならば、自分の母親か。部屋から漏れた声を聞いていた可能性はある。
しかし即座に、文也はその考えを打ち消した。機械音痴で、息子や夫に教えられてようやくネット通販を覚えたばかりの母が、他人のアカウントを乗っ取る真似など出来るはずがない。もし母が犯人であれば二重の意味で驚愕するが、動機もなければ技術的にも不可能だ。
もやもやが胸の奥に滞留して、食欲はまるでない。なんとか白米を一膳平らげたが、半分残った味噌煮も、手つかずのほうれん草の和え物も、再びラップをして冷蔵庫にしまった。中では、小鍋に入った味噌汁が冷えている。
茶碗を洗い、しんとした室内を移動して、風呂場でシャワーを浴びる。少しだけ温度を下げた湯にあたると、未だにぼんやりしていた思考が僅かに目を覚ます。服を着替えて髪を乾かしながらあらゆる可能性を模索したが、どれもしっくりこない。納得できる可能性は、一つだけ。
あれが本当に、天方桜だったら。
「ばかじゃねーの」
呟きは、ドライヤーの音にかき消えた。それこそ納得できやしない。死んだ人間がスマホをいじってるっていうのか。あり得ねえだろ。
桜に会いたいあまり、都合の良い夢でも見ているのでは。今まさに、夢の中にいるのでは。そうも思ったが、食べたばかりの味噌煮の甘みも、シャワーの水滴が皮膚にぶつかる触感も、髪を乾かすドライヤーの熱感も、あまりにリアル過ぎる。夢で味わえるものではない。
どこか緊張しながら自室に戻った。部屋の様子は何一つ変わらず、丸まった毛布の上には投げっぱなしのスマートフォンが乗っている。
布団の上にあぐらをかき、それを手に取り、ボタンを押す。通知が一件。「新着メッセージがあります」。
リンクのトップ画面で確認する。もちろん、送信者の名前は「saku」。意を決し、そのアイコンに触れる。
saku:明日も学校だね。そろそろ終業式かな。
口元に左手を当て、右手の機器を見つめる。これは桜じゃない。桜は死んだのだ。そう自分に言い聞かせ、それでも現実を否定する文を打ち込んだ。
ふー:本当に、桜なのか。
少しの間が空き、返事が来る。
saku:そうだよ。
ありえない。桜は死んだ。通夜も葬式も終わった。今日は線香をあげに行った。もうどこにもいない、はずだ。
ふー:それなら、おまえは今、どこにいるんだ。
あの世だとか天国だとか、そうした話は詳しくない。それでもこの事態が普通でないことは理解できる。
睨みつける画面が表示する一文を見て、びくりと身体を震わせた。
saku:ふーの部屋。
咄嗟に、周囲に視線を巡らせる。もちろん、自分以外の人がいるはずもない。六畳間に人が隠れるスペースはなく、立ち上がって押し入れも開けてみたが、当然だれもいない。
saku:そんなに怖い顔しないでよ。
もしかして、隠しカメラでもあるのか。それとも本当に、桜の幽霊が近くにいるとでもいうのか。
ふー:なら、机の上には何がある。
saku:数学の参考書とノート。宿題、やりかけなのかな。
壁に背を当てている学習机を睨みつける。今日の午前中に、課題をやりかけていてそのままだ。科目は数学。
あそこに桜が立っているのか。ますます混乱していると、スマートフォンからの通知音。
saku:私も信じられないよ。だって、死んじゃったんだもん。
騙されるもんかと腹に力を入れるが、その相手も手口も見当がつかない。途方に暮れて、布団の上に戻って座り込む。
ふー:杉ヶ裏にいたとき、桜の隣の家が飼ってた猫の名前は。
なりすましも、これで尻尾を出すはずだ。文也はそう思ったが、返事が来るのは早かった。
saku:ココ。三毛猫の女の子。
思わず呻いた。幼い頃の自分たちを可愛がってくれた隣人は、ココという名前の三毛猫を飼っていてよく触らせてくれた。穏やかなメス猫。このことは、仲良しの颯介にさえ話しておらず、恐らく両親も覚えていない。記憶に残っているのは、何度もココと遊んだ自分たちだけだろう。
「嘘だろ……」
saku:嘘じゃないよ。
まるで自分の声を隣で聞いているかのような返事。まさか本当に、桜の幽霊がこの部屋にいるのだろうか。
saku:やっぱりふーには、私が見えないの?
もう何度目かわからないが、部屋の中を再度見渡す。見飽きるほどに見慣れた自分の部屋。そこには自分以外の影さえない。
「見えない」ふと思い、いるはずのない桜に問いかける。「俺の声、聞こえてるのか」
saku:聞こえてるよ。全部見えてる。でも、ふーは私の声が聞こえないし、姿も見えないんだね。
ごく自然な彼女の話し方に、恐ろしさは少しずつ薄れていった。ただただ混乱してしまう。
「どういうことだよ。桜、スマホ持ってるのか」
思わず、桜と呼びかけてしまう。
saku:持ってる。リンクが入ってて、ふーの名前だけが残ってる。
それで今、文也と連絡が取れているそうだ。
どう考えても、他人のなりすましと捉えるべきだ。しかし相手は、二人しか知り得ない情報を持ち、文也の言動を言い当てる。なにより、その話し方が桜そっくり、いや、桜そのもので、数えきれないほどやり取りをした文也でさえ違和感を覚えない。
saku:ふー、いっぱい泣いてくれてたね。嬉しかった。
相手はそんなことを言ってくる。まるでその現場を目にしたかのように、文也が先ほど号泣したことを言い当てる。
あまりに不思議で疑問は尽きないが、いつの間にか恐怖はすっかり消え去っていた。
気づけば、朝になっていた。
電気を点けたまま、知らないうちに眠っていたらしい。布団の上で伸びをして、大きく欠伸をする。そして文也は、思い出した。
頭の横に転がっていたスマートフォンを見つける。昨夜のことは、夢だったに違いない。桜に会いたいと望んでいたから、理想的な夢を見ていたのだ。死んだ人間が機械を使って話しかけてくるなんて、そんな話あるわけがない。
妥当な理屈を肯定するために、リンクから桜のアイコンに触れた。
数時間前までのやり取りが、全て残っていた。
saku:起きた?
電車に乗っていると、そんなメッセージが届いた。家を出る前、文也は自室で何度か桜の名前を呼んでみた。キッチンの母に聞かれるとついに頭がおかしくなったと思われそうだから、声を潜めて。しかしその時、返事はなかった。
だが今現在、通学途中の電車内で、機械は新たな文言を受信する。
saku:もう学校に行ってるかな。遅刻しちゃだめだよ。
ふー:今、どこにいるんだ。
saku:私の家。お母さんが心配で、帰ってみたの。けど、私のこと、お母さんはわからないみたい。
この桜は手元に自分のスマートフォンだけを持っていて、その中にはリンクしか入っておらず、更に文也の名前しか登録されていないという。夕べはいろいろと話をしたが、相手は本物の桜だとしか、文也には思えなくなっていた。猫のココの記憶をはじめ、そうでなければ辻褄の合わない話がいくらでも出てくるのだ。
それとも遂に、自分の頭はおかしくなったのか。桜が死んでしまった現実を受け入れられず、架空の桜を作って話をしている。この画面も幻なのかもしれない。
確かめなければならない。これは桜のふりをした偽物か、それとも桜の幽霊か、はたまた作り上げた幻か。
あのお守りは、スマートフォンにしっかり結び付けている。それを指先ですくい、強く握りしめた。
昨日は散々泣いたうえに夜更かしをしたおかげで、授業中もうっかり眠ってしまいそうになる。あれは本当に、桜の幽霊なのか。もしそうなら、彼女は今どこにいるのか、スマホは新たにメッセージを受け取っているのではないか。考えるのも、そういったことばかりで、気が気ではない。
ふー:今、どこにいる?
試しに、昼休みに朝と同じ文言を送信してみる。相手はすぐに返信する。
saku:通学路、散歩してるよ。この時間に外を歩けるのって、なんか新鮮だね。
平日の昼間の散歩を楽しんでいるらしい。そんな無邪気なところが、いっそう桜を感じさせる。
混乱して思考があやふやなせいか、文也はうっかり口走ってしまった。
「桜って、本当に死んだよな」
正面で購買のパンにかぶりついていた虎太郎は、口を半開きにしたまま目をぱちくりさせている。それを飲み込むと、気まずそうに言った。
「……文也、大丈夫?」
その顔を見て、しまったと思う。「いや、その……」器用な言い訳が思いつかない。
桜を知らない虎太郎に、彼女の幽霊から連絡があったなどと話すのは気が引ける。変な気を遣わせて困らせるのは本意ではないし、第一そこまで親しい仲ではない。
「疲れてんだって」虎太郎は苦笑した。「もうすぐ夏休みだし、ちゃんと休んどけよ」
曖昧に文也は頷いた。季節はすっかり夏になっていた。
週の終わり、終業式によって一学期は終わりを告げた。御浜高校の夏休みには、前半と後半にしばらく午前のみの補習授業が組み込まれている。終日の休暇はその間だけというわけだ。とはいえ一学期が無事に終わったことに、学校中がどこか浮足立っていた。
この日の夕方、文也は颯介と薫子に会う約束をしていた。桜の幽霊の話が出来るのは、彼らしかいない。最初は颯介だけに電話をかけたのだが、彼は薫子も交えて話がしたいと言った。
「薫子さん、そういうのに詳しいはずだから」
信じられない話に戸惑いながらも、神妙な口ぶりで彼は金曜の夕方に会おうと約束した。彼女は以前に幽霊が出てくる作品を書き、その時にいくらか調べていたから、自分たちよりも知識があるだろうとのことだ。文也も、二人よりも三人の方が解決の糸口が掴めるだろうと同意した。
この日は三人とも高校の終業式の日だったが、颯介と薫子は放課後にそれぞれ文芸部の活動があった。時折、他の高校や中学とも交流があり、二人はそうした活動で出会った。読書感想文ですら億劫な文也にしてみれば、授業以外で文章を書きたがるとはなんて真面目な趣味だろうと思う。だが、「絵を描いたり音楽を作るのと同じだよ」と颯介は言った。自分で作品を作り上げる楽しみは、変わらないそうだ。小説は書くものでなく読むものとしている文也は、それでも感心する。
午前中に終業式を終えた文也は、買ってきた弁当を食べた後に約束の時間まで図書室で時間を潰した。
saku:ふー、意外と真面目じゃん。
最中、そんな軽口が届く。桜は今も近くにいるらしい。静かな図書室に相変わらず姿は見えないが、不思議な気持ちになる。
陽が傾き始めた頃に学校を出て、電車に乗り、互いの中間地点の駅で降りた。夏の午後四時半の熱気に汗をぬぐいながら、駅ナカのファミリーレストランを訪れる。席を案内されて五分も経たないうちに、二人も店にやって来た。約束の十分前。相変わらず真面目なカップルだ。
「文也くん、待った?」
「ううん。全然」
「今日も暑いね。すっかり夏だな」
それぞれ声を掛け合う。ボックス席の窓側に薫子が座り、その横に颯介。彼の向かいに文也の位置取り。飲み物を注文し、それが届いた頃、文也は本題を切り出した。
「確認したいんだけど、桜は本当に死んだよな」
向かいの二人は顔を見合わせる。「そうだよ。桜ちゃんは、亡くなった」きっぱりと颯介が言うのに、文也も頷いた。
「フミ、電話で言ってたけど。桜ちゃんから連絡があったって」
期待通り、颯介は馬鹿にするでもからかうでもなく、真剣な表情をしている。だから文也は、彼と何年も友人でいるし、これからもそうでありたいと願っている。
「この前の日曜、線香あげに行ったんだ」
颯介には電話で伝えていたが、改めて二人に事情を説明した。彼らは神妙な面持ちで聞いているが、やはり幽霊話は鵜呑みには出来ない。
「その画面、見てもいいかな」
薫子の言葉に、文也は操作したスマートフォンをテーブルの上に乗せた。画面には、桜との会話の履歴。彼らは顔を突き合わせてそれを覗き込み、指先でスクロールする。約六日間のやりとりがずらりと並ぶ。
「これ、存在してるよな。俺の幻覚じゃないよな」
「うん。幻覚じゃないよ」颯介の台詞に、文也はほっとする。「正直、最初に聞いた時は、フミの幻覚とか妄想とか、そういうのかと思ったけど」
「桜ちゃんの姿は、視えたりしないんだよね」
「視えないし、話しかけてるらしいんだけど、声も聞こえない。向こうには、こっちが見えてるし声も聞こえてるっていうけど」
「今は、桜ちゃんがどこにいるのかわかる?」
薫子の質問に、文也はスマートフォンの画面に指を滑らせた。
ふー:今、どこにいる?
送信ボタンを押す。三人が固唾を飲んで見守る中、返事が来た。
saku:ふーの隣。
仰天し、颯介と薫子は文也の横を見つめた。誰もいない空席。だがそこに、桜はいるという。
「な。ほんとに返事が来るだろ」
文也の言葉に、二人は画面と空席を交互に何度も見やり、信じられない事象に目を丸くしている。
saku:二人とも、久しぶり。ふーに付き合ってくれてありがとう。
その間にも、新たなメッセージを受信する。颯介はきょろきょろと店内を見回す。
「俺も思ったよ、誰かが桜の真似をしてるんじゃないかって。でも、そんなやつどこにもいないんだ」
「文也くんが、私たちを驚かそうとするわけないしね……」困惑しながらも冷静に努める薫子。
それから文也は直接隣に話しかけたが、その度に相手は機械を使って返事をした。その様子に、腕を組む颯介は「じゃあ」と切り出す。
「僕らの声も、聞こえてるの」
saku:聞こえてるし、見えてるよ。
「それなら、質問させてね。中学時代に、フミがテストで取った最低点は」
saku:英語の十四点。
「やめろ!」
思わず文也は声を上げた。桜と颯介しか知らないテストの点数。あれは折り畳んで部屋に隠し、親にも見せていないから、三人だけの秘密だった。「本当に、桜ちゃんだ」颯介は感心している。
「でもどうして、桜ちゃんはここにいるんだろう」薫子が不思議そうに首を傾げる。
「俺も見当つかなくてさ、なんでだと思う」
うーん、と二人は考え込む。「桜ちゃん、なにか思い当たることはある?」颯介は、誰もいない席に問いかけた。なんとも不可解な光景だが、テーブルの中央に置いたスマートフォンには返事がくる。
saku:私にも、わからない。途方に暮れてたら、ふーがお線香あげに来てくれて、その時、スマホがポケットに入ってるのに気が付いたの。
「俺、桜の家に行って、その時やっと桜が死んだってことに気づいたんだ。なんていうか、知ってたけど、心の底から理解したんだ」
「薫子さん、どう思う」放置していたアイスコーヒーを一口飲み、颯介は難しい顔で問いかけた。
「亡くなった人は、しばらく、あの世とこの世の境にいるんだって。四十九日が経ったら、次の世界に行くの。そして、仏様になるんだって」
でも、と彼女は続ける。「亡くなった人が四十九日までこうして連絡ができるなんて、そうそうあることじゃないと思うから。桜ちゃんには、なにか思い残しがあるんじゃないかな」
「思い残し……」文也は呟く。
「だからこっちの世界に引っ張られて、こうして私たちの近くにいて、思いを伝えてるんじゃないかな」
「思い残しって、何かあるのか」
saku:いーっぱいあるよ。
彼の問いかけに、すぐさま桜は返事をした。
saku:七夕祭り行きたかったし、夏休みも楽しみだったし、修学旅行とかも行ってみたかったし。
saku:病気治して、遠出とかもしたかったな。果物食べたりして。お母さんとも出かけたかったし、部活なんかも興味あるし、友だちとも遊びたかったし。
「わかったわかった」
取り留めない桜の思い残しを遮り、ストローを咥えると冷えたカルピスに口をつける。「でもちょっと違うと思うぜ」
「やりたいこと、たくさんあったろうけど。現世に留まるぐらいに名残惜しいことが、なにかあるんだろうね」
「文也くんにだけ連絡ができるってことは、そこに関係があるのかも」
颯介たちの言葉に、ピンときた文也は手を打った。
「俺と結婚できなかったことだろ」
堂々とした台詞に正面の二人は目を丸くし、桜の返事も一瞬途絶える。
「俺と結婚するって言ってただろ。それができなくて後悔してんじゃないのか」
文也は真理だと思ったが、桜は「ばーか」と軽くあしらった。
saku:全然心残りじゃないし。
「だって、そう言ってたじゃんか」
saku:それぐらいの覚悟してってこと。今生き返ってもすぐに結婚なんて出来ないんだし、心残りなんかじゃないよ。
「桜ちゃんだなあ」颯介がしみじみと頷く。
「俺に関係あるんだったら、その話しかないだろ」
「もしかしたら、二人の波長が合って、それで繋がれてるのかもしれないね。桜ちゃんは信号を出してたけど、文也くんはそれに気づかなくて。でも桜ちゃんが亡くなったことを理解して、その信号を受け止められたのかも」
年上らしく場を取りなす薫子に、文也も文句をつぐんだ。「二人は、仲良しだから」そうもおまけして、ミルクを入れたアイスティーをストローで混ぜる。氷がグラスにぶつかり、カラカラと音を立てる。
「フミと桜ちゃんは、どうしたいの」
颯介が尋ねるのに、グラスを傾けかけた手を止めた。それは、相手が本当に桜の幽霊なら、放置しておきたい問題でもあった。
しかし、そういうわけにもいかない。
「……向こうに、いくべきなんだろうな」答えて、ストローを使わず、喉に直接カルピスを流し込む。「いつまでもあちこちさ迷ってるのは、きっと良くないと思う」自分と連絡を取り合えても、桜がいつまでもそんな浮遊霊のような存在でいるのは、心苦しい。
「桜ちゃんは」
少しして、桜も同じことを言った。
saku:私も、本当は、さよならしないといけないんだと思う。
saku:それで生まれ変わって、またみんなと会って生きるんだ!
桜は、幽霊になっても前向きでかっこいい。もはやこの相手が天方桜であることは、誰一人疑っていなかった。
「じゃあ、探さないとね。桜ちゃんの心残り」
薫子の台詞に、颯介も頷く。
「なんか、ごめん、巻き込んで」
「気にするなって。それに、フミのためっていうより、桜ちゃんのためだよ。僕らだって、彼女のことは大事なんだ」
文也は謝ったが、颯介は笑い、薫子も賛成した。天方桜を現世に留まらせる心残りを見つける。四人は今一度、約束を交わした。
桜が現世に留まる心残り。それを探すと決めたが、一体それがなんなのか、彼女にも思いつかないようだった。
「なー、やっぱり俺と……」
saku:分かんないなー、なんだろうねー。
隣に居るらしい桜は、やっぱり桜だ。電車に乗り、隅に立ったまま、ふと思い立って尋ねてみる。
ふー:今も近くにいるんだろ。もし触ったらどうなるんだ。
saku:触れないよ。隣に居るから、手伸ばしてみて。
saku:そっちじゃない、左。
右側に伸ばしかけた手を、左に伸ばす。しかし触覚はなんの感覚も伝えてはこない。
saku:今、私の腕に当たってる。けどすり抜けちゃってる。
前方に座る乗客が奇異の目で見てくるが、構わずに腕を握る仕草をする。それでも手は空を掴むばかりで、温度の変化すら感じられない。
saku:私も、今、ふーの肩に触ってるよ。でもわからないでしょ。
言われなければわからない。少しぐらいひんやりするかと思ったが、そういうわけでもないらしい。
ふー:全然わからん。
saku:だよね。私もいろいろ試したけど、人に触れることは出来ないみたい。
文也はなんとなく残念な気持ちになる。せっかく桜が近くにいるのに、その体温すら感じられないなんて。彼女は暑さや寒さも分からないし、食欲もなければ眠くもならないという。まるで幽霊だなと思い、そういえば幽霊だったと思い出す。
家に帰り、夕飯と風呂を済ませて落ち着いた頃、桜は「そうだ!」といった。
saku:あの子犬のこと、ずっと気になってたんだ!
「犬?」
リビングのソファーで眉根を寄せて呟く。犬ってなんだと打ち込もうとすると、母親の声が被さった。
「文也、あんた最近ケータイばっかいじって。目悪くなるわよ」
はいはいと適当に返事をして、文也はその場をさっさと退散した。母親の小言からは逃げるのが吉だ。自室に引っ込む。夏の熱気がこもっているのに、窓を開けて扇風機をつけた。
「犬なんか飼ってたっけ」
扇風機の前に座り、近くにいるはずの桜に話しかける。やはり彼女は部屋にいるらしく、返事が来る。
saku:私は飼ってないよ。
saku:でも、小さい頃に拾ったの、ふーは覚えてない?
「杉ヶ裏の頃だよな。……確か、学校の帰りに桜が見つけたんだっけ」
幼い頃、小さな小学校に入学した二人は、毎日一緒に登校し、一緒に下校していた。そんな七歳の時、帰り道に捨て犬を見つけたことがあった。
saku:そう。ふーは飼えないし怒られるって言ってたから、私が連れて帰ったの。
「あー、なんか、覚えてるかも」ふわふわした茶色の塊を見た記憶がおぼろげながら蘇る。「あの犬、結局どうしたんだ。桜が飼ってたわけじゃないだろ」
saku:お母さんが里親見つけてくれて、そこに渡したんだ。でも知り合いとかじゃなくて、私も次の年には引っ越したから、あの子がその後どうなったか気になってたの。
「なるほどなー」
自分が拾った子犬がどうなったのか、それが桜は気になるという。思い残しと呼ぶに値するか文也には判然としないが、優しい桜はそれがきっかけで留まっているのかもしれない。
「それなら、犬がどうなったか確かめたらいいんだな」
saku:たぶん。ずっと前のことだから、いろいろあったかもしれないけど。
「どこに貰われていったかわからないのか」
saku:杉ヶ裏の人のはずだけど、詳しい住所とか名前はわからないんだ。お母さんが全部やってくれたから。
そうか、と文也は頷いた。「それなら、桜の母さんに聞けばわかるってことか」
saku:それしかないと思う。その人が引っ越してたりしたら、もうわからないけど。
桜は言うが、やってみなければわからない。文也はさっそく電話をかけた。
二日後の休日、文也は桜の家を訪ねた。桜のことを忘れられず、もう一度だけ線香をあげさせてくれと頼むと、律子は快諾してくれた。
「あの、これ……」文也が母親から預かったクッキーの箱を手渡すと、「気なんて遣わなくていいのに」と恐縮する。
「うちの母さん、今日は仕事だけど、また今度挨拶しに来たいって言ってました」
「ありがとう。いつでも来てくれて構わないから。桜は本当に幸せものね」
遺影の前でそう言う彼女に、まさに今、同じ部屋に桜がいることを伝えたくてたまらない。だが桜は、母親には自分のことを教えない方がいいと言った。会いたいのはやまやまだが、そう簡単に信じてはもらえないだろう。文也に対してあらぬ疑惑を立てられたくないし、仮に信じたとして、連絡を取れるのが母親である自分ではないといって悲しんで欲しくない。そんな桜の思いには、文也も納得した。
線香をあげ、鈴を鳴らし、遺影の前で手を合わせるが、一体誰に挨拶をしているのか少し不思議な気がする。桜はこの中にはいない。同じ部屋で、自分の写真に手を合わせる文也を見て、くすくす笑っているのかもしれない。
手を下ろし、視線を下げて気が付いた。そばには変わらず、桜が使っていた物が並べられている。その中には、彼女が生前使っていたスマートフォンもある。
「あの、このスマホ……」
話しかけると、後ろの座卓で茶を入れていた律子が「ああ、桜の」と微笑んだ。
「これ、まだ使えるんですか」
「使おうと思えば使えるはずだけど……桜が使ってた形跡を残しておきたいから、そのままにしておこうと思って。解約して電話が出来なくなっても、データは残しておくつもり」
それは正しい判断である気がして、文也は頷いた。こうして家に保管しているならば、桜のスマートフォンを使って赤の他人がいたずらしているという線はゼロになる。その確信が持てる。通信機能を失くしても、中にある写真や動画はそのまま残るはずだから、それを残して彼女の生きた証とするのだろう。
そう思ったところで、文也は急に恥ずかしくなった。恐らく桜も、薫子から送られてきた自分たちの記念写真を保存しているはず。その一枚で、自分たちはキスをしている。恋人同士だから不自然なことではなくとも、写真として彼女の肉親に見られていると思うと、むず痒くて恥ずかしい。
促されるままに移動して、渡したばかりのクッキーを二人で食む。世間話の最中、それとなく話題を出すことにした。
「そういえば、小一の頃、犬を拾ったことがあったんですけど」
思い出した風に、文也は律子に切り出した。九年も前のことだが、律子は懐かしそうに思い出にふける。
「懐かしいわね。桜が拾ってきた柴犬のことでしょ」
「確か、そうだったと思います」あのふわふわは、きっと柴犬。「あの犬って、どこに貰われてったんですか」
「ええとね……うちから役場に行く途中の、宗像さんってお家だったかしら」
その名前は初耳だった。たとえ田舎の小さな町であっても、子どもの立場では全ての家を把握し、記憶することはできない。
「むなかたって、どういう字ですか」
「少し珍しいかしら、宗教の宗に、銅像の像で、むなかたって読むの」律子は指先で、宗像という文字を座卓の天板になぞる。それを文也は覚え込む。
「その宗像さんって、おばさんの知り合いだったんですか」
「ううん。犬の里親を探してて、知り合いの伝手で教えてもらっただけ。杉ヶ裏でも、それまで全然交流のない方だったの」
「その人、今も連絡とったりとかは」
「あの子犬を譲ってから、一度も連絡してないわね。電話番号もメモしてたはずだけど、二回も引っ越したからもう見つからないし。……どうして気になるの」
連絡先はわからない。そのことへの落胆を隠し、文也は少しだけ嘘を吐く。
「そういえば、桜が気にしてたなって思い出して」まるで生前のことのように。「また帰ることがあったら行ってみようって、話してたんですけど」
「そう。桜が」
「それで、出来れば俺だけでも行けたらって思って」
「文也くんには、いろんなこと、話してたのね」律子はすまなさそうに眉尻を下げた。「でも、ごめんね。これ以上はわからないの」
「いえ、その……すみません」
文也の謝罪に首を横に振り、彼女は座卓の隅にあるティッシュ箱から一枚取り出し、目元に当てる。大事な一人娘が亡くなってまだひと月も経っていない。その名を口にして涙が出てしまうのは当然だろう。
「あの子が死んじゃったのはね、わかってるの。この目で見たんだから」
涙を拭い、彼女は微笑んだ。
「でも、なんでかしらね。まだ近くにいる気がするの。優しい子だから、心配させてるのかしらね」
零れる涙を目にし、文也は何も言えなかった。
帰り道、文也は何度か「桜」と口にした。だが彼女から返事はなかった。
夜になっても変化はなく、もう寝ようと横になった時分、「今日はおつかれ」と桜のメッセージが届いた。彼女は今、母親のそばにいるそうだ。
ふー:おばさん、大丈夫か。
saku:うん。少し寂しくなっただけみたい。でも今晩はここにいるよ。
律子にとって桜はただ一人の家族で、それは桜にとっても同じことだ。たった一人の母親が心配なのだろう。
ふー:やっぱり母親には、桜の気配がわかるんだな。
saku:どうかな。もしそうなら、姿が見えてもいいのにね。悲しいなあ。
可愛く絵文字をくっつけ、桜は続ける。
saku:みんな私に心配かけて。こんなんじゃ、私、いつまでたっても浮かばれないよ。
思わず文也は笑ってしまった。本当は桜が一番寂しがり屋のくせに。そんな彼女はやっぱり可愛くて仕方が無い。
おやすみと送って、おやすみと帰ってくる幸せ。それを噛み締めて、文也は瞼を閉じた。
土曜日、文也は颯介と駅で待ち合わせた。普段遊ぶときの待ち合わせより少し早かったが、杉ヶ裏までは距離がある。朝の九時には電車に乗った。
「悪いな。休みなのに」
「だから気にするなってば。桜ちゃんのためだよ」
ボックス席の文也の横で、「でも」と颯介は腕を組む。「名字しかわからなくて、探せるかな」
「引っ越してたらどうしようもねえけど。桜が住んでた家から、町役場に行く途中らしいんだ。その道をたどって探すしかない」
どうにもふんわりとした情報だが、これ以上は調べようがなかった。不安はあるが、あとは実際に歩いて探すしかない。
現状を文也から電話で聞くと、颯介は自分も一緒に探すと言ってくれた。一人より二人の方が、きっと視界も広がる。いや、桜もいるから三人だ。また三人で行動できることが、文也にはむしょうに嬉しい。
「フミと桜ちゃんの故郷か」
「そうなるな。桜は小二で引っ越したけど」椅子の肘掛けに肘をつく。「なんもない、ただの田舎だよ」
「それでも、二人には思い出がたくさんあるだろ」
颯介の言葉に、少しだけ考える。「……そうだな」やがて文也は頷いた。
杉ヶ裏ですごした十年間。その記憶のほとんどに、桜がいる。覚えていないほど幼い頃から一緒に遊び、学校に通った。夏休みも冬休みも、毎日飽きずに駆け回った。病気がちな桜はしばしば体調を崩したが、そんな日は担任から預かったプリントを手に見舞いに行った。ひと学年ひとクラスしかない学校でも、常にそばに居た。数えきれない思い出が溢れてくる。桜はそこで八歳まで過ごし、文也は十歳で引っ越した。そして二人は、転入先の小学校は違えど、同じ中学校に入学することになったのだ。
「だいぶ離れてたのに、再会するなんてすごいな。フミは親の転勤だったんだろ」
「うん。まあ、あれだよ。運命ってやつ」文也は当然の顔をする。これを奇跡だの運命だのと言わずして何と言おう。
「運命とか言ってるけど、桜ちゃん」
颯介が苦笑すると、文也のポケットから短い電子音が鳴った。
saku:運命じゃなくて偶然。
桜は今、二人の正面の席に座っているらしい。へそを曲げかけた文也だが、颯介が笑い、桜も笑っているのを想像すると、自然と頬が緩むのを感じるのだった。
電車を降り、バスに乗り、再び電車に乗る。杉ヶ裏駅で下りた乗客は、文也と颯介だけだった。時刻は既に十二時を回っていた。
木造の古い駅舎の売店で昼食代わりのパンを買い、外のベンチで食べる。中身の多いクリームパンは柔らかくて美味しい。周囲では蝉が大合唱し、青空にはむくむくと入道雲が広がる、まさに夏の気候。それでも日陰に居ればときおり涼しい風を感じられ、耐えられないほどではない。
まずは桜が住んでいた家を目指して歩く。山に囲まれた小さな町に高い建物はなく、民家や背の低いアパートが建つ中に、畑や水田が点在していた。町並みは静かで、人影は少ない。狭く緩やかな坂道を歩きながら、街中育ちの颯介は興味深そうにあちこちを見渡していた。
「確か、あの郵便局を右に曲がるんだ」
駅から二十分ほど歩き、文也は道の先を指さす。赤いポストを備えた、小ぢんまりとした郵便局。それは二人が幼い頃と変わりのない建物だった。
ポストの前を右に曲がり、細い道に入り、少しして文也は立ち止まる。その横で颯介も足を止めて見上げる。
「ここが、桜ちゃんが住んでたところ?」
「うん。間違いない」
古い二階建ての、桜が住んでいた家。門から中が覗けるが、今や人が住んでいる気配はなかった。庭には草がぼうぼうと生い茂り、家は扉も窓もきっちり閉め切っている。壁には蜘蛛が巣を張り、表札は外されたままだ。
「ここだよな、桜」
問いかけ、文也はスマートフォンに目をやる。晴天の真下、照度を目一杯上げた画面に返事がくる。
saku:ここだよ、懐かしいなあ。
saku:人が住まないと、こんなに荒れちゃうんだね。
桜も、感慨深く自分の住んでいた家の様子を窺っているようだ。あの頃はまさか、八年も経ってから幽霊の桜と共に再訪することになるだなんて、夢にも思わなかった。
saku:中、やっぱり誰もいないみたいだね。
文也と颯介は、流石に敷地に入るのはためらわれたが、桜は窓から部屋の中を覗いているらしい。自分の住んでいた家が廃れているのを見るのは、どんな気分なんだろう。
思い出に浸る彼女につられそうになるが、しばらくして文也は家から視線を剥がした。
「それじゃ、役場まで行くか」
「その途中に、宗像さんの家があるって話だよね」
「引っ越してなかったらな」
田舎道を再び歩き始める。六年ぶりの杉ヶ裏は、想像していたよりも変わっていなかった。中に住む人は自分たちのように変化しているだろうし、現に一軒家のあった場所がアパートになっているのも見かけた。それでもこの町は、桜と二人で遊びまわった昔の風景を容易に思い起こさせた。
颯介に昔のことを語りつつ、町役場に向けて注意深く表札を辿って歩く。山本、五十嵐、墨田……。きょろきょろして歩く二人の横を、虫かごと虫取り網を持った小学生たちが走り去っていく。
記憶が確かなら、役場まであと百メートル程度。もしかして道が違うのかもと若干不安に思い始めた文也は、思わず声を上げた。
「あった!」
一軒家の門に、確かに「宗像」の表札がかかっていた。それを見た颯介もほっとしている。
二人でそっと門の中を覗く。庭にはプランターや鉢植えが所狭しと並び、多くの植物が青い葉を茂らせている。それを見て疑問が湧く。こんな庭で犬を飼えば、下手をすれば鉢をひっくり返しかねない。リードを引っかけるかもしれない。赤いミニトマトを食べるかも。犬は注意深くしつけられているのか、それとも家の中で飼われているのか。想像はしたくないが、実はもう飼われていないのか。
様々な可能性を考えていると、ポケットのスマートフォンが振動した。
saku:こっちも宗像さんだよ。後ろのお家。
桜の言葉に二人は同時に振り返る。向かい合う家の表札も「宗像」だ。
「もしかして、親戚なのかな」
颯介が呟く。見つからないどころか、複数の「宗像」が見つかるとは。門の奥、玄関先には名前らしき表札もかかっているが、それではわかるはずがない。一体どちらが探している宗像なんだ。
「フミ、こっちも」
更に隣の家を颯介は指さす。少し大きなその家にも同じ表札。親戚同士、固まって住んでいるのか。
「マジか……」
困ったな、と口にしながら文也は颯介に近寄り、その家を覗き込む。立派な御影石の表札には白字で宗像の文字。引き戸の上部には、「宗像重三」と名前付きの表札。厳格そうだとイメージを抱きつつ、庭を見渡す。
途端、犬の吠える声が耳を打ち、文也と颯介はびくりと身体を震わせた。縁の下から出てきた犬が、軒下に繋がれたままわんわんと大声で吠えている。茶色の毛皮を持つ立派な柴犬。こいつだ、と直感した。
番犬は怪しい人物に向けて大きな声で吠え続けている。文也は堪らず、唇に人差し指を立てて「しー!」と合図をするが、犬にそんなものが通じるはずがない。このままでは騒ぎになりかねないと焦る。近隣住民に説明を求められると厄介だ。
二人で「しー!」と繰り返していると、がらりと引き戸が開き、中から老人が姿を現した。「うるさいぞ、ムギ」飼い主らしき老人が言うと、犬は吠えるのを止めた。しかし興奮しているのか、ふさふさの尻尾を振っている。
「なんだ、おまえらは」
年の頃は七十を過ぎているだろう、文也と颯介よりも少し身長があり、がっしりとした体つきの色黒の老人。農業を営んでいるのかもしれない。眉間には深く皺が寄り、白いひげを生やしている。
「あっと、その」
じろりと睨まれ咄嗟に台詞が出てこない文也に代わり、颯介が返事をした。
「僕、小戸森颯介っていいます。驚かせてしまってごめんなさい。犬を探しに杉ヶ裏に来たんです」
「犬?」
「多分、そちらの犬です」やっと文也も言葉を返す。「知り合いが昔、犬を譲ったって言ってて、その里親を探してて。……あ、俺、月城文也です」
「確かにムギは、貰いもんだが……」
この老人が宗像重三だろう。彼はムギというらしい犬をちらりと見、再び文也たちに視線をやる。「おまえたち、その話は本当か」
「本当です。椎名さんから聞きました……今は天方さんですが」椎名は、杉ヶ裏に住んでいた頃の桜の名字だ。「俺、子どもの頃に杉ヶ裏に住んでで、そこの娘の桜ともよく遊んでたんです」
椎名という苗字を覚えていたのだろう。重三は顎に手をやる。
「今更何と言われようと、ムギは返せんぞ」
「いえ、返して欲しいとかじゃなくて、元気にしてるのかが気になって……。桜が、引っ越した後も子犬のことを気にしてて、それで代わりに調べようと思って」
「本人は来ていないのか」
まさにそばにいる、などとは言えない。予め打ち合わせていた話を颯介が説明する。
「桜ちゃん、今は病気で入院してて。元気になったら一緒に探しに行こうって言ってたんです。でも、退院の目途が立たなくて。それで代わりに、写真の一枚でも撮って来れたらって話になったんです」
桜が死んで、その幽霊から話を聞いて……だなんて真実を話せば、確実に信用してもらえない。門前払いかもしれない。だから心苦しくとも、生きている桜から託された体にしようと話し合っていた。
「椎名さんの家の子か……確かに、病気がちだとは聞いたことがあるな」
半信半疑でも思い当たるふしがあるせいか、信の方に心を傾けてくれたらしい。「家には上げられんぞ」と、門を開けてくれた。
安堵しながら、文也と颯介は、短く刈られた芝生を歩いて犬のそばに近寄った。ムギという名がぴったりの、綺麗な小麦色の柴犬だ。人懐こく尻尾を振り、二人を見上げている。
「噛まないですか」
「知らん。ムギに聞け」
重三の台詞に少々恐れながらも、文也は膝を折り、そっとムギの頭に触れた。嫌がる素振りもなくムギはしきりににおいを嗅いでいる。隣にしゃがんで背に触れる颯介にも尻尾を振って、人懐こく愛想を振りまいている。なんとも可愛らしい。
膝に身体を押し付けてくるので、文也はその顔を両手でわしゃわしゃといじくってやる。ムギはいっそう喜んでその手をぺろぺろと舐めた。犬の毛皮はほんのりと草のにおいがする。
その濡れた鼻がズボンのポケットをつつくのに気づき、右手を入れてスマートフォンを取り出す。ムギは機械本体ではなく、その先のにおいに尻尾を振っているらしい。
「覚えてるのか」
驚いて、問いかけてしまう。揺れる尻尾が何よりの答えに思えた。
「それはなんだ」
「これは、桜から……」貰ったと言いかけて、咄嗟に言葉を変える。「預かってるお守りです」
ほう、と思わず重三も感心したようだった。ムギは間違いなく、桜のお守りに反応している。九年も前に自分を拾った恩人のことを、今も律儀に覚えているらしい。
「犬は三日の恩を三年忘れんと言うが、ムギはその通りだな」
「賢いね。きみは、桜ちゃんのことをずっと覚えてたんだ」
颯介もムギを褒め、その頭を撫でてやる。ムギが舐めないよう、手でそっとお守りを包みながら、「すごいな」と文也も口にした。