7月某日、深夜。
『アリスの家』の一室から悲痛な叫び声が響き渡る。

「も、も、もうっ、もうだめだーーー!!」
透花は頭をぐしゃぐしゃに搔きむしった。
前髪を乱雑にまとめ上げていたシュシュが落ちる。愛用のブルーライトカットの眼鏡の下には青白い隈が濃く残っていた。
透花のすぐ近くには、机につっぷしたまま一ミリも動かない佐都子がさながら殺人現場のように気絶していた。机の上に置かれた大量の栄養ドリンクの空瓶が現場の酷さをさらに際立てている。
まさに地獄絵図であった。
「もう無理だああ、締め切りに間に合いませんーーー!!!」
嗚咽交じりの叫びは、夏の短夜の闇とともに溶け込んでいく。
この地獄が生み出されたのは、ゴールデンウイーク後の中間テストを終え、ようやく夏の兆しが見え始めた5月末のことである。


「あーあ。いきなり再生数伸びたりとかさ、現実問題そんな上手くはいかないか」
律がコーラ片手にごちる。向かいに座った透花もまた出来立てのポテトを口に運び、ですね、と返した。
夕方18時過ぎ。
某ハンバーガーチェーン店は部活動を終えた学生や、参考書やノートを広げた学生たちで賑わっている。
透花たちの目の前に置かれたのは、次に動画サイトへアップするため、構想中の曲たちである。
『ITSUKA』。
あの日、雨宮律と笹原透花によって結成された音楽ユニット。律が初めて投稿した際のアカウント名『イツカ』をローマ字に変換して、ユニットとしての名前に改め、2曲目である『消せない春で染めてくれ』をアップしたのは5月末のことである。
それから1週間ほど経った。
結果から言えば、初投稿曲よりは大幅に再生数は伸びた。
1週間にして再生数は6,000回を超え、コメント欄にも感想を残してくれる視聴者がちらほらといる。が、それでも動画サイトに投稿される数多くの曲に埋もれていることは否めない。
「笹原さんの絵と俺の曲合わせて見たときは、めちゃくちゃ興奮したんだけどなー。これは絶対いける! って」
律はがっくり肩を落とした。
「動画のクオリティかー、やっぱ」
「それは否めないです……。フリーの動画編集ソフトじゃ、やっぱり限界ありますし。センスもいるから」
そう。透花たちが一番苦戦したのは、編曲でも、イラスト作成でもなく、動画編集だった。透花はもちろん、律もまたそちら方面はずぶの素人。曲の流れるタイミング、イラストとのマッチ具合、歌詞をどう魅せるのか。人を惹きつける動画というのは、その『魅せる』がうまく嚙み合っていることで生まれる。次の曲に取り掛かる前に解決しなければならない大きな問題を前に、足踏みしていた。
「俺、動画編集とか詳しい知り合いとかいないんだよね。笹原さんはどう?」
「わたしも、……あ」
いないです、と言い切る前に透花の頭の中にひとりだけ思い浮かんだ。
「誰か心当たりが?」
「えーと、んー……」
身を乗り出して期待に目を輝かせる律を前に、透花は口ごもる。彼に協力を仰ぐなら、今透花たちが抱えている問題も一瞬で解決してくれるだろう。それは長い付き合いの透花の折り紙付きだ。しかし、生半可な気持ちで頼るには返り討ちにされること間違いなし、である。
「思い当たる人は、います」
「まじ?」
「が」
「が?」
「……相応の覚悟が必要です」
「うん?」
「……纏くんに協力を仰いでみます」
有栖川纏。透花の幼馴染。
彼の趣味は、動画編集だった。


「ごめん遅れた! 透花……と、誰お前」
次の日。
待ち合わせに指定していたターミナル駅の時計台の前にやってきた、纏の第一声がそれだった。こちらに駆け寄る途中までは、いつも通りだった纏の表情が急に無表情に切り替わったのである。
そして視線の先は、もちろん律である。妙に重い空気が流れていた。纏に至っては毛を逆立てた猫のように威嚇している。
「あ、えっとね、纏くん。この人は、」
「どうも、俺は雨宮律。よろしく」
いつの間にか透花の背に隠れていたはずの律が顔を出す。差し伸べた律の手を、ぱしんと纏は振り払った。
「よろしくしない」
律は落とされた手を擦った。何か思い至ることでもあったのか、ふーん? と語尾を上げて機嫌よく喉を鳴らす。
「はは、初手から横暴じゃん」
「……何なのコイツ。説明して、透花!」
「纏くん落ち着いて、」
「……まさか、僕に相談したいこととコイツが関係してるとか言わないよね?」
「お、察しいいね。その通り。正解」
「お前に聞いてないから。黙れ。てか透花から離れろ」
「笹原さんの近くにいて何か問題でもある?」
「とりあえず、わたしの間で喧嘩するのやめてください……」

何とか纏を説得し、近くのファミリーレストランに押し込むだけで透花の体力は半分ほど消耗していた。重苦しい雰囲気がその卓を包み込んでいた。
これからが本番だというのに、だ。
透花は腹を括り、正面を見据える。纏の殺人的に冷たい目線が透花を突き刺した。普通に怖い。
「で、何? 僕に頼み事があるんでしょ」
「それは」
言葉を詰まらせる透花を見かねてか、隣から助太刀が入った。
「動画を作ってほしい」
「誰が? 何の?」
「俺の曲と、笹原さんのイラストで動画を作ってほしいんだ。MVってやつ」
「はあ? 冗談?」
「本気。笹原さんと1曲作って、もう既に動画サイトに投稿してる。『ITSUKA』って名前で」
「……透花が?」
律の言葉だけでは信じられなかったのだろう、纏は透花を見やった。
「それ、本当?」
「……うん、本当だよ」
纏はしばらく押し黙った後、透花から視線を逸らした。
「そういう、ことか」
「え?」
「ここ最近の透花の様子。ようやく合点がいった。……コイツのせいだったんだ」
「せい、って人聞き悪いな。……で、どう? やってくれるの?」
纏はしばらく思案するように眉を寄せ、それから一つ諦めに似たため息をついた。
「まず、その投稿した曲聞かせて。考えるのはそれからでも遅くないでしょ」
「お、話が早いね」
律はスマホを纏の前に置く。そして、イヤホンを差し出すと、纏はイヤホンをひったくって耳に嵌めた。
そこからが、地獄の始まりである。

動画の再生ボタンを止めた纏はイヤホンを外し、軽い口調で言った。
「まあ、いいんじゃない」
纏にしては柔らかい物言いに透花は肩透かしを食らう。絶対酷評されると思っていたからだ。
透花から心の準備をしておくようにと念押しされていた律もまた、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしている。この反応ならとんとん拍子に話が進むに違いない、と律は期待に胸を膨らませ前のめりになった。
しかし、纏は一瞥したのち、冷めた口調で言い放った。
「──ド素人が自己満でやる分にはちょうど良くて」
ぴしり、と氷がひび割れる音が聞こえた。
「……は?」
「だから自己満でやる分にはいいんじゃないって言ったんだよ」
「は?」
透花は思わず額に手を当てて、項垂れる。やはり、透花の予想通りになった。
「まず、第一に動画のクオリティが低すぎる。よくこれをサイトにアップしようと思ったね。視聴者に再生してもらおうって気概ある? こんなサムネで? 笑える」
「……」
「歌詞フォントクソダサすぎ。透花のイラストの邪魔しかしてない。曲の冒頭と若干ずれてるし、サビの盛り上がりに全然マッチしてない。ねえ、ちゃんと編曲したの? なんかすごいバランス悪くない? やりたいこと詰め込み過ぎて破断してるように聞こえる。二郎系ラーメントッピング全部乗せニンニクマシマシじゃん胸焼けさせたいの?」
「……」
「透花ここの部分描くの絶対3週間以上かかってるでしょ。一枚絵で何秒持たせる気だよ? 動画の意味無いじゃん。相変わらず細部までこだわり過ぎて動画アップするまでの納期伸ばしまくったのバレバレ。そういうとこほんとに悪癖だよ」
「……」
撃沈。その一言に尽きた。
既に透花たちの戦意は完全に喪失している。だというのに、「一番の問題は」と纏は続けて言葉を重ねた。
「なんの宣伝もなしにこれをアップしたことが最大の過失」
「せんでん……?」
動画をアップすることが最終目標だった透花たちにとって、その二文字は全くの頭の中にはなかった。
まさか動画以外のことを指摘されるとは思いもよらなかった。純粋すぎる瞳が4つほど向けられて、今度は纏が項垂れる番だった。
「これだから創作バカは……」
酷い言われようだ、と透花は苦笑する。
「この動画サイトで一時間に何本の動画がアップされると思ってんの? 千本はくだらないわけ。完全なレッドオーシャンなの。ユーザーに見てもらうに一番必要なのは宣伝。次に宣伝。MVの完成度は二の次三の次。まして無名な音楽ユニットがなんの宣伝もなしにここまで視聴されてるのが逆に奇跡だから。自分たちの運と才能に土下座して感謝した方がいいよほんとに」
「なっなるほど……」
すべてを言い切った纏は目の前に置かれたオレンジジュースを勢いよく飲み干した後、かん、と机に叩きつけた。
「総評。サイトにアップすることが最終目標なら、お前らのお遊びに付き合う暇はない」
纏の言う通りだった。ぐうの音も出ないほど。透花たちにとって、曲を作ってイラストを描いてそれを動画にして、サイトにアップする。それだけだった。それだけで完結していた。続きがなかった。纏に自己満と吐き捨てられても否定できなかった。
「──けど」
「え?」
「けど、本気でやりたいって言うなら、お前らに付き合ってやってもいい」
「本当か!?」
「それ相応の覚悟があれば、の話だけど」
纏の視線が透花に向けられた。視線が訴えていた。お前に逃げ出さずに最後までやり遂げる覚悟があるのか、と。こういう時に言質を取ろうとするところが、纏らしい。
覚悟ならあの日、律から紙を受け取ったときにとっくに決めた。この先何があったとしても、描き続ける。描くことしか透花にはできないから。
「覚悟はあるよ。協力してほしい」
纏はうら寂しそうに笑う。
「……透花、変わったね」
ぽつりとこぼした言葉の意味を飲み込む前に、纏は頷いた。
「いいよ。協力する」
契約成立の握手で締め括ろうと纏は律に向かって手を差し伸べた。
今度は振り払われず、確かに握られた手と手。律が納得のいかない様子で、唇を尖らせた。
「話を受けてくれるのは有難いけどさ、あんな酷評しといて協力するのはなんで?」
「そんなの、決まってんじゃん」
纏はにっと年相応に悪戯っぽく口元を上げて、笑う。
「このまま埋もれさせておくには、惜しいなって思ったから。なんか文句ある?」
斯くしてその日、音楽ユニット『ITSUKA』に動画編集兼プロデューサーが一名加わったのである。


纏が『ITSUKA』のメンバーとして加入したその約一週間後。
グループラインに招集命令がかかった。もちろん纏からである。場所は前回と同じく、某ファミリーレストラン。夕方18時過ぎのことである。
「これに応募します」
ばばん。効果音が付きそうなほど大仰な態度で、纏はスマホを印籠のように掲げた。
透花たちがそのスマホを覗き込むと、『集え! 次世代の動画クリエーターたち! 大賞受賞作品には賞金30万円』と描かれたとあるサイトだった。
「なにこれ」
「毎年やってる動画クリエーター向けの賞。僕たちが応募するのはこのMV賞ね。この賞を受賞したのがきっかけでメジャーデビューしてる人もいるくらい有名なやつ。激戦区だよ」
「待って待って。やるの決定事項なの?」
「はあ? 当たり前じゃん」
「当たり前なんだ……」
すんと、表情の抜けた纏が続ける。
「……家に帰って改めて考えたんだけど。お前らには創作する才能以外は期待しないことにした」
「失礼だなお前」
「『ITSUKA』のロゴ作ってない、SNSもやってない、無料サブスクに楽曲アップしてない。セルフプロモーションって言葉、ご存じ?」
「知らねえわ」
「黙れ。クソ律」
「仲いいねふたり」
「透花勘違いしないで。コイツとはあくまで仕事上の関係だから。ともかく! こんなビッグチャンス逃すわけにはいかない!」
机を叩いて立ち上がった纏は、ぐっと拳を握りしめて選挙する議員のように熱く語る。
「お前らの才能で大賞を搔っ攫い、知名度と賞金30万円を手に入れる! その賞金でサイト開設とグッズ展開に充てればその分お金が入る。今以上にクオリティの高いもん作らせてあげるよ、金でね」
「結局金かよ」
「生言ってんな創作バカ。金無くして一定クオリティには担保できない。不足分を補うのはお前らクリエーターの仕事だけどね」
久々にこんなにも生き生きとした纏を見たかもしれない。多少の文句を垂れる律もまた同じように目を輝かせている。もちろんそれは、透花も同じである。
「いいね、面白い。その話乗った!」
「わたしも!」
「話が早くて助かるよ。そうじゃなくっちゃ」
座り直した纏が得意げに説明を始める。
「今回はテーマが設定されてる。そのテーマに沿ってMVを作らなくちゃならない」
「そのテーマは?」
透花が問うと、纏はにんまりと笑って答えた。
「青春」
青春。青い春。
想像しただけで透花の胸が躍った。こほん、と咳払いがひとつ。その音で透花ははっと我に返った。
「けど一つ問題がある」
「問題?」
一呼吸置いたのち、纏はにっこりと笑った。
「応募の締め切りが7月21日。あと一か月しかない」


行き慣れない駅の改札を通って、出口に立つと雨の匂いがした。
肌に触れるしっとりとした重い空気、見上げた空からか細い蜘蛛の糸が垂れ下がってるように絶え間なく雨が降り注いでる。
徒歩で数分程度、まだ眠ったままのネオン街を横切ったその先にジャズバー『Midnight blue』はあった。
店先に置かれた電子看板はまだ点灯していない。
地下へ続く階段を何段か降りると、ウッドドアには『close』のプレートがぶら下がっていた。
「先に入ってていいって言われたけど……」
もう一度律とのラインを見た。
『ごめん少し遅れる。風邪ひくから中入ってて!』とメッセージが書かれている。
透花がドアの前で途方に暮れていると、からん、と控えめにベルが鳴った。
開かれたドアから、背の高い男性がひょこっと顔を出す。着崩したバーテン服にタバコを口に咥えて、気だるそうに頭を掻いている。しばらく見つめあった後、呆けた表情で透花に問うた。
「んあ? どちらさん?」
「あ、あの、えっと、雨宮さんにここに来てほしいと言われたんですが……」
「ん? んー、ああ!」
何やら合点がいったのか、ぽんと手を叩いて透花を指さした。
「もしかして律の彼女?」
「か、かの!? ち、ちち違います!」
「うはは、じょーだんじょーだん。反応いいねーお嬢さん」
出会い頭に面識のないおじさんにからかわれたことだけは理解した。
「どうやら間違えたようです。すいません、さようなら」
「あー待って待って! 律に用があって来たんだろう? ならここで合ってるよ」
早々に立ち去ろうとした透花を引き留めたその男は、咥えたタバコを指で挟んでにっと子供みたいに笑う。
「俺、律の叔父さんだから」

朝川和久、と名乗るバーテン服の男は律の母方の叔父だと説明された。
とりあえず風邪引くから入りな、と和久に案内され、透花は渋々その誘いを受けることにした。嗅ぎ慣れないアルコールのようなつんとした匂い。こぢんまりとした店内には丸いウッドテーブルにイスが数脚、そして何より透花の目を惹いたのは店の奥に置かれたグランドピアノだ。小ステージの3分の1ほど占めており、天井からスポットライトで照らされることでさらに存在感が増している。
落ち着きなく店内を見まわしていると、バーカウンターから和久が顔を出した。
「透花ちゃん、ココア好き?」
「あ、は、はい」
「おっけー」
軽い返事を残して和久は再び奥に引っ込んだ。
未知の空間が落ち着かなくて、視線を泳がせていると……その先に高そうな額縁に入れられた写真が、透花の目に留まる。
古めかしい薄茶色の写真に収められていたのは、ひとりの女性だ。
スタンドマイクの前で、ライトを一心に浴び、艶やかに歌う姿がやけに目を惹いた。
「その人ね、俺の姉貴。んで、律の母親」
唐突に掛けられた声の方を振り返る。湯気の上がるマグカップ片手に、和久は薄く笑った。
「まあ、律がこーんなちっこい頃に亡くなったけどな」
透花は息を呑んだ。
「結構有名なジャズシンガーでさ。俺がここ始めるころにヒットした姉貴の曲が店名の由来なの」
「『Midnight blue』、ですか?」
「そう。よくそのステージに上がって客の前で歌ってた。チビ律もよく夜更かししてここに聞きに来てたよ。あいつに音楽を教えたのも姉貴なんだわ」
「……全然、知りませんでした」
「まあ、あいつ自分のこと喋んの好きじゃねーからな」
『ITSUKA』を結成して1か月と数週間が経つ。思い返せば、律と家族の話をしたことがない。もちろん、自分自身も意図的にしないようにしていた。それは、律も同じだったのだろう。
「透花ちゃん」
名前を呼ばれ顔を上げると、和久は慈しみを含んだ笑みで言う。
「やっぱり、君だったか」
「……え?」
「律のやる気スイッチ入れた顔も知らないお姫さんの正体」
「はい?」
「んーん、こっちの話」
手をひらひらと振り、一人納得した様子の和久は透花の前にカップを置いた。
「君さえ良ければ、律のわがままに付き合ってやって。んで、律の理解者になってくれたら嬉しい。そしたら叔父さん、ちょっと安心できるからさ」
ぽりぽりと頬を掻く和久の言葉に返事を返そうとした、その時だった。

「──ごめん! 遅れた!」
突然開かれた扉から入ってきたのは、律だ。駅から傘も差さずに走ってきたのだろう、髪先からぽつぽつと雫が落ちて、ブレザーの肩の部分に黒いシミを作っている。
「噂をすれば何とやらだな」
「げ。叔父さん。……もしかして、笹原さんと話してたの?」
「積もる話を色々とな。ほらタオル」
タオルを受け取りながら、律は顔を顰めた。
「積もる話ぃ? 笹原さんに余計なこと言ってないだろうな?」
「さあ? それは叔父さんと透花ちゃんの秘密だからな」
和久は肩を何度か捻りあくびを漏らす。
「んじゃ、あとは若人に任せておっさんは退散するわ」
 
静かになった店内で取り残された若人のふたり。律は頭にかぶったタオルでぐしゃぐしゃと搔きまわしながら、透花の顔を覗き込んだ。
「叔父さんと何話してたの?」
「……秘密です」
律が知られたくないだろう話をほじくり返すのは憚られた。透花もまた、容易く誰かに語るには痛々しい古傷を誰かに抉られたくない気持ちをよく知っているから、なお。
「ふうん? まあ、いいけどさ。なーんか疎外感あるなぁ」
全然納得のいっていない律から話を逸らすべく、透花は話を切り出すことにした。
「そ、それより、ここに呼び出した理由はなんでしょう?」
「ふうん……? まあいいや。今日ここに来てもらった理由は、えーっと、あ、あったあった」
律は鞄の中身をまさぐり、取り出だしたキャンパスノートを透花の前に広げた。
五線譜のノートに乱雑に書き綴られたそれが、楽譜だと透花はすぐに気づいた。
「今回は締め切りのことも考えるとイチから作曲する時間もないからさ、描き溜めてたやつ何曲か選別してきた。つっても、枠組みくらいしか考えてないから早く本腰入れて曲作んないとだけど」
「初めて見ました、楽譜」
「殴り書きだから、あんまじっと見られると恥ずかしい」
「わたしが見ても分かんないですよ?」
「笹原さんだって描きかけのラフとか見られたら恥ずかしくなるでしょ。それと一緒」
「あーなるほど」
未完成のものを見られる恥ずかしさは、どんな創作をしていたところで同じなのか、と透花は得心いった。
「ほかの人には絶対見せらんないけど、笹原さんは特別ね」
「そっ、……そうですか」
「俺も笹原さんのラフ見ちゃったから、これでおあいこってことで」
「その話掘り返します!?」
あの日の情景を思い出して透花は恥ずかしさに目を伏せる。透花にとっては忘れてほしい黒歴史でも、律にとってあれほど心打たれた瞬間を忘れるはずもない。くつくつと上機嫌に喉を鳴らして、律は「さて」と振り返る。向けられた視線の行き先はグランドピアノだ。
「こっちきて。笹原さんに聴いてほしいんだ」
透花の手を引いて、律は小ステージへ上る。

ステージに上がると、身が引き締まるような感覚がする。からりとした緊張感が指まで伝わっていくのだ。存外、その感覚が律は嫌いではなかった。
透花をグランドピアノの背無しイスの半分に座らせ、律はその半分のスペースに腰を下す。
譜面台にノートを広げ、鍵盤蓋を上げる。音楽室以外で見たことのない鍵盤を前にして目を輝かせる透花に、律はこほんと一つ咳払いを落とした。
「思いつきで適当にコード組んでるから、あんま期待しないで聴いてね」
滑らかな手つきで鍵盤に指を置く。楽譜をなぞるように優しい音がピアノから零れ落ちていく。律の掠れた低く震える声がハミングで、追随する。
自然と瞼が落ちて、音に集中する。
『青春』。
青春を描くとするなら、わたしは何色の青を手に取るだろうか、と透花は思う。
直視するには鮮やかすぎる青に黒を数滴垂らして混ぜたら、きっと脆くて痛くて苦い味がするんだろう。青春の終わりの、心に穴が開いたような空虚を埋めるなら──朝と夜が曖昧に溶けた境目みたいな紺青が似合うに違いない。
これだ、と透花は確信した。
ゆっくりと目を開くと、じっと透花の顔を覗き込む瞳が三日月のように細くなった。
「どれが描きたくなった?」
透花は広げられた楽譜の中で一枚だけ指さした。
すると律は予想通りだ、とでも言うように満足げに頷く。
「だと思った」
「雨宮さんもこれが、」
「律」
「え?」
「律って呼んで。俺も透花って呼ぶから」
律の瞳があまりも自分を真っ直ぐにとらえるから、逃げようがない。透花は伺うよう恐る恐る口にした。
「……り、つくんも?」
「うん。俺もこれがいいと思ってた。だから、透花と一緒で嬉しい」
透花は何も言わないまま、顔を伏せた。
伏せた彼女の耳が赤く染まっているのには、言及しないことにした。


PCの時刻がすでに23:57を表示していた。
耳につけたヘッドフォンから流れるそれは、永遠と同じところばかりをリピートして、どうやら次の小節を忘れてしまったかのようだ。
だらりと両腕を落として天井を見上げた。
残り、1分。
何杯飲んだか分からないコーヒーの苦さが舌に残留して、いたずらに脳だけは冴えわたらせてくる。誰でもいいから殴って俺を気絶させてくれ、と願わずにはいられない。
死刑執行まで、残り10、9……5、4、3、2、1。

テテテン、テンテテン。
24時ピッタリにスマホから鳴り響く電話の着信音に、律はコンマ一秒にも満たない反射速度で通話を切断した。部屋が静まり返る。まるで大仕事でも終えたように安堵に胸を撫でおろすが、今度は間髪入れずに今度はメッセージの通知音が連投される。
『でろ』『無視したな?』『でろ』『でろ』『でろ』『後悔するよ』
『でろ』『おい』『でろ』『でろ』『見てんのは分かってんだよ』
『でろ』『分かってるよな?』『なあ』
『寝たふりか?』『おい』『でろ』
『でろ』
『でんわ でろ』

「怖えーよ!!」
『シカト決め込むからだろうが。クソ律』
電話口から聴こえてくる纏の暴言に律もすでに慣れつつあった。何せ、進捗確認として数日おきに連絡が入ってくるのだから、嫌でも慣れてしまうだろう。結局ホラー映画ばりの脅しに負け、電話を取ってしまった律は頭を抱える。今日は特に纏の電話をとるのをためらう理由があった。
『で、俺のスケジュールだと今日が曲の完成日だけど?』
「わはは」
『笑ってんじゃねえ。進捗どうなってるか報告しろ』
「進捗だろ? 順調順調」
『お前の言葉は信じない。送れ』
「ほんとに? 怒んない? ぜーったい暴言なしだからな?」
『怒んない』
「ほんとのほんと?」
『あーハイハイ。怒らないから早く送れさもないとぶち切れるぞ』
「初っ端から矛盾しとる……」
これ以上引き延ばすわけにもいかないだろう。律は言われた通り、製作途中の楽曲を音声データに変換して、纏に送る。すぐさま既読が付くと、纏が再生していることが電話口からも伺えた。すべてを再生し終えると、抑揚のない声で纏は言い放つ。
『僕の気のせいかな? 二日前聴いたときから、いっっっさい変わってない気がするんですけど?』
その質問の返答を律はあらかじめ用意していた。
「いや、よーく聴いてみ?」
『……一体どこが変わったんだよ』
「イントロのキーボードに強弱付けた」
纏はもはや返答さえ寄こさなかった。ガチ切れの纏は本当に怖い。律は二の次には「冗談言ってすいませんでした」とガチ謝罪をする羽目になるのだった。

『と、色々茶々入れてきたけど。ここまでの進行の遅れはまだ想定内。まだ巻き返せる』
数日に一回の深夜に開催される進捗確認会は、今宵も纏の独壇場だった。
纏の計算ならまだ間に合う想定だと知り、律は脱力した。
「あー、ひとまずよかったー」
『よくねえ! クソ律、お前の製作遅れは進行に直結すんだよ! せめていい加減、歌詞を決めろ。特に重要なサビが決まんないと、動画制作に差し障んだよ! 後々お前の尻ぬぐいする僕と透花の苦労を考えろ!』
「はい……」
年が4つほども離れた中学生からまともに説教を食らって、反抗できずに撃沈する。
今回応募するMV賞の規定は、2分以内のショートMVが条件だ。
つまり、曲の構成としてはイントロ、Aメロ、Bメロ、サビで終わる。現在律はAメロまで作曲し、肝心なサビの歌詞と盛り上がり部分で行き詰まり、一向に進んでいない状況である。時間にして約30秒程度、完成形の約3分の1までしか出来ていないのだ。
『まあまあ、纏くん。あんまり追い込んでもスピードが上がるわけじゃないからさ』
「と、透花ぁ」
花の優しい声音に律は思わず涙が零れそうだった。連日の徹夜で情緒がぶっ壊れている自覚が律にはあった。
『透花も他人事じゃないけどね』
容赦なくそのフォローも纏はぶった切ったが。
『へ?』
『へ? じゃないから。透花はSNSに乗せるロゴの締め切りが近づいていることお忘れじゃないだろうね? それにクソ律の作曲が完成するの待ってたら締め切りに間に合わないから、同時進行で絵コンテもやんなくちゃならないんだけど? 分かってる?』
『……はあい』
「全方向に辛辣だなお前」
こほん、と咳払いした纏は指示を出す。
『とりあえず透花、今できてるやつのコンテ送って。秒数ズレても修正する暇がないから、クソ律と調整して。クソ律はあと3日で曲を完成させろ。僕はまだ仕事が残ってるからもう抜けるよ』
『……頑張ります』
「はーい」
ぴろん、と軽快な音で通話画面から纏のアイコンが消える。取り残された律と透花が、同じタイミングで息を吐きだしたのが聞こえてきて、互いに吹き出した。
「お疲れ、透花」
『律くんもお疲れ様』
『Midnight blue』の一件から、透花は徐々に律のことを名前で呼び、気安い会話するまでに前進した。纏からのお小言をもらう立場として、運命共同体のようなものだから必然だったのかもしれない。
「俺、纏から電話掛かってくるとめちゃくちゃ心臓バクバクする」
『あはは、めちゃくちゃ分かる』
「纏がいないと、絶対こんなスムーズに進んでないから何も言い返せない。くそー」
中学生とは思えないほど纏の指示は的確で、宣言通り創作以外のすべては纏が担っている。特に時間にルーズな律と、こだわりが過ぎる透花を上手く転がしてスケジュールを調整する能力は圧巻だ。透花とふたりだけならまず、計画が破綻していただろう。
「あーサビどうしよ。マジで全然思いつかん」
『ふふ、お困りですか?』
「頭ン中ぐっちゃぐちゃ」
『では、息抜きなどいかがでしょう?』
「息抜き?」
あくびを噛み締めながら透花に問いかけると、心なしか声を弾ませながら透花は言った。
『明日の土曜日、わたしと青春しませんか?』

──むしろ期待するなと、言われる方ほうが無理だろう。
透花からの、所謂デートのお誘いに思春期健全男子の律が舞い上がらないはずもなく。
何とも言えないむず痒さを抱えながら、買ったばかりのシャツに腕を通し、お気に入りの黒いキャップを被った律は今、全力疾走をしていた。
「律くーーん! もうちょっと速く!!」
数メートル先で大きく手を振りながら、スマホを構えた透花から容赦ない要求が飛ぶ。
騙された、と大声に出したい感情をぐっと押し殺して、律はさらに足を加速させた。自然と息が上がって、顎が上がっていく。
見上げた空は、突き抜けるように高く、目が覚めるほどに鮮明な青だった。

「お疲れ様」
心地よい小川の風を浴びながら休憩していた律の頬に冷たい感触があった。目に掛けたタオルをどかして、死んだ目で見降ろすと、スポーツ飲料を片手に笑う透花がいる。
「ん、ありがと」
律は差し出されたそれを受け取り、遠慮なく口をつけて喉を潤した。横目で透花を見ると、満足げに撮影されたスマホの動画を再生している。半日をかけて撮影されたMV用の資料だ。
「付き合ってくれてありがとう、すごく助かった! やっぱり参考の資料があるとイメージも湧きやすいし。ネットだと探してもしっくりくるのが無くて困ってたんだ」
「そりゃどーも」
そっけなく律は顔を逸らした。いたいけな青少年の思春期心を弄ばれたのだ、拗ねるのは当然の権利だろう。
「……なんか怒ってる?」
「んー? べっつに~?」
「わ、痛い、痛いよ律くん!?」
透花の頭をげん骨で軽くぐりぐりしてやった。もう、と怒りながら乱れた髪を直す透花を見て、いくらか溜飲が下がる。
律が重い腰を上げて地に足をつけたと同時に、どこからか防災無線の帰りのチャイムが聞こえてきた。
「あーもう、18時か。そろそろ帰る?」
律の提案に、透花はパチンと両手を合わせて申し訳なさそうに頭を下げた。
「連れまわしてごめん! 良ければあとちょっと付き合ってほしくて」
おねだりする透花のその仕草が少し可愛くて、律は無意識に頷いてしまった。
「……別にいいけど。……まさか、また全力疾走しろってこと?」
「あはは、違うよ。今日って七夕でしょう?」
「そうだっけ」
「ここからちょっと歩いたところで、七夕祭りやってるんだ」
七夕祭り。そういえば、ここに来るまでの道中、まだ時期的に早いだろう浴衣姿の男女を電車で見かけたことを律は思い出す。
透花は薄く微笑んで、夕焼けの赤よりもさらに頬を紅潮させながら言う。
「青春、の仕切り直しにどうでしょう」

「律くん、こっちこっち!」
ランタンのぼんやりとした火の光があたり一面に広がっていた。
まるで地上の星みたいにゆらゆらと揺れている。異世界にでも飛び込んだような光景に目を奪われていた律は、自分を呼ぶ声に我に返る。溢れかえる人ごみの中で、透花がぴょんぴょんと跳ねて手を上げている。
人の海をかき分けて、透花の元に辿り着くと、興奮気味に仮設テントを指した。
「見て。ランタンに願い事を書いて飛ばすんだって! 折角だしやろうよ!」
「いいよ」
受付の人に数百円を支払い、薄紙のドーム型のランタンと短冊を一枚受け取った。願い事を書いた短冊をランタンに貼り付けて飛ばすらしい。
願い事。いざ短冊を前にすると、律はマジックペンを手にしたまま思い悩む。ちらりと隣を見ると、透花は案外すらすらと短冊に願い事を綴っている。
「なんて書いたの?」
「無事、MVが締め切りに間に合いますように!」
「ふはは、それな」
「纏くんに聞かれたら、何寝ぼけたこと言ってんの? 締め切り通りに完成させんのは当たり前でしょ、って言われるだろうけど」
「似てるわ生意気な感じが」
でしょ、と透花が得意げに笑う。
透花と同じことを書こうかとも思ったが、結局律は全く違う願い事を書き綴ることにした。横から律に身を寄せるように覗き込まれていることに気付いた律は、すかさず短冊を隠す。
「ずるっ! 律くんの願い事も教えてよ。わたしは教えたのに」
「内緒」
「けち」
「言ってもいいの? えっちなお願い事かもよ?」
「は!?」
「はは、うっそー」
「ちょ、律くん!?」
首まで顔を真っ赤にした透花が後ろで抗議の声を上げているのをBGMにして、律は空を仰ぐ。ランタンのリリースまで残り1分です、と雑音まみれの拡声器に通した声が遠くから聴こえてくる。
そろそろ、青春の終わりが近づいている。

さん、にー、いち、ぜろー!
カウントダウンとともに手にしたランタンたちが一斉に解き放たれた。
広大な夜の運河に引き寄せられるように律の願いを乗せたランタンはどこまでも遠く、遠く、何のしがらみもなく自由に天へ上っていく。
「なんだか、ずっと夢を見てるみたい」
「……夢?」
「ここで律くんといることも、みんなで何かを作ってるのも、大変だけどすごく楽しくって、儚い夢みたいで、いつか消えちゃうんじゃないかって、ちょっと怖い」
透花の手が、飛んでいくランタンを追いかけるように伸ばされる。
「……夢じゃない、ちゃんと全部現実だよ」
「ふふ、そうだね。夢じゃない」
透花の溶けそうに白い肌がランタンの淡い光に照らされて、不確かに揺らめていている。
「ねえ、律くん」
服の裾を軽く引っ張られて、振り返ると律は息を呑んだ。
「ありがとう、わたしを見つけてくれて」
夜のすべてを飲み込むほど深く澄んだ青の瞳に、きらりと星が降るみたいに透明な雫が零れ落ちる。
まるで。まるで、今この瞬間のために自分は生まれたのだと言っているようで、目が離せなかった。
その時、律は理解する。
幾度切り取っても色褪せない確かな青を、青春と呼ぶのだと。
ああ。どうか、このまま。
「──このまま、ずっと続けばいいのに」
呟いた透花の言葉が、心に滲んで少し痛い。律はくしゃりと顔を歪ませた。
「……透花」
「ん?」
「……いや。なんでも、ないよ」
律の口から言葉は出なかった。代わりに出たのは、掠れた情けない乾いた呼吸の音だけ。
その願いは、叶えられそうにない。
何故なら、この夢の終わりをとうの昔に決めていたから。


コンビニで買った差し入れは、スナック菓子とチョコレートと栄養ドリンクを数本。
それを引っ提げて、律はスマホの道案内アプリを起動させた。徒歩であと9分ほどの距離に目的地である『アリスの家』はあった。名の通り、絵本に出てくるような可愛らしいモダンな家だった。律は数秒悩んで、玄関のインターホンを押すと、「はいはーい」とまったりした男性の声とともにドアが開く。
柔和な笑みを浮かべた眼鏡の男性は、律を見やるとさらに笑みを深くする。
「いらっしゃい」
「あの、纏……くんに用事があるんですが」
「うんうん、纏から聞いてるよ。どうぞ上がって」
「ありがとうございます」
「なんだか纏も透花ちゃんもすごーく熱くなってるみたいだから、気をつけてね」
「は、はあ……?」
それだけを言い残して、立ち去っていた彼の背中を見送る。
アトリエのドアを開けると、そこには、この世の終末みたいな光景が広がっていた。

「やだやだやだ!! 纏くんの嘘つきぃぃいい!! わたしの好きに描いていいって言ったのに!!」
「だあアホか! 常識の範囲で、締め切りに間に合うならって枕詞があるに決まってんだろうが!!」
「だ、大丈夫やれるから!! わたしちゃんとやれるから!! 心配いらないからぁ!!」
「創作バカのやれる、大丈夫、心配ないは信じねーよ!」
「……どういう状況?」
律の目の前に広がっていたのは、纏の腰にしがみ付くように強く腕を回して駄々をこねる透花と、その透花を引き剝がそうと頭を押さえつけている纏の姿だった。

「まずこれを見て」
すすり泣く透花をその辺に放置して、纏は机の上にノートパソコンを置いた。パソコンを覗き込むと、編集途中の動画が再生される。律の作曲した音楽とともに動画が再生されていく。
「ええっ、すご! やば、めっちゃ動いてる!!」
思わず律は感嘆の声を漏らしてしまった。まだ色付けもしていない原画のみの動画だったが、それでも律は興奮した。絵コンテと打ち合わせで大まかな内容を知ってはいたもののいざ動画にすると迫力が全然違う。
しかし、纏は冷めきった瞳で舌打ちした。
「そこじゃねえよバカ律」
「はあ? なんか問題がある? めちゃいいと思うけど」
「照れるなぁ、えへへ」
「称えあってんじゃねえ創作バカコンビ」
いつもの三倍ほど口の悪い纏に、律は怪訝に眉を寄せた。カルシウム不足……と、いうわけではなさそうだ。
「よく見ろ! 問題大有りだわ!!」
そうして纏が指さしたのは──アニメーションの方、ではなくその外。何も描かれていない真っ白な背景だった。
ふむ、と律は頷く。
「白いな」
「真っ白だね」
「……つまりどういうこと?」
纏はいつも以上の低い唸るような声で言った。
「このままだと締め切りに確実に間に合わない」

七夕祭りの一件から、火のついた律は猶予1日を残し、1分30秒程度の音楽を完成させた。が、それで終わりというわけではなく、あくまでMV賞の締め切りに間に合わせるためで合って、後日フル尺で楽曲を動画サイトにアップする予定なので仕事は続いている。
さて、律が曲を完成させたことで透花たち動画班が本格的に始動し始め、約1週間。
進捗状況は、というと。
「普通に間に合わない。背景が」
三者面談のような重い雰囲気の中、纏が額に手を当てため息交じりに言う。その台詞に透花の細い肩がぴくりと跳ねた。
「なんせ、透花は背景描くの苦手だからね」
「そうなの?」
さらに身を小さくした透花が頷く。
「構図はもう考えてあるんだけど……は、背景だけはっ! どうにもこうにも全然進まなくて! 極力、背景に割く時間が少なくて済むようにやってはいたけど、その……はい」
「だから今回は妥協案として、背景をフリー素材に全差し替えにするって話をした結果」
「あの惨事か……」
一周回って名画みたいな構図だったな、と律は遠い目をする。
「だ、だって、フリー素材を今から探していいものが見つかるわけじゃないし、何よりそんな中途半端なもの作りたくない!」
「作りたい作りたくない、の次元の話はしてないから。締め切りに間に合わなきゃ意味がいないんだよ! それとも、寝ずにぶっ続けで描けば間に合うとでも?」
「そ、それはそうだけど! やる、寝ずにやるから!」
「はあ、そんなの無理に決まってんじゃん。今から誰かに外注頼もうにも、納期的に短すぎる上に打ち合わせの時間もないから無理でしょ。ほら、実現不可能だよ。運よく、都合のいい協力者がその辺にでもいない……限り……」
徐々に語尾の薄れていった纏は、そのまま目を大きく見開いて固まった。
「いた」
「え?」
「いたわ!! 都合のいい協力者が近くに!!」
──その緊急会議の一時間後、緒方佐都子が招集された。

緒方佐都子は、透花の幼馴染であり、中学までは同じ学校に通った級友だ。
そして、『アリスの家』でアルバイトとして小学生たちに教える先生兼生徒でもある。そして透花とは間逆に、繊細で緻密な風景画を得意としている。つまり『ITSUKA』の背景美術の担当として、これほど適任な人物はいなかった。

「……そういうことね」
 纏から一通りの説明を受けた佐都子は、合点が言ったとでも言いたげだった。
「納得した。あの時、私に雨宮先輩がUSB渡してきた理由がようやく分かったよ。あと、透花と纏がここ最近、みょーにこそこそ何かしてるなー、とは思ってたけど」
「えっ、気づいてたの?」
「当たり前でしょ? 何年一緒にいると思ってんのよ? お見通しよ、お見通し」
隠してきたつもりだった透花たちは、互いに顔を見合わせあって苦笑する。佐都子は「それでコンテは?」と、透花に向かって手を差し出した。脇腹を纏につつかれたことで、透花は慌てて絵コンテ佐都子に手渡した。
かさり、と紙が擦れる音だけがアトリエに響く。
3人が息を呑んでその光景を見守る。生憎、紙に顔が隠れてうまく表情はくみ取れない。そうして全てのコンテに目を通し終えた佐都子は、紙越しに透花に問いかける。
「……これ、全部透花が?」
「えっ、う、うん。一応」
しどろもどろに透花が首を縦に振ると、佐都子はただ一言「そっか」と呟いた。
しばしの沈黙。いよいよ透花たちの背中に冷たい汗が流れ落ちるころ、佐都子は勢いよく顔を上げた。
「いいね! 面白そう。私も協力するよ!」
「さっ、佐都子~~~!!」
「ちょっ、急に抱き着くな!」
「助かる佐都子マジありがとう」
「うわ、纏が頭下げた! コッワ! アンタたちどんだけ纏に負担掛けたのよ」
「えへへ」
「あはは」
「笑いで誤魔化すな。んで、これはいつまでにやればいいの?」
「2週間」
「は?」
「2週間」
「いや、普通に無理」
しれっと、佐都子が放った言葉に空気が凍った。
「サ、サトコサン?」
血走った視線が佐都子に集まる。その威圧に半ば引きながら、佐都子は戸惑いながら答える。
「だってこれフルカラーでしょ? あと2週間で仕上げるには無理があるよ。どんだけ頑張ってもあと1週間は必要」
「無理じゃん」
「無理だね」
「どっ、どうしよおおおーーーーーー!?」
ようやく見えた突破口が塞がれ、お先真っ暗になった透花が頭を抱える。が、ぽんと優しく手のひらが乗った。見上げると、佐都子がにやりと口角を上げて笑っていた。
「まあ、でも間に合う方法はなくもない」
「まじか!」
佐都子がノートパソコンに表示された動画のバーを動かし、サビ前の部分を指を差した。
「イントロからサビの手前まで全部モノクロにしちゃえばいい」
透花は大きく目を見開いた。なぜなら、全く思いも寄らない提案だったからだ。
「そ。サビ前の一小節に余白入れて、その瞬間にフルカラーになったらエモいと思わない?」
「──いい! めちゃくちゃいい!」
興奮のあまり佐都子の手を握る。想像しただけで心を奪われるに違いないと確信した。
「さすが佐都子! わたしだけだったら、全然そんなの思いつかなかったよ!!」
「……そんなことないよ」
モノクロの作画ならフルカラーより時間も労力も抑えられる。これなら締め切りにぎりぎり間に合う。
「よし。その案、採用でいこう。何としてでも締め切りに間に合わせるんだ。……ファイトォ!」
4人全員が拳を天井に振り上げ、「オー!!」と高らかに声を上げた。


そして、冒頭に戻る。
7月25日。時刻、22時13分。
締め切り3日前である。

「も、も、もうっ、もうだめだーーー!! もう無理だああ、締め切りに間に合いませんーーー!!!」
『アリスの家』の一室から透花の悲痛な叫び声が響き渡る。放り出したタブレットペンが転がり、床に落ちた音がやけに空しい。
すでに夏休みに入って4日目である。
もちろん透花たちも休みに突入したわけだが、長期の休みに浮足立つ間もなく動画制作が大詰めを迎えていた。
優一の計らいで、『アリスの家』で空き部屋一室を借り、ずっと缶詰状態である。夜遅くまで動画制作、家に帰って泥のように眠り、また起きて動画制作。無限地獄だ。
完成が近づくほどに、粗ばかりが目について修正しても修正しても不安が透花の肩に重くのしかかっていく。悪い方に考え出したらキリがない。ペンの進みが遅くなるのも無理はなかった。
「これで本当に……大丈夫なのかな……。いいもの、作れてるのかな……」
「──弱気だね、透花」
落ちたはずのペンを拾い上げる細長い指が見えた。透花が身体を起こすと、そこには緩やかに微笑む律が立っていた。
「り、律くん!?」
「しー。緒方さん起きちゃうよ」
「あ、ご、ごめん。……なんでここに?」
人差し指を口に押し付けた律が、手に引っ提げたコンビニ袋を透花の前に置く。
「バイト帰りに寄ってみた。そろそろメンタルが疲れるころかなーと思って。はい、これ差し入れのアイス」
「わあ、糖分だぁ! ありがとう!」
透花の沈んでいた気分が一気に持ち上がる。
隣で気絶するように眠っている佐都子が、ううん、と唸った。透花は慌てて自分の口に手を当てる。もう一度視線を上げると、くすくすと声をあげずに笑う律と目が合う。
「ちょっと外で休憩しない?」

心地の良い清涼感のある風が頬を撫でた。鈴虫の鳴き声が草むらのどこかから聴こえてくる。
真夏の深夜の公園には、人影一つない。昼間の賑わいが嘘のようである。ブランコに腰を下した透花は早速差し入れのアイスに手を伸ばす。ストロベリーを選んだ透花は付属のスプーンて掬って舌の上に乗せた。ほろりと、口の中で甘酸っぱさが平熱に溶かされて消えてく。
「ど? おいし?」
「んーこのために生きてるー! って感じがする」
「ふはは、大袈裟。分からんでもないけどね。俺も曲完成させた後に食べるラーメンが一番好き」
「ラーメンは罪深いね」
何でもないような会話が心地いい。くだらない会話でひとしきり盛り上がって、少しの間が開く。
いきなり、ブランコから律が立ち上がった。重さを失ったブランコがわずかに虚空を漕ぐ。
「……透花」
「ん?」
「透花にだけは、先に言っておきたいことがあるんだ」
「わたしだけに?」
律はひとつ間を置いて、言った。
「来年の3月5日に『ITSUKA』は解散する」
透花は口に運ぼうとしていたアイスを止めて、見上げる。
夜風に攫われた律の黒髪の先が、頭上に浮かぶ月夜のように白金色に染まっている。透花を見つめる瞳が紫がかった透明な瞳が、切なく細められた。
「そうしたら、俺はもう、二度と音楽はしない」
ぽたり、とスプーンから零れたアイスが透花の白い太腿に落ちた。


纏の元に透花から連絡が入ったのは、7月27日、朝8時40分。
MV賞締め切りまで残り、約15時間。
「はっ、はあああああああああああああ!?」
纏は大声大会にも負けず劣らず全力の腹式呼吸で、電話口の相手である透花に叫んだ。
「『ITSUKA』のロゴ差し替えしたいぃいいい!? まじ働き過ぎて頭おかしくなったの透花!? いや、無理無理無理無理ぜえええったい無理!! つか透花まだ終わってないカットがあるじゃん! そこまでして変更する必要ないでしょ!!」
『どうしても、どうしても、変えたいの!! あげてないカットはちゃんと間に合わせる! 纏くんっ、一生のお願い!』
電話越しからでも分かる透花の迫真の声音に、纏はぐっと喉を詰まらせる。
ここでロゴを変えたところでMVに大きな影響があるわけでもない。まして残り時間は15時間。動画はまだ未完成。残すカットがラストのフルカラー部分であること。普通に考えて、ここは透花の意見を無視して動画を完成させ締め切りに間に合わせることが最優先だ。……だと、言うのに。
纏は頭をぐちゃぐちゃに掻きまわして、腹に溜まった鬱憤を吐き出すように声を荒らげた。放り出していたスマホを耳に押し当てる。
「……分かった。今日の22時まで待つ。それ以上は待てないからね」
『ま、纏くん……!』
「あーもう泣きそうになってる暇あったら、早く作業に取り掛かれ」
『うん、うんっ。わがまま聞いてくれてありがとう! 纏くんほんとに大好き!』
ぷつっと一方的に通話が切られた。取り残された纏はしばらく放心した。
意識を取り戻すと同時に熱くなっていく頬に手を当てる。冷たい手のひらがじんわりと頬の体温に馴染んでいく。
「……時々、僕の気持ち分かってて言ってんのかと思うよ、ほんと」
プロデューサーとしては失格だな、と纏は苦笑いした。


慰労会用のお菓子とジュースを近所のスーパーでたんまりと買い込んだ佐都子と律が、『アリスの家』に着くころには太陽は鳴りを潜めて、すっかり夜も更けていた。
時刻は21時45分。
纏のスケジュール通り、最終チェックが行われる予定時刻である。
「……なんだって?」
まだ聞き間違いの可能性がある、むしろそうであってくれと心の底から願いながら佐都子は問うた。数秒前に爆弾発言をしたはずの纏は、憎たらしいほどいつもと変わらない顔つきで繰り返す。
「MVはまだ、完成してない」
「いやいや何で!? 完成予定20時でしょ!? 今21時半過ぎよ!? 完成してないって何!?」
「あーもう! だからっ、今朝、透花から連絡があったの!! どうしても、『ITSUKA』のロゴを差し替えたいってね! 今日の22時までに完成させるからって!」
佐都子の影に隠れていた律は、纏の言葉にただひとり声を呑む。
あの夜の律を見つめる見開いたあの青い双眸を思い出さずいられない。間違いなく、透花の行動に律が関係している。けれど、それがどうしてロゴを差し替えに繋がるのか、思い当たるところは何一つない。
突き刺すような視線を感じて、律は顔を上げた。
佐都子の背中越しに纏がじっと見ていた。心の中まで見透かすような強い眼差しだ。
視線が絡み合っていたのは1秒にも満たないほんの一瞬。
先に逸らしたのは纏の方だった。まるで、お前のせいかよ、と律をあげつらうような舌打ちをして。
「……ともかく、あと15分でロゴが来なかったら、差し替えはなしで最終チェックに入るから。締め切りには絶対に間に合わせる」
そう吐き捨て、纏はPCの前に戻った。
誰も一言も口を開くことなく、ただひたすらに透花からの連絡を固唾を呑んで待ち続ける。
21時45分、まだ連絡は来ない。
21時52分、まだ連絡は来ない。
21時57分、まだ、連絡は来ない。
21時59分、残り、40秒、30秒、20秒、10、9、8、7、6。
ぴろん、と纏のPCから通知音が鳴る。皆一斉にPCの画面に顔を近づける。纏が素早くその通知をクリックすると、一枚のPNGファイルが表示された。
これは、透花からの返答だ。そのファイルを見た瞬間に律は理解する。
あの夜、打ち明けた律のどうしようもなく、くだらない我儘に対する返答。真夜中を思わせる深い青さが、直視するには鮮やかすぎて、律は堪えるように目を閉じた。

描く。
描いて、描いて、描いて、ひたすらに描く。
指先の感覚がすでに麻痺していた。握りしめたペン先が己の指先と同化しているような気さえしていた。それでも、描く。描くことだけは絶対に止めない。描き続ける。
残り時間、あと15分。
焦りと不安で納得できるいい線が描けない。何度も、何度も何度も描いては消し描いては消しを繰り返す。じっとりと冷たい汗が頬のラインを沿ってぽたりと、タブレットに落ちる。
残り時間、あと8分。
繋ぎ合わさっていなかった線から色がはみ出る。苛立ちで頭がどうにかなりそうになるのをぐっと堪え、もう一度線を繋ぐ。
残り時間、あと3分。
その線にのせる色だけは初めから決めていた。それ以外は有り得なかった。真夜中を思い出させる暗く紫がかったその青で、塗り潰す。息をすることさえ忘れ、ただひたすらに透花は描く。
残り時間、あと20秒。
画像に変換したそのファイルを『ITSUKA』で共有しているクラウドに移行する。画像が重くて、全くダウンロードが進まない。もう時間がないというのに。焦りが先行して眩暈がした。そしてようやく、ゲージが100%になった瞬間、透花はすでに手元に準備していたスマホから纏に電話を掛けた。
コールが2回なった後、「もしもし」と発する纏の声を遮る。
「今クラウドに上げた! すぐ確認して!」
『22時、5秒前。……よくやるよ、ほんと』
電話口で纏が呆れ半分に笑う。
『今来たデータ即編集して、最終チェックするからすぐにうちに来て』
「分かった!」
透花はイスにかかっていた薄手のパーカーを手に、大急ぎで家を飛び出す。
中途半端に履いたサンダルがすっぽ抜けて、正面から転がりそうになるのを何とか食い止め、足を踏ん張ってさらにスピードを上げる。肩にかかり切っていないパーカーの裾が邪魔くさい。ぐしゃぐしゃの髪の毛が夜風に靡く。
何度も往復しているはずの何でもない道のりが、何にも代えがたく特別輝いて見えた。
不安もある。怖さもある。後悔もある。けれど今はそんなことはどうでもいい。もう止まれないから。
透花は、夏の夜を駆けていく。

「しっ、締め切りは!?」
勢いよくドアを開けた。すると、PCの前を取り囲んでいた三人が一斉に透花の方を振り返った。
イスに座ったまま視線だけ寄こした纏が、はっと鼻で笑う。
「僕を誰だと思ってんの? こんぐらいの修羅場なんて余裕だわ。舐めんな」
「内心ちょー焦ってるくせによく言う~。透花の前だからって、カッコつけちゃって!」
「うっさい!」
佐都子と纏とのやり取りに押さえて笑いを堪えていた律は、ふと透花の反応が何もないことに気が付いてもう一度振り返る。
透花は目を真ん丸に開け、呆然と立ち竦んでいた。徐々にその瞳の奥に鮮やかさが戻っていく。安堵が足先まで回り切ったら、辛うじて支えていた膝の力がふっと抜けて、透花の身体はそのままぺたんと、床に尻もちをついた。
「……よ、よか、よかった……」
「透花」
 透花の前にしゃがんだ律が、透花だけに聞こえるよう口を耳に寄せて囁いた。
「……俺の我儘、聞いてくれてありがとう」
触れた吐息に透花は少しくすぐったそうに目を細め、小さく頷く。
「ラーメン」
「……ラーメン?」
「お礼はラーメンでいいよ」
透花はよりいっそう花が咲くように「だって、」と、満面の笑みを浮かべた。
「最後までやりきった後に食べるラーメン、美味しいんでしょう?」
「……うん、奢るよ。とびきり美味いのを」
律は力強く頷くのだった。