ピッ、ピッ、ピッ、と均等な電子音が、夏の雨音に混じる。夕方に降り出した雨は夜中になっても止むことはない。
目の前のベッドではセナが小さな呼吸と共に眠りについている。彼女の身体からはいくつかのコードが出ていて、電子音を出している機械につながっている。
セナはあれから、ずっと眠ったままだった。身体に支障はないから、プログラムのバグだろうと菅田先生は言っていた。セナが泣いていたことを伝えたら、菅田先生は少し迷うように首を捻って、「そうか……セナは、泣いたんだね」と言った。
その後の精密検査で出てきた結果を見た菅田先生曰く、AIとして与えられたキャパシティをセナの感情がオーバーしてしまったとの見立てだった。
『セナはより人間に近くつくられた機械だ。代謝とはいかないが、人間のように物を食べる都合上、身体の中で分解といった同じような化学反応を起こしているから、それが涙になったりしてもなんら不思議じゃない』
その説明を聞いてホッとした。壊れてしまったわけじゃない。
『数日間眠ってバグの処理が終われば、目を覚ますと思うよ』
『そうですか』
『……セナが、大事かい?』
『…………たぶん』
僕はまだ、その問いに答えられていない。
あれからずっとセナは僕の病室にいて、だから、楸がお姉さんにしていたように、話しかけている。
「セナ、今日はね、文化祭当日だったよ。付け焼き刃だったけど、本気で練習したら間に合うもんなんだな」
「…………」
「早瀬がさ、3日で退院しやがって。それから無理して学校来て、ずっとつきっきりでスパルタ指導してくれたおかげだけどね」
「…………」
「発作起こしかけたこともあったけど、でもさ、なんか不思議なもので、ギリギリのところで起こらなくてさ」
「…………」
「なんとか形になって、僕たち4人で演奏したんだよ」
じゃーん、と賞状の写真を見せる。
「…………」
もちろんセナは何も言わない。
「みてよこれ。なんと最優秀賞だったよ」
「…………」
「最優秀賞だったから、今度なんと3月の卒業生を祝う会でもう一度演奏できることになったんだ」
「…………」
「今度はさ、ちゃんと5人で出れるんだ。それがすごく、自分でもびっくりするくらい、嬉しくてさ」
「…………」
「なぁ、セナ。僕、ちょっとずつだけど、普通になれてるかな」
失うことは今でも怖い。それでも、今回バンドで演奏した経験は、もしかしたら、青春と呼べるものになるのかもしれないなという予感だけはある。もしもこれが青春というやつなのであれば、それはきっと、僕が思っていたものよりも幾ばくか素敵なものだ。
「……あれだけ酷いことをセナに言っちゃった後で、ほんと、今更だけどさ」
これを僕が口にすることは、許されるだろうか。
違うか。
許されるかどうかじゃない。
これから、どうするかだ。
小さく息を吸う。そして、吐き出す。
「全部、セナのおかげだよ。いつも、ありがとう」
セナの頭はとても小さくて、ともすれば枕に埋まってしまいそうだった。そっと指先を伸ばす。
頬に触れてみた。まろやかな体温。セナの、セナだけしか持ち合わせていない体温。
僕はいったい、何度このぬくもりに助けられてきたのだろう。きっと星の数ほどあって、数えられるものじゃない。触れている指先でそのままそっと撫でる。このぬくもりが消えてしまうことが怖かった。
「ごめんな、セナ」
小さく呟いた時、「……ん」とセナが身じろぎをした。
目を見張る。
「……セナ?」
長いまつ毛が僅かに震えて、ゆるやかに開いたセナの瞳。
「……ほ、づみ?」
セナに、名前を、呼ばれた。
それだけで、鼻の奥がツンと痛くなった。目頭が熱くなって、世界が潤む。呼吸が苦しくなる。
ああ、僕は、もうとっくに——セナのことを。
「……っ」
「穂積……? 泣いてるの……?」
セナの指先が頬に伸びてくる。耐えきれずに溢れた僕の涙を細い指先が拭う。
「酷いこと言って……ごめんね。でも、もう大丈夫だよ、穂積」
セナは僕の頬に触れながら、いつもみたいに優しく笑う。
ああ。なんで。
僕はセナに酷いことを言った。取り返しがつかないことを言った。
それなのに彼女は、僕を受け入れるんだ。
セナは自分のことはいつだって後回しで僕のことばかりだ。
「セナ、お前、……倒れたんだよ」
「そう……ごめんね、心配かけて」
「……」
なんで自分のこと心配しないんだよ。
「僕のことなんて、いいんだよ……セナ、自分の心配しろよ」
「ダメだよ。わたしにとっては、穂積がいちばん」
「……」
「だってさ、わたしは穂積のための、AIだもん」
「……ばか」
「えへへ」
ごめん。ごめん、セナ。
酷いこと言ってごめん。
当たり散らしてごめん。
セナはいつだって僕の傍にいてくれたのに。僕のことをいちばんに考えてくれていたのに。
僕は君をいちばんにしてあげられなかった。
違う。
いちばんにするのが、怖かったんだ。
セナがどこにも行かなければいいのにと、自分だけのものであり続けてくれればそれでいいと、そう思っていた。
セナのことを好きだと認めてしまったら、セナが離れてしまうことを受け入れられないんじゃないかって。また辛くなるくらいだったら、認めずにこのまま宙ぶらりんでいた方がまだマシだって。
そう思っていた。
でも、もう、嘘はつけない——つかない。
僕は、セナが、好きだ。