逃げるように病室を後にする桜に付き添って、文也も廊下に出る。彼女はもう恥ずかしくて穴があれば入りたいのだろう。しかし、そんな桜が彼女になった喜びで、文也は誰彼構わず、桜の可愛さについて自慢したくなる。
 院内には逃げ場などなく、フロアの隅の休憩所に辿り着くと、桜は長椅子に腰掛けた。
「もー、ばかばかばか」
 膝に両肘をつき、顔を両手で覆っている。その横に文也も座った。
「そんなに恥ずかしがらなくてもいいだろ」
「ふーは図太いからそんなこと言えるの!」
「はいはい。桜は繊細だもんなー」
 文也は笑って、桜が落ち着くのを待った。
 しばらくすると、桜もようやく顔から手を離し、大きく息をつく。
「あー、恥ずかしかった」
「なにがそんなに恥ずかしいんだよ」
「全部だよ、全部。病室帰れないよ」
 唇を尖らせて文句を言う。文也は嬉しくて仕方ないが、同時に疑問が湧き上がる。
「ていうか、なんで急に心変わりしたんだ。昨日まで嫌がってたのに」
「別に、嫌がってはないけど……」言い淀み、口をもごもごさせる。「色んな人にね、言われたの」
「何を」
「前から、私に付き合ってくれとか、移植の話とか、結婚がとか言ってたじゃない。あれ、患者さんとか看護師さんとかも耳にしてて。あんなに自分のことを想ってくれる人なんて、そうそういないよって、話してくれて」
 確かに、その話は何度繰り返したのかもう思い出せない。桜の周囲が把握していたとしてもおかしいことではない。
「特にね……結婚して移植するなんて言ったでしょ。あれ、同じ部屋の患者さんにも聞かれてて。ふーが帰った後、すごい覚悟だねって言われて、あの子は桜ちゃんが本当に大事なんだねって」
「そうか……。説得してくれたんだな」
「説得って、ちょっと違うよ。なんていうかな、諭してくれたの」
 彼女は慌てた風に首を振る。
「そこまで想ってくれる人がいるなんて羨ましいって、いろんな人に言われて。それで、ふーの言葉の意味、たくさん考えて。それだけ覚悟してくれてるなら、私もきちんと応えなきゃって思って」
 綺麗な美しい瞳が、文也を真っ直ぐ見つめる。瞳の中に映る自分を、文也は見つける。
「でもね、移植はいらないよ」桜はきっぱりと言った。「私は、ふーの腎臓はいらない。そんなことが目的で、付き合ったりなんかしないから」
 自分の益のために告白を受け入れたわけではないと、桜は言っている。なんて純粋なんだろう。これ以上ないほど好きだと思っているが、毎度毎度、桜の言動にはいっそう好きが溢れてくる。
「今はそれでもいいよ。でも、俺はいつでも準備できてるから。気が変わったらすぐに言ってくれ。桜が元気になるためだったら、俺はなんだってできるから」
「かっこつけ。ふーのくせに」
 ふふっと桜が笑い、文也も笑う。
「みんな応援してくれたんだから。私だって、たくさん考えた結果なんだから。だから絶対に幸せにしてよ。やっぱり飽きたなんて言ったら許さないから」
「言うわけねえよ。桜こそ、気の迷いだったなんて後で言うなよ」
「言わないよ。私はそんなに軽い女じゃないんだもん」
 いつも桜は隣に居る。すぐそばで文句や冗談を言いながら笑っている。だが、その距離は今までになく縮まったように文也には思える。望んでも許されなかった場所に、ようやく立つことが出来た。これから全てが上向いて上手くいく。そんなことさえ思えてくる。
「あっ、雨、止んだね」
 窓の外を見て、桜が嬉しそうな声を上げた。いつの間にか小雨は止んでいて、割れた雲の隙間から太陽の光が差し込んでいた。

 家に帰り着くと、文也はさっそく颯介に連絡をした。
 ふー:桜と付き合うことになった!
 夕食を食べて課題を終わらせていると、颯介から返事が来る。
 颯介:本当に? フミの妄想じゃなくて?
 今まで散々フラれてきたのだから、突然彼女と付き合うと言っても、脳内のことだと思われるのかもしれない。それにしても失礼だ。
 ふー:そんなわけないだろ。なんなら桜に確認しろよ。
 颯介:ごめんごめん。びっくりしたからさ。それにしてもよかったね、おめでとう!
 しばらくやり取りをしている内に、どんどんと実感が湧いてくる。いつも通りに会話をしたり、遊びに行ったり、何かが大きく変わることはないかもしれない。だがその根底にある思いが違う気がする。偶然一緒にいる友人同士ではなく、選び合った恋人同士として、見える景色もきっと変わる。
 颯介:桜ちゃんのこと、大事にしなよ。
 抑えきれない高揚感を抱きながら、「当たり前だろ」と打ち込んだ。