「気づいていたのかい」
「一目みて、と言いたいところですが、八歳の頃から会っていませんしね。最初はわからなかったですよ。悠久の木についてやたら詳しいのと、偽名であることに気づいたら、ようやく記憶の中にある情報と繋がりました」
ははは、と遠慮のなくなった声で母が笑う。
「もう敬語はよしてくれ、我が息子よ。ちなみに私は、すぐお前だって気づいていたよ。自分がお腹を痛めて産んだ子どもだしね。なんだかんだ言って、忘れたくても、忘れられないもんさね」
「その訛りもですかね。若干九州の訛りが出る人だったって、時々親父ももらしていましたし」
「あの人の話はやめてくれ」
「そうだったね。ごめん、母さん」
母が家を出ていったのは突然のことだった。
『男の子だろ。泣いちゃダメだよ』
『元気でね』
あの日、僕がかろうじて覚えているのはこの二言のみで、母はそれ以上何も語ることなく家を出ていき、そのまま帰って来なかった。
大きな荷物を抱えていたことを除けば、『ちょいと仕事に行ってくる』くらいの軽いニュアンスの声で、もう二度と会えないんだという現実を受け入れるまで、多少の時間を要した。
父もそういうところがあったが、母もあまり親らしい親ではなかった。
頭のてっぺんからつま先まで隙なく着飾っている人で、女性らしさを捨てない煌びやかなその容姿に、僕ですらどこか甘えにくいという感情を持っていた。
それでも、唯一無二の母だ。ただ生活をしているだけでも、悲しみはそこここに降り積もる。
母の不在が少しずつ心に傷を刻み、僕が静かに涙したあの日、どこか疲れた顔で、『ごめんな』と寡黙だった父が言ったのだけはよく覚えている。
「しばらく見ないうちに、大きくなったものだねえ」
柔らかい声で母が言う。
母の声、こんな感じだったろうか。記憶の中にある母の声と、六年ぶりに聞くこの声は、いまだにぴたりと一致しない。
「そりゃあ、人並みに成長してるからね」
「言うようになった」
「それで? どうしてこんな場所にいるんだ? この運転免許証は誰のものだ? そして藤原美紀さんというのは誰なんだ?」
「まくし立てるように質問するない。感動の再会もこれまでってか。順を追って説明するから、そう慌てるな」
「僕たちの再会に、感動できる要素があるとでも?」
ふふ、と母が短く笑んだ。
「そういう理屈っぽい話し方は、あの人よりも私に似ているね。血は争えないってか」
母はシニカルに笑うと、意味ありげに一拍置いてこう言った。「私のこと、恨んでいるのかい?」と。それはらしくもなく、憂愁の念が混じった声だった。
「まあ、恨んではいたかな。確かに。僕の視点で見たら、親に捨てられたのと同義なのだし」
母の表情が、少しこわばる。
「でも、親父はあの通りの人だし、うちの祖父母も厳格な人だ。母さんと折り合いが悪いのはなんとなく理解していたし、家を出ていったのも、しょうがないことなんだってそう思ってはいたよ」
うちの実家は、この村に住んでいたころ、神鳴神社の神主一家と親戚筋だったと聞いたことがある。今でこそ、悠久の木の管理に携わってはいないが、悠久の木にまつわる逸話がいくつか伝わっているのも、古い慣習にこだわる厳格な家であるのも、そこにルーツがあるのだろう。
どちらかというと自由人だった母と、そりが合わなかったのはきっと事実。
「なあ。僕って、愛されていたのかな」
何気ない呟きに、艶やかな声が返ってくる。
「愚問だね。自分の子を愛していない親などそうそういない。少なくとも私はそんな親じゃない。みくびるんじゃないよ。私が嫌っていたのは、あの人と実家の人間たちだけさね」
迷いのない、即答だった。
愛していた?
僕を?
僕は、両親から愛されていないと思って生きてきた。
こちらから愛を与えなけば、受け取れないものだと思って生きてきた。
すべて、勘違いだったのだろうか。自分が思うより、僕は愛されていたのだろうか。必要とされていたのだろうか。
『ごめんな』
母がいなくなったあの日。沈んだ声で呟き、うな垂れた父はどんな顔をしていた?
水泳で、『県大会に進めるんだ』と初めて報告したあの日。父は喜んでくれただろうか。
――そうか。よく頑張ったな。その日はあいにく仕事があって、見に行けないんだ。すまん。
「あっ……」
父の言葉が蘇ってくる。こんなことすら忘れていたのかと愕然となる。
「今年の大会で、三位になったんだってな。おめでとう」
「県予選のこと? 確かに自由形で三位になったけど……。え? 見に来てくれてたの?」
「いや、すまん。色々事情があって、見に行けてはいないんだ。けど、以前から新聞で名前を見かけていたからね。こっそり結果だけは確認してた」
母は元々こういう人だ。
自立心が強く、凛とした佇まいを見せる一方で、自分の感情を表現するのが下手だ。
幼かった頃をふと思い出す。祖父母参観のお知らせを僕が持って行くと、『その日はあいにく仕事が忙しくてねえ』などと素っ気ない態度を見せる。そのくせ、参観日が終わったあとで、描いた『母の絵』などを見せると、額に入れて壁に飾る。そういう人だった。
あの額縁はどうなっただろう。
今でもあの絵は、実家の応接間の片隅に飾られているんじゃなかったか?
そうか。親子の絆が完全に切れたと思っていたのは僕のほうだけで、母は変わることなく繋がりを欲していたのかもしれない。
目の下あたりが急に熱をおびてきて、それが、涙が零れる前兆だとわかった。情けない。こんなことで泣くなんて。口だけがパクパクと動く。それなのに、言葉は何ひとつ出てこない。
「まったく会いにいけてなくて、すまなかったね」
母が僕の頭を撫でる。優しい声が僕の涙腺ボタンを刺激すると、瞼が決壊した。
愛されたいともがいていた。役に立ちたい、必要とされたい、という思いが強すぎると指摘もされたし自覚もあった。
でも、それらすべてが杞憂だった。結果だけを見て、僕は愛されていないものだと決めつけ不貞腐れていたから。薄い雲のヴェールが夜空の星を覆い隠してしまうように、負の感情によって大切なモノが見えなくなっていただけだ。素直に受け止められなかっただけで、あるいは知ろうとしなかっただけで、僕は両親から必要とされていた。もしかしたら、もっと色んな人に――
「随分と、乾いた生活をしてきたんだねえ」
「部分的に、母さんのせいだけどな」
「それを言われると胸が苦しい」
「なあ、母さん」
気持ちが落ち着いてきたあたりで尋ねる。
「なんだい?」
「今、幸せかい?」
返事は、なかった。
逡巡する時間の長さが、状況の悪さをおのずと物語る。
「なるほど、やっぱりそうか。朧気ながら、僕の記憶の中に残っているあなたは、現実的で、打算的な人だった。意味もなく、里帰りをするほどセンチメンタルでもないし、他人の運転免許証を持ち歩くような悪党でもない。そろそろ語ってもらえないか? いったい何を隠しているのか」
固い表情から一転、母がふっと相好を崩した。
「それを説明するには、少々長い話をしなくちゃいけない。それでも、いいかい?」
無論、という意志をこめて頷いた。僕の頷きに一瞥で返し、母がゆったりとした口調で語り始めた。
「一目みて、と言いたいところですが、八歳の頃から会っていませんしね。最初はわからなかったですよ。悠久の木についてやたら詳しいのと、偽名であることに気づいたら、ようやく記憶の中にある情報と繋がりました」
ははは、と遠慮のなくなった声で母が笑う。
「もう敬語はよしてくれ、我が息子よ。ちなみに私は、すぐお前だって気づいていたよ。自分がお腹を痛めて産んだ子どもだしね。なんだかんだ言って、忘れたくても、忘れられないもんさね」
「その訛りもですかね。若干九州の訛りが出る人だったって、時々親父ももらしていましたし」
「あの人の話はやめてくれ」
「そうだったね。ごめん、母さん」
母が家を出ていったのは突然のことだった。
『男の子だろ。泣いちゃダメだよ』
『元気でね』
あの日、僕がかろうじて覚えているのはこの二言のみで、母はそれ以上何も語ることなく家を出ていき、そのまま帰って来なかった。
大きな荷物を抱えていたことを除けば、『ちょいと仕事に行ってくる』くらいの軽いニュアンスの声で、もう二度と会えないんだという現実を受け入れるまで、多少の時間を要した。
父もそういうところがあったが、母もあまり親らしい親ではなかった。
頭のてっぺんからつま先まで隙なく着飾っている人で、女性らしさを捨てない煌びやかなその容姿に、僕ですらどこか甘えにくいという感情を持っていた。
それでも、唯一無二の母だ。ただ生活をしているだけでも、悲しみはそこここに降り積もる。
母の不在が少しずつ心に傷を刻み、僕が静かに涙したあの日、どこか疲れた顔で、『ごめんな』と寡黙だった父が言ったのだけはよく覚えている。
「しばらく見ないうちに、大きくなったものだねえ」
柔らかい声で母が言う。
母の声、こんな感じだったろうか。記憶の中にある母の声と、六年ぶりに聞くこの声は、いまだにぴたりと一致しない。
「そりゃあ、人並みに成長してるからね」
「言うようになった」
「それで? どうしてこんな場所にいるんだ? この運転免許証は誰のものだ? そして藤原美紀さんというのは誰なんだ?」
「まくし立てるように質問するない。感動の再会もこれまでってか。順を追って説明するから、そう慌てるな」
「僕たちの再会に、感動できる要素があるとでも?」
ふふ、と母が短く笑んだ。
「そういう理屈っぽい話し方は、あの人よりも私に似ているね。血は争えないってか」
母はシニカルに笑うと、意味ありげに一拍置いてこう言った。「私のこと、恨んでいるのかい?」と。それはらしくもなく、憂愁の念が混じった声だった。
「まあ、恨んではいたかな。確かに。僕の視点で見たら、親に捨てられたのと同義なのだし」
母の表情が、少しこわばる。
「でも、親父はあの通りの人だし、うちの祖父母も厳格な人だ。母さんと折り合いが悪いのはなんとなく理解していたし、家を出ていったのも、しょうがないことなんだってそう思ってはいたよ」
うちの実家は、この村に住んでいたころ、神鳴神社の神主一家と親戚筋だったと聞いたことがある。今でこそ、悠久の木の管理に携わってはいないが、悠久の木にまつわる逸話がいくつか伝わっているのも、古い慣習にこだわる厳格な家であるのも、そこにルーツがあるのだろう。
どちらかというと自由人だった母と、そりが合わなかったのはきっと事実。
「なあ。僕って、愛されていたのかな」
何気ない呟きに、艶やかな声が返ってくる。
「愚問だね。自分の子を愛していない親などそうそういない。少なくとも私はそんな親じゃない。みくびるんじゃないよ。私が嫌っていたのは、あの人と実家の人間たちだけさね」
迷いのない、即答だった。
愛していた?
僕を?
僕は、両親から愛されていないと思って生きてきた。
こちらから愛を与えなけば、受け取れないものだと思って生きてきた。
すべて、勘違いだったのだろうか。自分が思うより、僕は愛されていたのだろうか。必要とされていたのだろうか。
『ごめんな』
母がいなくなったあの日。沈んだ声で呟き、うな垂れた父はどんな顔をしていた?
水泳で、『県大会に進めるんだ』と初めて報告したあの日。父は喜んでくれただろうか。
――そうか。よく頑張ったな。その日はあいにく仕事があって、見に行けないんだ。すまん。
「あっ……」
父の言葉が蘇ってくる。こんなことすら忘れていたのかと愕然となる。
「今年の大会で、三位になったんだってな。おめでとう」
「県予選のこと? 確かに自由形で三位になったけど……。え? 見に来てくれてたの?」
「いや、すまん。色々事情があって、見に行けてはいないんだ。けど、以前から新聞で名前を見かけていたからね。こっそり結果だけは確認してた」
母は元々こういう人だ。
自立心が強く、凛とした佇まいを見せる一方で、自分の感情を表現するのが下手だ。
幼かった頃をふと思い出す。祖父母参観のお知らせを僕が持って行くと、『その日はあいにく仕事が忙しくてねえ』などと素っ気ない態度を見せる。そのくせ、参観日が終わったあとで、描いた『母の絵』などを見せると、額に入れて壁に飾る。そういう人だった。
あの額縁はどうなっただろう。
今でもあの絵は、実家の応接間の片隅に飾られているんじゃなかったか?
そうか。親子の絆が完全に切れたと思っていたのは僕のほうだけで、母は変わることなく繋がりを欲していたのかもしれない。
目の下あたりが急に熱をおびてきて、それが、涙が零れる前兆だとわかった。情けない。こんなことで泣くなんて。口だけがパクパクと動く。それなのに、言葉は何ひとつ出てこない。
「まったく会いにいけてなくて、すまなかったね」
母が僕の頭を撫でる。優しい声が僕の涙腺ボタンを刺激すると、瞼が決壊した。
愛されたいともがいていた。役に立ちたい、必要とされたい、という思いが強すぎると指摘もされたし自覚もあった。
でも、それらすべてが杞憂だった。結果だけを見て、僕は愛されていないものだと決めつけ不貞腐れていたから。薄い雲のヴェールが夜空の星を覆い隠してしまうように、負の感情によって大切なモノが見えなくなっていただけだ。素直に受け止められなかっただけで、あるいは知ろうとしなかっただけで、僕は両親から必要とされていた。もしかしたら、もっと色んな人に――
「随分と、乾いた生活をしてきたんだねえ」
「部分的に、母さんのせいだけどな」
「それを言われると胸が苦しい」
「なあ、母さん」
気持ちが落ち着いてきたあたりで尋ねる。
「なんだい?」
「今、幸せかい?」
返事は、なかった。
逡巡する時間の長さが、状況の悪さをおのずと物語る。
「なるほど、やっぱりそうか。朧気ながら、僕の記憶の中に残っているあなたは、現実的で、打算的な人だった。意味もなく、里帰りをするほどセンチメンタルでもないし、他人の運転免許証を持ち歩くような悪党でもない。そろそろ語ってもらえないか? いったい何を隠しているのか」
固い表情から一転、母がふっと相好を崩した。
「それを説明するには、少々長い話をしなくちゃいけない。それでも、いいかい?」
無論、という意志をこめて頷いた。僕の頷きに一瞥で返し、母がゆったりとした口調で語り始めた。