三章

 楓が埼玉大学病院リハビリテーションセンターに転院してから約一ヶ月が経過した。
 旭が昼休みであろう時間に測定した最新の検査測定データを見て、旭は「今日から大きくリハビリプログラムを変えたいと思います」と言い出した。
 先日、栄養を調整してから特殊な手技を用いた筋トレ兼運動麻痺を改善する促通法が始まった。
 これが百%の力を使うよう旭が抵抗をかけ、手足を下げたり上げたり。
 とにかくフルパワーでめちゃくちゃキツい。
 血圧変化を旭は心配していたが、全く問題なかったので続行と笑顔で言い切った。
 あの時、この人は鬼だと楓は心から思ったものだ。
(あんなキツいの、合宿でも無かったのに……。もしかして、もっとヤバいのがあるの?)
 もっとリハビリが厳しくなるのでは、と戦々恐々とした面持ちで旭の後ろを楓は着いていく。
 辿り着いた場所は、ルームランナーのような機械だった。
「これはなんですか?」
「これはボディウェイトサポート付きのトレッドミルという機械です。このハーネスという物を身体に巻いて上方に懸垂し、足にかかる体重をコントロールしたり、転倒を防止します」
「……はぁ」
 トレッドミルという機械に付いていた、吊り下げ式のベルトのような装着具――ハーネスを持って説明する旭に、楓は生返事をする。
 これで何をするんだろう、もう歩けるようにはなったのにという表情だ。
「――今日から、これを着けて徐々に走る練習を始めます」
「――……え?」
 楓は、我が耳を疑った。
「はし……れるんですか?」
「まずはジョギング程度、時速六キロメートル程度からいきます。それでは、ハーネスを装着するので上に乗ってください」
「は、はい……っ」
 本当に走れるんだろうか。
 緊張で強ばる身体を動かし、トレッドミルの上に楓は乗る。慣れた手つきで股関節周りからハーネスという両足と体幹をベルトで固定し、上に吊すコルセットのような物を装着する。
「最初は免荷……多少、かかる体重を減らしてやりますが、大丈夫そうと判断したら全部の体重を乗せる事に切り替えます。……心拍数が非常に高いですね。一端、深呼吸しましょう」
 機械に表示される数値を見て、旭は深呼吸で落ち着くよう促す。
 楓からすると、心拍数が上がって当然だ。
 夢想して――夢にまで見ていた走りに挑戦するのだから。
 絶対に無理だろうと、つい先日まで諦めていた事に。
「落ち着きましたね。速度は徐々に速くなっていき、時速六キローメトルで止まります、――それでは、始めます」
「――……っ!」
 足下のゴムのような素材が動き出す。落とされないように、楓はゆっくりと歩く。
 そして徐々に速度が上がって行き、早足のように。
 そして遂には――。
「――走ってる……っ」
 本当にゆっくりとしたジョギング程度。
 脳梗塞を発症する前であれば、インターバル走のジョギング時にこの速度で走っていたら怒られるだろうほどゆっくりとしたペース。
 それでも、間違いなく走っていた。
「……大丈夫そうですね。体重を全部のせます」
 楓の足に、先程よりも重みがかかる。
 それでも、問題ない。
 しっかり蹴って、テンポ良く足が出ている。
 前のように風を切り裂く音も耳からは聞こえない。
 景色も次々切り替わっていく事は無く、壁を見ているままだ。
 それでも――身体は確かに走っていた。
「――私、走れた……っ。また、走れた……っ!」
 歓喜のあまり、涙を滲ませながら喜びの声をあげる楓。
 すると、機械がゆっくり停止した。
「……脈が設定していた上限に達したので止まりました。どうですか? 胸が苦しかったり――」
「――苦しいに決まってます!」
 旭の言葉を遮って、楓は言った。
「今すぐ、医師を呼んで――」
 急いでハーネスを外す旭に、楓は大きく首を振った。
「――違う、そうじゃないんです! 嬉しくて……っ。嬉しくて苦しいんです!」
 そう言って、泣き顔を見られないように顔を覆いながら楓はへたり込んだ。
 周囲のリハビリスタッフが大丈夫かと視線を向けるのを、旭は大丈夫と手で制した。
「大宮さん。まずはおめでとうございます。……ですが、まだここからです。病前の貴女の走りは、もっと美しく速かった」
 その言葉に、楓はまだまだ先があると気を引き締めなおすと同時に――。
(旭さんは……っ。本当に、口だけじゃなくて、私を元のように走らせようとしてくれてるんだ……っ)
 その事実を強く実感して、涙がポロポロと止まらない。
「ありがとうございます……っ。私を、見捨てないでくれて、本当に走らせてくれて……っ! 夢みたいですッ!」
 唯ひたすら、感謝の気持ちを述べ続けた。
「夢じゃなく、現実ですよ。科学的根拠に基づきプログラムを組んで、他ならぬ大宮さんが負けずに取り組んだ結果――再び取り戻した現実です」
 楓の隣にしゃがみ込んで、旭は優しく語りかける。
「嬉しい……っ。私、半信半疑でしたっ。走れるようになるかもっ。でも、きっと無理だろうって……っ! ありがとうございますっ。旭さんは、神様のようです」
 興奮した楓が思わず口にしたその言葉に、旭は真面目な表情へ変え――楓に尋ねた。
「――大宮さんは、運命論とか……神とか、そういう超常の存在を信じますか?」
「……え?」
 質問の意味が分からず、放心した顔で楓は声を漏らした。
 宗教勧誘のようなその言葉にどう反応したらいいか、楓にはわからない。
「……いえ、何でもありません」
 少し笑いながら旭は立ち上がり――。
「今日の僕のリハビリはここまでにしましょう。感情の整理も大切な時間です。夕方、高木主任のリハビリでも同じ速度でやるよう御願いしますから、また様子を見ましょう。――明日から徐々に速度を上げていきます」
「はい……っ!」
 涙声で、笑顔を浮かべながらそう答えた――。
 部屋に戻ると、まず母や渚に『今日、また走れた! 遅いジョギングだけど、また走れた!』とメッセージを送った。
 すると、その夕方――また午後十八時過ぎに母と渚がお見舞いに来てくれた。
「――楓! 走れたってマジ!?」
「うん! あの機械に乗って、本当にゆっくりしたジョギング程度だけど」
「それでも良かったじゃん! 本当、良かったな……」
「楓……っ。おめでとう、おめでとう……っ! よく頑張ったね」
 渚も母も、涙で目を潤ませながら楓へ祝福の言葉を述べる。
「私はただ、目の前にある言われたことをやっただけだよ。本当に頑張ったのは旭さんだと思う。殆ど寝ないで……本当に親身になってくれたの」
「ほぉ……。ふぅん?」
 渚が楓の顔を覗き込み、ニタニタと笑みを浮かべる。
「な、何?」
「いや、なんか楓が今まで見たこと無い顔してるなって。……もしかして、保坂さんに惚れた?」
「はっ!? 違うから! 何歳離れてると思ってるの!」
「まっ。そりゃそうか」
「楓より、お母さんに年齢が近い人への恋かぁ……。う~ん、応援できない、かなぁ。お母さんも気持ちの整理が付かないし。それにね楓、年齢差って色々と大変よ?」
「お母さんまで! 旭さんは、私を絶望の闇から引き上げてくれた恩人なのっ。あんまそういうからかうような事、言わないで!」
「悪かったって。……んで、その旭さんはもう帰っちゃった?」
「そうね。お母さんも改めてゆっくり御礼が言いたいんだけど」
「旭さんは……この時間は多分リハビリ室にいると思うけど……」
「おっ。じゃあちょっと行ってくる」
「あっ。渚! ちょっと!」
 小走りでリハビリ室へ向かう渚を、楓は無意識で走って追いかけていた。
 その姿を見て、母は本当に嬉しそうに見つめ、涙を拭った――。
「……そういや、夕方は勉強会の講師をやってるんだったな」
「だから、人の話を最後まで聞いてから動いてよ」
「前来た時もだったし、本当に熱心なのね。良い人に担当してもらえて、良かった」
 三人はリハビリ室で勉強会の講師をしている旭を見て動きを止めた。
 参加人数は三十名近い。
 ただ、今回は人数も多いためか、旭も全員に聞こえるよう声を張り上げ、聴講者も質問時には大きな声で話している。その為、楓達にも何を話しているのかしっかり聞こえた。
 今は質疑応答の時間のようだ。
 楓としても、実際に勉強会でどんな話をしているのかまでは聞いたことが無かったので、興味があった。盗み聴きは悪い事だと思いつつ、勝手にタイム測定されたこともあるし、いいよね。そう思いながら三人で様子を観察する。
「――保坂さんは常に自信満々のように見えるんですが、私は自分のやっている理学療法が合っているのか不安です。保坂さんは不安に思うことはないんですか?」
 若手の女性理学療法士が挙手をして質問をした。
 旭はホワイトボードの前でその質問に一回頷いてから答える。
「当然、あります。毎日不安に思っています」
 その言葉は、楓にとって意外だった。
 あの人が不安に思っている所なんて、初日のリハビリで効果が出るか見た時に安堵した時以外、片鱗も感じた事がなかったからだ。常に自信満々に、確信を持ってリハビリをしているように見えた。
「自分が患者だとして、目の前で自信無さそうにリハビリをする理学療法士のリハビリを受けたいですか?」
「いや、絶対に嫌ですね」
「そうでしょう。その為にはSPDCAサイクルを大切にしてください。SPDCAサイクルとは――」
 そう言って旭はホワイトボードに何かを書き始める。
「Sは医療情報や目標などの調査、Pは具体的なリハビリ計画や実施期間、Dは実行、Cは評価、Aは改善です。皆さんは、普段の臨床現場で患者さん一人一人、一回一回のリハビリの中でこれを意識していますか? 殆どの人は、リハビリテーション実施計画書を作る月に一回はやっていても、毎日はやっていないのではないでしょうか?」
「……すいません」
 気まずそうに何人も頭を下げる。
「これから改善していけばいいんです、日々の臨床で心がけてください。勿論、これを行う為には知識技能が必要です。科学的根拠のある知識技能があることで、このサイクルを実施したときの内容に差違が出ます」
「つまり、やはり勉強が大切だと言うことですか? どうやって勉強すればいいですか?」
「理学療法士は、科学的根拠に基づいて運動療法などを提供する人のことを言います。エビデンスや推奨グレードの載ったガイドラインを見るのは大前提。勿論、そこから外れるケースも多い。その為に、論文を読んだり実技講習会へ参加するのも手です」
「私、論文の見つけ方が苦手で……どこから手を着けていいのか」
「大学の図書館で論文を探すのを何度も繰り返してみてください。最初は参考書を読むのも良いです。参考書というのは、論文などをわかりやすく纏めたものが多いですから。どの資料を見ても自分の求める知識がないなら、先行研究で明らかになっていないのかもしれません。そうした時には是非、自分も研究して発信する側になってみてください。その知識が誰かを救うかもしれませんから」
 旭の説明に、女性理学療法士は納得がいったのか、深く頷いた。
「理学療法士とは科学的根拠もあって、患者さんが納得いく理学療法のメカニズムを説明出来る者を言うと思います。知識ではなく自身の経験で物を言う感覚派というのは、セラピストではあるかも知れませんが、理学療法士であるとは言い難いと思います。それは積み重ねてきた研究への冒涜でもあり、逆に言うと自分の経験した事がない症状と遭遇した時に引き出しが無く、極めて対応力が弱いからです」
 そうして説明する旭の目の前を岩原科長が不機嫌そうに通り、職員用の通路から帰宅しようと向かう。
 勉強会に参加しているセラピスト達は気まずそうに「お疲れ様です」と会釈をした。
 旭も同様に会釈をするが、岩原科長は無視してズカズカと帰宅する。
「纏めますと、理学療法士は自他共に納得のいく説明を出来る状態で患者さんの前に自信満々に立つ。そしてリハビリを終えたら、誰よりも自分がした理学療法内容に不安を持つ。そうして、SPDCAサイクルに基づき再度検討をして、次のリハビリへ自信満々に臨める準備をするべきだと思います。その為に、知識と技術を得る必要があるのです。そうした仮説評価検証の繰り返しが、日常的に自信を持って臨床現場に立つ事へ繋がると思います。――僕は悪魔に魂を売って、死ぬつもりで知識技能を得る覚悟ですが、皆さんはそこまでする必要はないと思います。……自分の生活もあるでしょうから。こんな感じで、質問への答えにはなりましたか?」
「はい! ありがとうございました!」
 若手の女性理学療法士が勢いよく頭を下げ、メモをしていた。
「――すいません、僕も質問です。旭さんのように優秀になるには、どうしたらいいですか?」
 若手の男性が手を上げた。
「社会的な地位では、僕も優秀では無く皆さんと同じ平社員ですが」
「それでも、旭さんは研究実績だけでなく、人を動かすって言うとアレですけど……強い意思があって優秀なように思います。どうすれば、心が折れずに優秀になれますか?」
 その言葉に、旭はしばし逡巡した後――。
「皆さんは、神や悪魔、奇跡などを信じますか?」
 そう言った。
 その瞬間、スタッフ達は「え?」という表情で顔を見合わせた。
「――僕は実在を半ば確信しています。崇拝しているかどうかは別ですが。……優秀な科学者ほど、そういった超越的存在を信じる傾向があります。なぜだかわかりますか?」
 聴講者であるスタッフは、小さく首を振った。
「そういった存在でもいない限り、説明がつかない現象が起きるからです。理学療法の研究でもデータを取っていると、どれだけ条件を似せても、あり得ないぐらい他者より回復するケースがあります。そういったケースは統計解析する時に外れ値として処理されてしまいますが――。その外れ値の人に何があったのか、症例検討してみても、既存の知識では説明が付かないんです」
 旭は一度水を口に含んでから、続けた。
「皆さんは、物語を読んだことはありますか? 或いは、観た事は?」
「ゲームとかドラマとか、小説なら……あります」
「十分です。我々は実世界に生きる人間です。しかし学者の中には、この世はシミュレーション仮説というものを唱えている者もいます。もしそうであれば、神とは物語の作者であり――読者。或いは視聴者です」
「…………」
「もし我々が物語の登場人物であれば――観測者によって、常に観られている事になります。それが一方通行で視聴するだけなのか、干渉が出来るのかは分かりません」
「考えただけで、少し恐ろしくなります。そう考える学者がいても、ちょっと、すぐには信じられないと言いますか……」
「それも一つの意見でしょう。私は、多くの学者が神の存在を認識しているのと同じように奇跡を起こす、超常の存在。――観測者や神とも呼ばれる存在があると、半ば確信しています」
 真顔で言い切る旭に、周囲は顔を見合わせている。
 誰もが動揺している様子だ。
「人事を尽くさずして、超常の者が手を貸してくれなかったと言い訳するのは、科学に基づきリハビリを展開する我々の在り方として正しいとは、言えません」
「……そう、ですよね。それは、そう思います」
「だから私は、科学を突き詰め、学び、全力を尽くすのです。その果てに既存の科学で説明の出来ないケースと遭遇した時には、神や観測者に深く感謝をするのです」
 再び、旭は水を口にした。
 真顔で語りつつも、口が渇いているのか。
 かなり長い演説のようになっている事に、自覚があるのかも知れない。
 そして、十分に間を取った後、一際真剣な声音で――。
「――そして得た知見を後世へ伝えようと私は日々、思うのです。それは身近な皆さん。そして論文や、資料として、後世の誰かに希望の火を灯せるように、と」
 その声は、聴き入るスタッフの静寂の中で、力強く響いた。
 そして旭は、幾分か表情を緩める。
「優秀になりたいと思っている人は、どうか探求を続けてください。いつか、奇跡と言われている事を科学で証明するんだと意気込んでください。……一昔前まで運動麻痺は絶対に回復しないから、麻痺をしてない側にリハビリをして、動かないのを補うのが常識でした。しかし、研究によって運動麻痺は回復する事が解り、今は麻痺側へのリハビリを行うのが常識のパラダイムシフトが起きました。当時の人が今のリハビリを見たらこう言うでしょう。『神の奇跡だ』と。……僅か十年後には、今の常識は非常識になっているかもしれない。情報に敏感になり、探求を続けて時代に取り残されないという強い意思。それが相対的な理学療法士としての優秀さに繋がると思います。……こんな答えで、いいですか?」
「はい、ありがとうございます!」
 体育会系っぽいハキハキした声で男性理学療法士は御礼を言った。
 そんな光景を遠目に見ていた三人は――。
「……本当、スゲぇおっさ――、人だね。なんか楓が信頼してるのが解ったわ」
「楓、下衆の勘ぐりをしてごめんなさいね。……楓?」
「え、まさか楓、お前本当に?」
「え!? う、嘘、本当に? ちょ、ちょっと、ダメよ? 入院中の一時的な熱よね、落ち着いて?」
「……まぁ、いいじゃないっすか叔母さん。これも、楓が選ぶ幸せッすよ。背中おしてあげましょ」
「渚ちゃん!? 何を言ってるの、ダメよ! 年齢差なんて楓は老後、一人残されちゃうしっ。それに――」
 話題の渦中にある本人は、返事を返さない。
 母と楓が口論しているのなんてどこ吹く風といった様子だ。
 楓は、ただ無心に旭の目を見ていた。
 ここ数週間、ほぼ毎日のように最低二時間は付きっきりで過ごしてきた楓には、遠目にでも解る。
 旭の眼孔には、何かに取り憑かれたような狂気の炎が宿っていた――。

 そうして勉強会が終了した後、旭が片付けをしている所へ楓たちは挨拶へ向かった。
「保坂先生、少しお時間よろしいでしょうか?」
 母の言葉に旭が振り向いた。
 そうして、楓の隣に私服姿の二人がいるのを視認すると、片付けを中断して姿勢を正す。
「大宮さんのご家族様でしょうか?」
「はい、母です」
「お世話になっております。私は、担当させて頂いております理学療法士の保坂と申します」
「こちらこそ、いつも楓がお世話になっております。この子は楓の親友で――」
「川越渚っす! 保坂さん、よろしくおねがいしますねっ!」
「な、渚!? 何してんの!? 旭さんから離れて!」
 旭の腕に抱きつきながら挨拶をする渚に、楓は慌てた。
「なんだ、楓。嫉妬か?」
「そういうんじゃなくて!」
「……川越さん、離れて頂けますか?」
「じょ、冗談じゃないっすか。軽い挨拶ですから、そんな怖い顔しないでくださいよ」
「怖い顔をしているつもりはありません。ロボットのようだとは言われまますが」
 無表情で離れるように言う旭に、渚は苦笑いを浮かべて離れた。
 旭にあり得ないぐらい馴れ馴れしく無礼な事をしでかした親友が離れたのを見て、楓は安堵した。
(ロボットって言われるのは、顔じゃなくて仕事ぶりとかだと思うけど……)
 心の中で呟いていると――。
「やっぱ、好きな女の前で他の女とイチャつくのは気が引けるんすか?」
「……は?」
「楓、可愛いっすもんね」
「ちょっと渚!? あんた何言ってんの!?」
 本気で何を言われているのか分からないのだろう。
 眉間に皺を寄せて首を傾げた旭もそっちのけで、楓は渚に詰め寄る。
「何って、応援?」
「応援ってなにが!?」
「いやぁ、楓はめっちゃモテるからさ。男に好かれることは多くても、自分から好いたのなんて初めてじゃん? ここは、背中を押さないとなぁって」
「だから、旭さんはそういうのじゃなくって、尊敬してる理学療法士さんで……!」
「もう認めろって。ウチも、保坂さんはイイ男だと思うよ? イケメンだし、仕事もできるしさ。まぁ神様がとか皆の前で堂々と言っちゃう信仰心の押しつけはネックかもだけど」
「いい加減に――」
「――いい加減にしなさいッ!」
 余りに失礼な物言いに、楓が怒る前に――楓の母が叱りつけた。
 普段、ほぼ怒ることのない優しい母が怒鳴る姿に、怒られた渚だけでなく楓まで硬直してしまう。
 病棟中へ響いた声に何事かと視線が集まると、ハッとして「ごめんなさいごめんなさい」と旭に頭を下げる。
 そんな楓の母に、旭は――。
「お気になさらないでください。愛情があるからこそ、時には厳しくすることは必要だと理解しておりますので」
 安心させようと柔らかい声で、声をかけた。
(愛情があるからこそ、厳しくなる……。じゃあ、普段から厳しいリハビリをしてくるのは、もしかして)
 楓はドキドキとする胸をそっと押さえこむ。
 しかし――。
「それに、私のような中年男性に大切な娘さんが気があるかのような話をされれば、ご気分を害されるのも当然です。ご安心ください、私は担当として回復へ向かい全力を尽くす。それ以上の感情はありませんので」
「そういって頂けると……これからも、楓をよろしくお願いします」
「こちらこそ、それから川越さん」
「は、はい……」
「私はそれほど信仰が厚いわけではありません。……ただ、その超常存在を感じて、認めざるを得ないだけですよ。それこそ、毎日のように見られている気分ですから」
「は、はい……。失礼なこと言って、すんませんでした」
 大人二人の話し合いによって、上手く場は収まった。
 だが、楓は――。
(それ以上の感情は……ない、か)
 キッパリと言い切られた言葉。
 それは患者と医療者としては当然の言葉のはず。
(当然のことを言われたはずなのに……。なんで、こんなに胸が痛むんだろう……)
 思わず、胸を押さえ苦しそうな顔を浮かべてしまった。
 そんな楓の後ろで、渚はもっと苦しそうな表情をしていた――。

 ある日のリハビリテーションが終わり、入浴後の十七時四十分頃。
 楓は何気なく病棟内を散歩していた。
 すると――。
「だから、早く退院させろって言ってんだろ! お前は実績指数を考えろって上からの命令を聞けねぇのか!? 本当に実績指数が何か、理解してるんだろうな!?」
 ものすごい剣幕で糾弾する声が響いてきた。
「え、なに、なに?」
 声はリハビリテーション科のスタッフルームから響いてきた。
 楓は好奇心から、物陰に隠れつつ声の方へ向かう。
「実績指数はFIMという日常生活動作能力の介助量を点数で評価します。実績指数算定に用いられるのは運動評価項目変化と疾患の入院期限、実査に退院までにかかる日数から算出されるリハビリテーション病棟の評価指標です。入院料の判定にも関わる評価です」
 やり合っているのは、岩原科長と――旭だ。
「だったら解ってんだろ! 最初から全部の運動項目が自立してる大宮さんは早く家に帰すべきだって! 入院期間が長引けば長引くほど、病院にとってはマイナスなんだよ!」
 自分の名前が出て――自分が入院していることがマイナスと言われて。
 楓は目を見開き、胸を押さえてしまう。
 考えた事もなかった事に、ショックを受けたからだ。
「そんな事はないはずです。入院患者のうち、基準を満たす三割は実績指数の算定から除外できます。入院時に運動項目が満点だった大宮さんは算定の除外対象です。科長には、大宮さんを実績指数算定の除外対象者三割に入れて頂けるよう御願いしたはずです」
「除外対象だから特別扱いして良いって訳じゃねぇんだよ! 全員が早期退院を心がけろって上からの指示だろッ! お前を見てる周りが真似していくんだって俺は言ってんだよ!」
 感情的になり、顔を真っ赤にして怒声を放つ岩原科長に対して、保坂はつまらないようなものをみるような目で泰然と受け答えをする。
「実績指数を高めて利益が無ければ、病院経営が成り立たないと言う科長の思いは解ります。――ですが、金銭的利益を求める為だけに科長は理学療法士になったのですか。少なくとも、僕は違います」
「何だと、テメェ!」
 岩原科長は保坂の胸ぐらを掴み、ドンっと壁に押しつけた。
「科長、それはさすがにパワハラになりますから……」
「高木は黙ってろ! 今はコイツと話してんだよ!」
 高木主任が困惑し、恐怖しながらも止めようとするも、岩原科長の怒りは止まらない。
「でしたら、討論を続けましょう。身体に悩みがある人を、しかも回復期で集中的にやればまだ伸びる人を放り出すのは、回復期リハビリテーション協会のセラピスト十カ条宣言にある『患者に寄り添い、その人らしい社会参加を支援する』という理念にも反していますし、『リハビリテーションマインドを持って専門職の使命を果たす、心身機能の改善を図る』という条文に反しています。まして、大宮さんはリハビリテーション医もまだ伸びる可能性があると言っている方ですから」
 討論とは言いつつも、先日の鈴木管理栄養士の時とは全く違う様相だ。
 おそらくまた正論で攻めているんだろうが、いつ爆発するか解らないと、岩原科長に対して楓はビクビクして震えていた。
「テメェはいつもいっつも根回ししやがって……っ。そういうとこも気にくわねぇんだよッ!」
「僕はセラピストとして全力を尽くしたいだけです。……科長、リハビリテーションとは再び元の社会生活を取り戻すという意味ですよね? 大宮さんは、再び取り戻したんですか? あの人の生き甲斐である『走る』という生活を。荒唐無稽で実現可能性がない目標ならともかく、実現可能性がある目標を放り出し――」
「うるせぇ!」
 激しい物音と、岩原科長の怒声が響き渡る。
 スタッフルームの棚が崩れ、旭の上にドサドサと物が落ちてくる。
 声にならない悲鳴を上げるリハスタッフ達。
 荒い息をしながら、明らかに非難の目を向けれられているのは――岩原科長の方であった。
 岩原としても、自分が昨今問題になっているパワハラの条件に当てはまる事をした自覚があった。周囲の批難の眼差しに居心地悪くなり、「昔ならこんなん普通だったのに……嫌な時代だ」と小さく呟いた。
「保坂ッ! テメェは上からの命令を聞かねぇ、トップダウン方式のうちの病院指針に合ってねぇ! 違う病院に行った方が良いだろうよっ。頑固で融通も利かねぇ。上に逆らってばかり。だから実績的にはテメェ以下の高木にも抜かれて平社員のままなんだよ!」
 捨て台詞のように荷物の中で埋もれる旭を睨んでから、岩原科長は憤激したまま退勤していった。
 リハビリテーション室の器具に隠れる楓にも気付かずに――。
「――科長、ちょっと待ってください! さすがに今回の行動は管理職として……」
 直ぐに高木が憤怒の表情を浮かべてスタッフルームを出てくる。
 すると、高木主任は隠れていた楓を見つけ、二人の目が合った。
 ものすごく気まずそうに視線を彷徨わせる楓に、高木も頭が真っ白になった。
 絶対に聞かれてはいけない当事者だったからだ。
「……ちょっと、カフェで話し合いましょうか。病棟には私から話しておくから」
「はい……」
 高木が病棟看護師に事情を説明し、楓が病棟外に外出する許可を貰った。禁止の飲食物がないかも再確認して。楓は高木の後ろをついて病院内にあるカフェに向かった――。
「――……旭さんが怒られたり、出世できないのって……私のせいなんですか?」
 重々しい空気の中、楓が口火を切った。
 高木はすっかり寒くなってきた季節に合う、ホット珈琲を置いて首を振る。
「それは違うよ。大宮さんのせいじゃない」
「でも、私のせいで旭さんがものすごく怒られてて……暴力まで振るわれてましたっ」
「あれは科長がやり過ぎだね。……でも、出世できないのは完全に旭自身の責任なんです。旭くんは、あの通りだから。何も大宮さんのケースに始まった事じゃあないんですよ」
「……ずっと、こんな事が繰り返されてきたんですか?」
「……まあ、そうですね。でも、何度打ちのめされても、旭くんは立ち上がって元通り自分の目標に向かって走るんです」
「何で……社会人なら、出世したいんじゃないんですか? その方が権力とか発言力だって増すでしょうし」
「まあ、出世して病院の体制を変革するって言うのも一時は考えてたみたいなんだけどね。それは不可能だから、だから旭くんはああやって現場で下から意識を変えようとしてる」
「何で、無理なんですか?」
「私達、理学療法士は――医療補助職って扱いなんです。お医者さんや看護師の仕事を補助してるっていうのが、国が私達の資格に与えた権限。理学療法行為って名称は独占して使えても、別に私達の業務を医師や看護師がやってもかまわない。業務も独占できない。……その程度の権限しか国に与えられていない資格者が病院の運営方針を変えるのは、どうやっても不可能なんです」
「そんな、そんなのって……っ! だって、あれだけ頑張ってるじゃないですか!」
「頑張ってるかどうかってのは、大人の社会だとそんなに関係ないんですよ。社会的地位が高い人が法律を決めるように、病院も資格的に地位が高い人が経営方針を決めるんです。同じ教授でも、理学療法学科と医学科の教授では発言力が違うんです」
「じゃあ……出世しても意味はないって諦めたんですか?」
「諦めたとは違うわね。考え方を変えたの。――結局、下がいなければ上はない。上が動けば人が動く。逆に、人が動けば上も動く。だから、旭くんはどんなに上から疎まれて倒されようとも、諦めない。下から思考の変革を狙ってる。患者さんに第一になる運営方針を皆が望むように。組織の上と下、数はどっちが多いかなんて決まってるわよね?」
「それは、下でしょうね」
「そうです。だから彼はあえて下にいることを選んだ。……最も、うちみたいに大きな組織だと出世する試験を受けるには上司の推薦がいるから、旭くんは絶対に出世できないんですけどね」
「理不尽です……っ」
「その理不尽こそが、社会です」
 ぴしゃりと、今だけは教師のように高木主任は言い切った。
 そしてまた一口珈琲を飲んで、表情を柔らかくして言った。
「でも、そんな社会にとことん抗う子供みたいなのが、旭くんね。どれだけ叱られても、失敗しても立ち上がる。決して諦めず、折れない。目標に向かって我が儘に全力を尽くすの。……本当、格好良い生き方よね。私には真似できない」
 本当に、格好良い。
 楓はそう思った。
「……高木さん、私は脳梗塞発症という挫折で――目標を諦めてしまいました。また走るって目標を。走れない現実を、周囲の為にも受け入れなきゃって思って」
「……うん」
「でも、旭さんは入院初日に言ったんです。『なぜ、諦めるべきだと思うんですか?』って。この世に〇%はない、まだ可能性がある。全力を尽くしてもいないうちから諦めるのは時期尚早だっていう風に」
「それは何とも、医療従事者としては反応に困りますね。旭くんに賛同すべきなのか、それとも注意するべきなのか……」
「でも、私は救われたんですっ。限界を自分で決めていた。でも、今はおかげさまでゆっくりだけど走れるようになった。可能性は確かにあったのに、あそこで引っ張って行ってもらわなきゃ……私は暗鬱とした日々を受け入れるべきだと自分に言い聞かせて、死んだように生きるしかなかった」
「そう……ですね」
「旭さんは……、私にとって、英雄なんですっ。上司にどれだけ嫌われていようと、いつでも私達、患者の最善を考えてくれる、凄い格好良くて――大好きな人なんです!」
「大宮さん、あなた……」
 顔を紅潮させながら瞳が潤んでいる楓を、高木主任は目を見開いて見つめた。
「――高木さん、もう無理です。自分の気持ちを誤魔化せません。……私、保坂旭さんの事が好きなんですっ。自分も相手も、強引に目標に向かわせて全力を尽くさせる鬼だって解ってますっ。年齢差とか、患者と医療者という立場も解ってます! でも、好きになっちゃったものは、誤魔化せないんですっ。何度、心折られるような事があっても、辛い目に遭おうとも決して諦めない。そうして私を暗闇から引き上げてくれた鬼みたいな王子様が、大好きなんです!」
「……そっか。それは旭くんの元カノとしても、大人としても、ちょっと反応に困るな」
「――高木さん。高木さんが元カノだって言うのはわかってます。――でも私、旭さんに告白しても、いいですか?」
「……それは、もう私が口だしできる事じゃない。……旭くん次第、でしょ」
 そう言いながら、高木主任は珈琲を口に入れる。
 珈琲は、いつもより苦かった。自分が付いていけないと思って、別れを受け入れてしまった旭を好きになった子を止められない。そんな事を言う資格なんてない。
 高木主任は苦い珈琲を飲み干して、楓を病棟まで送っていった――。

「――おはようございます。失礼します」
「あ、旭さん!? ちょ、ちょっとタイム! 絶対部屋に入ってこないで、入ったら怒ります!」
 手鏡を取り出して、髪型を整える。自分の服装に変な所はないか再確認する。
 もう今更とは楓も思っている。
 だが、一度自覚した思い人――ましてや初恋の相手が部屋に来るというのは、髪の一房の乱れすらも気になってしまう。
「も、もういいですよ」
 一通り確認して「よし」と思った楓は、旭を迎え入れる。
「……すいません、もしかして着替え中でしたか?」
 この男にデリカシーというものを殴って叩き込みたい。
 そう思いながらも、楓は歯を食いしばった。
「旭さんは女心も学ぶべきですっ。女の子は髪の一房の乱れすら気になる、前髪を切るのが1ミリ失敗しただけでも泣く程に悲しむんですよ!?」
「そうですか、すいません。どうせ激しいリハビリで乱れるだろうと思っていました」
「そういうとこ! 本当、そういうとこ直した方が良いです!」
「すいません。医療関係の事しか勉強していないもので」
 全く悪いと思っていないような表情で、とりあえず頭を下げる旭に、楓はまた腹が立つ。女性は好きな男性にどう見られるか、本当に気にしているというのに。そう考えた所で、ハッと思い出す。
 そう言えば、初日に胸部のレントゲンを撮られていた事を。
(も、もしかして……っ。胸のレントゲンとかも旭さんに見られたのかな!?)
「旭さん。入院初日に私が撮られた胸のレントゲンとかって――見ました?」
「当然、確認しています」
 平然と言う旭に、楓は顔を覆って悶えた。
(レントゲンなんて、ある意味身体の一番奥深くまで見られてるって事じゃない!)
「旭さんのエッチ! 変質者!」
「……なんでそうなるんですか?」
「いいから! 二度とレントゲンとか見ないでください! 脳の写真もです!」
「医療従事者として業務に必要があれば見ます」
「駄目です!」
「お断りします。情報確認できなければリハビリができない」
「駄目」
「断ります」
 無意味な押し問答の後、リハビリの予定を伝えて旭は立ち去った。
 まるで乙女のような自分が気持ち悪くて、楓はベッドの上で「くぅあああ」と悶えた――。
 六週間目の検査測定を行い、ほぼ足の左右差もなくなってきたという結果が出た。
 そこで、旭は次のプログラムに進んだ。
「――さて、今日はいけるところまで走る速度を上げてきましょう。勿論、観察した上で速度は上げていきますし、転倒防止の為にハーネスはつけます」
「……はい」
「では、ハーネスをつけますね」
 ハーネスというベルトのような物を、旭が大腿の付け根から装着しようとすると――。
「ひゃっ! ど、どこ触ってるんですか……っ」
「……え?」
 もう幾度となく装着しているハーネス。当然、大腿の付け根に触れるというのも必要な事だとは解っているが――。一度意識してしまった楓には、胸がドキドキして耐えられるものではなかった。
(男として下心持ってもよくない!? 少しぐらい、ほんの少しぐらいは意識してよ!)
「……保坂さん、大宮さんは女性だから。着脱は私がやるわ」
「はぁ……。今更ですか。では、高木さん御願いします」
 近くでリハビリをしていた高木主任が見かねて、代わりにハーネスを装着してくれた。
 高木主任と楓の目が合い、高木主任は困ったものだなと苦笑をした。
 そんな高木主任に、楓は申し訳なさそうに頭をペコペコと下げる。
 結局、楓はトレッドミルという機械の出せる最高速度――二十キロメートルでも数十秒であれば、問題なく走る事ができた。もはや、左足首の違和感も殆ど感じなくなってきた。
「素晴らしいですねっ。――午後からは、実際に外で一緒にジョギングしてみましょう。傾斜や、不整地で走るのが問題なければ、目標が見えてきますよ! やりましたね、大宮さん!」
 ハーネスを高木主任が外している間、心から嬉しそうな笑顔で旭は楓に話しかける。
(ああ、駄目……っ。そんなキラキラした笑顔を向けないで、無理、しんどい!)
 返事もせずに頬を紅潮させ、乱れた髪を触る。
 てっきりもっと喜ぶと思っていたのに。そんな不思議そうな顔をしながら、旭は首を傾げた。
 そんな旭の態度をみて――。
(ああもう、こんなの私らしくない!――今日、絶対に告白するっ! ケリつけてやる!)
 負けず嫌いで暴走気味、時に周りが見えなくなるなど抜けたところがある楓は――心に決めた。
 そうして、その日の深夜。
 楓は病棟を歩いてリハビリ室まで来た。
 案の定、奥のスタッフルームは深夜にも関わらず僅かな明かりが灯っていた。
 楓が恐る恐る近づき、そっと扉を開くと、やはり一心不乱にパソコンに向かう旭がいた。
(予想通り。……でも、邪魔するのは悪いから、ちょっと一息つきそうな瞬間に声をかけよう)
 そのまま、楓は旭を観察しながら待ち続けた。惚れた欲目かもしれないが、真剣に仕事に打ち込んでいる姿は何時まで見ていても苦痛ではなく――結果、一時間近く経過した時にチャンスが訪れた。
 旭が肩を回すように動いた。その瞬間、意を決した楓は動いた。
「あ、あの~、旭さん?」
「――は? 大宮さん? 今、何時だと思ってるんですか?」
「それはこっちの台詞です」
 時刻は深夜一時を過ぎている。驚いたように振り向いて言う旭に、楓は真顔で返した。
「……そう言えば、自分の身体を大事にしろって、前に大宮さんには叱られましたっけ」
 椅子に腰掛けながら、苦い笑みを浮かべて旭は言った。
「そうですよ。何度同じ事を――って、今日はその話じゃなくてですねっ!」
 自分がここにきた目的を思い出し、楓は挙動不審になる。それを旭は不思議そうにみつめた。
「こんな時間に、ですか? また明日でもいいのでは……?」
「駄目なんです! その、二人っきりじゃないと……っ」
「二人でないと話せない話……?」
 訝しげな顔を浮かべる旭を見て、楓はあっという顔を浮かべたあと、キッと表情を引き締めて――。
「――旭さん、好きです! 私と付き合ってくださいっ!」
 耳まで真っ赤に染めながら、眉をキリッとさせた表情で言い切った。
 楓の胸はバクバクと音を立てていて、今にも口から出そうだ。
 今まで告白された事はあっても、自分から告白したことなんてない。
 突然の事に唖然としている旭を真っ直ぐに見ながら、楓は返事を待つ。
(これが……告白して返事を待つ気持ちなんだっ。すっごいバクバクして、口から心臓が出そうっ!)
 呼吸も浅くなる程に緊張している楓を見て、旭も本気で言われている事を察する。
 旭は一度、パソコンのディスプレイを見て、少し悲しげな表情を浮かべた。
 その表情を見て、楓は自分が振られるのかと一気に切ない気持ちになったが――。
「――四年という、未来がない期限付き契約の交際を受け入れられますか?」
 ほんの少しだけ辛そうな表情で、旭は呟くようにそう言った。
「……え?」
 旭の口から出たのは、予想外の言葉だった。
(四年の……期限付き交際? どういうこと……っ?)
 ふと、高木が以前、旭と別れたときのエピソードを思い出す。それは確か、『十年の期限付き交際なんて無理でしょう?』と言われて別れたものだったはずだ。
 楓は四年で、高木主任は十年。
 その差は一体何なのか。なんで高木主任の方が長いんだと不満な気持ちも抱きつつ困惑していると、旭が微笑みながら言葉を繋いだ。
「……患者が医療者に対して特別な好意を一時的に抱いてしまう現象を、正の転移と言います。そういった現象はよく起きます。そんな一時的な勘違いで、もうすぐ三十一歳になろうかというおじさんと付き合いたいなんて言ってはいけませんよ」
「一時的な勘違いなんかじゃありません!」
「まぁ、どちらにせよ大宮さんは十八歳未満で女子校生です。青少年保護育成条例とかもあるので、僕と交際はできないでしょう。僕が逮捕されてしまいます」
 条令の話を出されると楓としても辛い。
 だが、『転移』という現象による一時的な勘違いと自分の気持ちを判断された事は許せなかった。
「……解りました。――旭さん、あまり私の負けず嫌いと頑固さ、そして乙女心を舐めないでくださいね。……では、今日はおやすみなさい」
「はい、おやすみなさい」
 旭にぺこりと挨拶をして、楓は病室に戻っていった。
 旭は寂しげな瞳で一度天を仰いだ後、再びパソコンに向かって作業に戻った――。
 そうして、楓が負けん気を発揮しつつも旭とのリハビリを開始して七週間が経過した頃。
 遂にジョギングペースではなく、インターバル的な緩急を付けて走る事になった。
 病院の敷地内で、車や人通りもあるからさほどスピードを出せないとはいえ、軽いジョギングというペースではない。
 まずはジョギングを五分。ランニングという速度で十分。そしてジョギングを五分。この繰り返しで合計四十分間走るというものだ。
「旭さん、私についてこれるんですか? 女子校生と付き合えないおじさんのくせに」
「おじさんでも、昔は野球部でしたからね。多分いけますよ」
「野球やってたんですか、え。ポジショ――」
「スタート」
「ちょっ、フライングはずるいです!」
 楓を横目に見ながら、軽く笑って先にジョギングを始めた旭を追いかけ――楓の身体負荷テストが始まった。
「……旭さん、なんでそんなに体力があるんですか?」
 走り終わった頃、二人息を切らしながらベンチに腰掛けていた。
「理学療法士は、病院の土方と言われるぐらい体力が要求されますからね。それでも、さすがは世界陸上U―二十金メダリストです。入院で体力が落ちているのに、ついていくので精一杯でしたよ」
「付いてこられる事が異常なんですよ……」
「それで、久しぶりに外で息が切れるぐらい走った気分はどうですか?」
「――最ッ高でした! もう、めちゃめちゃ気持ちいい! 秋風が頬を撫でて行く寒さ、次々に変わってく景色っ。本当、夢を見ている気持ちですよ」
「現実ですよ。大宮さんが辛さに負けて諦めず、努力を積み重ねた結果です」
「……旭さん。私、正直言って、最初は諦めてたんです。どうせ、リハビリしても良くならないだろうって。なら、奇人と言われる人のところへ行ってみたかった」
「そう、ですか」
「でも、この人となら何とかなるかもって思えたんです。旭さんが私の為に頑張ってくれてるから、私も負けないようにって根性を出して」
「……私は、根性論や精神論が大嫌いです。そういった方々は人類が積み上げてきた科学の進歩を見ない、視野が狭まっている傾向にあるからです。……ですが、科学に基づいた努力は必要です。そして、時に精神は肉体を凌駕する力を発揮する。そういった事象もあります」
「確かに……。練習で全力を出したつもりだったのに、大会で競いあう相手がいると、ベストタイムが更新されたりしますね」
「そう、その通りです。科学的にみて良くなる可能性は高かったです。しかし、確実なんてこの世にはありません。今回、大宮さんは長く先の見えない病に打ち克つという気持ちを維持してくださった。それが、今の姿につながったのでしょう。予測以上でした」
「旭さん……」
 楓は瞳をうるませた。心から感謝の念を抱くとともに、堅物で全てを想定してそうな男に『予測以上』と言わせたことを誇りに思った。
「その様子だと、どこか不調を感じたりもなさそうですね」
「……全然ないです。本当に私は、脳梗塞で足が動かなかったのかなって。忘れそうなぐらい」
「そうですか」
 旭は、心から嬉しそうに笑ってベンチから立ち上がり――。
「血圧変動も、問題はありませんでした。――もう、病院で僕ができるリハビリはありません」
 秋の高く澄み渡った空を見上げながら、旭はそう口にした。
 一瞬、意味が分からず楓は固まる。
 旭は満面の笑みを浮かべて楓の方を向き、右手を差し出して――。
「目標達成、おめでとうございます。――退院日を調整しましょう」
 握手を求めてくる旭の手を握りながら、楓は――表情を歪めた。
 走れた。夢にまで見た目標を達成出来た喜びと――旭と別れる退院が来るという事実。
 感情がごちゃ混ぜになりながら、反射的に手を握ってしまった――。
 その数時間後、旭からの情報で担当医師や看護師、担当リハビリ職。そして医療相談員が軒下カンファレンスを行い、家族にも相談して退院日を正式決定する事となった。
 医療相談員はすぐに家族へ連絡を行い、土曜日に退院と最後の注意事項を説明する事となった。
 当事者である楓は、病室でぼんやりとしていた。
 連絡を受けた母や、おそらく母から連絡がいった渚達からスマホへメッセージがとんでくるが――見る気になれない。
 いざ退院が決まると、なんだか現実味がない。何より――。
(退院したら……もう朝に旭さんが来ることも無くなるんだ。一緒に、二時間リハビリでしごかれることも、無くなっちゃうんだ)
 頭の中では、元の日常に戻るだけだと解っている。
 でも、今の日常が無くなる。
 たった七週間ちょっとだが、楓にとってはもう当たり前の習慣になっていたことが失われる。
 心の中は、空虚だった。
 そうして、あっという間に土曜日がやってきた。
 楓と母は、荷物を纏めてから医療相談員に面談室へと案内された。
 担当医師や看護師、そして旭が先に待っており――医療相談員が着座を促した。
「それでは、退院に向けての注意事項や入院中の経過をご説明させていただきます。まずは先生から御願いします」
「はい。入院中の経過は非常に良好でした。ただ、今後も再発リスクというのはあると思います。特に陸上競技を続けるとなると余計にですね。少なくとも、血栓ができにくくなるお薬の方は飲み続ける必要があるでしょう。なので、退院後には定期的に脳神経内科のある病院へ通院してください。診療情報提供書を書いて、退院セットの中に入れておきました。そちらを受診時にお渡しください。私からは以上です」
 医師の説明が終わると、対面に座る楓と母親は「ありがとうございました」と頭を下げた。
 その後、看護師からも入院中の経過や今後の注意点などの説明があり、そしていよいよ旭から注意事項説明や経過を説明する番となった。
「まずはご退院、おめでとうございます。経過としましては、入院当初あった左足首の運動麻痺は現在、ほぼ認めない状態です。評価バッテリーで検査をしても、右足とほぼ同様の動きをしています。ですが、今後走るとなると疲労に応じて動きが悪くなる可能性はあります。また、競技復帰となるといきなり元通り部活で走るだけの体力は戻っていないかと思います。その点は、大宮さんご本人も不安に感じていらっしゃるのではないでしょうか?」
 楓は話を振られて、反射的に頷く。
「私が入院している間にも、みんなは練習していました。みんな、前より速くなったと言っていて、焦る気持ちがあります。……ですが正直、前のような練習についていける気は、まだしません」
 その言葉に、旭も真剣な目で頷いた。
「そこで、復帰プログラムを文書にして書かせていただきました。私はアスレチックトレーナーの資格も持っていますし、埼玉大学病院のスポーツドクターとも相談して作成しました。顧問の先生も、脳梗塞後の選手復帰プログラムは解らないかと思います。顧問の先生が嫌がらなければ、参考程度にでも読んで頂けるよう渡して頂けると幸いです」
 旭が理学療法士だけでなく、アスレチックトレーナーの資格を持っているなんて初耳だった。それなら、いっそうちの高校にコーチとして来て欲しい。そう我が儘を言いたかったが、楓は我慢した。
「本当に、何から何まで保坂先生、ありがとうございます」
「旭さん、ありがとうございます」
「いえ、私は先生なんて言われる立場ではありません。あと、重ね重ねお節介かとは存じますが水分補給のタイミングと量もここに書いておきましたので。もう二度と水分不足で病気を繰り返すことがないように。まさかとは思いますが、休憩時間に水を一気に飲むなど決してなさらなぬよう。万が一、練習前後で体重が二キログラム近く減っているようならそれは――」
 旭がまたしても長々と語り出した所で、医療相談員がわざとらしく咳払いをした。
 書いてあるなら長引かせるなという意思表示だろう。旭も、語り癖が出たと、小さく頭を下げる。
「失礼しました。本当にありがとうございました。これからのご活躍とご健康を影ながらお祈りしています」 
 お互いに御礼を言って頭を下げ合う。
(ああ、やっぱり……好きだな。本当なら、退院したら関係ないだろうに。わざわざ埼玉大学病院の医師にも連絡をとってくれて。お節介な程に患者さん想いなこの人が――私は、どうしようもなく好きだ)
 そうして最後の面談も終わり、大量の荷物を持ってエレベーターに乗る。
 エレベーター前には担当スタッフが見送りに来てくれている。
(いよいよ、これで退院。もう、この病棟とはお別れなのか)
「お元気で」
「活躍、お祈りしてますね!」
エレベータ―のドアが閉まっていく。手を振る医療相談員や看護師達と一緒に、笑みを浮かべる旭の姿もあったが――ドアが閉まって、見えなくなった。
「ぁ……ぁあ……っ」
「楓、寂しいのは解るけど、退院おめでとう。今日は美味しいご飯、食べに行こうね」
「お母さん、私……っ。私……っ。旭さんの事が……っ」
 その先は口にしてはいけないと楓は解っていた。
 口にすれば、母に余計な心配をかけてしまうから。
 車に乗るまでの間。荷物を持っていない方の手で、母は優しく楓の頭を撫で続けた。
 こうして、楓の合計九週間近くに及ぶ入院生活は終わった――。