その後、僕らは松村くんの家のスタジオに機材を戻して、あーでもないこーでもないと言いながら片付けをした。
セナは「わたしいても邪魔かもしれないから、飲み物でもコンビニで買ってくるね」と言って出て行った。
夕方になったとはいえまだ暑いから、一人で行かせるのはちょっとだけ心配だったけれど、片付けを放り出すわけにも行かない。どうしたものか。
そう思っていた時、突然手伝ってくれていた古谷くんのお兄さんがひょこっとスタジオの中に顔を出した。
「光輝、お前今日店番行ける?」
「え、今から?」
なんでも、お兄さんが店番するはずだったところに、違う仕事が降ってきてしまったらしい。
「今すぐ帰れば間に合うんだよ、頼む」
「わかった、任せな」
ニカッと笑う古谷くん。先程の話を聞いてしまうと、今までみたいに能天気だな、なんて思えない。
「あー、悪い、俺家の店の手伝いで帰らなきゃいけなくて、早瀬と句楽、残りの片付け頼めるか?」
ほとんど話は聞こえていたのに、古谷くんはわざわざ僕らに手を合わせて来た。別に僕に予定はないし、早瀬も「うん」とすぐにうなづく。
「あ、そうだ、そしたらセナのこと途中のコンビニまで連れて行ってくれない?」
「桜庭? いいぜ」
これで一安心だ。片道くらいならひとりでも倒れることはないだろう。
「お手伝いありがとうございました」
古谷くんのお兄さんにお礼を言って、トラックが去っていくのを見送る。そのまま、地下に戻ろうとした時、ふと早瀬の元気がないことに気がついた。
「……ねぇ、早瀬」
「あ、……ごめん、なんか言ってた?」
「なんも言ってないけどさ。あのさ……なんかあった?」
階段を降りていく早瀬は何も応えない。だから僕も無言でその背を追いかける。早瀬が先にスタジオに入って、そして僕がそれを追う。ギィ、と音を立ててスタジオのドアが閉まる。その音を合図にしたみたいに、早瀬は小さく話し出した。
「……さっき、本番前にさ」
「うん」
「電話、かかってきたじゃん」
「うん」
そういえばそうだった。早瀬は随分と長い間電話していた。
「大事な電話だったんだろ?」
「うん……大事、だったけど」
途中で、唐突に、早瀬の声が歪んだ。
「あたし……オーディション、落ちちゃった……」
両手で顔を覆って早瀬は泣き出した。細い肩がしゃくりあげるたびに揺れている。
やばい。僕の辞書には泣いている女子の慰め方なんて、載っていない。
取り敢えず、そっとその肩に手を置いてみた。
「ま、また受ければいいんじゃないかな、何も1回きりってわけじゃないだろ?」
「……普通の人は、そうだよね」
「え?」
「……あたしは、違うの。親に音楽反対されてるから」
親に、音楽を反対されている?
「え、な、なんで?」
贔屓目抜きでも、冷静に早瀬は上手い。才能もあると思う。なのに、反対する親がいるのか?
「そんなので食べていけるほど世の中は甘くないから、ちゃんと現実を見なさいって……っ」
しゃくりあげながら早瀬が話した内容は、音楽の道を反対されていること、それを振り切るために懸命に貯めたお金で受けたオーディションだったこと。今回受からなかったら諦めて大学進学をする約束なこと。
「……あたしの今の音楽じゃ、届かなかった……」
「……」
何も言ってあげられなかった。親がいることは誰にとってもいいものだと、いない自分が可哀想なのだと、そう思っていた僕に何が言えよう。
親のことも進路のことも、何も言えない。言う権利なんてない。
そっと手を伸ばして早瀬を引き寄せた。驚いたみたいに身体を揺らした彼女は、僕の意図に気がつくと、「ううっ」と嗚咽をこぼして更に泣き出した。僕の肩は早瀬の涙で濡れていく。
「……僕は、早瀬の音、好きだよ」
「……はは、……何、やさしーじゃん」
「……泣いてる女子に意地悪いうほど人間できてないわけじゃないし」
早瀬は思ったより小さくて細かった。セナと同じくらいだった。セナよりは少しだけ大きいかもしれない。
そう思って、ああ、やっぱり僕はセナが基準なんだなと身をもって実感した。
早瀬はぬくい。人のあたたかさだ。それが余計に、セナのあのまろやかな体温を恋しくさせる。
どのくらい時間が経ったのだろう。泣き続ける早瀬に正直うんざりしてきた僕は、泣き止ませるためにセナがいつもやってくれるように、背中に手を当てて撫でていた。
突然、スタジオのドアがガチャっと音を立てて開く。
「ホヅミ、ジュース買ってきたよ! ……って、あれ?」
セナは僕らの様子を見て、はっと息を呑んだ。驚くのも無理はない。あの強い女代表みたいな早瀬がしゃくりあげて泣いているのだ。
「あ、ごめ……」
「……」
僕は、そのごめんを早瀬が泣いている途中に入ってきちゃったことに対しての謝罪だと思った。だから、大丈夫だよセナ、早瀬はそろそろ泣き止むよ、と言おうとした。
なのに。
「わ、わたし、先に帰る」
「え? セナ?」
「またね、早瀬ちゃん、ホヅミ」
「ちょっ、ちょっと待って、」
僕が止めたのにも関わらず、セナはバタンと出て行ってしまった。
「あー、……マジか、え?」
未だかつてこんなことはなかった。逆に焦る。セナの行動の意味がわからない。テンパった僕に、泣いていた早瀬は申し訳なさそうな顔をして身体を離す。
「……あの、なんか……ごめん」
「いや、早瀬のせいじゃない」
ドア付近に落とされるように置かれたサイダーとオレンジュースの缶が、コンビニの袋からのぞいていた。
この日僕は、初めて——本当に初めて、ひとりで帰った。セナのいない帰り道はなぜかとても長くて、それだけで妙に疲れてしまった。