「……できた」
「ありがと穂積……てかお前大丈夫か? 真っ青だぞ」
側から見てもそう見えるくらいなのか……。でもここで諦めたらあれだけ緊張してたみんなに申し訳ない。
「多分、平気……2分くらいじっとしてれば」
横に置いてある椅子に腰掛けて、ぐっと奥歯を噛み締めてこめかみをもみほぐす。セナの冷たさが恋しい。でも今ここにセナはいない。
大丈夫、大丈夫。いつもセナが言ってくれる言葉を脳裏に浮かべて目を瞑る。
と、早瀬の声が聞こえてきた。
「ごめん、みんな」
「あ、早瀬。今、句楽くんが代わりにチューニングだけしてくれたよ」
「マジ? ほんとごめん」
「……一応確認だけして。半音下げにしたけど合ってる?」
「合ってる。おっけい確認する」
目を開かずに声だけで言う。きっと今目を開いたら吐き気でどうにかなってしまう。
早瀬がギターを持ち上げる音がして、そして、開放で音を鳴らす。
「え」
「……ごめん変なとこあったら直して」
「違うよ、完璧じゃん、句楽アンタ、ギターもできるの?」
「……まぁ、チューニングくらいなら……」
答えながらそっと目をひらく。うん、大丈夫だ。立ち上がって頭を振ってみる。
目眩なし。僕の中の10歳の僕も、今は何も言ってこない。
「平気か? 穂積」
「うん。……もう大丈夫」
キーボードの前に立つ。白と黒の鍵盤に少しだけ心臓の鼓動が早くなる。頭痛のタネがチクリと脳裏を刺激する。首を振って集中する。
大丈夫。この2ヶ月ずっと練習してきた。きっと僕に応えてくれる。
そう思って、ああ、なんだ、と小さく笑いが溢れた。
僕もちゃんと緊張してるじゃんか。
「客入れるぞ!」
お客さんが入ってくる。みんなクラスメイトのはずだけれど、僕はまだ名前すら知らない人もいる。
あの人たちの名前を僕は知れるだろうか。このまま、みんなみたいに、臆することなく名前を呼ぶことができるだろうか。
「本日は、お越しくださいまして誠にありがとうございます!」
いいぞー! と歓声が上がる。さすが古谷くんだ。古谷くんだけじゃない。松村くんも、早瀬も、楸も、みんなキラキラした瞳で前を見据えている。
客席から見たら、僕もそう見えているだろうか。
実際、どうだかはわからない。
でも、そうだったらいいなと——つよく、思った。
「 」
みんなの音が重なって、最後の和音が消えた。
演奏が終わった。
しん、と静寂が満ちて、次の瞬間。
「すっげぇぇぇぇっっ!」
「ブラボー!!」
割れんばかりの歓声と拍手が視聴覚室の中に轟いた。
演奏中のことはよく覚えていない。
それでも、メンバーはみんなキラキラしていて、客席の人たちの笑顔が見えて、何だかとても、幸せだった気がする。
”笑ってよ、とうさん、かあさん”
何か、昔に失ってしまった大事なことを思い出せそうな、そんな気がした。
視聴覚室の片付けは松村くんと楸に任せて、僕らはスタジオへすべての機材を戻すことになった。
機材を載せた軽トラは古谷くんの家のものを借りた。運転手は彼のお兄さん。実は昨日の運び込みの時も、お兄さんにはお世話になっている。
昨日は学校についたトラックから機材を積み下ろすだけだったけれど、今日は僕もスタジオに行って手伝わなくてはいけない。スタジオ組はセナ、早瀬、古谷くん、僕だった。
「ちょっと狭いけど男どもは後ろの荷台に隠れててな。女の子たちは前乗りぃ」
お兄さんは古谷くんに似て気さくでとってもいい人だった。お兄さんの言う通りコードやアンプに囲まれて僕らは荷台に腰を下ろす。出発したら思ったよりも揺れて、近くの固定用タグにしがみつく羽目になった。そんな僕を見て古谷くんは「ははは!」と楽しそうに笑う。
「古谷くんは慣れてんの、これ乗るの」
「おう、小さい頃から乗ってる。朝早くの市場はいいぞー、空気が澄んでてて。昔よく親父に連れてってもらってた……まぁ、今はもういねーけど」
サラッとすごいカミングアウトをして来た気がする。目を瞬く僕に向かって、古谷くんは「ああ、悪り、うちの親父交通事故で一昨年あっけなく逝っちまって」と苦笑した。
「……そう、なんだ」
「でも俺には母ちゃんもにーちゃんも、十和子もいるから。あ、十和子ってのは妹な。最近生意気でよー」
すぐに彼の父親の話は妹の話にすり替わった。それでも僕の頭から彼の言葉が離れなかった。
どうして、そんなにも簡単に受け入れることができるんだろう。
「俺の服と一緒に洗濯しないで! とか言ってくんだぜ?」
「ねえ、あのさ」
「お?」
古谷くんは僕の声にきょとんとしてこちらを振り向いた。あまり深刻になり過ぎないように注意しながら言葉を選んで声に出す。
「お父さんが、亡くなったって言ったじゃん、今」
「おう、言ったな」
当たり前のようにうなづく古谷くんに少しだけホッとした。彼のそんな雰囲気に安心して、もう一歩踏み込む。
「……どうやってさ、受け入れた?」
「まーたお前は難しいこと言ってんなぁ」
ガタガタと揺れる荷台で、古谷くんは考えるように頭をかく。「そうだなぁ」と言いながら一度運転席に座るお兄さんの後ろ姿を見て、そうして、僕にもう一度目線を戻した。
「俺はさ、頭も良くないし、別に何ができるわけでもないんだよ」
「そんなことないと思うけど」
僕にしてみたら古谷くんは十分、すごい。みんなをパワーでまとめることができるのは才能だ。
「ありがとよ、そんなふうに言ってくれるのはお前だけだぜ、句楽」
「どういたしまして」
お茶目にウインクをかました古谷くんはそのまま言葉を続ける。
「父ちゃんが死んじゃったときさ、みんな、泣かなかったんだ」
「え……?」
「店をどうやって続けていくかとか、お金のこととか、みんな目の前のことに一生懸命になってて。十和子ですら泣かなかった。……いや、今思えばきっと、誰も見ていないところで泣いてたのかもだけど、それでもそれぞれがやれることを探して乗り切ったんだ」
古谷くんは話しながら懐かしそうに瞳を緩めて笑う。
「でさ、俺には何ができるだろうって、考えたんだよね。まー俺、次男坊だし、兄ちゃんと母ちゃんで店も切り盛りすんだろうなって思ってたし、実際その通りになった。でもさ、そんな俺でもこれだけは俺のモンだっての、一個だけ決めたんだ」
古谷くんはニカッと大口を開けて笑う。
「俺は、父ちゃんの代わりに、明るくいようって」
「……」
「俺の父ちゃん、家族の中で一番賑やかな人だったんだ。嫌なことあって泣きそうになってても、家帰って、父ちゃんがガハガハ笑うの見てるとなんかもーどーでも良くなっちゃう感じっていうの?」
陽キャの代表みたいな古谷くんがそう言うんだ。とても明るいお父さんだったんだろう。
「誰かが、その役目をしなきゃって思った。それが俺を立ち直らせたんだと思う」
「そう、なんだ……」
役目。
それが古谷くんにとっての、救い。
彼の、生きている、意味。
僕にとっての救いは、なんだろう。
「お前も、なんか人生大変そうだよな。最近は休み減って来ただけど、やっぱまだ体調悪いんだろ? 病気か?」
「んー、まぁ、そんなところ……」
自力で立ち直った古谷くんに向かってまさか言えない。トラウマ治療のためにAIをつけてもらっているだなんて、そんなこと。
その後、僕らは松村くんの家のスタジオに機材を戻して、あーでもないこーでもないと言いながら片付けをした。
セナは「わたしいても邪魔かもしれないから、飲み物でもコンビニで買ってくるね」と言って出て行った。
夕方になったとはいえまだ暑いから、一人で行かせるのはちょっとだけ心配だったけれど、片付けを放り出すわけにも行かない。どうしたものか。
そう思っていた時、突然手伝ってくれていた古谷くんのお兄さんがひょこっとスタジオの中に顔を出した。
「光輝、お前今日店番行ける?」
「え、今から?」
なんでも、お兄さんが店番するはずだったところに、違う仕事が降ってきてしまったらしい。
「今すぐ帰れば間に合うんだよ、頼む」
「わかった、任せな」
ニカッと笑う古谷くん。先程の話を聞いてしまうと、今までみたいに能天気だな、なんて思えない。
「あー、悪い、俺家の店の手伝いで帰らなきゃいけなくて、早瀬と句楽、残りの片付け頼めるか?」
ほとんど話は聞こえていたのに、古谷くんはわざわざ僕らに手を合わせて来た。別に僕に予定はないし、早瀬も「うん」とすぐにうなづく。
「あ、そうだ、そしたらセナのこと途中のコンビニまで連れて行ってくれない?」
「桜庭? いいぜ」
これで一安心だ。片道くらいならひとりでも倒れることはないだろう。
「お手伝いありがとうございました」
古谷くんのお兄さんにお礼を言って、トラックが去っていくのを見送る。そのまま、地下に戻ろうとした時、ふと早瀬の元気がないことに気がついた。
「……ねぇ、早瀬」
「あ、……ごめん、なんか言ってた?」
「なんも言ってないけどさ。あのさ……なんかあった?」
階段を降りていく早瀬は何も応えない。だから僕も無言でその背を追いかける。早瀬が先にスタジオに入って、そして僕がそれを追う。ギィ、と音を立ててスタジオのドアが閉まる。その音を合図にしたみたいに、早瀬は小さく話し出した。
「……さっき、本番前にさ」
「うん」
「電話、かかってきたじゃん」
「うん」
そういえばそうだった。早瀬は随分と長い間電話していた。
「大事な電話だったんだろ?」
「うん……大事、だったけど」
途中で、唐突に、早瀬の声が歪んだ。
「あたし……オーディション、落ちちゃった……」
両手で顔を覆って早瀬は泣き出した。細い肩がしゃくりあげるたびに揺れている。
やばい。僕の辞書には泣いている女子の慰め方なんて、載っていない。
取り敢えず、そっとその肩に手を置いてみた。
「ま、また受ければいいんじゃないかな、何も1回きりってわけじゃないだろ?」
「……普通の人は、そうだよね」
「え?」
「……あたしは、違うの。親に音楽反対されてるから」
親に、音楽を反対されている?
「え、な、なんで?」
贔屓目抜きでも、冷静に早瀬は上手い。才能もあると思う。なのに、反対する親がいるのか?
「そんなので食べていけるほど世の中は甘くないから、ちゃんと現実を見なさいって……っ」
しゃくりあげながら早瀬が話した内容は、音楽の道を反対されていること、それを振り切るために懸命に貯めたお金で受けたオーディションだったこと。今回受からなかったら諦めて大学進学をする約束なこと。
「……あたしの今の音楽じゃ、届かなかった……」
「……」
何も言ってあげられなかった。親がいることは誰にとってもいいものだと、いない自分が可哀想なのだと、そう思っていた僕に何が言えよう。
親のことも進路のことも、何も言えない。言う権利なんてない。
そっと手を伸ばして早瀬を引き寄せた。驚いたみたいに身体を揺らした彼女は、僕の意図に気がつくと、「ううっ」と嗚咽をこぼして更に泣き出した。僕の肩は早瀬の涙で濡れていく。
「……僕は、早瀬の音、好きだよ」
「……はは、……何、やさしーじゃん」
「……泣いてる女子に意地悪いうほど人間できてないわけじゃないし」
早瀬は思ったより小さくて細かった。セナと同じくらいだった。セナよりは少しだけ大きいかもしれない。
そう思って、ああ、やっぱり僕はセナが基準なんだなと身をもって実感した。
早瀬はぬくい。人のあたたかさだ。それが余計に、セナのあのまろやかな体温を恋しくさせる。
どのくらい時間が経ったのだろう。泣き続ける早瀬に正直うんざりしてきた僕は、泣き止ませるためにセナがいつもやってくれるように、背中に手を当てて撫でていた。
突然、スタジオのドアがガチャっと音を立てて開く。
「ホヅミ、ジュース買ってきたよ! ……って、あれ?」
セナは僕らの様子を見て、はっと息を呑んだ。驚くのも無理はない。あの強い女代表みたいな早瀬がしゃくりあげて泣いているのだ。
「あ、ごめ……」
「……」
僕は、そのごめんを早瀬が泣いている途中に入ってきちゃったことに対しての謝罪だと思った。だから、大丈夫だよセナ、早瀬はそろそろ泣き止むよ、と言おうとした。
なのに。
「わ、わたし、先に帰る」
「え? セナ?」
「またね、早瀬ちゃん、ホヅミ」
「ちょっ、ちょっと待って、」
僕が止めたのにも関わらず、セナはバタンと出て行ってしまった。
「あー、……マジか、え?」
未だかつてこんなことはなかった。逆に焦る。セナの行動の意味がわからない。テンパった僕に、泣いていた早瀬は申し訳なさそうな顔をして身体を離す。
「……あの、なんか……ごめん」
「いや、早瀬のせいじゃない」
ドア付近に落とされるように置かれたサイダーとオレンジュースの缶が、コンビニの袋からのぞいていた。
この日僕は、初めて——本当に初めて、ひとりで帰った。セナのいない帰り道はなぜかとても長くて、それだけで妙に疲れてしまった。
病院に帰って自室に戻ってもセナの姿は見えなかった。ほんとうにどこかで倒れていたらどうしようと思って、はるみさんを捕まえたら、1時間前には帰ってきたと言っていた。
「……はるみさん、あの」
「どうしたの?」
「……セナ、どんな感じでしたか」
「? 別に普通だったと思うけど」
「そうですか」
やっぱり、セナ本人に聞かないとわからなそうだ。そう思ってセナの居場所を探る方向に質問を変える。
「セナどこにいますか?」
「ごめんね、私はわからないのよ。戻ってきてたから、出ていってないとは思うけど」
「そうですか……ありがとうございます」
はるみさんはセナの居場所を知らなかった。あとセナのことを知っているのは菅田先生だ。
夕飯と風呂を済ませてから菅田先生に連絡を取った。でも、菅田先生に聞いても居場所は教えてもらえなかった。「体調でも悪いんですか」と尋ねても、「大丈夫、体調は悪くないから」の一点張りだった。
「はぁ」
今日は、疲れた。初めてのことが多過ぎたからかもしれない。
キーボードの前に立ったときの高揚感。演奏中の興奮。古谷くんとの話。早瀬の涙。
そして、セナのいない、帰り道。
スタジオから出ていったときのセナの顔が脳裏に浮かぶ。
「……なんなんだ」
考える。セナは早瀬が泣いているのを見てすぐに出ていった。僕と早瀬をふたりきりにするのがいいと思った、という感じではなかった。
それよりももっと。焦るような。慌てたような。
でもそれは、彼女には持ち得ない感情だ。
なのに、どうして。
僕には、わからない。
わからないけれど。
「……」
もう二度と、セナのあんな表情は見たくないなと——そう思っている自分がいることだけは、わかっていた。
***
最悪だ。
職務を放棄して勝手に帰ってくるなんて、あってはならないミスだ。
穂積に好きな人ができたら良い方向に向かうっていうことはわかっていた。菅田先生もその可能性は大いにあるって言っていたし、わたしが穂積の傍にいられなくなった時のためにも、穂積にはちゃんと恋をして、大事な人をつくってほしかった。
ちゃんとそう思っていたんだ。
でも、頭で考えるのと実際に目にするのとでは雲泥の差だった。とても見ていられなかった。
穂積の肩に顔を埋める早瀬ちゃん。
早瀬ちゃんの背に腕を回していた穂積。
目にした瞬間、ものすごい衝撃だった。
「……っ」
苦しかった。あの場所にいたら、正直に全部話してしまうかもしれないと思った。
勝手に帰ってきてしまったことが妙に後ろめたくて、穂積には会えていない。菅田先生に誤魔化してもらっている。
「はあ……」
自分の身体が嫌になった。つぎはぎだらけの、この身体。今は時限爆弾を抱えた、この身体。
きっと早瀬ちゃんの身体は綺麗なんだろうなと思った。思って、また、苦しくなった。
「なんでこんなに、中途半端なの、わたしは」
どうせ機械みたいになるんだったら、心も失くしてしまえたらよかったのに。
そう思った瞬間、スマホがブブッと音を立てた。画面を見れば穂積からだった。
『夕方暑かったけど、帰った時具合悪くならなかった?』
「……何で」
なんで、わたしを責めないんだろう。わたしは穂積を置いてけぼりにしたのに。勝手にAIの仕事を放棄してしまったのに。理由くらい聞いてもいいものを、穂積は全くそんなそぶりを見せず、わたしのオーバーヒートの心配だけしている。
開かないままじっと画面を見つめていれば、もう一件通知が入った。
『明日は10時に松村くんの家だって。体調悪くなかったら、朝、こっちの病室まで迎えにきて』
「……はは」
穂積は当たり前のように、わたしが明日からも穂積と一緒に行動すると思ってるんだ。
「そういうとこだよ、穂積」
彼はとても優しい。誰かを助けたり、誰かのためになることを厭わない。
今はそれを隠しているけれどそれは彼の本質だ。気づいてくれればいい。それが彼自身の生きる意味になり得るということに。
それなのに、彼自身は基本的に自分を顧みない。自分が幸せになんてなってはいけないと、そう強く思い続けている。
それでも、バンドを組んでからの穂積はとても調子が良かった。
香山くんと一緒にお姉さんのお見舞いに行った時くらいからだろうか、少しずつ、ほんの少しずつだけれど、回復してきている。バンドメンバーたちが穂積にいろいろ相談したりしているのが、穂積を徐々に回復させているのかもしれない。
それは穂積がもともと持っている力だ。穂積のお父さんとお母さんもそういう優しい人だったから。
楽しいというのは、決めるものじゃなくて感じるものなんだってことを、知り始めている。
それはわたしにとってもうれしいことなはずなんだ。だって穂積を過去のトラウマから救うために、わたしは存在しているんだから。わたしがわたしであれるうちに、穂積には回復してもらわなきゃならないのだから。
でも、それが、もし……早瀬ちゃんの、おかげだったとしたら。
そう思うだけで、一気に、苦しくてたまらなくなるんだ。
わたしは最低だ。
穂積がずっと、わたしの傍にいてくれたらいいのになんて。今のまま、一生治らずにいてくれたらいいのになんて。
そんな黒い感情が、ここ最近、ずっと支配しているんだ。
「……また、明日からは普通の、機械のわたしに戻るから」
だから、お願い神様。
今日くらいは、ほんとうの、わたしでいさせて。
***
それから僕らは、夏休み中、毎日のように松村くんの家のスタジオに集まった。
あーでもないこーでもないと言いながら練習をしたりコンビニに行ったり、そしてたまにファミレスで息抜きをしたりした。
僕とセナはそんな日常は初めてで、目がまわるくらい忙しかった。それでも、頭のどこかに明日が来るのが楽しみになっている自分がいた。
あんなに「楽しむ」ことが怖かったのに、気がつけば、僕は当たり前のように毎日を「楽しい」と思って過ごしていた。まるで気づいたら朝の挨拶をしていた時のように。
相変わらず、生きている意味はわからない。
今でもたまに、心の中の10歳の僕が思い出したように頭痛を引き起こす。でも、前みたいに「楽しい」と思うことを止めてはこない。それはきっと普通に近づいたということで、トラウマから少しだけ脱出したということなんだろう。
僕が完全に普通になったとしたら——10歳の僕は、消えてしまうんだろうか。
「それにしてもあっついねー、止まらない地球温暖化って感じ」
「そうだね……」
もうあと少しで9月だというのに、気温はすでに30度を超えているだろう、じりじりと焦がすような太陽光。あちらこちらで蝉が鳴いている。
「どうしたら地球温暖化ってとまるんだろ……」と言いながらタオルで汗を拭く松村くん。ちなみにタオルはフェイスタオルじゃなくてほぼバスタオルみたいなサイズのでっかいやつだ。それでももう拭き取れないほどの汗をかいている。
どうして僕が松村くんと二人でコンビニまでの道を歩いているのかというと。
コンビニにお昼ご飯を買いに行く役目を仰せつかっているからだ。ちなみに決め方は男気じゃんけんだ。
「そのアフロさ、暑くないの?」
松村くんは年中アフロヘアだった。だから僕は、彼の存在だけは去年から知っていた。どうしてアフロヘアにしているのかは今まで聞いたことがなかったけれど、意外と過ごしやすいとかなのか?
そう思って尋ねてみたけれど、松村くんは僕が言葉を言い終わる前に「暑い」と一刀両断した。
「……切らないの?」
「うーん」
松村くんは少しだけ迷うように瞳を揺らして、「ま、句楽くんだったら、話してもいいか」とひとりうなづいた。
「小学校の頃に、この髪型を褒めてくれた人がいるんだ。似合ってるからそのままでいなよって」
「へえ」
「あのさ、今からする話……ちょっと重いんだけど、僕はもう別になんとも思ってないから、深刻に受け止めないでね」
そう前置きをした松村くんは、にっこり笑ってまた汗を拭いた。
「僕さ、小学校の頃、お父さんの勤めてた会社が倒産しちゃって、すっごい貧乏になっちゃって。美容院行くお金もなくてさ」
「……」
思ったより深刻な話だった。気にしないでと言っていたから大丈夫だろうけれど、なんだか最近こういう話を聞くことが多い気がする。そんなことを思う僕の隣で松村くんは話を続ける。
「めっちゃくちゃ天パだから、ほっとくとこうやってアフロみたいになっちゃうんだけどね」
「うん」
「小学生のアフロなんてさ、格好の餌食じゃん? しかも僕こんな性格だから、当時はたくさんからかわれちゃって」
「それを止めてくれたの?」
「……ううん」
「え?」
話の流れ的にはそれを止めてくれた子がいた……みたいな方向かと思ったのだけれど、どうやらそうではないらしい。
「いじめとまではいかなかったけど、そうなっちゃいそうだって先生が思ったんだろうね、クラスで集会みたいになったんだ。松村くんの髪型をからかうことは良くないことです、やめましょう、みたいな」
「あー……」
正義感の強い先生がよくやるやつだ。自分がクラスの子を守ったという満足感が欲しいだけ。そうやって注目の的にされた子がその先、更にいじめられるとも知らずに。
「その先生も別に僕のことを守ろうとしてやってくれたことだから、悪気はないと思うんだけど」
「……悪気がないのが、けっきょく一番悪だと……思う」
『 』
ずきん。頭の芯が痛んだ。
松村くんは「そうかもね、でも僕もたまにやっちゃうから人のことはいえないな」と笑いながら、話を続ける。
「僕の髪型がどれだけ変でも、笑ったりからかったりするのは良くないですよねって、そういうまとめに持っていった時にさ」
横断歩道に差し掛かる。信号は点滅している。少しだけ早足になって僕らは道路を渡り切る。
「……ある子が、立ち上がって、こう言ったんだ」
反対側の歩道に足を踏み出した時、彼は、懐かしそうに——嬉しそうに、目を細めながら空を見上げて言葉をつむぐ。
「『松村の髪型の、どこが変なんですか』って。『先生、別に変だからからかっていたわけじゃないです』って」
「もしかして、その子、からかってた子なの?」
「そうなんだよ。一番僕のことをからかいに来てた子でさ。だから僕もびっくりしちゃって。先生なんてもう目ぇまんまる」
今でも笑えると言いながらくすくす思い出し笑いをしている。
「その子、そのまま僕に言ったんだ。『からかってたのが嫌だったならごめん。でも、お前のそのアフロ、似合いすぎてると思って——だから、思わずからかっちまったんだ』ってさ。そんなのってある?」
「それは普通じゃないね……」
「ロックだよねー、ほんとに。先生も収集つかなくなっちゃって顔真っ赤にして『この話は終わり!』とか言ってその日は終わっちゃった」
松村くんはきっと、視線の先に、あの日を見ている。記憶を、見ている。
「そう言ってくれた子が、ほんとにカッコ良くてさ。ずっと、忘れられない」
「もしかして、松村くん、……その子のこと、好き?」
前に彼は言っていた。
“ずっと好きな子がいる”
僕の問いかけに松村くんは困ったように笑って、「うん……その通り」とうなづいた。
「告白しないの?」
「……したいけど、できないんだ」
そうして彼は、好きな相手に昔からずっと好きな人がいること、自分は絶対に敵わないことを教えてくれた。
「そうなの? 今でも連絡とってたりとかはするの?」
「…………」
松村くんが黙った。蝉がうるさく鳴いていた。彼はふと歩みを止めて、振り返って僕を見た。
「最近、毎日一緒にいるよ」
「……え?」
今なんて。
さいきん、まいにち、いっしょにいる?
そんなの、バンドのメンバーの中の誰かだって、そう言ってるようなもんじゃ——、
「句楽くん……僕が好きなのは、——香山だよ」
楸。
目を瞬いた。
蝉が鳴いている音だけが僕らの間に満ちていた。
「……驚いた?」
「……や、まあ」
「正直に言っていいよ。ちょっと引いたでしょ?」
「……別に」
確かに、彼らは幼馴染だと言っていた。小学校が同じなのもうなづける。
「男が好きだなんておかしいよね。でもさ、好きなんだよ。どうしようもないんだ」
「……そっか」
「ね、句楽くんは、恋って何だと思う?」
恋。
僕は、伝えられるほどの答えを持ち合わせていない。身体中のどこを探しても、見つけられない。
黙り込んだ僕に、松村くんは「ははっ、困ってる」と言いながらもう一度空を見上げた。
「この間さ、1学期最後の授業で先生が言ってた話なんだけど、覚えてる?」
「……ホルモンの?」
「そう。結局人間も動物でさ。恋愛もホルモンが引き起こしてるんだって。ドーパミンとか、セロトニンとか、オキシトシンとかさ」
てことはさ、と松村くんは言う。
「恋も、ただの本能なんだよ。子孫を繁栄させなきゃいけないっていう、なんて言うの、動物としてのさ」
「……そう、なのかも」
「でもそしたらさ——子孫を残せない相手を好きになった僕って、なんなんだろうね」
絶対に叶わない、相手。
許されない、相手。
そうだね。
松村くんの想いも、僕の気持ちも、何のために生まれてきたのか、わからない。
それでも松村くんは苦笑しながらこう言うんだ。
「いつか、この自分の恋心を解明したいなってそう思ってるから、生物学者になりたいんだ。道はまだまだ遠いけどね」
困ったみたいに眉を下げて笑って「はー、ずっと誰かに言いたかったんだよね、言えてスッキリしたー」と歩き出そうとしたその手をそっと掴む。今度は松村くんが目を瞬いて僕を見る。
「あのさ」
「え?」
「引いてないよ。僕」
額から汗が流れる。目に入って沁みる。
「……句楽くん」
「松村くんは、すごいと、思うよ」
楸は男だ。それだけでもハードルが高いだろうに、更に彼には、ずっと想い続けている人がいる。幼馴染の間柄だ、きっと松村くんもそれは知っているだろう。もしかしたら相談も受けているのかもしれない。
それなのに、なんでもない顔をしてずっと友達でいる。その裏にはきっと、たくさんの努力が隠れていることだろう。
僕だったら——そんなふうに、耐えられない。
「すごくなんて、」
「いいや、誰がなんと言おうと、すごいことだよ」
「……そんな、っ」
松村くんの声が少しだけ、滲む。それを聞いて、僕はそっと目を伏せる。
「蝉、うるさいから……何も、聞こえないよ」
それを合図にしたみたいに、松村くんは小さく、ほんとうに小さく泣き出した。
「……辛いよ、毎日。なんで僕は好きな人の好きな人の相談を聞いてるんだろうとか、なんでもないふりをしてそばにいるんだろうとか、毎日思ってる」
「……うん」
その気持ちは少しだけわかる。その話を聞いて思い浮かぶ相手が、僕にもひとりだけいるから。
「でも……それだけ辛くても、松村くんはその人を好きであることは諦めてないよね。それがすごいと思う」
ぽろりとこぼれた言葉に、松村くんはずずっと鼻をすすってこう言った。
「それは……、だって、自分くらい、自分の気持ちを受け入れてあげないと可哀想じゃんか」
ハッとした。
「確かに辛いことはいっぱいある。香山が『俺が音楽一緒にしたいって思うドラマーはは松村、お前だけだ』って言ってくるのとか、もうこいつは何考えてんだよって頭ぶん殴りたくなる」
「そりゃ、そうだよ。一発くらいぶん殴ってもバチは当たらないよ」
「ははっ、それは面白そう。……でも、悔しいけどさ、それが一番うれしいんだ。香山が僕のことを頼りにしてるって、そう思ってくれるのが、たまらなくうれしい」
ぐしっと肩からかけたタオルで涙を拭って松村くんはニコッと笑った。
「だからさ、僕はずっと、もういいやってそう思うまで——香山のこと、好きでいようってそう思ったんだよ」
いいのだろうか。
松村くんみたいに、自分で自分を認めても。
セナのことが好きなんだと、そう、認めても。
生きてる意味がわからない僕が、恋愛なんて、できるはずもないのに。
『……』
いつもだったら口を出してくるはずの10歳の僕は、珍しく、何も言わない。
なんか言えよ。なぁ、教えてくれよ、穂積。
『やだね。自分で考えたら?』
ずきん。
「っ」
めまいに少し顔を顰めれば、松村くんは慌てたように僕を支える。
「あっ……ご、ごめんね暑い中ずっと立ちっぱなしなんて、熱中症になっちゃう」
「いや、大丈夫、引き留めたの僕だし」
松村くんは「行こっか」と歩き出す。また蝉の声が聞こえる。きっとずっと鳴いていたのだろうけれど、話に集中していたからか、入ってこなかった。
「聞いてくれてありがと、句楽くん」
「いや……むしろそんな大事なこと、僕に話してよかったのか?」
僕はまだ、松村くんとちゃんと話すようになって数ヶ月しか経っていないのに。
「なんかさ、不思議なんだけどさ」
「え?」
「句楽くんって、なんでも言える雰囲気あるよね」
「……そう?」
「なんか……何話しても、ちゃんと受け入れてくれそうな雰囲気っていうかさ」
コンビニの入店音が鳴る。松村くんは入り口で僕を振り返って笑う。
「もしかしたら、句楽くんのご両親が、そういう方だったのかもしれないね」
父さんと、母さんが?
『お前はさ、もう、気づいてるだろ』
なにが。
『なぁ、穂積。早く、僕を、助けてくれよ』
……。
「句楽くん?」
「あ……そう、かもね」
深く考えたらきっとまた頭が痛くなる。
だから今は、考えない。
なにも。
***
夜の処置室。バイタルをチェックする菅田先生の顔はなぜだか少しだけ険しい。
「セナ、無理なんてしてないだろうね?」
「……してません」
「ならいいけど、最近、数値良くないってことだけはちゃんと覚えておくんだよ」
「はい」
暑い中毎日外に出ていることがよくないのかも。だけれども、もしわたしが病院に残ると言ったら穂積ももしかしたら外に出なくなってしまうかもしれない。
そう思うと、安易にそんなことを口にはできない。
だって、明らかに穂積は変わってきている。簡単に軽口を叩くようにもなったし、日に日に音楽にも身が入っている。良い演奏を届けたいってそう思っている証拠だ。
ここで枷をかけたくないんだ。この調子でいってほしいんだ。
「穂積くんは最近どうなんだい?」
「とても……良い感じだと」
「そうか。そう言えばこの間はけっきょく何があったんだ?」
この間。わたしがひとりで帰ってきてしまった時。
「……すみません、うまく言語化できません」
あれから穂積とは何事もなかったかのように接している。わたしも穂積もなんてこともなかったみたいに、まるで記憶を消してしまったみたいに普通にやり取りをして、一緒に行動している。
それでいい。
穂積にとっても、わたしにとっても。
「セナ。僕はね、穂積くんに立ち直って欲しいと思っているよ」
「はい、もちろん、わたしもです」
「でもね……セナにも、生きることを諦めてほしくないんだよ」
目を瞬く。
「今、なんて」
聞き間違いかと思った。だって菅田先生は今まで、「穂積が」とか「穂積の両親のために」とか、穂積のことしか言ってこなかったのに。
でも、聞き間違いなんかじゃなかった。
「セナにだって、セナの人生があると思っているよ。だから、何かあったら、相談してくれていいんだよ」
「……はい」
唇を噛み締める。ぐっと強く噛み締める。
そうでもしていないと、泣いてしまうと思った。全部正直にぶちまけてしまうと思った。
「それじゃあおやすみ、セナ」
「……ありがとうございました。おやすみなさい」
先生が出ていって、ようやく頬に涙が転がった。
***
「いやー、仕上がってきたなー」
「ようやくここまできたかーって感じだね」
夏休みが終わり、9月1日、始業式の日の午後。天気はあいにく曇りで、今にも雨が降り出しそうだった。文化祭までは残り1週間、僕らは最後の追い込みにかかっていた。
「穂積、そこの音もうちょいスタッカートでいける?」
「楸のベースに合わせればいいってこと?」
「そ」
微調整を繰り返す。そして、完成度を上げていく。
「まぁまぁ、今日はこのくらいにして、飯でも食いにいかんかね、諸君」
「さんせーい!」
早瀬が両手をあげて喜ぶ。セナもニコニコと笑っている。
あの日からセナとは何事もなく普通に過ごしているけれど、妙に距離を置かれている気がしてならない。ベッドに潜り込んでくることも、のしかかってくることも、いきなりくっついてくることもかなり減った。
こっちがセナへの気持ちを認めようとした途端そうなるなんて、なんて神様は意地悪なんだ。
「桜庭も行くよな?」
今までだったら、「穂積が行くなら」と答えていたはずのセナは、今では「うん」と普通にうなづく。そういうのを見るたびに、少しだけ胸がざわつく。
ずっと僕の傍にいるんじゃないのかよ。
そんなふうに黒い感情が満ちるのが気に食わなくて、僕はまだセナへの気持ちを見て見ぬふりをしている。
「香山何食べたい?」
「何食べてーかなー」
「俺焼肉!」
「それは終わった後にとっとこーぜ?」
「前祝いだよばーか!」
楽器を仕舞いながらそんなことを言い合っている。と、早瀬が「句楽は?」と僕にも聞いてきた。
「僕は別になんでも」
「でた穂積のなんでも! そーゆーの良くねーぞ!」
「別にっていうのはオンナノコが一番求めてねー返事なんだぞ句楽! な! セナちゃん!」
「わたしはあんまり気にしないかな……早瀬ちゃんは?」
「あたし!?」
突然の流れ弾に面食らう早瀬。当たり前だ、この場所で早瀬を女扱いするのは稀だ。
「えーと、」
困ったみたいにしている早瀬。あーもう。めんどくせー。
「わかったよ、好きなもの言えばいんだろ言えば!」
「おっ、ついに句楽の好きな食べ物がわかるぞ!」
「んな注目するなよ……」
結果、みんなでしゃぶしゃぶを食べに行くことになった。念の為言っておくが、しゃぶしゃぶが好きなわけじゃない。
僕はポン酢が好きなんだ。
降り出しそうだった雨もどうにか降らず、僕らはたらふくしゃぶしゃぶを食らったお腹を抱えて、曇り空の夜道の下帰路に着いた。
9月に入って夜は少しだけ秋の匂いがするようになった。この暑さならセナも大丈夫だろう。
目の前のセナの制服のスカートが揺れる。制服姿で歩くのはずいぶん久しぶりだった。セナは前の列で楸と古谷くん、松村くんと並んで何か話している。必然的に後ろを歩くのは僕と早瀬の二人になる。
「この間はありがとな、句楽」
「え?」
前を向いて歩きながら、早瀬はそう呟いた。
「あのさ、えっと……肩、貸してくれてさ」
「あ、うん」
そのことか。ひとりで納得する。
「あとさっきも」
「さっき?」
「あたしが困ってたらアンタ会話引き取ってくれたじゃん」
「あーあの好きなもののくだりの時ね」
「アンタって昔からそういうとこあるよな。なんつーか、困ってる人ほっとけないとこっていうか」
「……そうかな、気のせいだろ」
「ま、よく知らんけど!」
とにかく、と早瀬は笑う。ローファーがカツン、と高い音を立てる。
「アンタのおかげでちょっとは前向けたよってゆー報告」
「ふーん」
「また大学行ってから頑張るさ」
「……そっか」
そこで会話は途切れた。最寄駅についたからだった。
「じゃあ、また明日」
「ばいばーい」
「またね」
「またなー」
「じゃあなー」
「ばいばいー」
僕らはそれぞれ帰路に着く。
「セナ、行こっか」
「……うん」
それぞれの想いを、胸に抱えながら。