音楽なんかで世界は救えない

6年前。3月5日。
少女はがらんどうとした電車に揺られていた。ドア横に寄りかかり、その足元に置かれた通学鞄から花束と証書筒が飛び出している。時折電車の軋む音が聞こえるだけで、車窓の向こう側には夕焼けが続いている。
スマホの画面に視線を落としていた少女は、表示された内容を何度も読み返しようやく頭で理解し、両手でスマホを握りしめて顔を伏せる。
『ご愛読いただき誠にありがとうございました。話し合いの結果、連載を続けることは困難と判断し、』
味気のない文字の羅列が少女の頭をぐるぐる巡る。
理解していたつもりだった。それでも少女はどこかで期待せずにはいられなかったのだ。
白い頬に透明な雫が伝う。スマホの画面に水滴が落ちていく。その時だった。

それは、無機質な声だった。
少女は固く閉じた瞼を開けて、突然流れてきたその歌声の正体を確認する。スマホを握りしめたせいだろうか、誤作動で動画サイトを開いてしまったようだった。つけっぱなしだったイヤホンから、知らない曲が流れてくる。
その動画は、薄花色の背景に歌詞が流れるだけで、お世辞にもあまり出来の良いものとは言えなかった。機械音がその歌詞を淡々となぞる。再生回数10回も満たない、誰にも聞かれずに死んでいく曲。
少女は食い入るように歌詞を目で追い続けた。
たった3分19秒。
イヤホンから音楽が途絶えると、少女はその動画のコメント欄をタップした。
コメント欄の一番上には動画の投稿者がたった一言、『未完成』と書かれている。

この人も。
この人も答えが分からずに藻掻いているのだろうか──少女は考えるより先に手が動いていた。

『ほんの少しだけ、自分を許そうと思えました』
投稿ボタンをタップして、少女は動画をもう一度再生させた。
その曲のタイトルは──
「おーい、雨宮」
間延びした声に呼び留められて、雨宮律は後ろを振り返る。
薄ぶちの眼鏡をした40半ばほど男が用紙を片手に小走りで向かってくる。担任の先生だということに気が付いた律は足を止めた。
「すまんな、帰り際に」
「いえ」
「これ、この前お前が休んだ時に配ったプリントだ」
差し出されたプリントに目をやると、そこには『進路希望調査』とタイトルが太字で書かれている。
「お前は成績もいいし、今の成績キープすれば大丈夫だろ。高2でまだ早いと思うかもしれんが、志望校選びは重要なことだからしっかり考えとけよ」
「……はい」
ぽん、と軽く肩を叩かれ、担任は去っていった。
渡された用紙をじっと見つめ、軽く息をつく。大人の言う大事な将来とは、大概相場が決まっている。
たった1枚の用紙で自分の未来が左右されているかと思うと、うんざりした。
さっきまで考えていた曲のフレーズを台無しにされた気さえして、律は手にした用紙を鞄の奥底に無造作に押し込んだ。

初めて動画サイトに曲を投稿したのは高校1年の3月5日のことだ。
律にとって初めてのその曲は満足のいくようなものではなかった。伝えたい気持ちの1パーセントも歌詞として当てはめられなかった。
それでも動画を投稿することにした。世界に何十、何万、星の数ほどある音楽の中に埋もれて誰の心に残らずともいいと本気で思っていた。むしろそのほうがよかったのかもしれない。
あのコメントが来るまでは。
『ほんの少しだけ、自分を許そうと思えました』
ずるい、と律はそのコメントを読んで思った。
自分の作った音楽が画面の向こう側の顔も知らない誰かにとって、ほんの少しでも意味を持ったことが。
それだけのことが……死ぬほど嬉しいだなんて、知りたくはなかった。

律のバイト先は律の母方の叔父が経営するジャズバー『Midnight blue』だ。
高校から家まで間を途中下車して、雑踏としたネオン街の外れにそれはある。
律は叔父から預かっている鍵で裏口のドアを開け、店の中へ入った。店内はお客用のテーブルとイスが数組程度あり、淡いライトで照らされた小ステージには窮屈そうにグランドピアノが鎮座している。
「やるか」
律は制服のジャケットを脱ぎ、深呼吸をした。ウィスキーのつんとした香りが鼻を掠める。
仕事の内容は簡単な雑務だ。掃除と洗い物ほどであとは自由にしていいと叔父から言われている。
まずは床掃除から始めるか、と律はモップを取りにスタッフルームへ向かった。

音楽に限らず、創作というものは厄介なものだ。
一度行き詰まるととことん進まなくなる。ひねり出そうとすればするほど暗雲立ち込める。まるで出口のない帰路を延々と歩かされているような気分だ。
「ああああ、びっくりするぐらいなんも思い浮かばない……」
律は目の前にあるPCのピアノロール画面を睨みつけ、思いっきり頭を掻きまわした。昨日と全く変わらない画面を見るのすら嫌になってきて、天井を見上げた。
この部屋は元々リハーサル室として用意されていた部屋だ。が、ほとんど使われず物置と化していた。無造作に積まれたレコードやら使われていない楽器やらが山積みになった部屋の一角に無理やりPCと電子ピアノを置いている。二畳ほどのスペースが律の作業部屋だ。
スマホを確認すると、作業を開始してからすでに3時間は経っている。
「はあ……休憩するか」
肩を回しながら立ち上がった。
 
耳心地のいい落ち着いたピアノの旋律が聞こえる。
店内へ顔をのぞかせると、見知った常連客達がグラスを傾けながら各々演奏に耳を傾けていた。バーカウンターには律もよく顔を合わせる常連の老年男性がいた。その男性と話に花を咲かせていたバーテンダーの男が律に気付く。
「おっ、律。精が出るな」
「……叔父さん」
今年で50とは思えない人懐っこい笑顔のバーテンダーの男は、律の母方の叔父であり、このジャズバーを経営する店長の朝川和久だ。
「どうよ、順調か?」
「……まあ。割と」
「うはは、嘘こけ。調子いい時の顔じゃねえだろ、お前」
「うるさい」
「はいはい、そういうことにしといてやるよ」
 軽くあしらわれてむっとするが、あえて口にすることはしなかった。
「ちょっとコンビニ行ってくる」
「まだ寒いからなんか羽織って行けよ」
「はいはい」
「あと歯磨き粉も買ってきてくれ。一番すーすーするやつ」
「手数料取るけど?」
「バイト代減らすぞコラ」
叔父との軽口もそこそこに老年男性に軽く会釈して立ち去ろうとして、呼び止められる。振り返ると老年男性が柔らかく笑みを浮かべた。
「音楽は楽しいかい?」
「……」
律は口を噤んだ。そして、ぎこちない曖昧な笑みを返してその場を後にした。

春の夜が律は一番好きだった。
コンビニまでの道沿い、桜並木には一面桜の花びらが落ちて桜色の絨毯が広がっている。
まだ背筋をなぞるような寒さに思わず背を丸めながら、たどり着いたコンビニに入って眠気覚ましのコーヒーを購入する。店内は店員と律以外は誰もいない。  
律はイートインスペースでひと休みすることにした。
スマホで自分の動画サイトのチャンネルを開いて、投稿した曲をタップする。相変わらず再生回数は100回にも満たない。コメントも律のものを抜けば一件だけ。
『ほんの少しだけ、自分を許そうと思えました』
何度も読み返した。たった20文字の感想を、行き詰るたび読み返した。
初めて投稿した曲から今日まで約1か月程度たったが、次回作はいまだに完成していない。
この人は、俺の曲が投稿されるのを待っていてくれるだろうか。期待して待っていてくれているだろうか。
何気なく、その人のアイコンをタップしてアカウントを見てみる。
アカウント名は『透』。
想像通りなにも投稿していないROM専用のアカウントだった。ただ、紹介文にURLのリンクが貼ってある。そこをタップし、しばらくダウンロードが終わるのを待っているとSNSのサイトに繋がった。
フォロー数もフォロワー数も30人ほどしかいないアカウントだ。同じく名前は『透』。
あまり更新していないようだ。ぽつりと一言程度の投稿が続いている。読み飛ばしながらスクロールして、律は指を止めた。
文章はない。ただ画像が一枚投稿されているつぶやきがあった。律はその画像をタップして拡大させる。
「あ」
思わず声が出た。
その画像の投稿日は3月9日。
薄花色を真っ暗な夜に上から数滴溶かしたような背景に一人の少女を頼りない月光が照らしている。胸元を握りしめ、息すら吸えない世界でそれでも歌おうとする少女。そんなイラストだった。
直感した。これは、律が作曲した歌詞のワンフレーズを切り取ったものだ。
心臓が早鐘を打っている。律の頭の中で空中分解していた音たちが一斉に整列し始める。
頭の中に音たちを書き写さなければ手のひらから溢れて零れてしまいそうだ。
律は慌てて残りのコーヒーをあおった。熱すぎて少しだけ咽る。しかしその熱さを忘れるほどの高揚感が律を支配していた。
早く。早く、鍵盤を叩かなければ! 
この音たちが逃げてしまわないように。ひと音も逃してしまわないように。律は飲み干したコーヒーカップをゴミ箱に放り投げて店内を出る。
次第に足が駆けていく。息苦しくなるほどの早さで春の夜を走り抜ける。
律の夜はまだ始まったばかりだった。

「玉手箱でも開けたんか?」
店内でモップ掛けする律を見るなり、和久からの第一声がそれだった。
あの日から一週間が経とうとしている。この一週間が律の人生の中で一番PCに齧り付いた期間だった。病的ともいえるほどに。その証拠に律の顔は寝不足による濃い隈によって、別人のようにげっそりとしている。
PCの前にいた時間以外の記憶がほぼない。今日学校からバイト先までどうやって来たのかも曖昧なくらいだ。
和久は軽く律の頭を叩いた。
「お前もう家帰って寝ろ」
「は? やだよ」
「律く~ん? おじさんは可愛い可愛い甥っ子を思って言ってるんですけど?」
「大丈夫だよ、俺若いから。おじさんと違って」
「年齢マウントはやめろ」
「だって」
「だってもくそもありませ~ん」
「……あとちょっとなんだ」
あと少しで完成する。今を逃したらもう二度とこの曲は完成しないような気がして、律は取り憑かれたように曲作りに熱中していた。
彷徨える子羊みたいな背中を前にして、和久は言葉を詰まらせた。こういうとこ、本当に姉さん譲りだよ、ほんと。そんなことをごちて、両手を挙げた。
「あーはいはい、分かった。俺の負けだ」
律の顔つきが明るくなる。すっかりなくなったと思っていた可愛げが垣間見えて、和久は少しだけ笑いそうになる。だから甘やかしたくなってしまうのだ。
「ただ条件付きな。とりあえず飯買ってきてやるから、その間スタッフルームのソファで仮眠取れ」
「……分かった」
珍しく聞き分けよく、律はスタッフルームへ姿を消していった。その背中を見送って和久は薄く笑う。
「まったく手のかかる甥っ子だな」
尻ポケットに財布をしまい込んで、甥っ子の好きな鮭のおにぎりでも買ってきてやろうと店内を後にした。

人間というものは睡眠の臨界点に達するともはや眠くならないらしい。
身体は睡眠と休息を欲しているのに、アドレナリンが噴き出して動けと命令しているようだ。ソファの上で何度目かの寝返りを打って、律は眠気を待つのを諦めた。
気を紛らわせるためにスマホを取り出して、SNSを開く。検索履歴から『透』のアカウントを見つけ、タップする。
我ながら気持ち悪いなと自覚しつつも、そのアカウントを見ることが律のお決まりだった。
『透』は早くて3日に1回、遅いと1週間に1回ほどしか更新がない。それでも過去のつぶやきから『透』が学生であること、猫が好きなこと、午後の授業が眠いこと、お気に入りのアクリル絵の具があること。そんな些細な日常を知ることが出来た。
もし自分に思い切りの良さがあるならば、すぐにでも『透』に聞いてみたかった。
あの絵は俺の曲ですか? と。DMで送ってみようかと文字を打ち込んで、やはり送信ボタンを押すことを躊躇する。消してはまた書いて消してを繰り返す。
「あーだめだ……」
気を紛らわせるために無理やり目を瞑る。瞼の裏側の星の数でも数えているうち、律の意識は落ちていく。ほんの少しスマホ画面に親指が触れたタップ音にすら気が付かずに。

「……い、おー……おーい、律。律起きろ!」
乱暴に大きく揺さぶられ、律の意識が徐々に覚醒していく。極めつけに耳心地の良いとは言い難いおっさんの声が耳元で爆発した。
「飯だぞ起きろ!」
「だあっ!」
条件反射で律の身体が勝手に飛び跳ねた。きょろきょろ回りを見渡すと、腹を抱えながら豪快に笑う叔父の姿をとらえる。
「……もっと起こし方あったでしょ」
「あっはっは、悪いな。あんまりにすやすや寝てるもんで、つい」
すやすやと寝てる甥っ子を爆発音で起こす叔父ってなんだよ、と律は心の中で悪態をつくがあえて口に出すまい。こちらがムキになればなるほど喜ぶ男だから。
「で、何」
「飯買ってきてやったぞ、感謝しろ~?」
差し出されたコンビニの袋の底を両手で受け取ると、じんわりと温かい。袋を開いてみれば律の好物の鮭のおにぎりも入っている。
「……ありがと」
「それ食って頑張れ」
「ん、がんばる」
和久が律の頭をぐしゃぐしゃと景気よく撫でる。高校2年にもなって叔父に撫でなれるのは妙に落ち着かなくて、律は逃げるように手を払いのけた。視線をずらした先で、スマホが床に転がっていた。どうやら寝ている間に律の手からすり抜けて落ちてしまったらしい。落ちたスマホを拾い上げ、電源ボタンを押した。
「あ、あ……ああああ!?」
「だあっ、びくりした!? な、なんだよ!?」
目を丸くする叔父のとこなど構わず、画面を凝視した。そこには眠りに落ちる直前に開いていた『透』とのDM画面が映し出されていた。問題は、消し忘れた文面が誤って『透』に送られてしまっていたことだ。
しかし、律にとってそれはもうどうでもよいことだった。
『あの絵は、俺の曲ですか?』
そのメッセージの続きはこうだった。

───未読メッセージが一件あります。
『どうして分かったのですか?』


律は週に1回、作業を早めに切り上げてバイト先から自宅までの道すがら、花屋に寄る。春一色に染まる店先で売られていた薄桜色のつぼみに惹かれて、桜の切り花を一輪買った。イヤホンで音楽を聴きながら歩いていると、見慣れたマンションがもうすぐそこだ。いつも通り、律の住む部屋に明かりはなかった。
自宅のドアを開け、律はリビングの電気をつける。そうして、リビングのテーブルの片隅に置かれた写真立てに律は声をかけた。
「ただいま、母さん」
一輪挿しの陶器に桜の切り花を挿した。
「いいでしょ、桜の花。外はもうすっかり春になったんだよ」
話しかけた写真から、当然返事は返ってこない。構わずに続ける。
「俺さ、今春の曲を作ってるんだ。きっと母さんも気に入るよ。……完成したら、母さんより先に聴いてほしいひとがいるって言ったら、怒る?」
ゆっくりと目を閉じる。薄花色の淡さだけが、今も瞼の裏側に焼き付いて離れない。
「あの人がこの曲を聴いたら、どう描いてくれるのか、知りたいんだ」
たった3分19秒の音に乗せた、523文字の言の葉を、4000ピクセルの枠組みにすべてを描きだしてくれたように。いつか律の心の中だけで描いた光景をあの青で描いてくれると確信していた。
スマホを取り出す。結局返信できなかったメッセージの続きを送る準備はすでに出来ていた。今度は事故なんかではなく自分の意志で、送信ボタンを押す。
『俺と音楽ユニットを組みませんか。あなたに俺の曲を描いてほしいんです』
数分後に既読が付いたメッセージへ、『透』から返信が返ってきたのはその日から約1週間後のことだった。たった、一文だった。
『ごめんなさい、』
我ながら単純だと笑いたくなるが、律は久々に熱を出して3日ほど寝込んだ。


好きな色は何色か、と問われたらさんざん悩んだ末、青色だと答えるだろう。
限りなく透明な青が笹原透花の一番好きな色だった。
「透花せんせー!」
絵画教室『アリスの家』は今日も学校帰りの小学生たちの声で賑わっている。透花はセーラー服の上からグレーのエプロンを羽織り、肩ではねる黒髪をゴムで一つにまとめる。  
呼び声に急かされながら、教室のドアを開けた。油絵のつんとした残香が透花の鼻を擽る。壁に掛けられたいくつもの絵画と、ビニールシートを引いた床に置かれたパステルカラーの机とイーゼル。ちびっ子たちが自由気ままに真っ白な紙に色をのせている。
「とーかせんせー! こっち!」
「はいはーい」
手招きする生徒のもとへ透花は小走りで駆け寄る。ほくほくと頬を紅潮させた男の子がどうだと言わんばかりに腰に手を当てた。この数日手掛けていた作品が彼の満足のいく出来になったのだろう。どれどれと見てみれば、昨日までは五部咲きほどだった川沿いの桜並木が満開に花咲いている。
「どうだ!」
「うん、すごくよく描けてるよ」
「でしょ~!?」
透花は小さな拍手を送った。そうして男の子にもう少しだけアドバイスをしている透花の背中に向かって、落ち着いた男性の声が聞こえてくる。
「透花ちゃん、いらっしゃい」
「優一先生」
おっとりした優しい笑みを浮かべる眼鏡の男性は、この絵画教室『アリスの家』の先生である、有栖川優一だ。
透花が小学生の時からの付き合いになる。そして『アリスの家』は今や透花のバイト先だ。小学生たちが来る夕方のうちは『透花先生』としてバイトし、日が落ちる時間からはこの教室の一生徒としてキャンパスに向き合うのが日常だった。
「ごめんね。高校入って早々だし、忙しいだろう?」
「いえ、わたし部活入ってないので大丈夫ですよ。それにここに来ないとなんだか落ち着かないし」
春から透花は高校一年生になり、セーラー服が可愛いことで有名な女子高に進学した。地元からそれほど遠くない高校だから、中学校からの友人も何人か進学しているおかげで今のところ高校生活は順調だ。
他愛ない会話を弾ませていると、透花は伝言を頼まれていたことを思い出した。
「あ、そういえば今日は佐都子は休みだそうです」
「そうなのかい?」
「委員会が長引いているらしくて。急ですいませんって佐都子から」
緒方佐都子は、この教室に通う透花の友人だ。同い年の佐都子とは、中学から別々の高校に進学してからもまめに連絡を取り合う仲だった。透花と同じく、バイトとして定期的にこのアトリエに通っているが、ここ最近は高校の方が忙しいらしくあまり顔を出していない。
「いいよいいよ。そっか、じゃあ今日は透花ちゃんの貸し切りになるね」
「……いいですか?」
「もちろん。でもあんまり遅くならないようにね」
「っ、分かりました!」
静かなアトリエを独り占めできる機会はあまりない。透花はほんの少し胸を弾ませながら、優一に元気よく返事をする。
「とーか先生! こっちきてー!」
「はーい」
呼びかけられた透花の足取りが、さっきよりも上機嫌に軽やかな足を音を立てながら向かっていくのを見て、優一は穏やかにほほ笑んだ。

アクリル絵の具や油絵の具でキャンパスを彩るのも好きだが、最近はデジタルイラストの練習もしている。しかし、構図や背景の配色を考えるときはスケッチブックに鉛筆を走らせるほうが好きだった。いくつもパターンを考えて、鉛筆を走らせてラフ画を描くと胸が躍り出す。どんな色をのせよう。どんな線で描くのがいいだろう。ついつい時間を忘れて夢中になってしまう。
透花は机にスケッチブックを広げお気に入りの鉛筆で描く。耳にはイヤホンをつけて、あの曲を聴きながら。そうしていると、どんどん描きたい光景が浮かんでくるのだ。
透花はあの曲にすっかり心を鷲掴みされていた。
だから、イラストを描こうと思った。曲を投稿した人がもしかしたら見てくれるだろうか。そんな淡い期待を持ちながら、普段はあまり更新しないSNSに完成したイラストを載せた。当然のことながら都合のいいことは起こらず、透花にその人から連絡はなかったが。
イヤホンから流れる曲に耳を澄ませたときだった。
「──熱心だね、透花」
「っ、わあっ!?」
唐突に、透花の顔を覗き込むように乗り出してきた。思わずスケッチブックの上に身体を覆いかぶせて、見られないようガードする透花を、猫のような双眸がじっと見つめている。
「び、びっくりさせないでよ、纏くん」
「驚かしてないよ、透花が集中してたからじゃん」
全く悪びれないすまし顔で言う学ラン姿の男の子は、今年中学二年生になる有栖川纏だ。有栖川優一の息子でり、透花とはこの『アリスの家』に通い始めたころからの付き合いになる。妙に現実主義なところがあって、どこかおっとりした優一とは正反対の性格をしている。
そして、纏が透花を呼びにやってくるということは、19時を回っているということだ。優一の計らいで、遅くまで開けてもらっているアトリエを閉めにやってくるのが纏の役目だから。透花は広げたスケッチブックと筆箱を鞄に押し込んですぐに立ち上がった。
「ごめん時間忘れてて。すぐ出るよ」
「そんな慌てなくていいよ。忘れ物ない?」
「大丈夫!」
二人でアトリエから出ると、纏は鍵を閉めて透花を振り返る。
「送ってく」
「えっ」
さらりと言ってのける纏を透花は驚嘆の声とともに凝視した。穴が開くほど見つめられて、耐え切れなくなったのか、纏が眉をへにゃりと寄せる。ほんの数か月前までは高かったはずの目線が、今や同じくらいの目線になっていることに透花は気が付いた。
「纏くん大人になったねえ、今ちょっとときめいた」
「はあ!?」
「姉さんは嬉しいよ、うちの子が順調に好青年に育ってるんだもん」
「あー頭撫でんな! いい加減やめろその子ども扱い!」
纏が透花の手を払いのける。透花は乱れた髪を直す纏を見て、昔は照れながら黙って撫でられていたころの幼い纏を思い出して、少しだけ寂しく思うが言葉に出すのはやめておくことにした。
「じゃあ折角だし送ってもらおうかな」
「……最初からそう言ってよ、もう」
しまらないじゃん、とつぶやいた纏の声は春の夜風に攫われて、透花の耳に届くことはなかった。

透花の家は『アリスの家』から徒歩15分程度の場所にある一軒家だ。
門戸の前まで到着し、お礼を言うべく透花は振り返った。
「そういえばこれ、お母さんから。おばさんにお礼で渡せって言われてた」
纏は思い出したように手にしてた紙袋を透花に差し出した。上等そうな和紙の紙袋だ。
「えっいいの?」
「まるふくの大福だって」
「まじ? ……でも急になんで?」
「……夕爾の制服のお古貰ったんだ。だからそのお礼」
紙袋を受け取る手がピクリと震えるのを、纏は見逃さなかった。しかし、固まったのはほんの一瞬で、次に瞬きをする頃にはいつも通りの透花がそこにはいた。
「纏くん急に身長伸び始めたからね。成長期?」
「……うん、最近は寝てると節々痛いかも」
「あーあ、そのうちわたし抜かされるよ」
「姉貴面する日も残りわずかかもね?」
「あー生意気! ぱんち!」
「いたっ」
他愛もない冗談を何往復かしてひとしきり笑いあった後、纏はじゃあまた、と軽く手を振って来た道を引き返していく。その後ろ姿に手を振り返し、遠ざかっていくのを見守ってから透花はようやく手を止めた。

『もー、意見がまとまらなさ過ぎて最悪だったの!』
「あはは、それは災難だったね」
友人である佐都子から電話がかかってきたのは、透花がお風呂から上がって髪を乾かし終わるころだった。
電話口からでも分かるほど怒り心頭のようだ。透花は冷蔵庫から水のペットボトルを取り出して、2階にある自室へ向かう。
『それに先輩もいなかったし』
「先輩?」
『そそ。その先輩目当てに委員会入った女子がちらほらいて、今日出席してないと知るや否やよ。表立って人気ってわけじゃないけど、水面下で人気あるの』
「さすが共学。バチバチしてるわ」
『当ったり前よ。こちとら血気盛んなお年頃なんだからさ。で、そっちはどう?』
「まあ、あんまり変わんないよ。顔見知りばっかだし」
作業机のPCの電源を押して、イスに腰掛ける。鞄からスケッチブックを取り出し、今日書いた下書きの一ページを抜き取った。その一ページをスキャナーで下書きをスキャンし、PCにデータを取り込む。
『ふうん? 纏から聞いた話となーんか違うな』
「……纏くんから?」
『なんか急にやる気になった、連日連夜まで作業してるって。どうしたの? 急にスイッチが入った理由は?』
今まさに透花の手にペンが握られていることもお見通しなのか、と疑いたくなる鋭い突っ込みだ。
素直にその理由を答えてもよかったはずだ。しかし、透花の口からあの曲のことを言うのはどうしてか憚られた。
「んー、まあ、なんとなくだよ」
『なんとなく? 透花がぁ?』
「……あーまって、なんかメッセ来たみたい!」
誤魔化すには絶妙なタイミングで透花のスマホにメッセージが入る。スマホのロック画面に見慣れないアカウントからメッセージが一件入っていた。
どうやらDMで送られたものらしい。スパムか何かだろうか? と思いながらメッセージを読む。
「あ、あ、あ、ああああああ!?」
『へっ、な何!?』
透花の大絶叫に呼応するように佐都子も声をあげる。
謝る余裕すらなく、透花はその画面を凝視した。

───未読メッセージが一件あります。
『あの絵は、俺の曲ですか?』

あの絵とは、透花の思い浮かべている通りなら、あの曲を描いたイラストのことだろうか? それを俺の曲、というのなら。このメッセージを送ってきたのはまさしくあの曲を作った本人ということだ。
……見つけてくれたんだ、この人は。私の絵を見つけてくれた。
『……とーか? おーい、透花? 大丈夫?』
「ごめん、佐都子。今日はもう通話切るね」
『へっ? せめて状況の説明を、』
しんと静まり返った部屋で大きく息を吐きながら天井を見上げる。
透花はスマホに向き合い、文字を打つ。指先がほんの少し震えた。そうしてたった一言あの人にメッセージを送った。
メッセージが送信されたのを確認して、机の上にスマホを置く。緊張で力が入っていたのか、頭を使いすぎたのか、急に瞼が重くなるのを感じた。机に突っ伏して、夢の淵を微睡むうち透花の意識はだんだんと沈んでいった。
メッセージの着信音が再び鳴り響いたのにも気が付かずに。

その日、久々に夢を見た。
浮足立つ気分すら粉々に打ち砕く程の悪夢を。

紙吹雪が舞っている。
息を吹き込まれるはずだった物語たちは切り裂かれ、真っ黒に塗りつぶされ、無残に床に落下していった。
まるで地獄だ。耳を塞ぎたくなるような咆哮が鳴り響いている。二本の足がその無残に散った物語の死体の上で立ち尽くしていた。真っ黒な水溜まりが裸足に滲んでいく。足から徐々に視線が上がっていくほど、胸を激しく打ち付けるような鼓動が身体を支配する。
「なあ」
息が苦しい。酸素が奪われていく。暗闇より深い奥底を映したような二つの眼がこちらをじっと見つめていいる。それは、呪いの言葉だ。
一生染みついてとれない呪いの言葉。
「お前も俺に──死ねっていうのか?」

桜の花は連日の雨ですっかり落ちてしまったようだ。
最寄り駅を降りて、改札を通ると人々は一様に傘を開いて去っていく。透花もまた、手に持ったパステルカラーの傘を差して『アリスの家』に向かう。ローファーが雨の水を吸って歩き辛い。
雨の日は、『アリスの家』も閑散としている。小学生たちの賑わいが遠い昔のことのようだ。アトリエに顔を覗かせると、窓の外を眺めていた優一が透花に気付いた。
「今日はみんなお休みだって」
「……そうですか」
「うん。よかったら透花ちゃんが使って」
「……はい」
透花の肩をぽんと優しく叩いた後、優一はアトリエから出ていった。
一人残された透花は、イーゼルと描きかけのキャンパスを用意して席に腰を下した。座ったところで、絵の具を混ぜる気も続きを描く気も微塵も起きなかった。
創作とは厄介なものだ。一度行き詰まるととことん進まない。
線をなぞる様に描いていたころはどう描いていたのかすら思い出せない。粗を見つけるとどれもこれもが正解でないような気がして、一からすべてやり直したい気持ちになってしまう。スイッチが切れたようだ。そして、その理由を透花は分かっていた。
『俺と音楽ユニットを組みませんか。あなたに俺の曲を描いてほしいんです』
自分を見つけてくれたあの人。
透花の絵に価値を見出してくれたとするなら、これほど嬉しいことはなかった。
けれど。
けれど、透花は知っている。自分の創作が他者に評価される恐ろしさを。たかだか創作で、人の心がいとも簡単に砕けることを。
スマホの源ボタンを押してロックを解除すれば、何日も返せないままでいたDMが表示される。
最初から答えは出ていたはずだ。それを引き延ばし続けたのは、単なる自分のエゴだ。捨てきれなかったちっぽけなエゴ。
『ごめんなさい、』
一歩を踏み出す勇気はもう、無いんです。


3日ぶりの学校はうんざりするほど変っていなかった。
律は息苦しくなって、顔を覆うマスクを指でつまんで呼吸をする。治りかけの喉に春の乾燥した空気を送り込まれる。グラウンドから聞こえてくる野球部の声援をBGMに律は校庭の花壇に水撒きをしていた。
あれほど掻き立てられていた創作意欲はどこへ行ってしまったのか、無気力が頭を支配していた。むしろ今は音楽から遠ざかりたかった。花に無心で水をかけているほうが何も考えなくて済む。
『ごめんなさい、』
……ああもう、ほら、気が抜けるとすぐ思い出す。
大きく頭を振った。そのまま視線を下に向けると、いつの間にかホースの水の勢いがなくなっていることに気が付いた。どこかでホースがねじれたか、蛇口からホースが外れてしまったのだろう。律は重い足取りで手洗い場に向かう。
手洗い場には人影がった。蛇口を何度も捻りながら「もーなんで出ないんよ……やばいやばいバイト遅れる」とつぶやいている。手にじょうろを持っているところを見ると、律と同じ委員会の当番の最中のようだ。
「水でないの?」
「あーそうなん、で……ぎゃっ!! あ、あまみやせんぱい……」
後ろから唐突に声をかけたせいか、振り返った茶髪の女子は悲鳴を上げると律からすぐさま距離をとった。
「水やり当番の子?」
「ひゃっ、は、はい」
「あーほんとだ。水出ないね」
試しに律も蛇口をひねるが水は出ない。
「先生に言いに行かないとダメか」
「……ですよね」
「俺があとやっとくから、帰ってもいいよ」
「えっ、それはさすがに……」
茶髪の女子は目を見開いて、申し訳なさそうに眉を下げた。
「バイトあるんでしょ? 俺、この後も暇だから残りの仕事もやっとく」
「き、聞いてたんですか」
「じゃ、バイト頑張れ」
「……あ、あのっ、本当にすいません。ありがとうございます!」
茶髪の女子は律に頭を下げると踵を返した。手を拭くためか、スカートのポケットに手を入れてハンカチを取り出した時、一緒に何かが滑り落ちて地面に落ちる。
スマホだ。落とした本人はまだ気が付いていない。律は「ちょっと待って」と彼女を呼び留め、そのスマホを拾い上げた。
そして、固まった。
「す、すいません。ありがと……ひゃ!?」
スマホを受け取ろうと伸ばした手を律は咄嗟に掴んだ。目を白黒させて混乱する彼女を他所に、律はそのスマホから目が離せなくなっていた。
「雨宮……先輩?」
「……これ」
律はスマホの画面を彼女の眼前に持っていく。そこに映し出されたのは、ロック画面だ。律が何度も目にした、薄花色と月光のイラストが画面の中にあった。
どうかそうあってくれ、と縋るような気持ちで、目の前の少女に問いかける。
「きみが『透』?」
「……とおるって?」
現実は御伽噺のようにはいかなかった。見つめ返してくる無垢な瞳が律の淡い期待を無残にへし折る。
「ごめん。人違いだった」
薄く笑って、律は掴んだその腕を離す。
スマホを彼女の手に握らせた。そりゃそうだ。そんなうまい話があるわけもない。一刻も早くこの場から立ち去りたかった。
「それじゃあ、」
顔を伏せたまま彼女に背を向けたその時だった。
「あの!」
今度は逆に彼女が律の腕を掴んで引き留めた。無気力に振り返ると、目が合う。彼女は肩を跳ね上げて、掴んだ手を離した。そしてしばらく視線を泳がせた後、意を決したように口を開いた。
「雨宮先輩、このイラストの作者探してるんですか?」
心臓が口から出るのかというほど大きく脈を打っている。
「……知ってるの?」
燃え尽きた期待が、途端に膨れ上がっていく。
「私の友人です。名前は透花って言うんですけど……」
「本当に!?」
「きゃっ、」
少女の両肩を掴んで、律は目を見開いた。
「『透』を知ってるの!?」
「顔近っ、え、とあ、あの、『透』は透花のSNSのハンネなんですぅ……!」
「じゃあ!」
今からでも会って……、会って……何を言うんだ? 
すんでのところで出しかけた言葉が喉の奥に引っ込んだ。
「……先輩?」
深く息を吐いて、律は『透』の友人の肩から両手を離した。血が上り切った頭に酸素を送り込み、いくらか冷静さを取り戻した。急いていた気持ちが先行しないよう努めながら、口を開いた。
「名前、教えてくれる?」
「私ですか?」
「うん」
「……佐都子です。緒方佐都子」
「緒方さん。明日、緒方さんに渡したいものがあるんだ」
「渡したいものですか?」
「そう。それを『透』に渡してほしい」
「まあ渡すだけなら……分かりました」
「ごめん、ありがとう」

律はその日、『Midnight blue』で久々にPCを立ち上げた。まだ歌詞すらのせていない未完成の曲をUSBに取り込む。ファイル名は『未成年失格.mp3』。そして、音声データとともに、メッセージを残した。返事を待ってる、と。
次の日、律はそのUSBを佐都子に手渡した。
みっともないと笑われても可笑しくないほど、最後の悪あがきだった。


パチンと、花火のように音が弾けた。
ワンテンポ遅れて、沈み込んでいた意識がぱっと蘇る。透花は何度か瞬きをした後、目の前で両手を翳している纏を見た。
「また透花どっか行ってたよ」
「……ごめん」
「別にいいけど。最近ずっと心ここにあらず、って感じだね」
「いやーはは、最近寝不足で。面目ない」
笑って誤魔化してみるものの、聡い纏は納得のいっていない様子で「ふーん」とだけ相槌を打った。
『アリスの家』は本日は休業である。
不定期開催の勉強会がアトリエで行われていた。透花の向かいの席に座る纏は、問題集とノートに目線を落としたまま、平坦な口調で透花へ質問を投げかけてくる。
「何かあった?」
「……へ?」
「急に絵、描かなくなったから」
「んースランプでね」
「うそ」
纏は滑らかにペンを走らせていた手を止め、顔を上げた。
「透花はスランプで描かなくなったりしないじゃん。むしろ一心不乱に描き続けるタイプのくせに」
よく分かっていらっしゃる、と透花は苦笑いを嚙み締めた。
「僕に言えないこと?」
「言えないかなぁ」
「だろうね。透花がスケッチブックに描いてた下絵と関係あるでしょ」
「……目敏いね、纏くん」
「まあね。いつも見てるから、透花のこと」
「こらこら。年上をからかうんじゃありません」
「ちっとも動揺してないくせに。よく言うよ」
通過儀礼のように軽口の応酬を終わらせると、ほんの少し、気詰まりした間が開く。
「──もう、終わったことだから」
その間を切り裂くように透花は呟いた。
終わったこと、正確に言えば透花が終わらせたことだ。彼からメッセージが送られてくることは、無いだろう。そして透花もまた、彼の曲を描くことはない。
「久々に描くのが楽しい、とかガラにもなく思っちゃった。でも、もうおしまい。……うん、大丈夫だよ。すぐまた元通りいつものわたしに戻るから」
熱に浮かされたような高揚感は、ほんの一瞬だけ透花の罪を忘れさせてくれた。けれど、ひと時の夢でしかない。夢は夢のまま、所詮現実には追い付けない。
にへらと透花が笑うと、険しい顔で纏は握りしめたペンを机に叩きつけた。激しい音に透花の肩が小さく跳ねる。……これは本当に怒っているときの纏だ。
「透花のそういうとこ、本当に大っ嫌いだ」
透花は苦笑する。だってわたしも、と同意しそうになったから。
「つまんないことばっか考えて、悪い方にばっか自己完結して、嫌になったらもう全部終わりにしちゃおうとか、描き続ける価値は自分にはないとか、そういうとこ全部! あいつが──」
「とーーおーーかーー!!!」
纏が勢いよく立ち上がった反動で転げた椅子の音と、破り倒さんばかりに開いたドアの音が重なった。押しつぶされるような沈黙が2秒ほど続く。
唐突な来訪者は焦ったように顔を傾げた。
「……え? 何この雰囲気。地獄?」
「佐都子」
来訪者の正体は、透花の親友の緒方佐都子だった。乱れた前髪の様子から、学校からここまで急ぎ駆けてきたことが伺える。
「どうしたのよ? 喧嘩?」
「あーはは」
透花は横眼で纏を見やるが、当の本人は不貞腐れたように顎を逸らすだけだった。これはしばらく口は聞いてもらえなさそうだ。
「佐都子の方こそどうしたの?」
「ああ、そうそう! そうなのよ!!」
「え? な、何? 近、近いよ?」
佐都子は机から身を乗り出して、透花の顔にまで急接近してくる。その様子はさながら不祥事を起こした政治家へマイクを突き付ける記者のようだ。
「透花、いつから雨宮先輩と知り合いになったの!?」
「……誰?」
「え?」
「ん?」
お互いの顔を見やる。
「いやいや、雨宮先輩よ?」
「うん、え? 誰?」
「だーかーら、雨宮先輩だってば! この前電話で言ってた!」
「あっ、思い出した! あの、密かに人気ある先輩だっけ?」
その人がなんだというのか、と透花は首を傾げた。残念ながら透花の高校は女子高であり、佐都子とは別の高校である。つまり、その雨宮先輩という人物は透花の知人の検索履歴には一件も引っかからないのだ。
「知り合いなんでしょ?」
「全く存じ上げないですけど……」
「ええ? じゃあ人違い? でもなぁ、『透』って言ってたし」
とおる。その単語に透花は耳を疑った。『透』は透花がSNSで使っているハンドルネームだ。リアルで知っている人なんて佐都子ぐらいなのに。
「透花のイラスト見て、急に態度が変わったからさ」
「わたしの?」
「うん。私のスマホのロック画面にしてるじゃん? それ見て急に、きみが透ですかって」
ありえない。そんなわけない、否定する言葉の数と同じくらい胸の奥底で期待が膨らんでいく。
「その人から、これを渡してくれって、頼まれたんだけど」
佐都子はスカートのポケットから取り出したのはUSBだった。手のひらに乗せられたそれを透花は握り閉める。
確たる証拠は、ない。しかし、透花はどこか確信していた。彼の最後の悪あがきであると。
「っ、纏くん!」
纏が怪訝な顔で片眉をぴくりとあげた。
「事務所のパソコン貸して!」
「……いいけど、」
纏の言葉は最後まで聞き取れなかった。否、聞く余裕は透花になかった。

立ち上げたPCにUSBを差し込んだ。
保存されていたのはmp3ファイルとテキストデータのふたつだった。Mp3ファイルのタイトルは『消せない春で染めてくれ.mp3』。
透花は直感した。彼の新しい曲だ。彼が透花に描いてほしいと言ってくれた曲だ。
そのファイルをクリックする。数秒のタイムラグの後、機械音でない、知らない男の人のハミング音が、ピアノの音とともに合わさって奏でられていく。
すべてを聴き終えた透花は、静かに息を吐く。いつの間にか、マウスを握る手に力が入っている。大きく開いていた穴が、たった4分にも満たない音楽でいとも簡単に掌握されていた。
「……ずるい」
透花の口から彼への悪態が漏れる。
ずるいよ、こんなの。こんな音楽を聴かされたら、もう、どうしようもない。
残るデータは、テキストデータのみ。そのデータを開くと、ただ一言『返事を待ってる』とだけ書かれていた。


───未読メッセージが一件あります。
『明日18時、○○駅前の公園でお会いできませんか』

そのDMが『透』から送られてきたのは、『Midnight blue』のバイトの真っ最中だった。律はそのメッセージを何度も読み直した。どうやら、見間違いではない。それでもまだ信じられなくて、ちょうどトイレから出てきた和久に頬をつねるよう頼むと、気味悪がりながら思いっきりつねられた。普通に痛かった。
夢じゃない。律は口を覆った手のひらの中でだけ「よっしゃあ!」と小さく歓喜の声を上げる。すぐさま気を取り直して、緩み切った自分の両頬を叩く。
スマホに文字を打ち込む。
返事の内容はもう、決まっている。

指定された駅は、学生や仕事帰りのサラリーマンやOLが乗り換えでごった返すターミナル駅だった。
律は人混みに押されながら、改札を通り駅を出る。目的地である公園に向かって歩き出した。心臓の音が反芻して耳に挿したイヤホンの音楽が全く入ってこない。
足元には連日の雨で落ちた桜の花の絨毯で一面埋め尽くされていた。すれ違う人々はみな、春風で振り落とされる花びらを見上げながら、惚けたように歩いている。
ただひとりだけ──律の視線の先で、足元を見たまま俯く人影を除いて。
彼女だ、と律は直感した。ここら辺では見かけない、セーラー服に身を包んだ小さな背中が不安そうに縮こまっている。肩上まで伸びた黒髪の隙間から、桜色の唇が固く結ばれているのが見えて、律の胸はさらに張り裂けそうになった。
春の甘い空気を胸いっぱいに吸い込んで、その背に律は声をかける。
「透さん、ですか」
細い肩が揺れて、伏せられていた顔が緩慢な動作で律を見上げる。
空の青さを数多にも重ね合わせたような深い色の瞳がこちらを見ていた。
ああ、このひとだ。彼女の瞳を通して映し出された世界から、あの透明な青が産み落とされたのだ。
彼女は胸の中で抱えたスケッチブックを強く両手で抱き締めて、意を決したように言う。
「あなたが、イツカさん……ですか?」
「うん、はじめまして。俺の本名は、律。雨宮律。きみは?」
「わたしは……、透花といいます。笹原透花」
とうか。律は口の中で転がすように復唱すると、すんと馴染む。彼女の名前にぴったりだと思った。
「あの、」
「えっと、」
ふたりの声が重なる。お互いぱちくりと目を合わせて、先に笑ったのは透花の方だった。笑い声に合わせて、黒い髪の先が緩やかに靡く。
「ご、ごめんなさい。すごく緊張してたから、今のでが肩の力が抜けてしまって」
「ああ、うん。それは俺も。昨日、全然寝られなかったし」
「わたしも全然寝られませんでした」
「俺だけじゃなかったんだ。ちょっと嬉しい」
透花は少しだけ目を見開いて、「ちょ、直球だ……」とさらに頬を赤く染めて、眉を下げた。
「えっと、あの、ですね」
「うん」
「まずは、これを返したくて」
律の前に何かを握りしめた手が差し出される。開いた手のひらにあったのは、USBだった。
え、と腑抜けた声が律の口から洩れる。
「ごめんなさい、」
その一言が重く、ただ重く、律に圧し掛かった。
「……って、言うつもりでした」
「へ?」
思わず表を上げると、透花は苦笑いをしながら続ける。
「わたしは絵しか描けません。それもすごく中途半端で、すぐスランプになるし、誰かに自分の絵を評価されることが怖くて仕方なくて、満足のいくものなんて何一つ描けなくて、自信もなくて、全部嫌になってもう描きたくないって投げ出すような弱い人間で、あなたが期待しているほどの才能も実力もないと思います」
「それは……違うよ」
「違うくない、です。わたしよりずっと、上手く描ける人はいっぱいいます。……けど、もう、どうしようもないじゃないですか。あんなの、聴かされて」
深い青の瞳の奥で、雨上がりに差し込む太陽の光のように輝いている。
「あんなの聴かされて、描きたくならないやつなんか、いませんよ」
「は、」
……なんていう、殺し文句だそれは。
「あの、雨宮さん? ど、どうかしましたか?」
「……いや」
「はい」
「……なんか、告白みたいだなって」
「なっ、」
言葉を詰まらせた透花は、ぽぽぽと効果音をつけたくなるほどm顔を真っ赤に染めた。そして、動揺のあまり、力が抜けて今まで両腕で抱えていたスケッチブックを地面に落としてしまう。そのタイミングを見計らったように、花嵐が吹き荒れる。風に攫われてスケッチブックから幾枚もの紙が一斉に舞い上がった。
──それは、透花が描いた世界のすべてだった。
はらり、と律の足元に落ちた一枚の紙を拾い上げる。
鼓動が激しく波打っている。恥ずかしさと、嬉しさと、言いようのない期待感。
「やっぱり、きみがいいよ」
本能が叫んでいた。彼女しかいない、と。律は透花に拾い上げた一枚の紙を差し出す。
「きみに、俺の曲を描いてほしい」
透花は春の陽光より淡く笑いながら、震える手でその紙を受け取った。
それが降参の合図だった。


「先生、すいません」
律の呼びかけに、よれた白いシャツの男が振り返った。薄ぶち眼鏡に律の顔が反射している。
「雨宮か、どうした?」
「遅くなりましたけど、これ、提出しようと思って」
鞄の奥底にしまい込んだまま、しわのついたA4用紙を律は担任に差し出した。その紙を受け取った担任はそこに綴られた文字を追って、顎を擦りながら頷く。
「あーはいはい、進路希望な。雨宮はー、大学進学希望、で大丈夫だな」
「はい」
「3年からは受験で忙しくなるからな。2年のうちに青春を謳歌しておけよ~?」
軽く律の肩を叩いて、担任は去っていった。
「……青春、ね」
しばらくその背中が遠ざかるのを眺めていると、ポケットの中でスマホが震えた。手に取って確認してみると、連絡先は『透花』と表示されている。きっと、新曲の最終確認のために連絡をしてきたのだろう。
電話口の向こうから興奮冷めやらぬ透花の声が聞こえてきて、思わず口元が緩む。なぜなら、律も同じように舞い上がっていたから。

猶予は、残り1年。
『音楽なんかで世界が救えない』ことを証明するために、律は音楽をする。
7月某日、深夜。
『アリスの家』の一室から悲痛な叫び声が響き渡る。

「も、も、もうっ、もうだめだーーー!!」
透花は頭をぐしゃぐしゃに搔きむしった。
前髪を乱雑にまとめ上げていたシュシュが落ちる。愛用のブルーライトカットの眼鏡の下には青白い隈が濃く残っていた。
透花のすぐ近くには、机につっぷしたまま一ミリも動かない佐都子がさながら殺人現場のように気絶していた。机の上に置かれた大量の栄養ドリンクの空瓶が現場の酷さをさらに際立てている。
まさに地獄絵図であった。
「もう無理だああ、締め切りに間に合いませんーーー!!!」
嗚咽交じりの叫びは、夏の短夜の闇とともに溶け込んでいく。
この地獄が生み出されたのは、ゴールデンウイーク後の中間テストを終え、ようやく夏の兆しが見え始めた5月末のことである。


「あーあ。いきなり再生数伸びたりとかさ、現実問題そんな上手くはいかないか」
律がコーラ片手にごちる。向かいに座った透花もまた出来立てのポテトを口に運び、ですね、と返した。
夕方18時過ぎ。
某ハンバーガーチェーン店は部活動を終えた学生や、参考書やノートを広げた学生たちで賑わっている。
透花たちの目の前に置かれたのは、次に動画サイトへアップするため、構想中の曲たちである。
『ITSUKA』。
あの日、雨宮律と笹原透花によって結成された音楽ユニット。律が初めて投稿した際のアカウント名『イツカ』をローマ字に変換して、ユニットとしての名前に改め、2曲目である『消せない春で染めてくれ』をアップしたのは5月末のことである。
それから1週間ほど経った。
結果から言えば、初投稿曲よりは大幅に再生数は伸びた。
1週間にして再生数は6,000回を超え、コメント欄にも感想を残してくれる視聴者がちらほらといる。が、それでも動画サイトに投稿される数多くの曲に埋もれていることは否めない。
「笹原さんの絵と俺の曲合わせて見たときは、めちゃくちゃ興奮したんだけどなー。これは絶対いける! って」
律はがっくり肩を落とした。
「動画のクオリティかー、やっぱ」
「それは否めないです……。フリーの動画編集ソフトじゃ、やっぱり限界ありますし。センスもいるから」
そう。透花たちが一番苦戦したのは、編曲でも、イラスト作成でもなく、動画編集だった。透花はもちろん、律もまたそちら方面はずぶの素人。曲の流れるタイミング、イラストとのマッチ具合、歌詞をどう魅せるのか。人を惹きつける動画というのは、その『魅せる』がうまく嚙み合っていることで生まれる。次の曲に取り掛かる前に解決しなければならない大きな問題を前に、足踏みしていた。
「俺、動画編集とか詳しい知り合いとかいないんだよね。笹原さんはどう?」
「わたしも、……あ」
いないです、と言い切る前に透花の頭の中にひとりだけ思い浮かんだ。
「誰か心当たりが?」
「えーと、んー……」
身を乗り出して期待に目を輝かせる律を前に、透花は口ごもる。彼に協力を仰ぐなら、今透花たちが抱えている問題も一瞬で解決してくれるだろう。それは長い付き合いの透花の折り紙付きだ。しかし、生半可な気持ちで頼るには返り討ちにされること間違いなし、である。
「思い当たる人は、います」
「まじ?」
「が」
「が?」
「……相応の覚悟が必要です」
「うん?」
「……纏くんに協力を仰いでみます」
有栖川纏。透花の幼馴染。
彼の趣味は、動画編集だった。


「ごめん遅れた! 透花……と、誰お前」
次の日。
待ち合わせに指定していたターミナル駅の時計台の前にやってきた、纏の第一声がそれだった。こちらに駆け寄る途中までは、いつも通りだった纏の表情が急に無表情に切り替わったのである。
そして視線の先は、もちろん律である。妙に重い空気が流れていた。纏に至っては毛を逆立てた猫のように威嚇している。
「あ、えっとね、纏くん。この人は、」
「どうも、俺は雨宮律。よろしく」
いつの間にか透花の背に隠れていたはずの律が顔を出す。差し伸べた律の手を、ぱしんと纏は振り払った。
「よろしくしない」
律は落とされた手を擦った。何か思い至ることでもあったのか、ふーん? と語尾を上げて機嫌よく喉を鳴らす。
「はは、初手から横暴じゃん」
「……何なのコイツ。説明して、透花!」
「纏くん落ち着いて、」
「……まさか、僕に相談したいこととコイツが関係してるとか言わないよね?」
「お、察しいいね。その通り。正解」
「お前に聞いてないから。黙れ。てか透花から離れろ」
「笹原さんの近くにいて何か問題でもある?」
「とりあえず、わたしの間で喧嘩するのやめてください……」

何とか纏を説得し、近くのファミリーレストランに押し込むだけで透花の体力は半分ほど消耗していた。重苦しい雰囲気がその卓を包み込んでいた。
これからが本番だというのに、だ。
透花は腹を括り、正面を見据える。纏の殺人的に冷たい目線が透花を突き刺した。普通に怖い。
「で、何? 僕に頼み事があるんでしょ」
「それは」
言葉を詰まらせる透花を見かねてか、隣から助太刀が入った。
「動画を作ってほしい」
「誰が? 何の?」
「俺の曲と、笹原さんのイラストで動画を作ってほしいんだ。MVってやつ」
「はあ? 冗談?」
「本気。笹原さんと1曲作って、もう既に動画サイトに投稿してる。『ITSUKA』って名前で」
「……透花が?」
律の言葉だけでは信じられなかったのだろう、纏は透花を見やった。
「それ、本当?」
「……うん、本当だよ」
纏はしばらく押し黙った後、透花から視線を逸らした。
「そういう、ことか」
「え?」
「ここ最近の透花の様子。ようやく合点がいった。……コイツのせいだったんだ」
「せい、って人聞き悪いな。……で、どう? やってくれるの?」
纏はしばらく思案するように眉を寄せ、それから一つ諦めに似たため息をついた。
「まず、その投稿した曲聞かせて。考えるのはそれからでも遅くないでしょ」
「お、話が早いね」
律はスマホを纏の前に置く。そして、イヤホンを差し出すと、纏はイヤホンをひったくって耳に嵌めた。
そこからが、地獄の始まりである。

動画の再生ボタンを止めた纏はイヤホンを外し、軽い口調で言った。
「まあ、いいんじゃない」
纏にしては柔らかい物言いに透花は肩透かしを食らう。絶対酷評されると思っていたからだ。
透花から心の準備をしておくようにと念押しされていた律もまた、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしている。この反応ならとんとん拍子に話が進むに違いない、と律は期待に胸を膨らませ前のめりになった。
しかし、纏は一瞥したのち、冷めた口調で言い放った。
「──ド素人が自己満でやる分にはちょうど良くて」
ぴしり、と氷がひび割れる音が聞こえた。
「……は?」
「だから自己満でやる分にはいいんじゃないって言ったんだよ」
「は?」
透花は思わず額に手を当てて、項垂れる。やはり、透花の予想通りになった。
「まず、第一に動画のクオリティが低すぎる。よくこれをサイトにアップしようと思ったね。視聴者に再生してもらおうって気概ある? こんなサムネで? 笑える」
「……」
「歌詞フォントクソダサすぎ。透花のイラストの邪魔しかしてない。曲の冒頭と若干ずれてるし、サビの盛り上がりに全然マッチしてない。ねえ、ちゃんと編曲したの? なんかすごいバランス悪くない? やりたいこと詰め込み過ぎて破断してるように聞こえる。二郎系ラーメントッピング全部乗せニンニクマシマシじゃん胸焼けさせたいの?」
「……」
「透花ここの部分描くの絶対3週間以上かかってるでしょ。一枚絵で何秒持たせる気だよ? 動画の意味無いじゃん。相変わらず細部までこだわり過ぎて動画アップするまでの納期伸ばしまくったのバレバレ。そういうとこほんとに悪癖だよ」
「……」
撃沈。その一言に尽きた。
既に透花たちの戦意は完全に喪失している。だというのに、「一番の問題は」と纏は続けて言葉を重ねた。
「なんの宣伝もなしにこれをアップしたことが最大の過失」
「せんでん……?」
動画をアップすることが最終目標だった透花たちにとって、その二文字は全くの頭の中にはなかった。
まさか動画以外のことを指摘されるとは思いもよらなかった。純粋すぎる瞳が4つほど向けられて、今度は纏が項垂れる番だった。
「これだから創作バカは……」
酷い言われようだ、と透花は苦笑する。
「この動画サイトで一時間に何本の動画がアップされると思ってんの? 千本はくだらないわけ。完全なレッドオーシャンなの。ユーザーに見てもらうに一番必要なのは宣伝。次に宣伝。MVの完成度は二の次三の次。まして無名な音楽ユニットがなんの宣伝もなしにここまで視聴されてるのが逆に奇跡だから。自分たちの運と才能に土下座して感謝した方がいいよほんとに」
「なっなるほど……」
すべてを言い切った纏は目の前に置かれたオレンジジュースを勢いよく飲み干した後、かん、と机に叩きつけた。
「総評。サイトにアップすることが最終目標なら、お前らのお遊びに付き合う暇はない」
纏の言う通りだった。ぐうの音も出ないほど。透花たちにとって、曲を作ってイラストを描いてそれを動画にして、サイトにアップする。それだけだった。それだけで完結していた。続きがなかった。纏に自己満と吐き捨てられても否定できなかった。
「──けど」
「え?」
「けど、本気でやりたいって言うなら、お前らに付き合ってやってもいい」
「本当か!?」
「それ相応の覚悟があれば、の話だけど」
纏の視線が透花に向けられた。視線が訴えていた。お前に逃げ出さずに最後までやり遂げる覚悟があるのか、と。こういう時に言質を取ろうとするところが、纏らしい。
覚悟ならあの日、律から紙を受け取ったときにとっくに決めた。この先何があったとしても、描き続ける。描くことしか透花にはできないから。
「覚悟はあるよ。協力してほしい」
纏はうら寂しそうに笑う。
「……透花、変わったね」
ぽつりとこぼした言葉の意味を飲み込む前に、纏は頷いた。
「いいよ。協力する」
契約成立の握手で締め括ろうと纏は律に向かって手を差し伸べた。
今度は振り払われず、確かに握られた手と手。律が納得のいかない様子で、唇を尖らせた。
「話を受けてくれるのは有難いけどさ、あんな酷評しといて協力するのはなんで?」
「そんなの、決まってんじゃん」
纏はにっと年相応に悪戯っぽく口元を上げて、笑う。
「このまま埋もれさせておくには、惜しいなって思ったから。なんか文句ある?」
斯くしてその日、音楽ユニット『ITSUKA』に動画編集兼プロデューサーが一名加わったのである。


纏が『ITSUKA』のメンバーとして加入したその約一週間後。
グループラインに招集命令がかかった。もちろん纏からである。場所は前回と同じく、某ファミリーレストラン。夕方18時過ぎのことである。
「これに応募します」
ばばん。効果音が付きそうなほど大仰な態度で、纏はスマホを印籠のように掲げた。
透花たちがそのスマホを覗き込むと、『集え! 次世代の動画クリエーターたち! 大賞受賞作品には賞金30万円』と描かれたとあるサイトだった。
「なにこれ」
「毎年やってる動画クリエーター向けの賞。僕たちが応募するのはこのMV賞ね。この賞を受賞したのがきっかけでメジャーデビューしてる人もいるくらい有名なやつ。激戦区だよ」
「待って待って。やるの決定事項なの?」
「はあ? 当たり前じゃん」
「当たり前なんだ……」
すんと、表情の抜けた纏が続ける。
「……家に帰って改めて考えたんだけど。お前らには創作する才能以外は期待しないことにした」
「失礼だなお前」
「『ITSUKA』のロゴ作ってない、SNSもやってない、無料サブスクに楽曲アップしてない。セルフプロモーションって言葉、ご存じ?」
「知らねえわ」
「黙れ。クソ律」
「仲いいねふたり」
「透花勘違いしないで。コイツとはあくまで仕事上の関係だから。ともかく! こんなビッグチャンス逃すわけにはいかない!」
机を叩いて立ち上がった纏は、ぐっと拳を握りしめて選挙する議員のように熱く語る。
「お前らの才能で大賞を搔っ攫い、知名度と賞金30万円を手に入れる! その賞金でサイト開設とグッズ展開に充てればその分お金が入る。今以上にクオリティの高いもん作らせてあげるよ、金でね」
「結局金かよ」
「生言ってんな創作バカ。金無くして一定クオリティには担保できない。不足分を補うのはお前らクリエーターの仕事だけどね」
久々にこんなにも生き生きとした纏を見たかもしれない。多少の文句を垂れる律もまた同じように目を輝かせている。もちろんそれは、透花も同じである。
「いいね、面白い。その話乗った!」
「わたしも!」
「話が早くて助かるよ。そうじゃなくっちゃ」
座り直した纏が得意げに説明を始める。
「今回はテーマが設定されてる。そのテーマに沿ってMVを作らなくちゃならない」
「そのテーマは?」
透花が問うと、纏はにんまりと笑って答えた。
「青春」
青春。青い春。
想像しただけで透花の胸が躍った。こほん、と咳払いがひとつ。その音で透花ははっと我に返った。
「けど一つ問題がある」
「問題?」
一呼吸置いたのち、纏はにっこりと笑った。
「応募の締め切りが7月21日。あと一か月しかない」


行き慣れない駅の改札を通って、出口に立つと雨の匂いがした。
肌に触れるしっとりとした重い空気、見上げた空からか細い蜘蛛の糸が垂れ下がってるように絶え間なく雨が降り注いでる。
徒歩で数分程度、まだ眠ったままのネオン街を横切ったその先にジャズバー『Midnight blue』はあった。
店先に置かれた電子看板はまだ点灯していない。
地下へ続く階段を何段か降りると、ウッドドアには『close』のプレートがぶら下がっていた。
「先に入ってていいって言われたけど……」
もう一度律とのラインを見た。
『ごめん少し遅れる。風邪ひくから中入ってて!』とメッセージが書かれている。
透花がドアの前で途方に暮れていると、からん、と控えめにベルが鳴った。
開かれたドアから、背の高い男性がひょこっと顔を出す。着崩したバーテン服にタバコを口に咥えて、気だるそうに頭を掻いている。しばらく見つめあった後、呆けた表情で透花に問うた。
「んあ? どちらさん?」
「あ、あの、えっと、雨宮さんにここに来てほしいと言われたんですが……」
「ん? んー、ああ!」
何やら合点がいったのか、ぽんと手を叩いて透花を指さした。
「もしかして律の彼女?」
「か、かの!? ち、ちち違います!」
「うはは、じょーだんじょーだん。反応いいねーお嬢さん」
出会い頭に面識のないおじさんにからかわれたことだけは理解した。
「どうやら間違えたようです。すいません、さようなら」
「あー待って待って! 律に用があって来たんだろう? ならここで合ってるよ」
早々に立ち去ろうとした透花を引き留めたその男は、咥えたタバコを指で挟んでにっと子供みたいに笑う。
「俺、律の叔父さんだから」

朝川和久、と名乗るバーテン服の男は律の母方の叔父だと説明された。
とりあえず風邪引くから入りな、と和久に案内され、透花は渋々その誘いを受けることにした。嗅ぎ慣れないアルコールのようなつんとした匂い。こぢんまりとした店内には丸いウッドテーブルにイスが数脚、そして何より透花の目を惹いたのは店の奥に置かれたグランドピアノだ。小ステージの3分の1ほど占めており、天井からスポットライトで照らされることでさらに存在感が増している。
落ち着きなく店内を見まわしていると、バーカウンターから和久が顔を出した。
「透花ちゃん、ココア好き?」
「あ、は、はい」
「おっけー」
軽い返事を残して和久は再び奥に引っ込んだ。
未知の空間が落ち着かなくて、視線を泳がせていると……その先に高そうな額縁に入れられた写真が、透花の目に留まる。
古めかしい薄茶色の写真に収められていたのは、ひとりの女性だ。
スタンドマイクの前で、ライトを一心に浴び、艶やかに歌う姿がやけに目を惹いた。
「その人ね、俺の姉貴。んで、律の母親」
唐突に掛けられた声の方を振り返る。湯気の上がるマグカップ片手に、和久は薄く笑った。
「まあ、律がこーんなちっこい頃に亡くなったけどな」
透花は息を呑んだ。
「結構有名なジャズシンガーでさ。俺がここ始めるころにヒットした姉貴の曲が店名の由来なの」
「『Midnight blue』、ですか?」
「そう。よくそのステージに上がって客の前で歌ってた。チビ律もよく夜更かししてここに聞きに来てたよ。あいつに音楽を教えたのも姉貴なんだわ」
「……全然、知りませんでした」
「まあ、あいつ自分のこと喋んの好きじゃねーからな」
『ITSUKA』を結成して1か月と数週間が経つ。思い返せば、律と家族の話をしたことがない。もちろん、自分自身も意図的にしないようにしていた。それは、律も同じだったのだろう。
「透花ちゃん」
名前を呼ばれ顔を上げると、和久は慈しみを含んだ笑みで言う。
「やっぱり、君だったか」
「……え?」
「律のやる気スイッチ入れた顔も知らないお姫さんの正体」
「はい?」
「んーん、こっちの話」
手をひらひらと振り、一人納得した様子の和久は透花の前にカップを置いた。
「君さえ良ければ、律のわがままに付き合ってやって。んで、律の理解者になってくれたら嬉しい。そしたら叔父さん、ちょっと安心できるからさ」
ぽりぽりと頬を掻く和久の言葉に返事を返そうとした、その時だった。

「──ごめん! 遅れた!」
突然開かれた扉から入ってきたのは、律だ。駅から傘も差さずに走ってきたのだろう、髪先からぽつぽつと雫が落ちて、ブレザーの肩の部分に黒いシミを作っている。
「噂をすれば何とやらだな」
「げ。叔父さん。……もしかして、笹原さんと話してたの?」
「積もる話を色々とな。ほらタオル」
タオルを受け取りながら、律は顔を顰めた。
「積もる話ぃ? 笹原さんに余計なこと言ってないだろうな?」
「さあ? それは叔父さんと透花ちゃんの秘密だからな」
和久は肩を何度か捻りあくびを漏らす。
「んじゃ、あとは若人に任せておっさんは退散するわ」
 
静かになった店内で取り残された若人のふたり。律は頭にかぶったタオルでぐしゃぐしゃと搔きまわしながら、透花の顔を覗き込んだ。
「叔父さんと何話してたの?」
「……秘密です」
律が知られたくないだろう話をほじくり返すのは憚られた。透花もまた、容易く誰かに語るには痛々しい古傷を誰かに抉られたくない気持ちをよく知っているから、なお。
「ふうん? まあ、いいけどさ。なーんか疎外感あるなぁ」
全然納得のいっていない律から話を逸らすべく、透花は話を切り出すことにした。
「そ、それより、ここに呼び出した理由はなんでしょう?」
「ふうん……? まあいいや。今日ここに来てもらった理由は、えーっと、あ、あったあった」
律は鞄の中身をまさぐり、取り出だしたキャンパスノートを透花の前に広げた。
五線譜のノートに乱雑に書き綴られたそれが、楽譜だと透花はすぐに気づいた。
「今回は締め切りのことも考えるとイチから作曲する時間もないからさ、描き溜めてたやつ何曲か選別してきた。つっても、枠組みくらいしか考えてないから早く本腰入れて曲作んないとだけど」
「初めて見ました、楽譜」
「殴り書きだから、あんまじっと見られると恥ずかしい」
「わたしが見ても分かんないですよ?」
「笹原さんだって描きかけのラフとか見られたら恥ずかしくなるでしょ。それと一緒」
「あーなるほど」
未完成のものを見られる恥ずかしさは、どんな創作をしていたところで同じなのか、と透花は得心いった。
「ほかの人には絶対見せらんないけど、笹原さんは特別ね」
「そっ、……そうですか」
「俺も笹原さんのラフ見ちゃったから、これでおあいこってことで」
「その話掘り返します!?」
あの日の情景を思い出して透花は恥ずかしさに目を伏せる。透花にとっては忘れてほしい黒歴史でも、律にとってあれほど心打たれた瞬間を忘れるはずもない。くつくつと上機嫌に喉を鳴らして、律は「さて」と振り返る。向けられた視線の行き先はグランドピアノだ。
「こっちきて。笹原さんに聴いてほしいんだ」
透花の手を引いて、律は小ステージへ上る。

ステージに上がると、身が引き締まるような感覚がする。からりとした緊張感が指まで伝わっていくのだ。存外、その感覚が律は嫌いではなかった。
透花をグランドピアノの背無しイスの半分に座らせ、律はその半分のスペースに腰を下す。
譜面台にノートを広げ、鍵盤蓋を上げる。音楽室以外で見たことのない鍵盤を前にして目を輝かせる透花に、律はこほんと一つ咳払いを落とした。
「思いつきで適当にコード組んでるから、あんま期待しないで聴いてね」
滑らかな手つきで鍵盤に指を置く。楽譜をなぞるように優しい音がピアノから零れ落ちていく。律の掠れた低く震える声がハミングで、追随する。
自然と瞼が落ちて、音に集中する。
『青春』。
青春を描くとするなら、わたしは何色の青を手に取るだろうか、と透花は思う。
直視するには鮮やかすぎる青に黒を数滴垂らして混ぜたら、きっと脆くて痛くて苦い味がするんだろう。青春の終わりの、心に穴が開いたような空虚を埋めるなら──朝と夜が曖昧に溶けた境目みたいな紺青が似合うに違いない。
これだ、と透花は確信した。
ゆっくりと目を開くと、じっと透花の顔を覗き込む瞳が三日月のように細くなった。
「どれが描きたくなった?」
透花は広げられた楽譜の中で一枚だけ指さした。
すると律は予想通りだ、とでも言うように満足げに頷く。
「だと思った」
「雨宮さんもこれが、」
「律」
「え?」
「律って呼んで。俺も透花って呼ぶから」
律の瞳があまりも自分を真っ直ぐにとらえるから、逃げようがない。透花は伺うよう恐る恐る口にした。
「……り、つくんも?」
「うん。俺もこれがいいと思ってた。だから、透花と一緒で嬉しい」
透花は何も言わないまま、顔を伏せた。
伏せた彼女の耳が赤く染まっているのには、言及しないことにした。


PCの時刻がすでに23:57を表示していた。
耳につけたヘッドフォンから流れるそれは、永遠と同じところばかりをリピートして、どうやら次の小節を忘れてしまったかのようだ。
だらりと両腕を落として天井を見上げた。
残り、1分。
何杯飲んだか分からないコーヒーの苦さが舌に残留して、いたずらに脳だけは冴えわたらせてくる。誰でもいいから殴って俺を気絶させてくれ、と願わずにはいられない。
死刑執行まで、残り10、9……5、4、3、2、1。

テテテン、テンテテン。
24時ピッタリにスマホから鳴り響く電話の着信音に、律はコンマ一秒にも満たない反射速度で通話を切断した。部屋が静まり返る。まるで大仕事でも終えたように安堵に胸を撫でおろすが、今度は間髪入れずに今度はメッセージの通知音が連投される。
『でろ』『無視したな?』『でろ』『でろ』『でろ』『後悔するよ』
『でろ』『おい』『でろ』『でろ』『見てんのは分かってんだよ』
『でろ』『分かってるよな?』『なあ』
『寝たふりか?』『おい』『でろ』
『でろ』
『でんわ でろ』

「怖えーよ!!」
『シカト決め込むからだろうが。クソ律』
電話口から聴こえてくる纏の暴言に律もすでに慣れつつあった。何せ、進捗確認として数日おきに連絡が入ってくるのだから、嫌でも慣れてしまうだろう。結局ホラー映画ばりの脅しに負け、電話を取ってしまった律は頭を抱える。今日は特に纏の電話をとるのをためらう理由があった。
『で、俺のスケジュールだと今日が曲の完成日だけど?』
「わはは」
『笑ってんじゃねえ。進捗どうなってるか報告しろ』
「進捗だろ? 順調順調」
『お前の言葉は信じない。送れ』
「ほんとに? 怒んない? ぜーったい暴言なしだからな?」
『怒んない』
「ほんとのほんと?」
『あーハイハイ。怒らないから早く送れさもないとぶち切れるぞ』
「初っ端から矛盾しとる……」
これ以上引き延ばすわけにもいかないだろう。律は言われた通り、製作途中の楽曲を音声データに変換して、纏に送る。すぐさま既読が付くと、纏が再生していることが電話口からも伺えた。すべてを再生し終えると、抑揚のない声で纏は言い放つ。
『僕の気のせいかな? 二日前聴いたときから、いっっっさい変わってない気がするんですけど?』
その質問の返答を律はあらかじめ用意していた。
「いや、よーく聴いてみ?」
『……一体どこが変わったんだよ』
「イントロのキーボードに強弱付けた」
纏はもはや返答さえ寄こさなかった。ガチ切れの纏は本当に怖い。律は二の次には「冗談言ってすいませんでした」とガチ謝罪をする羽目になるのだった。

『と、色々茶々入れてきたけど。ここまでの進行の遅れはまだ想定内。まだ巻き返せる』
数日に一回の深夜に開催される進捗確認会は、今宵も纏の独壇場だった。
纏の計算ならまだ間に合う想定だと知り、律は脱力した。
「あー、ひとまずよかったー」
『よくねえ! クソ律、お前の製作遅れは進行に直結すんだよ! せめていい加減、歌詞を決めろ。特に重要なサビが決まんないと、動画制作に差し障んだよ! 後々お前の尻ぬぐいする僕と透花の苦労を考えろ!』
「はい……」
年が4つほども離れた中学生からまともに説教を食らって、反抗できずに撃沈する。
今回応募するMV賞の規定は、2分以内のショートMVが条件だ。
つまり、曲の構成としてはイントロ、Aメロ、Bメロ、サビで終わる。現在律はAメロまで作曲し、肝心なサビの歌詞と盛り上がり部分で行き詰まり、一向に進んでいない状況である。時間にして約30秒程度、完成形の約3分の1までしか出来ていないのだ。
『まあまあ、纏くん。あんまり追い込んでもスピードが上がるわけじゃないからさ』
「と、透花ぁ」
花の優しい声音に律は思わず涙が零れそうだった。連日の徹夜で情緒がぶっ壊れている自覚が律にはあった。
『透花も他人事じゃないけどね』
容赦なくそのフォローも纏はぶった切ったが。
『へ?』
『へ? じゃないから。透花はSNSに乗せるロゴの締め切りが近づいていることお忘れじゃないだろうね? それにクソ律の作曲が完成するの待ってたら締め切りに間に合わないから、同時進行で絵コンテもやんなくちゃならないんだけど? 分かってる?』
『……はあい』
「全方向に辛辣だなお前」
こほん、と咳払いした纏は指示を出す。
『とりあえず透花、今できてるやつのコンテ送って。秒数ズレても修正する暇がないから、クソ律と調整して。クソ律はあと3日で曲を完成させろ。僕はまだ仕事が残ってるからもう抜けるよ』
『……頑張ります』
「はーい」
ぴろん、と軽快な音で通話画面から纏のアイコンが消える。取り残された律と透花が、同じタイミングで息を吐きだしたのが聞こえてきて、互いに吹き出した。
「お疲れ、透花」
『律くんもお疲れ様』
『Midnight blue』の一件から、透花は徐々に律のことを名前で呼び、気安い会話するまでに前進した。纏からのお小言をもらう立場として、運命共同体のようなものだから必然だったのかもしれない。
「俺、纏から電話掛かってくるとめちゃくちゃ心臓バクバクする」
『あはは、めちゃくちゃ分かる』
「纏がいないと、絶対こんなスムーズに進んでないから何も言い返せない。くそー」
中学生とは思えないほど纏の指示は的確で、宣言通り創作以外のすべては纏が担っている。特に時間にルーズな律と、こだわりが過ぎる透花を上手く転がしてスケジュールを調整する能力は圧巻だ。透花とふたりだけならまず、計画が破綻していただろう。
「あーサビどうしよ。マジで全然思いつかん」
『ふふ、お困りですか?』
「頭ン中ぐっちゃぐちゃ」
『では、息抜きなどいかがでしょう?』
「息抜き?」
あくびを噛み締めながら透花に問いかけると、心なしか声を弾ませながら透花は言った。
『明日の土曜日、わたしと青春しませんか?』

──むしろ期待するなと、言われる方ほうが無理だろう。
透花からの、所謂デートのお誘いに思春期健全男子の律が舞い上がらないはずもなく。
何とも言えないむず痒さを抱えながら、買ったばかりのシャツに腕を通し、お気に入りの黒いキャップを被った律は今、全力疾走をしていた。
「律くーーん! もうちょっと速く!!」
数メートル先で大きく手を振りながら、スマホを構えた透花から容赦ない要求が飛ぶ。
騙された、と大声に出したい感情をぐっと押し殺して、律はさらに足を加速させた。自然と息が上がって、顎が上がっていく。
見上げた空は、突き抜けるように高く、目が覚めるほどに鮮明な青だった。

「お疲れ様」
心地よい小川の風を浴びながら休憩していた律の頬に冷たい感触があった。目に掛けたタオルをどかして、死んだ目で見降ろすと、スポーツ飲料を片手に笑う透花がいる。
「ん、ありがと」
律は差し出されたそれを受け取り、遠慮なく口をつけて喉を潤した。横目で透花を見ると、満足げに撮影されたスマホの動画を再生している。半日をかけて撮影されたMV用の資料だ。
「付き合ってくれてありがとう、すごく助かった! やっぱり参考の資料があるとイメージも湧きやすいし。ネットだと探してもしっくりくるのが無くて困ってたんだ」
「そりゃどーも」
そっけなく律は顔を逸らした。いたいけな青少年の思春期心を弄ばれたのだ、拗ねるのは当然の権利だろう。
「……なんか怒ってる?」
「んー? べっつに~?」
「わ、痛い、痛いよ律くん!?」
透花の頭をげん骨で軽くぐりぐりしてやった。もう、と怒りながら乱れた髪を直す透花を見て、いくらか溜飲が下がる。
律が重い腰を上げて地に足をつけたと同時に、どこからか防災無線の帰りのチャイムが聞こえてきた。
「あーもう、18時か。そろそろ帰る?」
律の提案に、透花はパチンと両手を合わせて申し訳なさそうに頭を下げた。
「連れまわしてごめん! 良ければあとちょっと付き合ってほしくて」
おねだりする透花のその仕草が少し可愛くて、律は無意識に頷いてしまった。
「……別にいいけど。……まさか、また全力疾走しろってこと?」
「あはは、違うよ。今日って七夕でしょう?」
「そうだっけ」
「ここからちょっと歩いたところで、七夕祭りやってるんだ」
七夕祭り。そういえば、ここに来るまでの道中、まだ時期的に早いだろう浴衣姿の男女を電車で見かけたことを律は思い出す。
透花は薄く微笑んで、夕焼けの赤よりもさらに頬を紅潮させながら言う。
「青春、の仕切り直しにどうでしょう」

「律くん、こっちこっち!」
ランタンのぼんやりとした火の光があたり一面に広がっていた。
まるで地上の星みたいにゆらゆらと揺れている。異世界にでも飛び込んだような光景に目を奪われていた律は、自分を呼ぶ声に我に返る。溢れかえる人ごみの中で、透花がぴょんぴょんと跳ねて手を上げている。
人の海をかき分けて、透花の元に辿り着くと、興奮気味に仮設テントを指した。
「見て。ランタンに願い事を書いて飛ばすんだって! 折角だしやろうよ!」
「いいよ」
受付の人に数百円を支払い、薄紙のドーム型のランタンと短冊を一枚受け取った。願い事を書いた短冊をランタンに貼り付けて飛ばすらしい。
願い事。いざ短冊を前にすると、律はマジックペンを手にしたまま思い悩む。ちらりと隣を見ると、透花は案外すらすらと短冊に願い事を綴っている。
「なんて書いたの?」
「無事、MVが締め切りに間に合いますように!」
「ふはは、それな」
「纏くんに聞かれたら、何寝ぼけたこと言ってんの? 締め切り通りに完成させんのは当たり前でしょ、って言われるだろうけど」
「似てるわ生意気な感じが」
でしょ、と透花が得意げに笑う。
透花と同じことを書こうかとも思ったが、結局律は全く違う願い事を書き綴ることにした。横から律に身を寄せるように覗き込まれていることに気付いた律は、すかさず短冊を隠す。
「ずるっ! 律くんの願い事も教えてよ。わたしは教えたのに」
「内緒」
「けち」
「言ってもいいの? えっちなお願い事かもよ?」
「は!?」
「はは、うっそー」
「ちょ、律くん!?」
首まで顔を真っ赤にした透花が後ろで抗議の声を上げているのをBGMにして、律は空を仰ぐ。ランタンのリリースまで残り1分です、と雑音まみれの拡声器に通した声が遠くから聴こえてくる。
そろそろ、青春の終わりが近づいている。

さん、にー、いち、ぜろー!
カウントダウンとともに手にしたランタンたちが一斉に解き放たれた。
広大な夜の運河に引き寄せられるように律の願いを乗せたランタンはどこまでも遠く、遠く、何のしがらみもなく自由に天へ上っていく。
「なんだか、ずっと夢を見てるみたい」
「……夢?」
「ここで律くんといることも、みんなで何かを作ってるのも、大変だけどすごく楽しくって、儚い夢みたいで、いつか消えちゃうんじゃないかって、ちょっと怖い」
透花の手が、飛んでいくランタンを追いかけるように伸ばされる。
「……夢じゃない、ちゃんと全部現実だよ」
「ふふ、そうだね。夢じゃない」
透花の溶けそうに白い肌がランタンの淡い光に照らされて、不確かに揺らめていている。
「ねえ、律くん」
服の裾を軽く引っ張られて、振り返ると律は息を呑んだ。
「ありがとう、わたしを見つけてくれて」
夜のすべてを飲み込むほど深く澄んだ青の瞳に、きらりと星が降るみたいに透明な雫が零れ落ちる。
まるで。まるで、今この瞬間のために自分は生まれたのだと言っているようで、目が離せなかった。
その時、律は理解する。
幾度切り取っても色褪せない確かな青を、青春と呼ぶのだと。
ああ。どうか、このまま。
「──このまま、ずっと続けばいいのに」
呟いた透花の言葉が、心に滲んで少し痛い。律はくしゃりと顔を歪ませた。
「……透花」
「ん?」
「……いや。なんでも、ないよ」
律の口から言葉は出なかった。代わりに出たのは、掠れた情けない乾いた呼吸の音だけ。
その願いは、叶えられそうにない。
何故なら、この夢の終わりをとうの昔に決めていたから。


コンビニで買った差し入れは、スナック菓子とチョコレートと栄養ドリンクを数本。
それを引っ提げて、律はスマホの道案内アプリを起動させた。徒歩であと9分ほどの距離に目的地である『アリスの家』はあった。名の通り、絵本に出てくるような可愛らしいモダンな家だった。律は数秒悩んで、玄関のインターホンを押すと、「はいはーい」とまったりした男性の声とともにドアが開く。
柔和な笑みを浮かべた眼鏡の男性は、律を見やるとさらに笑みを深くする。
「いらっしゃい」
「あの、纏……くんに用事があるんですが」
「うんうん、纏から聞いてるよ。どうぞ上がって」
「ありがとうございます」
「なんだか纏も透花ちゃんもすごーく熱くなってるみたいだから、気をつけてね」
「は、はあ……?」
それだけを言い残して、立ち去っていた彼の背中を見送る。
アトリエのドアを開けると、そこには、この世の終末みたいな光景が広がっていた。

「やだやだやだ!! 纏くんの嘘つきぃぃいい!! わたしの好きに描いていいって言ったのに!!」
「だあアホか! 常識の範囲で、締め切りに間に合うならって枕詞があるに決まってんだろうが!!」
「だ、大丈夫やれるから!! わたしちゃんとやれるから!! 心配いらないからぁ!!」
「創作バカのやれる、大丈夫、心配ないは信じねーよ!」
「……どういう状況?」
律の目の前に広がっていたのは、纏の腰にしがみ付くように強く腕を回して駄々をこねる透花と、その透花を引き剝がそうと頭を押さえつけている纏の姿だった。

「まずこれを見て」
すすり泣く透花をその辺に放置して、纏は机の上にノートパソコンを置いた。パソコンを覗き込むと、編集途中の動画が再生される。律の作曲した音楽とともに動画が再生されていく。
「ええっ、すご! やば、めっちゃ動いてる!!」
思わず律は感嘆の声を漏らしてしまった。まだ色付けもしていない原画のみの動画だったが、それでも律は興奮した。絵コンテと打ち合わせで大まかな内容を知ってはいたもののいざ動画にすると迫力が全然違う。
しかし、纏は冷めきった瞳で舌打ちした。
「そこじゃねえよバカ律」
「はあ? なんか問題がある? めちゃいいと思うけど」
「照れるなぁ、えへへ」
「称えあってんじゃねえ創作バカコンビ」
いつもの三倍ほど口の悪い纏に、律は怪訝に眉を寄せた。カルシウム不足……と、いうわけではなさそうだ。
「よく見ろ! 問題大有りだわ!!」
そうして纏が指さしたのは──アニメーションの方、ではなくその外。何も描かれていない真っ白な背景だった。
ふむ、と律は頷く。
「白いな」
「真っ白だね」
「……つまりどういうこと?」
纏はいつも以上の低い唸るような声で言った。
「このままだと締め切りに確実に間に合わない」

七夕祭りの一件から、火のついた律は猶予1日を残し、1分30秒程度の音楽を完成させた。が、それで終わりというわけではなく、あくまでMV賞の締め切りに間に合わせるためで合って、後日フル尺で楽曲を動画サイトにアップする予定なので仕事は続いている。
さて、律が曲を完成させたことで透花たち動画班が本格的に始動し始め、約1週間。
進捗状況は、というと。
「普通に間に合わない。背景が」
三者面談のような重い雰囲気の中、纏が額に手を当てため息交じりに言う。その台詞に透花の細い肩がぴくりと跳ねた。
「なんせ、透花は背景描くの苦手だからね」
「そうなの?」
さらに身を小さくした透花が頷く。
「構図はもう考えてあるんだけど……は、背景だけはっ! どうにもこうにも全然進まなくて! 極力、背景に割く時間が少なくて済むようにやってはいたけど、その……はい」
「だから今回は妥協案として、背景をフリー素材に全差し替えにするって話をした結果」
「あの惨事か……」
一周回って名画みたいな構図だったな、と律は遠い目をする。
「だ、だって、フリー素材を今から探していいものが見つかるわけじゃないし、何よりそんな中途半端なもの作りたくない!」
「作りたい作りたくない、の次元の話はしてないから。締め切りに間に合わなきゃ意味がいないんだよ! それとも、寝ずにぶっ続けで描けば間に合うとでも?」
「そ、それはそうだけど! やる、寝ずにやるから!」
「はあ、そんなの無理に決まってんじゃん。今から誰かに外注頼もうにも、納期的に短すぎる上に打ち合わせの時間もないから無理でしょ。ほら、実現不可能だよ。運よく、都合のいい協力者がその辺にでもいない……限り……」
徐々に語尾の薄れていった纏は、そのまま目を大きく見開いて固まった。
「いた」
「え?」
「いたわ!! 都合のいい協力者が近くに!!」
──その緊急会議の一時間後、緒方佐都子が招集された。

緒方佐都子は、透花の幼馴染であり、中学までは同じ学校に通った級友だ。
そして、『アリスの家』でアルバイトとして小学生たちに教える先生兼生徒でもある。そして透花とは間逆に、繊細で緻密な風景画を得意としている。つまり『ITSUKA』の背景美術の担当として、これほど適任な人物はいなかった。

「……そういうことね」
 纏から一通りの説明を受けた佐都子は、合点が言ったとでも言いたげだった。
「納得した。あの時、私に雨宮先輩がUSB渡してきた理由がようやく分かったよ。あと、透花と纏がここ最近、みょーにこそこそ何かしてるなー、とは思ってたけど」
「えっ、気づいてたの?」
「当たり前でしょ? 何年一緒にいると思ってんのよ? お見通しよ、お見通し」
隠してきたつもりだった透花たちは、互いに顔を見合わせあって苦笑する。佐都子は「それでコンテは?」と、透花に向かって手を差し出した。脇腹を纏につつかれたことで、透花は慌てて絵コンテ佐都子に手渡した。
かさり、と紙が擦れる音だけがアトリエに響く。
3人が息を呑んでその光景を見守る。生憎、紙に顔が隠れてうまく表情はくみ取れない。そうして全てのコンテに目を通し終えた佐都子は、紙越しに透花に問いかける。
「……これ、全部透花が?」
「えっ、う、うん。一応」
しどろもどろに透花が首を縦に振ると、佐都子はただ一言「そっか」と呟いた。
しばしの沈黙。いよいよ透花たちの背中に冷たい汗が流れ落ちるころ、佐都子は勢いよく顔を上げた。
「いいね! 面白そう。私も協力するよ!」
「さっ、佐都子~~~!!」
「ちょっ、急に抱き着くな!」
「助かる佐都子マジありがとう」
「うわ、纏が頭下げた! コッワ! アンタたちどんだけ纏に負担掛けたのよ」
「えへへ」
「あはは」
「笑いで誤魔化すな。んで、これはいつまでにやればいいの?」
「2週間」
「は?」
「2週間」
「いや、普通に無理」
しれっと、佐都子が放った言葉に空気が凍った。
「サ、サトコサン?」
血走った視線が佐都子に集まる。その威圧に半ば引きながら、佐都子は戸惑いながら答える。
「だってこれフルカラーでしょ? あと2週間で仕上げるには無理があるよ。どんだけ頑張ってもあと1週間は必要」
「無理じゃん」
「無理だね」
「どっ、どうしよおおおーーーーーー!?」
ようやく見えた突破口が塞がれ、お先真っ暗になった透花が頭を抱える。が、ぽんと優しく手のひらが乗った。見上げると、佐都子がにやりと口角を上げて笑っていた。
「まあ、でも間に合う方法はなくもない」
「まじか!」
佐都子がノートパソコンに表示された動画のバーを動かし、サビ前の部分を指を差した。
「イントロからサビの手前まで全部モノクロにしちゃえばいい」
透花は大きく目を見開いた。なぜなら、全く思いも寄らない提案だったからだ。
「そ。サビ前の一小節に余白入れて、その瞬間にフルカラーになったらエモいと思わない?」
「──いい! めちゃくちゃいい!」
興奮のあまり佐都子の手を握る。想像しただけで心を奪われるに違いないと確信した。
「さすが佐都子! わたしだけだったら、全然そんなの思いつかなかったよ!!」
「……そんなことないよ」
モノクロの作画ならフルカラーより時間も労力も抑えられる。これなら締め切りにぎりぎり間に合う。
「よし。その案、採用でいこう。何としてでも締め切りに間に合わせるんだ。……ファイトォ!」
4人全員が拳を天井に振り上げ、「オー!!」と高らかに声を上げた。


そして、冒頭に戻る。
7月25日。時刻、22時13分。
締め切り3日前である。

「も、も、もうっ、もうだめだーーー!! もう無理だああ、締め切りに間に合いませんーーー!!!」
『アリスの家』の一室から透花の悲痛な叫び声が響き渡る。放り出したタブレットペンが転がり、床に落ちた音がやけに空しい。
すでに夏休みに入って4日目である。
もちろん透花たちも休みに突入したわけだが、長期の休みに浮足立つ間もなく動画制作が大詰めを迎えていた。
優一の計らいで、『アリスの家』で空き部屋一室を借り、ずっと缶詰状態である。夜遅くまで動画制作、家に帰って泥のように眠り、また起きて動画制作。無限地獄だ。
完成が近づくほどに、粗ばかりが目について修正しても修正しても不安が透花の肩に重くのしかかっていく。悪い方に考え出したらキリがない。ペンの進みが遅くなるのも無理はなかった。
「これで本当に……大丈夫なのかな……。いいもの、作れてるのかな……」
「──弱気だね、透花」
落ちたはずのペンを拾い上げる細長い指が見えた。透花が身体を起こすと、そこには緩やかに微笑む律が立っていた。
「り、律くん!?」
「しー。緒方さん起きちゃうよ」
「あ、ご、ごめん。……なんでここに?」
人差し指を口に押し付けた律が、手に引っ提げたコンビニ袋を透花の前に置く。
「バイト帰りに寄ってみた。そろそろメンタルが疲れるころかなーと思って。はい、これ差し入れのアイス」
「わあ、糖分だぁ! ありがとう!」
透花の沈んでいた気分が一気に持ち上がる。
隣で気絶するように眠っている佐都子が、ううん、と唸った。透花は慌てて自分の口に手を当てる。もう一度視線を上げると、くすくすと声をあげずに笑う律と目が合う。
「ちょっと外で休憩しない?」

心地の良い清涼感のある風が頬を撫でた。鈴虫の鳴き声が草むらのどこかから聴こえてくる。
真夏の深夜の公園には、人影一つない。昼間の賑わいが嘘のようである。ブランコに腰を下した透花は早速差し入れのアイスに手を伸ばす。ストロベリーを選んだ透花は付属のスプーンて掬って舌の上に乗せた。ほろりと、口の中で甘酸っぱさが平熱に溶かされて消えてく。
「ど? おいし?」
「んーこのために生きてるー! って感じがする」
「ふはは、大袈裟。分からんでもないけどね。俺も曲完成させた後に食べるラーメンが一番好き」
「ラーメンは罪深いね」
何でもないような会話が心地いい。くだらない会話でひとしきり盛り上がって、少しの間が開く。
いきなり、ブランコから律が立ち上がった。重さを失ったブランコがわずかに虚空を漕ぐ。
「……透花」
「ん?」
「透花にだけは、先に言っておきたいことがあるんだ」
「わたしだけに?」
律はひとつ間を置いて、言った。
「来年の3月5日に『ITSUKA』は解散する」
透花は口に運ぼうとしていたアイスを止めて、見上げる。
夜風に攫われた律の黒髪の先が、頭上に浮かぶ月夜のように白金色に染まっている。透花を見つめる瞳が紫がかった透明な瞳が、切なく細められた。
「そうしたら、俺はもう、二度と音楽はしない」
ぽたり、とスプーンから零れたアイスが透花の白い太腿に落ちた。


纏の元に透花から連絡が入ったのは、7月27日、朝8時40分。
MV賞締め切りまで残り、約15時間。
「はっ、はあああああああああああああ!?」
纏は大声大会にも負けず劣らず全力の腹式呼吸で、電話口の相手である透花に叫んだ。
「『ITSUKA』のロゴ差し替えしたいぃいいい!? まじ働き過ぎて頭おかしくなったの透花!? いや、無理無理無理無理ぜえええったい無理!! つか透花まだ終わってないカットがあるじゃん! そこまでして変更する必要ないでしょ!!」
『どうしても、どうしても、変えたいの!! あげてないカットはちゃんと間に合わせる! 纏くんっ、一生のお願い!』
電話越しからでも分かる透花の迫真の声音に、纏はぐっと喉を詰まらせる。
ここでロゴを変えたところでMVに大きな影響があるわけでもない。まして残り時間は15時間。動画はまだ未完成。残すカットがラストのフルカラー部分であること。普通に考えて、ここは透花の意見を無視して動画を完成させ締め切りに間に合わせることが最優先だ。……だと、言うのに。
纏は頭をぐちゃぐちゃに掻きまわして、腹に溜まった鬱憤を吐き出すように声を荒らげた。放り出していたスマホを耳に押し当てる。
「……分かった。今日の22時まで待つ。それ以上は待てないからね」
『ま、纏くん……!』
「あーもう泣きそうになってる暇あったら、早く作業に取り掛かれ」
『うん、うんっ。わがまま聞いてくれてありがとう! 纏くんほんとに大好き!』
ぷつっと一方的に通話が切られた。取り残された纏はしばらく放心した。
意識を取り戻すと同時に熱くなっていく頬に手を当てる。冷たい手のひらがじんわりと頬の体温に馴染んでいく。
「……時々、僕の気持ち分かってて言ってんのかと思うよ、ほんと」
プロデューサーとしては失格だな、と纏は苦笑いした。


慰労会用のお菓子とジュースを近所のスーパーでたんまりと買い込んだ佐都子と律が、『アリスの家』に着くころには太陽は鳴りを潜めて、すっかり夜も更けていた。
時刻は21時45分。
纏のスケジュール通り、最終チェックが行われる予定時刻である。
「……なんだって?」
まだ聞き間違いの可能性がある、むしろそうであってくれと心の底から願いながら佐都子は問うた。数秒前に爆弾発言をしたはずの纏は、憎たらしいほどいつもと変わらない顔つきで繰り返す。
「MVはまだ、完成してない」
「いやいや何で!? 完成予定20時でしょ!? 今21時半過ぎよ!? 完成してないって何!?」
「あーもう! だからっ、今朝、透花から連絡があったの!! どうしても、『ITSUKA』のロゴを差し替えたいってね! 今日の22時までに完成させるからって!」
佐都子の影に隠れていた律は、纏の言葉にただひとり声を呑む。
あの夜の律を見つめる見開いたあの青い双眸を思い出さずいられない。間違いなく、透花の行動に律が関係している。けれど、それがどうしてロゴを差し替えに繋がるのか、思い当たるところは何一つない。
突き刺すような視線を感じて、律は顔を上げた。
佐都子の背中越しに纏がじっと見ていた。心の中まで見透かすような強い眼差しだ。
視線が絡み合っていたのは1秒にも満たないほんの一瞬。
先に逸らしたのは纏の方だった。まるで、お前のせいかよ、と律をあげつらうような舌打ちをして。
「……ともかく、あと15分でロゴが来なかったら、差し替えはなしで最終チェックに入るから。締め切りには絶対に間に合わせる」
そう吐き捨て、纏はPCの前に戻った。
誰も一言も口を開くことなく、ただひたすらに透花からの連絡を固唾を呑んで待ち続ける。
21時45分、まだ連絡は来ない。
21時52分、まだ連絡は来ない。
21時57分、まだ、連絡は来ない。
21時59分、残り、40秒、30秒、20秒、10、9、8、7、6。
ぴろん、と纏のPCから通知音が鳴る。皆一斉にPCの画面に顔を近づける。纏が素早くその通知をクリックすると、一枚のPNGファイルが表示された。
これは、透花からの返答だ。そのファイルを見た瞬間に律は理解する。
あの夜、打ち明けた律のどうしようもなく、くだらない我儘に対する返答。真夜中を思わせる深い青さが、直視するには鮮やかすぎて、律は堪えるように目を閉じた。

描く。
描いて、描いて、描いて、ひたすらに描く。
指先の感覚がすでに麻痺していた。握りしめたペン先が己の指先と同化しているような気さえしていた。それでも、描く。描くことだけは絶対に止めない。描き続ける。
残り時間、あと15分。
焦りと不安で納得できるいい線が描けない。何度も、何度も何度も描いては消し描いては消しを繰り返す。じっとりと冷たい汗が頬のラインを沿ってぽたりと、タブレットに落ちる。
残り時間、あと8分。
繋ぎ合わさっていなかった線から色がはみ出る。苛立ちで頭がどうにかなりそうになるのをぐっと堪え、もう一度線を繋ぐ。
残り時間、あと3分。
その線にのせる色だけは初めから決めていた。それ以外は有り得なかった。真夜中を思い出させる暗く紫がかったその青で、塗り潰す。息をすることさえ忘れ、ただひたすらに透花は描く。
残り時間、あと20秒。
画像に変換したそのファイルを『ITSUKA』で共有しているクラウドに移行する。画像が重くて、全くダウンロードが進まない。もう時間がないというのに。焦りが先行して眩暈がした。そしてようやく、ゲージが100%になった瞬間、透花はすでに手元に準備していたスマホから纏に電話を掛けた。
コールが2回なった後、「もしもし」と発する纏の声を遮る。
「今クラウドに上げた! すぐ確認して!」
『22時、5秒前。……よくやるよ、ほんと』
電話口で纏が呆れ半分に笑う。
『今来たデータ即編集して、最終チェックするからすぐにうちに来て』
「分かった!」
透花はイスにかかっていた薄手のパーカーを手に、大急ぎで家を飛び出す。
中途半端に履いたサンダルがすっぽ抜けて、正面から転がりそうになるのを何とか食い止め、足を踏ん張ってさらにスピードを上げる。肩にかかり切っていないパーカーの裾が邪魔くさい。ぐしゃぐしゃの髪の毛が夜風に靡く。
何度も往復しているはずの何でもない道のりが、何にも代えがたく特別輝いて見えた。
不安もある。怖さもある。後悔もある。けれど今はそんなことはどうでもいい。もう止まれないから。
透花は、夏の夜を駆けていく。

「しっ、締め切りは!?」
勢いよくドアを開けた。すると、PCの前を取り囲んでいた三人が一斉に透花の方を振り返った。
イスに座ったまま視線だけ寄こした纏が、はっと鼻で笑う。
「僕を誰だと思ってんの? こんぐらいの修羅場なんて余裕だわ。舐めんな」
「内心ちょー焦ってるくせによく言う~。透花の前だからって、カッコつけちゃって!」
「うっさい!」
佐都子と纏とのやり取りに押さえて笑いを堪えていた律は、ふと透花の反応が何もないことに気が付いてもう一度振り返る。
透花は目を真ん丸に開け、呆然と立ち竦んでいた。徐々にその瞳の奥に鮮やかさが戻っていく。安堵が足先まで回り切ったら、辛うじて支えていた膝の力がふっと抜けて、透花の身体はそのままぺたんと、床に尻もちをついた。
「……よ、よか、よかった……」
「透花」
 透花の前にしゃがんだ律が、透花だけに聞こえるよう口を耳に寄せて囁いた。
「……俺の我儘、聞いてくれてありがとう」
触れた吐息に透花は少しくすぐったそうに目を細め、小さく頷く。
「ラーメン」
「……ラーメン?」
「お礼はラーメンでいいよ」
透花はよりいっそう花が咲くように「だって、」と、満面の笑みを浮かべた。
「最後までやりきった後に食べるラーメン、美味しいんでしょう?」
「……うん、奢るよ。とびきり美味いのを」
律は力強く頷くのだった。

音楽が嫌いだ。 
感傷に浸らせるような音楽が嫌いだ。前向きにさせる音楽が嫌いだ。傷ついた心に寄り添う音楽も、明日の未来を綴る音楽も、夢を描く音楽も大っ嫌いだ。ラブソングなんて聴いただけで吐き気がする。
ああ。この世界が──音楽のない世界だったら、良かったのに。
鼓膜の奥すら震わせるほどの喝采が鳴り響く。燃えるような夕焼けがスポットライトの光のように照らしている。集まる視線、視線、視線、見渡す限り歓喜に満ちて煌々と輝いている。額から流れ落ちる汗と、張り付いたTシャツと、砂埃の匂い。それらすべてが、瞬きすら忘れさせる。大きく穴が開いたはずだった、喪失感をすべて塗り替えるような快感が一本の芯のように全身を駆け抜ける。
ああ。
心の底から、気持ち悪い。


さて。
あの怒涛のような1か月が終わり、MV賞の結果はというと残念ながら30万の獲得には至らなかった。それについては纏がとてつもなく不満な顔をしていたけれど、応募したことによる反響は大きかった。
動画サイトが開催していたコンテストなだけあって、その日から『青以上、春未満』の動画再生数は飛躍的に伸びた。1週間で18万回再生止まりだったが、1時間で1万回以上再生され、SNSのフォロワーも徐々に増えていく。そう。纏の思惑通り宣伝として、これ以上にないほど結果が出たのだ。

そして、MV賞の結果発表から2日後、夜半に事件は起きた。
長めのお風呂に浸かって、血色いい顔つきでぬれた髪の毛をタオルで丁寧に拭き、ドライヤーで乾かし終わった透花は、食卓に置いていたスマホを確認してぎょっと目を張った。
通知が1000件以上、スマホのロック画面に表示されていた。
何事かとスマホを手に取ってロックを解除しようとした矢先、電話が掛かってきた。相手は佐都子である。
「もしも、」
『透花!! 今すぐITSUKAの動画見て!!』
電話口からの爆発音に透花は、条件反射でスマホを耳から離した。
「……な、なに? 動画?」
『動画!! いますぐ!!』
容量の得ない佐都子の言葉に、いくつもの疑問は一先ず飲み込み、言われた通り動画サイトにアクセスし、『ITSUKA』のチャンネルを表示させた。
「……え?」
スマホをスクロールしていた指先を止め、透花は目を擦った。そしてよく目を凝らしてもう一度スマホ画面を凝視する。
昨晩まで、『青以上、春未満』のMV再生回数は確か37万回再生ほどだった。
ひょっとすると、単位を間違えたのかもしれない。透花は指先を順に辿りながら、一つずつ数える。
「……いち、じゅう、ひゃく、せん、まん、じゅうまん、…………」
100万回。
確かに、そこに表示された数字はそう、表示されていた。
呆然とスマホを見つめていると、電話口が佐都子が声を荒らげた。
『今、SNSでITSUKAの曲がめちゃくちゃバズってんの!!』
「……え?」


『mel』は、日本の動画生配信やカバーした歌動画投稿などを主軸に活動する歌い手。
本名、年齢、性別はすべて非公開。顔出しは一切行わず、現在『mel』に素顔に関する情報はインターネット上には回っていない。10代の中高生からの支持が高く、今後の活動が期待されている歌い手の一人である。
それが、纏の口から伝えられた『mel』に関する情報の全容である。
「きっかけは、数日前に『mel』の歌の生配信で『青以上、春未満』をカバーしたこと。基本的に配信した動画はログとして残されてて、視聴者がSNSとかに切り抜いて上げてもいいことになってんの。で、『mel』の視聴者がその部分をSNSに上げた。それが徐々に反響を呼んで──」
「連鎖的に『青以上、春未満』がバズった……ってことか」
「そういうこと」
テーブルに置かれた纏のスマホから、女性か男性かも判断がつかない中性的でいて、力強く、芯のある歌声が聞こえてくる。歌い手に関して全く知識の乏しい透花ですら、一度聴いただけで惹かれるものがある、忘れられない歌声だった。

あの夜から一夜明け、『アリスの家』で緊急会議が開かれた。議題はもちろん、SNSで『ITSUKA』の曲が大々的に盛り上がりを見せていることである。一夜明け、SNSのトレンドに『青以上、春未満』が入り、さらにその熱は加速していた。現在動画の再生回数は、150万回再生。この勢いがあれば200万回再生も一日あれば達成してしまいそうだ。驚異的な数字を前に透花たちは喜びを通り越して、恐怖すら感じていた。もちろん、ただ一人を除いて。
「今日お前らを呼んだのは、実はその報告だけじゃない」
その言葉に一様にスマホから顔を上げ、纏を見た。すでに一晩に起こった事柄でお腹がいっぱいになっていた佐都子が透花たちの気持ちを代表し発言する。
「これ以上に重大なニュースある?」
「あるよ。お前らが吃驚するような超ド級のニュースがね」
にやりと狡猾な笑みを浮かべて、纏は爆弾を投下した。
「『mel』と『ITSUKA』でコラボする」
沈黙、3秒後。
纏を除く3人が思わず立ち上がり大絶叫した声は、隣近所まで響いたとかなんとか。

「昨日の夜に『mel』の方から、今度参加するライブイベントで『ITSUKA』の曲を歌わせてほしいって、SNSのDMで連絡きたんだ」
纏がスマホを置く。透花たちが一斉にスマホを覗き込むと、そこに表示された画面には、確かに『mel』からメッセージが送られていた。なんとも手回しのいい奴だ、と驚きを通りこして感心しつつ、律は問うた。
「ライブイベントって?」
「毎年10月末に開催されてる大型野外フェス。来場者数5千人! ここ最近はネットで知名度上げてきた歌い手も出場してる。『mel』はそこで初顔だし、初生歌披露するって前々からファンの間で噂になってた」
「まさか、そこで『青以上、春未満』を歌うってこと?」
透花の言葉を笑い飛ばすように纏は目を細めた。
「透花は僕がそれだけで満足すると思う? 言ったでしょ、コラボするって」
「どういうこと?」
「条件出したの。ライブでの楽曲を使用許可する代わりに、『ITSUKA』の新曲にボーカルとして参加してほしいってね! そんで、ライブ後すぐに新曲を動画サイトで投稿すれば話題になること間違いなし! あっはっはっは、これで知名度が更に上がれば広告収入で金も入って一石二鳥でしょ!」
完全に置いてけぼりを食らう透花の肩を纏はぽん、と叩いた。そして、舌をぺろりと出しながら親指を突き立てた。
「ちなみに全部決定事項だから、そこんとこよろしく」
──地獄再来、である。

某ファミレス。時刻、14時58分。
透花たちはただ目を見開いて、呆然とその人物を見上げていた。
「はっじめまして! あたしが『mel』こと芦屋にちかでーす!」
ピンクである。正確に言えば、ピンクベージュアッシュに染め上げられている。耳には少なくとも4つ以上の穴が開いていた。セーラー服のスカート丈は膝より30センチは上。カラコン入りの大きな瞳をぐるりと縁取った睫毛が瞬きするごとに震える。
『mel』こと芦屋にちかは、まごうことなきギャルだった。

「いやー超絶びっくりだわ。たまたまキャスで歌ってた曲がバズってしかも、その曲作った人たちが実はあたしとおんなじ高校生でしかもあたしの高校に通ってる後輩もいるなんて!」
そう。にちかが来ているセーラー服と同じものを、今まさに透花が着ているのだ。偶然にも程がある。にちかの陽すぎるオーラに当てられて、呆気にとられる透花たちを見かねてか、こほん、と纏の咳払いをする。
「とりあえず、自己紹介してもいいですか?」
「あは、ごめんごめん! よろしく」
「僕は有栖川纏。『ITSUKA』の動画編集兼プロデューサーみたいなことしてる。こっちが音楽製作担当の雨宮律ことクソ律。で、目の前に座ってるのがMV製作担当の笹原透花と、背景担当の緒方、」
「あなたがあの、神絵師!?」
「ひえっ」
にちかが突然立ち上がり、透花の両手を包み込んだ。近距離に迫るにちかの迫力ある顔立ちに、透花の口から情けない悲鳴が漏れる。
「まじ!? あの超超超絶神懸ってたイラスト!! あなたが描いたの!? 構図構成やばすぎて初見でめちゃくちゃ引き寄せられたよあたし!!!」
「あの、え、えと……」
「もうっもうっ、すっごい良かったの!! 特にあのサビ!! あそこだけで100回はリピしたもん!! 曲の盛り上がりと死ぬほどマッチしててガチ涙でたから冗談抜きで!! あーやば、語彙力足んない。今から動画再生するから、あたしのおきにポイント一から説明してもいい!?」
キャパシティーオーバーだった。顔から蒸気でも出ているかもしれない。
そんな透花のことなど目に入っていないのか、なお喋り続けるにちかに待ったをかけたのは律である。
「透花が死んじゃうから、それくらいにしてやって」
「えっ!? あ、ご、ごめんね!? つい興奮して」
にちかが慌てて握りしめた手を離す。ようやく解放された透花は、沸騰寸前になった顔を両手で覆い隠した。恥ずかしぬと思った。にちかが反省した様子で眉を下げた。
「ごめんね……あたし、夢中になると周りに目が行かなくちゃうんだ。……あっ、それにね、なんか絵柄は全然似てないんだけど、あたしが昔大好きだった漫画家さんに雰囲気? がどっか似ててさー。何だろう、絵のタッチ? 構図?」
ぴくり、と透花の手が震える。震えがストローに伝わって、氷の擦れる音が鳴る。
「漫画家?」
 律が怪訝に眉を寄せながら聞き返す。
「そう! ちょうどあたしが中学生くらいの時に、史上最年少で漫画大賞受賞した『二目メメ』っていう漫画家なんだけど! その人が描いた漫画激ヤバなんだって!」
「ふーん?」
「まあ、似てても可笑しくないんじゃない」
さも同然だとでも言いたげな纏が、つまらなさそうに付け加えた。
「だって、透花の兄貴だし」
素っ気なくつぶやいた纏に、律とにちかは振り返る。漫画に疎い律でも聞いたことのある名前だった。そんな有名な漫画家がまさか透花の兄だったなんて、全く知らかった。
「ちょっと、纏」
顔を顰めた佐都子が制すが、纏は構わずに続けた。
「別に隠すことでもないじゃん。……でしょ、透花」
「……ぇ? あ、……うん」
集まる視線を逃げるようにして、透花は曖昧に頷いた。誰にも動揺を悟られないようにと、震える吐息を噛み殺しながら。
『二目メメ』。
当時高校1年、若干16歳にして漫画大賞を受賞し、その才能を世間に知らしめた天才。笹原夕爾。透花の3つ上の兄。優しい終末を描くひと。もう、語られることのない物語の結末を知るただひとりのひと。
そして、わたしが、と透花の脳内にあの日の光景がよぎったその時だった。
「運命だよ!!」
それは、冬の凍てつく夜空にひと際光る青星のようだった。吸い寄せられるような純粋な輝きが透花の目の前にある。もう一度包み込まれた手のひらは、燃えるように熱く、透花の心を揺さぶるには十分な熱を帯びていた。
「そんなんもう運命じゃん!」
呼吸すら忘れて凝視する。
「あたし、『メメ』先生の漫画読んで救われたんだ! こんなあたしだけど、それでも生きてていいんだって、あたしはあたしでいいんだって思えたから。だからねっ、今度はあたしはあたしにしかできない方法で誰かを救いたいって、そう思ったの。だから歌う、あたしは歌でしか伝え方を知らないもの!」
心の奥底からこみ上げる、この感情の名前を透花はまだ知らない。どうしようもなく熱くて、痛くて、脆くて、その重さに押し潰されそうだった。
「初めて『ITSUKA』のMVを見たとき、これだ、って思ったの。あの絵を、あの曲を聴いて、もう一歩踏み出そうって思えた。その勇気をあたしにくれた。だからあたしは歌いたい。そう思わせてくれた『ITSUKA』の曲を!」
にちかは大きく息を吸い込んで、込められた想いをぶちまける。
「誰かを救う歌をあたしは歌いたい! 音楽で世界が救えるって証明したいの!」


その日。律は、約1年ぶりに母の曲を聴いた。
それは、儀式だった。数年もの間、心の中で燻り続けた苛立ちと失望の火種を再確認するための、儀式。自分のやっていることの正しさを証明するための、言い聞かせるための、自己暗示。
イヤホンからの音が止むと、律は重く息を吐き、手元に置かれた紙コップのコーヒーに手を伸ばす。冷え冷えとしたその感触で、律はようやく店内はすでに数人ほどしか客がいないことに気付く。
2階の窓側カウンター席からは、スクランブル交差点を行きかう人々の群れが蠢いているのがよく見えた。
──芦屋にちかの言葉が、耳の奥で何度も反芻していた。
心の穴を悪戯に抉り出して、虚無感に身体を支配されていくようだった。
もし神様ってやつがいるのなら、随分とたちが悪い。けれど、俺を弄ぶことが目的なら芦屋にちかという存在ほど適任者はいないだろう、と律は奥歯を噛み締めた。
覚悟を問われている。果たしてお前の考えは正しいのか、証明して見せろ、と。
正しいに決まっている。そうでなければ、律は振りかざした拳のもって行き場を失うことになる。一生、このどうしようもない怒りを抱え続けなければならなくなる。
だから、律は証明しなければならない。『音楽で世界を救えない』ことを。
律は立ち上がった。
それと同時に、スマホから着信音が鳴った。ディスプレイの表示は『父さん』。次から次へとタイミングの良いことだ。
「……もしもし」
『律か?』
疲れ切った声だった。久しく父と会話していないから、律はそういえばこんな声だっただろうかと、耳を傾ける。
「うん。珍しいね、父さんから電話なんて。何か用?」
『……いや、しばらく家に帰れてないからただの確認だ。変わりはないか。ちゃんと学校には行ってるか? 飯、食ってるか?』
「まあ、うん。変わりはないよ。そういう父さんこそ、ちゃんと寝てんの?」
『…………もちろんだ』
嘘だ。相変わらず、父は嘘を付くのがへたくそだ。
どうやら自分の分が悪いと察したらしい父は、すぐさま話を切り替えた。
『ハウスキーパーさんから、ずっと律の帰りが遅いって聞いたんだが。お前、夜遅くまでどこほっつき歩いてるんだ』
今度は律の痛い所をついてくる。『ITSUKA』のことは言語道断、『Midnight blue』でのアルバイトしていることも父は知らない。もちろん、叔父である和久には口止めしている。
「勉強だよ、勉強」
『なら、いいが。前も言ったが、3年になったら受験も控えてるんだ、しっかりやれよ』
「……うん」
言われなくても分かってるよ、と律は心の中だけで毒づく。
『律』
「なに?」
父は少しだけ間を置いて、念を押すように言った。
『──間違っても、母さんみたいになってくれるなよ』
それはまさしく、呪いだった。電話や話の終わりに、父が決まって言う台詞。その言葉に対する返答を律はいつも通り口にした。
「安心してよ。音楽なんて、やらないから」
息をするように、嘘を吐いた。

その後、律は自宅までの道中に本屋に寄った。
閉店30分前の店内には、律以外の客はいない。目指すのは、少年漫画のコーナーである。平台に積まれた漫画の中に『二目メメ』という名前は見つけられなかった。ここ最近だと、出版されていないのか、それとも連載されていないのか。少なくとも漫画大賞を受賞するような作品であれば、本屋ですぐ見つかると思っていた律の目測は外れた。
律と同い年のにちかが中学生のころ、と言っていた。ならば、少なくとも3、4年ほどの作品ということになる。一通り探してみたがいよいよ見つからず、律はすぐ近くで作業していた店員に聞くことにした。
「あの、すいません。『二目メメ』って作者の漫画を探しているんですが」
眼鏡をした大学生のアルバイトらしい店員は、聞きなれない作者名に一瞬首を傾げたが、思い出したように「ああ、」と声を漏らした。
「『二目メメ』さんの作品ですね~。たぶん、3年くらい前に出版されたやつなんで店頭にはもう置いてないかも。取り寄せできるか確認しましょうか?」
「お願いします」
「分かりました。注文用紙の記入がありますんで、あちらで確認とりますね~」
店員に促されるまま、会計カウンター横に移動する。記入用紙を準備しながら、店員が気軽に話しかけてきた。
「僕も昔『二目メメ』さんの作品読んでて~、久々に名前聞きました。あっ、そういえば一個確認なんスけど」
「何ですか?」
「これ未完の作品なんですけど、全巻お取り寄せで大丈夫ですか?」
「……え」
何故だか心がざわついていた。こういう時の予感は、大体当たる。
「連載中ってことですか?」
その問いに、店員は気まずそうに頬を掻き苦笑した。
「あー……、打ち切りで。いい作品だったんですけど、残念ですよね」

ありがとうございました、という間延びした声を背に律は本屋を後にした。
外は肌寒いというのに、律の背中には嫌な汗が伝っている。手渡された注文用紙の控えを、無意識のうちに握りしめていた。くしゃくしゃになった紙を広げ、取り出したスマホで検索する。
打ち込んだ文字はもちろん、『二目メメ』。
そして、律はそこに映し出された文字を見て、後悔することになる。
検索候補の一番目にはこう、表示されていた。
『二目メメ 盗作』、と。


『mel』こと芦屋にちかとの打ち合わせから、2週間。
学校生活と創作活動を並行しながら、各々が『ITSUKA』の新曲作りに励んでいた。
今回の製作期間はは約2か月ほど。
『青以上、春未満』の時よりはるかに時間はあるが、前回はショートMVの完成で1か月だった。今回はフル尺でのMV製作となるため、実際のところそれほど悠長に構えているわけにはいかないのだが。
纏は、今目の前にある現実を前にしていっそ、卒倒したくなっていた。
「だから言ってんじゃん! ここは絶対こっちのがいいって!! こっちのが感情が乗り易いでしょ!」
「は? 何言ってんの? 文句あんの? それを言うならお前が変えたこの歌詞を変えた方がよっぽどいいと思うけど?」
「だ! か! ら! それじゃあ、子音になっちゃうじゃん! 何回説明したらわかるわけ?」
「それで歌詞の言い回しに違和感でてんの、本末転倒すぎて笑えるわ」
「喧嘩売ってんの!?」
「あ? だったらどうすんの?」
止まらない罵詈雑言の嵐が纏の目の前で勃発していた。
お互いに野生動物のように唸りあった後、大きく机を叩き、纏を張り倒さん勢いで律とにちかが眼前に迫る。
「俺の方がいいよな!!??」
「あたしの方がいいよね!!??」
気迫に圧倒された纏は、逆にこいつら仲いいだろ、と呆れながらツッコんだ。もちろん心の中だけで。

纏が『アリスの家』に帰ってきたのは、透花が事前に聞いていた時刻よりも2時間ほど後のことである。無遠慮にドアを開いた纏は、一日前よりも色濃く疲労を漂わせていた。日を増すごとに顔色がどんどん悪くなっていく。何も言わずに机に顔を伏せてしまった。透花と佐都子は只ならない纏の様子に、顔を見合わせる。どちらから纏に話しかけるべきか、互いにアイコンタクトを送りあっていると、纏の握りしめた拳がプルプル震えだし、初期微動からついに主要動まで達した瞬間。纏は振りかざした両腕を机に思い切り叩き付け、叫んだ。
「ドアホしかいねえのか、創作する人間はよ!!!」
大爆発である。纏は頭をぐしゃぐしゃに掻きむしり、瞳孔をかっぴらいた鬼気迫る表情で透花を振り返った。
「毎日、毎日、毎日、毎日、毎日!! クソしょうもねえ小競り合いに巻き込まれて、来る日も来る日もやれあれが気に入らない、あそこを変えないと進まないだの口を開けば好き放題我儘言いやがってそんなんクソどーでもいいわ!! 完成させなきゃ意味ねぇって何度言えばあいつらは理解すんだ!? アァ!? 納期は待ってくれねーんだよ!! そんな理屈幼稚園児だって理解できるわあいつらは幼稚園児か!? 僕は先生か!? あんなアホどもを引率しなくちゃならないのかクソが!!」
纏をここまで追い込むとは、律とにちかの仲はどうやら一筋縄ではいかないようである。そんな予感は透花にもあったが。
アトリエを包む静寂を断ち切ったのは、佐都子の吹き出した笑い声である。
「ぷっ、わははは」
「何笑ってんだお前」
地獄の底を這うような低い声で纏は佐都子を睨みつける。青ざめる透花とは対照的に佐都子は腹を抱えながら、纏の背中を遠慮なくバシバシと叩きながら言った。
「纏さ、私らの生態を理解しているようでしてないね~」
「あ?」
「理屈で動くような人間が、創作なんかするわけないじゃーん」
佐都子の一言に、そうだった、と纏は思い出す。理屈も論理も無意味なのだ、創作バカの前では。理解していたはずなのに、纏はすっかりその事実を忘れていた。
「……まさか、ここまで苦戦するとは思ってなかったんだ。今までそれなりに上手くいってたし、『mel』が加入しても大丈夫だって楽観してた。だって、佐都子が加わった時だって特別大きな衝突だってなかったんだもん……」
普段の強かな纏からは想像できない、中学生らしい弱音だった。透花は体育座りで小さくなる纏の背中を優しく撫でた。
「佐都子が加わったときとはちょっと状況が違ったかもね」
「なんで?」
「わたしと佐都子は十数年の付き合いだから、お互いの得意なことも苦手なこともこだわりとかよく分かってるし、ある程度相手の意図を理解して折り合いつけれるけど、芦屋さんと律くんは初対面だし、相手のこともよく知らない。だから、衝突するのは必然だと、わたしは思う」
纏からの返事は無い。が、透花は続けることにした。
「もちろん、纏くんが『ITSUKA』のことをよーく考えて、コラボを提案してくれたこともちゃんとわかってるよ。けどね、纏くんに足りなかったものがひとつある」
「なんだよ」
纏の拗ねた声が年相応で、可愛いと思ってしまうのは、幼馴染としての贔屓目もあるのかもしれない。
「わたしたちに事前に相談せずに、コラボを決めちゃったこと。ちゃんと報連相しろっていつも口を酸っぱく言ってたのは、纏くんでしょう?」
「……うん」
「反省したなら、律くんにちゃーんとごめんなさいしよ? それからちゃんと話し合えばきっと打開できるよ」
「うぐっ……」
「ま、と、い、く、ん?」
「………………わかった」
「うん、よろしい」
「相変わらず透花の言うことだけには素直だね~」
「うるっさい」
いつも通り纏から棘のついた言葉が飛んでくると、透花と佐都子はお互い顔を見合わせぷっと吹き出した。秋晴れの空に笑い声が軽快に響き渡っていた。


翌日の夕方、駅の近くで透花は目の覚めるようなピンクを見た。
透花に気付く様子もなく改札口方面へ向かっていく。おそらくこれから、打ち合わせに行くのだろう。
「あっ、芦屋さん!」
透花は大きく手を振りながら、にちかを呼び止める。声に気付いたにちかは足を止め、透花の方を振り返った。
「あれ? 透花ちゃんじゃん」
「はあっ、はあ、これから打ち合わせですか?」
小走りでにちかの元まで辿り付き、透花はほんの少し乱れた息を整えながら質問する。すると、にちかは釈然としない曖昧な笑みを浮かべた。
「あー……、うんまあ、そう、だね」
にちかに初めて会った時の、堂々とした物言いはすっかり失われている。
問うまでもなく、楽曲製作が順調ではないのだろう。
敢えて進捗具合を聞くことはしなかった。かと言って、このままにちかと別れたらそれはそれでいけないような気がして、透花はにちかの手を引く。
「あの!」
「な、なに?」
食い気味に身を乗り出した透花は、しまった、と思考が止まる。
次に続く言葉を用意していなかった。そして咄嗟に、にちかの向こう側にあるビルの広告が目に留まり、勢い任せに声を上げる。
「や、野球しませんか!」

カーーーン!!
金属音とボールがかち合う瞬間の、弾ける音が場内に響き渡る。綺麗な放物線を描いて、ボールは紅葉色をした秋の空へと飛んでいく。
「ナイスバッティーング!」
透花が掛け声とともに大きく拍手すると、額に手を翳してボールの行方を追っていたにちかが満面の笑みで振り返る。
「見たいま! めっちゃ飛んだわ。んー、爽快! よっしゃ、もう一発!」
数十分前では比べ物にならないほど、軸のしっかりしたフォームでバットを構えたにちかが、ピッチングマシンから発射されたボールの中心を捉えて打ち返す。
緩やかな曲線を描きながら、ボールは飛んでいった。迷いなく、空高く。

「はい、これ。あたしからのお礼」
「えっ、あ、ありがとうございます」
休憩室に設置されたベンチに腰を下し、資料用で撮影したにちかのバッティング風景をスマホで見ていた透花に、缶ジュースが差し出される。
目線を上げると、首にタオルを掛けたにちかが晴れやかに笑った。透花の隣に腰を下ろすと、手にした缶ジュースのプルタブを開けた。プシュッと、爽やかな炭酸の音が弾ける。 それを一気に飲み干していく。透花が目を張るほどのいい飲みっぷりである。
「ぷはー! ひっさびさにこんな動いたわ! 明日、筋肉痛確定だ」
「わたしもです」
「……あのさ、透花ちゃん」
「はい?」
血色のいい頬をさらに上気させたにちかが照れくさそうに頬を掻いた。
「ありがとね、誘ってくれて」
「わたしの方こそ、付き合ってくれてありがとうございます。おかげでいい資料が手に入りました!」
「えっ、本当に必要だったん? てっきり、あたしを励ますための口実だと思ってた」
「ぶっ」
ちびちび飲んでいたオレンジジュースを透花は盛大に吹き出した。
透花のさりげない気遣いはどうやら、にちかに筒抜けだったらしい。MVで使う資料用にバッティングフォームを動画で撮りたい、だなんて中々に無理のあるこじつけだとは透花も薄々気が付いてはいたが。
「今はあれですが……いやたぶん、そのうち、必要になる日がく、来る予定なので……」
「何この可愛い生き物。抱き締めて持って帰ってもいい?」
「な」
「あは、冗談だよ。もーそういうとこ、ほんと可愛くてすき」
「……そういう芦屋さんは、ド直球が過ぎませんか?」
「まあね。あたし、『mel』でいるときは自分に嘘はつかないって、決めてるから」
そう語るにちかの瞳の奥には、あの時と同じ青星がひと際光っている。
「ね、透花ちゃん」
「なんですか?」
「『mel』って名前さ、聞き覚えない?」
その問いに、透花は僅かに息を震わせる。もしかしたら、とは思っていた。証拠のない推測は、にちかの問いによって確信へと変わる。
「『メメ』先生の漫画のキャラから付けたの。天真爛漫で、まっすぐで、ちょっと頑固なとこはあるけど……でも、自分の信念を持った、あたしの一番大好きなキャラ! メルみたいに成りたくて、あたしは『mel』って名前を付けたんだ」
「……もしかして、その髪色も?」
「そうなの!! 透花ちゃんが初めて気づいてくれたよ~!」
『二目メメ』の漫画に登場するキャラのひとり。主人公とともに旅をする、メルの特徴はにちかと同じピンク色の髪だった。一点の曇りもない朗らかな笑みを浮かべ、にちかは自分の髪を人房手に取る。
「髪色ぐらいでって、思われるかもだけど……あたしはこのピンクでいるときは、なんか勇気が出るの。よし、頑張ろうって思える。無敵感がでるっていうか。ま、最近はちょっと落ち込んでばっかだったけどねー。なんっか知らないけど、雨宮は妙にあたしに当たり強いしさぁ」
透花には、思い当たる節がひとつだけあった。あの夏夜の光景が頭の隅に浮かぶ。律とにちかの思いの丈が、大きくすれ違い衝突を生んでいるのだとすぐに察した。咄嗟に律を庇うような言葉が口から出かけたが、結局、透花は口を噤んだ。
なぜなら、
「けどさ、そんなん知ったこっちゃないって、今気づいたわ!」
にちかはまだ諦めていないみたいだったからだ。
「あたしとしたことが、自分を見失ってたよ。なーんかさ、上手くやろうとか、仲良くやろうとか、妙に気張ってたけど。そんな器用な真似、あたしには出来っこないんだった。だって不器用だもん!」
にちかは立ち上がった。つられて透花の視線が上がる。振り返ったにちかのピンク色の髪が、ふわりと舞い上がって靡く。
「ありがとね、透花ちゃん。透花ちゃんのおかげで思い出したよ」
「わたしは、何も」
「ううん。透花ちゃんが声かけてくれなかったら、ずっとうじうじ悩んでたもん」
「芦屋さんの力になれたなら、その、良かったです」
「にちか」
「え?」
「にちかって呼んでよ。あたしだけが名前呼びじゃ、不公平じゃん」
「……うん。にちかちゃん」
透花が初めて名前を呼ぶと、にちかは照れくさそうに顔を赤らめながら頷く。芦屋にちかという少女は、少し強引だけど、どうしようもなくまっすぐで、眩しいくらいに素直で、とても素敵な女の子だった。

──その、はず、だった。
明くる日、透花の元に一本の電話が入るまでは。
朝の予報が大きく外れ、今にも雨が降り出しそうな不安定な空の下、透花は足早に『アリスの家』に向かっている時だった。
スマホの画面に表示された名前は、『纏』。きっと、いつもの進捗確認だろうと、通話を繋ぎ、透花は耳にスマホを押し当てる。
「もしも、」
『透花っ、緊急事態発生した!!』
電話越しからでも分かるほど、纏の声音は焦りと不安を滲ませていた。
「……どうしたの?」
透花は立ち止まり、慎重に問いただす。
『今さっき、にちかから連絡があった』 
透花は手に持ったスマホを気づかぬうち、強く握りしめていた。
『……やっぱり、コラボはなかったことにしてくれって』
言葉を失う透花を嘲笑うように降り出した雨の冷たさは、体温以外の何かも一緒に奪っていくようだった。


「……おっそい」
律は、遅れて打ち合わせにやってきたにちかに一言苦言を呈す。いつものにちかなら、食って掛かるところだが、今日は違った。
「うん、ごめん。ちょっと野暮用で」
涼しい顔で軽く頭を下げたにちかに、律は少なからず動揺した。
じゃあ打ち合わせ始めよ、とすぐさま準備を始めるにちかの背中をじっと眺める。憑き物でも落ちたみたいな態度が、何故だか妙に癪に障った。律がその背中に声を掛けようとしたその時、ドアノックの音が響いた。
「おー、お前らやってっか?」
気力のかけらも感じられない気だるげな物言いで、タバコを口に咥えた和久が顔を覗かせる。おそらく場の雰囲気を一瞬で察したのだろう、やれやれといった感じに片目を瞑った。
「あー……さっき演者から連絡入って、少し遅れるらしくてな。中空き出来ちまうんだわ」
「それが何?」
話の全容が見えてこず、つい律は苛立ちを滲ませた口調で聞き返す。
しかし、そんな律のことなど全く意に介さず叔父はにちかに視線を向けた。
「にちかちゃん、よければステージで歌ってみるか? 今日客少ねえし、ライブの練習がてらどうよ」
「えっ」
話の矛先が自分に向くと思っていなかったにちかは、虚をつかれたように肩が跳ねる。アイメイクで縁取られた大きな瞳が、居所なく彷徨う。その態度に少なからず違和感を感じた。こういう時のにちかは、すぐさま立ち上がり元気に返事をするとばかり思っていたから。
「別に困らせたいわけじゃねえんだ。嫌だったら断ってくれていい」
時間にして、約10秒ほどだ。にちかは深い呼吸で胸を上下させ、ようやく表を上げる。
「……やる。やらせてください」

ステージに鎮座しているグランドピアノは、数十年使い込まれた古いものだ。
定期的に調律師を呼んでメンテナンスはしているから音程にさほど狂いはないが、やはり年数の分だけ癖はある。慣れた手つきで鍵盤に手を置くと、自然に指が動き出す。鍵盤の固さがちょうどよく馴染んだ。
律もまた、ステージに上がって客前で弾くのは初めてだった。
薄暗い店内の中で、ステージ上だけがスポットライトに照らされている。店内をぐるりと見渡す。開店してすぐだ、客は1、2人ほどしかいなかった。今度はすぐ目の前の小さな背中を見る。マイクスタンドの前に立つにちかの足元には、スポットライトの光によって伸びた影が不安定に揺れていた。
「今日は、特別にお時間を頂き歌わせていただきます。それでは、聴いてください」
にちかの口から曲名の紹介が成される。『ITSUKA』の新曲だ。まばらな拍手の後の、静寂。呼吸を吸う前の、数秒間の緊張。
そして、息を吸う音とともに音楽が奏でられ始める。──はずだった。

ピアノの旋律だけが空しく響いた。
律はすぐさま指を止めてしまった。それが、余計に鼓膜を突き刺すほどの痛い沈黙となって押し寄せた。最初は何が起こったのか分からなかった。けれど、徐々に理解する。にちかはマイクの前で何度も声を絞り出そうとして、挙句何も歌えなかったということに。
マイクを握りしめていたにちかの手が、すとん、と力なく落ちる。その指先が微かに震えていることを、律だけが気づいていた。
次に瞬きした時には、にちかはステージから飛び出していた。ドアベルのからんからん、という空しい音が店内に響き渡る。

「……お前、何やってんの?」
夜のネオン街へ消えていく人々の雑踏の中、にちかはシャッターの下りた店の前でしゃがみ込んでいた。上がった息を呑み込み、律はもう一度口を開く。
「ふざけてんならマジで面白くねえぞ」
にちかからの返答はない。その態度は、律の怒りに油を注ぐようなものだった。
感情を制御するためのちっぽけな理性など、無いに等しかった。
「っ、なんとか言えよ、なあ!!」
容量を超え、噴き出した感情の狭間でぐちゃぐちゃにされた律は、過去と現実の境目が段々と曖昧になっていく。
だめだ。これ以上は、何も考えるな、と僅かに残された理性が警鐘を鳴らしている。だというのに、止まれない。律の耳鳴りは次第にクリアになっていく。雑音が少しずつ取り払われ、その正体を表す。
『──いいな、律。もう二度と、音楽はやるな。絶対に』
幼い律の両肩に置いた手に力がこもる。
まろい律の頬に降りかかるそれは、雨の雫よりもずっとぬるく、洗い流すことすらできない呪い証だった。

「そんなもんだったのかよ」
律の口から、憎悪の言葉が漏れ出た。
「ははは、笑えるわ。なにが、音楽で世界が救えるだよ! 何が、歌で誰かを救いたいだよ!! 本当に、心の底から反吐が出る。ステージに立って、緊張したかなんだか知らねえけど、他人の目ぇ気にして、ビクビク怯えて、自分の歌も満足に歌えない奴が出来もしねえ夢語ってんじゃねえよ!」
「……」
「所詮音楽なんて、その程度なんだよ。誰も救えない、救えるわけがない。救われたって思ってるのはさ、ただ一時的に、救われたように錯覚するだけだ。だって、音楽が世界を変えてくれるわけじゃない、クソみたいな現実を都合よく改変してくれるわけでもない、思い出したくない過去を無かったにしてくれるわけでもない!」
「……」
「……音楽なんかで、世界は救えねえよ。これで、分かっただろ」
ピンク色の髪が靡く。
不意に合わさった瞳から涙が零れ落ちている。まるで、瞳の奥で輝いていた光が打ち砕かれ、流れ落ちているかのようだった。
ようやく、律は我に返る。喉から零れ落ちた憎悪を、誰に向けていたのかを。
「っ、それでも、あたしは……!」
あたしは、の後に続く言葉がなんだったのかは、ついに律には分からなかった。踵を返して走り去るにちかの背中を追いかける資格は、律にはなかったからだ。


『にちかちゃん、明日、お話しできませんか?』
透花がその日の夕方、にちか宛に送ったメッセージに既読が付くことは、なかった。
透花だけでなく、纏もまた、コラボは無かったことにしてください、というメッセージを最後に連絡が取れなくなっているらしい。
バッティングセンターで別れたときのにちかは、そんな素振りを全く見せていなかったむしろ立ち直ったように見えたのは、透花の勘違いだったのか。
そのことを透花は、電話で纏に告げることにした。
『分かった。透花は明日、学校でにちかに直接会って説得してくれる?』
「もちろん、するよ説得。……けど、律くんは?」
『クソ律は僕に任せて』
「喧嘩しない?」
『…………それはアイツの出方次第だね』
苦虫を嚙み潰したような渋い声で纏は言った。これは8割の確率で拳が飛ぶだろうな、と透花は苦笑する。しかし、敢えて止めることはせずに折衷案を提示する。
「分かった。ぐーは駄目だけど、ぱーなら許す」
『ぷっ。透花のそういうとこ、嫌いじゃないよ。分かった、ぱーね』
「うん。律くんのこと、任せたよ」
『そっちもにちかのこと、任せた』
ぷつり、と電話が切れた。

透花はにちかのクラスへ向かい、入り口付近で談笑していた女生徒に声を掛けた。
「えっ、芦屋さん?」
透花の質問に少し驚いたように目を開いた。
その反応に微かな疑問を感じながら頷くと、女生徒は隣にいた友人と顔を見合わせ、教室の方を振り返る。透花もつられてその隙間から見るが、あの特徴的なピンク色は見当たらなかった。
「あー、帰っちゃったかな? たぶん」
「……そう、ですか」
透花は、落胆して項垂れる。しかし、どうやら学校には来ていたようだ。
それならまだ希望がある。明日また来れば、もしかしたらにちかに会えるかもしれない。
「あの、すいません」
「ん、何?」
「今日の芦屋先輩の様子どうでしたか? いつもより元気がないとか、すごく落ち込んでたとか……」
特別、おかしな質問をしたわけではないはずだ。それにも関わらず、ふたりは怪訝そうに眉を上げ、釈然としない様子で答えた。
「別に、いつも通りだったけど。だよね」
「うん。……てか、芦屋さんいっつも暗いから、落ち込んでてもたぶん気づかないわ」
「あーそれな」
嘲るような笑いが起こる。このクラスに来てから感じていた違和感の正体に、ついに透花は目を逸らすことが出来なかった。
「すいません、確認なんですけど……芦屋先輩って、フルネームは芦屋にちかで合ってます、よね?」
「うん」
「あのピンク色の髪が特徴的な」
「ピンクぅ?」
にちかのクラスメイトは吹き出して、片手を思いっきり振った。
「いやいや。ナイナイ」
「きみ、誰かと勘違いしてない? 芦屋さん見た目、ちょー地味だよ。黒髪眼鏡のもっさい感じの」
「そうそう。だって、陰キャだもん」
え、と漏れた透花の言葉なんて全く聞こえていないようで、話が進んでいく。
「ほんそれ。あっ、てか芦屋さんあれじゃない? この前、ピアノの練習するっていって先生に第二音楽室の鍵借りてたくない?」
「そうなん? 芦屋さんってピアノ弾けんの?」
「知らん知らん。話したことないし」
さして興味なさそうにそう言い残して、彼女たちは去っていった。透花はひとり、立ち尽くしたまま動けないでいた。
 

「──団体行動初心者かてめえは。生きるの下手くそ過ぎんだろ」
二の腕を組みさながら仁王像のようないで立ちで、こちらを一瞥し、冷たく言い放った第一声がそれだった。遅れてドアベルがからん、からん、と空しく鳴り響く。
モップを手にしたまま、その姿を呆然と見上げていた律は、コンマ一秒ほどかけて我に返った。
「……纏」
掠れた声でそう呼べば、纏は鼻で笑い飛ばしながら言った。
「昨日、にちかからコラボ止めるって連絡入った。お前、心当たりは?」
「え」
昨日の夜からずっと、頭の中に再生されるのはあの涙だった。律が完膚なきまでに粉々にしたあの星屑の流れ落ちる様が、まさしく心当たりに他ならない。
「は~、だんまりか」
足音が段々と近づいてくる。いよいよ、律の視界に纏のスニーカーが映る。
「被害者ヅラだけは一人前じゃん」
それ以外は全部三流だけどな、と纏の吐き捨てた。
「さっき、店前でお前の叔父さんに会って全部聞いたよ、昨日の夜のこと。……お前さ、何やってんの? これで満足かよ? はは。よかったじゃん、これでにちかは辞めるよ! お前がにちかの何が気に入らなかったのか知らねえし、毛ほども興味ねえし、聞くつもりねえし、同情とか死んでもする気ないけどさ」
律が反応するより早く、伸ばされた手によって胸倉を強引に掴まれた。気道が閉まって、一瞬息が吸えなくなる。
「──いい加減にしろ。てめえにどんな辛い過去があろうがなァ! 他人で憂さ晴らししていい理由なんて、ひとっっつもねえんだよ!!」
律は、息を呑む。逸らしたくなるほど曇りのない真っ直ぐな瞳から、しかし律は目が離せなかった。
全て、正論だった。反論の余地なんて一つもなかった。勝手に重ね合わせて、勝手に失望して。行き場のない怒りをにちかにぶつけた。乾いた笑いが律の口から零れ落ちる。
「……俺、どうしようもないクソ野郎だな」
数秒ほど沈黙が続いた後、胸の息苦しさがすっと消えた。つられて顔を上げると、律に向かって纏はにっこり微笑んだ。
嫌な予感が駆け巡った、その瞬間。律の頬を熱い痛みが、ばっちーーーん! という衝撃音とともに破裂した。
「痛ってえなオイ!!」
律は自分の頬を抑えながら、衝撃によろめいて数歩後ろに下がる。そんな律を見下ろしながら自業自得だと言わんばかりに纏は、いつも通りの悪態をついた。
「気づくのが遅えわ、クソ律」


それは、魔法だった。初めてカラコンを入れて、ピンクのウィッグを被り、立ち鏡の前に立った時の高揚をにちかは今でもはっきり覚えている。そこには映る人間は、野暮ったく、誰からも見向きもされない、地味なモブキャラのような自分ではなかった。
にちかがずっと憧れを抱いていた、彼女がそこには立っていた。
天真爛漫で、真っすぐで、ちょっと頑固なとこはあるけど、でも、自分の信念を持った「目ル』という架空の人物。自分とは全く真逆のひと。彼女でいるときは、にちかは誰の目を気にすることなく、ただ自分の歌を歌えるような気がしていた。
そのピンク色の髪が、にちかを無敵にしてくれた。
けれど当たり前すぎて、にちかはすっかり頭の中から忘却していた。どんな御伽噺だってお話の結末はたいがい決まっている。シンデレラだって、人魚姫だって、そうだった。
魔法が解けるのは、いつだって唐突なのだ。

歌が聞こえた。
それは、息苦しさすら覚えるようなか細く、透明とも半透明ともつかない、それでいて芯の通った歌だ。
ようやくたどり着いた音楽室のドアの前で、透花は立ち止まる。
ひとつ深呼吸をして、透花は音楽室の扉に手を掛けた。
夕焼けの赤に染まる音楽室に佇むのは、一人の少女だった。
重い前髪とふちなし眼鏡に覆い隠された真っ黒な瞳と、目が合う。心臓を締め付けられるような歌声は、第二音楽室の扉が開かれたと同時に跡形もなく霧散していた。
あまりに長い沈黙が、ふたりの間に流れる。
先に動いたのは、透花の方だった。中途半端に開いていた扉を押し、第二音楽室の床に一歩足を踏み出した、そのときである。
「ひっ、ひひ人違いですぅうう!」
「まだ何も言ってないよ!?」
言葉のやり取りを何往復かすっ飛ばして、そんなことを叫んだら、自分の正体を声高に明かしているようなものである。その事実を言った後に気付いたらしい少女は、「はぁう!?」と素っ頓狂な悲鳴を上げた。顔を真っ青にしてポケットに突っ込んでいた手で顔を覆い隠そうとするが、その拍子にポケットからスマホが落ちた。彼女の耳に繋がっていたイヤホンがぴんっと引っ張られ、スマホと接続していたプラグが外れる。スピーカーに切り替わった。
スマホから流れる曲は───
「はあわわははわああああああああああああああああああああ!!」
青を通り越して顔を真っ白にした少女が、床に落ちたスマホを拾い上げようとして今度は、がらがらと音が立つ。少女がしゃがみ込んだ際に、すぐ近くにあった机へぶつかり、その上に置いていた鞄がひっくり返って中身が派手にぶちまけられた。
流れるように透花が視線を落とせば、床に無残に転がるのは、化粧道具の数々と、見覚えのあるピンク色の髪。
「ほぎゃーーーーーーーーーーーーーー!!??」
少女はその光景を目の前にして、反射的にそのピンクを隠そうと手を伸ばし、
「あ、危ない!!」
「へっ?」
垂れ下がったイヤホンのコードで思いっきり足を引っかけ、そのまま床にダイブした。ばちーーーん、という衝撃音に思わず透花は目を固く瞑る。
しばらくして、透花がゆっくりと瞼を開くと、そこに広がる光景はまさしく殺害現場のようだった。床に突っ伏したままうつ伏せで倒れる少女、未だ流れ続ける『ITSUKA』の新曲デモ音源、床に霧散した化粧道具とピンク色のウィッグ。
これ以上の状況証拠があってたまるものか、と言いたげな現状だった。
「……に、にちかちゃん? 大丈夫?」
透花は膝をついて、微動だにしない背中に手を伸ばし触れる寸前だった。
「………………いっそ殺してぇ……」
耳を澄ませなければ聴こえないほど、小さな声でにちかは言った。
透花は少しだけ笑って、手を差し伸べる。
「いい感じにギャグ漫画みたいだったよ、にちかちゃん」
悪意のない一言がにちかに止めを刺したのだった。

自分でも、馬鹿だと思う。
ピンク髪も、濃いメイクも、短いスカート丈も、全部『mel』になるためのおまじないみたいなものだった。芦屋にちかという地味で、空気読んでばっかで、影薄くて、いてもいなくても分かんない陰キャじゃなくなるための、おまじないだった。
中学校の頃の芦屋にちかは、一言でいえば金魚のフンだった。クラスでカースト1軍のキラキラ女子グループの、一番地味なやつ。へらへら笑って、周りに頑張って合わて、見下されてんの分かってたけど気づかないふりして。
けれど、全部に嫌になってしまった。
全部、投げ捨てて誰も自分のことを知らないところへ行きたかった。でも、逃げ出す勇気も立ち向かう勇気も微塵もなくて、惨めで、そんな自分のこと大っ嫌いだった。
そんなとき、だった。あの漫画を見つけたのは。 
初めて『二目メメ』の漫画を手に取って読んだとき、にちかは自分の視界が広がるような気がした。中学生のころのにちかを構築する世界のすべては、学校と友人と家族、それだけだった。その狭すぎる視界に、新しい色を一滴垂らしてくれた。それはやがて、にちかを支配していた色さえ塗り潰すほどに鮮烈な輝きを持っていた。熱中した。熱中して、何度も、何度も、何度も読み返した。漫画が擦り切れボロボロになってもなお、読み続けた。
『変えられないばかりだけど、でも、ひとつだけ確実に変えられるものがある。それが、あたしだ!』
その『メル』の言葉が、どうしようもなく刺さった。どんな苦境に立たされても『メル』は何度でも立ち上がった。そのたび、傷が増えようともそれでも彼女は立ち上がった。その背中に、にちかはどうしようもなく焦がれた。手を伸ばさずにはいられなかったのだ。
変わりたかった。これ以上自分を嫌いになりたくなかった。
それを変えるチャンスは案外すぐに訪れた。中学2年、合唱コンでソロパートのオーディションが開かれた。自分が主役になれるチャンスだと、思った。すぐさま立候補した。けれど、そのパートには同じグループのリーダーの子も立候補していた。その子に気を遣って周りの子から、譲ってあげなよ、と口々に言われた。
たぶん、今までの自分だったらへらへら笑いながら譲っていただろう。けど、それは嫌だった。『メル』なら譲らないと思ったから。だから、それは無理だと断ったのだ。
結果、オーディションになってにちかがソロを歌うことになった。その子は、泣いてた。そして、にちかはその日を境にグループからもクラスからも孤立してしまった。
本番の日。
にちかにとって忘れられない、最悪の思い出。
大勢の観客がいる前で、にちかは大きなミスを犯した。意図的にタイミングを後らされて、体育館ににちかの声だけが響き渡った。張り詰めるような沈黙の後の、失笑、失笑、失笑。一斉に集まった突き刺すような視線、視線、視線。
すぐさま逃げ出したいという恥辱と、身を焦がすような激しい怒り。そして、『メル』のようには決してなれないという現実ににちかは打ちひしがれた。
にちかは、人前で歌えなくなってしまった。
だから、動画サイトで投稿を始めた。誰もいない部屋でひとり、気ままに歌うだけなら、にちかは誰の目を気にすることなく歌えたからだ。誰に馬鹿にされることもない、蔑まれることのない、ただひとりの楽園。ひとりで完結する世界で、にちかは満足していた。たぶん、このままでいい。それでいいんだと、誤魔化すように言い聞かせて。
しかし、それは唐突に覆された。
それは、まさしく見計らったようなタイミングだった。
にちかの元にライブ出演のオファーが舞い込み、悩みに悩んだ結果、断りのメッセージを考えていたときだ。『ITSUKA』の『青以上、春未満』を聴いたのは。
歌いたい、と初めて強く、強く、思った。

「『芦屋にちか』のままじゃ、きっとあたしは誰の前でも歌えない。……最初は、偽物でも構わなかった。『mel』はあたしにとって、あたしでなくなるための、おまじないみたいなものだった。何も考えなくて済んだの。『メル』ならきっとこうする、こう言う、って考えながら行動しているうちは、あたしは無敵でいられた。……けど、そういうとこ、あいつは全部お見通しだったんだろうね」
にちかは自重するように笑った。静かな音楽室の中で、彼女の乾いた笑いが空しく響いた。
小さな綻びから、にちかの本性が暴かれるまではあまりに一瞬のことだった。
怖気づいたのだ。あの小ステージの上で、分厚く纏ったはずの『mel』はあまりに易々と砕け散った。
にちかは徐に自分の分厚い前髪をかきあげ、自身を嘲る。
「自分が救われたように、誰かを音楽で救いたい、とか。音楽で世界を救える、とかさぁ。全部、全部、嘘っぱちじゃん。あたしなんかの歌で、誰が救えるんだよ。他人の目ばっか気にして、『mel』でいないと自分の歌も満足くせにさ!」
だから、もう。あたしのこと諦めて、そう紡ごうとしたにちかの言葉よりも先に、透花が口を開いた。
「それ、めちゃくちゃ分かる」
「……」
「……」
「……え?」
「え?」
互いに顔を見合わせた。
先ほどまでのシリアスな空気が一変、きょとんと目を丸くする透花の毒気のなさににちかは肩の力が抜ける。
「え? わたし変なこと言った?」
「いっ……てないけど、そこ同意するとこ……?」
「だってめちゃくちゃ分かるから……」
「そ、そっか」
自分の弱さをあっさりと肯定されてしまった。
そうしたら、なんだか、全部バカバカしくなってきて、にちかはふっと軽く笑った。一度笑い出したら止まらなくなって、お腹を抱えながら笑う。にちかの笑いを引き出した本人が分からないって顔をしているところが、なお笑いを助長させる。
「あっはっは……はあ、笑ったぁ」
「ええ……?」
「だって、透花ちゃんが分かる、とか言うからさ」
「ええ~……?」
納得のいっていない様子で、透花はだって、と続けた。
「だって、怖いに決まってる。わたしも新曲アップするとき、嫌な妄想ばっかして死にそうだもん。前日とか全然寝れないし」
「嫌になったりしないの?」
「ある。めちゃくちゃある! 挙句投げ出しちゃえーって自暴自棄になる」
「じゃあ、どうして」
目を細めたくなるほどの夕焼けの光を浴びながら、透花は緩やかに笑った。
「だって」
 迷いのないまっすぐな眼差しで。
「わたしの創作は、わたしにしか描けないから」
「──」
「描くたび自分の実力にへこむし、満足に描けなくて腹たつし、こんちくしょーって思うし、コメントで叩かれるとすっごく落ち込むけど……でも、描きたいって衝動に突き動かされる。描き切らなきゃ死んでも死にきれないって、そう思う」
透花が立ち上がる。つられて視線を上げれば、ゆっくりと手が差し伸べられた。
「律くんは多分、絶対口にしないけどさ。『劣等犯』は──、」
自然と、手が伸びる。繋がれた手によって引き上げられた。
彼がどうしてこの曲に『劣等犯』とつけたのか。今更になって理解することになろうとは、とにちかは歯噛みした。
「にちかちゃんのための曲だよ」
歌う意味とか、意義とか、小難しい事ばかり考えて散々こねくり回した。けれど、終着点は余りに単純だった。
「……あたし、馬鹿だからさ。小難しいこととか何にも考えらんないや」
「うん」
ぐしゃぐしゃな酷い泣きっ面に今自分が出来る最高の笑みで、答える。
「ここまで来たんなら、逃げてらんないよね」
「うん」
「だって、『劣等犯』はあたしの歌だから」
雑音が多すぎて、一番大切なことをにちかは忘れていた。容量悪い癖に許容量を超えて思い悩むのは、自分の性に合わないのだ。
その日の夕方、『Midnightblue』で顔を合わせたにちかと律がほぼ同時に勢いよく下げた頭同士が派手にぶつかって、後頭部に大きなたんこぶが出来たのは、また、別の話である。


本日、快晴。
夏の蒸し暑さは遠い昔のことのように、頬を撫でる秋風はからりと乾いている。見上げれば突き抜けるほどの青天井が広がっていた。
同じデザインのTシャツを着た、家族連れから若いカップルまで様々な人々が駅の改札口から、ロックフェスの会場へと流れていく。透花はその人ごみに半ば押されるように、ふらふらと覚束ない足取りで進む。10月末とはいえ、昼間の日差しは連日の寝不足の身体には少々毒だ。
「うへー太陽が目に染みるぅ」
「分かる……死ぬ……」
透花の隣で背を項垂れさせるのは佐都子だ。これまた化粧したのかと言いたくなるような真っ黒な隈をこさえている。
「だからあれほど僕が、」
「あーやめてやめてぇ! 今纏の小言聞いてたら頭パンクすっから」
さすがの纏も連日徹夜で作業していた佐都子に対して、強く言えなかったのか、はいはい、と軽くあしらうだけに終わった。

にちかたちが待機する関係者通路を通ると、これから始まるフェスの準備に向けて慌ただしく動くスタッフでごった返していた。
「あ、来た来た! 透花ちゃーん! こっちこっち!」
よく通る声の主はもちろん、にちかだった。数メートル先で大きく手を振っている。その隣には律の姿もあった。にちかの元へ駆け寄ると、いつもの彼女と様子が違うことに気付いた透花が、目を見開く。
「にちかちゃん……その、」
「あ、髪? 思い切って切ってみたんだ。どう? ニューにちかちゃんは」
溌溂とした笑みを浮かべ、自慢げに胸を張るにちかが黒髪の毛先を人房を手にした。
胸の下まで伸びていた黒髪は、ショートボブくらいまでバッサリと切られ、重かった前髪もセンターで分け、白い額が太陽に晒されている。
「うん、めちゃくちゃ似合ってる。かわいいしかっこいい!」
「でしょ~?」
「──こら。俺たちそっちのけで何話してんの?」
口を尖らせた律が、ひょいっと透花たちの会話を遮る様に顔を覗かせた。すると、にちかはにんまりと悪戯っぽく口元を上げ、透花の腕に自分の腕を絡ませる。律に向かってべーっと舌を出し、おどけた顔で言った。
「今日の透花ちゃんはあたしが釘付けにするってだけ! 羨ましいかこの野郎! 結局、このあたしが透花ちゃんの一番ってことよ。ね、透花ちゃん」  
「はあ~? 言っとくけど、俺の方が透花のこといっぱい知ってるし。なんなら、透花が俺のファン1号だし! どう考えても俺が一番じゃん!」
「やだやだしょうもない嫉妬ですか~? 自信ない奴に限ってよく吠えるんだよねぇ」
「は~~? 売られた喧嘩は買うけど? 何ならここで決着つけるか? ま~~、透花はお前の歌より俺の曲がいいって言うけどな絶対!」
「あっはっは、何言ってんだか! 透花ちゃんは今日! あたしの歌を! 聞きに来てんのォ! そこんとこ忘れてもらっちゃ困るんですけど?」
透花を挟んで、激しい火花を散らすふたりが一斉に透花の方を見やる。今にも刺殺されそうな鋭い視線に透花の肩が大きく跳ねる。
「透花は」
「透花ちゃんは」
「「どっちが一番!!??」」
その勢いに気圧された透花は、大量の冷や汗をかきながら助けを求めるために纏と佐都子の方を振り向く。が、速攻逸らされた。現金な奴らである。
タイミングよく、スタッフの人から準備お願いしまーす! という呼び掛けに透花はほっと肩を撫で下ろす。そんな透花を、誰か指さした。指先から視線を上げれば、にちかがにっと歯を見せて笑った。
「最高の歌、聞かせてあげるからさ。覚悟しとけ!」
颯爽と立ち去る彼女の背中を、透花はいつまでも見ていた。


会場の観客席は、同じ色のTシャツに身を包んだ群衆で、ぎゅうぎゅうに押詰められている。
観客の波が一体となって、盛り上がりは最高潮に達している。秋風がどこからともなく、汗ばむほどの熱気を攫うように吹くが、それでも熱が冷めることはない。
割れんばかりの歓声と、雄叫びにも似た『mel』を呼ぶ声が会場のあちこちから飛んでいる。次々とアーティストがステージに上がるたび、『mel』の順番は差し迫ってくる。透花の心臓は脈打つことさえ忘れそうなほど、不安と緊張で押しつぶされそうだった。
ステージに上がらない人間がこんな状態になっているというなら、にちかは一体どれほどのプレッシャーが圧し掛かっているのか。そんな精神状態でにちかがステージに立つことが出来るのか。最悪な結末が思い浮かんでは消える。
透花は頭を乱暴に振り、姿勢を正した。見据えるのは、夕日に照らされたステージ。ステージのライトが一斉に点灯する。一瞬にして会場の歓声が止む。MCの男性がステージの袖で声を張り上げる。
「会場の皆様、大変長らくお待たせいたしました!! 現在、動画サイトを中心に活動を続ける期待の歌い手『mel』の登場です!!」
鼓膜が弾けるほどの拍手とともに、視線が一点に集まる。
ステージ中央、スタンドマイクの前に立つのは、ひとりの少女だ。
少女は、静かに閉じていた瞼を開く。今、彼女の視界に映る世界のすべてが、彼女の歌を待ち望んでいた。
マイクを握りめた両手に力がこもる。マイク越しに彼女のかすかな呼吸音が流れ込む。
静寂の3秒間。
スポットライトが青一色に切り替わった。
「聴いてください。───劣等犯」
大きく息を吸い込んだ彼女の歌声が、会場全体に響き渡る。
観客先に向けられたスマホのカメラ。しかし、彼女の歌声を耳にした観客たちは次第にスマホ越しの彼女ではなく、今、ステージに立つ彼女の姿に視線が引き寄せられていく。
それは、喉の奥を締め付けるような圧迫感だった。後頭部を殴りつけられるような衝撃だった。心の隙間を容赦なく抉られるような痛みが伝染しているようだった。この世の理不尽も、不条理さも、エゴも、孤独感も、すべてを飲み込んで、それでも彼女は歌うことを止めない。足掻くように歌い続ける。

「透花?」
指先に、誰かの指が絡む。ただ、何も言わず透花は指先に力を込めた。言葉にならない感情は、嗚咽となって固く閉じた唇をすり抜けるように漏れ出る。
ずるいよ、にちかちゃん。透花は、震える唇を引き上げ、笑う。
こんな歌を聴かされたら、動かされないわけないじゃん。
ふと、マイクから離れたにちかがこちらを振り返った。目線が合った瞬間、汗に髪を張り付けた彼女は、吹っ切れたように大きく口を開けて笑った。
その顔を見たとき、透花は逃げ続けた過去に向き合う覚悟が、ようやく決まった。


夕焼けの境界線が深い青に包まれたころ、透花はステージ裏で次の準備や打ち合わせするスタッフの波をかき分けるように、彼の姿を探していた。視界の隅に、ちらりと彼の姿が映ったような気がして振り返る。透花は、その影を追うように会場の外へ出る。
一歩、会場から出ると辺りはステージの盛り上がりが嘘のように人影もなく、閑散としていた。未だ続くライブ演奏の音と、飛び交う喝采はどこか遠い出来事のよう。
「律くん」
律は、ひとり階段の一段目で蹲るように顔を伏せて座っていた。
その前に立って、透花が声をかけると、律はのろりと表を上げた。焦点の定まらない虚ろな瞳が透花の姿を捉えると、少しだけその色に失いかけた気力が戻る。血の気を失った青白い顔が、くしゃりと歪んだ。
「透花」
それは、縋るような声だった。
「律くん……だ、大丈夫? 顔色すごい悪いし、冷たいよ」
律の頬を触ると、たちまち透花の体温が奪われていくほど冷たい。
「すぐ大人の人を、」
「いかないで」
律の頬から離れていく透花の手の軌跡をたどるように掴んだ。
ぴんとはった糸のように掴まれた腕を掴む力は、簡単に振り払えるほど弱弱しい。
「ここにいて。お願い」
「……分かった」
透花はそれだけ返事を返し、律の横に並ぶように座る。透花と律の間にあるのは、重ね合わせた手ひとつぶんの間隔だけ。
見上げた夜の空は、手を伸ばしても届かないほどに遠い。乾いた空気を吸い込むと、少し肺が痛くなるほど透明で澄み切っている。
ただ手と手を重ねた指先が、互いの存在を確かめるようにどちらともなく絡みついて、解けない糸のように固く繋がれる。
「ねえ、透花」
「うん」
「……今だけでいいから」
「うん」
「胸、貸して」
透花は返事を返さず、ただ律の頭に手を伸ばし、優しく包み込むように引き寄せた。少しだけバランスを崩した律が、透花の身体へ雪崩るように腕の中に収まった。
押し殺すような吐息は堰を切ったように嗚咽へと変わり、止まらない透明な雫とともに夜風に攫われてく。誰にも聞こえないようにと、透花は背中に回した腕に力を込める。決して描かれることのない漫画の余白を埋めるように、強く、強く。

それからどれほどの時間が経ったのか。透花の体温が律の体温と混じり合って、同じくらいの熱を帯びたころ。
「律くん、わたしね」
泣き腫れて目尻に赤色を滲ませた瞳が、頼りなく視線を上げる。
「もう、逃げるの、やめようと思う」
目を逸らしていたことから、ようやく向き合う覚悟が出来た。大丈夫、やり方はにちかが教えてくれた。あとは自分を信じて突き進めるかどうかだ。
透花は、ゆっくりと息を吸い込んで、律の顔を真正面に捉えて言った。
「律くんに書いてほしい曲があるんだ」
ああ、それがきっと。
間違いだった。




闇の正義ちゃん@seigi_125
え、待って待って。
これってさ、トレパク?
完全一致なんだけど。
頬を突き刺すような寒気に身をすくめる。
息を吐くたび、薄い藍色を零したような夕方の空に白い靄が溶け込んでいく。コンビニで買った安物のビニール傘に雪の混じった雨がしきりに降り注いでいた。
ぱきり、ぱきり、と薄氷を割りながら律は行き慣れた道を慎重に歩く。蛇行した自転車のタイヤ痕が律の行く道に続いていた。
連日の止まない氷雨がより一層寒さを引き連れているのだろう。傘の露先から垂れた冷たい雫が律の頬に滑り落ちる。まるで、誰かがずっと静かに泣いているようだった。
目的地は数分程度で辿り付いた。
律は、門扉の前に立ち、いつも通り2階のとある一室を見上げた。カーテンで閉め切られたその部屋から明かりが漏れることは無く、律は小さく息を吐いた後、インターフォンを鳴らす。数十秒後、彼女によく似た顔立ちの妙齢の女性がドアを開けた。律は傘を差したまま、小さく会釈する。
「こんばんは」
「あら、律くん。今日も来てくれたの?」
「はい。……あの、」
後に続く言葉を律は紡ぐことが出なかった。ドアを開けた瞬間の、表情を見ればすぐに察することが出来たからだ。
「ありがとう、律くん」
「……俺は、何も」
「そんなことないわ。あの子、律くんが来たよって言うと少し反応があるのよ。……すっかり、身体冷えてない? よかったら上がっていって。ココアでも淹れるわ」
招き入れるようにドアを開く彼女に、律は頭を横に振った。
「いえ。今日はこれを渡しに来ただけなので」
「あの子に?」
「はい」
右手に握りしめたそれを、差し出す。彼女はそれを門扉越しに受け取った。
「これを渡せばいいのかしら?」
「はい」
緩く頷くと、続けざまに律は言う。
「……あとは、透花の好きにしていいよって、伝えてください」
他の誰がなんと言おうと、透花が選んだ選択を尊重する。だから、透花に選んで欲しい、その問いかけが手渡したUSBの中にすべて込められていた。
例え、彼女がこの曲を聴くこともなくゴミ箱に投げ入れたとしても。
二度と、『創作』をすることがなくなったとしても。


闇の正義ちゃん@seigi_125
え、待って待って。
これってさ、トレパク?
完全一致なんだけど。

きっかけは、単なる個人の『つぶやき』だった。
フォロワーも30人もいない、知名度も無いに等しいただの雑多アカウントでそれはツイートされた。その内容は、とあるアカウントで描かれたイラストと、『ITSUKA』の『劣等犯』MVで出てくるワンシーンのイラストを重ね合わせてトレースした画像だった。
それは、瞬きをするよりも速く、そして爆発的にインターネットの海に波を起こした。
たかが一つ石を投じただけの、小さな揺らぎは、匿名という大義名分を持った様々な人間の目に晒され、拡散され、瞬く間に苛烈な火となって燃え盛った。
そうそれはまさしく、『炎上』と呼ぶに相応しい有様だった。

鏡乃@ zjtmvxu
盗作とか最低。

シルタネン@0KsZK___
やば。丸パクリじゃん。
こんだけ一致しててよく気づかれないと思ったな

しらそ戯曲@Lz1X1NFp
無許可で人のもん取ったらそれは窃盗罪なんですけど?笑

@こいん@y72sHX
『劣等犯』じゃなくて『窃盗犯』じゃんw

茶織@M5J0yL
【悲報】ITSUKAさん丸パクリで炎上。言い逃れできないレベルで草

カレンちゃん@Q2CFW000D
掘れば掘るほど出てくる出てくる笑 
もしかして他のMVでもやってたりして。特定班よろ!

shinori@j5a4ZO79M
まじでmelの評判まで悪くするから本当にやめてほしい。
melもこんなパクリ集団と絶対コラボしないで…

不安定ロメオ@Ob0kE8w3n
トレパクして平然とネットに投稿できる神経がやばい

夢落ち@k3i5eqHhi
友達の絵師もトレパクされて、結局界隈から出てっちゃったから本当に許せない
一生懸命描いたもの他人に盗られる人間の気持ち考えて
#トレパク #拡散希望

愛一薯@nAoQWM1
死んだ方がいいよ。聴かなきゃよかった

シトシト狂@w5yhwH5
これもう垢消して失踪しかないね。
正直あんまりMVも好きじゃなかったし、消えてさっぱり笑

花桜里@55947j9
公式のITSUKAからもツイートがないのに決めつけるやつ何なの?
向こうがパクったかもしんないのに

熔@c09x4989l0_
擁護してるキモい信者大杉

ガルビアーティ@sd832si334
別にITSUKAのファンじゃないけど、
当事者たち以外がとやかく言うのはお門違いでしょ。
匿名だから何言ってもいいわけじゃない。
行き過ぎた誹謗中傷で攻撃すんのはただの正義マン

悪寒が走る地獄図@OZ9j1vmM76
信者乙wwww冤罪なわけないからwwww

ロセル@1125_momoiro
MVのせいで曲が台無し。絵師だけすり替えよ? 
これぐらいのレベルならいくらでもいるんだからさ

見るに堪えない身勝手な言葉が、無責任な言葉が、卑劣な言葉が、親指でスクロールするだけで次々と流れていく。
透花はその画面をまるで他人事のように眺める。肌を刺すような重い空気が、『アリスの家』の一室に流れていた。
纏に呼び出された『ITSUKA』のメンバーたちは、ただただ永遠にも感じる沈黙の中で険しい顔つきで立ち尽くしている。
纏は膝をついて、黒髪で隠れる透花の死人のように冷白い頬に触れた。
「……透花、」
透花がスマホから視線を上げる。
その視線が合わさった途端、纏はぐしゃりと顔を歪めて、その瞳から逃げるように顔を下に逸らした。用意していた言葉が何一つ喉から出てこなかった。代わりに出てきた言葉は余りにか細かった。
「答えて、透花。……透花は、……そんなこと、してないって、言って」
頼むから。お願いだから、否定して。
それはまるで、天から降ろされたたった一本の細い蜘蛛の糸に縋るような、祈りにすら聞こえるような声だった。

SNS上では、透花の描いた絵がトレパクだ、と検証した画像が次々に投稿されていた。
トレパクとは、「トレース」と呼ばれる模写で自分のものと偽って公開することであり、つまりは『トレース』と『パクリ』を組み合わせたネットの造語だ。
発端となったそのツイートを上げた張本人は、透花が盗作をした確たる証拠を追加で何度もツイートしていた。
何より、投稿日が決定打になった。
件のイラストがSNSに投稿されたのは、MVが初公開された『mel』のライブよりも、1か月ほど前。要するに、どちらが先に公開したかだけに焦点を絞れば、透花がそのイラストを盗作するには十分な猶予があったいうことだ。
そして、その答え合わせができるのは、他でもない透花だけだった。
「……わ、たしは」
透花は、手にしたスマホを握りしめた。
「……誰かの作品を、盗んだことは……ない」
彼女の言葉に皆一様に胸を撫でおろした。しかし、透花は唇を強く噛み締め、その空気を断ち切るように続けた。
「でも、わたしは……それを証明するだけの証拠を……なにも、持ってない。だから、わたし、は……みんなに、信じてほしいって、それだけしか言えない。こんな都合のいいことしか、言えない」
言葉なんていくらでも偽ることが出来る。求められているのは、明確な証拠だ。
確かに透花が自分自身で生み出した『創作』であるという証拠を、透花は何一つ持ち合わせていなかった。
「ごめん、なさい」
譫言のように、呟いた。
「ごめ、ごめん、なさい。ごめんなさ、わたし、は……」
直視するにはあまりに痛い現実から目を背けたくて、透花は両手で自分の顔を覆う。
これ以上、何も見たくなかった。何も聞きたくなかった。だというのに醜く歪んだ視界の中、それでもなお、覆い隠せなかった指の隙間から透花に突き付けてくるのだ。お前の逃げ場所なんてどこにもない、目を逸らすな、と頭を押さえつけ、せせら笑いながら、呪いの言葉を吐きかけるのだ。
「わたしの……わたしの、せいだ」
最悪な結末を引き寄せたのは、まぎれもなく。
「……ごめんなさい、わたしの、全部、わたしのせいだ」
初めて思い知る。生み出した創作が、今この瞬間にも残虐に無慈悲に壊されるのが、それをただ見ていることしかできない悔しさが、怒りが、辛さが、これほどまでに途方もないことを。
「わたしが、みんなの創ったものめちゃくちゃにして、あんなに頑張ったのに、みんなでっ、たいせつに、つくったのに……! わたしが、あんな絵を描かなかったらっ、ごめん、ごめんなさい、わたしのせいで、ごめんなさい」
壊れたラジオのように透花は何度も繰り返す。
もはや誰に許してもらうための言葉なのかすら、分からなかった。もしくは誰でもよかったのかもしれない。誰かに許してほしかったのだ、この罪悪感から、苦痛から、現実から、救い出してくれるなら、誰でもよかった。
(もし誰にも許されなかったら、そうしたら、わたしは、)
あまりに脆く柔い内側が、ゆっくりと崩れ落ちて奈落の底に沈むような感覚に、透花の目の前が真っ暗になった。
(わたしは、もう、二度と、)

「透花」
透花の頭は、大きな手のひらによって引き寄せられた。とん、と温かな体温が頬に触れる。左の耳から、心臓の鼓動が直接伝わってくる。
一瞬何が起こったかが理解できずに固まる。しかし、透花の頭から降り注ぐ声色が現実に引き戻す。
「大丈夫、大丈夫だから。落ち着け、透花」
それは、律の声だった。
「俺は信じるよ、透花のこと」
だた、それだけの言葉が、透花の目頭を熱くさせた。
「っ、わたし……本当は、嘘ついてるかも、しれないんだよ?」
「うん」
「平気で、誰かの創作を盗むような、人間かもしれないんだよ……?」
「うん」
「それでも……、わたしを、信じてくれる……?」
「信じる」
「な、んで」
「透花が他の誰よりも、真剣に創作に向き合おうとしてること、俺は知ってるから。そんな奴が出来るわけないだろうが」
どうして、と透花は震える唇を噛み締めた。油断すればすぐに声が漏れてしまうと思ったからだ。
「ネットの人間が何言おうが知ったこっちゃねえよ。俺は、俺の目で見たものだけを信じる。だから、俺は透花の言葉を信じる」
その言葉に、透花がどれほど救われたのか、きっと律には理解できないだろう。気が付いたら透花は、律の胸に縋って赤ん坊のように泣き出した。より一層、透花の背中に回った腕に力が入る。
項垂れた透花の手の甲に、誰かの手がそっと重なった。
「あたしも、透花ちゃんの言葉を信じる」
にちかがお日様みたいに微笑む。その目じりにたくさんの涙をためて、それでもなお笑って見せた。
「コイツと同じ意見なのはなんか腹立つけどさ……、でも、その通りだよ。あたしも知ってる。透花ちゃんがどんだけ真剣に向き合って、あのMVを描いてくれたのか。じゃなきゃ、あんな心を打たれる絵なんて描けないもん。それを知らない外野が、憶測だけで好き勝手言うのが、あたしは許せない」
にちかは、少しだけ考えるようなそぶりをしてぱっと思いついた案を口に出した。
「あたしにどれだけ影響力があるかわかんないけど、SNSで呼びかけてみる。透花ちゃんは盗作なんかしてない、何かの間違いですって。そうしたら、もしかして、」
「──そんな無駄なことしたって、意味なんかねえよ」
言葉を遮られたにちかは、静かに後ろを振り返った。両手を強く握りしめた纏が、険相な顔つきのまま、もう一度繰り返す。
「無駄なことだって言われなきゃ分かんねえのかよ」
「……は? ……それ、どういう意味よ」
「意味も何もそのまんまだよ。そんな無意味なことして何になる?」
「ちょっと、纏」
頭に血を上らせたにちかが立ち上がって、纏に詰め寄る。横に立っていた佐都子が、慌てて纏の腕を掴んで引き留めるが、纏はそれを強引に振り払った。ふたりは互いしか視界に入っていないのか、まるで意味を成さない。
「纏、あんた自分が何言ったか分かってる?」
「してる。その上で言った、無駄なことだって」
「っ、纏!」
「ちょっと、ふたりとも!」
烈火の如く燃え上がったその衝動で、にちかの手は思わず纏の襟首を掴み掛かった。
しかし、纏は顔色一つ変えずただにちかを見下す。こちらが責めているはずなのに、ぴくりとも動揺しない纏のその気迫に、にちかは一瞬怯む。
「はは。本当さ……何にも分かってないね、にちかは」
「……何が!」
「歪んだ正義感を持った人間が、悪意のある人間より、何倍も残虐なんだよ」
感情を押し殺した纏の言葉を耳にした瞬間、透花は胸を抉られるような痛みに顔を歪めた。
「お前だってネットの書き込み見たろ? あいつらにとって、盗作疑惑かけられてる『ITSUKA』は成敗すべき悪で、その悪を倒す為にっていう大義名分のもと歪んだ正義感振りかざして悦に浸ってんの。そんな奴らがさ……にちかの言葉に耳を貸すと、本当に思うの? はは。……結果なんか目に見えてるよ。『mel』が『ITSUKA』を庇ったってさらに炎上するってオチがさ!」
「そんな、こと、」
「んなことあんだよ! お前だって知ってるだろ、夕爾の漫画が好きだったならさ!! あいつがどんな、末路を辿ったのか。それでも同じこと言えんのかよ!? なあ!?」
にちかは血が滲むほど唇を噛み締めた。
纏の言葉を何一つ反論することが出来なかった。大好きだった漫画が、SNSで誹謗中傷される辛さをにちかは知っている。擁護に回れば、名も知らない幾つものアカウントから吊し上げられ、笑いものにされ、信者だと馬鹿にされた。純粋な読者ほどその餌食にされた。
ただ、好きなものを傷つけられたくなかった、それだけだったのに。
「そんなのっ、馬鹿なあたしだって、分かってるよ! でも、じゃあっ、他にどうしろって言うのよ!! 何も反論せずただ見てるだけ!? ……だって、透花ちゃんはやってないってそう言ってるんだよ? 纏は、それを信じてあげないの?」
「僕だって、信じてるよ。透花がそんなことする奴じゃない。そんなこと、ここに居る誰より分かってる!」
「じゃあっ、」
「だから、現実はそんなに甘くないんだよ! やったことの証明なんかより、やってないことを証明する方が何十倍も難しいんだよ」
纏に掴み掛かった手はだらりと落ちた。
誰も纏を反論する人間はいなかった。纏は、深く息を吐いて重々しく口を開いた。
「ひとつだけ、方法は……ある」
纏の視線が合う。その表情を見たとき、透花は纏がこれから何を言おうとしているのか察した。
「──盗作を認めて、謝罪する。それが今できる、最善の方法」
皆一様に目を見開いて絶句する。ただ一人、透花を除いて。
「っ、纏、それは」
声を荒らげた律を遮るように、纏は慟哭した。
「言われなくても分かってる! けど、これしかないんだよ! このまま放置し続けたら、僕たちじゃ透花を守れなくなる! 今はまだ作品に批判の目が向いてるけど、このまま炎上し続ければ、透花個人を攻撃するようになるかもしれない。そうなったら、学校も、顔写真も、住所も、何もかも晒される。夕爾の時みたいに。そうなったら、僕たちには守れない。…………僕たちみたいガキには、何もできないんだよ! ……ごめん、透花」
今透花がどんな顔をしているのか、直視することが纏には出来なかった。
「僕は……こんな、最低な方法しか思いつかない」

もし実行すれば、たちまち炎上は鎮火するのだろう。
けれど裏を返せばそれは、透花が『盗作』をしたというレッテルを一生貼られるということでもある。『ITSUKA』と活動していくことは、おそらく不可能だろう。世間の目は、あまりに厳しい。どれほど良い作品を創ったとしても、色眼鏡で見られ続けることになる。純粋に作品を見てもらうことはできないだろう。
『盗作』を認めることは、すなわち『ITSUKA』を解散することに他ならなかった。

「透花が、決めて。僕は、それに従う」
罪を認めるか、否か。ここで、『ITSUKA』を終わらせるか、否か。残酷な二択が、突き付けられた。
「わたし、は……」
呼吸が出来ない。身体の感覚が奪われていくようだった。世界にたった一人取り残されたかのような孤独感に、眩暈がする。
ふっと身体が羽が付いたような浮遊感の中、透花は思い出す。
この世界すべてを憎んでも足りないほどの鮮烈な怒りに満ち満ちた瞳がこちらを見ている。
『お前も俺に──死ねっていうのか?』
そこから、透花の意識は途切れた。


病院の待合室は深い青に呑まれていた。
大きな窓ガラスから差し込む月夜の明かりが、ビニール床に反射して点々と続いている。
静寂に包まれた待合室の一角で、纏はただぼうっと誘導灯の明かりを眺める。ぱちり、ぱちり、と今にも電球の切れそうな音が響き渡る。
「纏」
ふと、纏の横から影が差した。声の主は、振り返るまでもなく律だ。
「ん」
一音だけ言い放って、律は自販機で買ってきたホットコーヒーを空白の席に置く。纏が受け取るのも確認せず、律は手に持ったコーヒーのプルタブを開けて、一口煽った。開けた缶の口から湯気が立つ。
「透花、さっき目が覚めた。軽い貧血みたいなものだって」
強張っていた身体が弛緩した。その言葉を最後に、ふたりの間に沈黙が流れた。
纏は、置かれたコーヒーに手を付けることなく、立ち上がる。
そのまま横を通り過ぎようとする纏の腕を、思わず律は掴んだ。
「どこ行くつもりだよ」
纏はしばしの無言の後、諦めたように息をつく。
「……、透花のところ」
「行ってどうするつもりだよ」
「は、言う必要ある? いいから離せ」
掴まれた腕を振り払おうと乱暴に寄せようとするが、律はそれを許さなかった。腕に跡が残るほど強く掴む。
「落ち着けよ、纏。お前らしくない」
は、と纏の口から零れたのは、自嘲するような乾いた笑い声だった。
「……僕らしいって、何?」
「いつものお前はもっと冷静に状況を見てる。今のお前は焦り過ぎて周りが見えてない」
「この状況で、冷静でいろって?」
「そうだよ」
「今こうしてる間に、何んにも知らない他人が透花のことを誹謗中傷してるのにか!? それでも冷静でいろってお前は言うのかよ!!」
「少なくとも、今、纏がやろうとしてることが間違いだってことは、俺にも分かる」
「っだから、方法はもう一つしかないんだってば。それなら、炎上が広まる前に対処すべきだろ!? だから僕は、」
「二度と透花が創作しなくなってでも、か?」
纏は一瞬、目を見開いて、くしゃりと顔を歪めた。
言い訳がましい言葉がそこから喉を通ることは無かった。力なく首を垂れる纏は、それまで抵抗していた腕をすとんと重力のままに落とした。
「……どうして、」
纏は、揺らぐ視界の中、ただ嘆いた。
「どうして、僕は……こんな、無力なの……」
重力に逆らうことなく、涙が零れ落ちる。
「ねえ、律でも、いいから」
「……」
「誰でも、いいから。どうにか、してよ」
喉に絡みつく息苦しさに藻掻くように、纏は救いを求め律の胸に縋る。
「僕は、透花が創作を嫌いになるの……もう、見たくないよっ……」

笹原夕爾という一人の天才が、いた。
彼の才能が世間に認められたのは、彼が高校一年生になった頃である。
若干16歳という若さで、才能を認められた天才。
彼の最も特筆すべき才能は、その成長速度にあった。とある大手の漫画雑誌に投稿した作品が、編集者の目に留まり、ついに連載が開始したのは中学3年のころである。
それから、彼は驚くべきスピードで作画や構図、ストーリーの展開において、成長を見せた。次第にその漫画に魅せられていく読者が増えていった。
誰もが、彼を天才だと称える。人気絶頂の最中、彼の漫画が名誉ある漫画の賞を受賞した。さらに彼の漫画は世間に名を轟かせた。何より、16歳という若き天才という肩書が、メディアから大いに持て囃されたのだ。
そんな最中に、事件は起こった。

『二目メメ』の漫画は、俺の作品の盗作だ。
とあるネットの掲示板に書かれた、一文で、界隈は大いに揺れた。
匿名という隠れ蓑を利用して、『二目メメ』の漫画に描かれたストーリーが盗作である所以を、次々に投稿していった。そのどれもがどちらとも判断が付かないような曖昧な情報ばかりだった。確かに、それが確たる証拠ではないと主張する人間もいた。ただ、この世界はおかしなことに、声の大きい人間の方が正義だと思われる。それが例え、事実であろうが、無かろうが。
情報は次第に単純化され、ただ『二目メメ』が盗作をした、という情報だけがネットの海に流れ、多くの人間の目に触れていく。
彼の作品は、休載に追い込まれざる負えなかった。それが彼らの正義感をなお煽った。ほら見ろやっぱり、『二目メメ』は盗作だった、と。そこからは、およそ目にも当てられない最悪の方向へと向かっていった。
情報がどこから洩れたかは分からない。
恐らく、彼の学校関係者の誰かか、少なくとも彼の情報を知る人物から、『笹原夕爾』に関する情報がネット掲示板に晒された。その情報は直ちに削除されたものの、残念ながら手遅れだった。『笹原夕爾』という個人情報は瞬く間に全世界へと公開された。

【速報】漫画家『二目メメ』氏の通う高校に不審者が侵入
『本日未明、漫画家二目メメさんが通う高等学校に凶器を持った不審者が侵入した。高校職員の通報によって警察が駆け付け、その場で現行犯逮捕された。男は「盗作をする人間は生きていてはいけない。だから殺すべきだ」などと供述している。生徒数名が軽いけがを負った。また、登下校時を狙った計画的犯行とみられ、警察は引き続き慎重に捜査を───』

その日から今日に至るまで、夕爾が物語の続きを描くことは、なかった。
皮肉なことにその事件をきっかけに、全く動かなかった大人たちが未成年を危険に晒してしまったと、当時のニュースやネット、SNSは徹底的に規制され、事態は沈静化されたのである。
それからだ。
透花が『創作』を恐れ、描かなくなかったのは。

「……本当はね、透花が描かなくなって安心した」
毎日のように通っていた『アリスの家』にも来なくなって。描きかけのキャンバスの色が日に日に色褪せていって。彼女にとって、『創作』が無価値なものへと変換されていって。
それでいいと、纏は思った。
「だってさ、あいつら、すごい似てんの。一度のめり込んだらスポンジみたいに吸収しちゃう天才肌のとことか、こだわり強くて決めたら曲げないとことか、……指でつついたら壊れちゃいそうなほど、心が繊細なとことか」
「後悔してるか?」
「してる」
律の問いかけに、纏は即答した。
「きっと、僕は、透花を止めるべきだった。今じゃなくても、透花を傷つけるようなことを言う人間なんて幾らでもいる。いつかこんな日が来てもおかしくなかった。分かってた、分かってたよ。……なのに、止められなかった」
消化できない痛みから逃れるように、纏は息を吐き出した。
「……これは俺の持論だけど、創作って、誰かの創作を噛み砕きながら自分のものに落とし込むことだと、俺は思ってる」
ゆっくり、口に含んで。咀嚼を繰り返す。自分に馴染むまで。
「今、この世界にどれだけの創作があると思う? 何十、何千、何万、途方もない数の創作がひしめき合った中で、誰の影響も受けずに創作するなんて不可能だ。俺だって、影響を受けた曲なんて腐るほどある。……創作したことない奴はさ、きっと知らないんだ。自分が見て、聴いて、触れて、感じたものでしか何かを生み出せないってことを」
律はゆっくりと瞼を閉じる。浮かぶのは、件のツイートだ。絵に関しては全くの素人である律にも、あれが意図をもって描かれたものだと分かった。
「あれは、自分のものに出来ていなかった。だから、盗作になった」
「律、お前……透花が盗作したって言いたいのか?」
「してないって信じてる。だから、なおさら混乱してるよ」
「……どういうこと?」
「もし透花が盗作してないとするなら、向こうが盗作したってことだろ?」
「そ、れは」
纏の瞳が分かりやすく揺れた。
そうして、何かを言いかけるように口を開いたが、纏にしては珍しく歯切れが悪そうに、眉に皴を寄せ黙りこくる。
「証拠があれば、今の状況を変えられるか?」
律の言わんとしていることは、すぐに纏は理解した。
「……もし、証拠が見つかったとしても、透花が描きたくないって言ったら?」
「そん時はそん時だよ」
「行き当たりばっかりが過ぎるでしょ」
「それでも俺は、まだ諦めたくねえわ。透花の創作が好きだから。纏は違うのか?」
立ち上がった律が、纏の目の前で手を差し伸べる。見上げれば、影の差した暗がりの中で、唯一、浮かぶ二つの眼が纏を射抜いた。
クソったれ、と、纏は心の中で悪態をつく。
どうしてこんな時に、似ても似つかない律の瞳が、透花の青に重なって見えるのか。
気が付けば、纏の左手は律の手を握り返していた。そのまま、律の腕を伝って海の底から引き上げられるように纏の身体は立ち上がる。
「1週間」
「何が?」
「猶予。SNSで事実確認中とか掲載して適当に引き延ばしても、それが限界。1週間で証拠を見つける。死ぬ気で」
律はくいっと顎を上げ、不敵に笑った。
「上等」

ITSUKA@ituka_official
【ご報告】
平素より、『ITSUKA』を応援いただきありがとうございます。
この度、『ITSUKA』の楽曲MVにつきまして、盗作ではないかといったご意見が挙がっております。現在、MV製作者や当事者の方へ事実確認を行っております。
状況が分かり次第、ご報告させていただきます。またこの件につきまして、憶測や事実と異なる───

その日、『ITSUKA』がSNSに上げたツイートは、一時間で3万以上のリツイートされた。トレンドに並ぶ『盗作』『ITSUKA』『MV』『トレパク』『mel』の羅列。
纏は、透花の個人情報が洩れないようSNSも動画サイトのコメント欄もすべて閉鎖した。


古臭いウッドドアには『close』のプレートがぶら下がっていた。
いつも通り、ノブを捻ってドアを開けるとからん、からん、とベルが鳴る。底冷えするような寒さが、店内の暖房でほんの少し和らぐ。適当に巻き付けたマフラーを外しながら、視線を上げると、バーカウンターを挟んで見知った二人が談笑しているのが見えた。
ベルの音に気付いたらしいバーテン服の男が、お、と声を上げた。
「お帰り律。寒かったろ? コーヒーいるか?」
「いる」
「はいよ」
カウンターの奥に消えていく叔父の姿を見送りながら、律は無言で彼女の隣に腰を下した。
「……どうだった?」
にちかは、恐る恐る律に尋ねた。軽く息を吐いて首を横に振る。
「そっか」
あっさりとした返事を返すと、にちかは冷めきったコーヒーに口を付けた。
「……お前の方こそ大丈夫なのかよ? 盗作騒動で、『mel』も結構叩かれてんだろ。しかもライブの動画も出回ってるし。身バレとか」
「大丈夫大丈夫。さすがにクラスメイトもこんなもっさい見た目の女が『mel』だなんて思わないでしょ」
「あーそれもそうか」
「あ? 喧嘩なら買うけど?」
「当店には喧嘩は販売しておりませーん」
「屁理屈うっざ」
いつもの軽口のやり取りをしているだけで、律の心持は少しだけ軽くなった。

透花が倒れ、病院に運ばれた日から4日ほどが経った。
幸い異常なしと診断結果が出たため、透花は母親に連れられ、すぐに帰宅することが出来た。
その日からである。透花からの連絡は途絶えたのは。
律だけではない。纏や、佐都子、にちかもまた、返信が返ってくることは無かった。
各々が透花に会うため、彼女の家に通っているが、今だ誰も会えず仕舞いである。
纏と約束した期限まで、あと3日。
悪魔の証明、などと、よく言ったものだ。
やっていないことを証明するための、確たる証拠が何一つ見つからない。
そして、律の焦りをさらに助長させるように、炎上の火花は様々な界隈へと飛び火していた。『ITSUKA』という名を知らないような人間にも知れ渡るほどには。纏の言うように、事実確認中などと言い訳が通じるのは、1週間が限界だろう。
それに加えて、透花の音信不通状態。証拠が見つかったところで、透花にこれ以上描く気力がなくなれば、今やっていることは全て無駄な徒労になるだろう。
この最悪な状況を打破するために、律は、透花の母親にUSBを託した。初めて、透花が律に書いてほしいと願った曲だ。透花が、透花自身と向き合うために、あるいは過去と決別するために描くと決めた曲。
後は、もう、ひたすら透花を信じるしかない。

「しゃんとしろ!」
唐突に、背中に衝撃が走る。ばしん、と小気味のいい音とともに叩かれた背中の真ん中あたりが猛烈に熱くなった。
「ってーな!」
「あの夜、ステージから逃げたあたしに説教垂れた人間とは思えないわ。なにを弱気になってんのよ」
「……俺の黒歴史いじんな」
「あっはっは奇遇だこと、あたしも黒歴史だわ! 何なら今度はあたしが説教垂れてやりたいくらいにはね」
痛いところをついてきやがる、と律は心の中だけで文句を垂れる。
「つーか、アンタも纏も舐めすぎ」
「何が」
「透花ちゃんは、お前らが思ってるほど弱くないっての」
重い前髪から見え隠れする強い意志のこもった真っ黒な瞳に、情けない顔をした自分が反射する。
「女だからって、勝手にヤワだって決めつけんな。言っとくけど、ネットに自分の創作物曝け出せるような女の子のメンタル弱いわけないから」
あたしも含めね、とにちかは口角を上げて笑う。
「けどさ、もし、もしも、だよ? 透花ちゃんが竦んで一歩も動けなくなってるんだったら、後ろから思いっきり蹴っ飛ばして、一発喝入れてやれ。そんで、あとは全部まるごと受け止めてやるって、でっかい懐見せつけてやればいいの。それが惚れた男の義務ってやつじゃん」
「……にちか」
律の呼びかけに、にちかは不愛想に答える。
「何よ」
「お前って意外と、いい奴だったんだな」
一瞬呆けたように目を丸くしたにちかは、軽めのパンチを律の脇腹にお見舞いした。
「意外と、は余計だっつの」
いてて、と小突かれた箇所を押さえて大袈裟に痛がりながら、律は神妙な顔で言う。
「……てか、俺ってそんな分かりやすい?」
纏だけでなく、にちかにまで看破されるほど、分かりやすく態度で示したことなど一度もなかったはずなのに。おそらく、当の本人には全くと言っていいほど伝わっていないだろうけれど。
対しておかしな質問をしたわけでもないのに、にちかは言葉の意味を理解してから数秒後、ぷっと吹き出したかと思えば、店内に響きわたるほどの大声で笑う。
そうして、口を開いた、その時である。
「きっ、緊急事態!」
けたたましくドアベルを鳴らし、外から飛び込んできた纏の鬼気迫る声が、それを切り裂いた。恐らくここまで全速力で走ってきたのだろう、風と雪で髪もマフラーも乱れた纏が肩を上下させながら、真っ赤に染まった右手で握りしめたスマホを律たちに向ける。
「っ、証拠、見つかったかも、しれない」


あの日からずっと、夜に囚われている。
いつもは固く閉じられていたドアが、ほんの少しだけ開いていた。
しゃきん、しゃきん。
フローリングの床はまるで氷のように冷たく、素足で立っているだけでたちまち体温を奪われる。
しゃきん、しゃきん。
真っ暗な夜の暗がりの中で、ドアの隙間から漏れ出したぼやけた月明りが伸びている。
しゃきん、しゃきん。
何かを裂くような音が、一定のリズムを刻んでいた。そこに感情など、一切なくて、ただ淡々と機械のように。獰猛な狼の唸り声のような風が、地面を這うように時折聴こえてくる。ますますドアの向こう側に怪物でもいるのではないかと思わせた。
しゃきん。
ついに音は止んだ。手で覆ってもいないのに、心臓の音が耳の奥でやけに鳴り響いていた。気が付けば、血の気を失った真っ白な手がドアノブに伸びていた。
本能が警告していた。絶対に開けてはいけない、と。
けれど、一度だけ。
透花は、ただ一度だけ、ドアに手を伸ばしてしまった。
ドアの向こうに待ち受けている現実が、悲哀に満ちた物語よりも残酷だとも知らず。

「なに、してるの」
黒。
黒、黒、黒。
黒、黒、黒、黒。
夜の不気味な闇すら、すべて飲み干してしまうほどの、黒。開いた窓から吹く風が、嗅ぎ慣れたインクの匂いを運んでくる。首の折れた人形のように項垂れ、足元に広がった無残な紙きれを見下ろす兄の手には、鋏が握られていた。刃先からぽたり、ぽたり、と雫が落ち、原稿用紙に真っ黒な染みを付けていく。
出来上がった物語の死体の上で、兄は、嗤った。
「……ふふ、あは、あははは! なにしてるって? 処分してるんだよ、要らないものだから」
目の前にいる人間は、兄ではなかった。
足元に落ちた物語たちを蟻の巣を踏み潰すみたいに、踏み付ける。
「誰にも読まれない漫画に、存在価値なんてない。ただの、塵だよ。塵は処分するものだろ? だから捨てる、当たり前のことじゃん」
透花にとって、兄は憧れだった。兄のようになりたいと、思っていた。
そのすべてを全否定された透花にはその言葉がどうしようもなく耐えがたかった。
「……塵なんかじゃ、ないよ」
口から出た言葉は、吹き込む風に攫われそうなほど、あまりに弱弱しかった。
「やめようよ、お兄ちゃん。……いま捨てたらきっと、もう、二度と……描けなくなるよ……」
透花は、上澄みのような綺麗事しか喉を通らない。こんな言葉を積み重ねたところで、過去が変えられるわけでも、事態が好転するわけでもないというのに。
透花の薄っぺらい言葉一つで救われる世界だったのなら、どれほどよかったことか。
ああ、どうして。あまりに不公平じゃないか、不平等じゃないか。
だって、この世界はたった一つの言葉だけで、兄から創作を奪いさったというのに。
「──黙れ!!」
びり、と窓ガラスが軋むほどの慟哭だった。
「黙れ、黙れ、黙れ、黙れ、黙れ、黙れ、黙れ、黙れ、黙れ、黙れぇえええ! どいつも、こいつも、五月蠅いんだよ! 描き続けても、死ね、死ね、死ね、描かなくても死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、馬鹿の一つ覚えみたいに繰り返しやがって語彙力皆無の低能が、てめえらみたいなゴミカスにサンドバックにされる覚えなんかひっつもねえんだよ!! こっちが必死に命削って描いたもん、盗作だって全否定されて、ただ最年少って話題作りのために選ばれただけとかこき下ろされてさァ、俺以上の才能もない能無しの分際で勝手に評価すんな虫唾が走んだよッ!! ペンも握ったことねえ奴らに漫画の何が、創作したことねえ奴に物語の何が分かるってんだ!? てめえらの暇つぶしに俺が、どんだけ人生賭けてるのかも知らねえ癖に知ったように俺のこと語るんじゃねえよ、俺の漫画に金払って読んでもねえ奴らが都合のいい上辺の情報だけ聞き齧って説教垂れて気持ちくなってんじゃねえよ、俺の漫画はお前らにレイプされるために描いてねえわ、気持ち悪いんだよ吐き気がするっ……! いいから黙って読めや! どうして誰もちゃんと読んでくれないだよっ、どうしてっ、どうして、それすらできない奴らに俺の漫画をこき下ろされなくちゃいけねえんだよ!! 頼むからさァ、他人の道を妨害するだけの無能な人間は、その辺で誰の邪魔にならないように縮こまって一生自分のしょうもねえ人生嘆いてろや!!  ああ、クソ、クソクソ、クソッ!! なんで、なんで、なんで、なんでだよ、なんで俺がそんな奴らのせいで奪われなくちゃいけないんだよっ、どうして俺がこんな目に遭わなくちゃいけないんだよッ! なあ、頼むよ、他の何を奪ったっていい、全部くれてやるからっ……! だから、俺から『これ』だけは奪わないでよ。俺には『これ』しか、無い。これだけが、俺の存在価値だ、無くなったら俺は……なのに、なんで、なんでっ……」 
壊れていく。
「………ああ……、描かなければ、よかった」
砂の城が瓦解する、ゆっくりと。
「こんなクソみたいな未来が待ってるって知ってたら、俺は……どっかで、立ち止まれたのかな」
彼の口からその問いかけに対する答えが、続くことは無かった。
「……もう、いいよ。もう、疲れた」
それが、合図だった。
「俺が創った、俺の物語だ。これ以上、他の誰かに壊されるくらいなら、もういっそ───全部、終わりにする」
彼の手に掬い上げられた物語の死骸たちが、今、この瞬間に、吹き荒れるような風と共に窓の向こう側の闇に攫われようとしていた。
その光景は、まるで地獄だ。
透花の身体は、彼女が脳裏に信号を出すよりも先に動いていた。窓の向こうへと伸びようとしていた手を、無意識に掴んでいた。無我夢中で口走ったその言葉が彼の耳に届いた刹那、透花の身体は振り払われた反動ででいとも簡単にドアまで突き飛ばされていた。背中を打ち付けた衝撃で、息が止まる。朦朧とした意識の中で、それだけははっきりと聞こえた。耳を塞ぎたくなるような、咆哮にも似た嗤い声だ。
「……ははは、ははははっはははっ!」
床に広がる真っ黒な水溜まりが裸足に滲んで、その闇に侵食されていくようだった。
どうか、これが夢であってくれと願いながら、しかし背中に走る鋭い痛みが逃げようのない現実を突きつけてくる。
「なあ」
息が苦しい。酸素が奪われていく。
暗闇より深い奥底を映したような二つの眼がこちらをじっと見つめている。それは、呪いの言葉だ。一生染みついてとれない呪いの言葉。
「お前は俺に──死ねっていうのか?」

不意に、目が覚めた。
玉のような汗が額から、だらだらと流れ落ちて枕を濡らす。頭を締め付けるような痛みがずきん、ずきん、と悪戯に遠のいては近づいてくる。両手の甲を目に押さえつけ、透花は大きく息を吐き出した。
真っ暗な天井を見つめ続けていると、微かに自分の呼吸音以外の音があることに気付く。
視線を僅かにずらして、音のする方へと引き寄せられる。床に散らばったラフ画、途中描けのまま絵コンテ、転がる鉛筆、ひどい有様の部屋の中でそれは、唯一、目を細めたくなるような光を放っていた。
机の上に置かれたPCは起動したままだった。刺さったままのUSBから赤いランプが何度も点滅している。
透花は静かにその音に耳を澄ませる。
こんなにも胸を容赦なく突き刺す音なのに。耳を塞いで聴こえないようにしてしまいたい衝動が後から後から湧き出て止まないというのに。
(ああ。わたしは……、)
気が付けば、透花の視界は深く、透明な青に呑まれていた。
ひとつ、ふたつ、と枕を濡らす水滴が次から次へと流れ落ちていく。
(あの日からずっと、朝が来るのを待っている)


透@to_ru 20××/9/23
製作途中。

そのツイートとともに添付された画像は、ほんの一部しか見えない状態になっていたが、確かに『劣等犯』のラストシーンに出てくる構図と一致していた。
言わずもがな、『透』と名乗るアカウントは、透花が使っているSNSのアカウントだった。30人ほどしかフォロワーのいないアカウントの呟きが、今多くの人間にリツイートされ、ネットは大きな波紋を呼んでいた。
「盲点だった。透花がたまに上げてたんだ、『ITSUKA』のイラスト」
纏を挟むように、律とにちかはそのスマホを凝視した。
「佐都子と打ち合わせして、こっちに向かってる最中に佐都子から連絡入って、教えてくれた」
「ちょ、ちょ、待ってめちゃくちゃ混乱してる。つまりどういうこと?」
「これ見て」
纏はスマホをスクロールして切り替え、次に表示されたのは、盗作をされたとされる例のアカウントである。

無色@musyoku_125 20××/9/30
どうせ、あなたには為れない。

短いツイートともに添付された画像は、炎上の火種にもなった『劣等犯』のラストシーンだ。このイラストと、透花が描いた『劣等犯』のイラストが線から配色まで一致していると、トレパク疑惑が持ち上がったのである。
「ここ」
纏が指さしたのは、ツイートの文言でもなく、件のイラストでもなく──投稿日だった。
「この『無色』ってひとの投稿日は9月30日で、透花が投稿した日は9月23日。確かに、『劣等犯』のMVが初公開されたのは10月のことだけど、透花が『透』のアカウントで『劣等犯』のMVで使うイラストを上げた方が、先。つまり、」
「盗作してない証拠になる!!??」
纏の言葉を遮り、律とにちかは声を揃えて立ち上がった。
その勢いに目を丸くした纏が、分かりやすく眉を下げて首を横に振った。悔しいけど、と吐き捨てるように続ける。
「……このイラストに限って言えば、って枕詞が付く」
透花が気まぐれにSNSに上げた『劣等犯』のイラストは、この一枚のみ。それがたまたま、盗作疑惑を晴らすだけに足るイチ証拠にはなるが、現実はそう甘くはなかった。
「今、ネットで『劣等犯』だけじゃなくて、『青以上、春未満』のMVでも疑惑が挙がってる。素人目から見ても、言い逃れは出来ないレベルだと思う」
「……じゃあ」
「今の時点では、全部の盗作疑惑を晴らすだけの材料は、無い」
「そんな」
「……アンチもだんだん作品じゃなくて、作者に攻撃が向き始めてる。コメント欄なんか、目も当てられない誹謗中傷で埋め尽くされてる。正直、引き延ばしするのも、そろそろ限界に近い、と思う」
1週間。自らが設けた期限まで、あと3日。
結局、たったこれだけの証拠しか見つけられなかった自分の無力さに嫌気が差す。今、無意味に浪費している時間すら、彼女を追い詰める刃は刻一刻と彼女の心臓を貫こうとしているというのに。
重く、沈んだような空気が流れる中、纏はついに耐え切れなくなって顔を上げた。
やっぱり、もう、と紡ごうとした声を、大きな手が阻んだ。
「っ、ちょ、なに!?」
突然、纏の髪をぐちゃぐちゃに掻きまわしてくる、大きな手を掴んで制止する。纏の乱れた髪の隙間から、覗き込むように腰を曲げて目線を合わせてくるのは、律だった。
「見切り早えぞ、纏」
ぴん、と軽く纏の鼻を律の人差し指が弾く。
「お前がそんな焦る理由は、分かるよ。ただでさえ、お前頭良くて聡いから。俺らなんかより、何倍も状況も見えてるんだろうよ。でも、今はまだ見切る時じゃない。折角ひとつ証拠が見つかったんだ、それに必死に縋るくらいのみっともない姿晒したって、罰は当たんねえよ」
「……それに納得するだけの、根拠あんのかよ」
「ない! 俺がまだ諦めたくないだけだ」
「……ほんとお前馬鹿。馬鹿」
「はあ? なんだやんのか?」
互いに顔を見合わせて睨み合っていたふたりを遮るように声が上がった。
唐突に上がった驚きの声に、纏の思考は現実へと引き戻される。
テーブルに身を乗り出してスマホを凝視していたにちかが、「ねえ、」と纏たちへスマホを向けた。
「どうした?」
「これさ、何だろ? 何かのシルエット?」
纏と律は頭を寄せ合って、スマホを覗き込んだ。
そこに表示されていたのは、透花が描いた『青以上、春未満』のイラストを、限りなく拡大したものだ。振り返った少女の瞳の中をスマホの画面いっぱいに拡大することで、ようやく視認できるほど細かく描かれた、その瞳に反射する黒い影。
そのシルエットは、おそらく、女性の横顔だ。大きく息を吸い込むように口を開く姿は、まるで。
「……あっ、」
思わず声を上げた律に視線が集まった。
「……これ、たぶん……」
煮え切らない口調で、視線を右往左往させる律へ、いよいよ苛立ちを覚え始めた纏とにちかの間を縫うように、律の人差し指がある一点を指さした。
ちょうど、纏とにちかの真後ろにそれはあった。
額縁に収められた、一枚の写真。マイクを手に歌う一人の女性の写真である。その女性の横顔と、瞳の中に映るシルエット。
スマホを手にした纏が、それと照らし合わせ、視線を交互させる。
「確かに、あの写真と同じだ。律、あのひとは誰?」
「……俺の母親」
「律の?」
「確かに面影あるかも」
「……なんで、律の母親を透花は描いたんだ?」
纏から問いかけられた当然の疑問に、律はためらいがちに口を開いた。
「透花だけに、伝えてたことがあるんだ」
「何を?」
「──来年の3月5日に『ITSUKA』は解散する。そうしたら、俺はもう、二度と音楽はしない」
あの日、夏の月明りの下。ふたりぼっちの公園で、透花に告げたように、律は繰り返す。
あの夜と同じように、時が止まったような静寂が訪れる。
「は」
あんぐりと口を開けたまま、硬直していたにちかがはっと我に返った。
「はああああああ!!!??」
立ち上がった衝撃で、椅子が後ろへと倒れ込む。派手な金属音が店内に響き渡った。
「……悪い」
「ちょ、ちょ、え!? ガチ!? 悪い冗談? 何それどういうことよ!?」
「にちか、ストップ」
今にも律の胸倉を掴み掛からんとする勢いで問い詰めるにちかを、横から伸びてきた腕が制した。纏に止められたにちかは、何度も口を開いては言葉を飲み込んで、怒り上がった肩をようやく撫でおろす。
それを横目で確認した纏は、今だ口を噤んだまま下を向く律に問いかけた。
「一から説明しろ」
「……俺が、『ITSUKA』をやろうと思ったのは、ただ、知りたかったからだ」
「何を」
「母さんが死ぬ間際に何を考えていたのか」
纏もにちかも、言葉を失い、なにひとつ反応を返すことは出来なかった。
「3月5日は、母さんの命日だよ。だから、『ITSUKA』。……はは、案外さ、単純でしょ? 俺は、その日に音楽と決別するために、『ITSUKA』をはじめた。そのこと、透花にだけは先に伝えてた。……えっと、確か、『青以上、春未満』のMV締め切りのすぐ前だった、気が、」
「そういう、ことか」
全て律が言い切る前に、纏が遮った。独り言を呟くみたいに、纏は言った。
「だから、ロゴ変えるなんて急に言い出したのか、透花は」
「ロゴ?」
「……ああ、にちかはまだ、居なかったっけ。そういえば」
居直った纏が、あの怒涛の夏の出来事を一つ一つ整理をする。
「『青以上、春未満』のMVが完成する直前、透花はもう製作してたロゴを変更したいって、いきなり言い出したんだ。ラストに数秒映るくらいのロゴを、だよ? クソ律がなんか吹き込んだんだろう、って検討はついてたけど」
「ついてたのか」
相変わらずの慧眼に律は、思わず項垂れてしまう。
「……まあ、でも纏が正解だよ。俺は、締め切り前日、透花に問いかけた。3月5日に『ITSUKA』は解散する。それでも、俺と一緒に『創作』してほしい、って」
「その答えが、あれだった、ってことか」
「……ど、どういうこと? さっきからあたし、めちゃ置いてけぼり食らってるんだけど」
纏は、ふっと軽く笑い、にちかの問いに答える。
「『ITSUKA』のロゴって、青いバラの花がモチーフでしょ?」
「え? あ、ああ。そうね」
「あの花、なんていう名前か知ってる?」
「花の名前? ごめん、全然知らないや」
首を振るにちかへ、律は間髪入れずに答えを告げる。
「──ミッドナイトブルー」
真夜中の青。そして、あるいは。
「俺の母さんの作った曲だ」
あのロゴは、YESの代わりに送られた律のくだらない我儘に対する、透花からの返事だった。

その瞬間である。
纏は理解する。
 
『青以上、春未満』『劣等犯』『ミッドナイトブルー』『無色』『MV』
『透』『ラストシーン』『ロゴ』『歌詞』『盗作』『創作』『トレース』『ITSUKA』
そして、『どうせ、あなたには為れない。』という言葉。
それらすべてのピースは、纏の感じていた違和感の正体へと行きつくにはあまりに十分すぎた。いや、あるいは、最初から、心のどこか奥底では、その正解を纏は知っていた。
しかし、纏は目を瞑った。都合の悪い、直視したくない現実から逃げるように。
「……おい、纏? 大丈夫か?」
遠のいていた意識が、自分を呼びかける声によって引き戻される。ゆっくりと息を吐き出して、纏はその答えを口に出す。およそ、探偵の名推理というにはあまりにもお粗末な答えを。
「……分かったよ」
「何を、」
「──この炎上を起こした、張本人」


数学の難解な問題は少しだけ考えて、結局、答案用紙を見てから勉強した。
ミテリー小説は、犯人が気になって、最後の数ページを確認してから戻って読んでいた。
いつだって、正解があることに安心していた。先に答えを知りたがった。
いざ選択を迫られたとき。いつだって逃げてきた。だって、答えの分からない問いに向き合う覚悟がなかったから。
(ねえ、神様。教えてよ)
『お前は俺に──死ねっていうのか?』
(わたしはあの時、なんて答えるのが、正解だったの?)

片耳だけ付けたイヤホンから漏れ聞こえる音に交じって、母の呼ぶ声がした。
透花は気だるい身体を起こして、素足のままドアの前までやってくる。そしてゆっくりとドアを開けて──
「よ。久しぶり、透花」
母に呼ばれたと思って開けたドアの向こう側に立っていたのは、律だった。
寝巻姿にぐちゃぐちゃの髪の自分が律の瞳に反射していた。呆気にとられたまま、透花は口を開く。
「……り、つくん」
「ごめん、透花のお母さんに協力してもらった」
「……」
「そうしないと、透花はドアを開けてくれないと思ったから」
落ち着きを払った声で、透花の方へ伸びてくる手を反射的に振り払った。ぱしん、と乾いた音が鳴る。
「───帰って」
「透花、」
「いいから、帰ってよ」
律の胸を両手で強く押し返す。見た目に反して、透花の非力な力では律の身体はびくともしなかった。顔すら見たくない。早く、この場から消えてくれと、透花はそれでも両手に力を込めた。
「少しでいいから、話そう」
「っ、話すことなんて何にもない!」
「俺にはあるよ」
「聞きたくない、これ以上何も」
「透花、」
「全部、全部、もう、どうでもいいよ!! 『ITSUKA』のことも! 盗作のことも! MVのことも、創作のことも、律くんも、纏くんも、佐都子も、にちかちゃんも、全部、どうでもいい! だから、帰って、帰ってよ! これ以上、踏み入ってこないで! わたしに何も望まないで! 自分の都合ばっか押し付けないでよ……! わたしはもう、」
「──逃げんな」
静かな怒りを纏った声に、透花は息を呑む。律の胸を押し返していた手が、握られた。不快になるような熱さが伝わってくる。見上げた先にあったのは、透花を見下ろす二つの眼だ。心臓が止まるほど、迷いのないまっすぐな瞳。
「逃げて、一体何になる?」
その言葉を耳にした瞬間、透花は律の胸を突き飛ばす勢いで手を振り払った。今にも逃げ出してしまいたかった。前に進むための退路が塞がれているのなら、透花は後ろへ引き下がるしかない。
「逃げるの、やめるって決めたんじゃないのかよ」
一歩、律との距離が縮まるたび、透花は後ろへ。
「過去の自分と決別するんじゃなかったのかよ」
「……い、」
ついに、部屋の窓まで透花は追い詰められた。中途半端に開かれていたドアが部屋から吹き込む風できい、きい、と錆ついた音を響かせる。
いつの間にか、部屋の中は夜の闇に呑まれていた。窓から差し込む頼りない月明りによって伸びた透花の影の先に、律は立っている。彼だけに照らされたスポットライトが、当てられたら、瞬きをするうちに蒸発でもしてしまうような気がした。
なあ、透花。掠れた声が、透花の名前を呼ぶ。
「俺の曲は、透花の心を動かすに足らない、雑音だった?」
「うるさい!」
鼓膜を震わせるほどの悲痛な叫びは、自分の声だとは思えないほど息苦しい声だった。
視界を曇らす雫は頬を伝って、顎の先まで流れ着いて、重力に耐え切れず落ちていく。透花の足元に散らばる、3分13秒の物語たちを濡らした。
「うるさい、みんな、みんな、みんなうるっさいんだよッ! 逃げんな、逃げんな、逃げんな、逃げんな、逃げんなってさ……何様? じゃあ、律くんは逃げたことがないの? 今まで生きてきて、逃げ出したこと、目を背けたこと、一回も無いの? 一度決めたって、途中で諦めたことないの!? そんなの嘘っ、誰だって逃げてんじゃん! 都合の悪いこと、知りたくないこと、見たくないこと、忘れたいこと、全部受け止めて向き合う人間なんかいない! みんな騙し騙し生きてる! ……だったら、いいじゃん、わたしだって逃げ出しても。ねえ、逃げるのが、そんなにいけないこと? 知らないひとからありもしない悪口書かれて、二度と見たくないですとか、一生描くなとか、勝手に評価されて比較されて、必死に描いたもの全否定されてさ! 匿名だったらなんでも言っていいって勘違いしてる人間に立ち向かったって、そんなの、もっと傷つくだけに決まってんじゃん。……お願いだから分かってよ、わたしの気持ち。もう傷つきなくないの。苦しいの、痛いの全部もう、嫌なの! どうせ、何を言ったところで誰も信じてくれない。だって、わたしは悪者だから! なら、律くんだけは嘘でもいいから、逃げていいって、言ってよ。言ってくれないなら、わたしの前から消えて! 自分だって過去から目逸らしてる癖に、偉そうにわたしに説教しないで!」
「全部、透花の言う通りだ。向き合うの怖くて堪らないの、俺にも分かる。現実はいつだって、見たくないもの、知りたくないこと、痛くなることばっかだし。俺も、散々逃げてきた。だから、透花に偉そうなこと言える立場じゃないって、分かってる」
「だったら、なんで!」
「──嫌なんだ」
絞り出した声が、彼の頬をすべる透明な雫が思考を鈍らせる。泣きたいのはこっちだって、罵声の一つでも浴びせたかったのに、透花は言葉を詰まらせた。
「俺が、嫌なんだ」
やめてくれ、と心が叫んでいる。そんな目で見ないでくれと、心臓の裏側まで響く声で。
「……なにそれ」
「透花の絵が好きだから、透花がいいんだ。他の誰がどう言おうが関係あるかクソッタレ! 代わりとか絶対に居ない断言できる何なら神に誓ってもいい! 俺は、お前がいいんだよ!!」
律の瞳が、流れ星が瞬く間に消えるくらいのスピードで、煌めく。
「だって、俺を一番最初に見つけてくれたのは、透花だったから!」
透花の脳裏に浮かぶのは、夕暮れの、誰もいない電車の中で揺れる自分と、その手に持ったスマホの画面。イヤホンから聴こえてくる音楽は、無機質な機械音だったのにどこか息苦しそうに藻掻いていた。
たった、3分19秒だ。それでも透花は、魅了された。心奪われずにはいられなかった。
『ほんの少しだけ、自分を許そうと思えました』、だなんてコメントを残してしまうくらいに。
「……そ、んな、子どもみたいな言い訳でどうにかなるわけないじゃん」
「どうにかする」
「できないよ」
「できる!」
「ふふ、どうやって? ネット見てみなよ、罵詈雑言の嵐だよ? みんな、わたしの絵なんかもう見たくもないって! 消えろって! だったら、わたしさえいなくなれば万事解決じゃん。だって、誰も求めてないもん。望まれてない創作に存在価値なんてないよ」
「顔も知らねえ奴らの言葉なんか鵜呑みにすんな! 透花の創作を待ってる人間は、もっと大勢いる!」
「大勢って、どれくらい? 数人? 数十人? でもさ、その人たちもきっと、すぐ忘れちゃうよ」
「そんなの、分かんないだろ」
「分かるよ! お兄ちゃんがそうだったんだから!!」
時の流れは、誰にでも平等に残酷だ。
『創作』はこの世界に無数に存在している。そのひとつが無くなったところで、時間が経てば続きを待っていたことすら、彼らは忘れてしまうだろう。
それが、『創作』。きっと、『創作』ほど報われない恋は、この世界のどこにも存在しない。
「……もう、いいよ。もう、疲れた」
それが、合図だった。
「だから、もう、終わりにさせて」
こんな気持ちだったのだろうか、と透花はかつての兄の姿を夢想する。
透花の後ろから、冷たい風が吹き込む。素足で踏み付けたままだった『創作』の一部が、風で吹かれて翼の折られて地上に落下した鳥みたいにバタバタと喚く。それを拾い上げて、胸の前へ。力を入れずとも、ぴり、と音を立てて真ん中に切れ込みが入る。ぴり、ぴり、と紙の繊維が離れていく。一思いに、すべてを断ち切って、そうしたら。楽に──その刹那。

「勝手に終わらせてくれるなよ!! そんなんじゃ俺は納得できない!」
透花の瞳に映り込むのは、青だ。直視するには、あまり痛くて、脆い、青。
その言葉を、透花は知っている。何故なば、その台詞を透花は同じように兄へ向って吐き出したのだから。
もし、神様に仕組まれた運命だと言われたら、馬鹿な自分は信じてしまったかもしれない。
律に掴まれた腕がぎりりと軋む。あれほど泣き喚いた後だというのに、透花の瞳はまた揺れる。
透花の口から、勝手に言葉が滑り落ちた。

「じゃあ、律くんはわたしに──死ねって、いうの?」

「そうだよ」
透花の頬を温かな掌が包む。揺らぎのない青が、佇んでいた。その青は、雨上がりの空のようにどこまでも澄んでいる。だというのに、透花の頬に冷たい雫が降りかかって止まない。
「死んで。俺のために、死んで」
透花は、その雨に溺れて、呼吸すら儘ならない。
「全部俺のせいにして、いいよ。ひとりが怖いなら、俺も一緒に死んであげる。透花が描き終わる、その時に」
これは、呪いの言葉だ。一生沁みついてとれない呪いの言葉。
「だから、終わりになんてしないで」
傲慢で、身勝手で、自己犠牲に塗れた、最低で、最悪な、愛の告白だ。
「……、馬鹿みたい」
「馬鹿でいいよ」
透花は、手を伸ばす。それは、片翼の折れた天使が二度と戻れない夜空を求めるように、伸ばさずにはいられなかった。指の腹で彼から零れる雨の雫を掬うと、澄んだ青が柔く細められ、また雨を降らせるのだ。
「わたしにそこまでの価値は、ないよ」
「俺にとっては、そこまでの価値があるよ」
「そばにいてくれる?」
「いるよ」
「うん……なら、もう、それだけでいいや。わたしのために死なないで」
「うん」
「…………悔しいなぁ」
「何が」
「わたしも律くんみたいにちゃんと、伝えれば、よかったっ……」
きっと、透花が探し求めていた答えは、案外単純だった。
たった一つの言葉で救われる世界は、ちゃんとあったのだ。


ドアの向こう側に立っていたのは、一人の少女だった。
肩まで伸びた栗色の髪が微かに揺れて、彼女はドアの方へと振り返る。いつも通り、明るい彼女らしい溌溂とした笑みをたたえて。
「随分遅かったね、纏。今日の打ち合わせは、18時からじゃなかったっけ?」
「……佐都子」
ドアの前で立ち尽くしていた纏は、彼女の名前を呼ぶ。
その呼び声に瞬きをすれば見逃してしまうほどの一瞬、佐都子は瞠目した。しかし、彼女の表情が崩れたのはその一瞬だけで、次に瞬きをしたときはさらに笑みを深めた彼女がそこにいた。まるで、この状況になることをずっと前から待ち望んでいたかのように。
「佐都子」
「んー?」
「なんで、『盗作』した」
静寂の間の後、返ってきたのは、あまりに乾ききった嘲笑だった。
「あは、どうして? あははは……ふふ、どうしてってさぁ、そんなの決まってるじゃん」
「……」
「二度と、透花が創作をしないようにするためだよ」
纏は、期待していた。纏が考えうる最悪のシナリオにならないことを、彼女から答えを得るその瞬間まで期待していた。そしてそれは、あまりにあっさりと呆気なく砕け散ることになったのだった。
「あは、どうしてそんな傷ついたような顔をするの? 本当は、分かってた癖に」
何も言い返すことができない纏は、只黙って血が滲むほど拳を握りしめた。
緩やかにダンスでも踊るような軽い足取りで、纏に近づく足音がした。俯く纏の視界に、纏と同じほどサイズの足が向き合った。腰を屈めた彼女の髪が纏の頬に触れる。
「纏は本当に優しいよね。でもその優しさは、正しくなかった」
一ミリも慰めの感情など籠っていない動作で、佐都子は纏の左肩を叩く。
「だから、全部、手遅れになっちゃったね」
「……まだ、間に合うよ」
佐都子は薄く笑うだけだった。
とどのつまり、本当に簡単な話だった。
透花が『青以上、春未満』で本当の土壇場で修正したのは、ロゴだけではなく、瞳に映る律の母親の横顔のシルエットも付け加えていたのだ。公開したMVには、そのシルエットが付け加えられていた。そのことを知っているのは、透花だけ。
だから、分かってしまった。
闇の正義ちゃんだなんてふざけた名前でトレパクの検証画像を上げた人物は、シルエットのない画像を添付してしまった、透花と、纏と、佐都子だけしかもっていないデータを。
そこまでくれば、もう、後の祭りだ。
「ふふ、あは、あはははっ、せいかーい! 正解した纏には拍手を送りまーす!」
ぱちぱち、乾いた拍手の音が、『アリスの家』の一室に響き渡る。感情が表に出ないよう語り紡いだ唇を噛み締めて睨みつけると、佐都子は怖い怖い、と肩を竦めた。
「纏には理解できないだろうね。理解できなくて、当然」
だって、と佐都子は付け加えた。
「置いてかれる人間の気持ちなんて、分かんないでしょ?」

初めて、透花に出会ったのは、小学1年の夏のことだった。
近所にあった絵画教室『アリスの家』で夏休み限定の特別教室が開催され、たまたま参加した数人の生徒の中にいたのが、笹原透花だった。兄の背中に隠れて恥ずかしそうに顔を伏せる少女は、特段目立ったものもない物静かな子だと、佐都子は思った。
彼女と仲良くなるきっかけは、すごく単純だった。
「あっ、それって、もちぐま?」
「……え?」
小さな体には不釣り合いなスケッチブックと、ペンケースを抱えた透花に思わず声をかけてしまった。だって、ペンケースにつけていたストラップは、当時あんまり人気のなかった動物アニメに出てくるもちもちのくま、通称もちぐまのストラップだったからだ。
「私ももってる! ほら、これ!」
透花の青色のもちぐまと色違いの、赤色のもちぐまを付けたペンケースを佐都子は見せる。
「もちぐま好き?」
「……え、あ……うん」
小さく頷く透花の手を、自然と佐都子は握りしめていた。
「私、佐都子。緒方佐都子っていうの。あなたは?」
「……透花、笹原透花」
「透花! きれいな名前だね。仲よくしようよ、もちぐま仲間として!」
その日から佐都子は、透花と友達になったのだ。
透花は、周りの子みたいに元気に外でドッジボールとか、縄跳びとかするような子ではなく、教室の端で一人、読書したり絵を描いたりするような子だった。ひとたび集中すると、周りの雑音なんて一切耳に入らないのか、一心不乱に鉛筆を走らせるのだ。
佐都子は、その隣に座りながら、同じように鉛筆を走らせる静かな時間が、好きだった。
彼女の鉛筆と紙が擦れる僅かな音、少し思案するように眺める横顔。たまに消しゴムを落として拾ってあげると、透花はへらりと柔らかく笑うのだ。
ただ、それだけでよかった。
それだけで、よかった、はずだった。

「わあ、すごい! 透花ちゃんまたコンクール一位?」
「この前も一位とってたよね?」
「やっぱり才能だね」
「透花ちゃんのお兄ちゃんもすごい絵が上手なんだよね?」
「佐都子も二位じゃんすごーい」
透花は、天才だった。佐都子と同じ時期から習い始めたにも関わらず、絵の才能を開花させるまでにそれほど時間はかからなかった。透花が上達するスピードは恐ろしく早く、いわば乾いたスポンジが水を吸う、みたいな表現が当てはまるほどに、筆を走らせるほどに目に見えて成長していった。一瞬でも油断すれば、透花は自分を突き放し、手の届かない遠くへ行ってしまうような気がして、怖かった。
だから、描いた。ただひたすら、描いた。

描いて、描いて、描いて。
「透花ちゃんまた一位とったの? すごい」
「前よりずーっと上手になってない?」
「佐都子ちゃんも二位おめでとう!」
描いて、描いて、描いて。
「透花ちゃん県で一位とったの!?」
「審査員の人のコメントで絶賛してたよね」
「佐都子ちゃんも入賞したんだよね?」
……描いて、描いて、描いて。
「透花ちゃん、全国コンクールで最優秀賞だって」
「将来は画家になるのかなぁ? 天才だよね」
「佐都子も入賞だったんでしょう? おめでとう!」
本当は、気づいていた。
気づかないふりをしていただけだ。見ないようにしていても、限界はある。数年も、隣に天才と呼ばれる人間がいれば、嫌というほど思い知らされた。
透花のような才能は、自分にはないと言う現実が、そこにはあった。
どれほど絵に時間を費やしても、きっと彼女の傍にはたどり着けないだろう。

(ねえ、透花)
いつも通り、透花は『アリスの家』の一室で、キャンバスに向かい合う。
ぴんと姿勢を正して、片手に持ったパレットの上で複雑混ぜ合わさった青を、ひたすらに塗り重ねていく。その横顔は、昔から何一つ変わらない。純粋に次に描く未来を楽しむ希望に満ちている。時折、踵を鳴らしたり、唸ってみたり。はっと何かを思いついたら、口元を緩ませる。
「──透花」
「……っ、わあ、び、びっくりしたぁ。なんだ、佐都子か」
「えへ、びっくりした?」
「もー、当たり前でしょ」
胸を撫でおろした透花の、後ろで結んだ髪が少しほどけて人房頬にかかっている。横から手を伸ばして、その髪を指でよけると、透花は擽ったそうにへらりと笑った。
「縛ってあげる」
「ん、ありがと」
透花の後ろに立ち、緩みかけていた髪のゴムをするりと外した。透花の黒髪が流れるように落ちた。彼女の艶のある髪を手櫛で整えながら、一つにしていく。安心しきったように頭を預け、鼻歌を歌う彼女のつむじを見つめながら、佐都子は、声をかける。
「透花、おめでと」
(ねえ、透花)
(知らないでしょ、私が透花の絵が大っ嫌いなの)
「……わたし、誕生日だっけ?」
「あはは、違う違う。この前投稿してたやつ、入賞してたよ」
(本当は私が、透花のこと恨んじゃうくらい、憧れてたの)
「ん、んん? そういえば、応募してたっけ」
「透花はさ……将来やっぱ、画家とか、そういうのになりたいの?」
(私が透花に死ぬほど劣等感持ってることも)
「ええ、まさか」
「じゃあ、何のために描いてるの?」
(透花の絵を見るたびに、自分の絵を破り捨てたくなってることも)
(きっと、透花は知らない。想像もつかない)
「何のため……、しいて言うなら、今描きたいから、かな」
「…………、そっか」
(私はね、透花)
(……貴方に、為りたかったよ)
もし、この中途半端な才能さえなければ、早々に自分の才能に見切りをつけることができただろう。そうしたら、こんな汚い感情を彼女に抱く必要すらなかった。
ただの親友として、いられた。

いくつもの月日が流れた。
兄の一件で透花は描くことを辞めてしまった。それから、透花が座っていた席は、もうずっと空席のままだった。それでも時間は止まらない。佐都子は、薄く色づいた桜が散っても、青々とした新緑が赤く染まっても、指の悴むような寒さが訪れても、描き続けた。
誰もいない『アリスの家』で、ひとり、黙々とキャンバスに向かい合う。
「佐都子、一位じゃん! すごーい!」
「わー、さすが上手」
「ずっと描いてたもんね」
「よかったね、佐都子ちゃん」
あれほど焦がれ望んだ彼女と同じものは、いざ手にすると案外、呆気なかった。
ようやく満たされると思っていた心の空白は、しかし、底に穴の開いたバケツみたいにどれほど水を注いでも、傍から漏れ出して、ただ自分の足元を濡らすだけだった。それが、より自分を惨めにする。どれほど時間をかけて、より精巧で緻密で繊細な、誰もが息を吞むような絵を描いても、何一つ満たされなかった。
(……私は、)
嗅ぎ慣れたインクのにおい。ペインティングナイフとキャンバスの布が擦れる音。無造作に散らばった絵具と筆。数センチ開いた窓の隙間から、時折、暖かな風が運ばれてくる。
佐都子は、頭の中で描いた軌跡をたどるように筆を走らせる。だというのに、指先の微小な震えによって、それはたちまち雑多な線へとなり替わる。
描き直しても、描き直しても、描き直しても、頭の中で描く正解に辿り着けない。
(違う、)
心に開いた空白みたいな黒さが、キャンバスを汚していく。
(違う、違う、違う、)
永遠に満たされることのない焦燥感だけが、募っていく。
(もっと、鮮やかだった。もっと、心に訴えかけてきた。もっと、寂しげだった。もっと、忘れられない特別があった)
(何もかも、足りない)
は、と息を吐き出して、力を失った腕は地面に向かって落下する。
(やっぱり、私は、透花に為れない)

からん、と乾いた音が響く。手にしていたはずの筆が、床に転がっていた。ふと、横から聴こえてくるのは在りもしない戯言だ。けれど、佐都子が伸ばすよりも先にその筆に触れた白い手は、紛れもなく、彼女のものだった。
『もー佐都子、ほら。落としたよ?』
佐都子は、気が付けば横を振り返っていた。一瞬見えたはずの幻影は、ひとたび瞼を閉じれば夢のように霧散していた。
そこにあったのは、佐都子と同じように取り残されてしまった椅子とキャンバスだけだ。
「……あ、は……はは、っは、」
戯れに笑ってみるけれど、声は震えていた。一度視界が滲んでしまえば、後はもう、止めようがなかった。口を押えて幾らか声を押し殺してみるが、指の隙間から漏れ出るそれは憎たらしいほど、部屋に響いた。
永遠に時計の針が進むことのない部屋の隅で、佐都子はただ涙を流す。
そう、ここは、誰からも忘れられた場所。二度と、あの穏やかで、幸せな時間はやってこない。透花にとって、ここは『特別』では無くなってしまった。煩わしい忘れ去りたい過去の記憶となった。
透花はここへは帰ってこない。
幾ら待ち続けていようとも、あのドアが開かれることはないだろう。
佐都子の僅かな期待は、飴細工なんかよりも簡単に砕け散って溶けて消えていく。
もはや佐都子は、自分自身の心を理解できなかった。この繊細で、意味不明で、複雑怪奇な感情を表す言葉がどこにも見当たらなかった。息苦しくて、悔しくて、寂しくて、痛くて、心の底から憎らしいのに──この世界の誰よりも、その影に焦がれている。おそらく、世界中のどの言語でも表せない感情が佐都子の腹の中を渦巻いていた。
ただ、一つだけ確かな感情が、あった。確かに、存在していた。
(ねえ、透花)
呼ぶ。生まれてから、何度も心の中で呼んだ名前を、吐露する。
(私、本当は……、透花の絵が誰よりも、好きだった、の)

「透花から新曲のタイトル聞かされた時、私は思ったよ」
軽く笑って佐都子は振り返る。
「私はまた、置いて行かれる、ってね」
佐都子の前に立つ、心優しき少年は、何も言わず目を伏せた。
「過去と向き合って覚悟を決めた透花は、今よりもっともっと上手くなる。凡人の私なんか置いて、遠くへ行っちゃうんだ。……私には、それが、耐え切れなかった」
「今からでもいい、透花に謝って、それで……!」
「それは無理な話だよ。だって、悪いことしたら、ちゃんと報いを受けなきゃ。そうしないと、釣り合いが取れない」
佐都子は、自分のポケットに手を入れ、『それ』を取り出した。
最初から、結末は決めていた。『闇の正義ちゃん』だなんてふざけたアカウントで、透花を貶める計画を実行に移したその時から。己の身勝手さで彼女から『創作』を奪うのなら、それ相応の対価を支払うべきだろう、例えば彼女と同じものとか。それがせめてもの償いだった。
「……なんだよ、それ」
佐都子は、『それ』からキャップを外した。床に落下したキャップがからからと空虚な音を立てて足元に転がる。利き手をテーブルに押し付けた。薄暗い月明りが差し込む一室で、『それ』の刃先は背筋が凍るほど不気味に、そして鈍く光る。
その暗闇の中ですら、纏の顔が一瞬にして蒼褪めたのが、一目で分かった。纏は佐都子に向かって手を伸ばそうとするが、体中が強張って上手く動かせない。
「何してんだ」
「……こんな下らない茶番劇は、もうおしまい」
「っ、佐都子!」
「これで、痛み分けだね」
自らの利き手に向かって、佐都子は躊躇なくナイフを振り下ろす。弾かれた様に佐都子へ手を伸ばす纏の怒号も、全身の血が沸き立つほど五月蠅く動いていた心臓も、すべて佐都子の世界から消え失せた。一人ぼっちの世界で、佐都子はもう手遅れになった、今この現実を嘆く。
(あーあ。こうなるくらいなら、ちゃんと、言えばよかった)
今更、後悔するにはもう何もかも手遅れだけど、と佐都子は下らない前置きをして、想う。
(ねえ、透花。私は、)
その刃先がついに薄い皮膚を食い破ろうとした、その時だった。

「佐都子ッ!」
その声は、佐都子しかいないはずの世界の中で、確かに聴こえた。
夢幻かはたまた神の悪戯か。今、目の前にある現実を佐都子は到底受け止めきれなかった。
その手に到達する直前で止められたペナントナイフ。脂汗の滲んだ額から、一粒の雫が手の平に落ちた。引き寄せられるように、佐都子は声のする方へと振り返る。
「……な、んで?」
佐都子の視線の先に、透花は立っていた。
乱雑にまき散らされた黒髪と、白い肌に浮き上がるほど赤くなった頬と、どこまでも透き通った淀みのない深い青の瞳、手にしたスマホを耳に当てたまま、肩が大きく上下するほど荒い呼吸を繰り返しながら、それでも透花は佐都子を見ていた。
一瞬にして、その場は静寂に包まれた。
それを破ったのは、がしゃん、と透花の手からすり抜けたスマホが床に落ちる音だ。透花はそれをつま先で蹴っ飛ばしたことにすら構わず、佐都子の目の前まで一直線に迫り来る。
そして、透花の細い左手が、一切の迷いなく刃先を握りしめた。
「離して!!」
これほどまでに透花の激昂した姿を見るのは、初めだった。
咄嗟の抵抗のせいか、刃先を握りしめた透花の手から赤い鮮血がぽたり、と佐都子の手の平に落ちる。その血を目にした途端、佐都子の全身から力が抜けた。
つかさず、そのナイフを抜き取った透花が乱暴に投げ捨てる。からん、と空しく音が鳴っった。
「……とうか」
およそ声とも呼べない唸り声のようなものが、佐都子の口から滑り落ちる。
その呼び声に透花はぐしゃりと顔を歪めた。それが裏切り者への憤怒だったのか、それとも悲痛によるものだったのか、佐都子にはてんで分からなかった。
気付いた時には、息が詰まるほど襟首を掴まれていた。透花が、右腕を大きく振りかぶった一瞬、彼女の瞳から零れる星屑みたいな輝きだけは、脳裏に焼き付いて離れなかった。あとは、たぶん、ぐーだったな、ってことだけ。
骨と骨がぶつかる様な鈍い音とともに、その衝撃によって佐都子の身体は大きく傾く。

次に瞼を開けたとき、目の前にあるのは殺風景な天井だった。
殴られた右頬が熱湯でもかけられたみたいに、じん、と痛みが広がっていく。視線を下げると、自分の胸元に顔を埋め小さく肩を震わせる透花の姿があった。佐都子はそれをどこか他人事のように見る。彼女に握られた胸元に赤黒い染みが付いていることに気付く。間違いなく、ナイフを握りしめたときの傷だった。
(……分からない)
理解不能。脳内にはエラー表示が幾重にも表示されている。いくら思考に心血注いでも佐都子には、この状況を理解できなかった。
「っ、こんなのは、痛み分けなんかじゃない!!」
息を詰まらせながら、表を上げた彼女から佐都子は目を奪われる。
「ただの一方的で、身勝手で、傲慢な自己満足でしかない!」
ひとつ、ふたつ、と彼女の青から落っこちた透明な雫が、小雨みたいにぽたぽたと佐都子の頬に降りかかった。
「許される気もない癖に、償うとか、そんな綺麗事言わないでよ……!」
言葉の最後は、しゃくりあげたせいか、ほとんど原型は留めていなかった。
「言っとくけど、こんなやり方をわたしは絶対に許さないっ、許さないから! こんなことするくらいならちゃんと話そうよ、わたしの気持ち勝手に決めつけるくらいなら、そのほうが何十倍も、何百倍もいい! だって! だって、わたしたち、親友でしょう!?」
彼女から紡ぎ出されるものは、絵も、色も、言葉も、綺麗で、透明で、穢れなんてひとつもない。
いつだってそうだった。いつも。いつも、いつも! 
彼女は創作に愛されていた。愛されていることに気付かないほどに。だから、彼女は簡単に捨ててしまえたのだ。その価値を知らないから。
佐都子は、歯を食いしばって震える唇を開く。襟首を掴む腕ごと強く握りしめて、佐都子は叫ぶ。
「私は今まで一度だって、透花を親友だと思ったことなんてない!」
刹那。言ってしまった、と佐都子は大きく目を見開いたまま絶句する透花の表情を見て思う。
一度吐いた言葉が二度と戻せないことを知っていながら、佐都子は止めることをしなかった。腹に巣食う黒い泥が思考よりも早くせりあがって、止められなくなっていた。
「透花なんか大っ嫌いだった!!」
(なんで、)
「最初っから目障りだった!! 透花の描く創作がこの世界で一番大っ嫌いだった! 知らないでしょ、私が透花に劣等感持ってることも、死ぬほど嫉妬してるとこも! 気付くわけがない。だって、透花は恵まれてるから! 恵まれた人間に、私の気持ちなんか分かりっこない! 努力しても、どんだけ時間を使っても、結局才能には勝てないって思い知らされる惨めさがアンタに分かるか!?」
(なんで、なんでよ!)
「……嫌い。嫌い、嫌い、嫌い、大ッッ嫌い!!」
(なんで私は───透花に為れないの)

佐都子の荒い息遣いが、静まり返った部屋の中で鮮明に聴こえる。
滲んだ輪郭の曖昧な視界で、佐都子はゆっくりと瞼を瞑る。目じりの淵から、涙が零れた。
これ以上は駄目だ、と引き留めようとする良心と、それに相反する感情がぐちゃぐちゃにかき混ぜられて、吐き気がする。
もうこんな壊れた世界なら、いっそすべて終わてしまえ、とさえ思った。
「……透花は、ずるいよ」
彼女からの返事はない。それでも構わず佐都子は続ける。
「私に無いもの全部持ってるのに。私がいくら努力しても手に入らない才能があるのに! ちょっと誹謗中傷されたくらいで、どうして、そんなにあっさり捨てられるの? だったら、頂戴よ。透花が要らないなら、少しでもいいから私に頂戴! ねえ、お願いだから、」
これ以上、私を惨めにさせないで、と紡ぐ言葉は空気の塊みたいに喉に痞えて、声に出すことは出来なかった。
さあ、気の赴くまま、罵声を浴びせてくれ。何なら殴ったって構わない。すべてを受け入れる覚悟は、最初から出来ていた。
掴んだ腕が僅かに動く。彼女の息遣いが聞こえて、佐都子はいよいよかと、耳を澄ませた。
「わたしだって、佐都子に嫉妬するよ」
「…………ぇ?」
言葉の意味が理解できないまま、佐都子は思わず、逸らしていた顔を正面に向ける。
「佐都子は、わたしのことまるで神様みたいに思ってるのかもしれないけど、そんなことない。わたしだって人並みに嫉妬するし、何なら佐都子が羨ましいって思うこと、今まで何度もあったよ」
「嘘だ!」
「嘘じゃないよ。……覚えてない? わたしが、佐都子を『ITSUKA』に誘った日のこと」
忘れるわけがないだろう、と佐都子は唇を噛み締める。自分の3年間をすべて否定された日だ。しかし、それ以外に佐都子の記憶には何一つ残っていない。佐都子には思い当たる節がないことが分かると、透花はふっと軽く笑って続ける。
「佐都子に協力してもらっても、やっぱり間に合わないってなった時、佐都子、言ったじゃん。じゃあ、サビ前までモノクロにして、サビでフルカラーにしたらエモくなるって。あの言葉聞いて、わたし、すごいって思ったよ。それと同じくらい、嫉妬した」
「そんなのは、」
「取るに足らないことだって? そんなことない。佐都子はさ、自分のこと見えてなさすぎだよ。佐都子には、わたしに無いものたくさんある。描き上げるスピードも、妥協できる切り替えの早さも冷静さも、それでいて間違いないものを描くところも。全部、わたしに無いものだよ」
心臓の裏側がざわついて、佐都子は呼吸すら儘らならない。
「よく言ってるじゃん、纏くんも。完成できなきゃ意味がない、って」
透花はへにゃりと、締まりのない笑みにぽろぽろと涙をこぼすちぐはぐな表情で、言った。
「わたしきっと、佐都子が『ITSUKA』にいてくれなかったら、締め切りも全部破ってただろうし、結局中途半端なものしかできなかったと思う。だからね、わたしは、これからも佐都子が必要。だって、わたしにはなくて、佐都子にはあるもの、いっぱいあるから。それに、佐都子がいないと、寂しいよ」
馬鹿だ、と佐都子は思う。こんな最低な人間を信じようとする、透花も。たった、それだけの言葉で全てが救われた、自分自身も。
佐都子の両手を包み込むように、透花は手を握りしめ、神に祈るように言った。
「だから、わたしともう一度『創作』しませんか?」
返事は、もう、決まっていた。
佐都子は嗚咽交じりのしゃがれたひどい声で、小さく、うん、と頷いた。
その瞬間、透花は両手でもって佐都子の身体を抱きしめた。嗅ぎ慣れた透花の優しい香りがして、佐都子の視界はさらに滲む。その腕に答えるように佐都子は背中に回した腕に力を込めた。
瞼の裏側に映る光景は、孤独な自分の姿だ。埃かぶった椅子と、キャンパスを眺めて、ドアを開けてくれる日を待ちわびる後姿だ。
「私、本当は、ずっとっ……ずっと、待ってた。あの日から、」
「うん」
「透花が『アリスの家』に来なくなってから、ずっと待ってた」
「遅れて、ごめんね」
透花は、佐都子の耳元で小さく、ただいま、と呟いた。
だから、佐都子も返す。ずっと、言いたくて言えなかった言葉を。
───おかえり、と。


無色@musyoku_125 
皆様にご報告があります。
この度の『ITSUKA』の盗作騒動はすべて、私が自作自演で行ったものです。
私は、『ITSUKA』のMVを製作するメンバーの一人です。『闇の正義ちゃん』『ミヤ』などのアカウントはすべて、私の自作自演で使用したものです。この件に関して───

ITSUKA@ituka_official
この度は、視聴者の皆様に多大なるご迷惑をおかけしたことをお詫び申し上げます。
なお、この件に関しまして、皆様からのご批判があることは当然のものだと受け止めております。今後、皆様の───
【無色 さんのツイートを引用しました。】


最後に、一つご報告いたします。
12月31日 24時に新曲、『創作』をリリースします。


「ああああーーーーー!! やばいやばい終わんない!!」
「うるッせえ弱音を吐くな! その前に手を動かせ!!」
「このまま間に合わなかったらどうしようーーーーーー!!?? ううう……うえっ、」
「そこォ!! 泣いてる暇があるならさっさと描け! 死ぬ気で描け! あと何カット残ってると思ってんだ!! 馬鹿垂れが!」
「……あはは……せっかくの年末に何してんだろうね、私たち……」
「や、やめて~~佐都子ぉ! 正気に戻ったらお終いだよ……!」
「私……この戦いが終わったら結婚すんだ」
「変なフラグ立てんな。僕がいる前でやっぱ出来ませんでしたは絶対に許さないから!」
「纏くんの鬼ぃぃいい」

大晦日、誰もが次にやってくる新しい年に胸弾ませざるを得ない、めでたい日に、『アリスの家』には阿鼻叫喚の地獄が再来していた。
誰も聴いてくれないかもしれない。心無い言葉を浴びせる人も、いるだろう。
それでも、透花たちは今できる精一杯の『創作』を描き上げる。
時には、嫉妬し、苦しみ、辛くなるし、その癖、不完全で、曖昧で、脆くて、ややこしい。
それでも、『創作』を愛さずにはいられないから。
だから、描き続けるのだ。

透花の目が覚めたのは、まだ朝日の昇らない薄暗い時間だった。
「おーーい、お前ら。起きろー」
がさつな呼びかけが、睡眠を妨げたのである。
透花はあまりの寒さに体をぶるぶる震わせながら、家から持ってきた寝袋から顔をひょこりと出してその声の主を確認する。すると、厚手のコートとマフラーに身を包んだ律が、それに気づいて小さく笑った。
「おはよ、透花」
「……律くん、だ」
「わはは、声ガサガサだ。昨日、修羅場だったんだよね? お疲れ様」
乱れた髪をぽん、と律の温かな手が乗っかる。その途端、透花はこの女子力のかけらもない姿が恥ずかしくなって、また顔を寝袋に埋めた。
その間に、物音に気が付いたらしい佐都子と、纏がもぞもぞと動く音がする。纏の不機嫌そうな低い声がする。
「何?」
「ああ~? 忘れたのか? 無事に投稿出来たら、みんなで初日の出見に行こうって、纏が言い出したんだろうが。外でにちかも待ってるよ。ほら、行くぞ~! もうすぐ時間になるから」
わざわざ迎えに来てくれた律に押されるように、徹夜組3人は眠たい目を擦りながら、にちかが用意してくれた缶コーヒーを手に少し急な坂を上る。
辿りついたのは、透花たちが住む町を一望できる高台だ。どうやら透花たち以外には、人気がないようだった。高台の崖に掛けられた手すりの前に立った透花たちは、それぞれに地平線を眺めた。
やがて、太陽は上り始める。目に染みるような燃える赤い火の光が、町中に朝を知らせる。
寒さすら忘れて、透花はその光景に釘付けになった。昨日まではまだ湧いてこなかった達成感と、安堵がじんわりの心の中に広がっていく。
「ねえ、透花」
「ん?」
すぐ隣に立っていた纏が、ふと、透花を呼ぶ。
「僕、ずっと透花のこと守んなきゃって、思ってた。夕爾みたいに、壊れないように守んなきゃって。透花は弱いって、決めつけてた。それを今日、訂正するよ。ごめん」
「纏くん、」
「あっ。それともう一個、前もって謝んないといけないことあるんだった」
「へ?」
そうして、にっと、年相応の悪戯っぽい笑みを浮かべて纏は笑う。
「『創作』のURL、夕爾に送ったから」
「───な、」
絶句したまま固まる透花を他所に、纏は颯爽と走り出す。そして透花が追いつけないほどの距離ができてから、纏は振り返って、両手を口に当てて大きな声を上げる。
「折角、僕が背中押してやったんだ。後は自分で頑張れよ、透花!」
余計なお世話だ、と文句を垂れる暇すら与えないところが、纏らしい。
残された透花は、ポケットに入れていたスマホを取り出した。アプリを起動させ、表示させたアカウント名は『お兄ちゃん』だ。文字を入力しようと、入力画面を親指でタップしてみるものの、何も思い浮かばずに右往左往するだけだった。
こんな朝早くに連絡したところで、迷惑かもしれない。やっぱり、今日は止めようと、スマホを閉じようとしたその時だった。

───ぴこん、と音が鳴った。
表示されたメッセージを目にした瞬間、透花は思わずスマホを落としそうになって、間一髪でスマホを掴む。そして、もう一度透花はその画面を凝視した。
そこに書いてあったのは、本当に、笑えるくらい、短いメッセージだった。

『MV見たよ』
『昔よりずっと、上手くなったな』

気が付いたら、スマホに水滴が落ちていた。おかしいな、と透花はスマホの画面を服の袖で拭うが、すぐにまた水滴がぽたぽたと流れる。それでも、透花は唇を噛み締めながら何度も拭った。
頭上に広がる空は、雲一つなくどこまでも澄み渡っている。けれど、これはきっと雨のせいだ。
「透花―! 今からお雑煮食べに行くって!」
遠くの方で、透花を呼びかける声に振り返る。佐都子たちが集まって、こちら側に大きく手を振っている。
「今行く!」
走り出した透花の瞳から零れ落ちたそれは、流れ星のように煌めいて、跡形もなく消えていった。

昔住んでいた家には、大きなグランドピアノがあった。
まだピアノを習いたてだった律は、今は亡き母と少し足の高いトムソン椅子を半分分け合って、覚えたての『きらきら星』を共に奏でる。
律は、隣に座る母を見上げる。
うっすらと口元に笑みを浮かべる母の、眼差しを律はもう、思い出せない。

今住む家に、あのグランドピアノはもう、無くなってしまった。
母が亡くなった後、父は妄執にでも憑りつかれたように徹底的に、『音楽』を排除した。母が残した『音楽』は父の手によってすべて消されてしまったのだ。ただ、ひとつを残して。
それを律が見つけたのは、本当に偶然だった。高校一年の、冬のことである。
普段は入ることもない父の書斎に、参考資料を探しに入った律は、壁にずらりと並ぶ本の中で、奥へ奥へ隠すように押し込められたそれを、見つけた。
古びた、カセットテーププレーヤーだった。
開閉ボタンを押すと、ぱっと勢いよく蓋が開いた。中には、一枚のカセットテープがすでに入っていた。カセットテープの側面には茶色く黄ばんだシールが貼りつけられているが、劣化して文字を読むこともできない。ゆっくりと親指でそれをなぞると、律はなぜか鼻の奥がつんとして泣きたくなってしまう。
律は、イヤホンを耳に挿して、再生ボタンを押す。じじじ、とノイズが数秒。自然と律は瞼を閉じていた。
そうして、流れ始めたその曲は───

はっと、目が覚めた。薄く開いた瞳には、常夜灯の薄ぼやけた明かりすら眩しくて、律は目を細める。何度か浅い呼吸を繰り返して、ようやくここが自分の部屋で、自分のベットだと思い出す。律は時々、数年住むこの家を知らない家のように思えて、自分がどこにいるのか分からなくなってしまうのだ。ようやく鼓動が一定のリズムを取り戻したころ、律はふと、リビングの方から足音がすることに気が付いた。
スマホで時刻を確認すると、夜中の3時過ぎだった。この時間帯に物音を立てるのは、滅多に顔を合わせない同居人だけである。
律は重い体を起こして、部屋のドアを開けた。
「すまん、起こしたか」
「……おかえり、父さん」
「ああ、」
ただでさえ精気の薄い父は、以前顔を合わせたときより一層濃い隈をこさえて、栄養もクソもないようなカップ麺に薬缶で沸騰させたお湯を注いでいる。
二人暮らしになってから、これといった会話を父とした記憶が律にはない。仕事の都合で、ほとんど家には帰ってこない父との、話題の種も当然のことながら、ない。だから、父とテーブルを挟んで座ったのは、ただ何となく、である。黙々と、レンジで作ったホットミルクを飲みながら、ぼんやりと消えていく湯気を眺めていると、父はいつも通りのぶっきらぼうな口調で話しかけてきた。
「学校はどうだ?」
「あー……まあ、ぼちぼち」
「そうか」
父から続く言葉はなく、気まずい雰囲気が流れる。居心地の悪くなった律は、立ち上がり、早々にこの場を後にしようと、踵を返したその時だった。
「律、お前。──約束、破っただろ」
がしゃん、と手にしたコップが床に落下した音がした。

*
長いようで短かった冬休みが終わり、各々学校での課題テストを終えた金曜日。
透花たち『ITSUKA』のメンバーは、『アリスの家』に集合していた。2月に投稿する予定の、新曲の打ち合わせである。しかし、そこに一番重要な人物の姿が無かった。
透花は、何度目かスマホで時間を確認して、首を傾げた。予定時刻からすでに40分は経過している。
「律くん、遅いね」
「今朝いきなり、打ち合わせ場所変更してほしいとか自分から言っといて、遅刻するとか何様だよ。連絡も寄越さないし。よし、来たら、絞めるか」
「いいね! あたしも混ぜてよ」
本当にやり兼ねない殺意の籠った目つきで、準備運動を始める纏とにちかを横目に、透花は再びスマホの通話を繋げる。3、4コールほど続いて、やっぱり出ないか、と通話を切ろうとした、その時である。
「ごめん、遅れた!」
勢いよく開かれたドアから、待ち人は現れた。右頬を覆うように、大きなガーゼを貼り付けて。その場にいた全員が、律の顔を見て目を見張る。その刺すような視線で、律は思い出したようにはっと我に返り、頬を押さえた。
「あっ、いや……これは、」
絶妙に目を泳がせるその素振りが、ますます訳あり感を漂わせてくるから、無粋に疑問を投げかけられる度胸のない者は、口を噤む。その中で唯一、口を開いたのは、メンバー最年少の纏である。しれっと、いつも通りの口調で律以外の誰もが思ったワードを発した。
「痴情のもつれ?」
「ちげーよ!!!」
全力の全否定が『アリスの家』に響き渡った。


「はぁあああ!!?? 家出したぁあああ!!??」
纏とにちかが、互いに合わせたように声を荒らげた。いい加減、弁解することに嫌気がさした律は、テーブルに頬杖を突きながら、「だから、さっきからそう言ってんだろ」と、やさぐれた返事をする。
「お父さんと喧嘩したからって、なんでそんな急に?」
透花の問いかけに、律は歯切れ悪く口籠る。軽く息を吐いて、律は事の発端を説明することにした。
「音楽やってるのが、バレたから」
「は? それだけ?」
単純すぎる理由に纏は肩透かしを食らう。
「まあ、普通はそうだろうけど、うちは特殊っていうか……そもそも俺が、『Midnightblue』で作曲してたの、父親にバレるとやばいからなんだよね」
「やばいって?」
「これ見りゃ分かるでしょ」
端的に、そして最も分かりやすく、その異常性を示すように、律は自分の右頬を指さした。軽く顔を引き攣らせている纏たちの反応は、律の予想通りだった。
「あの人、音楽のこと嫌悪してるから、俺がやってることなんて気が付かれるわけないって高括ってたんだけど……ほら、この前の炎上騒動で、ネット上に結構野外フェスの動画回ってただろ? たまたま見かけて再生したら、あらびっくり画面端に俺の息子が映ってるー、しかもピアノ弾いてる! みたいな、ね」
「……私のせいで、すいません」
顔を青くした佐都子が頭を下げると、律はあっけらかんとした様子で笑った。
「緒方さんのせいじゃないよ。いつかはバレてたから。それで昨日の夜、口論になって、殴られて、家出するって決めたってわけ。これからも音楽続けるとか言った日には、今度こそ右頬だけじゃ収まんないだろうしね、あの人は。……だから、しばらくは漫喫とかで過ごそうと思って、学校から帰って家で一式着替えとか、家出するって置手紙とか色々準備してたら、遅れた。状況説明、以上! 何か質問は?」
律は、ぱん、と両手を叩いて空気を一新しようとするが、重苦しい空気が払えるはずもなく。静まり返った中で、その沈黙を破ったのは透花だった。
「叔父さんを頼る、とかはできないの?」
「それだけは絶対無理」
律の返事は、数ミリの余地すらないほどの全否定だった。
「俺が家出して、あの人がまず思いつくのが『Midnightblue』だ。てか、それだけしかない。ここで叔父さんを頼ったら、俺は今以上に叔父さんに迷惑かけるから無理」
「でも」
「心配してくれて、ありがとな。でも、俺は大丈夫だから。ほら、打ち合わせ始めようか!」
空気を切り替えようと、いつになく声を張り上げた律を横から遮るように、纏は言った。
「ひとりいるだろ」
なぜか、纏がこちらを見ている、と気づいた透花は首を傾ける。
「家出先にはうってつけの場所」
纏の言葉を頼りに思考を巡らせ、透花が纏が何を言わんとしているのか、徐々に理解する。それに比例するように冷汗がだらだらと額から流れ始めた。
「ま、まさか……」
恐る恐る問いかけた透花に、纏は無慈悲な満面の笑みで答えた。
「夕爾んとこなら、家出先としては、最適でしょ」


雨宮律の家出計画は、即日決行された。
もっとも優先すべき最重要ミッションを達成すべく、律と纏は『Midnight blue』の向かいにあるチェーン店の牛丼屋の立て看板で身を隠し、様子を伺っていた。
店内に続く階段から、見覚えのあるバーテン服を着た疲れ切った顔の男が上がってくる。男はしきりに欠伸を繰り返しながら、そのまま律たちから背を向けた方向へ歩いていく。
「たぶん、コンビニに煙草買いにいくとこだ」
「今しかないな、行くぞ律」
律と纏は頷き合って、そそくさとコソ泥のように店内に忍び込んだ。
彼らの目的地は、律が作業部屋として使っている元リハーサル室である。最重要ミッションとは、作曲するための機材を叔父である和久がいないうちに回収することだった。
薄暗い部屋の隅で、律と纏は機材を持ち出すための荷造りに奮闘していた。キーボード、オーディオインターフェース、ヘッドフォン、各種配線コードをひとしきり鞄にぶち込んだ纏が、PCの前でもたつく律の尻を軽めに蹴とばす。
「おい、10分経つって! 何もたついてんだよ! もう戻ってくるぞ!」
「クソ、データが重すぎて全然転送できん!」
「ちゃんとクラウド管理しとけやボケカス!」
纏から正論すぎる激が飛ぶ。杜撰なデータ管理のつけが今になって回ってくるとは、と律は自分を呪いたくなった。ようやく転送完了の文字を確認した律と纏は、両手いっぱいに機材を抱えて部屋と飛び出した。
「何やってんだ! 行くぞ!」
「ちょい待って、一応メモを……」
バーカウンターに置かれているペーパーナプキンを一枚取り、ボールペンで文字を書きなぐる。急かす纏の後ろに続き、律は『Midnight blue』のドアをくぐった。2段飛ばしで階段を駆け上がり、その場を後にしようとした、その時だった。
「……ん? 律と、纏じゃねえか」
背後から、聞き慣れた声がして、律と纏はぎこちなく後ろを振り返る。店隣に設置された簡易の喫煙所で煙草を吹かす叔父、和久の姿がそこにはあった。
「なんだぁ~? 二人してそんなでっけえ荷物抱えて。わはは、夜逃げでもすんのかよ」
概ね、正解である。
「そ、そんにゃわけないだろ!?」
律の返答に、纏は思わず頭を抱えたくなった。叔父の怪訝な顔つきを見て、律はますます頭の中が混線状態になっていく。咥えた煙草を指に挟んで、叔父は自分の右頬を指で刺した。
「律、お前そのガーゼどうした? 怪我したのか?」
「そ、それは」
「それに、その荷物、」
やべ、と顔面に書き殴ったような挙動不審を見せる律に、纏はすかさず助け舟を出した。
「すいません、これから『アリスの家』で打ち合わせがあるんです。この荷物、この前あげた新曲の慰労会用に買った飲み物とか、お菓子とかですよ。よかったら見ます?」
いつもと変わらぬポーカーフェイスで、すらすらと言葉が出るところは、まるで詐欺師のようだ。叔父に疑問を問いかける余地を与えず、纏は続ける。
「透花たち待たせてるんで、僕らはこれで。ほら、行くよ」
「わ、分かった」
既に背を向けて歩き始めた纏に続くように、律は方向を変えた。一歩、踏み出そうと踵をあげたその時である。
「おい。ちょっと待て」
「……な、なんだよ」
「忘れんうちに、渡しとく」
今更呼び止められるとは思わず、律の肩が勝手に跳ねる。
首だけ後ろを振り返ると、叔父は何かを探すように手当たり次第に胸や腰にあるポケットを探り、ああ、と何かを見つけたのか声を上げた。律の前に、差し出されたのは掌に収まるサイズの上等そうな紙切れが一枚。
律がその紙を受け取る寸前。叔父は律にだけ聞こえるよう、顔を寄せた。
「───」
それを少し遠くから見ていた纏は、一瞬、律の瞳が揺れ動いたのを見逃さなかった。一言、二言何かを伝え終わると、叔父はすっと身を引いた。律は何も言わず、そのままぐしゃりとその紙を握り潰して、乱暴にポケットの中に突っ込んだ。
「じゃ、打ち合わせ頑張れよ」
手を振る叔父に背を向けて律は、纏さえ追い抜いて歩き出す。ワンテンポ遅れて、纏は律の後に続く。数センチほど高い律の顔を見上げて、纏は問う。
「さっきの、何だったの?」
「…………ただの、買い物リスト」
「ふぅん」
つくづく律は嘘が下手クソだ、と纏は思った。


『しばらく家出します。父さんが来ても、知らないって言ってください。迷惑かけて、すいません』
カウンターに置かれた、ペーパーナプキンに書き殴ったその汚い文字を読んで、和久は薄々気が付いていた状況をすべて察した。機材が置かれた律の作業部屋は既にもぬけの殻となっていた。考えるまでもなく、二人が抱えていたあの大荷物がそれだったのだろう。
こういう思い切りの良さは確かに姉譲りだ、と苦虫を嚙み潰したように笑った。
「ったく、姉貴も反省しろよ」
額縁に飾られた今は亡き姉の写真を眺めながら、和久はもう一度煙草に火をつけた。


『Midnight blue』で必要な機材を回収した纏と律は、透花たちの待つ駅へと直行した。
透花を含め、佐都子とにちかも改札口前で談笑しながら、待っているのが見える。近づく律たちの影に気が付いたにちかが、おーいと声を上げて両手を大きく振る。駆け足でその輪に近づくと、透花が首を傾けた。
「無事に回収できた?」
「まあ、何とかね」
「じゃあ、いったんここで解散か。透花ぁ、さぼんなよ!」
佐都子がにししと悪戯っぽく笑う。負けじと透花も「佐都子もね」と返事を返す。その横で何か言いたげにプルプル震えていたにちかが、辛抱たまらん感じで勢いよく透花の両手を掴み、苦渋に満ちた表情で透花を真っ直ぐ見つめる。その勢いに透花は思わず片足だけ一歩後ろに下がる。
「すーーー……っごく! あたしも行きたい、行きたいけど……! でも、メメ先生に迷惑かけるの、嫌だから、我慢する。弁える読者で居たいし、負担もかけたくないから」
「う、うん」
「だから、代わりにもし……、伝えられたら、でいいから。言ってほしい。先生の漫画で、あたしは救われましたって」
透花は目を見開いて、それから口元を綻ばせながら強く頷く。
「うん。伝える、絶対。約束する」
その言葉を残し、透花たちは電車に乗り込んだ。


夕刻を知らせる防災無線のチャイムが遠くから聴こえてくる。
目的地であるツルミ写真館は、透花たちの家の最寄り駅よりもさらに2駅先にある、廃れた商店街の一角にある。透花の母方の実家であり、曾祖父の代から続く歴史ある写真館だ。透花が中学生の頃、祖父が亡くなって今は透花の母の兄、つまり伯父が営んでいる。
お泊りセットとMV制作に必要な機材を両手に抱えた透花は、浮かない顔で何度目かわからない問いかけを、涼しい顔で横に立つ纏にした。
「……やっぱり、わたし、いなくても」
「何言ってんの。ここまで来て」
「う。だって、でもさ、」
「もう聞き飽きた」
「せめて纏くんも泊まろうよ……、ねっ?」
「僕一応中学生だし。親の許可が下りるわけないでしょ」
「この裏切り者ぉ!」
都合の悪い時だけ中学生設定を持ち出して、纏は縋る透花の手を振り払った。今更ごねたところで、どうにもならないと分かっていても、透花は抵抗したくなってしまう。
「ほら、もう見えてきたよ」
「ああ、あれか」
透花はいよいよ覚悟を決めなければならないときが来た、と暴れる心臓を押さえるよう胸の前に手を置いて、大きく深呼吸をした。
「……なにこれ」
纏の困惑する声に、透花と律は互いに顔を見合わせた。

『諸事情により、休業中です。』
そう掲げられた張り紙を前に、透花たちは立ち往生していた。窓ガラスから店内を覗き込むと、夕方だというのに明かり一つ付いていない。そのせいで壁一面に飾られた写真が少し不気味だった。窓から顔を離した律は、首を横に振った。
「駄目だ。誰もいなさそうだ」
「あークソ、事前に連絡入れてあったのにアイツ! 待って今、鬼電するから」
乱暴にスマホをタップして、纏はそれを耳に当てた。透花と律が纏を挟むようにして、スマホに各々耳を近づける。数コール音の後、荒いノイズ音が電話口から聴こえてくる。
「オイ、夕爾お前どこにいる───」
「───ここだァアアア!!」
「うわぁあ!?」
「きゃ!」
突如背後から、耳を塞ぎたくなるほどの声量が透花たちに襲い掛かる。思わず耳を押さえて縮こまった3人は、数秒後、笑いを堪えるような息遣いが聞こえてくることに気付いて、振り返る。
夕暮れの赤に照らされる透き通るような白髪に、透花に似た少し藍色がかった瞳。ついに堪えきれなくなったのか、からから豪快に笑う姿はまるで少年のようだ。目じりに溜まった涙を指で掬い取って、彼は顔を上げた。
「はー、笑った笑った」
「……お前な」
「おいおい、会って早々説教は無しだぜ?」
纏の苦言すら何のその。軽くあしらって、彼、笹原夕爾はにっと人懐っこく笑う。
「待ってたぜ、非行少年! それに、」
夕爾の視線がすっと、律から自分に移動したことに気付いて、透花は思わず逸らしてしまう。しかし、夕爾は薄く笑って、言葉を続けた。
「久しぶり、透花」
「…………、うん」
それが透花にとって、数年ぶりとなる、兄夕爾との邂逅だった。


「一昨日くらい? 伯父さんが知り合いの農家から送られてきた米運ぼうとして、ぴたーって固まって。俺が慌てて救急車呼んだらどうも、ぎっくり腰だと。それで急遽、写真館は休業中になったってわけ」
休業の張り紙に至った経緯を語りながら、夕爾は先を歩く。律たちが泊まる場所は、ツルミ写真館───ではなく、ツルミ写真館と隣接する床屋との間にある、大人一人が通れるほどの細道を通って、その先にあった。
「お前らラッキーだぜ? 今、ちょうど大学4年の奴らが地元戻って、ツルミ荘には俺以外下宿してないから、実質貸し切り」
細道を抜けると、そこにあったのは、ひと時代前へとタイムスリップでもしたのかと思わせるほど古い民家だった。その庭に咲く雪椿には、霜が降ってより一層幻想的な雰囲気を作っていた。苔の生えた石畳の上を慎重に歩く。夕爾は手慣れた様子で、ポケットから取り出した鍵を引き戸に差し込み、ごりっと音を立てて開けた。
数十年ぶりにツルミ荘に足を踏み入れた透花は、妙にそわそわしながらあたりを見回す。それは律も同じのようだった。
手荷物をすべて廊下に置き、ひと呼吸置いた纏がすくっと顔を上げた。
「よし。僕はこれで一旦帰るよ」
「え、もう帰っちゃうの?」
「帰ってまだやらないといけない仕事も残ってるし」
「そっか……」
「また明日、様子見に来るよ。伝えなきゃいけないこともあるしね」
纏がわざわざ聞かなくても分かるほどには、透花の顔に不安の二文字が書かれていた。後ろ髪を引かれるような思いで、纏は透花に背を向ける。
「おい」
「なんだよ、って、っわ」
纏は、ちょうど視線の先に立っていた律の肩を強引に組んで引き寄せた。バランスを崩した律の耳がちょうど、纏の口の高さに合わさる。律にだけ聴こえる声量で纏は囁いた。
「言っとくけど、抜け駆けしたら殺す」
「しねぇよッ!?」
纏に何か囁かれた律が、弾かれた様に顔を赤らめて纏を突き飛ばすから、蚊帳の外になっていた透花は瞬きを何度か繰り返す。しかし、その二人の様子を同じく見ていた夕爾は、ああ、と何か察しがついたらしくぽんと手を叩いて、名案だとばかりに提案した。
「よければふたり、相部屋にする?」
「「結構です!」」
今度は透花も沸騰するほど顔を赤く染めて、律と声を揃えて全否定したのだった。


目を開けたら、そこには知らない天井があった。いつも目を覚ました時の感覚とは違う、本当に知らない家の天井だった。
吊り下げの照明から、切り替えする紐の先がぐるぐると回っている。畳独特の、井草の匂いがした。再び微睡の中へ落ちようとしていた律を覚ますように、頭上でメッセージの通知音がぴこん、と鳴った。手に取って確認すると、通知の相手は纏だった。
『大事な話があるから、今日の昼そっちに行く』
律は、か細く息を吐き出しながら、スマホを放り投げる。雑音が多すぎて、頭の中で羅列していた音符はまだあちらこちらに飛び散っている。
この曲につけるタイトルを、まだ、律は決められずにいた。

「メジャーデビューの打診が来てる」
纏の口から発せられたその台詞は、淡々としていた。
午後3時より少し前。
ツルミ荘の共有スペースであるリビングには、腹の奥底を圧迫するような重い空気が流れる。言葉を失ったまま呆然とする透花と律を置き去りにして、纏は、向かいに座るふたりにスマホの画面を向けた。そこには、纏とその担当者とのメールでのやり取りが表示されていた。付け加えるように、纏は続けた。
「ちゃんとした大手レコード会社だよ。詐欺とかではないのは確認してある」
一呼吸置いて、纏は猫のような真意を伺う瞳をふたりへ向けた。
「大事な話って言うのは、『ITSUKA』のこれからのことだ」
「これからの、って」
透花は膝にのせた手を握りしめて、纏に問うた。
「3月5日で『ITSUKA』は解散するのか、それとも続けていくのか」
メンバーの誰もが頭の片隅にはあっても決して口には出せずにいた、重大な選択肢を纏は容赦なくふたりに突き付けた。
「にちかと、佐都子には昨日の夜にもう話してある。その上で、僕らは選択権をふたりに委ねると決めた。だから……、透花、律」
ゆっくりと二人の顔を往復して、纏は静かに口を開く。
「ふたりが、決めて。だって、『ITSUKA』は、ふたりが始めたことだから」
刻々と迫るタイムリミットを告げるように、振り子時計の鐘の音が響き渡った。

律は『劣等犯』の作曲時以降、一度も聞かなかった、母の曲を聴く。
律にとってそれは、儀式だったはずだ。自分は間違っていないはずだ、と再確認するための。けれど、今はそんなことはどうでも良くなってしまった。燃え盛っていた怒りも、痛みも、一時の感情に過ぎなかったからだ。
(だったら……、なんで、俺は、)
縁側の床が氷のように冷たくて、心の奥まで凍っていくようだった。耳につけたイヤホンを巻き込んで、律は膝を抱えて丸くなる。右手にあるぐしゃぐしゃの紙屑を、じっと見つめ、何度目か分からないため息をついた。煩雑な感情が律の頭の中を乱していく。
(どうして俺は、まだ、)
ぴとり、と人肌よりも温かい何かが、律の指に触れる。僅かに顔を上げると、白く湯気の立つマグカップを両手に持った透花が、律の顔を覗き込むように首を傾げた。
「ココア、飲む?」
「……あ、ああ。ありがと」
律は慌てて右手をポケットに突っ込んで、差し出されたマグカップを受け取る。耳につけたイヤホンを外しているうち、透花が律の隣に腰を下ろして、真剣な顔で息を吹きかける。揺れる湯気とともに、優しい甘い香りが漂ってくる。
夜のツルミ荘は、まるで外の喧騒が嘘のように粛然としている。まるで、この世界にいるのはふたりだけなんじゃないかと、錯覚するくらい。
「……何、聴いてたの?」
先に沈黙を破ったのは、透花だった。
「母さんの曲」
「『Midnight blue』?」
「うん。透花も、聴く?」
「いいの?」
律は返事の代わりに、イヤホンの左側を透花に差し出した。戸惑いがちに透花の白くて細い指がそれを取る。一瞬、透花の熱が律の指先に触れてどきりと心臓が跳ねた。ふたりでイヤホンを分け合って、『Midnight blue』をスマホで再生する。タイトルの通り、真夜中の夜を思わせる、儚く、途切れそうな旋律に律は耳を澄ませる。
「ねえ、律くん」
「……ん?」
「律くんは、どうしたい?」
透花の問いに主語は無かった。けれど、律は透花の言わんとすることすぐさま理解する。口を開くが、声は出なかった。ひゅう、と乾いた喉の音がする。そうして、ようやく出た返答は情けないほど曖昧なものだった。
「……分からない」
律の無責任な言葉に、透花は特に怒るわけでもなく、そっか、と短い返事をした。
「透花は?」
「わたしは……、わたしは、まだ、描き足りない。だから、描き続けたいって、今はそう思うよ」
「……すごいな、透花は」
「どうして?」
「俺は未だに、分からないままだ」
曖昧にしていた選択を前に、長い間立ち尽くしている。自分で自分の感情が理解できない。どうしたいのか、何をしたいのか、思考が行ったり来たりを繰り返している。それではいけないと分かりながら、選ぶことを躊躇い続けていた。
「……はー、生きるのってムズくない? ゲームみたいに、セーブしてやり直しできたらいいのに。決まったストーリーに沿って進めていくだけだったら、こんなに悩むこともない」
「確かに」
くすくす、と小鳥が鳴くように透花が笑って、それから、律の方へと首を傾けた。
「でも、何もかもやり直しができたら、きっと世界はちょっとだけつまらなくなる。だって、『創作』は何もかも満たされた人間からは、生み出せないから」
深い青の瞳が、すうっと細くなる。いつも律が透花にやるように、小さな掌を律の頭にのせて優しく撫でる。
「律くんにもきっと、見つかるよ。探してた答えが」
分かったら一番最初に教えてね、と透花は最後にひと撫でして離れていった。
その手を追いかけて掬い取る資格は、まだ、律にはない。


音楽が嫌いだった。
感傷に浸らせるような音楽も、前向きにさせる音楽も、傷ついた心に寄り添う音楽も、明日の未来を綴る音楽も、夢を描く音楽も。ラブソングなんて聴いただけで吐き気がした。
この世界が、音楽のない世界だったら良かった、と思っていた。
かつて、雨宮律は音楽を憎んでいた。
今はもう、自分がどう思っているのかすら分からない。
何故なら、律が追い求めていた答えはもう随分前に分かってしまったから。
割れんばかりの喝采と、肌に纏わりつく熱気。人々の歓喜に満ちた視線の中、律は得体の知れない充足感に愕然とした。熱さに反比例して、全身が粟立った。そして同時に、律は理解してしまったのだ。言い逃れのしようがないほど、思い知らされたといってもいい。その事実を直視すぎるには痛すぎて、受け止め切るにはあまりに脆すぎた。
(ああ、そっか)
律は、固く目を閉じて、その現実から遮断した。
(だから、母さんは───)

「……みや、おい、雨宮!」
はっと、律は我に返った。
顔を上げると、頭に白髪の見えるジャージ姿の教員が教壇の前で腕組していた。その後ろの黒板には進路ガイダンスの文字がでかでかと書かれている。いつの間にか、律の目の前には『進路希望調査』と太字で書かれたA4用紙があった。
ここは学校で、今は冬休み明けの進路ガイダンス中だということを、律はようやく思い出す。
「すいません」
律が軽く頭を下げると、教員はあからさまに大きくため息をついて、再び説明をし始めた。
これからの人生を決める重要な選択だからとか、よりよい大学に入れば大企業に就職できるとか、自分のやりたいことをちゃんと決めなければ将来露頭に迷うとか、耳にタコができるほど聞かされた、説教じみたもっともらしい言葉は、特急列車みたいに律の耳を通り過ぎていく。
「3年後、5年後、10年後の自分を想像して、悔いのない選択をするように」
その言葉だけが、唯一、律の耳に残った。

ガイダンスを終えた生徒はみな、家路を急ぐようにマフラーやコートを羽織って教室から去っていく。その人混みに紛れるように、同じように律も教室を出る直前、呼び止められた。首だけ振り返ると、薄縁の眼鏡をした男が立っている。担任だ。
「なんですか?」
妙に歯切れ悪く、目線を泳がせながら担任は顎を摩る。
「ああ、いや。今朝、雨宮のお父さんから連絡があってな」
ぴくり、と僅かに律の肩が跳ねる。
「息子はちゃんと学校に通ってるか、って言われてな」
「……そうですか」
自宅に残した置手紙には、学校には通うから余計な事をしないでくれ、と書き連ねたことを律は思い出す。その確認のためにわざわざ学校に連絡したのだろう。ご苦労なことだった。
「もし、何か悩んでることがあるなら、いつでも言ってくれ。相談に乗るから」
「ありがとうございます」
「ただし、俺に出来ることはそこまでだ。あとは、お前が親御さんと話し合わなきゃどうにもならん。まあ、お前の成績だったらどこの大学でも狙えるだろうから、話し合えば解決できるさ」
「いい大学に入ることが、正解ですか? それが、悔いのない選択なんですか?」
担任の面食らった表情を見て、律はしまったと思った。呼び止められないよう、そのまま頭を下げて、そそくさと教室を後にした。

その日は、まったくと言っていいほど睡魔がやってこなかった。
家出騒動を抜きにしても、律の作曲のペースは明らかに落ちていた。『創作』において、切っても切れない関係、所謂スランプという奴だ。曲を作り始めて初めてスランプのドツボに嵌っていた。続きの歌詞が書かれることのないネタ帳も、まったく変わらないPCのピアノロール画面も、いい加減に見飽きて、律は頭を掻きまわしながら床に転がった。
ふと横を見れば、鞄の中から件の用紙がはみ出ているのが見えた。その端を引っ張りだそうと手を伸ばして、途中で止まる。
「何してんだ、俺は……」
何もかも中途半端。『ITSUKA』のことも、父のことも、進路のことも、だ。何もかもに嫌気が差して、いっそこのままどこか遠くにでも逃げ出してしまいたくなる。
「なんて、できるわけないけど」
嘲笑うように薄く瞼を閉じた律の視界に、ふっと、影が落とされた。続いて降ってきた声は、随分と明るかった。
「おーおー。青春してんな、非行少年?」
瞼を開けると、律の視界に蛍光灯の明かりで照らされた白髪が映り込む。律の顔を上から覗き込むように腰を屈める男の姿が、そこにはあった。
「笹原、さん?」
「笹原さんは、ちょい仰々しいな。夕爾でいいぜ。俺も律でいいか?」
「……どうぞ」
律が起き上がると、夕爾はすっと曲げていた腰を戻した。
ツルミ荘にやってきた初日以来、あまり見かけなかった夕爾の登場に律は少なからず緊張する。何せ、透花から今日は自宅に戻ると連絡があった。つまり、ここにいるのは律と夕爾の二人だけだ。
「珍しいですね、この時間に帰ってくるの」
「まあ、今日はたまたまな」
「夜遅くまで何を?」
「ナイショ」
「……そうですか」
これ以上深堀できる仲ではないから、律はそこで会話を終わらせるしかなかった。
「じゃ、ほどほどに頑張れよ~少年」
律の肩を軽く手で叩いて、夕爾は踵を返した。すると、夕爾が片手に抱えていた紙の一枚がすり抜けて、落ちる。
「夕爾さん、何か落としました、……よ?」
夕爾を呼びかけながら、その落ちた用紙を律は拾い上げて───目を瞬かせる。振り返った夕爾が無言で、すぐさまその紙を律から奪い取った。紙の隔たりを失った律の前に、じとりと睨みを聞かせる眼がふたつ。
「見たな?」
それは、端的に、しかしどこか圧力のある問いだった。
「ええと、」
「見ただろ」
「見てな、」
「見ただろ」
「……はい」
律はすぐさま白旗を挙げた。誤魔化す暇すら与えてくれなかった。
「すいません、見るつもりは」
「いや、俺の不注意だから別に謝る必要ない」
律の記憶が正しければそのA4用紙に描かれていたのは───コンテ、ではなくネームというのだろう。漫画的に言えば。そしてそれはおそらく、透花が待ち続けている物語の続きだということは、夕爾の過剰な態度から察するに余りあった。
勝手に見てしまったという居た堪れなさに顔を伏せる律を他所に、ぐるる、と腹の虫が一つ鳴った。思わず律は自分の腹を押さえた。なぜこんな絶妙に悪いタイミングで鳴るのか。
しかし、その音を皮切りに夕爾の締まりのない笑い声がした。
「なあ」
「……はい」
「今から付き合え」
「へっ? どこに?」
戸惑う律に、夕爾はにんまりと悪い笑顔を浮かべた。語尾にハートマークをたっぷり付けて。
「ちょっとイケないとこ」


表面に浮かぶ健康に悪そうな油を、遠慮なくレンゲですくう。食欲を誘われる、醤油の香りに律は思わず胸が躍った。
「おうおう、俺に感謝して遠慮なく食え? 替え玉は2回までな!」
律の向かいに座った、景気よく割りばしを割った夕爾が、少年みたいに笑う。しかし、目の前のラーメンを啜る前に律は確認しなければいけないことが一つある。
「……もしかして、ちょっとイケないとこって、ここですか?」
「当たり前だろ? ド深夜ラーメンは重罪だぞ! 下手すりゃ捕まるぜ~?」
捕まるわけねえだろ、なんて突っ込みを律はぐっと飲み込む。夕爾はにやにやしながら目を細めた。
「はっはーん? 一体どんな想像をしたんだ、お兄さんに言ってみ? ほれほれ」
「箸で指さないでください」
「この思春期むっつり少年め」
「誰がむっつりか!」
「は~やっぱうめー。ほら、さっさと食わねえと冷めちまうぞ?」
完全に夕爾のペースだ。
まったく悪びれる様子もなく、麺を啜る夕爾の旋毛を見ながら、律はため息をつく。これからはこの人の言うことは容易に信じまい、と心に誓うように律は両手を合わせてから、ラーメンを食べ始めた。

「食った食った~」
色褪せた赤の暖簾をくぐって、律たちはラーメン屋を出た。温まって熱いくらいの身体にちょうどいい冷たい風がひゅうひゅうと吹いている。
息を吐くと、真っ白な靄が澄んだ夜空に溶けていった。数歩前を行く夕爾の足元に視線を落とし、律も同じくらいのスピードで歩く。
夜風に乗って、夕爾の声が流れてくる。
「旨かったか?」
「まあ」
「はは、可愛くねえの」
ぴたり、と夕爾の足が止まった。律の足も続いて止まる。振り返った夕爾の表情は、暗がりの呑まれてよく見えなかった。
「付き合ってくれた礼に、人生相談にでものってやろう。なんていうか、人生の先輩として?」
「……そんな年離れてないですよ」
「はは、減らず口を。家主に盾突いてもいいのか~?」
それを言われると、律はもうぐうの音も出ない。
「ん、そうだなー。何でも、3つ、質問に答えてやるよ」
律の前に立てられた3本の指。どうやら、向こうは折れる気はなさそうだった。律はひとつため息をついて、再び歩き出す。
「じゃあ、質問です」
「どうぞ?」
「夕爾さんはどうして、漫画を描こうと思ったんですか?」
少しだけ考えるような素振りをして、さらり、と夕爾は言った。
「モテたくて」
「…………………………は?」
たっぷり時間をかけて、彼の言葉を飲み込もうとしたが、嚙み砕くにはあまりに固すぎて喉には通らなかった。思わず隣を振り返った律の視線と、夕爾の視線が合う。なんでそんな純粋な瞳をしてんだ、と律は突っ込みたくなった。
「ええ!? 逆にモテたい以外なくね?」
「ないです」
「はいダウト! つーか漫画描く奴より音楽やってる奴の方が、女にモテたいって下心しかねーだろ!! それ以外の動機で音楽はじめる奴なんかいねえわ!」
「偏見酷すぎません?」
「じゃあ、自分は一切の下心なく100%純粋に音楽やってるって言えんのか? お? 神に誓って言えんのか? ほれ、俺の目を見て言ってみ?」
夕爾は真実を白日の下に示さんとする探偵が如く、律の眼前にやってくる。
「ぐっ……下心はな…………な、くはないです」
「ほれみろ~!」
律はがくっと肩を落とした。なぜだか物凄く負けた気分だった。意気揚々と再び律の前を歩き始める夕爾の背中を、律は恨みたらしく睨んだ。
「で、結果はモテたんですか?」
「よし。次の質問をしろ」
その返答だけで、結果は分かった。律はふっと、軽く笑って次の質問を考える。ふと、頭に件のネームのことが思い浮かんだ。
「じゃあ、質問ふたつ目。続きを描くつもりは、ありますか」
「今は、ないよ」
即答だった。希望を持たせる暇すら与えてはくれなかった。
「あれは、単なる気まぐれさ。たまたま流れてきた動画のMVにちょっと触発されちまっただけだ。柄にもなく」
「きっと、喜びますよ」
誰よりも続きを待ち望んでる人たちを、律は知っている。あえて名前を出すまでもなく、夕爾も同じく彼らを思い浮かべたのだろう。少しだけ苦しそうに笑った。
「いつ描かれるかも分からない続きのために、大事なファンをぬか喜びさせるなんて、漫画家としてそんな半端なことはできねえよ」
「そう、ですか」
「だから、あいつらには内緒な。ラーメンは口止め料ってこと」
「……分かりました」
律が頷くと、夕爾は少しだけ安心したようにくしゃりと笑った。そうして、律の胸に拳をとん、と一つ置いた。
「ありがとな」
「何がですか?」
「『創作』を聞いて、俺はまたペンを持つ気になれた。だから、ありがと」
その言葉が、何よりも律の心に響いた。
顔を逸らし、小さく息を漏す。少しでも油断したら、視界が揺らいでしまいそうだったから。誤魔化すみたいに、律は皮肉を吐く。
「……それは、透花に直接言った方がいいんじゃないですか?」
「ぶぁか。兄の沽券に関わんの!」
いつの間にか軽口のやり取りすらできるようになったところで、ツルミ写真館の看板が数メートル先に見えてきた。
この問答も、そろそろ終わりが近づいてきた、ということだ。
「最後の質問です」
「ああ」
律は立ち止まって、閉じた瞳をゆっくりと開く。少し先で立ち止まった夕爾が、こちらを振り返る。
「夕爾さんは、『創作』のためなら、死ねますか」
その瞬間、時が止まったみたいに、しん、と静まり返った。
絡まった目線だけは逸らさなかった。真意の読み取れない透花に似た藍色の瞳が、すっと細まる。皮膚を突き刺すような鋭さがそこにはあった。
「それは、『創作』を投げ出した俺に対する当てつけのつもりか?」
その返答に律は、すぐさま自分の質問が最低な当てつけだというのことに気が付いた。
「あ、いや、そういうつもりじゃ、」
「今の俺には、耳に痛いな。その質問は。……ああ。いいよ、別に怒ってねえから」
ひらりと手を返して、夕爾は唇で薄く笑った。夕爾の一言で肩を撫でおろした律を横目で見てから、そのまま空を仰ぐ。その横顔は、あまりに儚くて一度瞬きをすれば、跡形もなく消えてしまいそうだった。
「『創作』のために死ねるなら、本望だとさえ思ってた。……けど、俺には結局、出来なかった。命までは賭けられなかった。あっち側に行ける人間じゃなかったんだ」
自嘲的な笑いを残して、夕爾の視線がすっと律の方へ向けられる。
「律、お前はどっちだ?」


ツルミ荘にやってきて、2週間がたつ。
右頬を覆っていた白いガーゼを外して、律は鏡に映る自分を見た。指先で触れても、痛みはなく、殴られた形跡なんて元々無かったのではないかと思うほど、元通りだった。
ゆっくりと深呼吸をする。気合を入れるように、両手で思いっきり頬を叩いた。
「……よし」
鏡越しに映る自分の顔は、幾らか大人になったように見えた。

「透花、ちょっといい?」
いつの間にか、律と透花の定位置になっていた縁側に顔を出すと、案の定、透花が鉛筆を走らせているところだった。呼びかけられた透花が、こちらを見上げた。顔にかかった黒髪を耳にかけながら透花は、律のスペースを開けるように少し横にずれる。遠慮なくそこに腰を下ろす。
「透花に一番に、伝えようと思って」
「うん」
「俺の答えを」
勝手に手が震える。寒さではなく、緊張で。生まれてきて初めて、こんなにも心臓を握りられるような緊張感を味わう。心いっぱいに溜まった不安を振り払うように、律は顔を上げ、透花を見る。僅か数十センチ先で、透花の深く青の瞳が煌めく。
「俺は───」
プルルルル、プルルルル。
今まさに律の口から答えが出かかったその瞬間、鳴り響いたのは、電話の着信音だった。絶望的なタイミングだった。口から出かかった言葉を仕舞うべきなのか分からず硬直していた律に、透花は苦笑しながら、律のポケットをちょこんと指さす。
出ていいよ、の合図だとすぐに理解する。
「……ごめん、すぐ終わらせるから」
舌打ちしたい気持ちをぐっと堪え、乱暴にポケットからスマホを取り出して、表示を見る。通話の相手は、『和久叔父さん』だった。律が家出してから一度も掛けてこなかった叔父からの電話に、律は一抹の違和感を覚える。親指で通話アイコンをタップして、スマホを耳に当てた。
「もしも、」
『律か!?』
律の言葉を遮って、珍しく焦りを語尾に滲ませた叔父の声がする。後ろから、カチカチ、とウィンカーが一定のリズムを刻んでいる。どうやら、車でどこかに向かっている最中のようだ。
『いいか、落ち着いて聞いてくれ』
「……なに?」
『晴彦義兄さんが倒れた』
呼吸が、止まった。頭のてっぺんから足のつま先まで体中の血が抜けたみたいに、力が抜ける。スマホの重さすら耐えれずに、次第に腕が落ちる。
『職場近くの大学病院に運ばれたらしい。それ以外の詳しいことは分からん! お前もすぐに来れるか!? ……律? オイ、律!?』
電話口から叔父の怒号にすら近い剣幕が聞こえてくるが、律は呆然としたまま思うように体が動かせない。だというのに、頭の中では曖昧な記憶の中に残る母の顔がコマ送りで流れていく。律は知っている。人間というのは、あまりに呆気なく死ぬのだと。
視界が掠れて何も見えなくなる寸前、誰かが律の右手を握りしめた、強く。瞬きを繰り返しながら、その手の先を辿るように律は顔を上げる。
「───すいません、電話代わりました! 透花です!」
透花だった。いつの間にか抜き取られた律のスマホで、電話口の叔父と話し合っている。
「はい、はい、分かりました! すぐ、向かいます!」
すぐさま電話を切った透花が、律の腕を引っ張り上げる勢いで立ち上がった。地獄の底で、目の前に足らされた蜘蛛の糸に縋る人間は、果たしてこんな気持ちだったのだろうか、と律は繋がれた手に力を込める。
「なんだ!? どうした!?」
ただならない騒ぎを聞きつけた夕爾が、足音を立てながらリビングにやってくる。透花が矢継ぎ早に事情を話す。すると、夕爾は表情を硬くして頷いた。
「分かった、店前に社用車回す! すぐ乗り込め!」
「律くん、行こう!」
繋がれた手に引かれるように、ツルミ荘を出て、透花とともに律は車の後部座席に乗り込んだ。病院に向かう道中、隣に座る透花の手から伝わる体温だけが、唯一、律を現実に繋ぎとめる糸だった。


「……はい?」
「ですから、雨宮晴彦さんなら、先ほど検査が終わって会計済まされたようですよ?」
「倒れたって聞いたんですが」
「過労と軽い栄養失調だそうです。雨宮さんから連絡はなかったですか?」
言葉を失ったまま立ち尽くす律たちを横目に、受付の女性は次の方、と後ろの客を呼び寄せる。律と透花は、押し出されるような形で受付の列から離れた。
エントランスホールから病院の外に出ると、容赦なく冷たい風が吹きつける。未だ顔を伏せたまま、無言の律から感情はなに一つ読み取れない。何か声をかけなければ、と切迫感に追い詰められて、上擦った声で透花は話しかける。
「ええと……大事にならなくて、よ、かったね?」
「……ああ」
「あああれかな? 律くんのお父さん、連絡するの忘れちゃったんだよ。きっと!」
「……ああ」
「おおお叔父さんもそろそろ来る頃かなぁ?」
「透花」
「ひゃい!」
透花は裏返った声と共に肩を跳ねさせた。恐る恐る隣を見やると、律が人差し指で透花の額を弾く。そして、空気よりも軽くふっと笑った。
「いいよ、気遣わなくて」
「……ご、ごめん」
「なんで透花が謝んの。俺の方こそ、付き合わせてごめんな」
「そんなの、全然」
「ここに居たら風邪ひくし、もう、帰ろうか」
「……うん」
「夕爾さんにもさ、お礼言っとかないとな。ジュースくらい買ってくか。あのひと、苦いの大丈夫? コーヒーとかでもいいかな? あ、ちょうどいいとこに自販機あるな」
透花と繋いだ手を引いて、自販機の方へ踏み出した足は、一歩目で止まってしまった。何故なら、その自販機の前に立つ人影に、律の方が先に気付いたからだ。咄嗟に背を向けようとしたが、もう遅かった。
「律、か?」
無事を知るまでは、会わなければと切に願っていたのに、いざその姿を目の前にして、律は心の底から後悔する。2週間ぶりに再会した父の姿は、玉手箱でも開けたのかと思うほど、やつれ切った姿で立っていた。
「お前、どうしてここに……、いや、今はそんなことどうでもいい」
額に手を当て、疲労を込めたため息を父は一つ付いた。ゆるりと顔を上げ、律を見やる。あの夜と同じ、律を強く詰責する目だった。
「今までどこにいた」
「……言わない」
「なんだと? ふざけてるのか?」
「ふざけてんのはどっちだよ」
「どういう意味だ」
は、と律は乾いた笑いを零した。
「今まで散々放置してたくせに、今更父親面すんなって言ってんの」
吐き捨てるように呟いた言葉で、父は分かりやすく狼狽した。これ以上同じ空気を吸っているのも苦痛だった。今、口を開けば一体どんな残酷な言葉が飛び出してくるか分からない。辛うじて堰き止めていた感情にブレーキの掛けられなくなるのが、怖かった。
律は、握った手に少し力を込める。
「もう、行こう。透花」
「う、うん」
律と父の顔を伺い、透花は躊躇いがちに頷く。少し痛くなるくらいの力で透花の手を引き、律は再び歩み始めた、その時。
「──待て、律ッ!」
咄嗟に律の腕を、父が掴んできた。瞬間。背中を嫌悪感が走り抜け反射的に腕を振り払うが、不快な熱は律の腕に纏わりついたまま離れない。
「いい加減、目を覚ませ! 音楽なんてやって何になる!」
「……」
「約束しただろう!? 忘れたのか!?」
忘れるわけがない、忘れられるものか、と律は吐き出したい言葉を堪え、歯嚙みする。
「音楽のせいで、奏は死んだ。たかだか、音楽なんぞのために! 奏は俺たちを捨てて、音楽を選んだんだぞ!?」
その叫びは、ほとんど泣いているようにすら、聴こえた。
「いいから……もう戻ってこい、律。今なら、許してやるから」
律は、かさついた父の手をもう一度、振り払う。今度は、簡単に解けた。肺には痛いほどの冷たい空気を吸い込んで、律は静かに答える。
「戻らないよ」
父の表情が、次第に怒りを滲ませていく。
「まだ、曲を完成させてないから」
ぱあん、と乾いた音が響いた。どうやらまた右頬を叩かれたらしい、ということだけは理解した。あの夜と同じ痛みが、口の中まで広がっていく。
あの時と違うのは、状況を把握できるくらいには律が冷静だったことだ。顔を上げると、興奮で肩を上下させた父と目が合う。殴られたのは律の方なのに、一瞬父は苦しそうに顔を歪ませた。けれど、すぐ怒りに満ちた表情へと変わる。
「これ以上俺を失望させるな! つまらん感情で自分の将来を棒に振る気か! いいか、お前はまだ子供だ! 子どもは、親の言うことには黙って従ってればいいん──がッ!」
その刹那、だった。
瞬きをすれば見逃すほどの短い一瞬、父は文字通り吹き飛んだ。横から飛んできた拳で。
短いうめき声とともに、よろめいた父の身体は自販機に激突してそのまま沈み込む。状況を飲み込めない。それは父も同じようで、何度も目を瞬かせながら、律ではなく、その横へ視線を向けた。
「と、透花?」
「……ごちゃ、」
「え? ちょ、と、透花!?」
繋いだ手とは逆の手を握りしめたまま、荒く呼吸を繰り返す少女がそこにはいた。律の静止を振り切り、透花は父の襟首に掴みかかった。そして、大きく胸を上下させ叫んだ。
「ごちゃごちゃごちゃごちゃ、うるッせーーーんだよ!!」
「ぁ、」
「いいから黙って曲を聴け!! たかだか音楽だなんて決めつけんのは、その後にしろぉ!!」
静寂が3秒ほど続いた。
頭に血が上っていた透花は、ようやく我に返った。そして自分がとんでもないことをしでかしたことを理解する。慌てて掴みかかった手を放して、後ろに数歩下がる。なぎ倒した父がよろめきながら、自販機を支えに立ち上がろうとしている。顔は見えないが、空気で分かる。怒髪冠を衝く程の怒りをひしひしと感じる。
そして、修羅の顔が表を上げる瞬間、咄嗟に律が声を上げた。
「逃げるぞ!」
「へっ?」
戸惑う透花の腕を強く引っ張り、律は一目散に走り出す。
駆け出した律たちを追いかける足音は、しなかった。


どれほど、走ったのだろうか。
当てもなくただがむしゃらに律たちは走り続けた。追いかける足音もないのに。すでに病院の建物すら見えなくなるほど遠くまでやってきた。透花はいよいよ、息が続かなくなって、背中越しに呼びかける。
「はあ、はあ、り、律く……も、もう限界! す、ストップぅ!」
透花のギブアップ宣言で、ようやくスピードが緩み、律の足が止まった。ずっと繋ぎっぱなしだった手と手が離れる。透花は手を膝について、ぜーぜーと呼吸を繰り返した。酸欠だった脳に酸素を送り込んで、冷静さを取り戻した。ついでに先ほどの犯した失態の記憶も蘇ってくる。
「……あのう、律くん」
恐る恐る、透花は律の袖を引っ張った。律は腕を組んで、俯いたまま何やら深刻そうな雰囲気を纏わせている。透花は、上がった体温が急激に下がるのを感じた。勢いよく頭を下げる。
「ご、ごめんなさい!!」
「ふ、」
「わたしが出しゃばったばっかりに! どどどどうしよう!?」
「っく、」
いよいよ肩を震わせ始めた律を見て、透花はさらに顔を青くする。
「今からでも、戻って、」
「ふっく、く、ははっはっはははははははははっははは!!」
「え?」
それは大爆笑だった。腹を抱えて、何なら目に涙まで浮かべて。
「ははっは、なあ見た? あの、間抜けな面! はーやば、涙出てきた」
「……怒ってないの?」
「へ? なんで?」
きょとんとした顔の律が、首を傾げる。
「だって、わたし、律くんのお父さんにいきなり殴りかかったんだよ!?」
「ふはっ、やめて。また思い出して笑っちゃうから!」
目尻に溜まった涙を拭いながら、律は溌剌とした様子で胸を張る。
「あの瞬間、すっげえスカッとした!」
それは、遥か頭上にある青天井を背景にしても遜色ないほどの、晴れやかな笑みだった。
「いいから黙って聴け、かぁ。ふふ、うん。うん、そうだった。俺、ずっとそう言ってやりたかったんだ。いざ父さんを前にすると、声が出なかったけど」
「律くん、」
「ありがとう、俺の代わりに言ってくれて」
「……お礼言われるようなことじゃないよ。殴っちゃったし」
「いいよ、俺だって殴られたし。しかも二回も! なら、一発ぐらい殴っても神様だって見逃してくれるでしょ」
透花は、自然な動作で指先で律の頬に触れる。触れた瞬間、いて、と律は呻き声を挙げながら眉を顰めた。
「また、赤くなってる。帰って冷やさないと。待ってね、今お兄ちゃんに連絡、」
「透花」
スマホを取り出すために離れそうになった透花の手を、律は縋るように手を重ね合わせ、そのまま頬に寄せた。触れたところがやけに熱くて、その熱が伝染していくように透花の顔が徐々に赤く染まる。声も紡げないのか、口をパクパクさせている。
律は、逃がすつもりはない、と意志を伝えるように強く、手を握りしめて言った。
「今から、駆け落ちしよう」
え、と小さく漏らした透花の言葉は、乾いた風によって攫われてしまった。


「よく漫画とかアニメとかでさ、話の途中で敵方に寝返る裏切りキャラって、いるじゃん?ああいうのって、何かしらのそうせざる負えない理由があって、それを心の中に秘めたまま主人公と敵対するのがセオリーで、大体死んじゃった後とか死ぬ間際にそのキャラの心情が分かる、とか。あとは、映画とかで、余命幾ばくかの彼女が最後に振り絞った力で残した手紙を読んで、彼女の思いを胸にそれでも明日も生きていく、みたいなラストとか。……そういう展開を、期待してた」
ガタン、ゴトン、とレールのつなぎ目を通過する音がする。
「音楽は世界を救える───、それが、母さんの口癖だった。だから、俺は、証明したかったんだ。音楽なんかで世界が救えるわけがない、って。それを証明した後で、俺は母さんの墓の前でさ、言ってやりたかった。『ほら見ろ、音楽なんかで救えるわけがないじゃないか。所詮そんなものために、命を懸けた母さんは大馬鹿者だ! 俺たちを捨ててまで選んだ事を地獄で一生後悔すればいい』、って。……本当はさ、音楽とか、世界とか、どうでも良かった。単なる理由付けに過ぎなかった。俺はただ、母さんが間違ってたんだって、自分に言い聞かせるための理由が欲しかったんだ」
教科書を音読するように、淡々とした声音で語り続ける。
「あの頃の記憶は、あんまり無いんだけど……母さんは、たぶん、病気のせいで上手く歌えなくなってた。一刻も早く治療しなきゃいけないって状況で、母さんは頑なにそうしなかった。治療したら、もう声が出なくなっちゃうとか、今まで通り歌えなくなっちゃうとか、けど治療したところで手遅れだとか、まあきっと、そういう理由だろうね。……父さんと母さんが、そのことで何度も喧嘩してたの、何となく覚えてるから」
膝の上に置いた白い梅の花束に触れると、包装紙がくしゃりと音を鳴らす。
「3月5日が母さんにとって、最後のステージになった」
次第に電車が減速していく。終着駅はもう、すぐそこだった。

電車を降りたのは、透花と律のふたりだけだった。
寂れた無人駅から、夕暮れの火に染まった海がよく見えた。次第に、水平線に呑まれていく太陽に向かって水面上に一本の光の道が続いていた。
ふたりは、堤防沿いを、止まりそうなほど遅い足取りで歩く。
「父さんは、許せなかったんだ。俺たち家族と音楽を天秤にかけて、音楽を選んだ母さんのことも。母さんをそうさせた音楽のことも」
初めて律が父の涙を見たのは、母の葬儀の時である。幼い律の両肩に手を置いて、父は言った。
「『いいな、律。もう二度と、音楽はやるな。絶対に』───なんてさ、言いたくなっちゃうよね、そりゃ。だから、俺が父さんに隠れて音楽してること、心んどこかでずーっと罪悪感あった。そのせいで、父さんに殴られても何一つ反抗できなかった。父さんの気持ち、痛いくらい分かるから」
触れた右頬が、ちりっと痛む。
「音楽を始めたての頃は、母さんの気持ちが知りたくて仕方がなかった。もし死者の言葉が聴ける機械でもあったなら、俺は迷わずこう言う。なんで、俺たちを選んでくれなかったの、って」
いつの間にか潰れてしまったのかシャッターの降りたタバコ屋の角を曲がれば、もうすぐ、目的地に到着する。じゃりじゃり、と玉石を踏み鳴らしながら歩く。
「でもさ、もう……答えは、分かった。あの日、あの時、ステージに立った瞬間に」
それは、あまりに単純な答えだった。
「歌いたかったからだ。命懸けてでも」
律は、向き直る。墓石を前にして、あの住み慣れない家のリビングで、いつも通り母の遺影に話しかけるみたいに、律は言う。
「……久しぶり。母さん」

16歳の誕生日に亡き母から手紙が届くとか、偶然出会った母の知人から母の本当の気持ちを知るとか、そういう都合の良い優しい展開を、期待していた。最後の人生で息子に自分の音楽を残してやりたくてとか、心の奥底では音楽を選んだことに罪悪感をもっていたとか、そういう綺麗な理由が欲しかった。家族を捨てるだけの立派な理由があったと、想いたかった。
『───夕爾さんは、『創作』のためなら、死ねますか』
夕爾に問いかけた最後の質問を、律は思い出す。
つまりは、そういうことだ。母は、『創作』のためなら、死ねる人間だった。夕爾の言うところの、あちら側の人間だった。
綺麗な理由なんて、立派な理由なんて、あるわけがない。
単純なことだ、母は家族よりも音楽を優先した、身勝手な人間だった。ただそれだけ。それを知った時、律は失意の底へ落ちた。そして、同時に身勝手な母を惨たらしく責め立てることは、出来ないと悟った。何故なら、それは。
「きっと、俺も同じことをする」
肌を刺すような風が吹いて、供えられた梅の花びらが揺れた。
「俺が母さんの立場だったら、家族とか、未来とか、全部かなぐり捨てて、ステージに立つ。……俺も、『創作』のためなら死ねる人間だった。母さんを責めることなんてできない、大馬鹿者だよ。親子そろってこんな馬鹿ばかりなんだから、父さんに合わせる顔がないよね」
両手を合わせ、顔を上げた律は、振り返った。
「ちょっと寄りたいところがあるんだけど、いい?」
透花は少しだけ悲しそうに、うん、と頷いた。

「ここは?」
「俺の前の家」
昔住んでいた家は、控えめに言って酷い有様だった。
季節の花が彩っていた庭は、煤ぼけた草木が律たちの腰の高さまで生え、外壁には毛細血管のようにツタが張り巡らされている。キーケースにつけられた、メッキの禿げた古めかしい鍵をドアに挿すと、ごり、っと音を立てて開く。
電気も通っていないから、薄暗いうえ、廊下を歩くたび埃が舞って息苦しくなる。
「あ、あったあった」
一番奥の部屋にそれは、まだ残っていた。もぬけの殻となった部屋の中で、異様な存在感を放っていた。埃がかった白いシーツを取り払うと、律と透花は二人そろってせき込む。
シーツの下に隠れていたのは、グランドピアノだった。試しに人差し指で適当な鍵盤を弾いてみると、籠った音が鳴る。
「あはは、ひっでえ音」
「そうなの?」
「うん、調律とか一切してないからね。透花、こっち座って」
トムソン椅子の片側半分に腰を下ろした律は、余ったもう片方を手で叩いた。透花がおっかなびっくりといった感じで座る。
「透花、『きらきら星』弾ける?」
「弾いたことない」
「いいよ、教えてあげる。はいまずここに指置いて。ド、ド、ソ、ソ、」
「ド……ド、ソ、ソ」
「いいじゃん、上手い上手い」
「へへ。続きは?」
ものの数分ほどで、透花は『きらきら星』を弾けるようになった。楽しそうに歌いながら、拙い指先で鍵盤に触れるさまは、どこか幼いころの律の姿を思わせた。最後の一音が部屋に鳴り響いて、すぐに静寂に包まれた。
透花が顔を上げる。律は、透花から目を逸らさずに口を開いた。
「『ITSUKA』は、3月5日で解散するよ」
深い青い瞳が大きく見開かれる。石を投じた水面のように透明な膜がゆらゆらと、揺れる。
「そ、だね……うん、……そう、だよね」
「自分勝手で、ごめん」
「ううん、何となく、分かってたから」
「これ」
律はポケットから取り出したくしゃくしゃの紙を透花に差し出す。透花は、覚束ない指先でそれを受け取る。もとは上等そうな一枚の名刺だったのだろう、透花の知らない名前が明朝体で書かれている。
「母さんが昔音大でお世話になってた恩師だって、叔父さんがくれたんだそれ。今は、海外の大学で先生やってるんだって」
律は、静かに続ける。
「たまたま叔父さんの店に来たんだってさ。俺が作曲してるってことを叔父さんから聞いて、動画見てくれた。それで……その人が、こっちに来て音楽を一から学んでみないかって、誘われてる」
伏せられていた透花の顔が、すっと上がる。泣きたいのを我慢する子供みたいに、唇をぎゅうっと結んで、堪えているのが分かった。
「俺は、行くよ」
透花は何も言わず、ただ律の胸にとん、と額を寄せた。必死に声が震えないようにと喉の奥を締め付けるような声がする。
「答え、見つけたんだ」
「うん」
「そっかぁ。よかった、よかったけど……やっぱり、さみしいな」
「うん、俺も。別れのキスでも、しとく?」
「……ふふ、ばか」
「ええ、だめ?」
「また、わたしと『創作』するって、約束してくれるなら。いいよ」
「……する。神に誓って」
「破ったら、纏くんにチクってやる」
「それは怖いな。死んでも守らないと」
互いに見合わせて、少し笑った。どちらともなく近づいた唇が、静かに重なり合わさる。
初めてしたキスは、少しだけ苦くて、しょっぱかった。
多分、青春が食べられるならこんな味がするんだろうと、律は思った。


背伸びして頼んだブラックコーヒーは、飲めたものではなくて、一口飲んだだけで放置したままだった。2階の窓側の席からは、スクランブル交差点を行きかう人たちがよく見える。しばらく、ぼうっとその様子を眺めていると、ふと、テーブルの上に置いてたスマホが震える。確認すると『クソ律』の文字が表示されていた。纏は画面をタップして、耳に当てる。一言目に言う台詞はもう、決めていた。
「締め切り遅れの謝罪なら受け付けねーぞ」
『ちッげーよ!』
相も変わらず憎たらしい恋敵の声音は、最後にあった日よりも幾らかマシになっていた。
「で、何?」
『あの日の回答、しようと思って』
「ああ」
電話口から、覚悟を決めたような息遣いが聞こえる。
『3月5日で解散したい』
「分かった」
纏は二つ返事で了承した。
『…………エッ? それだけ?』
肩透かしでも食らったのか、律は声を裏返してそう言った。
「それ以外になんか言うことある?」
『いや、そうだけど、そうなんだけど! もっとぉ、こう! あるだろ!?』
「もし解散しないってなったら、それはそれで困るんだよね」
『は? なんでだよ?』
「今さっきメジャーデビューの話、蹴ってきたところだから」
『は……、はぁああああああああああ!?』
「うるさっ」
音が割れるほどの大声に纏は思わず顔を顰めて、耳からスマホを離す。
『おま、俺らに決めろとか言ってたやん!』
「だって別に、メジャーデビューしたところであんまメリットないし。無意味に行動制限されるし、つまんないしがらみばっかり課されたら、『ITSUKA』の良さが無くなるでしょ」
『まあ、確かに』
「それに、お前らにはさ、最後までらしくあってほしいと思ってんの。だから、責任もって僕が最後まで、創りたいもの創らしてやるよ」
『……じゃあ、纏を敏腕プロデューサーとして見込んで頼むんだけどさ。父親に俺の曲を聴かせて、説得したいんだ。何かいい案ある?』
「音楽を嫌悪してる人間に?」
『そう』
はあ、とひとつ大袈裟にため息をついて、纏は考える。そんな簡単に思いつくわけもない。
「案ねー……」
ただ、何気なく視線を巡らせる。そうして、纏の視線はとある一点に集中する。午後三時をお知らせします、と仰々しく頭を下げるアナウンサーの声がした。






約1か月ほどお世話になった部屋を、透花はぐるりと見渡す。なんやかんや長い間滞在したから、初めてツルミ荘を訪れたときよりも鞄が二つ増えた。
「荷物まとめたか~?」
ひょいと、開いたドアの隙間から顔を覗かせた白髪が揺れる。
「今終わったところ」
初めはぎこちなかった兄、夕爾との会話にも慣れた。
「じゃあ、ちょっと時間、いいか?」
「え? うん、いいけど。どうしたの?」
「これ、渡そうと思って」
振り返った透花の前に差し出されたのは、数冊の古びたスケッチブックだった。随分と使い古されていて、オレンジと黒の表紙には細かい擦り傷がたくさんついている。透花はそれを両手で受け取って、1ページ捲る。細かいパーツごとのデッサンやメモ、構図に合わせたポーズを何枚にも渡って描き綴られていた。
「お前、昔から手描くの、苦手だろ。MVもちょっと誤魔化してた」
「うっ、分かる?」
「バレバレ」
夕爾の言う通り、透花は背景の次くらいに手を描くのが苦手だ。
「これ、俺が今まで描き溜めてたデッサンとか構図の資料。役に立つと思う、多分」
「……くれるの?」
「バーカ」
「あうっ」
両手が塞がっているのをいいことに、夕爾が軽く透花の頭にチョップを食らわせる。
「貸すだけだ」
「ええ」
けち、と口を尖らせようとした透花を遮るように、夕爾はにっと少年のように笑った。
「俺が必要になったら、ちゃーんと返してもらうぜ。それまでは貸してやる。分かったか?」
透花は、胸の前に持ったそれをぎゅうっと大事に抱きしめる。声が震えてしまいそうになるのをぐっと堪え、透花は何度も頷く。
「……うんっ、うん! ちゃんと、返す」
「よろしくな。……じゃあ、そんだけだから」
「あ、お兄ちゃん!」
透花の肩を優しく叩いて、部屋を出ようとした夕爾を慌てて引き留める。
「わたしの友達から、伝言頼まれてたの」
「……俺宛に?」
思い当たる節もないのか、夕爾は首を傾げる。透花は、底抜けに明るくて笑顔のよく似合う彼女の口調を真似しながら言う。
「メメ先生の漫画を読んで、救われたから、ありがとう! って」
夕爾の瞳の奥が、流れ星が夜空に消える瞬間みたいに、眩い煌めきが弾けた。我に返った夕爾が、すぐさま踵を返す。そして、部屋を後にする直前、呟いた。
「続き楽しみにしといて、って伝えといて」
少しだけ、言葉の端が震えていた。



『明日の夜21時、駅前のスクランブル交差点のところで待ってる』
家出してから一切連絡の取れなかった息子から送られてきたメッセージが、それだった。
仕事を早めに切り上げて晴彦は、指定された場所へ向かう。金曜日の夜は、随分と活気に溢れていた。仕事上がりのサラリーマンやOLが、スクランブル交差点を渡って繁華街に流れていく。
「あ、すいません」
肩がぶつかって、咄嗟に謝ってきたのはまだ年端も行かない高校生だった。そこで、ようやく晴彦は気づく。この遅い時間帯にしては随分と若い子が、交差点に集まっている。そしてみな、一応にスマホを掲げて、何かを待ちわびるように上を見上げている。
21時、約束の時間の10秒前。
集まった人間たちが一斉にカウントダウンを始める。
さん! にー! いち! ぜろ!
───その瞬間、晴彦は弾かれた様に顔を上げた。ビルに設置された巨大モニターから流れてきた、カセットテープを再生する音。擦り切れて、絞り出したようなか細い声は、よく耳を澄まさなければ、何度も耳にした晴彦でさえ初めは気が付かなかった。
(奏の、声だ)
割れんばかりの喝采が、鳴り響く。足早に道行く人々すら、足を止めてその音楽に聴き入る。
その曲は、返歌だった。奏へ向けた愛の歌だ。怒りと、憎しみと、失望と、それすら飲み込むほどの愛と罪悪感と覚悟が込められている。いいから黙って曲を聴け、と見知らぬ少女に殴られた右頬が疼く。年甲斐もなく、胸がかっと熱くなって、大きく開いた穴が満たされていく錯覚にすら陥る。
心地の良い余韻を残して、ついに曲が終わる。
その瞬間、真っ暗な画面に映し出された曲名は───『ミッドナイトブルー』。奏が一番好きだった曲と同じタイトルだった。


「父さん」
父さん、だなんて呼ぶ人間はこの世にひとりしかいない。晴彦は、その呼び声のする方へゆっくりと振り返る。
人混みの中で、唯一目があったその人は、律だった。
情けない顔をしているだろう自分とは対照的に、律の瞳に一切の揺るぎはない。奇しくもその瞳と同じ色した人間を晴彦は知っている。いつの間に、こんな目が出来るようになったのだろう、と晴彦はようやく気付く。子供が成長するのは、瞬きするよりも早いのだと。
「どうよ? 感想は」
「……ああ、そうだな」
一つ呼吸を置いて、晴彦はぎこちなく笑った。
「最高だったよ」
それが、降参の合図だった。


ITSUKA@ituka_official
いつもITSUKAを応援していただきありがとうございます。
ITSUKAは3月5日をもって、解散します。
これまでお付き合いいただき、大変ありがとうございまいた。
3月5日に、配信サイトにて解散ライブを実施します。

季節は巡る。再び春はやってくる。
一年前、失意の底にいた一人の少女を掬い上げた曲があった。
それは、お世辞にも出来のいいと言えるようなものではなかった。しかし、少女はその音楽に心惹かれた。『未完成』と銘打たれた、たった3分19秒の音楽をきっかけにして動き出した、長い長い青春は終わりを告げる。
その曲のタイトルは───


「おいにちか! 何もたついてんだ! さっさと準備しろや!」
「だってだって全然前髪決まらないのぉ~~~!」
「前髪なんか散らしときゃいいだろうが!」
「はいアウトー! 地雷発言! 女の前髪イコール命なの! 男には分かんないでしょうけど! 良かったら私のケープ貸すよ! リップもいる? 画面映えするやつ」
「いるーーーー!!」
「ね、もうすぐお兄ちゃん着くって! 律くんの方はどう?」
「さあ、連絡全然返ってこねえから分かんない」
「ああ、それなら大丈夫大丈夫。最近まで死ぬほど反対してたから今更どの面下げて来たらいいのか分かんなくて店の近くで不審者みたいに立ち往生してるのさっき見かけたから」
「じゃあ何かしらこじつけて引き入れてきてくださいよ!」
「ええ~、叔父さんそういうの向いてないのにぃ」
「よ! 来たぜ~!」
「こんにちは~」
「お兄ちゃんと優一先生! 来てくれてありがとうございます」
「おい、律とにちか! リハーサルやるから来い!」
「へいへい」
「はあーい」

本日、3月5日。
『Midnight blue』のウッドドアには『close』のプレートが掛けられている。しかし、店内は大賑わいだった。グランドピアノが3分の1ほどを占める小ステージには、『ITSUKA』の解散ライブ用に透花が描き下ろした何十枚ものイラストが背景として彩られている。
ライブ用のマイクスタンドや、音響機材が所狭しと置かれ、透花の胸は期待感でいっぱいいっぱいになる。
配信サイトの待機所ではすでに数十万人の視聴者が、思い思いにコメントを打ち込んでいる。
「配信時間3分前! みんな準備は大丈夫?」
PCの前に立った纏が、声をかける。各々が頷いているのを確認して、纏はピアノの前に座る律へ視線をやった。
「ほら、律から一言」
「えっ? 俺? あー……えと、」
緊張しているのか少しだけぎこちなく頬を掻いて、律はちらりと透花の方を見た。透花は何も言わず小さくガッツポーズをする。
律はふっと空気のように軽く笑って、こほん、と一つ咳ばらいをした。
「最高のライブにします! 期待しといてください!」
『ITSUKA』の最初で最後のライブが、今、幕開けた。


「───お聞きいただきましたのは、『ミッドナイトブルー』でした!」
ピアノの心地よい余韻を一つ残して、曲が終わる。透花たちが観客席から小さく拍手を送ると、頬を紅潮させたにちかがありがとう、とはにかみながら小さくお辞儀をする。
コメント欄の盛り上がりも最高潮を迎えている。視聴者数はライブ開始時よりも3倍ほど増えていた。
にちかが、すうっと一つ大きく深呼吸をして、隣を見る。キーボードの前に立った律が、アイコンタクトで小さく頷いた。
この夢のような時間も、もう終わりがすぐそこまでやってきていた。
「ほんっとに名残惜しい! ずっと、ずーっと歌っていたいんだけど! けど、次が最後の曲です!」
カチカチっと、纏がタイミングを見計らって右クリックする。画面上に流れるのは、この日のために透花と佐都子が死ぬ気で描き上げた描き下ろしのイラストたちだ。
「今回のために描き下ろした曲です。それでは、聴いてください」
ほんの少しだけ寂しそうに目を細めた、にちかが『ITSUKA』で最後となる曲のタイトルを告げる。
「『いつか』」
透花は、一音一音をこの先ずっと、ずっと、忘れないように、胸に刻み付けるように、静かに瞼を閉じる。瞼の裏側で、パノラマみたいにこの一年の記憶が流れていく。どこを切り取っても色褪せない青が、その一瞬一瞬が、どうしようもなく輝いている。

それは、夢のような日々だった。

『ほんの少しだけ、自分を許そうと思えました』
『あの絵は、俺の曲ですか?』
『返事を待ってる』
「透花のそういうとこ、本当に大っ嫌いだ」
「きみに、俺の曲を描いてほしい」

それは、ひとり映画館でエンドロールを眺めるような、日々だった。

「締め切りに間に合いませんーーーーーー!!!」
「───ド素人が自己満でやる分にはちょうど良くて」
「このまま埋もれさせておくには、惜しい才能だと思ったから。なんか文句ある?」
「ありがとう、わたしを見つけてくれて」
「そうしたら、俺はもう、二度と音楽はしない」
『今、現在進行形でっ! SNSでITSUKAの曲がめちゃくちゃバズってんの!!』
「───誰かを救う歌をあたしは歌いたい! 音楽で世界が救えるって証明したいの!」
「歌うのが好きだから! 好きなこととやりたいこと掛け合わせたらさ、それだけでもう、最強じゃん!」
「任せてよ。最高の歌、聴かせてあげる」
「もう、逃げるの、やめようと思う」

線香花火が次第に火花が消え、火球が落ちる瞬間のような、日々だった。

「わたしの……わたしの、せいだ」
「俺は信じるよ、透花のこと」
「僕は……こんな、最低な方法しか思いつかない」
「お前は俺に───死ねっていうのか?」
「俺の曲は、透花の心を動かすに足らない、雑音だった?」
「俺が、嫌なんだ」
「───だって、俺を一番最初に見つけてくれたのは、透花だったから!」
「透花の創作は、透花だけのものだろうが!!」
「本当は、ずっと、誰かにそう言って欲しかったの」
「私は今まで一度だって、透花を親友だと思ったことなんてない!」
「わたしだって、佐都子に嫉妬するよ」
「だから、わたしともう一度───『創作』しませんか?」
「透花が『アリスの家』に来なくなってから、ずっと待ってた」

地面に落ちた一面桜の花びらが花嵐に攫われて春が消えていくような、日々だった。

「「───はぁあああ!!?? 家出したぁあああ!!??」」
「夕爾んとこなら、家出先としては、最適でしょ」
「だから、代わりにもし……、伝えられたら、でいいから。言ってほしい。先生の漫画で、あたしは救われましたって」
「久しぶり、透花」
「───3月5日で『ITSUKA』は解散するのか、それとも続けていくのか」
「律くんにもきっと、見つかるよ。探してる答え」
「音楽のせいで、奏は死んだ。たかだか、音楽なんぞのために! 奏は俺たちを捨てて、音楽を選んだんだ。それをお前は、許せるのか!?」
「続き楽しみにしといて、って伝えといて」
「今から、駆け落ちしよう」
「俺、行くよ」

(ああ、)
透花の頬を、温かな雫が伝う。
(もう、終わっちゃう)
決して楽しいだけではなかった。辛くなることばかりだった。何度も逃げ出してしまいたくなった。でも、その痛みすらこの瞬間のために在ったのだと、そう思えた。
涙を拭って、透花は前を向く。フィナーレはもう、すぐそこだった。
(───さようなら、わたしの青春)



「……終わっちゃったね」
「ああ」
春めかしい風が、頬を撫でる。透花と律は、当てもなく歩く。
微かに淡い春の香りがする。人気のない桜並木は、初めて透花と律が出会った場所だ。もうすぐ来る春を待ち望むように薄く色づいた蕾が、春風で揺れる。
「ライブ、すごく良かったよ」
「ありがとう」
「泣かないって決めてたのに、やっぱり泣いちゃったなぁ」
「それは作家冥利に尽きるな」
くすくす、と律が笑う。透花もひとつ笑みを残して、立ち止まる。遅れて、律も立ち止まる。
「律くんは……いつ行っちゃうの?」
僅か数ミリほど目を見開いて、律は確かな声音で言う。
「休学届が受理されたから、明後日には行くよ」
「……そっか」
「なあに、寂しいの?」
そう冗談めかして言う律に、透花はすぐさま答えた。
「寂しい」
「即答だな」
「さみしい、よ。当たり前じゃん」
ぎゅうっと拳を握りしめて、透花は勢いよく顔を上げる。
「だって、まだ律くんと創りたいもの、いっぱいあるんだもん!」
透花は、ずっと我慢していた感情が溢れ出して止めようがなくなっていた。ストッパーが壊れたみたいに、涙が後から後から止まらない。いくら拭っても服の袖を濡らすだけだ。
「もっと、もっと、一緒にいたいよ」
声が震える。でも、今を逃したら伝えるチャンスを失う。
「ほんとは、まだ、終わりたくない」
だから、透花は必死に言葉を紡ぐ。
「だって、わたし、わたし……!」
律くんが、と言いかけて、透花は止まる。何故なら、透花の続きの言葉を遮るように、強い力が透花の腕を引き寄せたから。透花の背中に回った腕が、痛いくらいの力で搔き抱く。律の腕の中に納まった透花が状況を理解できないまま、目を白黒させた。
すると、息苦しそうな声音が降ってくる。
「……そういうの、ずるい」
切なくて、痛くて、胸が苦しくなる声だ。
「俺が透花の涙に弱いの、知ってるでしょ」
「……いっぱい泣いたら、行かない?」
「こらこら。味占めんな。ほんとに行きたくなくなったら、責任取ってくれんの?」
「取る」
「……ばぁか。そういうのは、然るべきときまで取っといてよ」
「ちぇ、駄目か」
「透花、」
透花の背中に回された腕の拘束が解かれる。徐々に、右腕から指先までを伝うように名残惜しく触れていた体温が、離れていった。
律は、笑う。一本芯の通った真っ直ぐな瞳で、笑う。
「今よりもっと、もっと! いい曲を作って透花に聴かせてやるよ! 約束だ!」
「……うん」
「だから、それまで待ってて。絶対、迎えに行くから!」
「うん。わたしも、頑張る。律くんに負けないように!」
律が片手を上げる。透花も同じように、手を上げた。ふたりは同時に口を開く。ハーモニーのように声が交じり合う。
「「『いつか』、また会おう!」」


───5年後。

スプリングコートを羽織っていても、春先はやはり少し肌寒かった。何時間、何十時間と同じ態勢で居たせいか、首をぐるりと回しただけで景気よく骨が鳴る。コンビニで買った袋をガサゴソと探り、肉まんとあんまんの中で肉まんを取り出す。あんまんの方は、修羅場で限界化している同居人の分だ。
ほかほかの肉まんを頬張りながら、ふう、と息を付く。おそらくこのままベットに飛び込んだら、軽く10時間は爆睡出来そうな疲労感だ。
くああ、と欠伸を漏らしていると、ぷるる、とポケットが震えた。げんなりしながら、スマホを取り出して表示を見ると、『纏』の文字が表示されている。奴からの電話は大抵、面倒事でしかないから、いやいやスマホをタップする。
「……あーい」
『今どこ!』
徹夜明けの頭に響く音量に、思わずスマホを離す。
「帰宅中だけど?」
『ああ、ならちょうどいい! 連絡つかないから、叩き起こしてくれ!』
「こちとらアシのバイトで疲れてんのに、キンキン喋んのやめて。頭響くっちゅうに」
『そりゃお疲れ様』
「気持ちの籠ってない労りどうも!」
階段の踊り場に苛立ちの込められた声が反響する。ちょうど階段を下がってきていた住人がぎょっとした様子で身を竦ませたのをみて、慌てて階段を駆け上がる。
階段を上がって突き当り、奥の部屋が住処だ。
キーケースを取り出して鍵を開ける。ドアを開けると、部屋には明かりもなく、しーんと静まり返っている。
リビングに顔を出すと、案の定、殺人現場の死体が転がっている。
「ぶっ倒れてる、やっぱ」
『だと思った。さっさと起こしてくれる? 今日13時から仕事入ってんの!』
「へいへい」
一方的に通話が切られる。
佐都子は一つため息をついて、うつ伏せに転がる死体の背中を遠慮なく叩いた。起きない。しょうがないと、佐都子はその死体の耳元に唇を寄せた。
「おッきろーーーーーーーー!!」
「はひ!?」
びくっと、死体が飛び上がる。死体ではなく、過労でぶっ倒れていただけだ。
寝ぼけた様子の彼女が、上がらない瞼できょろきょろとあたりを確認する。佐都子と目が合う。
「佐都子ぉ、おかえりぃ」
完全に寝ぼけている。ふにゃふにゃで笑う親友の笑みを見て、佐都子はしょうがないなぁと思いながら笑う。
「ただいま、透花」
「しめきり、大丈夫だったぁ?」
「何とかね。そっちは?」
「なんとか終わらせたよー……ぐう」
「ちょちょちょーい、寝るなー。今日13時から仕事あるんでしょ?」
「はっ、忘れてた」
その反応は見るに、本当に忘れていたのだろう。
「相変わらずペース配分狂いすぎ。妥協を覚えなさい、妥協を」
「あい」
「ほら、顔洗ってきな? そのボサボサ頭どうにかしてあげるから。あ、ごはん食べてないでしょ? あんまん買ってきたよ」
「あんまん!」
きらりと目を輝かせて、透花はぱっと立ち上がる。背中からも伝わるほど、ご機嫌なのが分かった。

佐都子が呼んでくれたタクシーに乗り込んだ透花は、スマホの電源を入れる。
ちょっと引くくらいに通知が入ってきている。もちろん、電話の相手は『纏』だ。うへえ、これはお説教コースだ、とげんなりする。くわばらくわばら、と心の中で念じながらスマホの電源を消そうとした瞬間、メッセージが入る。
相手は、にちかだった。
『さっきイラスト見た。激エモ最高! 出来たらまた、見本品送るね!』
晴れ晴れとしたにちからしいメッセージだった。
ふっと、軽く笑って透花は窓の外を見る。ふと、車のラジオから聞き覚えのある曲が聞こえてきた。
『えー、ただいまお聴きいただきました曲は、今期一番の話題となっておりますアニメの主題歌でした。今回この曲を担当されたシンガーソングライターの『mel』さんは、この漫画の大ファンだそうですよ! つい先日情報が公開された劇場版でも、『mel』さんがEDを担当されるとのことです! いやぁ~楽しみですね~! かくいう僕のこの漫画の大ファンでして、連載が再開すると聞いたときは───』

「お客さん、着きましたよ」
運転手がにこやかにこちらを振り返る。はっと我に返った透花は、料金を支払ってタクシーを降りる。小走りで人混みを縫いながら駆けていく。指定されたビル前で、透花を待つ人影を発見する。
「ご、ごめん! お待たせ!」
「遅い」
腕組をした纏が冷徹な瞳で睨む。
「だから、言ったじゃん。今回は断った方がいいって」
「あーあー聞こえなーい」
「子供か」
「で、でも、間に合ったからセーフでしょう?」
「納期ギリギリは間に合ったって言わねえよ」
「……ごめんなさい」
はあ、とため息を一つ付いて纏は透花の背を押す。
「ほら、行くよ。仕事詰まってんだから」
「はあい」

にこやかに微笑むインタビュアーの妙齢の女性が、メモを片手に頷いた。透花は緊張で視線を右往左往させながら、質問に答えていく。
「それでは、今回発売される画集のタイトルについてお聞きしてもよろしいでしょうか?」
「は、はい」
「ずばり、タイトルの由来はなんでしょう?」
「由来……」
透花は目の前に置かれたコーヒーに視線を落とす。少しだけ思い出し笑いをして、透花は答える。
「わたしにもう一度『創作』をするきっかけを与えてくれた曲が、タイトルの由来です」
「曲ですか?」
「はい。わたしが、まだ中学生の頃に聴いた曲です。その時は、再生回数も10回くらいしかない曲だったんですけど……、それを聴いてわたしは、もう一度『創作』をしてみよう、って思えたんです」
「どんなところに惹かれたんでしょう?」
「それは……、」
言葉を区切り、透花は顔を伏せる。そして、うん、と小さく頷いて答えた。
「誰かに見つけてほしい、って言ってるような気がしたんです」
わたしと同じように、と、透花は照れ臭く頬を赤くしながら付け加えた。



取材を一通り終えた透花は、天井を見上げながら脱力する。柔らかいソファに体が沈み込む。気を張っていたから忘れていたが、連日の作業の疲れがどっと流れて、瞼が重くなる。ついに、瞼が落ちようとしていた時、上から声が降ってきた。
「透花、」
「……んあ」
「ここで寝るな。ほら、コーヒー飲みな」
額に乗せられた缶コーヒーを透花は受け取る。
指先に全く力が入らなくてプルタブに苦戦する透花の前に、すっと何かが差し出される。目を瞬かせて、透花は隣に座った纏を見る。
「何これ?」
「匿名希望さんからのファンレター」

「と、とくめ? ……あ、ありがと?」
いつもなら纏めて渡してくれるのに、と疑問に思いながら透花はそれを受け取る。確かにファンレター先の住所が書かれているが、差出人の名前はない。閉じられた封を開けて、透花は中身を確認する。入っていたのは手紙ではなかった。
ちょこんと、掌に乗ったそれを見て───透花は息を呑む。
反射的に勢いよく立ち上がった。透花の突然の挙動に特に驚きもしない纏を振り返る。
「わたし帰るッ!」
「りょーかい」
慌ただしく去っていく透花の背中へ手を振りながら、纏は息を付く。
「……貸しイチだな」



立ち上げたPCにUSBを差し込んだ。
USBに保存されていたのはmp3ファイルと、テキストデータのふたつ。それは、まるで、5年前の再演みたいだった。
透花は、mp3のファイルをクリックする。
数秒のタイムラグの後、曲が流れ始めた。その曲を、透花は知っている。6年前の3月5日、電車の中で聴いた『未完成』だった曲を、アレンジさせたものだ。5年間の全てを注ぎ込んだ、渾身の一曲。それはまさしく、『完成』した曲だった。まるで、少年から青年へと成長するように、不完全な青さすら許容して曲の中に上手く溶け込んでいる。
すべてを聴き終えた透花は、静かに息を吐く。いつの間にか、マウスを握る手に力が入っていた。
「……約束、守ってくれたんだ」
今でも色褪せることのない、彼のとの別れ際の約束を透花は思い出す。
『今よりもっと、もっと! いい曲を作って透花に聴かせてやるよ! 約束だ!』───約束通り、『未完成』だった曲を『完成』させられるほど、彼は成長したのだ。
透花は続けて、テキストデータを開く。そしてそのメッセージを読んで、思わず笑ってしまう。
ただ一言、『返事を待ってる』と、書かれていた。
すぐさま透花はスマホを取り出して、返事を打ち込むことにした。


人混みで溢れたターミナル駅の改札をくぐって、目的地である公園へ歩き出す。少し、緊張していた。足元には連日の雨で落ちた桜の花の絨毯で一面埋め尽くされている。通行人は、みな一様に桜の木を見上げて、惚けたように歩いている。

視界の端に懐かしい面影を見つけた。
あの頃より、ずっと伸びた黒髪が風に靡いている。不安そうに背中を丸めて顔を伏せていた少女は、今はもうどこにもいない。ふわり、ふわりと桜が落ちていく様を眺める横顔は、どこか儚げでずっと、見ていたくなる。
律は、一つ深呼吸をして、その背に話しかける。
「透花」
細い肩がぴくりと触れて、緩慢な動作で律を振り返る。そこにあったのは、青だ。いろんなものが変化し、色褪せていく中で、その青さだけは変わらなかった。空の青さを幾重にも重ねたような深く、透き通った青い瞳がこちらを見ている。
「……律くん」
「久しぶり。元気だった?」
「うん。……でも、昨日は緊張して寝られなかったかな」
「それは俺も一緒だ」
くすくす、とふたり顔を見合わせて笑い合う。久しぶりの会話が、心地いい。
「どうだった?」
主語のない律の問いかけが、何を指しているのかなんて、透花にはすぐわかった。ならば、透花の回答は初めから決まっていた。
「あんなの聴かされて、描きたくならないやつなんか、いないよ」
目を瞬かせた律が、照れ臭そうに笑った。
「でた。殺し文句」
「然るべきときまで取っといて、って言ったの、律くんだよ?」
「あは、確かに言ったね」
「これは、わたしからの告白」
透花は手に持ったスケッチブックを律へ差し出す。そのスケッチブックを受け取る瞬間、タイミングを見計らったように、花嵐が吹き荒れる。風に攫われてスケッチブックから幾枚もの紙が舞い上がる。

はらり、と律の足元に落ちた一枚の紙を拾い上げた。
初めて透花の絵を見たときと同じ、期待感が心臓を大きく跳ねさせる。あの頃の何十倍も、彼女の絵に心惹かれていた。どこまでも透き通った、透花らしい優しい青が描かれている。
「……やっぱり、きみがいいよ」
本能が叫んでいた。彼女しかいない、と。
彼女と初めて出会ったあの日、あの時間を再び繰り返すように、律はその一枚を透花に差し出した。
「きみに、もう一度、俺の曲を描いてほしい」
透花は笑う。春の陽光によって煌めく青い瞳から、ひとつ、ふたつ、と涙を零しながら。
そして、受け取ったその紙をぎゅうっと抱きしめて言った。
「喜んで!」



もし音楽で世界が救えるのか、と問われたら、救えない、と答えるだろう。
この世界に無数に存在する『創作』のどれもが、世界を救うなんてたいそれたことができない。たかだか、一つ『創作』が消えたところで、世界は何も困らない。いつも通りの日常を送るのだろう。
それが、『創作』だ。『創作』ほど報われない恋は、この世界のどこにも存在しない。
それでも、僕らは『創作』をする。
『いつか』、きみの心を動かすきっかけになると、信じているから。




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音楽なんかで世界は救えない

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