天方(あまかた)(さくら)は眠っている。白い病室で、真っ白なシーツと掛け布団に包まれている。
 月城(つきしろ)文也(ふみや)は見つめている。ベッド脇のパイプ椅子で、静かな寝息を聞いている。
 ふと彼は首を傾け、窓の外に目をやった。青い空が広がり、四月初旬のうららかな春の陽気が一面に満ちている。地上には街路樹が青々と茂り、病院の入り口に植わる桜の木は満開だ。新しい季節の訪れに、道行く人々の足取りも軽やかに見える。
 文也は、桜の穏やかな寝顔に視線を戻した。白く病弱な肌は、目を離せばこのベッドに溶けてしまいそうな気がする。
「桜……」
 文也はこうべを垂れて呟いた。それは、彼の心を奪う名前だった。口にするだけで幸福感がつのり、同時にその儚さに胸を締め付けられる名前。
「好きだよ」
 彼女のためなら何でもできる。文也はいつもそう思っている。それがたとえ悪いことであろうとも、桜のためになるならば、喜んで引き受けよう。ただ悔しいのは、こうして思いつめる自分の心を、そっくりそのまま桜に伝える方法がないということ。稚拙な言葉に直して、口にするしかないという現実。
「俺は、桜が好きだよ」
 それなら、何回でも繰り返そう。何千回でも何万回でも。この声が枯れてしまっても構わない。好きで好きでたまらない。桜が笑って生きていてくれるなら、この世に怖いものなんてない。
「桜、俺は……!」
 顔を上げた文也の視線を、桜はじとりとした目で受け止めた。
「うっさい、ふー」

「桜! 起きたんだな!」
 思わず立ち上がり身を乗り出す文也だが、桜は迷惑そうな顔をする。
「ふーがうるさいから寝られないの。病院でぐらい静かにしてよ」
「桜がいるのに、大人しくなんかできるかよ」
「なにそれ。意味わかんない」
 温度差激しく、桜は大きなため息を吐く。文也の熱量は、彼女にはまるで伝わっていないようだ。
「うるさいってことは、聞いてたんだな」しかし、文也はここぞとばかりに口を開く。「そんなら、俺と付き合ってくれよ」
「嫌」
「なんで」
「いっつも言ってるでしょ。私はまだ誰とも付き合うつもりなんてないの」
「じゃあ俺が予約しとく」彼は胸を張る。「それにしても、心配したんだぜ。なかなか桜が起きねえから」
「ただの検査入院なのに、心配し過ぎなのよ、ふーは」
「入院には違いないだろー」
 文也が顔を覗き込むので、桜は半身を起こした。肩を越す黒髪を手櫛で梳く。病弱な彼女の色白な肌に、その黒はよく映えている。
「すぐ退院できるんだから、お見舞いに来るほどじゃないのに」
 身体が弱く、特に腎臓に病を患っている桜は、これまでも検査や治療を含めて入退院を繰り返していた。その度に、本人よりも大騒ぎをして見舞いにやって来るのが文也なのだ。
「桜に会えるならどこにでも行くよ。……それより、体調大丈夫なのか」
 ようやく落ち着いて椅子に座り直し、少し不安げな顔を見せる文也に、桜は頷いた。
「平気。なんともない」
「ならよかった」心の底から安堵の表情をする。「そんなら、月曜は学校行けそうか」
「うん。明後日だし、問題ないと思う。私も学校行きたいし」
「よっしゃ。そしたら、迎えに行くから」
「いいってば。そこまでしなくても」
「俺がしたいの。桜を放って行くとか、考えただけで心配過ぎて吐く」
 当然の顔をする彼に対し、桜は呆れた顔で笑った。
「大袈裟なのよ、ふー」
 その表情を見て、文也は嬉しさと同時に寂しさも覚える。たとえ検査入院であっても、病院のベッドで眠る桜を見ている間、不安でたまらなかった。もしもこのまま彼女の目が覚めなければ。この寝顔が最後の姿になってしまったら。そんな想像に押し潰され、怖くて仕方がなかった。
 大袈裟だと笑う彼女は、この想いに気づいていないのかもしれない。とにかく桜には、生きてさえいてくれればいい。文也はいつだってそう思う。