「ん・・・はあ」
気を失うのではないかと思うほどの、長い長いキスを終えて唇から離れると、まるでそれを惜しむかのように、お互いの唇から吐息が漏れた。
私の垂れた髪が彼女「九国 里沙(きゅうこく りさ)」の頬に触れる。
九国さんは熱に浮かされたような潤んだ瞳で私をジッと見ている。
その奥にはどんな感情があるのだろう?
恨み?怒り?諦念?それとも・・・喜び?は都合良すぎるか。
きっと沢山・・・自分でも言葉に出来ないくらい溢れているんだろう。
私もそうだから。
でも、どんなに言葉が浮かんでもそんなのどうでもいい。
ただ、彼女に触れて彼女の全てを手に入れたかった。
文字通り身も心も。
もう二度と私から離れないように。
九国さんが顔を横に向けようとしたので、私はまたキスをした。
今度は目を開けたまま。
彼女も薄く目を開けていたが、そこには何の感情もうかがえなかった。
でも・・・ああ、私はそんな黒いガラス玉のようなあなたの瞳でさえも欲しい。
許されるならそのまま口に含んでしまいたい。
胸の鼓動が高鳴り、唇を離さずに両手で彼女の頬を、髪を撫でる。
ごめんなさい。
私は最低の女だ。
もし、3ヶ月前の私が今の私を見たならばきっと、嫌悪感に顔を歪めてそのまま見ないふりをしたはず。
そのくらい、今の私は汚れている。
九国さんを手に入れる代償に私は爪の先から髪の毛一本に至るまでどす黒く汚れてしまった。美しいあなたを手に入れるため。
そう。私は汚れた生き物だ。
でも・・・私だけ?
だって。
あなたは私と同じ女性で。
あなたは私の愛する人で。
あなたは私の元メイドさんで。
あなたは私の両親を殺した人。
私の意識は3ヶ月前のあの日。
焼け付くほどの熱さが残る7月の夜に戻った。

 私「斎木 碧(さいき あおい)」は、通っている高校の1学期の終業式がつつがなく終わり、肩の荷が下りた気分でお父さんの会社の経営コンサルタントで個人的にも親しくしていると言う「遠藤 雄大(えんどう ゆうだい)」さんから誘われてショッピングに行き、目当ての服が買えた心地よさに浸りながら雄大さんの運転する車で自宅に帰っていた。
もうすぐ受験勉強も本格化してくるため、夏休みもしっかり勉強するのだからこのくらいはいいだろうと羽目を外すことにした。
そのため、本当はもっと遊んでいたかったけど、お父さんが家に居るので早く帰ってあげなくては、と思ったのだ。
雄大さんは「なんだよそれ。碧ちゃんってファザコン?」とからかってくるが、決してそういうわけじゃない。
ただ、父は最近仕事で悩みでもあるのか元々料理等家事全般好きなエネルギッシュな人だったが、帰りも遅くて自宅でも書斎に籠もっているので心配だった。
「まあ碧ちゃんのお父さんほどの収入や社会的地位を得ている人はそう多くない。業務上のプレッシャーや忙しさも尋常じゃ無いよ。あれだけ素晴らしい人なら周囲からの信頼も厚いだろうしね」
雄大さんは60歳になる父よりはるかに年下で今年28歳になると言うが、短く切った髪に彫りの深い精悍な顔立ちはまるでスポーツマンのようだ。
雄大さんは笑顔も爽やかで、場をパッと明るくする雰囲気と軽妙な話術、何より知性溢れる仕事ぶりによって両親から深く信頼されており、今ではこうして私の個人的な行事や用事にも付き合ってくれるほどになっている。
私も雄大さんに対してはお兄ちゃんの様な気持ちを持っており、こうして歩いていても家族と歩いているように気が緩んでしまう。
「そんな事・・・ないよ。家ではノンビリしててドジな人だなぁって思うし、お母さんも家事とか何も出来ないし」
「でもいいじゃん。碧ちゃんのとこあの人居るから!ええと・・・」
「九国さん?」
「そうそう!あの凄く綺麗なお手伝いさん」
今度はお父さんの時と違い、雄大さんの言葉を否定しなかった。
むしろ自分の事のように嬉しい。
九国里沙さん。
7年前、まだ私が小学5年生の頃に初めて我が家にお手伝いさんとして来た彼女を見た第一印象は「こんな人、本当にいるんだ」だった。
小柄で美しい栗色の毛を腰まで伸ばし、私の握りこぶしくらい?と思うほど小さな顔には驚くほどの大きいやや垂れ気味だが形の良い瞳。
それとは対照的な小さな鼻と唇。
家族の誕生日になると来てくれる女優さんと比べても遜色ない・・・いや、まるでガラス細工のような儚げな美しさは、もしかしたらああいう人たちにも無い物かも知れない。
そんな九国さんは仕事も完璧で、彼女の作る料理は思わず笑顔になるほど美味しく、掃除は空気さえも一新されたかと思うくらいだった。
そして彼女は、その完璧な仕事ぶりと対照的に、話をすると場の空気をパッと華やかに、あるときは柔らかく変えてくれた。
こんな人とお友達になれたら・・・
そう思いながらも、中々言い出せずに居た。
断られるのが怖かったのだ。
彼女はまさに一流のメイドだけど、そのため私たち家族にも仕事として接しているのかも?と思ってしまい「個人的な交流は禁止なので」と言われそうで怖かった。
なので、せめて・・・
雄大さんに自宅前まで送ってもらった私は、紙袋の中の小さな箱をそっと触った。
九国さん、喜んでくれるかな・・・
買い物の時、見つけたネックレス。
12星座をモチーフにしたメダルネックレス。
以前彼女が射手座だと聞いていたのでそれを。
シンプルだけど一目見て、彼女のイメージにぴったりだと思ったのだ。
そして・・・私も密かに同じ物を買った。
私は乙女座だけど、彼女とお揃いの物を着けられる。
それだけで心が浮き立つようだった。
中々高かったけど、カードで払ってしまった。
彼女の事だから遠慮するだろうけど、いつも頑張ってくれているボーナス!と言って無理矢理渡してしまおう。
このプレゼントが切っ掛けでもし、彼女と個人的に親しくなれたら。
もし、彼女のお家へ遊びになんて行けちゃったら・・・
私はついニヤニヤしてしまい、慌てて周囲を見回す。
良かった。誰もいない。
ホッとしながら私はそのまま門の前で立っていた。
7月の蒸し暑い空気が、体温の上がった身体にたまらない不快感をもたらしているけど、気にならない。
帰ったらすぐに湯船に浸かりたい。
ああ、それよりも先に九国さんへプレゼントだ。
彼女も早く休みたいだろうから。
ダメだな。お父さんが気になるとか言いながら彼女の事ばかり。
身体に滲む不快な汗に辟易しながらも、ほっと軽くため息をついた。
やっぱりこの季節は好きになれない。
玄関の鍵を開けた後、ドアを開けた私は思わず足を止め、その場に立ちどまった。
あれ・・・?
何かが違う。
別に自宅の形や色が変わったわけじゃ無い。
いつも通りに玄関と奥のリビングには灯りが点き、テレビのバラエティ番組らしき笑い声も聞こえている。
でも、何かが決定的に違う。
空気・・・とでも言おうか。
それは私の産毛にいたるまでの体毛を逆立てるほどの違和感だった。
「ただいま!遅くなっちゃった!」
私は必要以上に声を張り上げた。
そうすることで、この違和感が自分の気のせいであると証明したかったけど、返事は無い。
「九国さん、ただいま!」
やはり返事が無い。
どうしたんだろ。みんなもう寝てるのかな?
いや、まだ19時半。いくらなんでも早すぎる。
何より九国さんがこの時間に居ないことは考えられない。
もしかしたら誰か体調でも悪くした?それで病院に行ってるとか?
そう考えて玄関に上がろうとしたが、何故か足が動かない。
そのうち足が震えてきた。
さっきから鼻腔に飛び込んできている匂い。
これは・・・血液の匂い。
「上がるからね!」
自分の家なのに何言ってるんだろ?と内心苦笑いをしながら靴を脱ぎ中に入った。
ドスドスとわざと大きな足音を立てる。
リビングに近づくにつれ血の匂いは強くなる。
私は何故か涙がにじむのが分かった。
自分が知ることになる「何か」にただ怯えていた。
そしてリビングに入った私はそのまま足を止めた。
目の前の景色がフリーズしたパソコンの画面のように見えた。
そこに見えたのは、喉から血を流して仰向けに倒れているお父さんと、胸から血を流した姿で仰向けに倒れているお母さん。
お母さんの近くには刃物が落ちている。
そして後ろを向いて立っている女性。
その人は、栗色の美しい髪を腰まで伸ばした小柄な女性。
黒いメイド服を着ている。
私の脳は目の前の事実を理解できなかった。
自分が天井から自分たちの姿を見ているような気がする。
「九国さん・・・」
声は私の気持ちに反して信じられないほど震えている。
その声が切っ掛けになったのか、目の前の少女はゆっくりと・・・まるで「ギ・ギ・ギ」と言う擬音の似合う機械仕掛けの人形の様に私の方を向いた。
「わ、わたし・・・あなたに・・・買って・・・」
もう、嫌。嫌だってば。
私はしゃくり上げていた。
股の間から生暖かい液体が染み出し、太ももを伝うのが分かる。
失禁してしまったらしい。
子供のようにイヤイヤと首を振る私をあざ笑うように振り向いた九国さんは、いつの間にか・・・瞬きの間に私の前にいた。
そして、私の喉に何かを押しつけている。
それは細長いナイフのようなものだった。
「どうして・・・」
ねえ、九国さん。
私、あなたに渡したい物があるの。
高かったけど、頑張って買ったんだよ。
あなたに似合いそうなペンダント。
いつも我が家に沢山の幸せをくれるから、そのお礼。
お父さんもお母さんもいつもあなたを褒めてるんだよ。
あの人が来てくれて良かった、って。
もちろん私だって。
笑わないで聞いてね。
私、あなたが来てくれてから初めて心からお話しできる相手が出来たような気がしたの。
あなたとだったら、どんな辛いことも笑って過ごせそう。
だから・・・九国さん。良かったらお友達に・・・
「死にたくなければ私と来てください。断ったら・・・」
無表情で話す九国さんの声は今まで聞いたことの無いような、まるで・・・氷のような声だった。