背を向けた。病室を後にする。



「穂積!」

「句楽くん!」

「句楽!」



 みんなが僕を呼んでいる声がする。

 廊下を駆け出す。とにかくどこでもいい、ここじゃないどこかに逃げ出したかった。階段を駆け降りる。この病棟から出ることが今の僕の精神状態でも思いつく唯一の逃げ道だった。

 けれども、それは叶わなかった。



「ホヅミ……ッ!」



 ひとつ階を降りた時に、どちらにいくか迷ったのがいけなかった。その隙を見逃さず、ドンッと体当たりのように僕に縋り付いてきたのは。



「待ってよホヅミ! みんなの話を聞いてよ!」



 セナだった。彼女は必死に僕にしがみついて、僕を止めていた。



「放せよ!」

「嫌だ!」

「放せってば!」



 今まで、くっついてくるセナを力付くで振り解いたことはなかった。だから、知らなかった。



「ッ」



 こんなにもあっけなく彼女は振り解けてしまうんだということ。勢いが余ってバランスを崩してしまうんだということ。

 腕に残ったのは嫌な空虚感。微かに顔を出している夕陽が橙色に染め上げる廊下に倒れ込んだ彼女。プリーツスカートの裾から、棒切れのように細くて白い足がのぞいていた。

 捲れたスカートから覗く右足の膝から20cmほど上、普通の人なら太ももと呼ばれるそこに、わずかな境目がうっすらと走っていた。彼女が機械だという証拠。それを目にした瞬間、僕の背中を嫌な汗が流れ落ちていった。



「……ごめん」



 慌てて手を差し伸べた。けれどもセナは、キッと僕を睨みつけて、そうして、自分で立ち上がった。

 僕は甘い。セナを振り解いたということは、そういうことだ。なぜ彼女が僕の手を掴んでくれると期待したのか。差し出した手のひらは、行き先がなくて空を切る。

 セナがまっすぐ僕をみる。強い瞳。取り込まれてしまいそうでそっと目を伏せる。

 瞬間、それを待っていたかのようにセナは言った。



「ホヅミは、何から逃げてるの?」



 何から逃げているか。



「そんなの、」



 そんなの。
 ……全部から逃げてきた。

 ずっと、生きていることから、逃げてきた。

 失いたくないものは、初めから手に入れなければいい。消えて欲しくないものは、元から触れなければいい。

 だって、音楽も、勉強も、僕が頑張ってきた全てを——父さんと母さんは、持って逝ってしまった。

 残ったのはがらんどうの僕だけだ。

 ずっと、それだけが、残っているんだ。



「……セナにはわからないよ」

「言う前から諦めないでよ」

「セナには関係ないだろ」

「関係ないとか、そんなこと言わないで」



 セナは冷静に僕を宥める。見た目とは大違いだ。セナと口論になるといつだって、自分がまだたった17年しか生きていない世間知らずのガキでしかないことを思い知らされる。

 わかってはいるんだ。セナが僕のためを思って言ってくれているということ。心配してくれていることも、助けになろうとしてくれていることも。

 だけど——だけど、僕は、それが許せないんだ。

 僕のトラウマについて誰よりも理解している、誰よりもずっと一緒に生きてきたセナだからこそ——そう簡単に許せないんだ。

 どうしてセナが、そんなことを言うんだ?

 じわりと歪みそうな世界を誤魔化すために、歯を食いしばって、セナを強く睨みつける。



「セナには、わからない。わかってたまるかよ」



 耐えきれずに頬を滑る涙。



「だってセナは、」



 だめだ。この言葉だけは、絶対に言ったらだめだ。

 そう思うのに。

 一度暴走した感情は止まらない。止め方が、わからない。



「だって、わたしが、……なに?」























「だって、セナは、——……AIじゃないか」






















 掠れて落ちた言葉とともに、身体のどこかが抉られたように痛んだ。人ごとみたいに、ああ、ここが心なんだ、とそう思った。