最終章

「――あ、旭さん! お疲れ様」
「ああ、楓さんもお疲れ様。本当に宿泊所、抜け出していいの?」
「別に強化合宿って言っても、軟禁されている訳じゃないですから。夜ぐらいは自由行動時間がありますよ」
「そうか。それなら良いんだ。じゃあ、食事に行こうか」
「はい!……スーツ姿、似合いますね」
「ありがとう。学会参加やセミナー講師の時ぐらいしか着ないけどね」
 もうすぐ夏が来るという事もあり、ネクタイをキツく絞めているには少々苦しい季節。
 旭はワイシャツの第一ボタンを外して、少しだけネクタイを緩めた。
「じゃあ、学会に感謝ですね。東京で私が合宿中に同じ場所で学会してくれるなんて。ラッキーです」
「凄い偶然もあったもんだ。合宿ってもっと高地とかでやると思っていたよ。何か食べたい物、ある?」
「食べたい物。ん~、何でも!」
「……それ、一番困るって解って言ってるだろう?」
「あ、バレました?」
「当たり前だ。それなら、何処かのホテルのビュッフェに行こう。俺が栄養バランス良いように選ぶから」
「え~、それじゃあ合宿で栄養管理されてるのと一緒じゃないですか!」
「当たり前だ。栄養は能力向上に強い相関がある。そこを管理しなくてどうする」
「……なんか、デートっぽくない」
 小さく不満を言いながらも、楓は旭の手を握って歩く。
 まだ交際が始まって数ヶ月だが、楓は幸せそうに一瞬一瞬を楽しんでいた。
 ビュッフェに入ると、予告通り栄養バランスをきっかりと整えられた皿が楓の前に並べられた。
 既に旭は楓から今日の練習内容や朝食、昼食を聞き出していた。
 そして脳内で必要エネルギーや栄養バランスを計算し、皿に盛り付けていた。
「……なんか、栄養士に管理されてるみたい。せっかく東京で一緒にデートできたのに」
「合宿は解らないけど、学会や勉強会、セミナーは東京が多いからね。交通の便的に」
「まぁ、それは有り難いですっ。じゃないと、旭さんは禄にデートもしてくれませんからね」
「仕方ないだろう。楓さんは大学で寮に入っていて、俺が仕事を終える頃には門限過ぎてるんだから」
「旭さんが働きすぎなんです」
「それでも、楓さんが外出願いを出す日は会えているじゃあないか」
「確かに。そうでもしないとデートしてもらえませんからね。――でも、知ってるんですよ! 私とデートした後、病院に戻って仕事してること!」
「――なんで、知ってるの?」
「あ、やっぱり! 駄目ですよ、ちゃんと寝なきゃ!」
「……かまをかけやがったな」
「へへぇ。引っかかる方が悪いんですよ」
「よし。後で肩をマッサージしてやるかんな。理学療法士は痛みが出るポイントを掴むのが上手いんだ。覚悟しておけよ」
「ええっ!? 女性への暴力、良くないですよ」
「暴力じゃない。善意溢れるマッサージだ。偶々、痛いポイントに当たってしまうだけだ」
「うわぁ、知識の無駄遣いとか最低だっ」
 特に格式の高いホテルという訳でもない。二人は交際を始めて以降、こういった他愛もないやり取りをするデートが多かった。主に食事や、夜でも楽しめるレイトショーに行ったり。
 今回のようにタイミング良く、旭が休日で勉強会や学会で東京に出ている時、楓も合宿が重なれば食事をした後に夜景を見ながら会話したり。
 二人は未だキスすらしていないプラトニックな交際をしていた。
 楓としては、もっと踏み込んでみたいと興味もある。だが、初めての男女交際だから、ゆっくりしたペースで行きたいという思いも同時にある。
 男はすぐにがっつく獣と周囲から聞いていて、少し怖いと思いもあった。だから、このゆったりと仲を深めていく交際はかえって丁度良い。
 良い関係だと思えた――。
「――ここが旭さんの部屋?」
「ああ」
「何というか、機能的ですね」
「素直に狭いって言って良いんだよ。ワンルームアパートなんだから」
「じゃあ、私の寮室ぐらいで丁度良いです。でも、旭さんならもっと良いところ住んでると思った! 意外だなぁ」
「理学療法士の収入って、多分楓さんが思ってるよりずっと少ないよ。というか、医療補助職は全般的に低い」
「そうなんですね。意外だったけど、私は共働き希望ですから」
「三年って期限、忘れてないよね?」
「覚えてますよ。まだ二年もあります。私と結婚したくなるには十分な時間ですね」
「…………」
「なんて、ちょっと重かったですよね。――あ、本棚にある本の量、凄い! 難しそうなタイトルの本ばっかり」
「全部合わせれば、車一台は余裕で買える金額だろうね。興味があるなら読んでてもいいよ。俺は飯作るから」
「旭さん、料理本当に出来るんですか!?」
「できる……けど、科学の実験みたいにレシピ通りにしか出来ないから。味は多分、個性がない」
「それでも手作り料理が食べられるなら、私は大満足です!」
「どうしてそんなに俺なんかの手作り料理を食べたがるのか……」
「――だって、そうでもないと密室に二人っきりになれないから……」
 楓は旭に聞こえないような、小さな声で呟いた。
 交際を始めてから一年間。
 楓は大学でも陸上の成績は上々だ。
 発症前のベストタイムを少し更新して、インカレも制覇。
 世界陸上Uー二十で金メダルを再度獲得するまでに至った。
 スーパー陸上など成人世代の国際大会も目指せる。
 TVにも幾度となく取り上げられており、その多くが彼女の闘病と復活をメイキングした構成になっている。その美貌も相まって、アイドル的人気を醸している。
 走れなかった期間から考えれば、夢のような順調さだ。
 対して交際はどうかと言うと――順調とは言えない。
 旭とメッセージのやり取りをしていても返事は遅いし、プラトニックな交際――というよりも、旭はこれ以上踏み込んでくる気がしなくて、正直焦っていた。
 交際開始から一年経っても、手を繋ぐまで。
 さすがの楓も悩み、渚に「旭さん、手を繋ぐ以上の事してくれなくて。私に興味ないのかな」と相談してしまったぐらいだ。渚は「年齢差とかもあるから、気を遣ってるのかもじゃん? 楓から手を出しやすいように攻めろ」と言われた。
 当初はそんなの無理だと主張していたが、焦りとは別口に二人っきりになりたいという思いもあった。
 だから、旭の部屋でご飯を食べて身体のメンテナンスとかして欲しいと言って見たのだ。
「――身体は何処も痛くないのか?」
「うん、痛くはないですよ! でも、たまに張るというか……重いかな?」
「それは、左足が?」
「いや、全体ですね」
「そうか……。まぁ、その辺は後でチェックしよう」
「は~い、御願いします」
 楓は専門書の山を見ながら返事をして、内心はドキドキしていた。
 下着は上下揃えてきたし、いざという時の為の避妊具も用意してケースに入れてある。
(なんか、そういう事して欲しがってるみたいでメッチャ恥ずかしい!)
 全ては渚の提案である。渚も男女交際の経験はないが、知識は持っている。
 今時、雑誌やネットを見れば嫌でもそういったエチケットに関する記事が目に入るのだから。
 とはいえ、自分の身体を守りつつ、距離を縮めるには必要と解っていた。
 勇気を振り絞って用意したのだが――。
 ふと、楓の目にレントゲン画像の見方といったタイトルの本が目に入った。
 バラバラと開けば、股関節や上腕骨のレントゲンが目に入る。
「――ねえ、旭さん?」
「ん? どうした?」
 旭はエプロンを着けて料理をしながら、背を向けたまま会話をする。
「こういう、女性の股関節とか上腕骨――っていうか、胸の骨まで映ってるようなレントゲンって見るんですか?」
「ああ、整形疾患の患者さんなら絶対に見るな」
「――二度と見ないでください」
「無理」
「駄目、それは浮気」
「何言ってんの?」
「これはエロ本。レントゲンはエロ写真ですよね?」
「参考資料だよ」
「男性って、すぐそうやってエロ本とかを参考資料って言い訳しますよね」
「酔ってるの?」
「素面です」
「せめて酔っ払いの妄言なら良かったのに」
「旭さんは私に浮気を推奨したけど、私は浮気を許さない派だから」
「レントゲン写真を見て、何で浮気になるんだ。楓さんの思考は特殊すぎる」
「……奇人に特殊とか言われちゃうのは不本意です」
「これは妥当だよ。受け入れなさい」
 眉根を寄せて楓が抗議して、旭はそれをあしらって。
 結局、楓が用意した物を使うような雰囲気には全くならず――。
 旭はタクシーを呼んで、楓を大学の寮まで送ってもらった。外出願いの時間ギリギリ。
 帰った楓が「普通に楽しすぎて誘惑とか忘れてた! せっかくのチャンスが……」と渚に嘆くが、時間は戻らない――。
 ――そして、交際を始めてから二年半が経過した冬の事だった。
 多忙な旭と、練習漬けの楓が再び東京でデートをする機会ができた。
 勉強会で東京に来た旭、そして強化指定選手に選ばれた楓の合宿終了が重なった日だ。
「うわぁ! パレードめっちゃ綺麗!」
「ああ……綺麗だな」
 時間的には日が沈む頃に合流して、少し遊園地内のアトラクションを楽しんで、ナイトパレードを見るぐらいしかできない。
 それでも、貴重な時間で――大切な時間だった。
 恋人繋ぎで握られた二人の手。
 だが、楓からすると――期限と言われた三年という時間まで残り半年に迫っている。
 いつまでも手を握る先から進まないから――。
「ね、旭さん。パレード映しながら記念写真撮ろう! ほら、もうちょっと近寄って!」
「自撮り棒まで用意してたのか、凄いな」
「はい、いくよ! 三.二.一――」
「――……っ」
 シャッターが切られる瞬間。
 楓は旭の頬にキスをした。
「へへっ……。やっと、進めた。旭さん、大好きだよ」
 顔を真っ赤にしながら、少し涙で潤んだ笑みで楓は笑う。
「……大胆な事、するなぁ」
「旭さんが悪い」 
「……そうだな。全部、俺が悪い。……この瞬間も、観られてるのかなぁ」
 旭は照れているのか、頬を掻きながら何もない方向へと目線をむけた。
「――バッチリ撮れてる! 旭さん、目がキョトンってっ。初めて私と会ったときに白髪抜かれたのと同じ表情してるよ!」
「消しなさい」
「嫌だ~! 後でメッセージのアルバムに投稿するからっ。ちゃんとホーム画面に設定しといてね」
「社会的に死ぬから無理」
「何でぇお互いもう成人じゃん!」
 二人は楽しそうに、腕を組みながら門限に間に合うよう帰宅した――。
 そして、次に二人っきりになる機会は大晦日だった。
 楓は大学の練習が休みで帰省をして。
 そして旭は病院に残って仕事しようとしたが――楓の強い希望もあって、初めて楓の飲むお酒に付き合う事になった。
 お泊まりではない。
 旭は事前に楓の母親に連絡して、深夜となる前――十時には車で迎えに来て貰うことになった。
 楓の母としては泊めてやって欲しいと言ったのだが、旭が丁重にお断りした。
「――お邪魔します!」
「狭くて汚い部屋だけど、どうぞ」
「う~、寒いっ。旭さん、早く隣きて! 凍る!」
「わかったわかった」
 時刻は午後七時。
 近くのスーパーで買ってきたお酒や年越しそばやおつまみを手に、二人は部屋の座布団に座り、肩を寄せながら座る。
 実際に年越しまで一緒に居るわけではないしカウントダウンもできないが、気分的には最高潮だった。何せ、楓は旭に誕生日プレゼントをもらっていたが――旭は楓に誕生日すらも教えてくれないのだ。クリスマスだって病気は待ってくれない。病院や練習はあるからと一緒に過ごせなかった。
 楓は旭がわざと自分に浮気する時間を与えているように思えてならない。
 それでいて、自分との事は一時の遊びで気晴らし程度に思え。
 決して自分から迫ってはこない旭を見ていると、そういった意思すら感じられた。
 そんな二人にとって、対等の立場でイベントのお祝いをするのはもしかしたら初めてかもしれない。
「――じゃ、新年明けましておめでとう!」
「まだ明けてないけど、おめでとう」
「――これがお酒かぁ! なんか、炭酸強い! 旭さんは普段、お酒飲むんですか?」
「いや……全く飲まない。もう九年は飲んでないな」
「え~! お酒、苦手とかですか?」
「いや……。普通に飲む機会が無かったから」
「そっかぁ。社畜だもんねぇ」
「もう酔ってるの? 別に社畜じゃないよ」
「間違いなく社畜です! 自覚した方がいいですよっ。ちょっとは休んで、長生きしてね!」
「……美味いな、これ」
「誤魔化さないでください!……でも、本当美味しい」
 楓には下心があった。
 恐らく、旭は年齢差があるから自分に手を出して来ないのだ。
 だったら、そんな理性なんてアルコールでぶっ飛ばしてしまえばいい。
(二年半、何も手を出されないのは女として辛すぎる。今日こそ、今日こそ……っ!)
 そんな思いを抱えながらアルコールを飲んで――二時間が経過した頃。
 異変は起きた。
「――寂しいと思う事だってあるよ……。人の温もりや優しさが欲しいって時もあるよ」
「はいはい。よく頑張ってるね」
「強がっててもさ、やっぱ嫌われるってのは悲しいんだよ?」
「うん。立派だよ」
「……暖かい」
「そうだね。私も、暖かいですよ」
 酔って狂ったように甘えるのは――旭だった。
 顔も身体もへにゃっとしていて、楓に膝枕されて甘えている。
 楓も普段からピシッとしている化け物が、まさか酔ったらこうなるとは思っていなかった。
 もはや大人の関係どころの状況ではない。
(――でも、可愛い……っ。ギャップやばすぎる!)
 ツボだった。楓の胸が高鳴る。思わず頭を撫でた時、ちょっと嬉しそうに笑う旭を見て――発狂しそうな程に胸がキュンキュンとしていた。
「旭さん、愛してま――」
「――楓」
 途端、初めて自分の名前を呼び捨てにされ、楓は呼吸が止まるような想いを感じたが――。
「ごめん、ごめんな……」
 つっと旭の頬を流れる涙を見て、戸惑いを覚えた。
(ごめんって、何が……?)
 暫くすると、インターホンが鳴った。時間的に楓の母と思って間違いない。
 千鳥足で歩く旭を支えながら、楓はドアを開けた。
 母は「あらあら、良い物が見られたわ」と笑っていた。旭が揺れながら「すいません、すいません」と何度も頭を下げるのをカーブミラーで見送り、楓は母と年越しをした――。
 そして、新年が明けてすぐの事だった。
 楓のスマートフォンに着信の音が鳴り続ける。
 楓は丁度、起きて顔を洗っていたばかりだったので暫く無視していたが、着信音はいつまで経っても切れる気配がしない。
「あけおめにしてはしつこすぎるし……誰だろう。――渚?」
 ディスプレイには、川越渚の名前が映っていた。
(何だろう。初詣のお誘いとかかな?)
「――もしもし、明けましておめでとう」
『楓!? 大変だぞ!』
 幼馴染みである楓ですら、かつて聞いた事が無いほどに慌てた声だった。
「大変って、何が?」
『ああ、やっぱり知らないのかっ!――今、URL送ったから見ろ!』
「何……――っ!」
 渚から送られたメッセージにあるURLから飛んだ先を見て、楓は血の気が引いた。
 顔が真っ青になっていく。
「『トラックの女神、おめでたい熱愛発覚。お相手は年齢差のある三十代一般人男性』って、何これ!?」
 貼り付けられたURLからサイトに飛ぶと、ネットニュースのページに飛んだ。
 そこには楓が旭と腕を組んでスーパーで買い物をしている写真や、昨日家から出入りする時の写真すら載っている。
 さすがに旭の顔はモザイクで処理されているが――楓が男性と腕を組んでいる事は一目瞭然だ。
 報じているのは、楓はよく知らない出版社が運営しているというニュースサイトだった。
『ウチも朝、ネットニュース巡ってたら見つけてさッ! ヤバいよ、SNSで炎上してる! 相手を特定しようとしてる奴もいる!』
「何、それ……」
『なぁ、これって……やっぱ保坂さんだよな? 肖像権の侵害だって記者にぶち切れてる奴もいるけど、年齢差で保坂さんを叩いてる奴もいる! 大学に連絡した方がいいんじゃないか!? 楓は芸能人でもないし、こんなん盗撮だろっ! 正式に抗議しよう!』
「ぁ……なん、で……」
『楓!? 大丈夫か!?――今からそっち行くから! ちょっと待ってろ!』
 楓は頭が真っ白になり壁にもたれかかった。
 芸能人の熱愛がニュースになっているのを見た事はある。――だが、自分は確かによくメディア出演はしていたものの、唯の大学生だと思っていた。
 まさか自分が熱愛報道されるなんて――思ってもみなかった。
「旭さん……っ!」
 慌てて渚との通話を切って、旭に電話を掛ける。
 だが、電源を切られていて繋がらない。
「旭さんは仕事中はスマホの電源を切ってるから……っ。酷い迷惑、かけちゃった。巻き込んじゃった……っ!」
「――楓、楓しっかりして!」
「お母さん……」
「お母さんにも今、渚ちゃんから電話がきた! 絶対許せない。新聞社を訴えてやりましょう! 大学にも電話しておくから、渚ちゃんが来たら一緒に大学行くよ!」
「……旭さんに、迷惑かけちゃった。私をトラックに戻してくれた恩人に……大好きな人に……っ」
「楓は悪くない。楓は悪くないよっ。旭さんにはお母さんからも一緒に謝ってあげるから」
「ぁ……ああ」
 楓のスマートフォンが勢いよく手から落ちて、床を転がる。
 ヒビ割れたスマートフォンカバーには、旭と仲睦まじく腕を組む楓のスクープ写真が映っていた――。
 その後、正月にも関わらず大学のコーチや監督、学長などの面々が集まり対策を会議する事になった。厳粛な会議室で事実確認をした後、弁護士資格を持つ人が「明確な肖像権の侵害として、大学から正式に出版社への抗議と訴訟を検討するべきだ」と意見が出た。
 その意見が採用され、大学側はHPを通じて正式に抗議と批難の声明を出した。
 同時に、出版社へ正式に抗議に行ってくれた。
 出版社側もあまりの反響と世間からのバッシングに参っているのか、弁護士を通じて会話をする事となった。
 そして夜には出版社側から「記事の削除をした上で直接の謝罪と示談の話し合いをしたい」と言った旨の連絡が来た。その知らせを聞いても、楓は放心状態だった。
「……今更、謝罪されても遅い。もう、旭さんに迷惑がかかっちゃってる……」
 SNSを普段見ることもない楓だが、傍に付き添ってくれた渚に頼んでどういう状況かを説明してもらっていた。
 そこには、旭個人の特定にまでは至らなくても――楓が入院していた病院の関係者という事までは突き止めている人達がいた。
 大学内に出版社の人達や実際に記事を書いた記者が謝罪に来ても、楓の頭には入って来なかった。
 法律関係の専門家が訴訟となったり示談交渉する時の為にと名刺を貰ったりしているのを、現実味がない気分で眺めていた。
 旭には、何度電話を掛けても繋がらなかった。
 深夜、楓が家に戻っても数分おきに旭に電話をかけ続けると――。
『……もしもし』
「――旭さん……っ」
『そんな泣きそうな声をするなって』
「でも、でも……っ! 記事の事、知ってますよね?」
『……ああ、昼前かな。騒ぎを聞いた院長先生に呼ばれて知ったよ』
「ごめんなさい……っ! 私のせいで、巻き込んじゃってっ!」
『別に楓さんが撮ってくれって御願いしたわけじゃないだろ?』
「それは、そうだけど……っ。でも、迷惑掛けちゃったからっ」
『そんなの、問題にもならない。上は色々と慌ただしいけど、俺は気にしてないよ。顔も出てないし、例え特定されても別に悪い事をした訳じゃないだろ?』
「それは……別に悪い事なんて何もしてないですけど!」
『そう、成人した大人同士の恋愛だ。悪びれる事はない。むしろ、一般人達の恋愛を――ましてや楓さんはモザイク無しで書かれたんだ。俺としてはそっちの方が心配だ』
「旭さんは……強がり過ぎですよ」
『…………』
「私、知ってるんですよ。旭さんが、本当は周りの目を凄く気にする繊細な人だって。それに耐えている強い人だって!」
『俺としては、記事よりもそっちを知られている方が恥ずかしい。とにかく、俺は気にしてないから……。むしろ、歳の差がある俺と交際してることが叩かれたんだろ? こちらこそ、ごめ――』
「――旭さんは悪くない! 絶対に、絶対に悪くないです!」
『……いや、違うんだ』
「違うって、何がですか⁉︎」
『……ごめん。とにかく、俺が悪いんだ。本当に、俺が――』
「――違う! それだけは、絶対に違います!」
『……わかったよ。俺が悪いのは性格だけって事にしておく』
「……あと、意地も悪いです」
『お、ちょっと余裕出てきたな。まぁ……つまりどっちも悪くないってことか。だから、楓さんも泣き止んで』
「……無理。このまま電話繋いでおいて」
『……わかった。パソコン仕事してるから、スマホは隣に置いておくよ?』
「うん、それでもいい」
 誰よりも強くあろうとしている旭の――お酒を飲んだ時の本音を知っている楓は、心から迷惑をかけた事を詫び続けた。
 旭がもう謝る必要はないと言い続けても、ひたすらに。
「……ねぇ、旭さん」
『どうした?』
「旭さんはどうして、ほぼ徹夜で毎日パソコンに向かってるんですか?」
 鳴り続けたタイピング音が、ピタリと止まった。
『……仕事だよ』
「仕事のためだけで、そんなに頑張れるんですか?」
『……知識と技能を未来へ繋ぐ為だよ。そういう約束なんだ』
「研究成果とかで、未来の理学療法を発展させるのが自分との約束ってこと?」 
『……まぁ、そういう感じかな』
「本当に、自分に厳しい約束をするんですね」
『ああ……本当に、厳しい約束だよな。……サボらないよう、常に監視されてるような……。視線も感じるんだ』
(……視線? なんのことだろう。でも、そう言えば……。旭さんは時々、何もない場所を見つめてた。まるで、テレビのディスプレイを凝視するみたいに。誰かと視線を合わせているかのように)
 そうして、また心地よいリズムのタイピング音が再開された。
 それはまるで睡眠導入音楽のように、カタカタと優しく音を鳴らす。
 泣き疲れた楓が眠るまでずっと、強がりな男がタイピングする音が鳴り響き続けた――。

 結局その後、炎上した記事は記者が悪いという事が世論に後押しされた。
 楓自身が記事を書いた記者にも出版社にも関わりたくないし、しばらくは放っておいて欲しいという事で示談交渉は進んでいない。
 同時に、訴訟の話も有耶無耶で眠ったままだ。
 ただ、それから旭は楓と直接会ってはくれなくなった。
 電話には応じてくれる。
 深夜まで、楓が眠るまで付き添ってくれる。
 ――そんな状態のまま、楓が二十一歳の春がきた。
 高校を卒業してから三年目――丁度、旭と交際を始めた春がきた。
『……〇時を回った。期限だ。――楓さん……契約満了です。約束通り、お別れです』
「――いやっ! そんなの、絶対嫌です!」
 大学寮の部屋、壁も薄く隣人にも絶対に届くような叫びで――楓は拒絶した。
『……約束でしたから。契約通り、僕なんかの事も全て忘れて下さい』
「嫌です……っ。絶対嫌! 嘘つきって言われてもいい! こんなお別れ、絶対に嫌……っ。教えて、この期限の意味はなんですか⁉︎ 旭さんは、私たちに何を隠しているんですか⁉︎」
『……すみません、それだけは、絶対に言えません』
「そんな、なんで⁉︎ なんでですか⁉︎」
『楓さん、いえ、大宮さん。僕は、貴女の生きる意味――走りを取り戻す事が出来ましたか?』
「私の事を名字で呼ばないでください……っ! 旭さんは、私に生きる意味を再びくれた人ですっ!――だからっ!」
『――すみませんでした。全て、僕が意志薄弱なせいです。恨んでください。いえ……存在ごと忘れてください。――さようなら。これからのご活躍と幸せを、心より願っています』
「――旭さ……っ。待って切らないで! ああ……っ! 繋がらない、あぁ、ああ……っ!」
 楓が何度通話を掛けようと――二度と旭に繋がることはなかった。
 そして、何度メッセージを送っても――既読がつくことはなかった。
 結局一睡も出来なかった楓は、陸上部に体調不良で休むと言って――埼玉大学リハビリテーションセンターへとやってきていた。
「我ながらストーカーみたいだけど……でも、絶対に諦めない。初めて愛した人と、こんな理不尽な、嫌な最後で別れたくないっ!」
 受付に旭と会いたいという旨を伝えると、「院長先生から、大宮さんの面会は禁止されておりますので」と平身低頭で謝罪された。
 先日の記事の一件を病院側も大きく問題視して、楓の面会は禁止されていた。
 楓は終日、病院の前のベンチに座っていた。
 かつて最終負荷試験で旭と走った時に座ったベンチだ。
 ――だが、そこにもう旭の姿はない。
 職員達が次々と退勤していく。その中に、旭の姿はない。
「……今日も、深夜まで働いてるんだろうな」
 寮の門限は確実に過ぎてしまう。
 楓は母親に御願いして心身の不調でしばらく実家に戻っていると寮に伝えてもらった。
 陸上部の監督には、自分から心身の不調でしばらく休ませてもらいたいとメッセージを送った。
 既読がついてからしばらくした後――『わかった。待っている。お大事に』と返事がきた。
 先日の記事の一件が無ければ、決して認められ無かっただろう。
 だが、これで安心して明け方まで待てる。
 ――だが、朝になって退勤したスタッフが再び出勤してきても、旭が来ることはなかった。
 既にしばらく何も食べていないはずだが――空腹すら感じなかった。
 昼過ぎになると――徐々に暗くなり、夕方には雨が降ってきた。
 それでも、楓は動かなかった。
 母親や渚が心配してかけてくる通話やメッセージには逐一出ているし、返事も返している。
 スマホのバッテリーが残り僅かだと警告が出ている。
 ――だが、動く気になれなかった。
(……ずぶ濡れになるのなんて、雨の練習やレースで慣れてる。私は……旭さんに会いたい)
 ベンチの上で膝を抱えながら、退勤していくスタッフを眺める。
 職員通用口や、正面玄関をじっと眺めている楓に当たる雨粒が急に無くなった。
 代わりに聞こえるのは、ぼつぼつと雨を弾く傘の音。
 楓の背後から――傘がスッと差し出されたのだ。
「――旭さ……っ」
 旭が傘を差してくれたのではとバッと振り向くと――。
「大宮さん……」
 雨雲より暗い顔つきをした高木主任が、そこにはいた。
「高木さん……旭さんは? 私、旭さんに直接会いたい、謝りたいんです!」
「……それは、無理だよ」
「――病院には迷惑をかけないようにします! 一瞬でもいいんです、だから――」
「――旭くんは、鬼籍に入りました」
「――……ぇ? 鬼籍……?」
「……旭くんは、亡くなったんです……っ」
「――何を言ってるんですか……?」
「……二日前にウチの病院を退職して――昨日、実家で急死しました」
 理解出来ない。
 何を言っているんだろう。
 たちの悪い嘘だ。
 そんな楓の願望が、所詮は願望でしかない事は――目の前で泣いている高木主任の様子で分かる。
 楓の持つヒビ割れ、雨に濡れたスマートフォンに一通のメッセージが届いた。
 差出人名は、〈観測者〉。
 内容は――『彼の魂の火は、君の幸せを望んでいる』。
 楓の知らない謎の相手から、突然訳の分からないメッセージが届いた。
 そして――バッテリーが切れてディスプレイが真っ暗になった。
「……高木さん、傘を差すなら、ちゃんと差さないと駄目ですよ。……こんな、濡れちゃうじゃないですか」
 真っ暗になったディスプレイを、ポタポタと雫が濡らし続けている。
「そうだね……そう、だよねっ」
「ぁあ……っ。ぁあああああ……っ!」
 傘の中で二人分の涙が落ちていく。
 ポツポツと。
 傘の中は悲雨が降り続けた――。

最終章

 保坂旭が死亡した。
 誰もいない実家で、机に突っ伏して亡くなっているのを――後継人である叔母が発見した。
 職場を退職していると思っていなかった叔母が病院に連絡をしなければ、高木主任とて旭の死を知らぬままだっただろう。
「……旭さん。どこ、どこですか?」
 楓はかつての旭が住んでいた職場近くのアパートに来ていた。
 もう、誰も住んでいない空室のアパート。
 既に退居していて、ポストも投函できないようにされている。
 かつて旭と料理を食べて、年末も過ごした。
 楓にとって大切な思い出の場所だ。
 楓の母は連絡が付かなくなった楓を心配して、すぐに病院前へ車で来た。
 そこで泣いている二人から事情を聞いて、しばらく頭を撫でた後、楓を家に連れ帰った。
 しかし、楓はカーテンも開けずベッドに眠り――やっと起きたと思ったらまともに食事も摂らず旭の住んでいたアパートまで来ていた。
 遠い距離を、まるで幽鬼のような足取りで。
「旭さん……。なんで、返事をくれないんですか? 既読ぐらいつけてくれても、いいじゃないですか。いくらお仕事熱心でも……それぐらい」
 スマートフォンの旭とのやり取りをみる。そこには、嬉しい会話の痕跡があった。
 だが、二度と既読は付かない。
「――楓! やっと見つけた!」
「楓、何やってんだこんな所で!」
「お母さん……渚」
 車に乗った母親と渚が、旭のアパートの前に幽霊のように立つ楓を見つけて抱きついてきた。
「お母さん……。旭さん、既読がつかないの。何処にも、いないの」
「楓……っ。うん、うん……っ」
「ねえ、旭さんはね。私をもう一度走らせてくれた恩人なんだよ? なのに、恩返しどころか……私、酷い事しちゃった」
「楓は悪くない……っ。楓は悪くねぇよ!」
「ねえ、旭さん……本当に死んじゃったの?――私、あの記事が出てから一度も会ってないのに。ちゃんと謝りたかったのに。……愛してるって、伝えてないのに、本当に?」
「今は考えんな! 一回、休め……っ!」
「渚……。ここはね、旭さんとの楽しい思い出がある場所、空間なの。同じ空間という三次元にいるのに、ちょっと時間という一次元がずれただけで二度と会えないの?」
「楓……っ。もう、難しいこと考えんなよ……っ」
「……そんなの、おかしい。たった一次元、その壁さえ越えれば……あの頃の楽しい時間が手に入るのに。ねぇ、なんでかな。長距離のタイムを短くするのは私、得意なのに。頑張ってタイムを、時間を縮められるのに。なんで……一番変えたい時間が変えられないのかな……?」
「楓……っ」
「お母さん、ここで写真撮られたんだよね。……でも、あの日の旭さん、可愛かったんだよ」
「そう……ね」
「旭さん、酔っ払ったら……本当は嫌われるの辛いって、寂しいって打ち明けてくれたの。普段、あんなに格好良い化け物みたいな旭さんが、私に本心を打ち明けてくれて……嬉しかったなぁ」
「うん、うん……っ」
「でもね、その後……私、旭さんにまた辛い思いさせちゃった」
「……お母さんも、記者に気が付かなくて、ごめんねっ」
「記事になって迷惑かけちゃって……ちゃんと謝りたいの」
「それは……っ。それはもう……っ」
「――旭さん……。私、会いたいよ。私だって、寂しいんだよ?」
「楓……っ。一回、お家に帰りましょう。ね?」
「お母さん……」
 瞳を潤ませる母は、キュッと唇を噛み締めて楓を助手席に乗せて自宅へ車を走らせる。
 自宅に帰った楓は、カーテンの閉まった暗い部屋のベッドの上で呆然とスマートフォンのメッセージを眺めていた。
「観測者……あなたなら、旭さんについて何か知ってるかな?」
 楓は観測者の送ってきたメッセージに返信した。
 『あなたは旭さんの死について知っているんですか?』と。
 すると、既読はすぐに付き〈観測者〉からメッセージが返ってきた。
 『彼が死ぬ契約の、原因になった過去を知りたい? 対価は、君が持つ彼と私の記憶。君の中にある彼の記憶を消すことは、彼の望みでもある』。
 その言葉の後半はよく理解できなかった。
 何しろ、楓にとってここは――夢の中なのだから。旭のいない世界は、現実じゃないんだから。
 だから――『知りたいです』。そう返した瞬間――意識は急速に吸い込まれた。
 
 気が付けば楓は、夢を――VR映画のように立体的な夢を見ていた。
 自分は見ているだけなのに、周囲はまるで本物のようだ。
 場所は――。
(……ここ、病院?――私が入院してた病院だ)
「――死んじゃ駄目だ! 戻ってきてください!」
「保坂さん、AED持って来ました!」
「俺が心臓マッサージしている間に装着の準備を! 先生が来るまでに出来る限りの事をして!」
(旭さん……っ! 髪が真っ黒で若いけど旭さんだ!……患者さんに、心臓マッサージしてる?)
 映像のように映る旭は、汗だくで患者に心臓マッサージをしていた。
 窓の外は真っ暗で、時刻は深夜なのが分かる。
「保坂さん、AED準備できました!」
「よし、装着して離れて!」
 新人のように若い看護師と介護士に旭が指示を出している。
 AEDが『心電図を調べています』と言った後、『電気ショックが必要です』と言った。
 そしてチャージが終わったAEDの点滅するボタンを看護師が押す。
 それでも、患者の意識は戻らない。
「――クソッ! 先生が来るまでにラインの確保は!?」
 すぐさま胸骨圧迫を続けながら保坂が汗をまき散らして叫ぶ。
「今、先輩が急いで準備しに行っています!」
「先生は……っ! 当直医はまだか!?」
 泣きそうな表情で叫ぶ旭に――細い声が聞こえた。
「保坂……先生」
「矢口さん!? 意識が戻った! 矢口さん、今先生が来ますから、だから耐えて――」
「――もう、楽に死なせて、ください。保坂先生、ありがとう……」
 矢口という患者の頬をつっと涙が伝う。
 矢口の言葉に、保坂が唖然としていると――。
「矢口さん!? しっかりしてください!」
 白衣を着た男性が病室に飛び込んできた。
「先生、ラインとります!」
「ああ、保坂くんは邪魔だから退いて! もうコメディカルにできる事は無いっ。看護師さん、手伝って!」
「はい!」
 そのまま邪魔と言われた旭は力なく病棟内を歩いて行き、ナースステーションでモニター心電図を眺める。
「――……邪魔者、か。理学療法士は……医療補助職、コメディカルでしかない。法律で医療行為が出来ない俺は……命の現場で何もできない邪魔者、か」
 時折ぴっぴっぴと音を鳴らして心拍が戻っては――再び心拍が消える。
 そして遂に――全く心電図が反応しなくなった。
 虚しいモニター心電図のアラーム音だけが響く。
 疲れ果てた表情で医師や看護師達がナースステーションへ戻ってきた。
「……保坂さん、深夜にありがとうございました。……お疲れ様でした。矢口さんは、亡くなられました」
 若い看護師が、保坂にそう告げる。
「……そうか。お疲れ様」
 旭はお辞儀をして、再び矢口さんの病室へ向かう。
 矢口さんは苦しそうに顔を歪め、呼吸停止した対処の為に、気管切開をした傷跡が生々しく残っていた。美しく、綺麗な身体でこの世を去る事が出来なかった事が見て解る。
 もう楽に死なせてくださいという最期の願いも――叶えることが出来なかった。
「――矢口さん、僕は……っ。あなたの担当なのに、何も出来ませんでした……っ!」
 旭は汗でびっちょり濡れた黒髪を深々と矢口さんのご遺体に向かって下げ――リハビリテーション科スタッフルームへと入っていった。
 室内には保坂が丁度纏めていた資料が映し出されたパソコンが一台ある。
 論文を書いている最中、ナースステーションから急遽響いたアラーム音に、旭も何か出来ることはないかと飛び出して行ったのだ。だが――。
「畜生ッ! 俺は……何も出来なかったっ! 俺の担当患者なのに……っ。俺がもっと早く気が付いていればッ。もっと知識と技術があれば……死なせてなんて、言わなくて済んだはずなんだ!」
 拳から血が出るんじゃないかと言うほど強く握り、震える声で旭は悔やむ。
「そもそも、俺が理学療法士だから……っ。医療行為をしちゃいけない立場だから……っ。専門理学療法士だろうが、認定理学療法士だろうが取っても、なんにも変わらない! 俺は、なんの為に勉強して、血眼になって論文を書いてきたんだ! 目の前で消えそうな命を、人生を救えない知識に何の意味があるっていうんだ!」
 自らの存在意義さえ解らず、旭は顔を覆った。
「最後には、邪魔者扱いされるようなっ。俺はそんな程度だから……っ。畜生……矢口さん、すいません……っ! 俺が、俺が未熟なせいで……っ」
(旭さん……っ。こんなに苦しそうな顔、初めて見た)
 旭は自らの未熟を責めて顔に指が食い込む程、悔しい思いをしていた。
 そんな彼の耳に、ポンッとメールを受信した音が鳴る。
「……こんな時間に、メール? なんだ、この添付された圧縮ファイルと……この文章は?」
 メールの差出人は〈観測者〉。メールの文章には、こう書いてあった。『この魂の籠もった、未来の膨大な知識と技能が詰まったファイルを開いたら、十年後に死にます。それでも、あなたは知識と技能を得たいですか?』と。
「……なんだよ、誰かの悪戯メールかっ。――また同じ奴から、しかも今度は添付ファイルが……圧縮されてない?」
 文章には『一つだけ、彼の残した症例検討レポートをプレゼントします。その知識を見てから判断しても、遅くはありません』。
「……何なんだよ、ウイルス対策ならされてるし……っ」
 旭は添付されたワード文書を開いてみた。
 四十枚に及ぶ一症例検討レポートに記されている考察の鋭さ、そして斬新さ。
 何より――参考文献が未来の日付になっている。
 割と近未来の物もあるが、中には約十年近く後の文献まである。
「これは、未来から送られて来たってのか? 馬鹿馬鹿しい。――でも、この内容は……っ」
 内容があまりに充実していて勉強になるから――思わず先程のメールに添付された圧縮ファイルを開こうとしてしまう。
「ここには、似たような……。いや、もっと凄い知識技術の塊が――」
 そこでぶんぶんと頭を振る。
「馬鹿馬鹿しい。……クソ、駄目だ。もう、帰ろう……疲れた」
 そうして映画のような景色は移り変わる。
 別の日の深夜。とある学術紙を手に震えている旭の映像に。
「――この論文は、あのメールの参考文献と同じ……っ? そんな、まさか本当だって言うのか?」
 もう一度、プレゼントのように送られて来た奨励検討レポートと参考文献を見比べる。
「……間違いなく、同じ文献を参考にしている。何なんだ、この観測者って奴は?」
 ゴクリと唾を飲む。
 間違いなく、悪魔の囁きだ。
「これを読んだら……十年後に死ぬ」
 そう書かれている。それでも――。
「死んだように、後悔して長く生きるぐらいなら――俺は、誰かの人生を救う短い人生を選ぶ」
 そうして、圧縮ファイルが解凍されていくと――膨大な量の論文、症例検討レポート、実技勉強会資料とメモがフォルダには眠っていた。
 知識技術に飢えた旭には――宝の山に思えた。
 そうして一つのファイルを開くと同時に――。
「――〈観測者〉からメール?」
 タイトルは『再び火を灯す君へ』。
 文章には、『契約は成立しました。十年後の三月八日に死ぬ。それが、あなたがこの知識を得る対価です。これからあなたはこの知識技術をため込んだ人のように、フォルダにあなたがこれから体験する方への知識技術を蓄えてください。それが、次にこのフォルダを必要とする人と、患者の人生を救う光となるはずです』。
「――何だよそれ、こんな非科学的な事を信じろって言うのか? なんの呪いだよ」
 鼻で笑っていた旭だが、添付されている資料の内容や――次々と実際に世に出てくる論文を見て、意識を改めた。
「……認めるしかないか。俺は――知識技術を得るために、悪魔に魂を売って、死ぬって事を」
 それから、旭は殆ど家に帰る事もなく知識技術の塊を読みあさった。
「――彩夏。別れよう」
「――え? 突然、どうしたの。旭くん」
(え……っ。これ、高木さんと旭さん?)
 夢のように、映画を観ているように眺めながら――楓は若かりし日の二人を見た。
 二人は深夜、誰もいないスタッフルームで別れ話をしていた。
「……俺と付き合っていても、十年後までには必ず別れて忘れてもらう。そんな期限付きの未来がない交際なんか、認めらんないだろう?」
 それは、いつか楓が高木主任から聞いた旭と別れた時のエピソードをなぞる光景だった。
「――当たり前でしょ! 突然、何言い出すの!? こっちは将来を考えて真剣に付き合ってるのに!」
「じゃあ、やっぱり駄目だ。……ごめん」
「――意味分かんない!」
 高木は――高木彩夏は、怒って早足で帰って行った。
 その足音が消えるのを聞いてから――。
「寿命が解ってると、不便だな……。未亡人には、させたくない。……でも、これからずっと一人は寂しいなぁ。……いや、俺はもうリハビリに人生を捧げるって決めたから、だからこれでいい。これでいいんだ。――もう、俺の事を好きになる奴もいないぐらい、徹底的にみんなの敵になろう。――そうして、患者さんの為になる病棟を作って――俺は死ぬ」
 その時――初めて楓が見た時の旭のような、ナースステーションで看護師から情報を収集しようと詰め寄るような。
 化け物じみたロボットのような表情を浮かべた。

「――……っ!」
 楓はバッと目を覚ました。
 気が付けば、いつも通りの暗い部屋。
「なんてリアルな夢なの……っ?」
 そこで、スマートフォンにメッセージが来た音が鳴る。
「――〈観測者〉!?……あなたは、何者なの?」
 メッセージは、観測者からだった。
 内容は『おまけです。彼が死ぬ契約を作った、呪われたファイルの作成者の人生、その一部を観ますか?』と書いてある。
「……仮に、夢じゃなくて本当だとしたら――旭さんを呪い殺した相手だよね。そんなの――」
 迷うことなく、楓はメッセージを返した。『観たい』と――。
 再び、抗えない微睡みに意識が消えていく。

(――また、病院? しかも、ここは同じ病院、埼玉大学リハビリテーション科スタッフルーム?)
「今回の研究なんですが……退院後の生活調査をさせて頂けないかと研究計画書を作ってみました。岩原科長、お手数ですがご意見をお伺いできますか?」
「おう、係長は熱心だなぁ……。うん、良いんじゃないか? ただ、研究費は出ないだろうから、この切手代は自腹になるぞ?」
「はい、それは覚悟の上です」
「そうか。じゃあ、やってみろ。頑張れよ」
 そう言って、岩原科長から書類を受け取ったのは――旭だった。
 楓が出会った時より、いくらか歳を取っているように見える。
 だが、楓が旭を見間違えるはずがなかった。
「――お、返信用封筒たくさん帰ってきてる。どれどれ……っ」
 そして別の日、スタッフが次々と帰宅していく定時後だった。
 送った封筒に同封されている退院後の生活調査アンケートを一つ一つ手に取っていく。
 大半の方は順調に地域で生活しているようなアンケート結果で、運動も継続して行い再入院なども無かった。
 そんな返信用封筒の中に一つ、分厚い物が一通。
 恐る恐る旭が中身を開くと――。
「――退院後に、自殺した……? 人生の、一番やりたいことが出来ないままで、自殺? え?」
 顔面を蒼白にした旭が、さらに読み進めると――。
「――……ぅっ……っ。ぉえ……っ!」
 怨嗟の籠もった文の内容に、旭は耐えられなくなった。
「俺が……っ。俺のせいで、自殺した? 俺が最後まで、目標に寄り添わずに放り出したから……っ!? そんな……っ。そんな、事が……っ。だとしたら、俺は――なんて罪深い事を……っ」
 震える手が、便箋をグシャグシャにする。
「どうすれば、俺は……どうすれば報いられる?」
「――なんだ係長。まだ残ってたのか」
「――岩原科長。会議……ですか?」
「ああ、長引いてな・……なんだ、そんな青い顔して」
「……これを」
 旭は震える手で岩原科長に便箋を渡した。
 岩原科長は眉根を寄せながら便箋の内容に目を通し――。
「保坂係長。……リハビリの回復には、限界がある。患者さんや家族が望むレベルに至れず、障害を受容できない。その怒りが治療者に向く――負の転移ってやつだ」
「負の……転移」
「ああ。頭の良いお前なら知ってるだろ? まぁ、亡くなられたのは残念だったが……。真面目に背負い過ぎるな。お前は何でも治せる神様じゃないんだ」
 岩原科長は、優しく旭の肩に手を置く。
「……俺は、どうしたらこんな悲劇を繰り返さずにすみますか?」
 難しい顔をしてから、岩原科長は言った。
「一番は理学療法士を辞める事だ。真面目で優しすぎるお前には、向いてないかもしれない」
「それは……でも、俺は患者さんの笑顔が好きで」
「――だったら、誰よりも勉強して優秀になるしかないな。学会や勉強会なんかで、異常に優秀な奴っているだろう? ああなれば、もしかしたら……だな」
「……成る程」
「――まぁ、何にせよお前一人で背負うな。チームで診たんだからな。チーム医療ってのは、責任の分散って意味合いもあるんだ。人一人の命なんて、一人で背負うには重過ぎるからな。……じゃ、俺は帰るぞ。お前も早く帰れ」
「……お疲れ様でした」
 旭は椅子に座って暫く考え、そして――。
「――責任の分散じゃ駄目だ。そんな馴れ合いじゃ駄目なんだ。……患者さんを良くするんじゃなく、自己保身に走るためのチームなんか要らない。俺は、誰よりも勉強して、知識技術を高める」
 炎を宿した瞳をしていた。悔恨に歪んだ顔で。
 そうして、時はドンドン流れていく。
 狂気の炎を宿した旭は、ストレスで髪が真っ白になるほど知識技術を十年以上蓄え続け――。
「……っ」
 ある日、タイピングミスを連発した。おかしいと思い手元を見ると、左手が動かない。いや、声を出そうとしたのに声すら出ない。
 慌てて立ち上がろうとすると――。
「――っ!」
 左足に全く力が入らず、椅子から転げ落ちてしまった。即座に旭は悟った。
 自分が脳卒中で左半身に麻痺を生じている事に、そして声まで出ない。感覚まで鈍く、意識まで遠くなっていく。これは脳室内という所にまで出血した血液が及んでいる。――つまり、命に関わる重大な出血であると。
 何とか、人目がある場所まで這いずろうとリハビリテーション科スタッフルームを必死に藻掻き出るも、ナースステーションの明かりは遠い。
 いよいよ、自分の人生が無駄に終わるのかと旭が絶望した時――。
 ――この世ならざる者の声が脳内に響いた。
 声はこういった。『私は観測者。あなたの鬼火の如き執念に引き寄せられました。別の四次元空間、世界線、多世界解釈における観測者です。あなたは本来、まだ生きられます。左半身に重度の麻痺が残る上、会話も困難ですが。ですが――あなたが命を賭した執念で創り上げた鬼火の如き知識技術の塊。それを、過去の別世界線の、意思ある者に託せる。その代わりに、あなたはここですぐに死ぬとしたら――あなたの覚悟は、どちらを選びますか?』と。
 病院では、怪談話なんて山ほど聞く。
 死の瀬戸際で家族や神の声を聴いたなんて、しょっちゅう耳にする。
 だが、一縷の望みを繋ぐ術を得たとばかりに――。
 年老いた旭はニヤリと笑い、声にならない声で――「託す」と一言だけ絞りだした。

「――……はぁっ! これは……夢、なんかじゃない……っ」
 楓は再び、いつの間にか寝転んでいたベッドから身を起こし――恐る恐るスマートフォンを見る。
「旭さんを殺したのが……っ。他の世界の旭さんの執念だったなんて……っ。でも、全部は患者さんのためっていうのは、旭さんらしくて納得もいくかも……」
 荒い息で楓は考えを纏め――。
「観測者の事を、悪魔に魂を売り渡したって……旭さん、言ってた。――そういえば、私のリハビリをしてる時も『神とか運命論とか信じるか』って。私が早死にしますよって言ったときも『知ってる』って……っ。自分がどうなるか、全てわかってたから、だから旭さんは私に期限付きでの交際を……っ」
 全てを解っていても、旭が楓を受け入れた意味は理解出来なかった。
「――実は、人一倍さみしがり屋だから……かな?」
 ふっと笑った時――。スマートフォンにメッセージが来た音が鳴る。
 そして、手に取りメッセージを見ると『夢を見る時間は終わりです。契約通り、対価は頂きます』と書いてあった。
(対価――そうだ、観測者と旭さんの記憶!)
「待って、嫌……っ! 私、旭さんの事を忘れたくない!」
 請い願い、泣き叫ぶような楓の声などお構いなしに――観測者のメッセージは全て消去され、旭とのメッセージも消去された。
「いや……旭さん、絶対忘れない!――私の愛した、私を絶望から救い上げてくれた……ひと」
 楓は、自分が何をしているのか思い出せなかった。
 ただ、頬をつっと涙が伝う。
「……私、なんで実家にいるんだろう。……寮、抜け出て来ちゃったんだろう」
 そのまま数十分、何で自宅のベッドに座っているのか解らずぼうっとして――。
「――何か、大切な事を忘れてる気がする。……でも、私は走って活躍すべき。うん、そうだ。悠長に休んでる暇なんかない」
 無性に走りたい。
 走れる事に――感謝しなければいけない。
 楓は自室から出て、驚く母と何回か言葉を交わし――不思議な顔をしながら大学の寮へと戻った。再び、自分の生き甲斐にして生きる意味――陸上長距離で世界共通の敵になるために。
      2
『女子五千メートル、残り三千六百メートルを切りました。日本の大宮は現在三位と先頭集団に食らいついております。大学生にしてメダル獲得が見えてきました!』
 オリンピック決勝の舞台。
 大宮楓は、躍動感のある走りで先頭集団に食らいついていた。
 大学生でありながら日の丸を背負い、激しい争いを繰り広げている。
 TVの前では日本国民が熱狂している。
 そんな中――。
『あっと! 残り千メートルを切った所で大宮転倒! 他選手との位置取り争いで接触があった模様ですが、大宮転倒です!』
 後続を走る選手に左足が接触し、楓はトラックに転倒した。位置どりで走りやすさは大きく変わる。
 争いが熾烈となる中で接触は当然、時には転倒する事もある。
 当然、タイム的にも大幅にロスしてしまうが――。
(一度、転んだりしたぐらいで――私は負けない、折れない!)
『すぐに起き上がりまた走り出したが、これはどうか!? 果たして追いつけるでしょうか!?』
(私は、もっと辛い事を経験してきた!――私は、世界共通の敵にならなきゃいけない!)
『残り四百メートル、大宮楓は現在二位まで追い上げて来ました! 何という不死鳥魂でしょうか! あと一周、金メダル獲得に大宮が迫ります!』
 ランナーズハイになり、周囲の音も聞こえない世界。
 特に、ラスト二百メートルを切ると――何もかも振り絞る瞬間だ。
 最後のスプリント勝負では、己の走る身体能力だけではない。
 何もかも搾り尽くし、一切の余力を残さない。言葉にすると簡単だ。だが――。
 既に限界を迎え、心肺が張り裂けそうになっている。
 何故、自分はこんな苦しい事をしているのか、そう考えてしまう。
 本来、人間は何をするにしても限界を超えて壊れないようセーブする防衛規制が働く。
 メンタル面はその最たる例だ。
 先頭には、まだ五メートル近く離されている。
 実際の距離以上に――遠く見える。
 酸素が足りないのか視界がぼやけ始めた。とりはだが鳥肌が立ったと思った瞬間――感覚が遠のいていく。地面を走っているのかも、もうよくわからない。
 楓は、死線に入り込んだと実感した。これは競技を中止すべきだろうか、と。
(……届かない、のかな。諦めるしかないのかな……!?)
 そんな弱気が――不安が脳内を駆け巡る。
 もう良いだろう。銀メダルでも十分よくやったと。
 そんな中で――頭に響く声があった。
 ――『何故、諦める必要があるんですか。悔しかったら追い抜いて見ろって言うんでしょう?』。
(――そうだ。私は、悔しかったら追い抜いてみろって――そう宣言するんだ!)
 誰の声かは解らない。
 ――唯、その声は『死んでも良いという覚悟』で本番に臨む大宮楓の意識を――『ここが死ぬべき場所だ』というモチベーションまで押し上げる。
『さあ、ラスト百メートルの直線、大宮ここで並んできました! 苦しそうな表情、両者苦しそうな表情だっ。ここからはもう、気合いの勝負だっ!』
 ホワイトアウトしかけていた視界は、灯りのない闇夜のように真っ暗になっている。
 もはや自分がどこにいて何をしているのか、本当に走っているのかもわからない。
(己の限界がそこにあると、もう終わりだと誰が決めたの。私は認めないッ!)
(――こんなところで終わりたく無い、夢半ばで終わらないっ。こんな暗闇に飲まれて消えない!)
空気を少しでも取り込もうと上がっていた顎を引き直し――暗く染まった視界の先に小さな火が灯る。
 まるでこっちだよと誘導するような優しい火だ。あれはなんだろうと思ったのはほんの一瞬だった。
 あの火が導く方向へ進めばいい。
 なぜかそんな信頼感があった。
(あれについていく、いや追いかける! どこまでも、どこまでも諦めない!)
 そう決意すると、火はドンドンと燃え盛っていき――。
(たった百分の一秒でも、一ミリメートルでも縮める! 私の人生、今までの辛い時間はそのほんのちょっとを削るための努力、その蓄積だッ)
 暗かった視界一杯に炎が舞い踊る。
 小さく消えそうだった火種は、気がつけば天を、身を焦がすような猛炎へと変貌していた。
(長年努力を積み重ねてたった15分未満のレース。それでも、ほんの僅かでも早く、タイムを縮めるために諦めなかった! 大丈夫、私は――諦める必要は無い!)
 そうしてどこまでも続くと思われた炎の海を突き進み続け――視界が突如、切り替わる。
「……え?」
 気がつけば、楓はゴールラインをこえていた。
 楓は、突如として戻った視界に戸惑いつつ乱れた息で胸を上下させ、周囲を見回す。
 会場のどこにも、火なんてなかった。
『――目標達成、おめでとうございます』
 ただ、割ればかりの声援と歓喜に渦巻く観衆の目がよく見えた。
 そして大きな大衆の中に歓声へ、眠りゆくように静かに消えゆくどこか懐かしい声だけが聴こえ、楓はしばし呆けてしまった――。
 その日――。
 大宮楓は、世界最高の舞台で――世界共通の敵となった。
「――大宮選手、病気を乗り越えての金メダル獲得おめでとうございます!」
「ありがとうございます」
 レースを終えた楓は汗を拭いた後、日本のTVや記者団に囲まれインタビューに答えていた。
「途中まさかの転倒がありましたが、どんな思いで走りましたか? 過去の脳梗塞の影響はあったと思いますか?」
「影響が全く無かったとは言い切れないと思います。ですが、その入院経験で得られた、決して諦めないでいい、私を悪く言う人達に悔しかったら追い抜いてみろと言う為に走りきりました。やっと、世界中の人に追い抜いて見ろと言えて、大満足です」
「性格が悪いと言われかねないような発言ですが、大丈夫ですか?」
「大丈夫です。私は世界の女子長距離選手全員の敵になりたいんです。共通の敵がいれば、それだけ団結して追い抜こうと一層努力してきます。私はそのプレッシャーを背にもっと頑張れます。それに性格が悪いのは――誰かに影響を受けたからだと思います」
 自分で言っていて、楓は疑問に思った。
 誰だっただろうか。自分を変えた人は――誰だったかと。
「その影響を受けたお相手というのは、以前話題になった交際相手でしょうか?」
 その質問をとある記者がした時、空気が変わった。
 周囲の記者が慌てて記者へ咎めるような視線を向ける。
 質問を受けた楓は――。
「……その交際相手というのは、ちょっと記憶に無いです」
 そういった記事が出回り、訴訟の話も消えていない事は楓も覚えている。
 記者の名刺や謝罪も受けた。
 ――だが、楓からすると、記憶にない。でっち上げ記事だと思っている。
 母や渚、誰も相手の事について聞いてこなかった。もし本当に交際相手が存在したなら、自分の本当に親しい人が言うはずだ。でも、触れてこない。
 だから、でっちあげの憶測記事――そのはずなのに。
「大宮選手、大丈夫でしょうか? おめでたい瞬間に不適切な質問、大変失礼致しました」
「え……あれ?」
 気が付けば、楓の胸は切り裂かれたように痛み、顔が苦痛に歪んでいた。
 汗じゃなく、静かに頬を流れ落ちていく水滴に――楓は戸惑った。
 その後、帰国してからも暫くは取材で忙しかったが――楓はやっとしばらくのオフを大学から貰って実家に帰って来ることができた。渚も一緒である。
「――お母さん、渚。私が以前、交際していたって記事になった相手の事……聞いてもいい?」
「楓……。あなたは、辛さに耐えられなくてあの人の記憶を消したんだと思うの」
「そうだ。無理に思い出す必要はないっって!」
「やっぱり……私にはいたんだ。付き合ってた人……。駄目なの。あの日、競技場でインタビューを受けてから。その事ばっかり考えて。この金メダルを手にした喜びより、知りたいって気持ちの方が強いのっ」
 楓は悲痛の表情を浮かべ、二人に訴えかけた。
「……名前だけ。その人は、楓が脳梗塞になった時にリハビリをしてくれた人で――旭さん。保坂旭さんって人よ」
「保坂……旭さん」
 初めて口にする名前だろうと思うが、妙に口馴染みがいい。
 何度も繰り返してきた言葉のように、抵抗なく口から出てくる。
 頭が靄付き――頭痛が襲う。
「楓……っ! 無理に思い出すなっ。もう、あんな傷ついて幽霊みないな楓を、ウチは見たくない!」
「渚……」
 しばらく抱きついてきた渚を宥めた後――楓は実家の自室へ戻り、引き出しを空ける。
 目的は――日記帳だ。
 入院中に書いていた日記帳。
「……名前が、抜けてる」
 日記帳の文章には、不自然な空白があった。
 間違いなく自分が書いた文字。
 それなのに――元々、何も書いていなかったかのように文章の間に不自然な空白があった。
「なんでこんな事が。――保坂、旭さん」
 日記帳には名前は一度も出て来ない。――だが、自分が担当リハビリスタッフに深く感謝して――絶望の闇で一縷の望みを貰い。そして救い上げられた事が書いてある。
 今の自分が在る事は――この人のお陰であるという事が明らかになる内容だ。
 最後の一ページには、『絶対に復活して帰ってきて、条令とか言って逃げられないようにしてやる! 待ってろよ~!』と力強く記してある。
 どうしても、保坂旭という人物について知りたいという気持ちを止められない。
 楓は一枚の名刺に記載されている電話番号へ電話をかけ――。
「――もしもし。私、以前そちらで記事を書かれた大宮楓と言います。はい、はい。示談の代わりに御願いしていことがあって。ええ、キチンと調べてくれれば訴訟する気はありません。調べて欲しい相手の名前は――」
 保坂旭。
 その人物の所在など、ありったけの情報を集めてくれるように依頼した。
(お母さん、渚。ごめんなさい。――辛いのかもしれないけど、それでも私は知りたい)。
 情報はすぐに集まった。
 元々、記者が記事を書いた時に反響次第で次の情報を出せるようにと、また裏付けをするようにと深く情報を集めていたらしい。
 ただ、更に現状を詳しく調べようとした所――彼が急性心筋梗塞で死亡している事が解った。「それで、死別したストレスで私は彼の事を忘れてたのかな」。そう思っていた楓に報告する記者が告げた言葉を聞いて、楓はしばし迷った後――。
「私も、会いたいです。――保坂旭さんの後見人。最期を看取った、彼の叔母さんに」
 保坂旭の叔母は、取材に来た記者を通じて――楓に保坂旭について話がしたいから、会いたいと申し出てきた。
 楓は受諾して彼の実家の場所を聞き、会う日程を調整してもらった――。
「――ここが保坂旭さんの、私の恩人の実家……」
 そこはお世辞にも綺麗とは言えない――古い家屋だった。
 同じ埼玉県内だが主要な都市からは離れていて、一言で言えば田舎だった。
 おずおずとインターホンを鳴らすと、老婆が出てきた。
「初めまして。大宮楓と申します」
「遠路はるばる、ありがとうございます。――どうぞ、荒ら屋ですがお上がりください」
 腰の低い叔母さんに促され、楓はリビングへと案内された。
「――オリンピック、TVで見て驚きました。……まさか、と思ったんですよ」
 言葉の意味が楓にはよく理解できなかった。
「旭くんの、甥っ子の事を知りたいのよね?」
「はい。知りたいです」
「そう。……あの子は、お仕事に一生懸命だったみたいなんだけど……。この家に帰ってくる日を前から私に言っていたの。まさか仕事を辞めて帰って来きたなんて思わなくて。ただ長期休暇をとって帰省するんだと思っていたんだけどね……」
「そう、なんですか。……あの、大変失礼な質問なんですが、保坂旭さんのご両親は?」
「旭くんが高校生の頃、二人とも事故で亡くなったわ」
「……それは、失礼しました」
「いいのよ。昔の事だもの。……でも、私も生活に余裕がある訳じゃ無くてね。旭くんは高校生の頃からバイトと部活、勉強ばっかりしてて――頭は凄く良かったから国立の大学に行けばと思ったんだけど、それよりも早く現場で働きたいって言って、三年制の専門学校に行ったの。理学療法士のね」
「理学療法士として、どうしても早く働きたかったみたいですね」
「そうね。高校二年生の頃かな。旭くんは野球部だったんだけど。肘の靱帯を切っちゃってね。手術をして入院したんだけど……。その時、『こんな動けない身体なら、死んだ方がマシだ』っていう患者さんを見たらしいの」
「それは……。私には、その患者さんの気持ちが解ります」
「大宮さんも、脳梗塞から復活なされたんですものね。当時、高校生だった旭くんにはその光景が凄い衝撃的だったみたいでね。『俺は生きたいと思える身体に戻す理学療法士になる』って燃えてたの。お医者さんはって提案したんだけど、命を救われた後に生きる人生が絶望じゃ意味が無いって。頑固だったわね」
「……実際、私も保坂旭さんに人生を救って頂きました。ちょっと訳ありで当時の事をあまりお覚えてないんですけど……。でも、日記帳には旭さんのお陰で私は生きる意味を取り戻せたって書いてありました。深く感謝して――彼の事を思い出したいんです!」
「そう……。それは、叔母として鼻高々ね。金メダリストの人生を救ったんだから。……旭くんが帰ってきてからこの家で暮らしたのは、たったの一晩だったわ。前日まで働きづめで、最後の一日の旭くんは――手記を書いて、読んでいたわ。あと、写真ね。その手記と写真を見ている時だけは、寂しそうだけど、笑ってた。私が朝起きて来て、苦しそうな顔をして亡くなっている旭くんを見つけた時も――その手記と写真が詰まったミニアルバムだけは手放さないように抱えてたの」
「手記と写真、ですか?」
「……きっと、大宮さんにとっては辛いものよ。今日はね、それでも彼の大事にした手記や写真が欲しいかって聞きたくてお呼びしたの。……私にとっても大事な甥っ子だったからね。遺品を託せるか、直接会って見たかったの」
「私は、審査に合格出来たでしょうか?」
「ええ。元々、外野の私がとやかく言うべきものじゃ無かったのかもしれない。――だって、大宮さんの態度からは、旭くんが大好きって気持ちが、思いだそうと必死な気持ちが伝わってくるんだもの」
「それは、はい。私は――恩人の事を忘れたままでは絶対にいたくありません」
「――よかったわ、これで旭くんも浮かばれるかな。……はい。この封筒の中に、旭くんの残した手記と、写真が入ってるわ。お家に帰ってから開けてね?」
「……解りました。ありがとうございます」
「最後に、彼の仏壇にお線香をあげてくれる? もう、遺骨はお墓の中に納骨されてるんだけど……。それでも、大宮さんにお線香を貰ったら嬉しいと思うの」
「是非、御願いします!」
「そう、じゃあ仏間まで付いてきて」
 ギシギシと音のなる廊下を歩き、襖を開けると――仏壇しか置いていない部屋があった。
「この方が、保坂旭さん……?」
 遺影に写る旭は、私服を着ていた。
 何かに驚いた小動物のように目をキョトンと開けているが、口元が僅かに微笑んでいて幸せそうにも見えた。
「そうよ。凄く幸せそうでしょう? ちょっと、一緒に映ってる人がいたから旭くんだけを切り抜いて加工してもらったんだけど。……旭くんの死で大宮さんが記憶を失ったのは、精神的防衛機制なのかもなって私は思ったの」
「精神的……防衛機制?」
「そう。受け止めきれないストレスを受けた時、心が壊れないようにって脳が自分を守ろうとするの。私は介護士だったんだけど、利用者さんの死から目を逸らそうと、その方の情報はもう今後、一切みないようにするとかね。……でも、大宮さんは強いわね。大好きな人の死で記憶が消えても――もう一度立ち向かおうとしてる」
「そう、なのかもしれません」
 具体的な事は、楓にはよく解らなかった。
 でも自分と交際していた旭の記憶が何故か消えている説明にはなるかもしれないと思った。
 楓は遺影に映る旭に手を合わせ、感謝と冥福を祈った――。
「――保坂旭さんが、最後に書いた手記……」
 夜、自宅に戻ってきた楓は――封筒の中から手記を取りだした。
 ミニアルバムも気になったが、まずは手記だ。
 サイズは楓が入院中に書いていた日記帳と全く同じ。だが、楓の日記帳が真っ白なのに対して、旭の手記は真っ黒な表紙だ。
 早速、楓は中身を開く。
 死者の墓を暴くようだが――その事については旭の叔母にも許可を貰っているし、仏壇にも謝罪してきた。
 『大宮楓さんが初めて告白してくれたのは、彼女が入院中、深夜のスタッフルームでの事だった。正直、俺は患者としてしか彼女を見てきていなかった。でも、あの日ちょっと思ってしまった。付き合えなくて残念だって。その時、俺は楓の事をもう、好きになっていたのかもしれない。でも、俺の寿命は〈観測者〉との契約で、あと四年しか残っていない。俺はもう〈観測者〉の存在と力を疑っていない。全ての論文が〈観測者〉の渡してきたファイル通り。〈観測者〉はその名の通り、未来も含め全てを観測する超常的存在なんだと思う。それは物語の書き手かもしれないし、コメントを口添えする読者かもしれない。或いは、シミュレーション仮説のようなクリエイター全般である可能性もある。いずれにせよ、未来がない俺に、彼女を付き合わせてはいけない。彼女を不幸にしてしまうから、と正論っぽい理由を付けて断った』
「――……って、何これ? 私から、告白……」
 楓には、そんな記憶はなかった。
 そのはずなのに――何処かで覚えている。
 絵コンテのように、その場面が浮かんでくる。
 手記に書いてある事が、その場面が――楓の脳内に次々と浮かんでくる。
 『退院した楓が再び活躍できている事は、ネットですぐに解った。インターハイの中継を録画しておいたが、感動した。キラキラと汗を光らせ、凄く気持ち良さそうにゴールして、いい笑顔で表彰されていた。本当に美しく生きている姿だった。俺は彼女の人生を再び充実したものに出来たんだって思えた。悪魔と取引してでも、寿命を減らしてでも知識技術を得られて良かった。TVに映る幸せそうな彼女の笑顔を見て、心からそう思った』。
「……退院後も、見ていてくれたんだね。その笑顔は、あなたのお陰ですよ」
 退院後はもう、自分とは関係ない。
 そう言わない理学療法士。
 旭に――また、好感度が上がってきた。
 『卒業式の日、楓は制服姿で息を切らしながら病棟にやってきた。すぐに解った。本当は即座におめでとうと言いたかった。でも、目の前の患者を優先した。目の前の患者にとっては、今この瞬間はめでたくないのだから。彩夏に伝言を伝え、俺は泣く泣く挨拶を諦めた。顔が歪んでいたかもしれない』
「――本当、仕事熱心で、融通が利かない人ですね。とても、患者さん思い……」
 『彩夏が大宮さんが待ってるから行ってあげてと病院併設のカフェに向かうよう説得してくれた。俺は仕事が終わった後、直ぐに向かった。正直、病棟に来てくれてから何時間も経っていたからいないと思っていた。少し残念だが、それは仕方ないだろう。俺は遠くから応援していればいいと思いながら向かうと、楓はテーブルに突っ伏して寝ていた。なんて可愛い寝顔なんだろうとちょっと眺めた後、起こした。その後、楓から告白してくれた。条令などの逃げ道を塞いだ上でだ。そこまでするかと少し呆れたが、凄く嬉しかった。楓の言ってくれた言葉も、成長も嬉しかった』
「女の子の寝顔を覗き込んでたなんて、デリカシーがない人ですね。でも、可愛いって言ってくれて、ありがとうございます。多分、私はそんなデリカシーもないし乙女心も解らないあなたのお陰で、成長できたんだと思います」
 『返答にはものすごく悩んだ。間違いなく、俺は彼女を女性として意識していたから。だが、俺はもうすぐ死ぬ事が確定している人間だ。条件も、浮気を推奨するとも言った。フラれた方がいいとすら思っていた。だが、楓は三年以内にそっちから期間延長を申し出るぐらいにさせると宣言した上で了承してくれた。本当に、負けず嫌いで強い子だ。俺だって、できるなら期間の延長をしたかった。それこそ、何十年単位で』
「……それでも、苦悩を抱えながらも私を受け入れてくれて、ありがとうございます」
 『記事で俺と楓の交際が報道された後、毎夜楓は電話をかけてきてくれた。彼女が眠るまで通話を繋ぎながら、俺は俺の遺志となる症例報告や論文をひたすら書き続けた。もう、残されている期間が少なかったから。理学療法士として最期まで、できる事をやりたかった。でも、それなら俺は自分の気持ちを抑え込んででも、楓と付き合うべきじゃなかったのかもしれない。これ以上騒ぎを広めれば楓が傷つくかもしれないのに、傍にもいけない。今はネットであっという間に写真が拡散される社会だから。その噂が広まって楓が傷付いている時、おそらく俺はもうこの世にいない。そう思ったから、ずっと通話で我慢してもらった。本当は会いたかった。抱きしめたかった』
 楓の空白だった記憶のピースが、ドンドンと埋まってくる。
 鮮明に、その時の情景が脳内に浮かんで、涙腺を刺激する。
「そう思うなら、どこか人目が無いところで本当に抱きしめてくれてよかったでしょうに。……本当、リハビリが生き甲斐で、視野が狭くなっちゃう人ですね」
 『退職の日、そして契約上死ぬまであと一日ぐらいだろうか。楓と契約していた期限が来た時、俺は別れを告げた。一方的で最低なものだ。楓が次の恋に向かってくれたら、寂しいけど、幸せなら嬉しい。きっと大丈夫。楓は負けず嫌いで、強い子だ。俺は最期まで、楓に好きだの一言すら言えなかった。本当に最低な彼氏だった。それでも、言わなくて正解だったと思う。だって、もうすぐ俺は死ぬんだから。未来がある楓に好きだなんていったら、きっと縛ってしまう。それぐらい、魔力のある言葉だ。パレードで楓から頬へキスをされた後、好きと言われた時に、俺は嬉しすぎて、受け入れていたはずの死が怖くなってしまったのだから』
「自分が死ぬ前日まで、私の事ばかりですか。……頬へキス、まるで子供みたいですね」
 『最期の作業をしている時、〈観測者〉から再びメールが届いた。契約通り君の十年の鬼火を、知識技術の塊をください。それがまた、知識技術を求める誰かの人生を照らす火になります。という内容だ。俺は深夜のスタッフルームで〈観測者〉にデータを送付すると同時に、文面に一つの御願いを書いた。楓の中にある俺との思い出を全て消して欲しいというものだ』
「――なんで、そんな酷い御願いをするんですか」
 『観測者は、最期まで炎も燃やし続け、病める人々に希望を照らし続けたあなたの最期の願いです。特例で受けましょうと言ってくれた。これでもう、やり残した事は無い。全力で十年間、駆け抜けてきた。思い残した事と言えば、楓が世界陸上やオリンピックで金メダルを取って、世界中のアンチに対して「悔しかったら、陸上で追い抜いてみろ」と宣言する場面を見ることが叶わない事ぐらいか。リハビリ職という裏方職でも、輝かしいステージに立って満面の笑みを浮かべ耀く選手の力になれたって思いたい。楓の、満面の笑みがみたい』
「……思わず出たあの宣言、旭さんにも聞かせたかったですよ。本当、スッキリしましたからね」
 『俺の死後、世界やみんながどうなっていくのかが凄く気がかりだ。俺が生きていた意味はあったのだろうか。俺の担当してきた患者さん達は、充実して余生を過ごせるだろうか。同僚達に、多くの患者さんを笑顔にするための何かを残せただろうか。俺の最も大切な人は、楓の脳梗塞は、再発しないだろうか。沢山やりたい事をやって、健康的に長生きできるだろうか。ちゃんと、笑って過ごせているだろうか』
「……最期だと言うのに、自分の事より人の事を心配してばっかりですね。自己犠牲的で――本当に、優しい人。きっと大丈夫ですよ、意味はあります。あなたの背中を見てきた人が、追いつけ追い越せと遺志を継いでくれます」
 そして、手記に記された最後の項目になった。
 『もういつ死ぬか、秒読みの時間だろうか。何をしてその時を待つか。そう考えると、こうして手記を一通り書いて死への恐怖を和らげた後は、一つしかやりたいことが見つからなかった。楓と俺が共有した思い出。その全ての写真を改めてあるミニアルバム。スマートフォンで取った写真を印刷していたなんて、楓は知らないだろうな。それでいい。俺だけが持つ、冥土の土産にするんだ。これを見ていると、死への恐怖が和らぐ。それと、改めて自分の気持ちを再確認させられる。頬にキスをされて嬉しかった。幸せだった。楓、俺は君を愛して』
 そこから先、文字は読めない。
 ボールペンのインクが揺れるようにちょっと書かれて、途切れている。
「ここで……旭さんが最期を迎えたんだね」
 最期の瞬間も、この手記を旭は手放さなかったという。
 それだけ、大切な想いが詰まっているという事だ。
 そして旭の叔母が言うには、手放さなかった物がもう一つあったらしい。
「ミニアルバム……」
 旭の叔母から貰った封筒に入っていたミニアルバムを、楓は慎重に開く。
 そこには、楓が隠し撮りして後日送りつけた写真の数々。
 その他にも、旭が無音カメラで取っていたであろう楓とデートした写真が大量に入っていた。
 学会などで人の迷惑にならないようにポスター発表を撮影する時などに使用する為にインストールしていたアプリだ。
「無音カメラで撮るなんて……盗撮ですよ。旭さん……っ」
 一枚一枚、写真をじっくり楓は見ていく。
 その度に、記憶が埋め込まれていく。
「幸せそうな顔してるな、私……。旭さんの傍、幸せだったんだろうな……っ」
 そして最後のページにあった――楓が旭の頬へキスをしている写真を見て、旭との思いでの全てを思い出した。
「――遺影にあった、キョトンとしてる顔と同じだ」
 途端、楓は――堰を切ったように涙を溢れさせる。
「……全部、思い出したっ。〈観測者〉なんかに負けて、私はなんで忘れてたんだろう……っ。旭さんとの、大切な思い出っ。思い出せた、思い出せちゃったよ、旭さん……っ!」
 楓は、自分の日記帳を開いた。
「……この手記で、旭さんの人生という物語を観測して、記憶に刻んでる。私もある意味、旭さんの観測者ですね」
 不自然な空白に、保坂旭、旭さんと書いて一つ一つ、埋め直していく。
「……手記に残したくれた事、そして最後まで書けなかった空白部分。これこそが……旭さんが、これだけは言えないって。ずっと秘めてたことだったんですね」
 不自然な手記の空欄に、楓は旭の名前を大切に刻む。
 そして――。
「――旭さん。ちゃんと、最後まで書くからね」
 楓は、彼の最後まで綴れなかった文字を書き足す。
 『愛していた』ではなく、『愛している』と現在進行形で、だ。
 更に旭の手記に記された、パソコンで打ち込んだように綺麗な文字の下に――自分の言葉も足す。
 楓の書く丸文字が、追加されていく。
 『旭さんという理学療法士のお陰で、私は生きる意味を再び取り戻せました。旭さんは脳梗塞になって、人生に悲観する私を救い上げてくれた。もし旭さんと出会えなければ、思うとおりに動かない身体で鬱憤を溜めながら何十年も生きなければいけなかった。また大好きな走りと、笑顔を私に取り戻してくれてありがとうございます。旭さん、私も愛しています』と。
「……一つ、旭さんは思い違いをしていますよ」
 口元をキュッと噛み締めながらも努めて笑顔を作り、心からの感謝を綴りながら――。
「――私は、旭さんが思っている程、強い子じゃないんです。泣き虫なんです。……でも私には、防衛機制なんて要りません。この手記とアルバム――旭さんとの思い出と、本音が綴られた言葉があるから。旭さん、私の人生を救ってくれて、ありがとうっ。――私も、本当に、本当に愛しています……っ!」
 手記には悲涙がポタポタと零れ落ちて、書き立ての文字を滲ませた――。

エピローグ
 
 手記を読んだ翌朝。
 真夏でも、朝は過ごしやすい。そんなよく晴れた日だった。
「ここに、旭さんは眠っているんですね。――どうです? 今、驚いてますか?」
 楓は旭の叔母から教えて貰った墓地にやって来ていた。
「……ごめんなさい、思い出しちゃいました。旭さんの願いには背く事になったけど、でも酷いですよ。私は、旭さんの事を忘れたくないのに」
 菊の花を左右五本ずつ花立てにさし、楓は墓標の前にしゃがんだ。
「私が旭さんの事を思い出しただけで驚いちゃ駄目ですよ。――ほら、オリンピックの金メダル!」
 懐からメダルを取り出し、太陽に向かって堂々と耀くヒマワリのような笑みを浮かべ、『保坂家ノ墓』と書いてある墓石に見せびらかす。
「旭さんのお陰です。――どうぞ」
 そして楓は、墓石にそっと金メダルをかけた。
 しばし満足げに眺めていた楓は、首を傾げながら墓標に話しかけた。
「デジャブって奴なのかな?……私ね、旭さんにリハビリしてもらったのは――二度目だった気がするんですよ。……一度目はね、退院後も思うとおり走れなくて。……絶望して、自殺しちゃった気がするんです。多分、夢なんですけどね」
 一瞬、暗い表情を浮かべた楓だったが――。
「正の転移でしたっけ? 医療者へ一時的に好意を抱いてしまうのって。……旭さん、あまり私の負けず嫌いさを舐めないでくださいって言いましたよね。他の人と一緒になるなんて、かえって不幸になる。私が一緒に幸せになりたい相手は、一人だけ。私の抱くこの気持ちは――永遠です」
 楓は直ぐに柔らかい笑みを浮かべ、墓石にかかる金メダルの位置を整えた。
「旭さんは、陰に隠れ陽の当たらない裏方なんかじゃないです。暗い闇に包まれた私を救い上げて、明るい笑顔をくれた私の英雄で、王子様。私にとっては、旭さんは名前の通り、太陽のように照らしてくれる人でした。そんな旭さんこそが――平和の祭典の金メダルを下げるには相応しいです」
 そして、楓は手を合わせる。
「旭さん、命を燃やし尽くして人の笑顔を取り戻そうとしてくれたあなたに――心から感謝します。また、数十年後にそちらの世界で会いましょうね。……その時は、力一杯抱きしめてください」
 そんな二人の魅力的な英雄の様子を、〈観測者〉たちはどこからか見ていた。
 いや、今なお、こうして観ている。
「――キスも、頬じゃなくて口にしちゃいますから。キョトンとした可愛い顔、目の前で見させてくださいね」
 楓は、恥ずかしそうに顔を綻ばせた。
 彼が命をくべて執念で創り上げた知識技能の火種は絶えない。
 まるで静かな灰の中に埋もれた――埋み火のように。
 次に炎となる時に備えて燃え続ける。
 強く知識技術を求める次の誰かへとファイルが渡り、より洗練され積み重ねられていく炎。
 誰かの笑顔を再び取り戻し、残された人生に希望の明かりを灯したいと願うリレー相手を待つ炎。
 そんな不滅の火は、聖火と呼ぶには余りにも悪魔的で、業火と呼ぶには想いやりに満ち過ぎている。
 だが、誰かが旭の患者を想う遺志を継いでくれる。
 その日が来る。
 だからどうか――。
「――それまで、ゆっくり休んで待っていてくださいね」
 太陽光に耀く金メダルには――オリンピックの象徴、聖火を手に持つロゴデザインと、優しく儚げな笑顔が映っていた――。