「——穂積」



 セナの声に、はっ、と息が溢れた。ようやく僕は、自分が息を詰めていたことを知る。

 頬が冷たい。気が付けば泣いていた。視界が涙で霞んでよく見えない。ただひとつ分かったのは、セナが僕の頬をその手で優しく挟んでいることだった。



「穂積」

「せ、セナ……?」

「穂積、よく頑張ったね」

「っ」



 違う。頑張ってなんかない。

 僕は自分のせいだってことから、目を逸らしてきただけで——、



「穂積は、すごいよ」

「すごく、なんか、」

「ううん。すごい。だって普通なら、誰かに罪をなすりつけてしまうもの。自分のせいかもしれないと——そう思うなら、余計に」



 セナの声は、途中から涙色に曇る。

 吐息の隙間で瞬きをすれば、瞳を覆っていた涙の幕がころりと転げて、セナの顔が目に入る。



「——っ、」



 セナは、泣いていた。

 僕のことをじっと見つめながら、ぽろぽろと涙をこぼして泣いていた。

 セナが泣いているのをみたら、どうしてか、きゅう、と喉の辺りが苦しくなった。



「は、はは、……なんでセナが泣くんだよ……」

「だって、……穂積は今まで、ずっとひとりで頑張ってきたんだって思って」



 セナは嗚咽混じりになりながらも懸命に話しながら、僕の背に腕を回した。ギシッとベッドが軋む。



「誰も恨まないように、誰かを悪者にしないように、自分の思い出を貶してまで、ずっとずっと、ひとりで抱えてきたんだね」



 ひやりとした彼女特有のぬくもりが僕を包み込む。



「わたしは、ずっと傍にいるよ」



 まるで彼女が、僕の父さんと母さんになってくれたみたいに、彼女は僕を抱きしめる。



「だから——もう、ひとりで抱えなくても大丈夫だよ、穂積」



 セナの涙色の言葉に、閉じ込めていた思い出の箱が開く。



「……っ」



 脳裏を駆けるたくさんの色彩。父さんと母さんと過ごした、短くて楽しい、しあわせな日常。



『穂積』

 父さんの大きな手のひら。

『穂積!』

 母さんのあたたかなぬくもり。



 僕は、こんなにもしあわせで大事な思い出にずっと蓋をしてきたんだ。隠して、仕舞い込んで。



 次々と蘇る思い出。

 それは、段々とあの夜に近づいていく。



『解剖したら?』

『……そう、だよなぁ』



 ああ、そうだ。そうだった。

 あの会話には、続きがあったんだ。



『父さんたちさ、』

『ん?』

『……いつ頃、戻ってこれるの?』

『そうだなぁ、どうだろうなぁ』

『……そっか。なるべく早く、帰ってきてね』






 僕は、あの時——本当は、早く父さんと母さんに会いたかったんだ。

 早く仕事を片付けて、早くこっちに帰ってきて欲しかった。ゲームだらけの毎日は悪くはなかったけれど、それでも、それよりも、父さんと母さんに、会いたかった。

 テスト100点を採ったことを報告したかった。友達に勉強を教えてあげて喜んでもらえたことを伝えたかった。病院の中の小児科にいる子に折り紙をあげたら楽しそうに笑ってくれたことを言いたかった。いつもみたいに父さんのギターに母さんと僕で歌を歌いたかった。

 父さんと母さんに抱きしめて欲しかった。

 そうして、また3人で早く笑い合いたかった。



 それだけだった。



「……穂積は悪くない」

「……うん」

「小学4年生の子どもが、父親と母親に会いたいのは普通のことでしょ……?」

「……っ」




 胸が苦しい。涙はもう、壊れた水道のように溢れ出してくる。塩辛くて、どこか苦い。それでもその涙は、心に沁みていく。10歳の僕が立っている心の奥底にまで、流れていく。



『あーあ。お前さ、やっと……やっと気づいたのかよ』

 ごめんな、穂積。

 お前はずっと、認めて欲しかったんだな。

 お前は悪くないよって。

 お前の大好きな父さんと母さんを、今の僕もだいすきだって——そう言って欲しかっただけなんだよな。

『おっせーよ、馬鹿……』

 10歳の僕は、脳裏に浮かぶ父さんと母さんに、そっと手を伸ばして消えていく。



“穂積”

 ああ。
 だいすきだよ、父さん。



“穂積!”

 愛してるよ、母さん。



 僕のせいかもしれない。ううん、きっと、あの言葉がなくても、きっかけのひとつくらいにはなっているかもしれない。

 それでも、神様。

 もう一度、ふたりに会いたいと望んでもいいですか?

 大好きだったと——愛していたと、伝えてもいいですか?



「……あいたい、なぁ」

「え?」

「父さんと、母さんに……あいたい」

「そう、だね……きっと、いつか、あえるよ」

「……うん」



 もう一度、ベッドが軋む。僕らはぼろぼろと泣きながら、硬く抱き合っている。彼女の小さな肩に顔を埋める。セナの匂いがする。セナは静かに涙だけをこぼし続ける。
セナ。

 AIのくせに、まるで人間みたいに泣く彼女。

 そうなるようにプログラムした人は、きっと天才なんだろう。だって、僕はセナが一緒に泣いてくれたことで——確かに救われているんだから。

 開け放した窓から秋の匂いのする風が吹き込んで、僕らを掠める。セナに初めて会った日の時のように、セナの髪が揺れる。

 あの日はセナを、死神だと思った。

 僕を父さんと母さんのところに連れて行ってくれる死神。

 でも、それは違った。

 セナは天使だった。僕の心を救ってくれる、優しい、天使だった。



「セナ、聞いてくれて……ありがと」

「……どういたしまして」



 セナと僕の触れ合っている部分の体温は、きっともうほとんど同じだった。