一人増えて、一人消えた。ただ、それだけの夏の日の話。

 神とはどんな存在であるべきか、汝は考えたことがあるか?

 ひとつ。神とは概念であるべし。
 ひとつ。神とは崇拝の対象であるべし。
 ひとつ。神とは畏怖の対象であるべし。

 神とは人間を超えた存在。決して、人と同じ場所に立ってはならぬのです。
 情や、欲に溺れることなかれ。
 さすれば汝。神の力を失うことになるぞ――。


 
 これはあくまでも仮定の話である。
 あの老婦人が夏南の姿を見える人間だったとして、『亡くなった夫と再び会いたい』と願ったとする。そうして戻ってきた夫と婦人は二人で暮らしたが、ある日、夫が故人であることを誰かに指摘された。矛盾が認知されたことで、奇跡がその瞬間解除されたとしたら? これで一応、物語としての辻褄はあう。これと同じことが、光莉にもいえるのではないか? 願い事をしたという事実を、忘れているだけなんじゃないかと?
 だとしても、疑問はいくつも残る。
 では、光莉の身に何が起きたのか。起きたとして、彼女は何を願ったのか。そしてなぜ、夏南の姿が光莉に見えていないのか。
 それとこれと、一人増えたというこの超常現象に、どんな繋がりがあるというのか。
 ――ダメだ。
 さっぱりわからない。
 結局、すべては仮定の域を出ないのだ。
 鼻歌を歌っている頭上の夏南を、恨めしそうに仰ぎ見た。
 思わせぶりなことを言って、ややこしくしやがって。コイツ絶対いまの状況を楽しんでやがる。



 光莉の自転車が、どうしてあんな場所にあったのか。
 こそげ落ちることのない違和感が、ずっと頭の中にあった。
 四人の間に横たわっている重苦しい空気を払拭したのは、妙に明るい声の真人だ。

「アイス買ってくりゃ良かったなー」

 樹木が密生している登山道なのだから、直射日光が当たらないだけマシだと言えるがそこは七月の炎天下。ただ歩いているだけでも額に汗がにじんでくる。

「まあね。このうだるような暑さじゃその気持ちもよくわかる。でもさ、アイスって食べたあとに喉が乾くから水分補給には向いてないんだよ」

 そう返した涼子の首筋にも、玉のような汗が浮かんでいる。彼女はクールな性格なので、いまいち汗が似合わない。

「そうなの? だって、水の塊じゃん」
「と、思うでしょ? ところが、アイスに含まれている水分量は、じつのところ七割ほどなんだって。それに、糖分を接種することによって血糖値が上がってしまうから、それがもとで結局また喉が乾いてしまうんだってさ」
「なるほど。結局、水と塩分を一緒に摂るのが一番か」
「うん。でも、塩分も摂りすぎると喉が渇くらしいしほどほどにしないと。塩分を摂取するべきと言われているのは、汗を大量にかいたとき、体内の塩分も一緒に失われてしまうから、が理由だったはず」

 クスッと笑いながら、光莉が真人にスポーツドリンクのペットボトルを差し出した。「飲む?」

「こういうマメなところは、さすが光莉って感じだよな」

 ありがと、と受け取って、即座に真人の動きが止まる。ペットボトルの栓はすでに開いていた。

「いいの?」
「え、何が?」

 意味がわからない、と言わんばかりに、光莉が真人を凝視する。

「あ、いや、なんでもない」

 真っすぐ見返してきた瞳にいたたまれなくなったのか、真人は控え目に一口だけ含んで、すぐペットボトルを返却した。
「もういいんだ?」と笑った光莉の頬に木漏れ日が落ちて、じめっとした空気のなかでも涼し気だ。陽光を反射して煌めいたペットボトルは、光莉の穢れの無さを象徴しているようだ。
 光莉はこういうところがある。鈍感というか、無垢というか。無自覚なのも、時として残酷である。

「さあさあ、アイスなんて贅沢品のことは忘れて、みんなできりきり歩く歩く。無駄な出費を抑えられたと思えば、まあ、いいじゃない」

 涼子のポジティブシンキングに、しかし、仏頂面になったのは真人だ。

「そりゃあ涼子はいいよな。金持ちなんだから、無駄遣いしたって怒られないだろうし」
「ちょっと待ってよ。いまそんな話はしてないでしょ? そうやって金持ちだからって私のこと羨むけど、(うち)は厳しいから全然自由になんてさせてもらえない」
「どうだか。そういうのはな、贅沢な悩みって言うんだよ。それにな、自由にならないのなら俺だって同じだ。家の仕事を継がなくちゃならんから、将来だって選びようがないし」 
「あら? 安泰でいいじゃない? 世の中には仕事をしたくてもできない人が一杯いるんだし、そういう人達から見れば、それだって贅沢な悩みなのよ? だいたい私だって進学先が――」
「もうそんくらいにしておけよ」
「喧嘩はやめようよ」

 見かねた僕と光莉が、ほぼ同時に突っ込んだ。
 正直、真人が嘆きたくなるのもよくわかる。厳格な家に生まれたがゆえに、自由にならない涼子の不満も。が、光莉の表情が沈んだことは見逃せなかった。
 光莉は心臓に病を抱えている。この先どうなるかわからない彼女の視点で見ると、安泰な将来の話を不満げに語るこの流れは少々酷だ。
 そこに気づいたのだろう。
 涼子も真人も、殊勝な態度で頭を下げた。「悪かった」と。
 真人が、頭上の夏南と光莉にチラっと一瞥したのち、歩調をわずかに緩めた。体力のない光莉を気遣って、ここまで休み休みの道中だったが、そういう気遣いとは違うようだ。
 光莉と涼子が先行する格好となり、ごく自然に真人は僕の隣に並んだ。

「なあ」と真人。
「なんだよ」
「お前が医者を目指しているのってさあ。光莉のためなのか?」

 あらぬ推察を許したようで、返答に窮する。
 そうだ、と言えなくもない。同時に、そんな大それたことを言えるほどの人間じゃないことも心得ている。
 通い始めた塾で、初めてとなる『定期実力テスト』なるものを受けた。読んで字のごとく、志望している高校への合格基準にどの程度近づいているのかを推し量るものだ。
 先日戻ってきた結果は『D判定』。
 まだまだこれからだよ、と塾の講師には言われたが、自分なりに予習復習をしっかりやって、準備万端挑んでこの程度だったので、実際落胆が大きい。
 祖父に、『医者になりたい』と夢を語ったのは二年に進級したころか。父の病のことを知っていたのもあるし、「そうかそうか」と二つ返事で了承してくれた。「それなら、いい塾がある」と紹介してくれたのも祖父だった。
 夢を叶えるためには、高校どころかその先に控えている大学進学のほうがもっと難関だろう。
 こんなところで躓いているようでは、という焦りが正直ある。受験までまだ一年ある、なのか、それとも一年しかない、なのか。
 胸を張り、夢を語ることができない体たらくな自分がもどかしい。

「そう、と言えば、そうなのかもな」
「なんだ、歯切れ悪いな」
「うん。ほら、さっき親父の話をしただろう?」
「ああ」
「親父の病の兆候を見逃していたのは、確かに僕の問題だ。だからといって、僕にどうにかできたか、と言われたらそんなのわからないし、兆候がわかっていたら救えた、なんて思い上がるつもりもない。それでも、そんな体験をしたからこそ、自分の手で、ひとつでもいい、誰かの命を救える人間になりたいんだよ。そういう感じかな」
 
 もちろん、可能であれば光莉のことだってどうにかしてやりたい。
 だが同時に思うのだ。光莉のため、と思うこの気持ちは、自分の中に巣くっている共依存性(きょういぞんせい)なのじゃないかと。与えることで、自分が満たされようという下賤(げせん)な考え。それだけに、光莉のためだと口にするのははばかられた。第一今の僕に、光莉に希望を抱かせるだけの力なんて無いのだし。

「そっか」と小声で真人が呟いた。「ほんと、お前には敵わないよ」

 よーし、そろそろ休憩にしようかー、と光莉の様子を確認しながら真人が号令をかける。
 時々意固地になることもあるが、アイスの話題にしてもそうだ。沈んでいた場の空気を察し、さり気なく変えてしまう気配りを真人はできる。

「敵わないって思っているのは、むしろ僕だってだよ」
「だから、光莉に告白しろって煽っているのかい?」とここまで大人しくしていた夏南が話しかけてくる。
「違うともそうだとも、言えないかな」
「ボクの口真似とか、趣味が悪いねえ」
「お互い様だろ?」

 まあ、僕の気持ちは、もうちょっとのあいだ伏せておくさ。



 歩いているうちにせせらぎの音が聞こえてくる。耳を澄ましてやっとだった音が、さらさらとしたざわめきのような水音に変化し、やがてしっかりとした質量をともない鼓膜を叩いた。
 道の両側に木々が立ち並んでいるが、左手側は斜面のようになっている。どうやらこの下に川が流れているらしい。音がどんどん大きくなってくる。

「川、流れているみたいだな」と真人が言った。

 小川だと思っていたが、意外と大きな川かもしれない。
「この辺に、川なんてあったっけ?」と返すと、「ほら、私たちが時々泳いでいるあの川の源流が、この山の中を通っているんだよ」と市議会議員の娘らしく、地理に博識な涼子が答えた。

「川かあ、嫌だなあ。蚊がわいてきそう」
「ほら! すぐ後ろにでっけえアブが!」
「わっ、やだやだどこにいるの!?」
「なーんて、嘘ぴょん」

 虫嫌いの光莉を真人がからかうと、「もうそろそろだったかな」と夏南が突然言った。

「だからいきなり喋るなって」
 
「ん、誰と話しているの?」と首を傾げてから、「ああ、そっか」と光莉が得心顔になる。足を止めた涼子も僕の――というか、夏南を睨んでいるつもりなのだろうが、残念ながら少々的が外れている。
 やっぱり二人に、夏南の姿は見えていない。
 そんな二人を他所に、夏南はスイーっと前方に移動していって、左手にある斜面の下を指差した。

「ここが、ボクが見せたかった場所の()()()だよ」
「なんだって?」

 夏南の姿が見える真人が、後をついていく。そこは、何の変哲もない登山道の一角に思えたが、斜面の方に体を向け立ち尽くしている真人の側まで行って気がついた。
 足元が崩れている。
 左手斜面側の登山道が一部崩れており、道幅が三割ほど狭まっていた。
「足を踏み外したら危ないよなあ」と隣の真人に声をかけるも目が合わない。驚きの顔で固まっている彼に釣られ、僕も崖下を見た。
 最初は、よく見えなかった。
 土砂が崩れた痕跡が、斜面のずっと下まで続いている。やがてそれは崖下に突き当り、川岸のところで盛り土になっていた。下草や木々が生い茂っていて、正直見通しは悪い。
 ちょうどその時、光莉が息を呑む音で僕はそれを見つける。盛り土の中心あたりから、細長い何かが突き出している。

 ピンク色の、複雑に折れ曲がったそれは――傘だ。

 息が止まる。
 傘があるということは、誰かがここを滑落した可能性があるということ。
 涼子が「ひっ」と短く悲鳴を上げた。
「あれ、傘だよな」と言った真人の目が泳いでいる。
「ああ、そうだな」と相槌で返す。
「誰か、ここを滑り落ちていったのかなあ?」

 僕が飲み干した台詞を光莉が代弁した。まさか、と言いたいのだが、否定する材料が見つからない。じゃあ、なぜあの場所に傘がある? という自問に対する答えが浮かばない。
 震える瞳。血色の悪い頬。光莉はただでさえ色白なので、いつも以上に顔色が悪く見える。だが、それ以上に顔面蒼白なのが涼子だ。

「バカなこと言わないでよ。そんなわけ――」
「ないって、言い切れるか? 斜面が崩れた跡があって、下には傘があるんだぜ? 普通に考えたら、これは雨の日に誰かが落ちた痕跡だろ」

 真人の声に、しかし涼子は何も言い返さない。

「もしかして、埋まってるとか」

 最悪の予想を光莉が口にすると、稲妻に打たれたように真人が動いた。

「そ、そっか! 万が一、土砂の下に人が埋まっていたら大変なことになる。た、助けなくちゃ」
「落ち着けよ。助けるったって、どうやってあの場所まで行く気なんだ?」

 登山道から盛り土のある川岸までは、少なく見積もっても三十メートルほどの高低差がある。そのうえ、途中から断崖絶壁もかくやの急こう配なのだ。
 とてもじゃないが、命綱なしで降りるのは不可能だ。

「それにさ、土砂の量はそんなに多くない。人間一人覆い隠すほどじゃないと思うんだ」
「ここから見て、何がわかる? もし、本当に人が埋まっていたとしたら、お前、責任とれるのかよ!」
「だから落ち着けって言ってるだろう。どうやって降りるつもりなのかもだけど、途中からほぼ垂直の崖になってんだし、降りたが最後、上がってこれないぞ? たとえ誰かが埋まっていたとしても、引き上げる方法だってない」
「……」

 冷静にそう返すと、真人は苦虫をかみ潰したような顔になる。その時、おずおずと光莉が手を上げた。

「なんかさ。あの傘、私が持っている物と似てるかも……」
「そんなわけないでしょッ! だって、光莉はここにいるんだし!」

 光莉の発言もだが、それ以上に、被せ気味に叫んだ涼子の剣幕に驚愕した。

「涼子……、どうしてそんなにムキになってんだよ。確かに、同じようなデザインの傘なんていくらでもあるだろう。それに」
「それに?」
「いや」

 光莉の傘であるはずがないんだ、と言いかけて、台詞が喉元で急停止した。
 それは、本当か?
 山の麓にあった、光莉の自転車。光莉の持ち物とよく似た傘。そして、夏南が俺たちを呼んだ理由が、この崩落現場を見せることなのだから、この三つには密接な繋がりがあるってことなんじゃ?
 みんなが同じことを思っているのか、一様に口を開かなくなってしまった。

「なあ、夏南」
「なんだい?」

 この場所に、僕たちを連れてきたのは他ならぬ夏南だ。
 神様に対してこんな質問をするのは、バカげているとも野暮だとも思う。だが、絶対に彼女は何かを隠しているんだ。

「夏南。お前、なんか知ってるんだよな。知っているから、僕たちをここに呼んだんだろ?」

 逸らされることのない、黒曜石の瞳。漆黒の瞳のその奥に、深い悲しみが横たわっているように見えた。
 なんで、そんな顔するんだよ。

「そうだね。知っているかどうかと問われたら、知っている事柄がある。だからこそ、君たちをこの場所に導いたんだしね」
「いい加減に、ハッキリ言ってくれよ!」

 苛立ったように、真人が声を荒げた。「そんなにでかい声をだすなよ」と諭しても聞く耳を持たない。

「お前が現れてから、本当にろくなことがないな。……まるで疫病神だよ」
「疫病神、か。そんな風に言われちゃうのも、まあ、無理はないのかもね」

 寂しげな声とともに、夏南が遠くの山々を見た。
 しかし、彼女の瞳に映っているものは、眼前にある山や木々の景色ではなく、もっと遠くにある何か、という気がした。
 彼女は、何か言えない事情を隠していて、そのことで胸を痛めているんじゃないのかと。
 そう感じてしまうのは、父のことで、呵責(かしゃく)の念にとらわれている僕だけなのだろうか。

「でもね、これだけは教えてあげる」

 夏南が自分の右手を、スッと僕に向けて真っすぐ掲げた。
 その意図を察して左手を重ね合わせると、夏南の姿が見えたのだろう。光莉と涼子の視線がひとどころに集まった。

「真実の部分を語ることはできない。伝えてはいけないのが、神としてのルールでもあるから。あくまでもそこは、君たちの手で知って欲しい。真実に、たどり着いて欲しい。でも、これだけは言っておこう。崖の下に、死体なんてないよ。だから、余計なことに気をもむ必要はないんだ」
「それ、本当なんだろうな? 信じて、いいんだろうな?」

 安堵、というにはほど遠い、なんとも名状しがたい表情で真人が言った。
 涼子も、光莉も、真剣な眼差しで夏南の顔をじっと見据える。

「うん。本当だよ。約束する」
「そうか、わかった。今は一先ずお前のことを信じるよ。それで、俺たちはこれからどうしたらいい? ここが目的の場所であるなら、もう下山してもいいのか?」
「ボクはとやかく言える立場ではないが、ここまで来たついでに、もうひとつ頼まれてくれないだろうか? 悠久の木がある場所まで、行ってほしいんだ」

 あらたまって頼み事だなんて、夏南にしては珍しい。
 横暴で。勝手気ままで。女子高生のような見た目通り、自由奔放な性格をしているのが夏南だ。
 仮にも神という存在である彼女が、ヒトに頭を下げるところなんて見たことがない。
 読点が三つ並ぶくらいの時間黙考したのち、真人が頷いた。

「乗りかかった舟だ。今さらどうということもないさ。だが、こちらからもひとつだけ質問だ。その願い事を聞くことで、真相に近づくことはあるのか?」

 増えたのが誰か、という表現を真人は避けた。
 この先消える人物を薄っすらと予見し、話題を逸らしたようでもあった。
 夏南は二回、瞬きをしてから、「近づく」と明白に宣言した。

「わかった」

 手短にそれだけを告げ、ジャリっと音を立てて真人が一歩踏み出した。
 表情を崩すことなく、その後ろに続いたのは涼子。僕と夏南とに一瞥をくれたのち、光莉もまた。
 こうして、僕たち四人は再び歩き始める。
 ムードメーカーである真人が口を噤んだままの行軍は、空気も足取りも重く感じられた。



 崩落のあった現場から悠久の木がある場所までは、そう遠くなかった。
 鬱蒼と生い茂っていた針葉樹が途切れると、森の中を切り取ったように開けた空間が現れる。
 左右に視線を配ると、木々の隙間から民家らしき建物がいくつか見える。木造建築のそれは、しかし、窓ガラスが所々割れていた。建物の周辺も庭先も雑草だらけで、人が住んでいる気配はない。

「一九九〇年代の半ばまで、この場所には百人近い人が住む集落があったんだよ」

 老朽化の激しい二階建て家屋に目を向け言うと、「そうなんか」と真人が反応した。

「わりと最近まで人が住んでいたんだなあ」

 ははは、と僕は笑った。

「三十年ほど前の話を、最近などと言っちゃう感性はよくわからんけど、まあ、ほんとだよ」
「なんで、誰も住まなくなったんだろ」
「そりゃあまあ、普通に考えて不便だしなあ。それと、ちょうどその頃、悠久の木が枯れ始めたことも理由のひとつかな」
「え、悠久の木って枯れているの?」と口を挟んできたのは光莉だ。
「今は持ち直しているから、そんなことはないよ。その当時、突然木が枯れ始めたことで、何か不吉なことが起こる前触れなんじゃないかって噂が持ち上がった。そのため村人が次々と集落を離れ、最終的に無人になったんだ、とそう聞かされたな。うちの婆さまから、ね」
「そうなんだ。お祖母ちゃんが」

 きつく閉ざされたままの、錆だらけの民家のシャッターに光莉が目を向けた。今でもあの中には、トラクターとか車が残されているのだろうか。
 元々は畑だったとわかる、荒れ野原もあった。
 どれがそうなのかはわからない。あるいはもう、取り壊されてしまったのかもしれないが、僕のご先祖様の家もこの集落にあったのだ。こんな話、誰にも言ったことはないけれど。

 道中、道が二手に別れる。道を知っている涼子と、おぼろげながら記憶のある僕が左へ進路を取るなか、真人だけが右に曲がった。ぼんやり歩いている首根っこを、涼子がふんづかまえる。

「全員が左に曲がってんのに、なんで右に行くのよ」
「ごめん。俺ってさ、ほら方向音痴だから」
「関係ないわよ。単なる注意力散漫でしょ」

 正論で凄まれると、決まり悪そうに真人が肩をすくめた。

「世話が焼けるのが、むしろ可愛いって言うでしょ」
「自分で言わなかったらね」

 仏頂面の涼子とすごすごと歩く真人。対照的な二人の様子に、光莉がクスっと笑った。
 ようやく和んだ空気のなか、目的地が次第に見えてくる。
 赤い鳥居が眼前にあって、その奥にこぢんまりとした神社があった。

「ここが、神鳴(かみなり)神社だよ。僕らが住んでいる町にある花咲神社と、姉妹神社の関係だったんだってさ。人がいなくなったことで、悠久の木の管理が(ふもと)の花咲神社に移されたので、今はもう、常駐している神主さんもいないけどね」

 説明を加えたのち、神社の脇を迂回して、小高い丘を登っていく。緑のトンネルを抜けると、木々が途切れて突然視界が開けた。眩い陽光が瞳を刺した。
 緑の丘の中央に、どっしりと根を張る大銀杏の木が見える。
 他の木々とは品格から違うとわかる、豪奢な銀杏の木の許で。
 ワンピースに身を包んだ小柄な少女と、あの日の僕の姿が見えたような気がした。
 郷愁の念、というのはこういうのだろうか。胸の奥をキュっとつままれたように切なくなる。
 これこそが、年中、枯れることなく黄金色の葉を茂らせるという、『悠久の木』――。

「あれ?」

 ところが、当時と違う点がひとつあった。
 遠くからではよくわからなかった。気のせいだろうかと思った。だが、近づいていくにつれ、異変をはっきりと視認できるようになる。
 隣にいた光莉が、息を呑む音が聞こえた。いや、息を呑んだのは彼女だけではない。
 みんなが一様に黙りこくるなか見えた悠久の木は、――枯れ始めていた。
 所々、葉が茶色くなって萎れている。木の下に落ち葉が散らばっているので、落葉が始まっているのだろう。繁っている葉はあちこち歯抜けになっていて、隙間から空の青が顔を覗かせていた。
 この暑さのせいか。それとも病気か。
 とにもかくにも、こんな姿は見たことがない。
 そして――。

「人がいるな」

 真人の声に頷いた。
 悠久の木の正面に、木を見上げている女性の後ろ姿があった。
 艶のある黒髪は腰まで届く長さ。白いシャツを着て、くるぶしまでの丈のジーンズを履いている。背が高く、やや肩幅が広い。

「SUV車の持ち主かな?」
「たぶんね」
「こんにちは」と真人が声をかけると、その女性が振り向いた。

 力強い光を放つ瞳は切れ長。鼻筋がシュっと通っていて、メリハリのある顔立ちだ。
「観光ですか?」と続けて真人が尋ねると、「うーん。まあ、そんなところ」と曖昧な笑みで彼女は応じた。
 若そうに見えるが笑うと目じりにシワが寄る。四十路間近といったところか。
「女性に歳を聞いてはダメだよ」と夏南がからかってきたので、「わかってるよ。そこまでデリカシーのない男じゃない」と憤慨してみせた。

「もしかして、夏休みですか? おねーさん、大学生っぽいですし」

 真人の声に、「お姉さん」と女性の口元が緩んだ。

「こんなおばさん捕まえて、上手だねえ、君。お世辞なんて言ってもお年玉はでないよ。いくらなんでも、そんなわけないさね。来年の春で四十(しじゅう)だよ」

 当たらずとも遠からずだな、と思っていると、「年齢はこうやって聞き出すんだよ。勉強になったかい?」と夏南が耳打ちしてくる。「余計なお世話だ」
 とはいえ、真人らしく要領のいい誘導尋問だった。覚えておこう。

「それで? 君たちも観光? ここ、地元の人そんなに来ないでしょ?」
「えーとですね」

 返す刀で質問をされると、とたんに真人が口ごもる。コイツ、受けに回ると案外アドリブが利かないんだよな。
 その間も、夏南はじっと木を見つめている。この木はある意味夏南の半身みたいなもの。こんな状態になっているのを、彼女は知っていたのだろうか?

「いえ。私たちは地元の中学生ですよ。この場所を訪れたのは、自由研究のためです。悠久の木の歴史について、調べようと思っていまして」

 これが資料です、とでも言いたげに、青い手帳を振って助け船を出したのは涼子だ。
 こういうところ、さすが彼女は頭の回転が早い。

「なるほど。でも木、枯れてるんだよね」と女性が再び木を見上げる。「いつからこうなってたか、知ってる?」
『いえ、まったく知りませんでした』と全員の声が揃って、なんだか気まずい空気になる。
「ははは。こりゃあ、ほんとに知らないみたいだね」

 夏南を一瞥したあとで、真人が木に近づいた。幹の表面に何度か手で触れ、落葉を拾って状態を確かめる。太めの枝を拾い根元を十センチほど掘り返し、土の感触を確かめる。

「深層土の状態は、もう少し掘ってみないとわかんないけど、粘土質の土でもないので根腐れしているということはなさそう。幹の状態は少し悪いが、葉の枯れ方は別段オカしくないので病気って線もないだろう」
「じゃあ、どういうことなんだ」と僕は口を挟んだ。
「ただ枯れているだけだよ。気温は高いが今年は雨も多く降っているし、どこに枯れる要素があるのかよくわからんけどな。あるいは、木の寿命?」
「そんなこと」
「ないって思いたいけど、本当に枯れている理由がわからないんだよ」

 後ろで、夏南が喉を鳴らした。

「もしかしたら俺たちは、歴史的瞬間に立ち会っているのかもしれないね」
「君、見た目によらず木のことに詳しいんだねえ」と女性が感心した顔をする。
「見た目によらず、は余計です」

 真人が苦笑いをすると、涼子が女性に補足説明をした。
 
「彼は、この島で一番大きい、造園会社の息子なんですよ」
「ああ、あの」と女性が得心した顔になる。
「あれ? 知っているんですか?」
「あ、いやね。ここに来る途中で造園会社見たなーって思って。ははは」

 煙にでも撒くように、女性が軽やかに手を振った。そんな彼女とは対照的に、強張った顔で沈黙しているのは夏南だ。

「なあ、これがお前の見せたかったものなのか?」

 問いかけるも、夏南の返事はない。複雑な表情でこっちを見たのは光莉だ。

「夏南?」

 もう一度、呼んでみる。

「これは、ボクたち神の間に伝わっている伝承です。かつてこの島に、人と契りを交わし、子をもうけた神がいました。神の半身とも呼べる二人の子とその子孫は、神の姿を知覚し、言葉を交わすことができたそうです」
「突然なんの話だ? もしかして、僕がその子の子孫だとでもいうのか?」
「それはわかりません。ボクですら知らぬ、遠い昔の話なので。ボクの口から言えるのは、人と交わったその神は、穢れをため込んだことで神の力を失ったこと。そのときから、人と神との間に、明白な線引きがされるようになったと伝えられていることのみです」

 真相は、すべて闇の中。
 それは、歌うような響きだった。

「今から三十年前のことです。たったの一度、木が枯れかけたことがありました。理由は真人の考察通り、土壌が悪いわけでも病気でもなかった。ですがある意味、心の病、と言えたのかもしれません。神たるもの、人の心を持ってはいけない。決して、誰かに肩入れしてはいけないのです」
「夏南?」

 脈絡もなく続いていく口上に、いよいよ呆気にとられる。

「そうか。真人がそう言うのであれば、やっぱり()()()()()()()()。母さんから神としての責務を引き継いだとき、そのことを、よく肝に銘じたつもりだったんだけどな」
「夏南。さっきからお前は何を言ってるんだ?」
「都くん。あの子と話をしているの?」

 夏南の姿が見える真人と、そうじゃない光莉とでは反応が対照的だ。だが、そのどちらにも夏南は応じない。

「ずっと、ボクは孤独だった。話し相手なんて一人もいなかったけれど、そんなのは当たり前のことだったし、これから先もずっとそうなんだと思っていた」

 でも、という一言とともに、夏南が僕の顔を見た。虚ろだった表情から一転、光が戻った瞳は逸らされない。

「そんなとき、君が現れた。最初はね、信じられなかったんだよ。人間たちの中には、ボクたちの姿が見える者もごくまれにいるんだ、と母さんに聞かされていたけれど、本当に現れるなんて思っていなかったから」
「夏南、やっぱりお前って……!」
「そうだよ。都が幼かった頃、この場所で出会った女の子というのが他ならぬボクだ。どうやらボクは、これ以上君と一緒にいてはいけないみたいだ」

 起きている事柄を理解できない。そんな顔でみんながただ見守るなか、夏南が空虚な笑みを浮かべた。感情の動きが殆ど見えない、能面みたいな笑みだった。

「ちょっと待てよ! 夏南!」

 嫌な予感が稲妻のように閃くと、弾かれたように右手を伸ばした。
 空を切った右手。触れないのはいつものことだ。しかし今回は勝手が違う。夏南の姿そのものが、夏の幻のごとく消えてしまった。

「夏南!」

 いつの間にか雲が出ていた。
 肌寒い風に乗った声が、丘の上を流れていった。
 これが、夏南との別れになった。
 それからまもなくして、雨が降り出した。
「天気予報、雨じゃなかったよね?」という光莉の嘆きも天には届かず。山の天気は変わりやすいの言葉通り、最初小降りだった雨は、僕らを嘲笑うかの如くどんどん雨脚を強くしていった。
 真っ暗になった空。
 地震のように大地を揺るがす雷鳴。

「キャアッ」

 威嚇するように次々と稲妻が閃くと、涼子が頭を抱え怯えた。
「雨宿りをするなら、最適な場所を知っている」という女性の声に導かれ、神社を出て坂を下った場所にある、事務所然とした建物に僕たちは転がり込んだ。
「こんなに綺麗な建物もあるんですね」という真人の問いに、その女性は「ここは、村人たちがかつて使っていた集会所。悠久の木を管理している人たちが、今でも時々小休止に利用しているからね」と教えてくれた。

 引き戸の玄関を開けると、正面に会議室のような部屋が見えた。建物の内部には細い廊下が一本走っており、いくつか扉が供えられている。
 もちろん多少の埃や壁の汚れはあるが、廃村にある建物として見れば、存外に中は綺麗だ。
「随分と詳しいんですね」と訝しげな声を涼子が出すと、「これでも昔は、ジャーナリストだったものでね。この村のことも調べたことがある」と女性が答えた。

「ああ、そうそう。私の名前、藤原だから」

 思い出したように自己紹介を済ませた女性に、僕は尋ねた。
 電話って、あるんですかねえ、と。

「あー、どうだろう? あ、あったよ。そこの廊下の突き当り」

 藤原さんが指差した先。右手側に伸びた廊下の途中に、レトロな形状の黒い電話が置いてある。

「使えますかね」
「さあ、そこまでは。電気はたぶん大丈夫だと思うけど、電話回線が健在かまでは保証できない」
「普通に考えたら、廃村にある集会所に、電気がきていること自体驚きなんですけどね」

 受話器を取ってみると、ツーと音がした。どうやら使えそうだ。

「まあね。でもほら、ここは一応観光地だし。廃村であっても、主要な施設の保守作業を行うため、電気や電話回線を残していることがあるんだよ。ようするにここも、そういう場所だってこと」

「十年くらい前まで、お土産屋さんもあったし」と藤原さんが補足すると、真人が目を丸くした。

「えっ、ほんとに?」
「ほんとだよ。この廃村には悠久の木という重要な保守対象があるから、市の直轄管理になってるの。だからそんな昔話を、父さんから聞いたことがある」と涼子が指を立てた。
「あ、でも。電話だったら、私がスマートフォン持っていたのに」

 ここに来る直前、藤原さんに、警察への連絡をお願いした。
 事件性はないよと夏南も言っていたので、特に問題ないだろうとも思うのだが、崩落現場の下に傘が落ちていたことを一応伝えてもらったのだ。遅くとも、明日の午前中には現地を視察してみるよ、と警察は約束してくれたらしい。

「そういえば、そうでしたね。まあ、電話ができればどっちでもいいのですが。この雨だと、家の者が心配するかもしれませんし、一応、連絡を入れたほうがいいかなと」

 降り続いている強い雨で、窓から見える外界の景色は真っ暗だ。傘も雨がっぱも持っていない僕たちが、この雨の中歩いて帰るのは自殺行為だ。
 崩落が起きていたことからもわかるように、途中の道は地盤があまりよくなかったのだし。
「確かにねえ」と藤原さんが雨に濡れた窓ガラスを睨むと、思い出したように涼子が不安げな顔になる。

「あ、不味いかも。私、今日中に帰れないなんて話、家に伝えてないよ」

「ああ、そっか」と涼子同様渋い顔になったのは真人だ。

「俺らはキャンプに行くって名目で家を出てきたから、帰宅が明日になってもどうってことないけど、涼子の家は厳しいもんなあ」
「笑いごとじゃないよお」
「しっかしまあ、本当に泊まることになりそうだなこりゃ。全然雨が止む気配がない。寝袋は一応持ってきてたけど、こんな場所があって本当に良かったよ」
「僕はこの集会所知ってたけどね」と口にすると、真人の顔色がゆでダコみたいに真っ赤になっていく。
「なんだよ! 都! 知ってたなら、もっと早く教えてくれよ!」
「ごめんごめん。雨宿りの場所に困るようなら言おうと思ってたんだけど、僕より先に、藤原さんが案内を始めたもんだから」

 言う必要がなくなったんだ、と話を締めくくった。
 うーん……と散々悩んだ末に、涼子が自宅に電話をかける。要領のいい嘘が浮かばなかったのか、真っ正直に今の状況を伝え、案の定、父親にたっぷり絞られた。
 しゅん、と萎れた花のように項垂れた涼子を、光莉が傍らで慰めていた。
 そんな一幕が展開される間に、藤原さんは集会所の中をあれこれと家探ししていた。

「さすがにガスは切れてるねえ。でも、新しめのカセットコンロがあるから、お湯くらいは沸かせそう。あと、電気はどの部屋も問題なく点くね。せんべい布団みたいなもんだけど、寝具も何組か揃ってんよ」

 寝泊り可能な和室はふたつある。ひとつを藤原さんが使うとするなら、必然的に僕らは全員相部屋だ。別に構わないっしょ? とあっけらかんと言う真人に涼子が眉をひそめたが、やがて不承不承頷いた。
 背に腹は代えられない、ってやつだ。これといって気にしてなさそうな光莉は、もっと警戒心を持つべきだとも思うけど。
 次第に雨の勢いは弱まってくる。しかし時刻はもう十六時過ぎなのだし、いまから下山するのは危険だ。やはりここで一泊するべきという結論に僕らは至った。
 集会所に風呂は無い。
 手持ち無沙汰になった僕らがやることと言えば、睡眠か食事だ。時間も時間なのだしと、夕食の準備に入る。
 とはいっても、たいした食材はない。会議室の畳の上に輪になって座り、手持ちの弁当やらを食べることにした。
 僕たちはコンビニで買ってきた弁当があったのでそれらを分け合いながら。
 藤原さんは、荷物の中からサンドイッチを取り出して摘まんでいた。即席の味噌汁があるよ、と提案されたので、お湯を沸かして台所にある器でごちそうになった。インスタントとはいえちゃんとした味だったし、具も結構美味しかった。

「ほら、これでも食うかい」

 藤原さんが差し出してきたのは、チョコレート菓子だ。

「えっと、これは?」
「疲れているときにはね。甘い物を食べると元気でるんだよ」
「ああ、なんか聞いたことあります」
「甘い物を食べるとホッとしたり幸せを感じたりするのは、脳内で『セロトニン』という物質が出ているからなんだよ。でも、食べすぎは禁物」
「そうなんですか?」
「そう。甘い物を一度に摂りすぎると血糖値が急激に上がって、血糖値を抑制するためにインスリンが大量に分泌される。それにより今度は血糖値の低下が起こり、集中力がなくなったり疲れを感じることもあるんだ」
「何事も、ほどほどが大事ってことですね」
「そうそう、そういうこと。それはそうと」

 藤原さんの視線が、隅っこでひとりちびちび食事を続けていた光莉に向いた。

「あんたも食べんさい」

 そう言って、小袋入りのマドレーヌを光莉に差し出した。

「わ、私ですか」
「当たり前さね。しっかり食べてないんだろ? だからそんなに青っちろくなっちまうんだ。丈夫な赤ちゃん産めんぞ?」

 確かに光莉は体も強くないし、肌だって色白だ。しかし相手が女性とはいえセクハラめいたその発言に、光莉のみならず隣の真人までもが微妙な顔になる。

「ほらほら」

 執拗に勧められると、無下に断ることもできない。結局「いただきます」と言って光莉は受け取った。

「よろしい」

 満足そうに腕組みをしてうんうんと頷いた藤原さんを横目に、「実際のところ」とぽつり光莉が呟いた。

「どうして、木が枯れたんだと思いますか?」
「ふむ?」

 腕組みの体勢を維持したまま、彼女は黙考した。沈黙が静かに横たわる。

「木の病気ってことはないんだよね?」
「それは断じてないです」

 反応して真人が答えた。

「寿命かもしれない、なんてさっきは言いましたけど、おそらくそれもない。そもそも、銀杏は広葉樹なのだから時期がきたら枯れるものです。そういう意味で言うと、今までが異常だったのだとも」

 そうだねえ、と静かに藤原さんが話し始める。

「この島に、いつ悠久の木が誕生したのか、どの文献でも具体的になってはいない。だが、どの年代の資料を読んでも、あの木は枯らすことなく黄金色の葉をつけていたと書いてあるんだ。ただひとつ。三十年前の出来事を除けば」
「そういえば、かつてそんなことがあったらしいですね。その時と、同じことが今も起きている、と?」と真人が首を傾げる。
「そこまではわからない。可能性は、あるけどね。なにせ、神が宿るなんて言われている木のことなのだし、ジャーナリストの私では門外漢だよ」
「そこは霊媒師の領分ですかね」
「さあ、どちら様なんかねえ」
「その神様が、『心の病』だと言っているとしたら、どうでしょう」

 茫然と中空を見据えたまま言うと、みんなの視線が集まったのを感じる。よせやい、穴が開いちまう。

「神様? あんた何言ってるんだい? 気でも触れちまったのかい?」
「まあ、それが普通の反応でしょうね。でも僕には、木に宿っている神様の声が聞こえたんですよ。彼女いわく、『木が枯れているのは、心の病のせい』だって」

 突飛な話だと思ったのか、藤原さんの目の色が変わった。
「それって、どういう意味なんだよ?」とこちらは真人。二人とも、視線が強くて痛い。

「なんてな。冗談ですよ」

 手をひらひらさせて立ち上がり、「ちょっとトイレ」と告げて会議室を出た。
 もっともそれは方便であり、実際は尿意なんてもよおしていない。気まずくなった空気が霧消するまで、時間を潰そうという魂胆だ。
 廊下から窓の外を見ていると、会議室を出てきた人物がもう一人いた。

「ちょっとだけ話せる?」

 隣にやって来たのは涼子だ。
 真剣な目だと思った。有無を言わせない、力強さを感じた。

「ん、別にいいけど。ここで?」
「うん。なんせ、光莉には聞かせられない内容だから」
「なるほど。了解」

 決意の色を感じ取り、僕は頷いた。

 外はまだ、雨が降り続いている。ぱたぱたと屋根を打つ雨音がリズミカルに響き、ひやりとした空気が建物の中まで忍び込んでいた。

「さっきの話本当なんだね?」

 短い沈黙を破ったのは、ひそやかな涼子の声だ。「ああ、本当だ」と僕は肯定したのち、夏南が言っていた台詞を、一言一句違わず伝えた。
 いっさいの合いの手を入れることなくすべて聞き終え、「そう」と短く涼子が呟く。僕の顔をチラリと見たのち、そっと窓ガラスに手を触れた。
 ガラスの表面はしとどに濡れていて、外の景色はまったく見通せない。曇ったガラスにぼんやり映った涼子の顔は、どこか虚ろだ。
 まるで、魂をどこかに置き忘れてきたようだ、などとろくでもないことを考える。

「なんていうんだろう。まるで、木が枯れたのは自分のせい、みたいな言い方だよね」
「やっぱり涼子もそう思うか。彼女の真意はもちろんわかんないんだけどさ、三十年前の出来事と発端は同じだよ、という風にしか聞こえないんだよな」
「三十年前というと、私のおばあちゃんが不思議な体験をしたのとほぼ同時期だよね。そっちもさあ、夏南さんの仕業だと思う?」
「んー……。確証はないけどたぶんね。そういった、超常現象を起こせる存在を、僕は他に知らない」

 自嘲気味に笑うと、だよね、と相槌を打って涼子が沈黙した。まつ毛の長い瞳が静かに揺れる。

「なあ、涼子」
「ん?」
「お前さっき、そっちも夏南の仕業、って言ったよな? やっぱり、なんか知ってるんだろう?」

 この場所に着くまでの間、涼子は何度か激しい感情の昂りを見せた。彼女は冷静なようで、その実直情的な性格なので、致命的に嘘をつくのが下手だ。
 何かしら、後ろめたいことか隠し事があるに違いない。
 まあね、と彼女が冷笑する。

「それを伝えるために、わざわざ追いかけてきたんだし」
「聞かせてくれるかい」

 こくりと顎を引いたのち、涼子がこちらに向き直った。自然と僕も聞く体勢になる。

「これは、六月下旬の出来事。あの日も今日と同じ、ひどい雨の日だった」

 そうして始まった涼子の話。かいつまんで内容を説明するならこうだろうか。
 六月の末ころ。誕生日に、悠久の木のある場所に行って願い事をすると、なんでもひとつだけ望みが叶うんだよ、という話を光莉に伝えた。
 だが、当日は午後からひどい雨になった。光莉は本当に山を目指したのかと不安になった涼子は、彼女の家に電話をする。しかし、母親から返ってきたのは、光莉なら友だちの家に行ってるよ、という言葉だった。
 はたしてそれは真実か否か。確認するのが怖くなった涼子は、放置したまま翌日を迎える。何事もなかったかのように登校してきた光莉の姿に安堵したのも束の間、『悠久の木の話なんて知らないよ?』と彼女に告げられ、より困惑を深めた。

「んー……」

 唸ることしかできなかった。
 話の道筋に、不自然なところは一見するとない。おかしいところはなんらない。しかし、現在の状況と照らし合わせていくと、違和感はいくつもあった。
 なぜ、光莉の自転車が山の麓にあったのか?
 なぜ、光莉が使っていたのとよく似た傘が、登山道の崖下にあったのか?
 なにより、涼子に聞かされた話をなぜ光莉は覚えていないのか。

「イチはどう思う?」
「どうって、言われてもなあ……」
「どう考えてもさ、光莉は六月のあの日、雨の中この場所を目指して家をでたんじゃないかと。歩き続けている途中であの崩落現場を通りかかり、土砂崩れに巻き込まれて生き埋めになった――ってことなんじゃないかと」

 自分でも、言いながら恐ろしくなったのだろう。涼子の肩が小刻みに震えた。

「いや、話が飛躍しすぎだ。じゃあ、いまあの部屋にいる光莉はなんだっていうんだ」
「――ドッペルゲンガー、とか?」
「ドッペルゲンガー?」
「もしかしたら、私がドッペルゲンガーかもしれないし」
「はあ? なんでそうなる」

 一段飛ばしで飛躍していく話に、頭がついていかない。

「罪の意識に苛まれ、死んじゃおうかな、なんて思い悩んでいるのを嗅ぎつけられて、殺され入れ替わられたとか?」
「涼子。お前、死にたいって思うほど、追い詰められているのか?」
「ごめん。そこまでじゃないんだ。ちょっとばかり自棄(やけ)を起こしているだけ」
「悪い冗談はよしてくれ。なら、まあいいんだが。あんまり一人で悩み過ぎるなよ」

 とはいえ、ドッペルゲンガーはともかくとして、神様は現実にいるんだよな。どんな推論でも成立しそうだから困る。

「でもさあ、他に考えられる要因ある?」
「んー……」

 そう問われるとうまく返せない。これといって納得のいく説明ができないだけに。

「光莉が事故に巻き込まれたことを知った誰かが、夏南さんにお願いをしたとか?」
「ドッペルゲンガーでもなんでもいいから、光莉を蘇らせてくださいって?」
「もちろんこれは、たとえばの話なんだけど」
「だとしても、願った誰かって、誰なんだよ」

 うーん、と涼子の眉間にしわが寄る。

「夏南さんの姿が見える人しか願えないとしたら、必然的に真人かイチ?」
「いや、真人はたぶん違う。僕にしても、光莉が山を目指したかどうか知らないし、願い事をした記憶だってない」
「でも、ほら」

 涼子が核心を告げるみたいに言う。

「願い事を叶えてもらうと、願ったという部分の記憶がなくなるんでしょ?」
「らしいね。……いや、なるほど」

 光莉を襲った悲劇的な運命を改ざんするため、僕が夏南に願った。しかし、願った当日の記憶を亡くし、光莉にまつわる記憶も書き換えられていたら、話の筋道はすべて通る。だが。

「でも、やっぱりオカしい。夏南いわく、願い事を叶えることができるのは、一人一回までという制約があるらしい。でも僕には、今も願い事を言う資格があるらしいからね」
「そっかあ」

 もっとも、夏南が嘘をついていないことが前提になるが。

「それともう一個。光莉が一人でこの場所を目指すこと自体がありえない。彼女は心臓に病を抱えている。万が一の事態に備え、誰かを頼るのが自然だ。もし頼まれたとしたら、僕だったら同行するし」
「そっか。だよね」
「うん」

 だが、あとに続いた涼子の台詞に、僕はふきだすことになる。

「イチは、光莉のことが好きなんだものね」
「涼子までそんなことを言う……。誤解だよ。それは」
「私も、どころか、みんなそう思ってるんじゃないかな?」

 そういう噂があるのはうっすら感じていた。どう弁解すべきかと考えあぐねていると、「ま、いいけど」と涼子のほうから話題を逸らした。僕の本心を知りたいんじゃないのか?

「イチにフラれてからさ、私ずっと考えてたんだ。どうして私じゃダメなのかなって」
「……」
「自分で言うのもなんだけど、家だって金持ちだし、スタイルも顔もいいし、わりと優良物件だと思うんだよね、私」
「本当に、自分で言う台詞じゃないね」
「自己肯定感が高いのはいいことでしょ?」
「まあね」

 でもね、とそこで一転。涼子の表情が沈む。

「イチはいっつも光莉のほうばかり見てる」
「だからそれは」
「光莉が病弱だから、なんだよね? 自分の父親と同じ病を抱えている彼女を、放っておけないから、なんでしょ?」

 昔話を聞いているうちにピンときた、という涼子の指摘は図星過ぎて返す言葉がない。
 そうか。涼子なりに、すでに答えを持っていたのか。

「そうだね。涼子が言う通り、光莉のことを気にかけていることは事実だ。もしかしたらこれは僕の庇護欲なのかな? と悩むところはあるけれど、将来医者になりたいという夢を抱いた根底にあるのも、光莉をどうにかしてやりたいと願う気持ちだ」
「イチって将来医者になりたいんだ?」
「思っているだけだけどね」
「思っているだけでも立派だよ。私なんて、何になりたいのか、どこの学校に進学したいのかも定かじゃないんだから。ただふらふらしているだけの、甘やかされて育ったガキとおんなじなんだよ」
「そんなことは」
「いいよ、慰めは。それ自体は事実だし。ここから女としての魅力を上げて、今度こそイチのハートを射止めるし」
「……ごめん」
「謝らなくていいよ。さっきから、自分でも何言ってるんだろうと思うくらい、ウザい発言をしているって自覚はあるから。放っておいてくれればいいの。あー……でも、これで全部わかっちゃった。私でも光莉でもないとすると、必然的に候補が一人に絞られちゃんだよなあ」

 ここで涼子はいったん言葉を切った。雨粒が屋根を叩く音が、三度響いた。

「イチが好きなの。あの神様の子、なんでしょ?」
「そうだよ」

 捨て鉢になったつもりはない。
 自分でも叶わない恋なんだということもわかっている。それでも、自分の気持ちに嘘はつけなかった、というだけのこと。

「やっぱりそっかあ」と諦観(ていかん)した声で涼子が言った。「なるほどこいつは相手が悪すぎた。いくら私がいい女でも、神様相手じゃ分が悪い」

 これには思わず苦笑い。

「笑っちまうだろう? 身分違いも甚だしい。どうせ叶わぬ恋だと、むしろ笑い飛ばしてくれよ」
「笑えないよ。私だって、似たようなものなんだし」
「いっそ、光莉か涼子のことを好きになれたら、楽になれるんだろうけどな」
「ほんとだね。……バカだよ。イチは」

 視線を窓の外にスライドさせる。「ねえ」と涼子が呟く。

「ん?」
「あの子。もういないんでしょ?」
「やっぱり気づいてたか」
「そりゃあね。あんな取り乱し方されたら誰だって気づくよ。みんなわざわざ言わないだけの話。夏南さんがいたらさ、今感じている疑問のすべてが解けるのかなあ?」
「たぶんな」

 アイツが戻ってきたら、だけど。
 姿をくらます間際に見せた、哀愁を含んだ表情が脳裏に焼き付いてどうにも離れない。本当に、戻ってくるんだろうか。
 その時、「お、随分長いトイレだと思ったら二人ともここにいたのかよ。なになに、連れション?」と空気を読まない台詞を引き連れ真人が現れた。

「言い方。相変わらずデリカシーないなあ」

 涼子の非難に、真人がハハハと笑う。わざと大きい声を出しているみたいな所作だった。

「じゃあ、戻ろっか」

 踵を返した涼子の背中を追いかけたとき、廊下の隅に一枚のカードが落ちているのを見つけた。
 気づいているのは僕だけだ。
 人目を盗んでそっと拾い上げてみると、それは運転免許証だ。
 表に書かれていた名前は、藤原美紀(ふじわらみき)。傍らには、一枚の写真が添えられてある。

「これが、藤原美紀さん?」

 瞬間。僕の頭の中で、二つの情報が一本に繋がった。

「ははッ。だよなあ。やっぱりそうだよなあ」

 尻尾、確かにつかんだぜ。
 夜中、不意に目が覚めた。
 今、何時だろうと思い辺りをぐるりと見渡すが、僕たちが寝室として使った八畳の和室に時計はない。窓から見えている月は高い位置にあるので、まだ未明だろうか。
 部屋の中は暗くて視界が悪い。布団にくるまっている三人の寝息だけが静かに響いていた。
 寝相の悪い真人の掛け布団を苦笑交じりに直し、一人で部屋を出た。誰かを起こしてはならないと、音に気遣いながら(ふすま)を閉めた。
 雨はすでにやんでいた。
 これといった目的地もなく歩き始める。なんとはなしに覗いた隣の和室は、無人だった。藤原さんも、僕と同じように眠れないのだろうか。

 そのまま足を屋外にまで伸ばした。雨上がりの空は一転して晴れ、煌々とした月明りは、星の瞬きを阻害するほどだ。
 光はまた地上にもあった。
 懐中電灯と思しき明かりが、集会所の前の道を右往左往していた。
「月が綺麗な夜ですね」と僕は、その光を持っている人物に声をかけた。

「誰かと思えば。えーと、名前」

 白々しいその口調に、「高橋です」と答えた。

「そうそう。高橋君か。もしかして今のは、口説き文句か何かなのかい? 君は若いから知らないだろうけど、『月が綺麗ですね』という言葉には、そんな意味も含まれているんだよ」
「そうなんですか?」
「そうさね。他にも、『夕日が綺麗ですね』と言ったら、あなたの気持ちを教えてほしい。『星が綺麗ですね』と言ったら、あなたに憧れています、という意味があるんだとか」
「じゃあ、嘘でも夕日が綺麗だ、というべきでした」
「なんだい? 私の気持ちが知りたいのか。じゃあやっぱり、私に気があるんじゃないか」

 いやいやまさか、と僕は苦笑しながら首を振った。

「だって、藤原さんと僕とじゃ、それこそ親子くらいに歳が離れているじゃないですか」
「ははは、そうだねえ。でも、比喩なんかじゃなくて、本当に月が綺麗な夜だ。高橋君も、眠れないのかい?」

 言いながら彼女は、懐中電灯の明かりを消した。
 闇の色が深まると、五感の全てが研ぎ澄まされていくようだ。雨露を宿した、草いきれの匂い。ひんやりとした空気が肌にまとわりつき、草むらから虫たちの声がわき上がる。
 僕はいま、緊張しているんだな、と耳障りな心音を意識して思う。

「そんなところですかね。藤原さんは、こんな夜中にどうしたんですか? 何か探し物でも?」
「ん? どうしてそう思うんだい?」
「今日は満月の夜です。視界も充分効きますし、散歩をするのに懐中電灯は要らないんじゃないかな、と思ったもので」
「なるほど。君はなかなかいい洞察力を持っている」

 次第に目が慣れてくると、彼女の表情もはっきり視認できるようになる。月明りを浴びた端正な顔は、口角が少し上がって見えた。

「だがしかし、残念。これはあくまでも防犯のためだよ。女性の独り歩きは危険だからね」
「こんな山奥で? 助けを呼んでも、おそらく誰も来てくれないのに?」
「はは。君が来てくれただろう」
「そうですね。ですが駆けつけた僕は、むしろ味方ではないかもしれませんよ?」
「思わせぶりな発言が多いねえ。なるほど。だから『夕日が綺麗ですね』なのか。私に、何か聞きたいことがあるんだね」
「藤原さん」
「ん。なんだい」

 彼女の声は低音で、耳にサラリと届いて心地よい。だがその内に、こちらの意中を探ろうという本音が透けて見える。

「僕たちが、傘を見つけた話をしたときのことです。警察に連絡をしてくれましたが、あれ、嘘ですよね?」
「おや。どうしてそう思うんだい?」
「このへん一帯は、圏外のはずなんですよ」

 藤原さんの眼光が、わずかに鋭さを増した。

「今から三十年も前に、無人になった村です。今さら中継局なんて立ちはしませんよね?」
「そうかねえ。無人といっても観光地だろう? ここ最近整備されたという可能性もあるんじゃないかね」
「なるほど。まあ、とりあえずそれは置いておきましょう。いま本当に聞きたいのは、そこじゃないですし。警察には、僕が有線電話で連絡しておきましたし」

 僕は見逃さなかった。表情を崩さずとも、彼女の眉がピクリと動いたのを。

「それじゃ、質問を変えましょう」

「探し物、これですよね?」と言って、拾った運転免許証をちらつかせると、露骨に藤原さんの顔色が変わった。だがゆっくりと、動揺を薄い笑みで塗り替えていく。嘘をつき慣れているな、と思う。

「そうそう。それを探していたんだよ。見つけてくれて、ありがとうね」
「おっと」

 だが僕は、免許証に向けて伸ばされてきた手からひょいと逃れた。

「渡すわけには、いきませんね」
「おや? 嘘をついていたことを怒っているのかい? 運転免許証を失くしたなんて言ったら、格好がつかないと思ってね」
「いいえ。怒っているわけではありませんよ。嘘なんて、誰でもつくものですし」
「ではどうしてだい? それは私にとって、大事な物なのだが」
「そうですね。これがあなたの物であったなら、僕だって素直に返します」

 瞳を逸らさずに答える。彼女の顔色がまた変化した。

「このカードに映っている写真の人物。どことなく、あなたと似ている。ですが、髪型こそ似かよっているものの、よくよく細部を見ると別人ですよね? 目鼻立ちから何まで」

 無言で耳を傾けるのみで、彼女は言葉を返さない。反論材料がないのだろう。

「だってあなたの名前、来栖円(くるすまどか)ですものね。それとも、こうお呼びしたほうがよかったですか? 母さん」

 久しく呼んだことのない敬称を口にすると、藤原さんあらため母は、ちょっと不敵な笑みを浮かべた。
 こうして見ると間違いない。すでに記憶は朧気ながら、うっすら残っている母親像は、目の前の人物と合致する。三十九歳とは思えぬ美貌を維持しているこの人は、確かに僕の母親だ。
「気づいていたのかい」
「一目みて、と言いたいところですが、八歳の頃から会っていませんしね。最初はわからなかったですよ。悠久の木についてやたら詳しいのと、偽名であることに気づいたら、ようやく記憶の中にある情報と繋がりました」

 ははは、と遠慮のなくなった声で母が笑う。

「もう敬語はよしてくれ、我が息子よ。ちなみに私は、すぐお前だって気づいていたよ。自分がお腹を痛めて産んだ子どもだしね。なんだかんだ言って、忘れたくても、忘れられないもんさね」
「その訛りもですかね。若干、九州の訛りが出る人だったって、時々親父ももらしていたからね」
「あの人の話はやめてくれ」
「そうだったね。ごめん、母さん」

 母が家を出ていったのは突然のことだった。
『男の子だろ。泣いちゃダメだよ』
『元気でね』
 この二言だけを僕に残して、母は家を出ていった。大きな荷物を抱えていることを除けば普段と変わらない様子で、『ちょいと仕事に行ってくる』的な軽いニュアンスの声で、だから、もう二度と会えないのだと思わなかった。現実を受け入れるまで、多少の時間を要したのだ。
 父もそういうところがあったが、母もあまり親らしい親ではなかった。
 頭のてっぺんからつま先まで隙なく着飾っている人で、女性らしさを捨てない煌びやかなその容姿に、僕ですらどこか甘えにくいという感情を持っていた。
 それでも、唯一無二の母だ。ただ生活をしているだけでも、悲しみはそこここに降り積もる。
 母の不在が少しずつ心に傷を刻み、僕が静かに涙したあの日、どこか疲れた顔で『ごめんな』と寡黙だった父が言ったのだけはよく覚えている。

「しばらく見ないうちに、大きくなったものだねえ」

 柔らかい声で母が言う。
 母の声、こんな感じだったろうか。記憶の中にある母の声と、六年ぶりに聞くこの声は、いまだにぴたりと一致しない。

「そりゃあ、人並みに成長してるからね」
「言うようになった」
「それで? どうしてこんな場所にいるんだ? この運転免許証は誰のものだ? そして藤原美紀さんというのは誰なんだ?」
「まくし立てるように質問するない。感動の再会もこれまでってか。順を追って説明するから、そう慌てるな」
「僕たちの再会に、感動できる要素があるとでも?」

 ふふ、と母が短く笑んだ。

「そういう理屈っぽい話し方は、あの人よりも私に似ているね。血は争えないってか」

 母はシニカルに笑うと、意味ありげに一拍置いてこう言った。「私のこと、恨んでいるのかい?」と。それはらしくもなく、憂愁の念が混じった声だった。

「まあ、恨んではいたかな。確かに。僕の視点で見たら、親に捨てられたのと同義なのだし」

 母の表情が、少しこわばる。

「でも、親父はあの通りの人だし、うちの祖父母も厳格な人だ。母さんと折り合いが悪いのはなんとなく理解していたし、家を出ていったのも、しょうがないことなんだってそう思ってはいたよ」

 うちの実家は、この村に住んでいたころ、神鳴神社の神主一家と親戚筋だったと聞いたことがある。今でこそ、悠久の木の管理に携わってはいないが、悠久の木にまつわる逸話がいくつか伝わっているのも、古い慣習にこだわる厳格な家であるのも、そこにルーツがあるのだろう。
 どちらかというと自由人だった母と、そりが合わなかったのはきっと事実。

「なあ。僕って、愛されていたのかな」

 何気ない呟きに、艶やかな声が返ってくる。

「愚問だね。自分の子を愛していない親などそうそういない。少なくとも私はそんな親じゃない。みくびるんじゃないよ。私が嫌っていたのは、あの人と実家の人間たちだけさね」

 迷いのない、即答だった。
 愛していた?
 僕を?
 僕は、両親から愛されていないと思って生きてきた。
 こちらから愛を与えなけば、受け取れないものだと思って生きてきた。
 すべて、勘違いだったのだろうか。自分が思うより、僕は愛されていたのだろうか。必要とされていたのだろうか。
『ごめんな』
 母がいなくなったあの日。沈んだ声で呟き、うな垂れた父はどんな顔をしていた?
 水泳で、『県大会に進めるんだ』と初めて報告したあの日。父は喜んでくれただろうか。

 ――そうか。よく頑張ったな。その日はあいにく仕事があって、見に行けないんだ。すまん。

「あっ……」

 父の言葉が蘇ってくる。こんなことすら忘れていたのかと愕然となる。

「今年の大会で、三位になったんだってな。おめでとう」
「県予選のこと? 確かに自由形で三位になったけど……。え? 見に来てくれてたの?」
「いや、すまん。色々事情があって、見に行けてはいないんだ。けど、以前から新聞で名前を見かけていたからね。こっそり結果だけは確認してた」

 母は元々こういう人だ。
 自立心が強く、凛とした佇まいを見せる一方で、自分の感情を表現するのが下手だ。
 幼かった頃をふと思い出す。祖父母参観のお知らせを僕が持って行くと、『その日はあいにく仕事が忙しくてねえ』などと素っ気ない態度を見せる。そのくせ、参観日が終わったあとで、描いた『母の絵』などを見せると、額に入れて壁に飾る。そういう人だった。
 あの額縁はどうなっただろう。
 今でもあの絵は、実家の応接間の片隅に飾られているんじゃなかったか?
 そうか。親子の絆が完全に切れたと思っていたのは僕のほうだけで、母は変わることなく繋がりを欲していたのかもしれない。
 目の下あたりが急に熱をおびてきて、それが、涙が零れる前兆だとわかった。情けない。こんなことで泣くなんて。口だけがパクパクと動く。それなのに、言葉は何ひとつ出てこない。

「まったく会いにいけてなくて、すまなかったね」

 母が僕の頭を撫でる。優しい声が僕の涙腺ボタンを刺激すると、瞼が決壊した。
 愛されたいともがいていた。役に立ちたい、必要とされたい、という思いが強すぎると指摘もされたし自覚もあった。
 でも、それらすべてが杞憂だった。結果だけを見て、僕は愛されていないものだと決めつけ不貞腐れていたから。薄い雲のヴェールが夜空の星を覆い隠してしまうように、負の感情によって大切なモノが見えなくなっていただけだ。素直に受け止められなかっただけで、あるいは知ろうとしなかっただけで、僕は両親から必要とされていた。もしかしたら、もっと色んな人に――。

「随分と、乾いた生活をしてきたんだねえ」
「部分的に、母さんのせいだけどな」
「それを言われると胸が苦しい」
「なあ、母さん」

 気持ちが落ち着いてきたあたりで尋ねる。

「なんだい?」
「今、幸せかい?」

 返事は、なかった。
 逡巡する時間の長さが、状況の悪さをおのずと物語る。

「なるほど、やっぱりそうか。朧気ながら、僕の記憶の中に残っているあなたは、現実的で、打算的な人だった。意味もなく、里帰りをするほどセンチメンタルでもないし、他人の運転免許証を持ち歩くような悪党でもない。そろそろ語ってもらえないか? いったい何を隠しているのか」

 固い表情から一転、母がふっと相好を崩した。

「それを説明するには、少々長い話をしなくちゃいけない。それでも、いいかい?」

 無論、という意志をこめて頷いた。僕の頷きに一瞥で返し、母がゆったりとした口調で語り始めた。

 離婚が成立して父と別れたあと、母は本土に渡ったそうだ。
 九州にある実家に戻ろうという気は最初からなかった。気難しい親だ。どんな考え方をしているのか、どんな性格なのかも心得ていたから。離婚したんだという事実をもし伝えたら、どんなリアクションをされるかもまた。
 そこで、松江市の中心部に、アパレル関連の店を開くことにした。僕と同じ町に住んでいたのか、という驚愕があったが、特に口は挟まない。
 小さい店であったが次第に固定客を増やし、事業は順調に拡大していった。全盛期には、年商一千万円程度までいったんだそうだ。
「そんなときだったかな。あの人と出会ったのは」
 母が当時契約を結んでいた税務会計事務所の社員に、五歳年下になる税理士の男がいた。人当たりがよく、受け答えもしっかりしているやり手の人物で、会社経営についての相談事をよく聞いてもらったそうだ。
 次第に、彼に対して寄り添うような感情が生まれ、それは向こうも同じだったらしい。数ヶ月の間に何度かデートを重ね、やがて彼の方から告白をしてきて交際することになった。
 趣味は旅行で、デートプランはいつも彼が考え、高級なお店に連れていってくれては常に支払いもしてくれる。
 離婚をしたのち、日々生きるのがやっとの乾いた生活を続けていた母にとって、まるで神様からのプレゼントのように感じる存在だった。自分を励ましてくれて、素直に甘えられて、隣にいてくれるだけで心地よい。
「そんな彼が、いつか結婚しよう、と言ってくれたんだ。不本意ながら舞い上がってしまうのも無理はない」
『結婚こそが女性の幸せ』と聞いたことがある。結婚することがすべてとはもちろん思わないが、僕の親権を手放した母が、再び幸せな家庭生活を夢見るのも自然なことなのだろう。
 ところが、真剣に結婚を考え始めた段階になってから、男に離婚歴があることが発覚する。娘を紹介され、この子の学費に三百万円ほど必要だという話をされた。
「渡したのか」
 母は無言で頷いた。貼り付けていた笑顔の仮面は、すっかり剥がれ落ちていた。
「恋は盲目って言うけど、本当だね。私、これっぽっちも疑ってなかった。お金が工面できたら、今抱えている問題が解決したら、お互いの両親のところに挨拶に行こうって言われたからかね。そこでなんとかお金をかき集めてさ、彼の口座に振り込んだの。でも、彼の実家に向かうはずだったあの日。待ち合わせ場所に彼は現れなかった」
 おかしいと思って電話をかけても繋がらないし、彼の職場があるはずの雑居ビルに行ってももぬけの殻だった。
 この段階に至って母はようやく気がついた。自分が結婚詐欺にあったのだと。この時アパレルショップの経営にも行き詰っていて、既に結構な額の借金があった。借金を返すためにまた借金をするという自転車操業に陥り始めており、間もなく店を畳むことになった。
「三百万という金額は、私にとっては大金さね。当然、親にだってこんなこと相談できないし、途方に暮れながらアルバイトで食いつなぐ日々になった」
 そうして一年が経過したとき、状況が動く。隣市の骨董品屋に、彼がいるという情報が人伝に入ったのだ。
「情報提供者は、探偵業をしている知人だった。名前と住所を変えていても、探偵の目は誤魔化せなかった。聞いて驚いたね。こちらが借金の取り立てに追われながら必死こいて生きているときに、のうのうと店を開いて生活してるって言うんだから。どうやらそうして、ちょっとした副業をしながら結婚詐欺をしている常習犯らしかった」
「それで? どうしたんだ?」
「行ったさもちろん。三百万、耳を揃えて返せとごねるつもりでもなかったが、文句のひとつでも言ってやらにゃ、腹の虫が収まらんしね。ところが」
 ここでまた、母の声音が変化した。憔悴しきった顔になる。
「そんな機会は、永遠に訪れなかった」
「どうして?」
「聞いた住所を元に店に行ってみたら、死んでたんだよ。彼が」
 寝起きの顔に、水をかけられたような衝撃。言葉を失っていると「違う、私が殺したんじゃないよ」と母が弁解した。
 その日、店内は無人で、呼んでも誰かが出てくる気配がなかった。
 不審に思った母が奥の事務室に向かうと、床の上に仰向けで男が倒れていた。胸から血を流しており、すでに男は絶命していた。
 因果応報だと母は思った。悪事を重ねてきたツケがまわってきたのだ、ザマあないねと。
 店を出たあと一一〇番にダイアルし、店の住所と、中で男が倒れていた事実のみを伝え、素性を明かさないまま電話を切った。
 話はこれで、終わりになるはずだった。
 ところがそれから数日後、母のところを警察の人間が尋ねてくる。
 事件当日、どこで何をしていたか? と問われて初めて気がついた。自分が殺人事件の容疑者になっているのだと。
「二ヶ月前にあった殺人事件の容疑者って、母さんのことだったのか!」
「大きい声だすない。まあ、そういうことだ」
 容疑をかけられる理由が、思えばいくつもあった。
 店を出入りする姿を、近隣の住民に目撃されていた可能性。(おそらく、挙動不審な動きもしていた)
 店から、自分の指紋が検出された可能性。
 そして何より、彼を殺害する動機があった。
 この日はのらりくらりと口八丁手八丁で乗り切ったが、再び捜査の手が伸びてくるのは確実。ここで捕まるわけにはいかない。
 そう考えた母は、着の身着のままアパートから逃走した。
 さて。どうやって濡れ衣を晴らそうか。真相究明の方法を、模索していく逃亡生活が始まる。しかしそんななか、ふと、気持ちの糸が切れる瞬間があったのだという。
「気持ちの糸が切れる瞬間?」
「ああ。瞬間というか、出来事というか。根底にある謎の話だ。最後に語るからもうちっと大人しく聞きな」
 もう、死んじゃってもいいかな、と思った。
 失った三百万どころか、借金は何倍にも膨らんでいた。留守番電話には、借金取り立てのメッセージがたびたび入っていた。
 自分を必要としてくれる家族なんて、最早一人もいないのだし。
 そうして行きついた場所が、自殺志願者を募る携帯サイトだった。
「中心となっていた人物に、いい場所を見つけました、と言われてたどり着いたのが、この神無し島だった。人生が行き詰った果てに行きついたのがこの島だったなんて、笑える話だと思わないか?」
 提案された自殺の方法は、島にある廃屋を利用しての練炭自殺。参加者は、母を含めて四名だった。
 流されるまま死に向かっていく最中、最後に車中で身の上話を披露しあった。みんな自殺に至るまでの、悲壮なエピソードを持っていたのだ。
「それなのに私ときたら、みっともないエピソードしかないんだよ。本当に惨めな人生だな、と思ったね」
 だから、何も言えなかった、と笑った母の顔は、これまで見たことのない悲痛なものだ。触るとひび割れてしまいそうなガラス細工とでもいうべきか。
 こんな顔をする人だったんだな、と思う。
「ところがだ。自殺をする場所に向かう途中、車の窓から信じられないものを見たんだよ」
「信じられないもの?」
「そう。それで死ぬのが怖くなった。まだ私は死ねないと、そう思った。だから、土壇場で車を降りたんだ」
「じゃあ、その運転免許証は」
「そうさね。練炭自殺パーティーの一人が持っていたものだ。死ぬ気はなくなったと駄々をこねて車を降りた私は、事が全部済んだ頃合いに廃屋に戻って、駐車していた車を持ち出した。運転免許証は、ダッシュボードに残されていたものだ」
「めちゃくちゃじゃないか。見損ないましたよ」
「借金がかさんで、殺人容疑をかけられて、逃げるために安易に自殺を選んだ。そのはてに怖くなって車を奪い逃走。とんでもないクズだと笑えばいいさ」
 笑えと言われても、到底笑えるもんじゃなかった。死ぬのは誰だって怖い。僕らだって、四人の中に人ならざるものとか死者が混ざっているんじゃないかと怯えているんだ。
 お互い口にだすことはないとしても。
「笑う気にはなれないよ。臆病者だとも最低だとも思うけど、母さんがそこで踏みとどまったからこそ、こうして再会できたのだと思えば」
「そうだねえ」
「でも、これでわかった。母さんが警察に電話をするのをためらった理由も、運転免許証を持っていた理由も。逃走時間を稼ぐために、身分を偽る道具にするつもりだったんだな?」
「その通り。なかなか切れ者に成長したもんだね」
 だけど、と僕は本題を切り出した。
「ひとつだけわからない。さっき言った、『信じられないもの』とは何だ? いったい何が、母さんに自殺を踏みとどまらせたんだ?」
「都という漢字にはねえ、文字通りの意味のほかに、集まる、集める、とか、雅やか、美しい、という意味もあるんだよ。いい名前だろ?」
 突然始まった名づけのエピソードに、話を逸らされたという困惑が先行する。
「誤魔化さないでくれ。僕が聞いているのはそういう話ではなくて」
「誤魔化してなどいないさ。私が自殺を思いとどまったのは、都。お前の姿を見かけたからなんだよ」
「僕を?」
 車中から、歩いている僕を見かけたというのだろうか。それ自体は有り得ることだ。だとしても、なぜそれが?
「そうだ。なあ、都」
 その時、ぴーん、と空気が張り詰めたのを感じた。これから糸が切れる直前のような、極限まで張り詰めた緊張感。
「ここで話を、『気持ちが切れる出来事』に戻そう。逃亡生活をしている最中に飛び込んできたのは、最愛の息子が死んだ、という一報だった」
「はっ? ……え?」
 驚きを誤魔化そうとして、失敗したときみたいな声がでる。生きているはずの僕の胸に、『死』という単語が鋭く刺さる。
「どうしてお前は生きているんだ? いや、生きていたこと自体は素直に嬉しいんだ。けど、おかしいだろう。暦が七月に変わろうとしていたあの日、確かにお前は死んだはずなのに」
 僕が、死んでいる?
 そこから始まった母の話は、衝撃的なものだった。
 今年の六月の終わり頃、僕は死んでいるのだと。葬儀も済んでいるのだと。
「これが、悠久の木が起こした奇跡って奴なのかね? ……なんにせよ、死んだとばかり思っていた息子が生きてたんだ。そりゃあ、ここで死ぬわけにはいかんだろう」
 それは、月の綺麗な夜だった。
 青みがかった綺麗な月明かりが、真実を浮き彫りにしていく。
 自分でも思っている。僕は、現実的な思考をする人間だと。
 だが今日こそ、自分のアイデンティティを見直すべきかな、と歩きながらぼんやり考える。
 二言三言会話をして、母と互いの認識を共有すると、逃げるように背を向けた。覚束ない足取りで、みんながいる部屋まで戻った。母からの告白はあまりにも衝撃的で、頭の中は真っ白だし記憶が所々歯抜けだ。このところ続いていた不可思議な出来事の数々に、脳の思考中枢がついに悲鳴を上げたとでもいうべきか。
 毛布にくるまり、自分の思考能力では処理不能な内容を、ああでもない、こうでもないと考える。増えたのが僕なのか。じゃあ、ここにいる僕は誰だ、と混乱を極めて思わず頭をぶんぶんと振った。
 先ずは明日。そう考えて、睡魔が思考をむしばんでいくのを待ち続けた。



 翌朝。昨日と同じように会議室に集まって、朝食――といっても、コンビニで仕入れていたおにぎりや総菜の残りだ。たいした物はないのだが――を食べ終えひと心地ついたあたりで、僕は話を切り出した。みんなの反応は、なんとも名状しがたいものだ。頼んでもいないのに手品を披露したあと、とでもたとえるべきか。どう反応してよいものかと、手探りの感情が向けられている。

「母親だって? それ本当なのかよ?」

 最初に発言をしたのはやはり真人だ。気まずい空気を打破せねば、という、強迫観念めいたものかもしれないが。

「うん。本当だ。確証がなかったので、すぐ言い出すことはできなかったけれど」
「そっか。都の両親は、小学三年生のころに離婚していたんだものね。それなら、すぐ気がつかないのも無理はないかも」

 言葉を選んで、会話を繋げたのは涼子だ。光莉も納得した顔でこくりと頷く。

「ま、そういうことさね。離れていた時期が長いのだし、あんまり都を責めないでやってくれ。むしろ、私がすぐ名乗り出たら良かったのかもしれないけどね」

 くすんだ色の白い壁に寄りかかり、煙草をくゆらせながら母が言う。
 どこまで伝えるのか、という相談は、昨晩のうちに済ませておいた。洗いざらいぶちまけるつもりだったが、一点だけ情報を伏せることにした。
 僕が、一度死んでいる――かもしれない――ということ。これだけは、夏南に訊いて最終確認をしなくちゃならない。どういった経緯かは知らないが、僕はいまこうして生きているのだから。確証のない情報は、みんなをイタズラに混乱させるだけだ。
 それなのに、アイツは今どこで何をしているのか。

「ということはさ、お母さまがこの場所に来たのはもしかして都くんのことを追いかけて? あ、でも。私たちがあとから来たんだからそれはないか」

 たどたどしい声。だが、光莉の疑問はもっともだ。複雑な事情を抱えていた人間が、わざわざ山登りなんて不自然極まりない。

「観光だという話を疑われるのはもっともだね」

 短くなった煙草を、テーブル上の灰皿で母がもみ消した。

「観光であると同時に、またちょいと違うのかも。自殺まで覚悟したうえで、踏みとどまった人生だ。さて、どうしたもんかな、と考えた挙句、懐かしい思い出が詰まっている場所を、巡って歩こうかなと。そう思ったわけさね。この悠久の木がある場所はね、都の奴がすれた子どもになっちまう前に、一緒に訪れた場所だったから」
「すれた子どもは余計だ」
「事実だろうに」

 僕の返しに、複雑な笑みで母が応じた。
 こいつはもちろん、でっち上げた話だ。悠久の木がある場所に来れば、()()()()()の、僕と会えるんじゃないかと思ったそうだ。皮肉にも、その通りになったわけだが。
 一度死のうと思った人間が、思い出の場所をめぐる。走馬灯でも見るかのような、センチメンタルな考えがなかったとも言い切れないが。

「なるほど、事情はわかりました。それで、これからどうするつもりですか?」

 現実的な話題に戻したのは涼子だ。犯罪の話を耳にした以上、市議会議員の娘であると同時に、正義感の強い彼女としては看過できない。

「まあ、そうさね……」

 涼子の問いは少々言葉が欠けていたが、母は争点を理解したのだろう。どこか自虐めいた口調で語り始める。

「私が無実の罪だとうったえたところで、すんなり信じてもらえるとは思っていない。だからこそ、これまで逃げ続けてきたんだしね。けど、逃げているだけじゃ何も始まらないし、逃亡の末に新たな罪を重ねるなんて言語道断」

 数百万にもおよぶ借金に、実際のところ返済の目途はない。
 離婚をして、のこのこ帰ってきた娘が、事業に失敗して何百万も借金があるなんて打ち明けたら、実家の親や親戚一同にどんな顔をされるかわからない。下手したら、絶縁どころじゃ済まないかも。
 母の苦悩は、沈んだ声にも滲んでいた。

「私はね。心のどこかであの男――まあ、離婚した旦那のことなんだが――よりマシだと思ってたんだよ。……でも、そうじゃない。道筋や結果はどうあれ、大事なのは真剣に自分の人生と向き合うことなんだ。自分の成すべきことを成さずに、命を捨てようとした私のなんと嘆かわしいことか。そんな当たり前のことを、この歳になってようやく悟るなんてね」

 誰も、口を挟むことはできなかった。

「なあに、今さら悪あがきなんてしないよ」

「こんな大人になるんじゃないよ」と話を締めくくった母は、結局どうするか明言を避けた。
 道が定まっていないのではなく、あえて口にしなかったのだろうな、と思う。
 人生というものは、一生懸命になれるタイミングを待つのではなく、どんなに泥臭くても都度一生懸命に足掻くことだと悟った母に、もう死角はないのだろう。
 安易に死を選ぶことで、自分の浅はかさを知った母。
 今度は僕が、自分の運命と向き合う番なのだ。
 後悔のない、選択をしなくちゃならない。

 早朝。一縷の望みをかけて、僕は悠久の木の元に行った。そこには予想もしていなかった先客がいた。
「真人」と背中から声をかけると、「おお、やっぱりお前も来たか」と、まるで僕が来るのを予見していた顔で真人が笑った。
「朝五時だと、やっぱりちょっと冷えるな」と羽織ったパーカーのチャックを少し上げた彼。だがそこに、僕たちが望んでいた夏南(かのじょ)の姿は無かった。

 どこいっちまったんだよ。
 もう、僕は逃げない。今度夏南と出会えたときは、意を決して尋ねようと思う。六月のあの日、何があったのか全て教えてくれと。
 ――ピンポーン。
 短い沈黙を破ったのは、集会所の中に響いた音だ。とたん、静寂した空気が緊張をはらんだ物に変化した。
 この建物に呼び鈴なんてあったんだな、と馬鹿げたことを一瞬思うが、問題はそこじゃない。

「来客? っていうかさあ。誰? 俺ら無断でこの場所使ってるしこれヤバいんじゃ?」
「いや……。昨日父さんに伝えておいたし、無断ってわけでもないよ。もっとも、直接言ったわけでもないけどさ」

 血の気が引いた顔をしている真人に涼子が答える。が、一見平静を装っているようで、彼女の声も震えていた。
 ところが、二人以上に過剰な反応を見せたのは母だ。「静かに」とみんなを制する声を発したあと、窓際に寄って外の様子を油断なく窺う。それから、慌てたように頭を引っ込めた。
「どうしたんだよ――」と言いかけたところを今度は目で制される。「動かないで」と。

「昨日の夜。家に電話をしたのはそっちの娘だったねえ? アンタ、いったい何者(なにもん)だい?」

 母の視線が流れた先は、涼子だ。

「……私?」
「彼女なら、市議会議員である南家の長女だよ」
「なるほど……。そういうカラクリかい」
「ちょっと待って、それだけじゃ意味がわからない。というか、出なくていいのかよ?」
「さあ、どうしようかねえ。おそらく、話し合って通じる相手でもないし」

 物騒な発言が飛び出したことに慄き、今さらのように僕らはその場にしゃがみこんだ。
 ピンポーン、と二度目のチャイムが鳴る。

「結婚詐欺師の元を訪れたとき、すでに彼は死んでいた。そう説明したね」

 無言で頷いた。

「私が殺していないとしたら。さて、どうだろう? 他に犯人がいる、という話になるんだ」
「そりゃあ、必然的にそうなるだろうな。って、まさか……?」
「南さんとやら?」
「あ、はい」

 母は、僕の質問に答えることなく、話の水を涼子に向けた。

「昨日家に電話をしたとき、私のことも話したかい?」
「あ、はい……! 大人の女性が一緒にいるので、心配は要らないよと。そう伝えました。なんせ家の親は心配性なもので」
「それで全部わかった。ヤクザの情報網とやらをちょいと舐めていたね。そうか、私の名前一個くらい、簡単に浮上してくるか」
「ヤクザもん……!」

 くぐもった母の声に、真人が驚嘆で返す。

「声が大きい。結婚詐欺師がちょろまかした被害者の中に、ヤクザもんの妹が混ざっていたんだよ。彼女がまた派手にむしり取られたらしくてねえ。金だけじゃなくて、心も」

 段々事情がのみ込めてきたことで、ごくりと喉を鳴らした。そんな小さな音でさえ、静まり返った室内には過剰に響いた。

「あこぎな商売だ。相応に恨みを買っていたというわけさね。これは仮定の話になる。もし、その女の兄が犯人であるとしたら、いま現在一番の容疑者である私が、罪をかぶったまま死んでくれたほうが、色々と都合がいいだろうしねえ。こういう事態を予測してなかったわけでもないが……しくったね」
「死んでくれたほうがって……おい!」

 静かに、とでも言うように、母が唇に指を当てた。

「来訪者は、黒いスーツの男が四人だ。彼らが警察であったなら、素直に任意同行には応じるさ。違ったとしたら……。まあ、やれるとこまで足掻いてみるさ。争う音が聞こえてきたら、私に構わず裏口から逃げな」

 そう言って、母が建物の奥側に視線を向ける。ピンポーンという三度目のチャイムと同時に部屋を出ていった。

「はーい。今出るから急かすんじゃないよ。せっかちな男は嫌われるんさね」