四章

 退院してしばらくが経過した年末頃。
 入院中も学校から出される課題をやっていた楓は、冬休みにも補習を受ける事で留年はしない事になった。
 そして、学校側が楓に便宜を働いた最大理由である陸上競技の方はといえば――。
「楓、ラストファイトっ!」
「最後まで走れ!」
 練習でも常に一位だった楓を待っていたのは、屈辱的なまでの敗北だ。
 最初はスポーツドクターや旭が書いた復帰プログラム通りに進んだ。
 顧問としても、病後の復帰プログラムに悩んでいたので大いに助かった。
 そして、年末頃になると周囲と同じメニューに戻った。
「――……はぁっ……はぁっ」
「楓、お疲れ」
「渚……っ」
「まぁなんだ。仕方ないって。復帰してまもないんだからさ。無理するなよ?」
「解ってる。――こんなの、辛くも何ともない」
 周囲からは同情の目で見られている。
 エリート街道を外れた、脱落者と見られている。
 興味本位で見学に来ていた他の生徒達も、痛々しくて見ていられなくなったのか姿を消した。
 好奇の目線は消え、憐憫の眼差しが常に纏わり付く。
 だが、楓は落ち込むどころか――楽しんでいた。
(走るって、やっぱり楽しい。旭さんが取り戻してくれたこの日常が、たまらなく嬉しいっ!)
 本当に辛いのは、こんな事じゃない。本当に落ち込むのは、走れなかった日々だ。
 そんな暗闇に比べれば、練習についていけていない現状や、周囲の憐憫の眼差しなど楓からすれば苦痛ですらなかった。
「あ、練習後にはあれ飲まなきゃ!」
「は? あれって?」
「練習後三十分以内にね、プロテインを飲むのが効率的なんだってさ」
「あ~、聞いた事あるわ。ウチもパックのプロテインとか飲んでるよ」
「うん、でも私は入院で持久力そのものが落ちてるから。ただプロテイン飲むだけじゃ無くて、疲労回復に効果が高いBCAAっていうのを多く含むのをお勧めされたんだ」
 そう言って、楓は特殊なゼリー状の飲料を飲む。
「……もしかして、それ言ったのって保坂さん?」
「――ゲホッゲホゲホっ。そ、そうだけど……。飲んでる最中に変な事言わないで」
 楓は旭の名前が出たことに動揺して咳き込んでしまった。
「ウチ、変な事言ったか?」
「言ったよ!――あ、先生に私のフォームを動画に撮ってもらったんだった。ちょっと行ってくるね」
 駆けだした楓は顧問に御礼を言ってから、一緒に走行フォームをチェックした。前後左右から。乱れを見つけるべく積極的に意見を聞き、客観的に分析していった。
「……楓、入院して変わったな。前は自分の意思が強くて、あんな素直に人からフォーム改善の意見なんか求めなかったのに」
 渚は、以前と変わった楓を見つめながら呟いた。
 そうして季節は流れていく。
 季節は高校三年生の夏手前。最後のインターハイ予選が近づいてくる頃。
「――……はぁっ」
「――く……っしょお!」
「よし、十分休憩! 大宮、戻ってきたな!」
「はい。ありがとうございます!」
 何本かに一本程度だが、楓は渚に勝てるようになってきた。
 自己ベストタイムにはまだ届かない。
 だが、着実に近づいてきた。
「渚、お疲れ」
「……お疲れ」
 そうして楓がタイムを縮めてきて――渚は徐々に言葉数が少なくなっていった。
 そして迎えたインターハイ県予選の当日、競技場は割れんばかりの声援と記者が詰めかけていた。
「――大宮さん、脳梗塞から奇跡の復活で県予選優勝、おめでとうございます!」
「ありがとうございます」
 雑誌記者の祝福の言葉、そしてシャッターの音。
 表彰台の天辺には楓が、そして二番目に高い所には渚が立っていた。
 同じユニフォームを着ているのに、二人は抱きついて喜びを分かち合う事も無い。
 ただ、作った笑みで表彰状を掲げるのみだった――。
 インターハイ特集が乗った月刊の陸上雑誌の一面を飾っているのは――病気を乗り越え、奇跡の復活を果たした楓だった。
 部活終了後の埼玉学園総合高等学校の女子部室では、その雑誌を読みながら後輩達が歓喜の声を上げている。
「見て! 楓先輩マジ綺麗で格好良い!」
「『奇跡の復活を遂げた不死鳥、トラックの女神』だって!」
「今度TVの取材もあるんしょ!? もうワイドショーにだって出てるし、遠い存在だなぁ」
「再生数ヤバッ! 楓先輩の走ってる動画とインタビュー動画、メッチャ再生されてるよ!」
「この動画に批判してる奴、器ちっちゃいわ~」
 そんな部員達の声が響く中――ロッカーが轟音を立てた。
「お前らウッセぇんだよ! 楓楓楓って騒いでんじゃねぇよ!」
 憤怒に表情を歪ませた渚が、拳でロッカーを凹ませながら怒声をあげた。
 後輩達は威圧する渚に怯え、声を出せない。
「――お疲れ……って、何この雰囲気?」
 楓が同級生と一緒に部室の扉を開くと、剣呑な雰囲気に包まれている。
「渚、どうしたん!? 手が……っ。もしかして、ロッカー殴ったの?」
 同級生の一人が渚の手が真っ赤になっているのを見て、心配して駆け寄るが――。
「……っ!」
「は?」
 渚は手を振り払って、部室を早足で出て行った。
「渚……っ」
 楓の横を目線も合わせず通り過ぎ――渚は一人で立ち去った。
「何があったの……?」
 楓が恐る恐る、部室にいた後輩達に事情を聞く。
 後輩達は怯えながら、状況を説明した――。
 ――その夜、渚は楓に近くの公園に呼び出された。
 正確には、行かざるを得なくさせられた。
 最初はメッセージも全て無視していたのだが、実家が近く親との繋がりもあるというのが災いした。
 楓は渚の家に押しかけ、両親に事情を説明した。
 両親は部屋に籠もる渚に対して、「楓ちゃんとしっかり話してきなさい」と言って家から押し出した。公園の後ろまで、逃げないようについてきて。
(本当、ウザい。みんなウザい)
 過干渉な両親に対しても、渚はイライラしていた。実際に怒鳴って「行かない」と主張していたのだが、絶対に譲らないという両親に渚も折れた。いっそのこと家出してやろうとも思った。だが、実行はしなかった。
 そんな事をしても、警察に捜索願を出されて終わる。すぐに大事になって連れ戻される。渚の両親は愛する娘を心配するあまり、そういう事も平気でやると理解していたのだ。
(どうせそこら辺も解ってて家まで乗り込んできたんでしょ、わざわざ両親がいる時間を狙って)
 渚の楓に対する憤りはドンドンと募っていった。
「――渚」
「……何、汚い手で逃げ道塞いでまで呼び出して」
「最近さ、なんで怒ってるの?」
「別に、怒ってないけど」
「怒ってるじゃん!」
「楓にそう見えるんなら、そうなんじゃん?」
「私、渚になんかした?」
「……なんかした?」
 渚は何を言われても適当に受け流すつもりでいた。――だが、楓の『私、何かした?』という言葉は、渚の逆鱗に触れるものだった。
「何かしたなら直すから――」
「――ふざけんなよ!」
 夜の公園に渚の怒声が響き渡る。渚は声を荒げて楓を鋭い視線で睨みつけた。
「ウチは自分が大嫌いなんだよ! 女々しくて陰湿な所も、才能が無くて負けるのを人のせいにするところも! 親友の楓が復活したのを素直に喜べないのも、楓が病気でまともに走れないって聞いて――少し喜んじまった自分も大っ嫌いなんだよ!」
 本当に苦しそうな顔で、寂しそうな目で、渚は叫ぶ。
「SNSの裏アカで悪口書いた一人もウチだよ! 動画の批判だってそうだ! ずっっと、ずっとウチだって努力してきた! 吐いてからがスタートってぐらい、一生懸命に走り続けてきた! それなのに、いつも楓の後ろばっか見て走らされるこっちの気持ち、考えたことあんのかよ!?」
「渚……」
「病気でまともに走れなくなって、そんな状態にまでなった奴にまた抜かされる気持ち、考えた事あんのかよ!? ずっと、ずっと休まずに努力してきたんだぞ!?」
 悲壮的な顔で、渚は訴えかける。
「陸上はさ、努力も大事だけど結局一定以上は才能なんだよ! 現に小っちゃい頃から同じ環境、同じ練習をしてきたのに、ウチはいつも楓に勝てないっ。年々離されていくばっかりだ! 才能ある化け物みたいな楓には、ウチらみたいな人間の気持ちなんてわかんねぇだろ!?」
「…………化け物」
「そうだよ、化け物だよっ。そんな化け物と同世代で走るなんて最悪だった。常に二位までにしかなれないっ。だから、消えてくれって、そう願った……願っちまったっ。……本当、最低だろ、ウチ」
 渚は頭が真っ白で、自分でも何を言っているかもはや解らない。ただ、感情のまま叫んでいるだけだ。 幼い頃から同じくらい、同じように努力してきたのに、ずっと二番だった。
 そして気が付けば親友であり好敵手だった相手――楓は世界のトップに君臨し、その美貌も相まって女神とさえ崇められるぐらいに離された。自分の欲しい物を全て持って行く。
 どんなに努力しても、ずっと一番を味わえないどころか、目にも入れて貰えなくなっているかもしれない。そんな屈辱の日々で積もりに積もった鬱憤を、ただ叫き散らしているだけだった。
「…………」
「ウチは楓に置いていかれたくないんだよ! 楓が知らない存在になっていって、楓に見られもしなくなるのが、我慢できない! 雑誌やテレビに出て活躍するのはめでたいよっ。でもな、ウチの知ってる楓は、走るのが好きなだけだっ。自分勝手で頑固で、でもアホ程に優しくて性格が良い楓だったんだよ!……それなのに、いつの間にか知らない楓になっていた。……遠い世界の舞台で耀いて、ウチはそれをテレビから眺めるだけ。いつの間にか周囲の意見も積極的に取り入れるようになって。でも、納得のいかない事には正論で追い詰めて逆らって、絶対に認めないっ。今回のやり口だってそうだ。両親に根回しして逃げ道を塞ぐなんて性格の悪いやり口、昔の楓なら絶対にしなかったっ!」
「性格の悪い、やり口……」
 言われて気が付いた。昔の楓なら、ただ真っ直ぐ何日かけてでも話したいからと愚直に付きまとっていただけだっただろう。
 ――いつの間にか、性格の悪い誰かさんに深く影響を受けていた事に楓は気が付いた。
「大嫌いなんだよっ。こんな汚い自分も、変わってく楓も……」
 暗澹たる日々で歪んでいった自分も、渚は大嫌いだった。
 力なく囁くような声で心情を吐露する渚に対し、楓は――。
「大嫌いか……」
 虚空を見て――何処かの嫌われ者の化け物を思い出す。
「――それ、最高だね」
 楓は意気揚々と言い切った。
「は?……なんだよ、それ」
「渚の中で、今の私は敵なの?」
「――そうだよっ! 今の楓は、親友より先に敵だ!」
 言ってしまった。売り言葉に買い言葉。渚はこんな心にもない事を言ってしまった自分も大嫌いだった。ただ羨ましかった、嫉妬していただけだった。
 心からもう走れるようにならないでくれなんて、思っていなかった。ただ、自分の中に積もり積もる悔しさや嫉妬という感情の行き場が――歪んでいっただけだったのに。
 そんな自らを敵と罵る渚に――。
「それでこそ、私の親友で好敵手だよ」
「――なん、だよそれ……っ。こんな酷い事してる奴が、親友だってのか?」
「陰口も、敵に思ってくれるのも――大歓迎だよ。そういう人の存在が、結果的に私も成長させてくれる。ただ追従してくる人なんて、なんかあったらすぐ傍から離れていくんだよ。人は楽な方に流れるから。口だけで同情されるより、よっぽど私を意識してくれてるじゃん。多分、ずっと意識して追ってくれる関係じゃん。――それでこそ親友だよ」
 楓の語る暴論に、渚は瞠目する。
「楓、何言ってんだよっ。お前は敵だって言われてんだぞ!? それが親友!? 確かに、浅い友達なんかよりずっと忘れない存在だけど――」
「浅い友達の軽い付き合いなんかいらない。ちょっとした事だったり疎遠になればすぐ消えて無くなる。そんな馴れ合い関係は、その場の利害が一致した時だけのもの。討論も口喧嘩もできない、そんな関係――その場凌ぎで、長い目で見れば堕落してお互いに成長できない関係性だよ」
 楓は冷淡な口調で語る。連携を維持し成長するのに、馴れ合いは不要と断じた彼のように。
「だから――私はみんなの共通の敵になるよ。私は誰よりも努力して、正々堂々と陸上で勝負する。だから――陸上で追い抜いてみせてよ。待ってるから」
 楓は好戦的な笑みを浮かべ、昂ぶるように言い切った。
 やっと言えた。楓の内心にあるのは、そんな満足感だ。
「喧嘩売ってんのか!?」
「違うよ。私はね……恨まれてもいいの。それで、みんなが私を負かそうと必死になって――そうやって競い合う事が速くなるには必要だから。共通の敵は必要って、教わったから」
 楓は誰よりも陸上の味方で、誰よりもタイム向上と結果を求める人の好敵手――いや、敵でいい。それこそが正しいと確信している。
 ――楓にとっての英雄と同じ立場に立って、やっと彼の常軌を逸する行動に納得した。
(この立ち位置は、プレッシャーもある。だからこそ、努力しがいがある。生きている実感がある!)
「楓、あんたは……っ」
 恐ろしい。
 渚は目の前にいるのが楓だとは思えない程――恐ろしかった。
 もう自分の知る楓はいない。――だが、楓は常に自分を後ろから迫ってくる敵として、認識してくれていた。それだけで渚の心に火が灯った。
「上等だよ……っ。その余裕ぶっこいた顔を屈辱に歪ませる。絶対、絶対に負かしてやるかんな!」
「うん、待ってる」
「……陰湿なやり口は、本当に悪かった。ウチは堂々と楓を負かせて――ざまぁみろって言ってやる」
「なら、私は悪口を言う人や負けた人にこう言うよ。――悔しければ実力で追い抜けってさ」
「……その煽り、いいね。燃えるよ。――ウチらは親友だけど、それ以前に好敵手だ」
「うん、これまで通りだね」
「ああ、楓は何もかも変わったけど――関係はなんも変わらない。……悪かった」
「いいよ、またトラックの上でやり返すから。ずっと私の背中を見させてやるから」
「……やっぱ、楓は最高だよ」
 二人はしばらくの間、公園で笑みを浮かべながら睨みあった。
 端から見ると異様な光景だ。
 だが、それは、彼女達にとっては最高の絆となった――。

 桜の蕾が芽吹きかけた春。
 埼玉学園総合高等学校の卒業証書授与式が執り行われた。
 奇跡の復活でインターハイと国体を制した楓は十八歳となり、今日で卒業を迎える。
 一ヶ月後には、陸上も有名な名門大学へと進学する事になった。
 卒業後に実業団という道も考えたし、実際に誘いもあった。
 だが、企業側は今や国民的人気を誇る選手となった楓が、もし脳梗塞再発となった時に被るであろう世間からの批判を考えて慎重な姿勢であった。実際、未だ再発リスクが高い事は企業側との話し合いでも説明した。そうすると、企業側も悩む姿勢を見せるのだ。
 それならばと近くにある有名な大学で陸上を続け、自分が問題なく走れることを証明してやろうと楓は決めた。
 そして、楓の背をいつか追い越すと執念を燃やす渚も、楓の後に続いて同じ大学に合格した。
 楓のようにスポーツ推薦枠は取れなかった為、一般入試での入学である。
 秋には進路が確定して、一足早く大学で練習に参加していた楓に対し、冬の終わりまで勉強してやっと合格が確定した渚はより敵意を燃やした。「必ず大学で負かす」と呪文のように唱えながら試験勉強に励んだが、一緒に見た合格発表で渚の番号があることを確認すると、二人で抱き合って大喜びをしたものだ。
「「「――先輩方、ご卒業おめでとうございます」」」
 卒業式後の埼玉学園総合高等学校の校門前には、多くの生徒が集まっていた。
 ある者達は最後の記念撮影をしながら友との別れを惜しんだり。
 そして部活に所属していた者は後輩達から卒業を祝福されたり。
 当然、陸上部も毎年恒例の如く集っていた。
「ありがとう、みんなも頑張ってね」
「大会、観に行くからな」
 楓や渚も、送別の言葉をくれる後輩達に一言声をかける。
 ――だが楓の心は既にもう、高校にはなかった。
 待ちに待った念願の卒業――青少年保護育成条例の対象から外れたのだ。
 ならばやるべき事は一つ――。
「お、大宮! 俺、今日さ、大宮に伝えたい思いがあって……っ!」
 部活の後輩達と伝統的なやり取りを終え――楓と渚が後輩達の輪を外れると、隙を窺っていた男子生徒達が集っている。
 何人も何人も。卒業という節目で、玉砕覚悟に告白しようという生徒は多い。
「……全く、楓がモテるのは今更だけど、卒業式ブーストはスゲぇな」
 何人も順番待ちのように立っている男子生徒を見て、渚は溜息をつく。
 何人かぐらいは自分の所にきてもいいのにと。
 告白に臨む時に必要な勇気、そして返事を待つ間の辛さは――楓も身に染みて解っている。
 だから、頭を下げながら、大声で全員に聞こえるように言った。
「――ごめんなさい! 私、心に決めた人が居るので誰ともお付き合いできません!」
 男女問わず、一瞬の静寂の後――悲鳴のようなどよめきが校門前を支配した。
「ちょ、え? ウチも聞いてないんだけど、マジ!?――おい、楓! 走ってどこにいくんだよ!」
「――逃げ場を塞いだから、後は追い詰めに行くんだよ!」
「……はあ?」
 意味が分からないと硬直する渚を置いて、楓は走った。
 埼玉大学ハビリテーションセンターへ向かって――。
「はぁ……はぁ。革靴で走るんじゃ無かった……」
 革靴は走りづらい。それに足を痛める。
 結局、電車を乗り継いできたものの、はやる気持ちが抑えきれず下車してからは基本走っていた。
 時刻は十四時過ぎになっていた。
「――すいません、病棟へ入って挨拶をしたいんですが」
「面会ですか?」
「いえ、面会では……」
「すいませんが、面会以外はお断りを……っ」
 受付で病棟へ入る許可を貰おうと話していると、最初は事務的に断ろうとしていた事務員の目が見開いた。
「あの、もしかして大宮楓さんですか?」
「そうです。以前こちらへ入院していた大宮楓です!」
「うわぁ! TV見ましたよ! 復活なされて大活躍されているそうですね!」
 感激しているような様子の事務員に、楓は思わず苦笑を浮かべながら「ありがとうございます」と御礼を述べる。
「あの、ちょっと御礼参りというか……。今日、卒業したのでお世話になった人に挨拶をしたくて」
「ああ、成る程! ちょっと病棟管理責任者に確認をとりますね!」
 そう言って、事務員は固定電話で誰かに電話をかけた。そして何度かやり取りをした後――。
「許可が出ましたので、こちらにお名前を御願いします。こちら面会証になります。お帰りの際にはこちらに――」
「――ありがとうございます!」
 最後まで聞くこともなく、楓は用紙に名前と来院時間を書き殴り、面会証を奪うようにとってエレベーターへ駆ける。
(……来ない! もう階段で行こう!)
 ボタンを押しても中々来ないエレベーターで行くより、階段の方が早い。
 入院中、何度も練習に使った階段を駆け上がり、かつて入院していた病棟へと駆け上っていく――。
「……懐かしい」
 辿り着いた病棟は、何も変わっていなかった。
 清潔な廊下、忙しそうに動き回るスタッフ。
 そして病による後遺症で辛気くさくなる病棟を吹き飛ばすような、リハビリ室から響く活気のある声。
 思うに、この病院が病棟内にリハビリスペースを作るなんて特殊な構造をしているのは、患者が静寂で不安にならないようにと配慮しているのかもしれない。
 ついつい懐かしさに浸っていた楓だったが、すぐに自分が戻ってきた目的を思い出し、ナースステーションへと向かう。
「あ、あの。お久しぶりです。大宮楓です」
「――あ、大宮さん! 久しぶりですね!」
「お元気そうで何よりです! ご活躍、TVで見ましたよ!」
「おかげさまで」
 凄い勢いでナースステーションに残っていたスタッフが立ち上がり、囲まれてしまう。
 しばし御礼を言ったり会話をしていたが、楓は折を見て切り出す。
「あの、保坂さんにもご挨拶をしたいんですが……」
 その言葉に、歓喜に沸いていたステーション内は静まりかえり、スタッフは互いに顔を見合わせる。
 やがて、年配の看護師――確か、病棟管理責任者の看護師長が代表して言った。
「止めておいた方がいいかなぁ。今はリハビリの時間だし……きっと怒るから」
「そう、ですよね。……ちょっと考えなしでした。来る時間を、間違えましたね」
 少し落ち込んだ様子の楓を見かねて、師長は廊下で丁度リハビリ患者の休憩に付き添っていた高木主任を見つけた。
「――あ、高木主任! 大宮さんが挨拶に来てくれたよ!」
 その声を聴いた高木主任は、ナースステーションにいた看護師に「大丈夫だとは思いますが、危険行動等がないよう様子を見ていてください」と引き継いで、ナースステーションへやってきた。
「大宮さんっ。お久しぶりです。元気そうで何よりです」
「高木さん、本当にありがとうございます。おかげさまで復帰も出来ましたし、無事に卒業する事もできました。……あの、旭さ――保坂理学療法士にも挨拶をしたいのですが」
 そう言うと、高木主任は目を泳がせ、どうしようという顔になった。
「……ちょっと、彼の都合を聞いてくるので……。待ってて貰ってもいいですか?」
「は、はい!」
 会えるかもしれない。その気持ちに自然と楓の声が弾む。
 小走りにリハビリ室の方へ高木主任は走って行く。その背をついつい目で追ってしまう。
(――いた! あのプラットフォームの上でリハビリをしているの、旭さんだ!)
 高木主任が走って行く先に、旭がいた。背中しか見えないが、間違えるはずがない。
 高木主任は旭のリハビリが休憩に入るまで、プラットフォームの横にしゃがんで待ち――旭に話しかける。高木主任と旭は患者さんに一言、何か謝罪した後小声でやり取りをしている。
(耳打ち……ずるい!)
 自分で頼んだことではあるが、旭に耳打ちして話しかける高木主任の距離の近さに楓はイライラしてしまった。
 そして何度かやり取りをした後――高木主任だけが戻ってきた。
「お待たせしました……」
 その顔は、旭に話しかける前よりも明らかに疲れた顔をしていた。
「ど、どうでした?」
「卒業おめでとうございます。これからも応援していますって伝えてくれと」
「……それだけですか?」
「……まぁ、リハビリに集中している時に話しかけられて、ちょっと不機嫌そうでしたね」
 苦笑しながら言う高木主任に、ナースステーションから楓への同情の声が聞こえた。
(そりゃ、仕事中に来る私が悪いけど……っ! 一瞬ぐらい時間とってくれてもいいじゃん!)
 楓は旭の態度に苛立ちが隠せない。
 あからさまに感情が表情へ出ていた楓に、高木主任は軽く溜息をついた。
「……大宮さん。今日この後って忙しいですか?」
「え、あ~……。確か、夕方から同級会があるとか言ってましたけど」
「そう、じゃあ無理かな。業務時間後になら、保坂を説得して話させる事も――」
「――予定はないです。消えました」
 間髪入れずに前言を撤回した楓の様子に、思わず高木は天を仰ぐ。
 そして周りの看護師や介護士に聞こえないように耳元に口を寄せて小声で囁く。
「十八時頃までには、何とか……何とか説得するから。前に私と行ったカフェで待っててくれる?」
「……ありがとうございます」
 楓は小声で御礼を言って、この苦労人の中間管理職に頭を下げた。
 病棟のスタッフに改めて御礼を言うと、楓は以前に旭が岩原科長にパワハラを受けているのを目撃した夜、高木主任と一緒に行った病院併設のカフェに向かう。
 カフェに入ると、一人で待つには退屈過ぎる。
 棒のように立って外を眺めたり、座っている事しかできない。
 そう言えば、同級会に不参加という連絡をしていないと思い至る。少し頭を悩ませてから、スマホを弄り、グループメッセージで『ごめん、同級会にはいけません。いま、病院でシンのポールになっています。本当に、あの頃が恋しいけれど、でも……。今はもう少しだけ、知らないふりをされ続けます。私の作るこの暴走列車も、きっと私の青春を乗せるから』と有名なコマーシャルの台詞のパロディー風にメッセージを送る。
 案の定、突っ込みやら何やらでメッセージは引っ切りなしに届いた。
 多分、普通に不参加と連絡していれば何か言われたり、ふざけてないでいいから来いと説得されそうだった。
 でも明るく病院にいる事を伝えれば、強要はしてこない。みんな悪乗りに付き合ってくれた。
 これで、十八時過ぎまで退屈をせずにすみそうだと楓は思った――。
「――大宮さん。大宮さん、お待たせしました」
「あ……っ! いっつ!」
 楓は気が付けば、テーブルに突っ伏してうたた寝をしていた。
 旭の声に跳ね起きるようにして椅子から立つが、焦りすぎてテーブルに足をぶつけてしまった。
「……大丈夫ですか? 骨折でもして、また入院をご希望ですか?」
「違います!」
 からかうように言う旭の声に、楓は強く否定してしまう。
 入院中、何度もこういったやり取りがあったなぁと懐かしく思い、柔らかい表情になりながら。
「……ちょっとぐらい、挨拶してくれてもいいんじゃないですか? そりゃ、仕事中に突然行った私も悪いですけど」
「僕達の提供するリハビリは、二十分毎でお金が発生します。その時間内に、患者さんの必要外の事で雑談をしていては申し訳が立ちません。ご挨拶は僕もしたいと思っていました」
「……本当ですか?」
「ええ、患者さんが自宅に帰られた後の様子が気にならない理学療法士はいません。ニュースで無事に結果を出されたのは知っていましたが、リハビリ中、横目に元気な姿を見て安心していました」
「……だったら、少しぐらい態度に出してくださいよ。無視されているのかなとか、退院したらこんなに冷たくなるのかなとか。色々考えちゃったじゃないですか」
「すいません。目の前で良くなりたいと願い、入院されている方を優先させて頂きました」
「相変わらず融通が利かないですけど、リハビリにだけは真摯ですね」
「ありがとうございます」
 本気で褒めてはいる。だが、多少皮肉を交えた事に気づけよと楓は思ってしまう。
 ちょっとしたリハビリの休憩中に手を振ったりとか、出来ただろうに。
(……まぁ、でも。そういう風に自分のリハビリの時間にはしっかり真剣に集中してくれるから……私も救われたんだよね)
 仮に自分のリハビリを旭がしている時、ふっと誰かに手を振ったりしているのは――仕方ないとは思うかもしれないが良い気分はしなかっただろう。集中してないんじゃないかと思っていたかもしれない。
(――って、そんな事を考えに来たんじゃない!)
「あ、あの! 旭さん。私、今日高校を卒業しました!」
「はい、ご卒業おめでとうございます」
「もう、条令の対象になるような年齢でも、立場でもありません!」
「…………」
 旭は表情を真剣なものに変え、引き締めた。
 以前、楓に告白された時に自分の返した言葉は旭も覚えている。
「――もう、女子校生でも十八歳未満でもありません。旭さんが指摘したような、私の気持ちは一時的なものではなかったです。一年以上経っても、この気持ちは全く変わらない。一番上の好きのまま揺らぎませんでした。あの日、旭さんが私の告白を断った逃げ道はありません!――私と、付き合ってください!」
 十八時のカフェには、まだ人が沢山いる。
 周囲は「あの大宮楓?」、「嘘、マジで?」という囁き声が聞こえる。
 だが必死な楓には届かない。
 高鳴る胸の鼓動がそんな雑音を消してしまう。
「……逃げ道を潰し、正論でぶつかってくる。嫌な風に成長しましたね」
「誰かさんの毒が強すぎて、私にまで感染しました。あの日、私を『好きじゃない』って言わなかった旭さんが悪いです。……責任、とってください」
 旭は虚空を見つめながら、逡巡する。
 数十秒ほど考えた後――。
「君は、三年後の同じ時期までに別れる期限付きのお付き合いを受け入れられますか?」
「……は?」
 楓は耳を疑った。
 前にも似たように不思議な期限付き交際を出来るか聞かれた事はある。
 高木主任は十年、以前告白した時は四年。そして今回は三年。
 どんな法則やルールがあるのか解らないが――。
「上等です!」
「……三年後の同じ時期までに必ず別れて、俺の事なんて忘れる。交際期間中にそっちがする浮気は大歓迎。むしろ推奨する。……こんな未来がない、ふざけた交際契約が飲める?」
 内容は本当にふざけていると楓は腸が煮えくりかえる思いだった。
 期限付きどころか、楓の浮気を推奨するなんて。
 普通の男が言ってきたら女遊びがしたいだけだろうとぶん殴っている所だ。
 だが、旭が女遊びなんかする男じゃない。
 そんな時間があるなら、リハビリの事を考えているような男だと知っている。
 だから――。
「飲んでやろうじゃないですか! 三年後までに、必ず私を忘れられなくさせてあげますよっ。旭さんから契約延長してくれと言わせてみせます! 何度も言いますが、私の負けず嫌いさを舐めないでください!……あと、俺って呼ぶのはちょっと格好良くてドキッとしたんで、そのままで」
 楓の返事に、旭は儚い笑みを浮かべて――。
「……じゃあ、本当に申し訳ないけど――これからよろしく」
 頭を深々と下げた。
 いつしかより白髪が増えている。
 そんな白髪を一本抜き取り――。
「よろしくされてあげます」
 勝ち誇ったように楓は笑った。
 旭も、泣きそうな顔で微笑んだ――。