僕の両親が離婚したのは、小学校にあがって数年した頃の話。
物心ついたときから、夫婦仲は良くなかった。お互いに自己主張の強い性格だからなのか、とかく衝突が多く、顔を合わせるたび喧嘩していたように思う。
離婚の原因を聞いたことは一度もない。神無し島にある実家の長男である父は、がっしりした上背と太い腕を持った寡黙な人で、母のことは聞くなという刺々しさを醸し出していたから。
そんな日々で僕が感じていたのは、すれ違いが続いていくうち生まれた不貞問題が二人の間におそらくあって、それがもとで二人がよく喧嘩をしたことだ。
とにもかくにも、母は僕を置いて突然家を出て行き、そのまま離婚が成立してしまう。
それから一年が経過して、僕が小学校四年生になろうとした頃だ。父親の転勤が急に決まり、本土に引っ越した。本当の苦難はそれからだった。
父は支店長に抜擢されたとかで、ある日を境に突然忙しくなった。相応に収入もよくなったのだろうが、温かくなる懐とは裏腹に、僕に対する当たりは冷たくなった。仕事が忙しいぶん、ストレスも多かったのだろう。
元々、学校行事に顔を出す親でもなかったが、最早いっさい参加しなくなった。酒を飲んで帰宅することが多くなり、日に日に、躾という名目による、僕に対する体罰と愚痴が増えた。こちらからの歩みよりは意味をなさず、あまつさえ、何か言い返そうものならよけい強い力で殴られるだけなので、黙って口を噤むことを覚えた。会話は殆どなくなって、朝晩の挨拶があればマシなほうだった。
ある日父に言われたのが、『お前さえ、生まれなければ』だった。どういう意味だったんだろうな。父は、自立心の強い人だったし、僕がいなければ、もっと仕事がうまくいくとでも言いたかったのかもな。
この頃になって僕は悟る。離婚の原因は、父の側にあったのかなと。
ショックはあったが、心の傷はさして深くなかった。家に帰っても無人なことが多くなっていたし、買ってきた弁当を温めて食うだけの毎日に慣れ切っていたから。
五年生になって水泳を始めると、自分との闘いに没頭することでストレスを発散した。
こうして僕たち親子は、身も心もすれ違うようになっていく。
さらに数年が過ぎたころ、あの悲劇が起こる。
クラブで遅くなった僕が家に帰ると、父がリビングで倒れていたのだ。
うつぶせ寝の体勢でピクリとも動かない父を見て、驚きで思考が停止した頭でも、緊急を要する事態だと理解した。焦燥だけが降り積もるなか、震える指先で一一九番通報をした。
電話口の大人に落ち着くよう促されながら場所と父親の容態を伝え、まもなく救急隊員がやって来たが、父はすでに心肺停止の状態でありそのまま帰らぬ人となる。
思えば、様々兆候はあった。
父は、めまいをうったえることがあった。
酒を飲んで帰ってきたとき、過度にふらつくことがあった。
大声で僕を叱責したのち、動悸の症状がでて蹲ることがあった。
この日になって初めて僕は、父が『QT延長症候群』なる心臓の病を抱えていた事実を知った。もっと早く気づいていれば、一人寂しく死なせることもなかったのだろうかと、今さらのように後悔した。
皮肉にもそれは、現在光莉が抱えている病気と同じもの。
立て板に水、とばかりにまくし立てると、しん、と場の空気が静まり返った。蝉の鳴く声が、じーわじーわと耳に響いた。
みんなが言葉を選んでいる様がひしひしと伝わってきて、ちょいとばかり、重い話をひと息にし過ぎたなと反省する。
「それから、お母さんとは会ってないの?」と探るような声で涼子が言った。
「離婚してから数ヶ月したころ、一度だけふらっと訪ねてきたかな。もう何年も前のことで、何を話したのか殆ど覚えていないんだけどね」
記憶が、古すぎて。
「そっか。お母さんは元気にしてるのかな」
「してるだろうさ。あの人は、生きるための活力が有り余っている人だったし」
唯我独尊というか。
自分本位というか。
前向きで自立心の強い人だった。
時々、母について行ったら僕の人生ももう少し変わっただろうか? と妄想することがある。
自由に生きるための足かせになるのを嫌ったのか。父の血を引いている僕のことなど眼中になかったのかは知る由もないが、結果として僕は捨てられた。
求められていなかったという、それだけのことなんだ。
「そういえば、都くんのお母さんって、怒ると怖い人だった気がする」
「そうだっけ?」
「うん。でも、顔はまったく覚えてないんだよね。どうしてなんだろ?」
真人はともかくとして、家が近所の光莉ですらこれだもんな。渋面になりそうなのを抑えて、「でしょ? うちの親は、学校行事に殆ど参加しない人だったからね」とアンニュイに返した。
「参加は任意なのだから、忙しかった親を責めるつもりはないけどね。でも、一度くらいは授業参観に来てくれても良かったのになあ、と思っているのも事実かな」
「真人くんの家と、涼子ちゃんの家はほぼ毎回来てるもんね。嫌でも顔を覚えちゃうよ」と光莉が羨ましそうに言うと、『うちは特別!』と真人と涼子の声が揃った。
微妙な顔になって、二人が顔を見合わせる。
「いや。でも、実際羨ましいよ」
僕は、親の愛情ってものがよくわからないからな。
真人から話を聞いたとき、どうしてすぐ出発しようと思ったのか。その時の気持ちを因数分解すると、わびしい自分の姿が浮き彫りになる。僕は愛情に飢えている。他人から依存されることでしか自分の価値を見いだせない僕は、誰かが消えてしまうかもしれない、という現状を恐れている。平穏な今が損なわれることを恐れている。
僕を好きだと言ってくれた涼子。島に戻って来たとき、我先にと話しかけてくれた光莉。もしかすると、ちょいとばかり嫌われているかもしれないけれど、僕のことをライバルとして認めてくれる真人。
誰一人欠けることなく、全員顔を揃えて戻って来たい。それを証明するための、旅でもあるんだ。
欠けちゃならんのは、夏南だって同じこと。
チラっと視線を頭上に向けると、プカプカと浮きながら、「なあに?」と首だけを夏南が向けてくる。
もっとも、夏南の話は誰にもしない。
神様の存在なんて、言ったところで信じてもらえるはずもないから。
「しっかし驚いたな。まさか都にも見えているなんてな」
ただ一人。コイツを除いて。
女子二人に気づかれないよう声をひそめた真人に、苦笑いで応じた。
「その言葉、そっくりそのままお前に返すよ」
◇
「で? いつから見えているんだ」と小声で真人。
「この島に戻って来て、まもなくのころかな。最初に夏南を見たのは、花咲神社だった」
三年半ぶりとなる故郷。
木枯らし吹きすさぶなか、島のなかを探索して歩き、花咲神社で出会ったのが夏南だった。
あの日、神社の境内には他にも何人かの参拝客がいて、周りの反応を見ているうちに気がついた。
胸に手を当て、歌声を虚空に響かせる彼女の隣を、参拝客が何事もなかったかのように通り過ぎていったから。
彼女が人ならざる存在であることも。
僕だけにしか、その姿が見えていないのも。
そして彼女が、幼いころに出会った、あの女の子であろうことも――
もっともコイツは認めないのだが。
「ああ。花咲神社の神様とか、のたまっていたもんな」
そんな、頭オカしいみたいな言い方しないで! ちゃんと神だから! という夏南の苦情が真上から降ってくるが、真人は華麗にスルーした。
「というか、じゃあさ、それなりに長い付き合いになるんじゃないか。もっと早く教えてくれりゃ良かったのに」
「言ったら、信じたか?」
「いや、バカなんじゃないの? と笑い飛ばす」
「だよなあ。お前、目に見えるものしか信じない性質だもんなあ」
「そうなんだよー。甘酸っぱいこの交際が始まってから、もう一年にもなるんだよね。それなのに、キスもまだ済ませてないなんて、もしかしてボクたち倦怠期かしら?」
ずっと無視され続けるのが不満なのか、夏南が無理やり会話にわりこんでくる。
「盛り上がったこともないのに、どうやって倦怠期が来るんだよ。そもそも、お前に触れないし」
しまった。構ってしまった。
「やっぱ、人間の女の子がいいのかあ。触れない美少女より、触れる手近な女ってか」
「自分で美少女設定とか作るか? 傲慢な神だなあ。それに、身近な相手に惹かれるのは、むしろ自然なことなんじゃ? 遠距離恋愛は長続きしないってよく言うだろ?」
「こんなに近いのに?」
「人と神の時点で遠い」
夏南はだいたいいつもこんな感じだ。
いったん喋りだすと、止まずずっと喋っているというか。
もっとも、夏南の声は俺と真人にしか聞こえていないので、女子ら二人の視点では、俺たち二人が小声でぶつくさ言い合ってるように見えるんだろうけど。
「ふーん、オカしいなあ。ボクと都の距離は近いはずなんだけど」
「近くないだろ」
「ううん。近いよ」
横柄に返した呟きに、ひどく真剣な声を重ねられる。僕は意味がわからなくて顔をしかめた。
茶化してみたり踏み込んできたり、なんなんだ。頬を膨らませると「さっきから何ぶつぶつ言ってんの」と涼子に突っ込まれる。「独り言」とうやむやにしておいた。
「変な奴。ま、いいや。もうすぐ私のおばあちゃん家に着くよ」
「お、おう。そ、そうか」
「声、うわずってる」
大人しくなったな、と不審に思い頭上を見やると、すでに夏南の姿は跡形もなかった。
――わたしが、見えるの?
あの日、悠久の木の下で出会った女の子が、本当にこう言ったのかはわからない。
あの日の光景は、曖昧な記憶の海に沈んでいて、いまひとつ像を結ばないのだから。
出会った場所が違う。
着ていた服も違う。
それでも僕は、あの子が夏南だと信じている。はにかんだ時の目元や、透き通るような白い肌に、あの子の面影が朧気にあるから。
だがしかし、夏南は認めない。それとなく何度か探りをいれたが、知らぬ存ぜぬの一点張りだ。
あの女の子は本当に夏南と違うのか? なぜ夏南は、僕ではなく真人に話を持ち掛けたのか? いくつかの疑問が、小骨のように喉元に引っかかっている。
本当はわかっている。知らずにいたほうが、いいんじゃないかってことも。
これが、身分違いの報われない恋なんだって――ことも。
涼子の祖母だという老婦人の家は、町外れにある小さな一軒家だった。
「よく来てくれたわねえ」と僕たちを出迎えた彼女に促されて、和風な佇まいのリビングに通される。
各々がソファに座ったのを確認したのち、その老婦人は「ちょっと待っててね」と言い残し部屋を出ていった。
待つこと数分。飲み物と、一枚の写真を手に老婦人は戻ってくる。テーブルの上に置かれた写真に目を落とし、「これは?」と会話の口火を切ったのは真人だ。好奇心旺盛な彼らしい。
写真の中央に映っているのは、三十代半ばほどの婦人と、傍らに立っている柔和な面持ちの男性。撮られたのは何十年も前なのだろう。デジカメなどで撮ったものとは解像度が違うようだったし、なにより彼女の姿が若い。
「カッコいいでしょう? これが、私の夫なのよ。もう三十年近く前に亡くなっているから、夫だった、と言ったほうが適切かしら」
涼子から聞かされていたので知っていたが、不幸話なので返す言葉を慎重に選ぶ。結局、「はい」と相槌を打つに留めた。
「仕事熱心な人だったからね。病の発見が遅れてしまったのよ。彼が隠していた体調不良が露見したときにはもう手遅れで、病巣が複数の臓器に転移してしまっていた。若いからむしろ病気の進行が早くて、そこからはあっと言う間。治療の甲斐もなく呆気なく逝ってしまったわ」
「そうだったんですね。お悔み申し上げます」
ありがとう、と老婦人が遠い目をした。しんみりとした空気を誤魔化すように、僕たちに紅茶を勧めた。
「自分で言うのもなんだけど、私たちは仲の良い夫婦だったの。それだけに、夫を亡くしたあとの喪失感もすごくてね。何もやる気が起きなくて、ただぼんやりと毎日を送っていた。生きながらにして、死んでいるような状態だった」
僕も、父を亡くしているので彼女の気持ちはよくわかる。
正直、そんなに仲の良い父だったとは思わない。愛されていたという実感も薄い。それでも、たった一人の身内なのだ。行き場のない、がらんどうの心を抱えたのは確かだ。
「しばらく、引きこもるような生活を続けていた。とはいえ、いつまでもそうしてはいられないと、思い立って遠くまで歩いてみたの。風の吹くまま気の向くまま。商店街を歩き、海を眺め、それから神社に足を向けた。そうして歩いているうちに気づいたんだけど、どの場所にもあの人と過ごした日々の記憶が残っているのよね」
当時のことを思い出しているのか。その染み込んでくるような語り口調に、光莉が鼻をすする音が聞こえた。
「一度記憶がよみがえってくると、そこからは止め処がなくなった。楽しかった記憶ばかりじゃないわ。中には、彼と喧嘩をした日の記憶もある。けどそれは、過ぎ去ってしまえばすべてが宝物のようで、どれもが光り輝いて見えてきたのね。でも、光り輝いている記憶は、同時に重くもある。神社の境内にたどり着いたところで、心が押しつぶされそうになって動けなくなってしまった」
神社の境内というワードに、いよいよ核心に触れるんだろうな、と思う。だが、肝心の夏南の姿はない。
アイツめ。どこかに隠れやがったな。
「丁度その時だったわ。『こんにちは』と知っているような口ぶりで声をかけてくる男性がいたの。顔を上げる前からわかった。亡くなったあの人の声だって。不思議なこともあるものよね。間違いなくあの人は死んだはずなのに、そこにいたのは紛れもなくあの人だったのよ」
あらかじめ準備していた青色の手帳を涼子が広げた。ペンを走らせながら、それで、と老婦人に質問をする。
「おばあちゃんの誕生日に、悠久の木がある場所に行って願ったと聞きました。おじいちゃんが、戻って来ますようにと。それは、間違いないんですか?」
「うーん」と秒針が半周するほどの間思案したのち、「たぶんそうだと思うんだけど」と、歯切れ悪く老婦人が答えた。
「たぶん?」
「ええ。悠久の木に行ったことはあるんだけど、もう、ずっと昔のことだしねえ。そう記憶してはいるものの、前後の記憶があやふやで、なんとも言えないのよ」
「そうですか。あの、こんな言い方は失礼ですが、人違いだったということは?」
「それもないわねえ。もちろん最初は人違いじゃないかと疑ってかかったわ。でも、彼の特徴は、どこ一つとっても間違いなくあの人のものだったもの」
「わかりました」
一先ず納得した、という体で涼子が頷いた。彼女の反応を確認し、老婦人が続きを話した。
「再会を喜び合った私たちは、二人そろって家に戻った。そこから始まった約一ヶ月の日々は、それこそ夢のような毎日だったわ。……おそらく」
「おそらく?」
そこに不穏なワードが混じっていたことに、思わず尋ね返した。徐々にあやふやになっていた彼女の話が、いよいよ陽炎のように揺らいだ。
「そうなの。確かにあの人と私は、たぶん、一ヶ月ほどの期間を楽しくこの家で過ごしたはずだったのよ。それなのに、気がつけば私はまた一人になっていて、あの人の姿も消えてしまっていた」
『確かに』と『たぶん』。 真逆の意味を持つ単語が一文中に登場してくるあたりをみても、記憶が錯綜している事実がうかがえる。
死んだ人間が戻ってきた、と主張している人物の話は初めて聞いたが、なるほど、そういう感覚なのか、と思う。彼らはみな、夢物語のような話をするのだ。木に願ったかどうかすら曖昧な者。どういった日々を過ごしたのか、殆ど覚えていない者。話が漠然としていて、つかみどころがないのだ。
確たる証拠がない。
因果関係が認められない。
当人の話ですらこれなのだから、悠久の木の伝承にかこつけた創作だと言われるのも無理はない。
それでも僕は信じたいと思った。夏南の顔を立てるわけでもないが、こんな美しい思い出を、一笑に付すのはいささかもったいない。
「近所の人に聞いても、あの人の姿を見たという人は誰もいない。すっかり私は頭のオカしい人扱い。でもね」
そこで老婦人はいったん言葉を切った。遠い日の記憶に思いを馳せているのだろう。気持ちここにあらずという風に、遠い目をした。
「私は確かに覚えているの。あの楽しい日々は確かにあったと、そう信じたいの。まあ、どっちでもいいんだけどね。いずれにしても、彼と過ごした日々は私にとって美しい思い出なのだから」
最後に使った『確かに』という表現に、彼女の本音が滲んで見えた。「これで年寄りの昔話はおしまい」と崩した相好は、ちょっと寂しい笑みだった。
「つまらない話だったわね」
「いえ、そんなことはありません。貴重なお時間を取って頂きまして、ありがとうございました」
間違いなくこれは本心だ。誰かを思う気持ちが美しくないはずもないのだから。
もし、本当にどんな願いでも叶うとしたら、僕は何を祈るのだろう。もう一度父親に会いたいと願うのだろうか。
それはないな、と答えを導いた人でなしの自分を見つめ、心の醜さに嘆息した。
老婦人の家を出た僕たちは、コンビニエンスストアの駐車場にたむろして、ちょっと早めの昼食を摂っていた。
「亡くなったはずの旦那が戻ってきた、かあ」
コンビニおにぎりのフィルムを剥がしながら真人が言う。「うん。これとよく似た話が他にも数件あるんだよね」とそれに涼子が補足した。
「確かに、荒唐無稽な話だったよね。けど、似たような話は他にもいくつかあるんだし、幻想かなんかだと笑い飛ばしていいものか、ってちょっと悩むよね」
「うん。たとえ夢だったとしても、いい話だなあ、とは思ったんだけれど、もし本当にあった出来事だとしたら、それこそ夢と浪漫がいっぱいだね」
サンドイッチをほおばりながら光莉が涼子の話に同調する。「そうだね」と涼子が頷いた。
一ヶ月間だけ、死んだはずの夫が戻ってきて、忽然とまた消えてしまったという老婦人の話。なぜ戻ってきたのかも、なぜ消えてしまったのかもわからないというその内容は、涼子が言う通り荒唐無稽だ。普通の感覚であれば信じられない。
だが。
『あれって、お前の仕業なのか?』と後ろでぷかぷか浮かんでいる夏南に訊ねる。
ふらっといなくなったかと思えば、またいつの間にか戻ってきていた。神様だけに神出鬼没だ。
『どうかなあ』とすっとぼけた口調で夏南が言う。隣の真人が怪訝な顔になる。
『これはねえ、ボクの口からは違うともそうだとも言えないんだ。すべて、君たちの中で答えを見つけて欲しいかな。神という存在は本来概念であり、「信じるものは救われる」の言葉通り、具現化されるべきではない。よほどのことがない限り、ボクたちから人間の世界に手を出すことも、有益な情報を語ることもないんだよ。むしろ、こうして話ができるだけでも有難いと思いたまえ』
概念のくせにお喋りだな。
『お喋りはとくに問題ない』
ほんとかよ。というか思考が筒抜けだった。
『まあいいや。それ自体は理解できる。神様がほいほい真相を語ってしまうんじゃ、威厳もへったくれもないからな。けれど』
『けれど?』
『何かヒントくらいくれよ。知っているのにはぐらかされているみたいでさ、なんだかモヤモヤするんだよ』
『ふむ。まあ、その気持ちは理解できる。けれど』
『けれど?』
くっそ、同じ返しをしてきやがった。経験則上わかる。これは、真相を告げず煙に巻くときの夏南の合図だ。
『もし、本当に知りたいことがあるなら、ボクに願い事をしたらいいんだよ。それなら語ってあげられる。ボクが知っている範囲でね』
それはとどのつまり、知っているってことじゃないのか。悪態をつきそうになって、すんでのところで抑える。
『相変わらず性悪だな……』
『性悪じゃない。それもこれも、決まりなんだよ』
『なあ、決まりってなんの話だよ』
ここで、我関せずとばかりに聞き流していた真人が食いついてくる。もっとも、一連の会話はすべて念話で行われているので、僕と夏南と真人にしか聞こえていない。
これも夏南の特殊能力のひとつだ。
『決まりというか、制約というか。あっ、そうか。真人もいることだし、願い事を叶えるにあたっての制約について、改めて語っておこうか』
『そういや、そんなこと言ってたっけなあ。つまり? 悠久の木が起こす奇跡は、本当にあるって解釈でいいのか?』
『そうだね』とここだけやたらに強く夏南が宣言した。伝承があっさり肯定されて、お調子者の真人も押し黙る。
『まずひとつめ』と指折り夏南が説明を始めた。
制約その一。
過去に起こった事象を覆すことはできない。当然、歴史を変えることもできない。
制約その二。
願い事を叶えた結果、辻褄の合わない事象が発生した場合、違和感が出ないよう記憶が書き換えられる。なお、記憶の書き換えは、島の人間にしか働かない。また、矛盾点に誰かが気づいた場合、奇跡はただちにその効果を失う。
制約その三。
効果がおよぶ対象は、個人、もしくは、ひとつの事柄に限られる。
解説書でも読み上げるように、滔々と夏南が語った。
『あと、一人につき一回なんだっけ?』
『肯定』
『じゃあじゃあじゃあ! 俺が願えば、世界の覇者にだってなれちゃう?』
明らかに色めき立った真人を、『なれないよ』と夏南がぴしゃりといさめた。
『君なんかが支配者になったら、不利益を被る人が様々出てくるだろう? 政治、経済のみならず、多大な損害が出るだろう? そういった、影響力が大きすぎる願い事はダメだ。ボクの手にも余ってこぼれる。君だとそうだなあ……。精々、そこはかとなく凄い人にしかしてあげられない』
『もうちょっと夢はないのですか。それはそうと、ナチュラルに俺のことディスるのやめて。でもまあ、言われてみると確かに』
これには真人も意気消沈。
『じゃあさ』
『却下。そもそも、そんな下品な願い事は、こっちから願い下げだよ』
『まだ、何も言ってない』
『でも、思ったんだろ……』と僕は呆れてしまう。
『うまい話には裏があるって奴かあ』と真人が嘆息した。『胸も貧相だけど、サービス精神も足りないよねこの神様』
『ちょっと! まわりに聞こえてないと思って、雑な悪口やめてよ! ちゃんとあるよ。これからきっと成長するよ』
お前らの反応、どこか似ているな。
『神様なのに成長なんてするの?』
真顔でそう尋ねると、夏南の奴、何やら複雑な顔をしやがった。
『やっぱりさ、僕が昔会った女の子って、夏南のことなんじゃ?』
『ん? お前らが出会ったのって、ここ数年の話じゃなかったの?』
声に出してこそいないが、大きな身振り手振りを交えて真人がリアクションするもんだから、「なに。誰と話してんの?」と涼子に目ざとくみつけられる。僕は「あちゃあ」と天を仰いだ。
やりとりを見ていた夏南が、『ああ、そうか』と得心したようにポンと手を打った。
『よし。光莉と涼子にも、ボクの姿が見えるようにしよう』
「そんなことできるのかよ! だったらもう少し早く言ってくれ!」
あっけらかんとしたその物言いに、僕と真人の声が綺麗にハモった。
「ははは」と夏空のように乾笑し、僕の手を夏南がギュっと握る。
もっとも、神様である夏南に触れることはできないので、握っている――という素振りだけなのだが。
ぶつぶつと夏南が奇妙な念を唱え始めると、みるみるうちに、光莉と涼子の顔色が変化していく。
二人の反応は、実に対照的だ。
涼子は、眉間にしわが寄った怪訝な顔に。一方で光莉は顔面蒼白だ。
彼女らの視点で見ると、頭とつま先、どっちからかはともかくとして、夏南の姿がじわじわと見えるようになったのだろう。
「驚くのも無理はないな。エイリアンの姿がじわ……っと浮かび上がってくるあのシーンとか、めっちゃビビるもんな」
「お願いなので、ボクをエイリアンでたとえるのはやめてくれませんかね? こんな美少女つかまえて、ほんと酷いもんだよ」
ぷんすかと頬を膨らませる夏南に手を向けて、「コイツが夏南。悠久の木に宿った神様 (自称)だ」と紹介した。ついでに、さっき聞いた願い事を叶える条件って奴も準を追って。
「あれだよね? 君。そこはかとなくボクのことバカにしてるよね?」
「神様……? 神様って本当にいるんだ……?」
なかば怯えたように、瞳をぱちくりさせる光莉。
「随分と、ざっくばらんな物言いの神様なのね。なんか、私の中にある神様像が、根本から崩れそう」
正面から、夏南をじっと見つめて涼子が問う。詰問でもしているようで、目がちょっとだけ怖い。
それでも比較的、涼子は夏南の存在を受け入れているようだ。さっきから視線が定まらない光莉とは正反対に、夏南に触ろうとして、手が突き抜けるのを楽しんでいる風ですらある。
「これまでの概念をぶち壊す、新機軸の神ですか。なんだか照れますね」
「別に褒めてはいないんだけど……」
「よろしくね、涼子。光莉。花咲夏南です。世界平和を目指しています」
「へ、変なひとだー」
とはいえ、神なのだから正しい目標かもしれない。
「そうだよ」
「心の声に、相槌をうつのやめて」
「ねえ」と問い詰める口調で涼子が言った。「悠久の木のところに行くように真人に示唆したのって、あなたで合っているのよね?」
「肯定」
「じゃあさ、増えたのが誰か、ってことも知っているんだよね? 神様なんだし」
「論理が少々飛躍してないかい? 神にどんなイメージを持っているのか知らないけれど。まあでも、その問いに対する答えなら、『肯定』だね」
涼子がごくりと喉を鳴らした。
「じゃあ教えてよ。この中に、その人物が――」
「おっと、ストップ」
それ以上言ってはならないよ、とばかりに夏南が制止をかける。
「そこから先の情報は、神のみが知る領域だ。他にも様々知りたいことがあるだろうけど、ボクの口からはいっさい答えられない」
「意外とケチなのね」
「君も真人と同じようなことを言うんだね?」
「でも」とここで光莉が口を挟んだ。「夏南さんを視認できる人の願い事なら、なんでも一つだけ叶えられるんでしょ? ということは、私が望むなら、真実を知ることができるってこと?」
「いや。君にその資格はない」
「どうして?」
「確かに今、ボクの姿は光莉に見えている。しかしそれは、都の視覚情報とリンクさせることで、一時的に見えるようにしているだけだ。だから君は、『ボクの姿が見える者』の条件に合致しない」
「そういうことかあ」
露骨に光莉が落胆してみせた。
「ということは、俺と都の責任は、それなりに重大、ってことになるんかね」
「そうかもな」
こうしている間もずっと夏南と手を繋いでいる (ただし概念)という事実に照れくさい感情を抱きつつ、僕は真人の意見に同意した。
もっとも、平行線の議論をしていたところで結論なんて出やしない。
先ずは、悠久の木のところまで行ってみるほかないのだ。食べ終えた弁当の空をゴミ箱に捨て、僕らは再び歩き始める。
朝方より強くなった日差しは、今日という一日が炎暑となることを予感させた。
◇
ときおり休憩を挟みつつ、歩き続けた。
次第に道はその傾斜を強め、段々標高があがってきているのがわかる。辺りに民家はすでになく、道の両脇は鬱蒼と茂った森が続いていた。
しばらく来たことがないので記憶はおぼろげだが、もう間もなく登山道の入口が見えるはず。
「あの子、今もそのあたりに浮いてるの?」と涼子が言った。
「ああ、いるよ」
そうか。僕と手を繋いでいないから、もう見えないんだな、と改めてそんなことを認識する。
「なんだか、監視されているみたいでモヤモヤする」
「そんなつもりはないってさ」
「ほんとに、そう言ってるの?」
「言ってるよ。一応」
まあ、嘘ではない。夏南は、誰かの悪口をこそこそいうタイプじゃない。というか、一応神様だしな。
一応じゃない、と突っ込まれたが、取り敢えず放置しておく。無視するなー、という抗議も、受け流しておく。
そうこうしているうちに、目的の場所が見えてきた。
市道の右側にぽっかりと開けた場所があり、舗装はされていないが車数台が置けるだけのスペースがある。そのさらに奥、木々の間を縫うように走る登りの道が見えた。すぐ脇に、『時越山登山道入口』の看板も立っているので間違いない。
「お、車あるじゃん。カッケー」
真人が指差した先、黒色のSUV車が停まっていた。
「登山客かな。珍しい」と僕。
「かもなー。ほら、一応観光地だし」
「うん。確かに観光地だけど、山登りがキツいから、よほどの物好きしか来ないけどね」
悠久の木に宿った神をかたどった神像は、麓にある花咲神社に今は移されている。それもあって、わざわざ山登りしてまで木を見に行く人は実際少ない。
涼子が説明を加えながら、登山道入り口を目指して歩きはじめる。ところが、彼女の足はすぐ止まった。
「どうした?」と疑問に感じて声をかけると、「あれ」と言いながら涼子が駐車場の一角を指差した。
今度はなんだよ、と思いながら向けた視線の先にあったのは、何台かの放置自転車。問題はその中にある赤い自転車だ。どこかで見た気がするんだよな、と感じた疑問は、直後に上がった「あっ」という光莉の声で解決する。
「私の自転車だ! どうしてここにあるんだろう?」
「ほんとだ。光莉のものじゃん」と同意したのは真人。「なんでここにあるの? 光莉この場所に乗り捨ててった?」
「そんなわけないよ。だって私、しばらくこの場所に来たことないもん」
「じゃあ、どうしてこの場所に放置されているんだよ?」
「うーん……わかんない。どうしてだろう?」
「忘れている、なんてことはないの? その年齢で記憶喪失とかガチめにヤバいけど」
「えー」
冗談だよ、と真人が笑い飛ばした。
「たとえばさ、家に置いてあるのを誰かに盗まれたとか? それでこの場所に放置された」
頭に浮かんだ推論を述べてみたが、自分でも無理があるなって思う。
「うーん」と光莉がひたすら唸っているが、答えに行きつく気配はない。
「ま、ないか。さすがに、盗まれたことを忘れている、なんてことはないだろうし」
ところが。
「ひとつだけヒントをあげる」
唐突に、鼓膜を叩いた声に踵が浮き上がる。
声がした真横を見ると、僕の手を握っている夏南がそこにいた。
「いきなり姿を現すなよ。みんながびっくりするだろう」
びっくりしたのは僕もだが。ところが、夏南の視線はこちらに向かない。なんなんだよ、こいつ。
「ボクが、願い事を叶えた人物の記憶は、一部なくなるんだよ。具体的にいうと、『願いを叶えた』という部分が」
「なんだよそれ……。じゃあ、光莉は夏南に願い事を叶えてもらったけれど、記憶を一部失ったため、この場所に来たことを含め忘れているんだ、とでも言いたいのかよ?」
「それはどうかな? だって光莉は、ボクの姿が見えないのだし。彼女の願い事を叶えることはできないねえ」
はぐらかすような物言いに、真相を語るつもりがないんだ、と気づいた真人が沈黙する。光莉と涼子も、さっきからずっと口を噤んでいる。
どくん、と心臓が強く脈をうつ。
みんなは、気づいたのだろうか。僕は、気づいてしまった。
今日、夏南に聞かされた、『願いを叶えるための制約』および、『記憶を失う』という情報を全部繋げると、老婦人に聞いた不思議な話も、概ね説明がついてしまうということに。
同時に、光莉の身に何か不測の事態が起こって、その上で戻ってきたという突飛な仮説も成り立つってことに。
まさかとは思うが、この山の上に、光莉の死体があったりしないよな?
最悪な仮説が頭に浮かぶ。太陽が一瞬だけ雲に隠れる。
熱気が肌にまとわりつくほど蒸し暑いのに、冷たい悪寒が背筋に走った。
神とはどんな存在であるべきか、汝は考えたことがあるか?
ひとつ。神とは概念であるべし。
ひとつ。神とは崇拝の対象であるべし。
ひとつ。神とは畏怖の対象であるべし。
神とは人間を超えた存在。決して、人と同じ場所に立ってはならぬのです。
情や、欲に溺れることなかれ。
さすれば汝。神の力を失うことになるぞ――。
◇
これはあくまでも仮定の話である。
あの老婦人が夏南の姿を見える人間だったとして、『亡くなった夫と再び会いたい』と願ったとする。そうして戻ってきた夫と婦人は二人で暮らしたが、ある日、夫が故人であることを誰かに指摘された。矛盾が認知されたことで、奇跡がその瞬間解除されたとしたら? これで一応、物語としての辻褄はあう。これと同じことが、光莉にもいえるのではないか? 願い事をしたという事実を、忘れているだけなんじゃないかと?
だとしても、疑問はいくつも残る。
では、光莉の身に何が起きたのか。起きたとして、彼女は何を願ったのか。そしてなぜ、夏南の姿が光莉に見えていないのか。
それとこれと、一人増えたというこの超常現象に、どんな繋がりがあるというのか。
――ダメだ。
さっぱりわからない。
結局、すべては仮定の域を出ないのだ。
鼻歌を歌っている頭上の夏南を、恨めしそうに仰ぎ見た。
思わせぶりなことを言って、ややこしくしやがって。コイツ絶対いまの状況を楽しんでやがる。
◇
光莉の自転車が、どうしてあんな場所にあったのか。
こそげ落ちることのない違和感が、ずっと頭の中にあった。
四人の間に横たわっている重苦しい空気を払拭したのは、妙に明るい声の真人だ。
「アイス買ってくりゃ良かったなー」
樹木が密生している登山道なのだから、直射日光が当たらないだけマシだと言えるがそこは七月の炎天下。ただ歩いているだけでも額に汗がにじんでくる。
「まあね。このうだるような暑さじゃその気持ちもよくわかる。でもさ、アイスって食べたあとに喉が乾くから水分補給には向いてないんだよ」
そう返した涼子の首筋にも、玉のような汗が浮かんでいる。彼女はクールな性格なので、いまいち汗が似合わない。
「そうなの? だって、水の塊じゃん」
「と、思うでしょ? ところが、アイスに含まれている水分量は、じつのところ七割ほどなんだって。それに、糖分を接種することによって血糖値が上がってしまうから、それがもとで結局また喉が乾いてしまうんだってさ」
「なるほど。結局、水と塩分を一緒に摂るのが一番か」
「うん。でも、塩分も摂りすぎると喉が渇くらしいしほどほどにしないと。塩分を摂取するべきと言われているのは、汗を大量にかいたとき、体内の塩分も一緒に失われてしまうから、が理由だったはず」
クスッと笑いながら、光莉が真人にスポーツドリンクのペットボトルを差し出した。「飲む?」
「こういうマメなところは、さすが光莉って感じだよな」
ありがと、と受け取って、即座に真人の動きが止まる。ペットボトルの栓はすでに開いていた。
「いいの?」
「え、何が?」
意味がわからない、と言わんばかりに、光莉が真人を凝視する。
「あ、いや、なんでもない」
真っすぐ見返してきた瞳にいたたまれなくなったのか、真人は控え目に一口だけ含んで、すぐペットボトルを返却した。
「もういいんだ?」と笑った光莉の頬に木漏れ日が落ちて、じめっとした空気のなかでも涼し気だ。陽光を反射して煌めいたペットボトルは、光莉の穢れの無さを象徴しているようだ。
光莉はこういうところがある。鈍感というか、無垢というか。無自覚なのも、時として残酷である。
「さあさあ、アイスなんて贅沢品のことは忘れて、みんなできりきり歩く歩く。無駄な出費を抑えられたと思えば、まあ、いいじゃない」
涼子のポジティブシンキングに、しかし、仏頂面になったのは真人だ。
「そりゃあ涼子はいいよな。金持ちなんだから、無駄遣いしたって怒られないだろうし」
「ちょっと待ってよ。いまそんな話はしてないでしょ? そうやって金持ちだからって私のこと羨むけど、家は厳しいから全然自由になんてさせてもらえない」
「どうだか。そういうのはな、贅沢な悩みって言うんだよ。それにな、自由にならないのなら俺だって同じだ。家の仕事を継がなくちゃならんから、将来だって選びようがないし」
「あら? 安泰でいいじゃない? 世の中には仕事をしたくてもできない人が一杯いるんだし、そういう人達から見れば、それだって贅沢な悩みなのよ? だいたい私だって進学先が――」
「もうそんくらいにしておけよ」
「喧嘩はやめようよ」
見かねた僕と光莉が、ほぼ同時に突っ込んだ。
正直、真人が嘆きたくなるのもよくわかる。厳格な家に生まれたがゆえに、自由にならない涼子の不満も。が、光莉の表情が沈んだことは見逃せなかった。
光莉は心臓に病を抱えている。この先どうなるかわからない彼女の視点で見ると、安泰な将来の話を不満げに語るこの流れは少々酷だ。
そこに気づいたのだろう。
涼子も真人も、殊勝な態度で頭を下げた。「悪かった」と。
真人が、頭上の夏南と光莉にチラっと一瞥したのち、歩調をわずかに緩めた。体力のない光莉を気遣って、ここまで休み休みの道中だったが、そういう気遣いとは違うようだ。
光莉と涼子が先行する格好となり、ごく自然に真人は僕の隣に並んだ。
「なあ」と真人。
「なんだよ」
「お前が医者を目指しているのってさあ。光莉のためなのか?」
あらぬ推察を許したようで、返答に窮する。
そうだ、と言えなくもない。同時に、そんな大それたことを言えるほどの人間じゃないことも心得ている。
通い始めた塾で、初めてとなる『定期実力テスト』なるものを受けた。読んで字のごとく、志望している高校への合格基準にどの程度近づいているのかを推し量るものだ。
先日戻ってきた結果は『D判定』。
まだまだこれからだよ、と塾の講師には言われたが、自分なりに予習復習をしっかりやって、準備万端挑んでこの程度だったので、実際落胆が大きい。
祖父に、『医者になりたい』と夢を語ったのは二年に進級したころか。父の病のことを知っていたのもあるし、「そうかそうか」と二つ返事で了承してくれた。「それなら、いい塾がある」と紹介してくれたのも祖父だった。
夢を叶えるためには、高校どころかその先に控えている大学進学のほうがもっと難関だろう。
こんなところで躓いているようでは、という焦りが正直ある。受験までまだ一年ある、なのか、それとも一年しかない、なのか。
胸を張り、夢を語ることができない体たらくな自分がもどかしい。
「そう、と言えば、そうなのかもな」
「なんだ、歯切れ悪いな」
「うん。ほら、さっき親父の話をしただろう?」
「ああ」
「親父の病の兆候を見逃していたのは、確かに僕の問題だ。だからといって、僕にどうにかできたか、と言われたらそんなのわからないし、兆候がわかっていたら救えた、なんて思い上がるつもりもない。それでも、そんな体験をしたからこそ、自分の手で、ひとつでもいい、誰かの命を救える人間になりたいんだよ。そういう感じかな」
もちろん、可能であれば光莉のことだってどうにかしてやりたい。
だが同時に思うのだ。光莉のため、と思うこの気持ちは、自分の中に巣くっている共依存性なのじゃないかと。与えることで、自分が満たされようという下賤な考え。それだけに、光莉のためだと口にするのははばかられた。第一今の僕に、光莉に希望を抱かせるだけの力なんて無いのだし。
「そっか」と小声で真人が呟いた。「ほんと、お前には敵わないよ」
よーし、そろそろ休憩にしようかー、と光莉の様子を確認しながら真人が号令をかける。
時々意固地になることもあるが、アイスの話題にしてもそうだ。沈んでいた場の空気を察し、さり気なく変えてしまう気配りを真人はできる。
「敵わないって思っているのは、むしろ僕だってだよ」
「だから、光莉に告白しろって煽っているのかい?」とここまで大人しくしていた夏南が話しかけてくる。
「違うともそうだとも、言えないかな」
「ボクの口真似とか、趣味が悪いねえ」
「お互い様だろ?」
まあ、僕の気持ちは、もうちょっとのあいだ伏せておくさ。
◇
歩いているうちにせせらぎの音が聞こえてくる。耳を澄ましてやっとだった音が、さらさらとしたざわめきのような水音に変化し、やがてしっかりとした質量をともない鼓膜を叩いた。
道の両側に木々が立ち並んでいるが、左手側は斜面のようになっている。どうやらこの下に川が流れているらしい。音がどんどん大きくなってくる。
「川、流れているみたいだな」と真人が言った。
小川だと思っていたが、意外と大きな川かもしれない。
「この辺に、川なんてあったっけ?」と返すと、「ほら、私たちが時々泳いでいるあの川の源流が、この山の中を通っているんだよ」と市議会議員の娘らしく、地理に博識な涼子が答えた。
「川かあ、嫌だなあ。蚊がわいてきそう」
「ほら! すぐ後ろにでっけえアブが!」
「わっ、やだやだどこにいるの!?」
「なーんて、嘘ぴょん」
虫嫌いの光莉を真人がからかうと、「もうそろそろだったかな」と夏南が突然言った。
「だからいきなり喋るなって」
「ん、誰と話しているの?」と首を傾げてから、「ああ、そっか」と光莉が得心顔になる。足を止めた涼子も僕の――というか、夏南を睨んでいるつもりなのだろうが、残念ながら少々的が外れている。
やっぱり二人に、夏南の姿は見えていない。
そんな二人を他所に、夏南はスイーっと前方に移動していって、左手にある斜面の下を指差した。
「ここが、ボクが見せたかった場所のひとつだよ」
「なんだって?」
夏南の姿が見える真人が、後をついていく。そこは、何の変哲もない登山道の一角に思えたが、斜面の方に体を向け立ち尽くしている真人の側まで行って気がついた。
足元が崩れている。
左手斜面側の登山道が一部崩れており、道幅が三割ほど狭まっていた。
「足を踏み外したら危ないよなあ」と隣の真人に声をかけるも目が合わない。驚きの顔で固まっている彼に釣られ、僕も崖下を見た。
最初は、よく見えなかった。
土砂が崩れた痕跡が、斜面のずっと下まで続いている。やがてそれは崖下に突き当り、川岸のところで盛り土になっていた。下草や木々が生い茂っていて、正直見通しは悪い。
ちょうどその時、光莉が息を呑む音で僕はそれを見つける。盛り土の中心あたりから、細長い何かが突き出している。
ピンク色の、複雑に折れ曲がったそれは――傘だ。
息が止まる。
傘があるということは、誰かがここを滑落した可能性があるということ。
涼子が「ひっ」と短く悲鳴を上げた。
「あれ、傘だよな」と言った真人の目が泳いでいる。
「ああ、そうだな」と相槌で返す。
「誰か、ここを滑り落ちていったのかなあ?」
僕が飲み干した台詞を光莉が代弁した。まさか、と言いたいのだが、否定する材料が見つからない。じゃあ、なぜあの場所に傘がある? という自問に対する答えが浮かばない。
震える瞳。血色の悪い頬。光莉はただでさえ色白なので、いつも以上に顔色が悪く見える。だが、それ以上に顔面蒼白なのが涼子だ。
「バカなこと言わないでよ。そんなわけ――」
「ないって、言い切れるか? 斜面が崩れた跡があって、下には傘があるんだぜ? 普通に考えたら、これは雨の日に誰かが落ちた痕跡だろ」
真人の声に、しかし涼子は何も言い返さない。
「もしかして、埋まってるとか」
最悪の予想を光莉が口にすると、稲妻に打たれたように真人が動いた。
「そ、そっか! 万が一、土砂の下に人が埋まっていたら大変なことになる。た、助けなくちゃ」
「落ち着けよ。助けるったって、どうやってあの場所まで行く気なんだ?」
登山道から盛り土のある川岸までは、少なく見積もっても三十メートルほどの高低差がある。そのうえ、途中から断崖絶壁もかくやの急こう配なのだ。
とてもじゃないが、命綱なしで降りるのは不可能だ。
「それにさ、土砂の量はそんなに多くない。人間一人覆い隠すほどじゃないと思うんだ」
「ここから見て、何がわかる? もし、本当に人が埋まっていたとしたら、お前、責任とれるのかよ!」
「だから落ち着けって言ってるだろう。どうやって降りるつもりなのかもだけど、途中からほぼ垂直の崖になってんだし、降りたが最後、上がってこれないぞ? たとえ誰かが埋まっていたとしても、引き上げる方法だってない」
「……」
冷静にそう返すと、真人は苦虫をかみ潰したような顔になる。その時、おずおずと光莉が手を上げた。
「なんかさ。あの傘、私が持っている物と似てるかも……」
「そんなわけないでしょッ! だって、光莉はここにいるんだし!」
光莉の発言もだが、それ以上に、被せ気味に叫んだ涼子の剣幕に驚愕した。
「涼子……、どうしてそんなにムキになってんだよ。確かに、同じようなデザインの傘なんていくらでもあるだろう。それに」
「それに?」
「いや」
光莉の傘であるはずがないんだ、と言いかけて、台詞が喉元で急停止した。
それは、本当か?
山の麓にあった、光莉の自転車。光莉の持ち物とよく似た傘。そして、夏南が俺たちを呼んだ理由が、この崩落現場を見せることなのだから、この三つには密接な繋がりがあるってことなんじゃ?
全員が、同じことを思っているのか、一様に口を開かなくなってしまった。
「なあ、夏南」
「なんだい?」
この場所に、僕たちを連れてきたのは他ならぬ夏南だ。
神様に対してこんな質問をするのは、バカげているとも野暮だとも思う。だが、絶対に彼女は何かを隠しているんだ。
「夏南。お前、なんか知ってるんだよな。知っているから、僕たちをここに呼んだんだろ?」
逸らされることのない、黒曜石の瞳。漆黒の瞳のその奥に、深い悲しみが横たわっているように見えた。
なんで、そんな顔するんだよ。
「そうだね。知っているかどうかと問われたら、知っている事柄がある。だからこそ、君たちをこの場所に導いたんだしね」
「いい加減に、ハッキリ言ってくれよ!」
苛立ったように、真人が声を荒げた。「そんなにでかい声をだすなよ」と諭しても聞く耳を持たない。
「お前が現れてから、本当にろくなことがないな。……まるで疫病神だよ」
「疫病神、か。そんな風に言われちゃうのも、まあ、無理はないのかもね」
寂しげな声とともに、夏南が遠くの山々を見た。
しかし、彼女の瞳に映っているものは、眼前にある山や木々の景色ではなく、もっと遠くにある何か、という気がした。
彼女は、何か言えない事情を隠していて、そのことで胸を痛めているんじゃないのかと。
そう感じてしまうのは、父のことで、呵責の念にとらわれている僕だけなのだろうか。
「でもね、これだけは教えてあげる」
夏南が自分の右手を、スッと僕に向けて真っすぐ掲げた。
その意図を察して左手を重ね合わせると、夏南の姿が見えたのだろう。光莉と涼子の視線がひとどころに集まった。
「真実の部分を語ることはできない。伝えてはいけないのが、神としてのルールでもあるから。あくまでもそこは、君たちの手で知って欲しい。真実に、たどり着いて欲しい。でも、これだけは言っておこう。崖の下に、死体なんてないよ。だから、余計なことに気をもむ必要はないんだ」
「それ、本当なんだろうな? 信じて、いいんだろうな?」
安堵、というにはほど遠い、なんとも名状しがたい表情で真人が言った。
涼子も、光莉も、真剣な眼差しで夏南の顔をじっと見据える。
「うん。本当だよ。約束する」
「そうか、わかった。今は一先ずお前のことを信じるよ。それで、俺たちはこれからどうしたらいい? ここが目的の場所であるなら、もう下山してもいいのか?」
「ボクはとやかく言える立場ではないが、ここまで来たついでに、もうひとつ頼まれてくれないだろうか? 悠久の木がある場所まで、行ってほしいんだ」
あらたまって頼み事だなんて、夏南にしては珍しい。
横暴で。勝手気ままで。女子高生のような見た目通り、自由奔放な性格をしているのが夏南だ。
仮にも神という存在である彼女が、ヒトに頭を下げるところなんて見たことがない。
読点が三つ並ぶくらいの時間黙考したのち、真人が頷いた。
「乗りかかった舟だ。今さらどうということもないさ。だが、こちらからもひとつだけ質問だ。その願い事を聞くことで、真相に近づくことはあるのか?」
増えたのが誰か、という表現を真人は避けた。
この先消える人物を薄っすらと予見し、話題を逸らしたようでもあった。
夏南は二回、瞬きをしてから、「近づく」と明白に宣言した。
「わかった」
手短にそれだけを告げ、ジャリっと音を立てて真人が一歩踏み出した。
表情を崩すことなく、その後ろに続いたのは涼子。僕と夏南とに一瞥をくれたのち、光莉もまた。
こうして、僕たち四人は再び歩き始める。
ムードメーカーである真人が口を噤んだままの行軍は、空気も足取りも重く感じられた。
◇
崩落のあった現場から悠久の木がある場所までは、そう遠くなかった。
鬱蒼と生い茂っていた針葉樹が途切れると、森の中を切り取ったように開けた空間が現れる。
左右に視線を配ると、木々の隙間から民家らしき建物がいくつか見える。木造建築のそれは、しかし、窓ガラスが所々割れていた。建物の周辺も庭先も雑草だらけで、人が住んでいる気配はない。
「一九九〇年代の半ばまで、この場所には百人近い人が住む集落があったんだよ」
老朽化の激しい二階建て家屋に目を向け言うと、「そうなんか」と真人が反応した。
「わりと最近まで人が住んでいたんだなあ」
ははは、と僕は笑った。
「三十年ほど前の話を、最近などと言っちゃう感性はよくわからんけど、まあ、ほんとだよ」
「なんで、誰も住まなくなったんだろ」
「そりゃあまあ、普通に考えて不便だしなあ。それと、ちょうどその頃、悠久の木が枯れ始めたことも理由のひとつかな」
「え、悠久の木って枯れているの?」と口を挟んできたのは光莉だ。
「今は持ち直しているから、そんなことはないよ。その当時、突然木が枯れ始めたことで、何か不吉なことが起こる前触れなんじゃないかって噂が持ち上がった。そのため村人が次々と集落を離れ、最終的に無人になったんだ、とそう聞かされたな。うちの婆さまから、ね」
「そうなんだ。お祖母ちゃんが」
きつく閉ざされたままの、錆だらけの民家のシャッターに光莉が目を向けた。今でもあの中には、トラクターとか車が残されているのだろうか。
元々は畑だったとわかる、荒れ野原もあった。
どれがそうなのかはわからない。あるいはもう、取り壊されてしまったのかもしれないが、僕のご先祖様の家もこの集落にあったのだ。こんな話、誰にも言ったことはないけれど。
道中、道が二手に別れる。道を知っている涼子と、おぼろげながら記憶のある僕が左へ進路を取るなか、真人だけが右に曲がった。ぼんやり歩いている首根っこを、涼子がふんづかまえる。
「全員が左に曲がってんのに、なんで右に行くのよ」
「ごめん。俺ってさ、ほら方向音痴だから」
「関係ないわよ。単なる注意力散漫でしょ」
正論で凄まれると、決まり悪そうに真人が肩をすくめた。
「世話が焼けるのが、むしろ可愛いって言うでしょ」
「自分で言わなかったらね」
仏頂面の涼子とすごすごと歩く真人。対照的な二人の様子に、光莉がクスっと笑った。
ようやく和んだ空気のなか、目的地が次第に見えてくる。
赤い鳥居が眼前にあって、その奥にこぢんまりとした神社があった。
「ここが、神鳴神社だよ。僕らが住んでいる町にある花咲神社と、姉妹神社の関係だったんだってさ。人がいなくなったことで、悠久の木の管理が麓の花咲神社に移されたので、今はもう、常駐している神主さんもいないけどね」
説明を加えたのち、神社の脇を迂回して、小高い丘を登っていく。緑のトンネルを抜けると、木々が途切れて突然視界が開けた。眩い陽光が瞳を刺した。
緑の丘の中央に、どっしりと根を張る大銀杏の木が見える。
他の木々とは品格から違うとわかる、豪奢な銀杏の木の許で。
ワンピースに身を包んだ小柄な少女と、あの日の僕の姿が見えたような気がした。
郷愁の念、というのはこういうのだろうか。胸の奥をキュっとつままれたように切なくなる。
これこそが、年中、枯れることなく黄金色の葉を茂らせるという、『悠久の木』――。
「あれ?」
ところが、当時と違う点がひとつあった。
遠くからではよくわからなかった。気のせいだろうかと思った。だが、近づいていくにつれ、異変をはっきりと視認できるようになる。
隣にいた光莉が、息を呑む音が聞こえた。いや、息を呑んだのは彼女だけではない。
みんなが一様に黙りこくるなか見えた悠久の木は、――枯れ始めていた。
所々、葉が茶色くなって萎れている。木の下に落ち葉が散らばっているので、落葉が始まっているのだろう。繁っている葉はあちこち歯抜けになっていて、隙間から空の青が顔を覗かせていた。
この暑さのせいか。それとも病気か。
とにもかくにも、こんな姿は見たことがない。
そして――。
「人がいるな」
真人の声に頷いた。
悠久の木の正面に、木を見上げている女性の後ろ姿があった。
艶のある黒髪は腰まで届く長さ。白いシャツを着て、くるぶしまでの丈のジーンズを履いている。背が高く、やや肩幅が広い。
「SUV車の持ち主かな?」
「たぶんね」
「こんにちは」と真人が声をかけると、その女性が振り向いた。
力強い光を放つ瞳は切れ長。鼻筋がシュっと通っていて、メリハリのある顔立ちだ。
「観光ですか?」と続けて真人が尋ねると、「うーん。まあ、そんなところ」と曖昧な笑みで彼女は応じた。
若そうに見えるが笑うと目じりにシワが寄る。四十路間近といったところか。
「女性に歳を聞いてはダメだよ」と夏南がからかってきたので、「わかってるよ。そこまでデリカシーのない男じゃない」と憤慨してみせた。
「もしかして、夏休みですか? おねーさん、大学生っぽいですし」
真人の声に、「お姉さん」と女性の口元が緩んだ。
「こんなおばさん捕まえて、上手だねえ、君。お世辞なんて言ってもお年玉はでないよ。いくらなんでも、そんなわけないさね。来年の春で四十だよ」
当たらずとも遠からずだな、と思っていると、「年齢はこうやって聞き出すんだよ。勉強になったかい?」と夏南が耳打ちしてくる。「余計なお世話だ」
とはいえ、真人らしく要領のいい誘導尋問だった。覚えておこう。
「それで? 君たちも観光? ここ、地元の人そんなに来ないでしょ?」
「えーとですね」
返す刀で質問をされると、とたんに真人が口ごもる。コイツ、受けに回ると案外アドリブが利かないんだよな。
その間も、夏南はじっと木を見つめている。この木はある意味夏南の半身みたいなもの。こんな状態になっているのを、彼女は知っていたのだろうか?
「いえ。私たちは地元の中学生ですよ。この場所を訪れたのは、自由研究のためです。悠久の木の歴史について、調べようと思っていまして」
これが資料です、とでも言いたげに、青い手帳を振って助け船を出したのは涼子だ。
こういうところ、さすが彼女は頭の回転が早い。
「なるほど。でも木、枯れてるんだよね」と女性が再び木を見上げる。「いつからこうなってたか、知ってる?」
『いえ、まったく知りませんでした』と全員の声が揃って、なんだか気まずい空気になる。
「ははは。こりゃあ、ほんとに知らないみたいだね」
夏南を一瞥したあとで、真人が木に近づいた。幹の表面に何度か手で触れ、落葉を拾って状態を確かめる。太めの枝を拾い根元を十センチほど掘り返し、土の感触を確かめる。
「深層土の状態は、もう少し掘ってみないとわかんないけど、粘土質の土でもないので根腐れしているということはなさそう。幹の状態は少し悪いが、葉の枯れ方は別段オカしくないので病気って線もないだろう」
「じゃあ、どういうことなんだ」と僕は口を挟んだ。
「ただ枯れているだけだよ。気温は高いが今年は雨も多く降っているし、どこに枯れる要素があるのかよくわからんけどな。あるいは、木の寿命?」
「そんなこと」
「ないって思いたいけど、本当に枯れている理由がわからないんだよ」
後ろで、夏南が喉を鳴らした。
「もしかしたら俺たちは、歴史的瞬間に立ち会っているのかもしれないね」
「君、見た目によらず木のことに詳しいんだねえ」と女性が感心した顔をする。
「見た目によらず、は余計です」
真人が苦笑いをすると、涼子が女性に補足説明をした。
「彼は、この島で一番大きい、造園会社の息子なんですよ」
「ああ、あの」と女性が得心した顔になる。
「あれ? 知っているんですか?」
「あ、いやね。ここに来る途中で造園会社見たなーって思って。ははは」
煙にでも撒くように、女性が軽やかに手を振った。そんな彼女とは対照的に、強張った顔で沈黙しているのは夏南だ。
「なあ、これがお前の見せたかったものなのか?」
問いかけるも、夏南の返事はない。複雑な表情でこっちを見たのは光莉だ。
「夏南?」
もう一度、呼んでみる。
「これは、ボクたち神の間に伝わっている伝承です。かつてこの島に、人と契りを交わし、子をもうけた神がいました。神の半身とも呼べる二人の子とその子孫は、神の姿を知覚し、言葉を交わすことができたそうです」
「突然なんの話だ? もしかして、僕がその子の子孫だとでもいうのか?」
「それはわかりません。ボクですら知らぬ、遠い昔の話なので。ボクの口から言えるのは、人と交わったその神は、穢れをため込んだことで神の力を失ったこと。そのときから、人と神との間に、明白な線引きがされるようになったと伝えられていることのみです」
真相は、すべて闇の中。
それは、歌うような響きだった。
「今から三十年前のことです。たったの一度、木が枯れかけたことがありました。理由は真人の考察通り、土壌が悪いわけでも病気でもなかった。ですがある意味、心の病、と言えたのかもしれません。神たるもの、人の心を持ってはいけない。決して、誰かに肩入れしてはいけないのです」
「夏南?」
脈絡もなく続いていく口上に、いよいよ呆気にとられる。
「そうか。真人がそう言うのであれば、やっぱり間違いないんだね。母さんから神としての責務を引き継いだとき、そのことを、よく肝に銘じたつもりだったんだけどな」
「夏南。さっきからお前は何を言ってるんだ?」
「都くん。あの子と話をしているの?」
夏南の姿が見える真人と、そうじゃない光莉とでは反応が対照的だ。だが、そのどちらにも夏南は応じない。
「ずっと、ボクは孤独だった。話し相手なんて一人もいなかったけれど、そんなのは当たり前のことだったし、これから先もずっとそうなんだと思っていた」
でも、という一言とともに、夏南が僕の顔を見た。虚ろだった表情から一転、光が戻った瞳は逸らされない。
「そんなとき、君が現れた。最初はね、信じられなかったんだよ。人間たちの中には、ボクたちの姿が見える者もごくまれにいるんだ、と母さんに聞かされていたけれど、本当に現れるなんて思っていなかったから」
「夏南、やっぱりお前って……!」
「そうだよ。都が幼かった頃、この場所で出会った女の子というのが他ならぬボクだ。どうやらボクは、これ以上君と一緒にいてはいけないみたいだ」
起きている事柄を理解できない。そんな顔でみんながただ見守るなか、夏南が空虚な笑みを浮かべた。感情の動きが殆ど見えない、能面みたいな笑みだった。
「ちょっと待てよ! 夏南!」
嫌な予感が稲妻のように閃くと、弾かれたように右手を伸ばした。
空を切った右手。触れないのはいつものことだ。しかし今回は勝手が違う。夏南の姿そのものが、夏の幻のごとく消えてしまった。
「夏南!」
いつの間にか雲が出ていた。
肌寒い風に乗った声が、丘の上を流れていった。
これが、夏南との別れになった。
それからまもなくして、雨が降り出した。
「天気予報、雨じゃなかったよね?」という光莉の嘆きも天には届かず。山の天気は変わりやすいの言葉通り、最初小降りだった雨は、僕らを嘲笑うかの如くどんどん雨脚を強くしていった。
真っ暗になった空。
地震のように大地を揺るがす雷鳴。
「キャアッ」
威嚇するように次々と稲妻が閃くと、涼子が頭を抱え怯えた。
「雨宿りをするなら、最適な場所を知っている」という女性の声に導かれ、神社を出て坂を下った場所にある、事務所然とした建物に僕たちは転がり込んだ。
「こんなに綺麗な建物もあるんですね」という真人の問いに、その女性は「ここは、村人たちがかつて使っていた集会所。悠久の木を管理している人たちが、今でも時々小休止に利用しているからね」と教えてくれた。
引き戸の玄関を開けると、正面に会議室のような部屋が見えた。建物の内部には細い廊下が一本走っており、いくつか扉が供えられている。
もちろん多少の埃や壁の汚れはあるが、廃村にある建物として見れば、存外に中は綺麗だ。
「随分と詳しいんですね」と訝しげな声を涼子が出すと、「これでも昔は、ジャーナリストだったものでね。この村のことも調べたことがある」と女性が答えた。
「ああ、そうそう。私の名前、藤原だから」
思い出したように自己紹介を済ませた女性に、僕は尋ねた。
電話って、あるんですかねえ、と。
「あー、どうだろう? あ、あったよ。そこの廊下の突き当り」
藤原さんが指差した先。右手側に伸びた廊下の途中に、レトロな形状の黒い電話が置いてある。
「使えますかね」
「さあ、そこまでは。電気はたぶん大丈夫だと思うけど、電話回線が健在かまでは保証できない」
「普通に考えたら、廃村にある集会所に、電気がきていること自体驚きなんですけどね」
受話器を取ってみると、ツーと音がした。どうやら使えそうだ。
「まあね。でもほら、ここは一応観光地だし。廃村であっても、主要な施設の保守作業を行うため、電気や電話回線を残していることがあるんだよ。ようするにここも、そういう場所だってこと」
「十年くらい前まで、お土産屋さんもあったし」と藤原さんが補足すると、真人が目を丸くした。
「えっ、ほんとに?」
「ほんとだよ。この廃村には悠久の木という重要な保守対象があるから、市の直轄管理になってるの。だからそんな昔話を、父さんから聞いたことがある」と涼子が指を立てた。
「あ、でも。電話だったら、私がスマートフォン持っていたのに」
ここに来る直前、藤原さんに、警察への連絡をお願いした。
事件性はないよと夏南も言っていたので、特に問題ないだろうとも思うのだが、崩落現場の下に傘が落ちていたことを一応伝えてもらったのだ。遅くとも、明日の午前中には現地を視察してみるよ、と警察は約束してくれたらしい。
「そういえば、そうでしたね。まあ、電話ができればどっちでもいいのですが。この雨だと、家の者が心配するかもしれませんし、一応、連絡を入れたほうがいいかなと」
降り続いている強い雨で、窓から見える外界の景色は真っ暗だ。傘も雨がっぱも持っていない僕たちが、この雨の中歩いて帰るのは自殺行為だ。
崩落が起きていたことからもわかるように、途中の道は地盤があまりよくなかったのだし。
「確かにねえ」と藤原さんが雨に濡れた窓ガラスを睨むと、思い出したように涼子が不安げな顔になる。
「あ、不味いかも。私、今日中に帰れないなんて話、家に伝えてないよ」
「ああ、そっか」と涼子同様渋い顔になったのは真人だ。
「俺らはキャンプに行くって名目で家を出てきたから、帰宅が明日になってもどうってことないけど、涼子の家は厳しいもんなあ」
「笑いごとじゃないよお」
「しっかしまあ、本当に泊まることになりそうだなこりゃ。全然雨が止む気配がない。寝袋は一応持ってきてたけど、こんな場所があって本当に良かったよ」
「僕はこの集会所知ってたけどね」と口にすると、真人の顔色がゆでダコみたいに真っ赤になっていく。
「なんだよ! 都! 知ってたなら、もっと早く教えてくれよ!」
「ごめんごめん。雨宿りの場所に困るようなら言おうと思ってたんだけど、僕より先に、藤原さんが案内を始めたもんだから」
言う必要がなくなったんだ、と話を締めくくった。
うーん……と散々悩んだ末に、涼子が自宅に電話をかける。要領のいい嘘が浮かばなかったのか、真っ正直に今の状況を伝え、案の定、父親にたっぷり絞られた。
しゅん、と萎れた花のように項垂れた涼子を、光莉が傍らで慰めていた。
そんな一幕が展開される間に、藤原さんは集会所の中をあれこれと家探ししていた。
「さすがにガスは切れてるねえ。でも、新しめのカセットコンロがあるから、お湯くらいは沸かせそう。あと、電気はどの部屋も問題なく点くね。せんべい布団みたいなもんだけど、寝具も何組か揃ってんよ」
寝泊り可能な和室はふたつある。ひとつを藤原さんが使うとするなら、必然的に僕らは全員相部屋だ。別に構わないっしょ? とあっけらかんと言う真人に涼子が眉をひそめたが、やがて不承不承頷いた。
背に腹は代えられない、ってやつだ。これといって気にしてなさそうな光莉は、もっと警戒心を持つべきだとも思うけど。
次第に雨の勢いは弱まってくる。しかし時刻はもう十六時過ぎなのだし、いまから下山するのは危険だ。やはりここで一泊するべきという結論に僕らは至った。
集会所に風呂は無い。
手持ち無沙汰になった僕らがやることと言えば、睡眠か食事だ。時間も時間なのだしと、夕食の準備に入る。
とはいっても、たいした食材はない。会議室の畳の上に輪になって座り、手持ちの弁当やらを食べることにした。
僕たちはコンビニで買ってきた弁当があったのでそれらを分け合いながら。
藤原さんは、荷物の中からサンドイッチを取り出して摘まんでいた。即席の味噌汁があるよ、と提案されたので、お湯を沸かして台所にある器でごちそうになった。インスタントとはいえちゃんとした味だったし、具も結構美味しかった。
「ほら、これでも食うかい」
藤原さんが差し出してきたのは、チョコレート菓子だ。
「えっと、これは?」
「疲れているときにはね。甘い物を食べると元気でるんだよ」
「ああ、なんか聞いたことあります」
「甘い物を食べるとホッとしたり幸せを感じたりするのは、脳内で『セロトニン』という物質が出ているからなんだよ。でも、食べすぎは禁物」
「そうなんですか?」
「そう。甘い物を一度に摂りすぎると血糖値が急激に上がって、血糖値を抑制するためにインスリンが大量に分泌される。それにより今度は血糖値の低下が起こり、集中力がなくなったり疲れを感じることもあるんだ」
「何事も、ほどほどが大事ってことですね」
「そうそう、そういうこと。それはそうと」
藤原さんの視線が、隅っこでひとりちびちび食事を続けていた光莉に向いた。
「あんたも食べんさい」
そう言って、小袋入りのマドレーヌを光莉に差し出した。
「わ、私ですか」
「当たり前さね。しっかり食べてないんだろ? だからそんなに青っちろくなっちまうんだ。丈夫な赤ちゃん産めんぞ?」
確かに光莉は体も強くないし、肌だって色白だ。しかし相手が女性とはいえセクハラめいたその発言に、光莉のみならず隣の真人までもが微妙な顔になる。
「ほらほら」
執拗に勧められると、無下に断ることもできない。結局「いただきます」と言って光莉は受け取った。
「よろしい」
満足そうに腕組みをしてうんうんと頷いた藤原さんを横目に、「実際のところ」とぽつり光莉が呟いた。
「どうして、木が枯れたんだと思いますか?」
「ふむ?」
腕組みの体勢を維持したまま、彼女は黙考した。沈黙が静かに横たわる。
「木の病気ってことはないんだよね?」
「それは断じてないです」
反応して真人が答えた。
「寿命かもしれない、なんてさっきは言いましたけど、おそらくそれもない。そもそも、銀杏は広葉樹なのだから時期がきたら枯れるものです。そういう意味で言うと、今までが異常だったのだとも」
そうだねえ、と静かに藤原さんが話し始める。
「この島に、いつ悠久の木が誕生したのか、どの文献でも具体的になってはいない。だが、どの年代の資料を読んでも、あの木は枯らすことなく黄金色の葉をつけていたと書いてあるんだ。ただひとつ。三十年前の出来事を除けば」
「そういえば、かつてそんなことがあったらしいですね。その時と、同じことが今も起きている、と?」と真人が首を傾げる。
「そこまではわからない。可能性は、あるけどね。なにせ、神が宿るなんて言われている木のことなのだし、ジャーナリストの私では門外漢だよ」
「そこは霊媒師の領分ですかね」
「さあ、どちら様なんかねえ」
「その神様が、『心の病』だと言っているとしたら、どうでしょう」
茫然と中空を見据えたまま言うと、みんなの視線が集まったのを感じる。よせやい、穴が開いちまう。
「神様? あんた何言ってるんだい? 気でも触れちまったのかい?」
「まあ、それが普通の反応でしょうね。でも僕には、木に宿っている神様の声が聞こえたんですよ。彼女いわく、『木が枯れているのは、心の病のせい』だって」
突飛な話だと思ったのか、藤原さんの目の色が変わった。
「それって、どういう意味なんだよ?」とこちらは真人。二人とも、視線が強くて痛い。
「なんてな。冗談ですよ」
手をひらひらさせて立ち上がり、「ちょっとトイレ」と告げて会議室を出た。
もっともそれは方便であり、実際は尿意なんてもよおしていない。気まずくなった空気が霧消するまで、時間を潰そうという魂胆だ。
廊下から窓の外を見ていると、会議室を出てきた人物がもう一人いた。
「ちょっとだけ話せる?」
隣にやって来たのは涼子だ。
真剣な目だと思った。有無を言わせない、力強さを感じた。
「ん、別にいいけど。ここで?」
「うん。なんせ、光莉には聞かせられない内容だから」
「なるほど。了解」
決意の色を感じ取り、僕は頷いた。
◇
外はまだ、雨が降り続いている。ぱたぱたと屋根を打つ雨音がリズミカルに響き、ひやりとした空気が建物の中まで忍び込んでいた。
「さっきの話本当なんだね?」
短い沈黙を破ったのは、ひそやかな涼子の声だ。「ああ、本当だ」と僕は肯定したのち、夏南が言っていた台詞を、一言一句違わず伝えた。
いっさいの合いの手を入れることなくすべて聞き終え、「そう」と短く涼子が呟く。僕の顔をチラリと見たのち、そっと窓ガラスに手を触れた。
ガラスの表面はしとどに濡れていて、外の景色はまったく見通せない。曇ったガラスにぼんやり映った涼子の顔は、どこか虚ろだ。
まるで、魂をどこかに置き忘れてきたようだ、などとろくでもないことを考える。
「なんていうんだろう。まるで、木が枯れたのは自分のせい、みたいな言い方だよね」
「やっぱり涼子もそう思うか。彼女の真意はもちろんわかんないんだけどさ、三十年前の出来事と発端は同じだよ、という風にしか聞こえないんだよな」
「三十年前というと、私のおばあちゃんが不思議な体験をしたのとほぼ同時期だよね。そっちもさあ、夏南さんの仕業だと思う?」
「んー……。確証はないけどたぶんね。そういった、超常現象を起こせる存在を、僕は他に知らない」
自嘲気味に笑うと、だよね、と相槌を打って涼子が沈黙した。まつ毛の長い瞳が静かに揺れる。
「なあ、涼子」
「ん?」
「お前さっき、そっちも夏南の仕業、って言ったよな? やっぱり、なんか知ってるんだろう?」
この場所に着くまでの間、涼子は何度か激しい感情の昂りを見せた。彼女は冷静なようで、その実直情的な性格なので、致命的に嘘をつくのが下手だ。
何かしら、後ろめたいことか隠し事があるに違いない。
まあね、と彼女が冷笑する。
「それを伝えるために、わざわざ追いかけてきたんだし」
「聞かせてくれるかい」
こくりと顎を引いたのち、涼子がこちらに向き直った。自然と僕も聞く体勢になる。
「これは、六月下旬の出来事。あの日も今日と同じ、ひどい雨の日だった」
そうして始まった涼子の話。かいつまんで内容を説明するならこうだろうか。
六月の末ころ。誕生日に、悠久の木のある場所に行って願い事をすると、なんでもひとつだけ望みが叶うんだよ、という話を光莉に伝えた。
だが、当日は午後からひどい雨になった。光莉は本当に山を目指したのかと不安になった涼子は、彼女の家に電話をする。しかし、母親から返ってきたのは、光莉なら友だちの家に行ってるよ、という言葉だった。
はたしてそれは真実か否か。確認するのが怖くなった涼子は、放置したまま翌日を迎える。何事もなかったかのように登校してきた光莉の姿に安堵したのも束の間、『悠久の木の話なんて知らないよ?』と彼女に告げられ、より困惑を深めた。
「んー……」
唸ることしかできなかった。
話の道筋に、不自然なところは一見するとない。おかしいところはなんらない。しかし、現在の状況と照らし合わせていくと、違和感はいくつもあった。
なぜ、光莉の自転車が山の麓にあったのか?
なぜ、光莉が使っていたのとよく似た傘が、登山道の崖下にあったのか?
なにより、涼子に聞かされた話をなぜ光莉は覚えていないのか。
「イチはどう思う?」
「どうって、言われてもなあ……」
「どう考えてもさ、光莉は六月のあの日、雨の中この場所を目指して家をでたんじゃないかと。歩き続けている途中であの崩落現場を通りかかり、土砂崩れに巻き込まれて生き埋めになった――ってことなんじゃないかと」
自分でも、言いながら恐ろしくなったのだろう。涼子の肩が小刻みに震えた。
「いや、話が飛躍しすぎだ。じゃあ、いまあの部屋にいる光莉はなんだっていうんだ」
「――ドッペルゲンガー、とか?」
「ドッペルゲンガー?」
「もしかしたら、私がドッペルゲンガーかもしれないし」
「はあ? なんでそうなる」
一段飛ばしで飛躍していく話に、頭がついていかない。
「罪の意識に苛まれ、死んじゃおうかな、なんて思い悩んでいるのを嗅ぎつけられて、殺され入れ替わられたとか?」
「涼子。お前、死にたいって思うほど、追い詰められているのか?」
「ごめん。そこまでじゃないんだ。ちょっとばかり自棄を起こしているだけ」
「悪い冗談はよしてくれ。なら、まあいいんだが。あんまり一人で悩み過ぎるなよ」
とはいえ、ドッペルゲンガーはともかくとして、神様は現実にいるんだよな。どんな推論でも成立しそうだから困る。
「でもさあ、他に考えられる要因ある?」
「んー……」
そう問われるとうまく返せない。これといって納得のいく説明ができないだけに。
「光莉が事故に巻き込まれたことを知った誰かが、夏南さんにお願いをしたとか?」
「ドッペルゲンガーでもなんでもいいから、光莉を蘇らせてくださいって?」
「もちろんこれは、たとえばの話なんだけど」
「だとしても、願った誰かって、誰なんだよ」
うーん、と涼子の眉間にしわが寄る。
「夏南さんの姿が見える人しか願えないとしたら、必然的に真人かイチ?」
「いや、真人はたぶん違う。僕にしても、光莉が山を目指したかどうか知らないし、願い事をした記憶だってない」
「でも、ほら」
涼子が核心を告げるみたいに言う。
「願い事を叶えてもらうと、願ったという部分の記憶がなくなるんでしょ?」
「らしいね。……いや、なるほど」
光莉を襲った悲劇的な運命を改ざんするため、僕が夏南に願った。しかし、願った当日の記憶を亡くし、光莉にまつわる記憶も書き換えられていたら、話の筋道はすべて通る。だが。
「でも、やっぱりオカしい。夏南いわく、願い事を叶えることができるのは、一人一回までという制約があるらしい。でも僕には、今も願い事を言う資格があるらしいからね」
「そっかあ」
もっとも、夏南が嘘をついていないことが前提になるが。
「それともう一個。光莉が一人でこの場所を目指すこと自体がありえない。彼女は心臓に病を抱えている。万が一の事態に備え、誰かを頼るのが自然だ。もし頼まれたとしたら、僕だったら同行するし」
「そっか。だよね」
「うん」
だが、あとに続いた涼子の台詞に、僕はふきだすことになる。
「イチは、光莉のことが好きなんだものね」
「涼子までそんなことを言う……。誤解だよ。それは」
「私も、どころか、みんなそう思ってるんじゃないかな?」
そういう噂があるのはうっすら感じていた。どう弁解すべきかと考えあぐねていると、「ま、いいけど」と涼子のほうから話題を逸らした。僕の本心を知りたいんじゃないのか?
「イチにフラれてからさ、私ずっと考えてたんだ。どうして私じゃダメなのかなって」
「……」
「自分で言うのもなんだけど、家だって金持ちだし、スタイルも顔もいいし、わりと優良物件だと思うんだよね、私」
「本当に、自分で言う台詞じゃないね」
「自己肯定感が高いのはいいことでしょ?」
「まあね」
でもね、とそこで一転。涼子の表情が沈む。
「イチはいっつも光莉のほうばかり見てる」
「だからそれは」
「光莉が病弱だから、なんだよね? 自分の父親と同じ病を抱えている彼女を、放っておけないから、なんでしょ?」
昔話を聞いているうちにピンときた、という涼子の指摘は図星過ぎて返す言葉がない。
そうか。涼子なりに、すでに答えを持っていたのか。
「そうだね。涼子が言う通り、光莉のことを気にかけていることは事実だ。もしかしたらこれは僕の庇護欲なのかな? と悩むところはあるけれど、将来医者になりたいという夢を抱いた根底にあるのも、光莉をどうにかしてやりたいと願う気持ちだ」
「イチって将来医者になりたいんだ?」
「思っているだけだけどね」
「思っているだけでも立派だよ。私なんて、何になりたいのか、どこの学校に進学したいのかも定かじゃないんだから。ただふらふらしているだけの、甘やかされて育ったガキとおんなじなんだよ」
「そんなことは」
「いいよ、慰めは。それ自体は事実だし。ここから女としての魅力を上げて、今度こそイチのハートを射止めるし」
「……ごめん」
「謝らなくていいよ。さっきから、自分でも何言ってるんだろうと思うくらい、ウザい発言をしているって自覚はあるから。放っておいてくれればいいの。あー……でも、これで全部わかっちゃった。私でも光莉でもないとすると、必然的に候補が一人に絞られちゃんだよなあ」
ここで涼子はいったん言葉を切った。雨粒が屋根を叩く音が、三度響いた。
「イチが好きなの。あの神様の子、なんでしょ?」
「そうだよ」
捨て鉢になったつもりはない。
自分でも叶わない恋なんだということもわかっている。それでも、自分の気持ちに嘘はつけなかった、というだけのこと。
「やっぱりそっかあ」と諦観した声で涼子が言った。「なるほどこいつは相手が悪すぎた。いくら私がいい女でも、神様相手じゃ分が悪い」
これには思わず苦笑い。
「笑っちまうだろう? 身分違いも甚だしい。どうせ叶わぬ恋だと、むしろ笑い飛ばしてくれよ」
「笑えないよ。私だって、似たようなものなんだし」
「いっそ、光莉か涼子のことを好きになれたら、楽になれるんだろうけどな」
「ほんとだね。……バカだよ。イチは」
視線を窓の外にスライドさせる。「ねえ」と涼子が呟く。
「ん?」
「あの子。もういないんでしょ?」
「やっぱり気づいてたか」
「そりゃあね。あんな取り乱し方されたら誰だって気づくよ。みんなわざわざ言わないだけの話。夏南さんがいたらさ、今感じている疑問のすべてが解けるのかなあ?」
「たぶんな」
アイツが戻ってきたら、だけど。
姿をくらます間際に見せた、哀愁を含んだ表情が脳裏に焼き付いてどうにも離れない。本当に、戻ってくるんだろうか。
その時、「お、随分長いトイレだと思ったら二人ともここにいたのかよ。なになに、連れション?」と空気を読まない台詞を引き連れ真人が現れた。
「言い方。相変わらずデリカシーないなあ」
涼子の非難に、真人がハハハと笑う。わざと大きい声を出しているみたいな所作だった。
「じゃあ、戻ろっか」
踵を返した涼子の背中を追いかけたとき、廊下の隅に一枚のカードが落ちているのを見つけた。
気づいているのは僕だけだ。
人目を盗んでそっと拾い上げてみると、それは運転免許証だ。
表に書かれていた名前は、藤原美紀。傍らには、一枚の写真が添えられてある。
「これが、藤原美紀さん?」
瞬間。僕の頭の中で、二つの情報が一本に繋がった。
「ははッ。だよなあ。やっぱりそうだよなあ」
尻尾、確かにつかんだぜ。
夜中、不意に目が覚めた。
今、何時だろうと思い辺りをぐるりと見渡すが、僕たちが寝室として使った八畳の和室に時計はない。窓から見えている月は高い位置にあるので、まだ未明だろうか。
部屋の中は暗くて視界が悪い。布団にくるまっている三人の寝息だけが静かに響いていた。
寝相の悪い真人の掛け布団を苦笑交じりに直し、一人で部屋を出た。誰かを起こしてはならないと、音に気遣いながら襖を閉めた。
雨はすでにやんでいた。
これといった目的地もなく歩き始める。なんとはなしに覗いた隣の和室は、無人だった。藤原さんも、僕と同じように眠れないのだろうか。
そのまま足を屋外にまで伸ばした。雨上がりの空は一転して晴れ、煌々とした月明りは、星の瞬きを阻害するほどだ。
光はまた地上にもあった。
懐中電灯と思しき明かりが、集会所の前の道を右往左往していた。
「月が綺麗な夜ですね」と僕は、その光を持っている人物に声をかけた。
「誰かと思えば。えーと、名前」
白々しいその口調に、「高橋です」と答えた。
「そうそう。高橋君か。もしかして今のは、口説き文句か何かなのかい? 君は若いから知らないだろうけど、『月が綺麗ですね』という言葉には、そんな意味も含まれているんだよ」
「そうなんですか?」
「そうさね。他にも、『夕日が綺麗ですね』と言ったら、あなたの気持ちを教えてほしい。『星が綺麗ですね』と言ったら、あなたに憧れています、という意味があるんだとか」
「じゃあ、嘘でも夕日が綺麗だ、というべきでした」
「なんだい? 私の気持ちが知りたいのか。じゃあやっぱり、私に気があるんじゃないか」
いやいやまさか、と僕は苦笑しながら首を振った。
「だって、藤原さんと僕とじゃ、それこそ親子くらいに歳が離れているじゃないですか」
「ははは、そうだねえ。でも、比喩なんかじゃなくて、本当に月が綺麗な夜だ。高橋君も、眠れないのかい?」
言いながら彼女は、懐中電灯の明かりを消した。
闇の色が深まると、五感の全てが研ぎ澄まされていくようだ。雨露を宿した、草いきれの匂い。ひんやりとした空気が肌にまとわりつき、草むらから虫たちの声がわき上がる。
僕はいま、緊張しているんだな、と耳障りな心音を意識して思う。
「そんなところですかね。藤原さんは、こんな夜中にどうしたんですか? 何か探し物でも?」
「ん? どうしてそう思うんだい?」
「今日は満月の夜です。視界も充分効きますし、散歩をするのに懐中電灯は要らないんじゃないかな、と思ったもので」
「なるほど。君はなかなかいい洞察力を持っている」
次第に目が慣れてくると、彼女の表情もはっきり視認できるようになる。月明りを浴びた端正な顔は、口角が少し上がって見えた。
「だがしかし、残念。これはあくまでも防犯のためだよ。女性の独り歩きは危険だからね」
「こんな山奥で? 助けを呼んでも、おそらく誰も来てくれないのに?」
「はは。君が来てくれただろう」
「そうですね。ですが駆けつけた僕は、むしろ味方ではないかもしれませんよ?」
「思わせぶりな発言が多いねえ。なるほど。だから『夕日が綺麗ですね』なのか。私に、何か聞きたいことがあるんだね」
「藤原さん」
「ん。なんだい」
彼女の声は低音で、耳にサラリと届いて心地よい。だがその内に、こちらの意中を探ろうという本音が透けて見える。
「僕たちが、傘を見つけた話をしたときのことです。警察に連絡をしてくれましたが、あれ、嘘ですよね?」
「おや。どうしてそう思うんだい?」
「このへん一帯は、圏外のはずなんですよ」
藤原さんの眼光が、わずかに鋭さを増した。
「今から三十年も前に、無人になった村です。今さら中継局なんて立ちはしませんよね?」
「そうかねえ。無人といっても観光地だろう? ここ最近整備されたという可能性もあるんじゃないかね」
「なるほど。まあ、とりあえずそれは置いておきましょう。いま本当に聞きたいのは、そこじゃないですし。警察には、僕が有線電話で連絡しておきましたし」
僕は見逃さなかった。表情を崩さずとも、彼女の眉がピクリと動いたのを。
「それじゃ、質問を変えましょう」
「探し物、これですよね?」と言って、拾った運転免許証をちらつかせると、露骨に藤原さんの顔色が変わった。だがゆっくりと、動揺を薄い笑みで塗り替えていく。嘘をつき慣れているな、と思う。
「そうそう。それを探していたんだよ。見つけてくれて、ありがとうね」
「おっと」
だが僕は、免許証に向けて伸ばされてきた手からひょいと逃れた。
「渡すわけには、いきませんね」
「おや? 嘘をついていたことを怒っているのかい? 運転免許証を失くしたなんて言ったら、格好がつかないと思ってね」
「いいえ。怒っているわけではありませんよ。嘘なんて、誰でもつくものですし」
「ではどうしてだい? それは私にとって、大事な物なのだが」
「そうですね。これがあなたの物であったなら、僕だって素直に返します」
瞳を逸らさずに答える。彼女の顔色がまた変化した。
「このカードに映っている写真の人物。どことなく、あなたと似ている。ですが、髪型こそ似かよっているものの、よくよく細部を見ると別人ですよね? 目鼻立ちから何まで」
無言で耳を傾けるのみで、彼女は言葉を返さない。反論材料がないのだろう。
「だってあなたの名前、来栖円ですものね。それとも、こうお呼びしたほうがよかったですか? 母さん」
久しく呼んだことのない敬称を口にすると、藤原さんあらため母は、ちょっと不敵な笑みを浮かべた。
こうして見ると間違いない。すでに記憶は朧気ながら、うっすら残っている母親像は、目の前の人物と合致する。三十九歳とは思えぬ美貌を維持しているこの人は、確かに僕の母親だ。