葬式の記憶は、桜の眠る顔だけ。しつこく呼べば、「うっさい、ふー」と言って目を覚ましそうな自然な寝顔。その顔を見て自分がどんな反応をしたのか、文也はまったく覚えていない。
 死因は、敗血症性ショック。元々病弱な彼女の身体は、耐えられなかった。
 桜が亡くなって十日後、文也は彼女の居たマンションを訪れた。
「来てくれてありがとう」
 葬儀や初七日を終えて少し落ち着いたところだと、母親である律子は奥に通してくれた。
 低い長机の上に、眩しい笑顔の彼女の遺影。使われているのは、御浜高校の入学式で母親が撮った写真。ほんの三ヶ月前の写真。
「お墓参り、今度、文也くんも行ってあげてね。あの子も喜ぶから」
 そばのテーブルに、冷えた麦茶の入ったコップを置いてくれる。
 遺影のそばには、たくさんの果物が並べられていた。メロンは彼女の好物だ。他にもブドウやバナナ、季節の違うイチゴやリンゴまで。脇には、彼女が使っていたスマートフォンや、通学用の鞄が置いてある。
 線香をあげ、鈴を鳴らし、文也は手を合わせる。
 そして、律子に桜の話を聞かせた。彼女がどんな時に笑って、怒って、悲しんでいたのか。無理に見舞おうとして傷つけたことも、海辺で子どものようにはしゃいでいたことも。どれだけ彼女が一生懸命に生きていたか、自分の知る桜の姿を語って聞かせた。
「あの子は、頑張っていたのよね」
 しみじみと母は頷く。
「最期にね、一度だけ意識を取り戻して、面会ができたの。私は、桜は助かったんだって思ったんだけど、違うのよね。あの子は、最期の力で私に顔を合わせてくれたのよね」
 それからすぐに容体は悪化し、そのまま彼女は眠りについてしまった。
「本当に優しい子だった。お母さんを傷つけたくないって、移植まで拒んで。もし桜を説得できてたら、もしかしたら、助かってたかもしれないのに……」
 律子は一度立ち上がり部屋を出ると、何かを持って戻ってきた。
「このお守り、文也くんに持っていてほしいの」
 手渡された物を見て、文也は息を呑む。
 桜が大切にしていたお守り。小さな鍵のついたそれには見覚えがあり、思わず「これ……」と声が漏れる。
 可憐で美しい桜貝が、鍵と共に結び付けられていた。
「最期にね、面会できたって言ったでしょ。その時に、桜が言ってたの。おまもり、ふーに渡してって。……文也くんなら、大事にしてくれるって思ったんでしょうね」
 律子の声が、次第に震える。
「……桜は、文也くんが大好きだったから」
 彼女の言葉に、文也は軽く唇を噛んで俯いた。
「でも……桜は、ずっと俺のことなんか……」
 恋人として結ばれた期間は二ヶ月にも満たない。それまで桜はずっと告白を断ってきた。大好きなら、きっともっと早くから付き合ってくれていたはずだ。
「桜はね、文也くんが好きだから、付き合わなかったの」
 しかし顔を上げる文也に、彼女はゆっくりと首を横に振った。
「あの子は身体が弱いから、普通の女の子みたいに気軽にデートできないでしょう。長生きできないかもしれないし、何が起きるかわからないから、文也くんとは付き合えないって言ってたの。ふーの人生を無駄にしたくないって」
 頭を殴られたようなショックを受け、「無駄だなんて……」と文也は声を詰まらせる。律子はそんな彼を見て微笑んだ。
「大好きだから、傷つけたくないんだって。本当に、ばかよねえ。でもね、いつも喜んでた。こんなことを言ってくれた、私はとっても幸せものだって。結婚してドナーになるって言ってくれたんでしょ。あの時も、世界一幸せだって喜んでたのよ」
 意外な言葉に、文也はもう何も言えなくなる。桜がそこまで自分を好いてくれていただなんて、知らなかった。自分の一方的な恋心だとずっと思い込んでいた。
「でも、もし腎臓が適合したら怖いって。文也くんは絶対に移植するっていうけど、それで身体に傷をつけさせたくないって」
 律子の目に涙が浮かぶ。彼女はそれを拭わない。
「幸せなのに、それが怖いよって、泣いてたの。私にはもったいないって。好きでいてくれるのが嬉しいのに、好きになるのが怖いんだって」
 しかし桜は、それでも受け入れてくれた。怖いながらも文也を愛する覚悟で、恋人になってくれていた。「いいよ」というあの日の言葉には、深い愛情が込められていた。
「怖いけど、ふーが好きでたまらないんだって」
 ぽたぽたと、涙が落ちる音。
 その音が至極近くから聞こえるのに、少しの間気づかなかった。
 桜が亡くなってから一度も涙を流していない。あまりの悲しみに心が壊れてしまうのを防ぐように、大切な部分がずっと麻痺してしまっている。
 それでもやっと、涙が頬を滑り落ちた。
「さくら……!」
 すでに限界すれすれに達していたそれが一気に決壊し、文也は泣いた。桜のお守りを握りしめ、畳に突っ伏して、声を上げて泣いた。いくらでも涙が溢れてくる。桜、桜、桜。彼女の名を呼び、十日間流せなかった涙を流して号泣した。
 好きでいてくれたなら、一度でいいから、その言葉を桜の声で聞いてみたかった。
 しかし、そんな願いは決して叶わない。
 天方桜は、死んだ。それをようやく、理解した。