そうして、僕の春休みは過ぎていった。

 春休み最後の日。僕は久しぶりにひとりでベッドの上に寝転がっていた。

 明日からは高校3年生だ。ここまで毎日誰かしらが僕のことをかまいに来てくれていた。それでも今日は流石に、自分の準備でそれぞれ大変なのだろう。

 なんて言ったって明日から新学期なのだ。僕は体調面で免除されているけれど、学校の長期休暇には課題というものがつきものだからだ。

 ぼーっと寝転がったままスマートフォンを眺めていたら、突然電話が来た。



「うっわ」



 いきなり震えたので驚いて飛び起きる。反動でぽんと投げてしまったその画面を見れば、表示されている名前は「香山楸」となっていた。

 何だろう。課題でも教えて欲しいのだろうか。

 そう思って通話ボタンを指で滑らせた、刹那。



「穂積!」

「……楸?」



 電話の先の楸は、どうしてか、とても慌てていた。まだ耳に当てていないのに名前を呼ばれて急いで耳に当てる。それでも、電波が悪いのかあまり詳細に聞こえない。



「——が、」

「なに? ごめん、電波悪いかも、」

「桜庭が、」

「え?」



 聞き間違いか? そう思って聞き返す。



「桜庭セナが!」



 違う。

 はっきりと、『桜庭セナ』とそう言った。

 なぜ、今更セナの話なんか——

 次に聞こえてきた言葉に、背筋が凍った。




「死ぬかもしれないって……!」






 は?





「……セナが? 死ぬ?」



 何を言っているんだ? これは夢か?

 僕の思考が停止しているのを気にも止めずに楸は話を続ける。



「今、咲さんの検査でお前んとこじゃない病院にいるんだけど、桜庭がいて、そんでさ、」



 楸の声もうわずっている。



「聞こえちゃったんだ、医者との話。あの、菅田先生って人……前に桜庭が倒れた時に来てくれた人だと思うんだけど、桜庭、もうすぐ、寿命が来るって」



 寿命。命の、期限。思わずベッドの上に起き上がる。突然身体を起こしたからくらりと目眩が僕を襲う。



「おかしいだろ、そんなの。桜庭が機械なんだったら死ぬなんてそんなことないだろ? でも……あいつ、先生に向かって、わたし、死ぬんですねって……そう言ってたんだ」



 電話先の楸は震える声でそう呟いた。

 ザザ、とノイズだけが僕らの間に落ちる。ポーン、と病院の呼び出し音が聞こえる。頭に内容が入ってこない。でも、きっと楸もそうなんだろう。それでも僕に伝えようとして電話してきてくれたんだろう。



「……教えてくれてありがと、楸」

「……穂積、大丈夫か?」

「まぁ……ちょっとまだ、頭の中整理できてはないけど」

「……そっか、そうだよな。俺もさ、穂積に伝えるか迷ったんだ。正直、お前が余計にさ、苦しむかもと思って」



 楸にも大事な人がいる。きっと僕の気持ちはよくわかっている。



「でも、理由とかそういうのは何もわかんねーけど、でも……桜庭がさ、その先生に言ってたんだ。……穂積をよろしくお願いしますって、穂積には絶対に幸せになってほしいって……そう言ってた」



 楸の言葉に、セナと別れた時のことが次々と蘇ってくる。



“——愛してる、からだよ!”



 まさか。まさか、セナは。

 自分が死ぬことを知っていて、だから、僕から離れたのか?

 自分がいなくなった時に、あまり衝撃を与えてしまわないように。僕が悲しまなくて済むように。



“ごめんね、穂積”

“ちゃんと……幸せになってね”




 ようやく、理解した。あの苦しそうな笑みの意味も、涙の意味も。



「あの馬鹿……」



 みくびんなよ。

 

「僕の幸せを勝手に決めつけんな」



 思わず溢れた言葉に楸は「だよなぁ」と苦笑する。



「何でさ、いつも人間ってのは、他の人の幸せを勝手に決めちまうんだろうな」



 きっとその根底には、誰かのためにっていう、その思いがあるだけだというのに。



「ほんとだよね。でも……僕も人のことは言えないからなぁ」



 早瀬に怒鳴られてなかったら、きっと僕もずっとそう思っていたのかもしれない。



「……人間ってのは、難しい生き物だな」

「そう、だね」



 どれだけ苦しくて辛くても、それでも、諦められないことをする。

 なんて非合理で、非効率なんだろう。
 でも、だから。

 だから——生きているっていうのは、愛おしいんだろう。



「あ、悪り、咲さん検診終わったっぽい。今から住所送るから待って」

「ありがと楸」

「おう、じゃあな。気をつけて」

「うん」



 電話を切る。一度落ち着くために窓の外を見た。春風に吹かれて、桜が舞っていた。眩しい陽光が花びらに反射して、目をすがめる。心臓がどくどくとうるさい。

 ピロン、とすぐにメッセージに病院の住所が送られてくる。

 今から電車と歩きで1時間。

 脊髄反射で駅の方へ走り出す。



 ふざけんなよ、セナ。ひとりで勝手に決めるなよ。それじゃあ、今まで僕がやってきたことと、何も変わんないじゃないか。



 走る。走る。走る。

 息がきれる。横っ腹が痛くなる。

 春先でまだ寒いはずなのに背中が汗ばむ。



 それでも、走る。


 セナに会うために、僕は、走る。