彼女の出て行ったドアを見ながら、私は何かの未練を払うようにトレイの上の食べ物を食べ始めた。
エビのフリッターにプチトマトとレタス。ベーグルにハッシュドポテト。
それらは簡素なトレイ上に乗っては居たが、紛れもなく九国さんの味だった。
お父さんとお母さんの血で汚れた手で作ったもの。
そう思うと食べる気も失せてくるが、食べないと負け犬だ。
いつか彼女に復讐する。
それが私の心に火を点していた。
だが、そんな気持ちとは裏腹に目の前の料理を見ていると、昔の記憶が蘇ってきた。
あれは、高校受験の時だったな・・・
当時中学3年生だった私は、第一志望の高校の入試を来週に控えて酷くナーバスになっていた。
目指している高校は俗に言う名門校だが、それだけではなくお父さんの母校だった。
そのため、私もその高校に入って欲しいと言うお父さんの思いがひしひしと伝わっていたのだ。
また、お父さんの知り合いも親子二代であの名門校に、と言う期待で満ちているのが分かり、何とかしてその期待に応えたかった。
そうすればお父さんもお母さんも鼻が高いだろうし、二人を「成金」とか悪く言っている奴らを見返せるような気がした。
普通に行けば間違いなく合格。
先生にもそう言われ、当初は嬉しかったがそのうち「もし、それで落ちたら?」と言う考えが、まるで水に落ちた一滴の墨汁のようにハッキリと、そして驚くほどの早さで心の中に広がった。
それらの気持ちがある夜あふれだし、私は机に突っ伏してそのまま泣き出した。
怖い・・・落ちたらどうしよう。
その時、ドアを小さくノックする音が聞こえた。
私は慌てて涙を拭くと「どうぞ」と声を出した。
ややあってドアを開けたのは九国さんだった。
手には白い大きなお皿を持っており、そこにはココアとクッキーが乗っていた。
「お嬢様。お夜食をお持ちしました。良かったら少し休憩なさってください」
「ありがとう。丁度甘い物が欲しかったの」
私はホッとしながら言った。
ココアの甘い香りが張り詰めていた気持ちを緩めてくれるようだった。
九国さんはニッコリと笑うと、トレイをサイドテーブルに置いた。
「あ、このクッキー・・・」
これは確か、私が以前テレビで見て美味しそうだと言ってた物だ。
「はい。結構な人気店だったようですが、幸運にも手に入りましたので、ぜひお嬢様にと」「有り難う!嬉しい。あ、良かったら九国さんも食べてよ」
「あ、私は結構です。お嬢様の物を頂くわけには」
「いいのよ、少しくらい!ほら、これは命令です」
わざと高飛車な口調で言うと、九国さんは口を手で押さえてクスクス笑った。
「はい、かしこまりました。では・・・」
それから二人でクッキーを食べていたが、ふと九国さんが私を見ながら言った。
「お嬢様、どうかされましたか?」
「え、何が?」
「その・・・さしでがましいようですが、何か苦しい思いをされているのかな、と」
「あ・・・」
しまった。慌てて手鏡を見るとやはりだ。
涙は拭いたけど目は真っ赤だし、腫れている。
「良かったらお話しください」
まただ。
こういう時の九国さんは決まって心が蕩けるような優しい笑顔で言ってくる。
そして、これをやられると抵抗できないんだ。
私は受験に対するプレッシャーの事を話した。
お父さんのためにも絶対合格したい。お父さんやお母さんを馬鹿にする連中を絶対見返したい。そのためには合格しかない。
でも、ここに来て急に不安になってしまった。
あれも出来てない。これもうろ覚えだ・・・
それを思うとたまらなく悔しくなってしまう。あんなに頑張ったのに・・・
すると、聞き終わった九国さんの行動に私は息が止まりそうになった。
彼女は手を伸ばすと、そのまま私の頭をそっと撫でたのだ。優しく何度も。
まるで我が子を慈しむ母親のように。
そして九国さんはささやくように言った。
「お嬢様はお強い方ですね」
「え?そんな・・・強い人がこんなんで泣いたりしないよ」
「いいえ。強いから泣いてしまわれるほど真剣になれるんです。自分の力を出し切ろうという強い気持ちがあるから上手くいかないかも、と涙が出てしまう。それは強い証拠です」
私が・・・強い。
「お嬢様のそういう所を私は尊いと思います。ただ・・・一つお聞きしたいのですが、お嬢様は何故その高校を受けたいのですか?」
「え?さっきも言ったじゃない。お父様の出身校だし、周りを見返したいから」
「はい、それは伺いました。でもそれは『お嬢様のための理由』ではないですよね?『周囲のための理由』です」
あ・・・
私はその言葉になにも返せなかった。
九国さんは私の髪を優しく撫でながら続けた。
「周りのため。それは素晴らしい言葉ですが、反面毒にもなります。そればかり見ていると、自分を見失ってしまう。自己犠牲と紙一重なんですよ。もちろん、人の中で生きてる以上は自分の事ばかり前面に押し出すわけには行きません。ただ・・・どこかに少しだけ『自分のため』を加えてあげて欲しいのです。隠し味程度でも」
「自分のため・・・」
「はい。お嬢様はチェスがたいそうお好きですよね?その受験する高校にはチェスクラブがあるのはご存じですか?」
「え?知らなかった・・・ってかなんで知ってるの?」
「調べさせて頂きました。お嬢様が特に熱を入れて勉強されている所なので。だとしたら、その高校に受かってそのチェスクラブに入りたい。そこで腕を磨きたい、は『自分のため』になりませんか?」
「確かに・・・なる。でもさ、もし落ちちゃったら?」
「その時は、他に受けている高校の興味を引かれるところを見つけましょう。そのために勉強するんです。だって、お嬢様の人生ですから。お父様やお母様、ましてやその嫌な人たちのためじゃない。お嬢様のためにある人生なんです」
そうだ。私の人生なんだからもっと自分勝手になっていいのかも。
そう思うと、気持ちが軽くなるのを感じた。
「有り難う。九国さん」
「いいえ。どういたしまして。お嬢様はその笑顔が一番魅力的ですよ」
魅力的・・・
私は顔が赤くなってしまうのをごまかすように言った。
「九国さんは・・・何かに怖いと思う事ってある?」
「はい。沢山あります。怖くて一歩も前に進めないことも」
「そうなんだ!意外・・・怖い物なしと思ってた」
「私も人間ですから」
「じゃあ、そんな時はどうするの?受験と違って『自分のため』は難しいでしょ?」
「そうですね。そんな時は・・・」
そこまで言うと、九国さんは急にニッコリと笑顔になり、私の両頬をかるくつまんだ。
「笑っちゃいます!こうやって頬をあげてニッコリと」
え?え??
九国さんの突然の行動にオロオロしていると、頬から手を離した九国さんは両手で口を押さえるとクスクス笑った。
「失礼しました。ご無礼を。でも、笑ってごまかしちゃえば何とかなりますよ」
「もう!からかわないでよ!」
私は九国さんの頬をつねりかえそうとしたが、九国さんは笑いながら上手くかわしていた。
「ほら、もう元気になられた。私の言った通りではないですか」
「うるさい!」
笑っちゃいます!か・・・
ふと、我に返り簡素な室内を見回しながらそんな事を思い返していた。
むき出しのコンクリートの壁にはあちこちひび割れが出来ている。
それを見ていると、九国さんの氷のような無表情な顔が浮かんできた。
私は頬をあげて笑ってみようとしたが、それは鏡を見なくても分かるくらい引きつっていた。九国さん・・・なんで。
私は涙が溢れてくるのを感じた。
そして頬を伝った涙が、首元に落ちるのを感じるとそれを切っ掛けにしたように声を上げて泣き出した。
だが、今度は九国さんは来てくれなかった。
エビのフリッターにプチトマトとレタス。ベーグルにハッシュドポテト。
それらは簡素なトレイ上に乗っては居たが、紛れもなく九国さんの味だった。
お父さんとお母さんの血で汚れた手で作ったもの。
そう思うと食べる気も失せてくるが、食べないと負け犬だ。
いつか彼女に復讐する。
それが私の心に火を点していた。
だが、そんな気持ちとは裏腹に目の前の料理を見ていると、昔の記憶が蘇ってきた。
あれは、高校受験の時だったな・・・
当時中学3年生だった私は、第一志望の高校の入試を来週に控えて酷くナーバスになっていた。
目指している高校は俗に言う名門校だが、それだけではなくお父さんの母校だった。
そのため、私もその高校に入って欲しいと言うお父さんの思いがひしひしと伝わっていたのだ。
また、お父さんの知り合いも親子二代であの名門校に、と言う期待で満ちているのが分かり、何とかしてその期待に応えたかった。
そうすればお父さんもお母さんも鼻が高いだろうし、二人を「成金」とか悪く言っている奴らを見返せるような気がした。
普通に行けば間違いなく合格。
先生にもそう言われ、当初は嬉しかったがそのうち「もし、それで落ちたら?」と言う考えが、まるで水に落ちた一滴の墨汁のようにハッキリと、そして驚くほどの早さで心の中に広がった。
それらの気持ちがある夜あふれだし、私は机に突っ伏してそのまま泣き出した。
怖い・・・落ちたらどうしよう。
その時、ドアを小さくノックする音が聞こえた。
私は慌てて涙を拭くと「どうぞ」と声を出した。
ややあってドアを開けたのは九国さんだった。
手には白い大きなお皿を持っており、そこにはココアとクッキーが乗っていた。
「お嬢様。お夜食をお持ちしました。良かったら少し休憩なさってください」
「ありがとう。丁度甘い物が欲しかったの」
私はホッとしながら言った。
ココアの甘い香りが張り詰めていた気持ちを緩めてくれるようだった。
九国さんはニッコリと笑うと、トレイをサイドテーブルに置いた。
「あ、このクッキー・・・」
これは確か、私が以前テレビで見て美味しそうだと言ってた物だ。
「はい。結構な人気店だったようですが、幸運にも手に入りましたので、ぜひお嬢様にと」「有り難う!嬉しい。あ、良かったら九国さんも食べてよ」
「あ、私は結構です。お嬢様の物を頂くわけには」
「いいのよ、少しくらい!ほら、これは命令です」
わざと高飛車な口調で言うと、九国さんは口を手で押さえてクスクス笑った。
「はい、かしこまりました。では・・・」
それから二人でクッキーを食べていたが、ふと九国さんが私を見ながら言った。
「お嬢様、どうかされましたか?」
「え、何が?」
「その・・・さしでがましいようですが、何か苦しい思いをされているのかな、と」
「あ・・・」
しまった。慌てて手鏡を見るとやはりだ。
涙は拭いたけど目は真っ赤だし、腫れている。
「良かったらお話しください」
まただ。
こういう時の九国さんは決まって心が蕩けるような優しい笑顔で言ってくる。
そして、これをやられると抵抗できないんだ。
私は受験に対するプレッシャーの事を話した。
お父さんのためにも絶対合格したい。お父さんやお母さんを馬鹿にする連中を絶対見返したい。そのためには合格しかない。
でも、ここに来て急に不安になってしまった。
あれも出来てない。これもうろ覚えだ・・・
それを思うとたまらなく悔しくなってしまう。あんなに頑張ったのに・・・
すると、聞き終わった九国さんの行動に私は息が止まりそうになった。
彼女は手を伸ばすと、そのまま私の頭をそっと撫でたのだ。優しく何度も。
まるで我が子を慈しむ母親のように。
そして九国さんはささやくように言った。
「お嬢様はお強い方ですね」
「え?そんな・・・強い人がこんなんで泣いたりしないよ」
「いいえ。強いから泣いてしまわれるほど真剣になれるんです。自分の力を出し切ろうという強い気持ちがあるから上手くいかないかも、と涙が出てしまう。それは強い証拠です」
私が・・・強い。
「お嬢様のそういう所を私は尊いと思います。ただ・・・一つお聞きしたいのですが、お嬢様は何故その高校を受けたいのですか?」
「え?さっきも言ったじゃない。お父様の出身校だし、周りを見返したいから」
「はい、それは伺いました。でもそれは『お嬢様のための理由』ではないですよね?『周囲のための理由』です」
あ・・・
私はその言葉になにも返せなかった。
九国さんは私の髪を優しく撫でながら続けた。
「周りのため。それは素晴らしい言葉ですが、反面毒にもなります。そればかり見ていると、自分を見失ってしまう。自己犠牲と紙一重なんですよ。もちろん、人の中で生きてる以上は自分の事ばかり前面に押し出すわけには行きません。ただ・・・どこかに少しだけ『自分のため』を加えてあげて欲しいのです。隠し味程度でも」
「自分のため・・・」
「はい。お嬢様はチェスがたいそうお好きですよね?その受験する高校にはチェスクラブがあるのはご存じですか?」
「え?知らなかった・・・ってかなんで知ってるの?」
「調べさせて頂きました。お嬢様が特に熱を入れて勉強されている所なので。だとしたら、その高校に受かってそのチェスクラブに入りたい。そこで腕を磨きたい、は『自分のため』になりませんか?」
「確かに・・・なる。でもさ、もし落ちちゃったら?」
「その時は、他に受けている高校の興味を引かれるところを見つけましょう。そのために勉強するんです。だって、お嬢様の人生ですから。お父様やお母様、ましてやその嫌な人たちのためじゃない。お嬢様のためにある人生なんです」
そうだ。私の人生なんだからもっと自分勝手になっていいのかも。
そう思うと、気持ちが軽くなるのを感じた。
「有り難う。九国さん」
「いいえ。どういたしまして。お嬢様はその笑顔が一番魅力的ですよ」
魅力的・・・
私は顔が赤くなってしまうのをごまかすように言った。
「九国さんは・・・何かに怖いと思う事ってある?」
「はい。沢山あります。怖くて一歩も前に進めないことも」
「そうなんだ!意外・・・怖い物なしと思ってた」
「私も人間ですから」
「じゃあ、そんな時はどうするの?受験と違って『自分のため』は難しいでしょ?」
「そうですね。そんな時は・・・」
そこまで言うと、九国さんは急にニッコリと笑顔になり、私の両頬をかるくつまんだ。
「笑っちゃいます!こうやって頬をあげてニッコリと」
え?え??
九国さんの突然の行動にオロオロしていると、頬から手を離した九国さんは両手で口を押さえるとクスクス笑った。
「失礼しました。ご無礼を。でも、笑ってごまかしちゃえば何とかなりますよ」
「もう!からかわないでよ!」
私は九国さんの頬をつねりかえそうとしたが、九国さんは笑いながら上手くかわしていた。
「ほら、もう元気になられた。私の言った通りではないですか」
「うるさい!」
笑っちゃいます!か・・・
ふと、我に返り簡素な室内を見回しながらそんな事を思い返していた。
むき出しのコンクリートの壁にはあちこちひび割れが出来ている。
それを見ていると、九国さんの氷のような無表情な顔が浮かんできた。
私は頬をあげて笑ってみようとしたが、それは鏡を見なくても分かるくらい引きつっていた。九国さん・・・なんで。
私は涙が溢れてくるのを感じた。
そして頬を伝った涙が、首元に落ちるのを感じるとそれを切っ掛けにしたように声を上げて泣き出した。
だが、今度は九国さんは来てくれなかった。