「……もう大丈夫。ごめんね、ありがとう」


 しばらくそのままでいると、次第に直哉は落ち着きを取り戻していった。
何かを考え込んでいたのか、全く喋らずに深呼吸だけを繰り返していた時間もあったため、優恵は直哉の声に心底安心する。


「本当に大丈夫? うち上がってく?」


 つい先ほどまでの優恵なら、そんな提案は絶対にしなかっただろう。
だけど、目の前で何かに苦しんでいる直哉を見たら自然とそんな言葉が口に出ていた。


「……いや、気持ちだけ受け取っておくよ。ありがとう」


 直哉はその気持ちをありがたく思いながらも、今日はこれ以上はやめた方がいいだろうと判断して首を横に振る。


「そう……あ、ちょっと待ってて!」


 優恵は戸惑いながらも、何かを思い出したのか直哉を立たせてマンションの壁にもたれさせて、走って中に入っていく。

 五分ほどで出てきた優恵の手にはミネラルウォーターがあり、


「直哉くん、これ、持って行って」


 と直哉に手渡した。


「え、でも……」

「いいから! まず水分とって落ち着いたほうがいいよ。家にお父さんお母さんはいる? お迎えに来てもらう?」

「なっ……大丈夫だって。そこまで子どもじゃないから」

「でも……すごい冷や汗だったから」


 優恵の心配にもう一度"大丈夫"と伝えて、直哉はありがたくそのミネラルウォーターをもらうことに。
確かに喉がカラカラだし、想像以上に記憶のことでストレスを感じて緊張していたのがわかる。

 キャップを捻って一口飲むと、喉から胃にかけて水が落ちていくのがなんとなくわかるほどだった。


「今日は最後までこんなグダグダで本当ごめん。でも、すごく楽しかった。ありがとう」

「ううん。私も楽しかった。ありがとう」


 結局そのままマンションの前で別れることになった二人は、そうお礼を言い合ってから手をふる。

 優恵はマンションのエントランスの中に。そして直哉は来た道を戻っていく。


「またデートに誘うから!」


 エントランスの中に身体が入る寸前に背中に向かって聞こえたそのセリフに、優恵は一瞬にして全身を固くさせてから急速に後ろを振り返る。

 しかしそこにはもう誰もいなくて、優恵は唖然とする。


(待って? 今日のって……あれって、やっぱりデートだったの……!?)


 デートも知らなかった彼女が、一歩階段を登ったことに気が付いた瞬間だった。