それから文也は、学校で退屈な時間を過ごし、ただ放課後を心待ちにするという日々を過ごした。
「移植待ちで十五年かー」
虎太郎は弁当を食べつつ、最初に文也が聞いた時と似た反応で驚いていた。彼には桜の病態を少しだけ話していたが、意外にも同情的だった。思いがけず親身な姿勢を見せてくれるのに、文也は移植の話を少しだけ聞かせた。自分が桜のドナーになりたい云々は抜きにして。
「それならさあ、文也が医者か研究者にでもなって、治療法見つけた方がいいかもなー」
何気ない顔で、ただ思ったことを口にする。だが彼の台詞に、文也ははっとする。そうか、そういう挑戦もあるのか。
「それもありか……」
「……え、もしかしてマジになってる?」
冗談だったのにという虎太郎の呟きは、もはや文也には聞こえていなかった。さっそく、桜に提案してみる。
ふー:俺、医者になってみる。
saku:ふーは馬鹿だから無理だよ。
すぐにやって来た返事に返す言葉がなく、手を止めてしまう。「厳しいなあ」と虎太郎は画面を見て笑った。
六月に入ってはや一週間。梅雨入りした気候はいよいよじめじめしていて、今日ははっきりしない小雨が降っていた。夏が来るまでの鬱屈とした季節。空には雲が一面に低く垂れこめていて、景色はいやに暗い。
今日も無事に放課後を迎え、傘をさして病院に向かう。アスファルトにできた水たまりを避け、じんわりと滲む汗をぬぐう。ぱたぱたと雨粒が傘を叩く音を聞く。人々は足早に行き交い、道路では車が水たまりを破壊していく。
此花病院の五階、桜の病室を訪れ、いつものように話をする。
「なあー、桜。付き合ってくれよー」
そしていつもの通り、文也は数えきれないほど繰り返した台詞を口にした。その気持ちに嘘は微塵もないが、当然、桜には軽くあしらわれると思っていた。
「……いいよ」
思いがけない返事に、文也は驚いて背筋を伸ばす。てっきり聞き間違いかとも思う。
そんな様子の文也を横目で見て、桜は再度言った。
「結婚してくれるなら、付き合ってもいいよ」
桜が言ったのか? 願ってもない台詞を。
「え?」
「嫌ならいいよ」
「え、ちょっと……」
いざとなって動揺し、素っ頓狂な声を出す文也。桜はそんな彼の顔をちらりと見て目を逸らす。ほんのり頬が赤くなっている。照れている。そんな姿を見て、文也はこの台詞が彼女の口から出たものだと確信した。
「ほんとに、そう思ってんのか?」
「こんな嘘、つくわけないじゃん。ふーのばか」
よほど恥ずかしいのか、声が微かに震えている。文也は信じられないという気持ちに、徐々に期待がこみ上げてくるのを感じた。嬉しさがどんどん湧き出してくる。
「いいんだな。本当に付き合ってもいいんだよな」
桜は一瞬だけ文也と顔を合わせ、その視線を落とし、両手で掛け布団を握りしめる。「……いいよ」消え入りそうな声で、そう言った。
「よっしゃあ!」
声を上げて、文也は思わず桜に飛びついた。ようやく抱きしめた桜の身体は小さくて、愛おしくてたまらない。桜も、「やめてよ、ふー」と言いながら特に逃げようとする素振りはない。
その時、ぱちぱちと手を叩く音が聞こえてきた。
不思議に思い、文也は桜から離れてカーテンを開けてみる。すると同室にいる患者が、こちらに拍手をしていた。
「よかったねえ、桜ちゃん」
向かいの初老の女性が、にこにこ笑って言った。それを聞いた桜は返事もできず、真っ赤になった顔を必死に両手で隠していた。
「移植待ちで十五年かー」
虎太郎は弁当を食べつつ、最初に文也が聞いた時と似た反応で驚いていた。彼には桜の病態を少しだけ話していたが、意外にも同情的だった。思いがけず親身な姿勢を見せてくれるのに、文也は移植の話を少しだけ聞かせた。自分が桜のドナーになりたい云々は抜きにして。
「それならさあ、文也が医者か研究者にでもなって、治療法見つけた方がいいかもなー」
何気ない顔で、ただ思ったことを口にする。だが彼の台詞に、文也ははっとする。そうか、そういう挑戦もあるのか。
「それもありか……」
「……え、もしかしてマジになってる?」
冗談だったのにという虎太郎の呟きは、もはや文也には聞こえていなかった。さっそく、桜に提案してみる。
ふー:俺、医者になってみる。
saku:ふーは馬鹿だから無理だよ。
すぐにやって来た返事に返す言葉がなく、手を止めてしまう。「厳しいなあ」と虎太郎は画面を見て笑った。
六月に入ってはや一週間。梅雨入りした気候はいよいよじめじめしていて、今日ははっきりしない小雨が降っていた。夏が来るまでの鬱屈とした季節。空には雲が一面に低く垂れこめていて、景色はいやに暗い。
今日も無事に放課後を迎え、傘をさして病院に向かう。アスファルトにできた水たまりを避け、じんわりと滲む汗をぬぐう。ぱたぱたと雨粒が傘を叩く音を聞く。人々は足早に行き交い、道路では車が水たまりを破壊していく。
此花病院の五階、桜の病室を訪れ、いつものように話をする。
「なあー、桜。付き合ってくれよー」
そしていつもの通り、文也は数えきれないほど繰り返した台詞を口にした。その気持ちに嘘は微塵もないが、当然、桜には軽くあしらわれると思っていた。
「……いいよ」
思いがけない返事に、文也は驚いて背筋を伸ばす。てっきり聞き間違いかとも思う。
そんな様子の文也を横目で見て、桜は再度言った。
「結婚してくれるなら、付き合ってもいいよ」
桜が言ったのか? 願ってもない台詞を。
「え?」
「嫌ならいいよ」
「え、ちょっと……」
いざとなって動揺し、素っ頓狂な声を出す文也。桜はそんな彼の顔をちらりと見て目を逸らす。ほんのり頬が赤くなっている。照れている。そんな姿を見て、文也はこの台詞が彼女の口から出たものだと確信した。
「ほんとに、そう思ってんのか?」
「こんな嘘、つくわけないじゃん。ふーのばか」
よほど恥ずかしいのか、声が微かに震えている。文也は信じられないという気持ちに、徐々に期待がこみ上げてくるのを感じた。嬉しさがどんどん湧き出してくる。
「いいんだな。本当に付き合ってもいいんだよな」
桜は一瞬だけ文也と顔を合わせ、その視線を落とし、両手で掛け布団を握りしめる。「……いいよ」消え入りそうな声で、そう言った。
「よっしゃあ!」
声を上げて、文也は思わず桜に飛びついた。ようやく抱きしめた桜の身体は小さくて、愛おしくてたまらない。桜も、「やめてよ、ふー」と言いながら特に逃げようとする素振りはない。
その時、ぱちぱちと手を叩く音が聞こえてきた。
不思議に思い、文也は桜から離れてカーテンを開けてみる。すると同室にいる患者が、こちらに拍手をしていた。
「よかったねえ、桜ちゃん」
向かいの初老の女性が、にこにこ笑って言った。それを聞いた桜は返事もできず、真っ赤になった顔を必死に両手で隠していた。