あと数日で六月を迎えるその日も、文也は放課後、此花病院に立ち寄った。
 見舞いに行くのだから、なにか土産がいるだろうといつも考えるのだが、よくある果物を彼女は食べられない。そんなものを持って行くわけにはいかない。だから花を買っていった。高校生の小遣いでは毎回なんて厳しいし、花束なんて豪勢なものは用意できない。だから、数日おきに一本だけ。
「ふーが花なんて、なんかおかしいね」
 桜はそうしてからかったが、手渡された花をベッド脇の花瓶に全て生けていた。それが増えていくのは寂しいが、大事にしてくれるのは嬉しい。
 この日は、駅前の生花店で店員が勧めてくれたガーベラの花を見舞いに買い、鞄にしまった。今が開花時期だというガーベラは、「希望」が花言葉らしい。確かに、黄色の花はポジティブな感情に満ちている気がする。桜は、これを見てどんな顔をするか。想像すると頬が緩む。
 病院に辿り着き、エレベーターで五階に上がる。フロアには消毒薬の独特なにおいが満ちていて、文也はなかなかこれに慣れない。病室に入り、向かって左側、窓際のベッドに向かう。白いカーテンがぴっちりと閉められている向こう側へ声をかけた。
「おーい、桜。見舞いに来たぞー」
 開けようと布地に触れた途端、「待って!」という声がぴしゃりと鼓膜を打った。思わず手を止める。
「ごめん……今日は帰って」
 思わぬ台詞に、一瞬硬直してしまう。こんな台詞は初めてだ。
「帰ってって、どうして」
「今日、調子悪いの」消え入りそうな声。いっそう不安になる。
「調子が悪いって……悪化したってことか」
「そうでもないんだけど……」
「なら、すぐ帰るから。桜の顔見て、ノート渡したら、帰るよ」
「……やだ」
 細い声が拒絶し、文也はただ動揺する。「なんで」そんな言葉しか咄嗟に出てこない。
 これまで何度か、桜は冗談交じりの拒否を口にすることはあった。しかしそれが本気でないことは文也も、当の桜も重々承知していて、だから互いに嫌な思いをせずにやって来られたのだ。こんなに一方的で理由の解らない拒み方は、これまでに一度もなかった。
「今日は、会いたくないの」
 何をしてしまったのかと必死に思い返す文也に、「今日は」という言葉が引っかかる。
「なら、明日ならいいのか」
「……今日、すごくむくんでるの。顔も」
 彼女の落ち込んだ声に、文也は心中で安堵した。過去の自分が桜を傷つけたのではないことにほっとする。
 腎臓病の症状には、浮腫がある。つまりむくみが出やすくなる。身体や顔がむくんでしまうのを、桜は嫌がり、恥ずかしがった。年頃の女の子であれば、当然だ。だが文也は、それを気にしたことは全くなかった。
「大丈夫だって。俺は全然気にしないから」
 宥めるように文也は言う。
「俺は、桜が好きなんだよ。桜そのものが好きなんだ。だから見た目なんて気にしねえよ」
「……でも、嫌だ」
 落ち込んでいる桜の声。なんとかして慰めたい。願わくば、抱きしめたい。
「桜には違いないだろ。それなら、ひと目ぐらい会いたい」
「嫌だ」
「なんで」
「嫌って言ってるの」
「頼むよ、俺は……」
「嫌だ、会いたくない! 帰って!」
 怒鳴り声に、思わず文也は息を呑んだ。争いごとの嫌いな桜が声を荒げることなど、滅多にない。それが自分に叩きつけられたことなど初めてで、はっとする。
 布一枚のカーテンが、頑丈な鉄扉にも思えた。自分を頑なに拒絶する桜との壁のようだ。
 病室はしんと静まり返っている。廊下の向こうで看護師や患者が立てるざわめきが、やけに遠く聞こえる。
 とてつもない失敗を犯した気がする。
「……ごめん」
 文也は呻いた。
 肩にかけている鞄に手を入れ、クリアファイルを取り出した。桜の担任から預かったプリントが入っている。
「これだけ、置いとくから」
 カーテンをめくらないよう軽く押して、ベッドの足元にファイルをそっと置く。何の物音も立てず、桜がじっとこちらを窺っているのが感じられる。
 空気を呑み、唇の間から絞り出せたのは、「身体、気を付けて」という台詞だけだった。
 桜は何も返事をしない。
 文也は病室を後にした。