二章

 時刻はまだ十三時前。
 入院患者は食事中であり、合わせて休憩をとっているためリハビリ室には誰もいない。普段は筋トレなどの声かけが飛び交う賑やかなグランドのような場所も、今は奥まで見晴らせて物静かになっている。
 そんなリハビリ室前の廊下スペースで、保坂旭はパソコンをイジっていた。誰も居ないからこそ、一人作業するスタッフの存在は良く目立ち、検査機器の配置など慣れている姿が良く見える。物事をテキパキと迷い無くこなす姿は、初めての検査の緊張や不安を少しだけ和らげた。保坂の準備姿を椅子に座って見つめていた楓は、少しだけ麻痺の影響によって些細な事で勝手に筋肉が硬くなりやすい左足や肩が軽くなって行くのを感じる。頼もしいなとすら思う。
「大宮さん、センサーの装着はできましたか?」
 たっぷり五メートルほど先でパソコンを弄っていた保坂が準備を終え、楓の方へゆっくり歩いてくる。楓はというと、ハッとしたように保坂に言われていた指示を思い出して腰に巻いたベルトが緩んでいないか確認した。
「た、多分。このベルト、これで付け方あってるんですか?」
 検査機器であるセンサー付きベルトは、通常のベルトのようにズボンに通すものではない。
 第三から第四腰椎の辺りにセンサーがくるように装着しなければならず、センサー本体は背後にあるため楓からは見えない。
「……ちょっと確認しますが、身体を触ったからって白髪を抜いたりしないですか?」
「抜くって言ったらどうします?」
「それでも測定に必要な事なので、やります」
「じゃあ変わらないじゃないですか。どうぞ、気が晴れたので、もうしませんから」
「……失礼します」
 そう言って、保坂はセンサーの位置を確認する。センサーはヤコビー線という、左右の骨盤の最も高い位置を結んだ場所にある腰椎を基準に探す。
 骨盤を触られた事に最初は楓もビクリとしたものの、保坂の触り方には下心が一切ないのは解った。それでも反射的に動くのは止められない。どちらかというと、保坂の指が背骨を辿っていく方がくすぐったかった。
「ちょっと位置を修正しました。それでは、パソコンで測定を始めます。僕がスタートと言ったら、あの線まで歩きやすい速度で歩いてから、元の線まで戻ってきてください。一応、転ばないように最初は横につかせていただきます」
 十メートルちょっと先の床に赤いテープで貼られた線を指さしながら、保坂が説明した。
「わかりました」
 その返事を聞いた保坂は小走りにパソコンを操作し、楓の左横についた。麻痺している左足が引っかかった時、転びやすいのは左側の為だ。
 体勢を崩した時に転ばない位置につき、保坂は「スタート」と合図をだした。
(歩きやすい速度って、意外と考えるのが難しい。……やっぱり左足がひっかかって時間がかかる)
 そうして自分の身体がやはり障害を受けているという事実に顔を顰めながら楓は帰ってきた。
「お疲れ様でした。次はこの椅子に座ってお待ちください」
 椅子を用意して座らせると、保坂はパソコンの操作に戻る。無事にデータは取れていたようで、一度頷いてから再度計測する準備に入った。
 保坂は小さなカラーコーンを楓の三メートルぐらい先に置いて、楓の元へ戻ってきた。
「次は、僕が合図したら立ち上がってなるべく早く歩いてください。あのカラーコーンを回ってこの椅子にまた座るまでのタイムを見ます。右回りと左回り二回ずつ計測しますが、まず最初の一回は練習です。――どうぞ」
 言われるがまま、楓はなるべく早く椅子から立ち上がり、戻ってくる。
「感覚は掴めましたか?」
「はい、大丈夫です」
「では、本番にいきましょう」
 パソコンを操作してから、保坂は首に提げていたストップウォッチを片手に持つ。
(タイムを計られるの……久しぶり。しかも、走るんじゃなくて歩くなんて)
 陸上で走っていた頃のタイムトライを懐かしみ、そしてやや自虐的な笑みを浮かべた。
「では、スタートです」
「――……ぁっ……っ」
 早足で左足の爪先が床に引っかかり、転びそうになった楓の脇を持って保坂が支えた。
「大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫です!」
(これはリハビリに必要な事! 胸にちょっと触れたとか、気にしない!……でも、保坂さんが気にしてないのはちょっと腹立つ)
 転びかけて支えるのは予想の範疇だったのか、保坂はただ真剣な表情をしていた。
 男性に脇に手を入れられたのも初めて、胸にも少し手が当たったはずなのに。それなのに、ただ一心に理学療法の事しか考えていないのが真剣な表情と眼差しから伝わってくる。
 それが、多感な年頃である楓からするとやはり不満だった。
(別に女として見てって訳じゃないけど……っ。むしろ、そう見られたら困るんだけど、もうっ!)
 次は絶対転ばないと決意しながら、合計四回の測定を終えた――。
「――お疲れ様でした。ちょっと椅子に座ってお待ちください」
「……はい」
 むすっとした表情で、楓は返事をする。保坂はパソコンを弄った後、小走りにリハビリ室の方へ駆けていった。そして奥の小部屋に姿を消していく。
 保坂が消えていった扉には『リハビリテーション科スタッフルーム』と書かれていた。
「――お待たせしました」
 三枚の紙を持った保坂が戻ってきた。
「その紙はなんですか?」
「これは今、大宮さんに歩いて頂いた内容がデータ化され印刷されています。これを見てください。十メートル歩いた時ですが、やはり左脚で立つ時間、特に蹴り出しまでの時間が右脚で立っている時と比べて少ないです。また、重心の移動距離も左右非対称性があります。推進力という面でも左脚で立っている時は右に比べて少ないです」
「……要は、左脚が悪いってことですよね。そんなの最初から解っていたじゃないですか」
「左脚が悪いとは解っていても、実際に動くとき、何処でどういう風にどれぐらい悪いのか。それを客観的に目で見えるようにするのが大事なんです。――パソコンに残っているこの動画を見てください」
「……変な動きですね。自分じゃないみたいです」
「この左脚の蹴り出し不足に関しては、筋力や神経だけの問題だけではありません。股関節をそもそも伸ばしていない、庇うような歩き方がもう染みこみつつあるんです。そういった動作を取らざるを得ない原因と思われる、左脚の爪先が引っかかってしまう事に関しても重点的にアプローチしていく事が改めて大切と解りました。――それを踏まえて、リハビリのプログラムを組んでいきます」
「……よろしく御願いします」
 楓にはよく分からなかったが、渡された紙と動画にある歩く自分。
 その自分とは思えない姿が目に焼き付いて離れなかった。
「もうすぐ十三時なので、このままリハビリを始められる時間ですが、夕方にしますか? それとも今からもうリハビリをしますか?」
「え、もうリハビリできるんですか?」
 楓は、多少の驚きを隠すことなく訝しむ声をあげ質問に思わず質問で返してしまい、あっと表情を整え小さく頭を下げる。だが、保坂の提案は本当に意外だったのだ。
 まだ入院手続きを終えてから何時間も経っていない。転院当日はリハビリはないかもしれないと埼玉大学病院で谷口相談員から事前に説明をうけていた。
 入院手続きだけでなく、様々な検査結果を医師が検討しリハビリ処方箋を書く。どんなリハビリをどれぐらいやるかは、多忙な医師の都合もあり当日は書けない可能性もある。リハビリはあっても入院時検査ぐらいだろうと説明されていたのだ。だが保坂は、
「はい。医師からリハビリ処方はもう頂いてますから」
 まるで当然の事のように表情一つ変えず言った。動揺を見せてしまった楓とは違う。その態度が、負けず嫌いの楓からすると少し悔しかった。
「……じゃあ、このまま」
「体力は大丈夫ですか?」
「私、これでも長距離専門でしたから。全く問題ありません」
「わかりました。では、あちらのリハビリ用のベッド――プラットフォームという所にどうぞ」
 楓をプラットフォームへ案内した保坂は、楓を仰向けに休ませた。
 休んでいる間に道具の片付けなどを手早く済まし、また新たなリハビリ器具を取り出す。
 その頃になって、ようやくスタッフルームから他のリハビリスタッフも出てきてリハビリを行う患者を迎えに出て行く。
「大宮さん、これは低周波機器と言います。これに触れると電気が流れて、筋肉が収縮します。もし痛かったら言ってください。狙った筋肉が最も正しく働く場所に端子を貼る必要があるので、何度か探します」
「い、痛いんですか? わ、わかりました」
「では、いきますね」
 機械が脛辺りの筋肉に触れると、勝手に筋肉に力が入って足首が動いた。別に思っていたような痛みはない。もうこの頃になると、楓は生足を触られることも気にならなくなってきていたが――。
「見つけました。マークしますね」
「は?」
 油性と書かれたペンで、容赦なく地肌にマークを書いてくるのはちょっとどうかと思った。
「今、油性ペンで書きました!?」
「消えると困るので。――あ、マークすることを先にお伝えしていなかったですね。失礼しました」
「……この奇人、本当にもう。保坂さんって、絶対に女心わからないって言われるでしょ?」
「よく言われます。……続けてもよろしいですか?」
「……どうぞ」
 不承不承ながらも、自分の脚にマークを付けられることを了承した。先に言って欲しかったという気持ちと、言われてても多分、自分は同じような反応をした気がすると思った。
「――終わりました。では、足首の動きをよくする為の運動療法を始めましょう。この電気が流れたら、僕がこのように足の背側を下方向へタップしますので、このように足首を上に上げてきてください」
 仰向けに寝る楓の横に座り、保坂は自分の太股の上に楓の脚を載せた。
 そして右腕は楓の膝が動かないように固定させ脛の筋肉を触知しつつ足首が上がるのに合わせて、擦ってくる。左手は楓の足の骨を持ってリズミカルに下へ押すタップ刺激を入れてくる。
「こうですか?」
「そうです、上手い。――では、電気刺激と合わせながら百回行きましょう」
「――え?」
(合計百回?)
 そうして真剣な表情の保坂と、神経を研ぎ済ませる二人の運動が始まった――。
「お疲れ様でした」
「お、お疲れ様でした……」
 百回やる頃には、楓は疲れてきていた。
 ただ足首を百回、合図に合わせて動かすだけにも関わらず、随分と疲れた。
(動きにくい足首だったから、すっごい重く感じた……)
「では、次は平行棒の中で蹴り出しの練習に移りましょう」
「……はい。――え?」
 電極を外して、平行棒の方へ案内する保坂に何気なくついていって歩くと――。
「爪先、引っかからない……! なんで!?」
 楓は思わず昂ぶった声で言ってしまった。戸惑いの表情から、目頭が熱くなりつつ笑顔になる。
(動く、私の足……!)
 そんな涙目で笑顔を浮かべ喜ぶ楓とは対照的に、保坂は冷静だ。
「まだ蹴り出しの問題が改善されていません。平行棒へどうぞ」
 相も変わらず真面目な表情を崩さず、冷静に言った。
(もうちょっと感動に浸らせてくれてもいいのに)
 そんな不満を持ちつつも、平行棒内に入って立つ楓の前に保坂も立った。
 目が合うと、ちょっと気恥ずかしい程に近い距離感だ。
「では、そのまま右足を少し大きめに一歩前に出して。そう、ストップ。これが歩いてる時、左脚で蹴り出すときの姿勢です。ここから僕が左の骨盤をグッと押します。そうしたら押し返してきてください」
「……もう、当たり前のように骨盤触ってくるんですね」
 身体が抱き合う程に近い距離で、骨盤を前から触られるとさすがに楓も照れくさい。
 保坂は慣れているから気にしてなかったが、年頃の楓は、照れくさかった。
「……確かに、男が女性にだと嫌に感じますよね。気が付かず失礼しました。大宮さんの担当、女性に変えてもらいましょうか?」
 保坂は無念そうに、だが仕方が無いかと脱力して言った。
 その言葉に、楓はブンブンと首を振った。
「いえ、保坂さんのままで! 恥ずかしいですけど、保坂さんのリハビリだと良くなる気がするんです! 今までのリハビリでは全く変化無かったのが、さっきのでちょっと変化して!……少し恥ずかしがって出た言葉に、そんな真面目な顔で反応しないでくださいよ」
 楓が照れくさそうに、拗ねたように言う。
 思ったよりも大きな声が出てしまった。周囲の視線を集めていて、余計に楓は恥ずかしくなる。
「セクハラとか訴えられて停職――あるいは理学療法士免許取り消しになったら、たまりませんから」
「訴えませんよ! いいから、やりましょう!」
「では行きますよ。まずは十回で血圧変化の様子を見ます」
「はい!」
 幸い血圧が上がり過ぎたり、下がったりする事もなかった。結局、合計で五十回ほどやった。
 休憩を挟みながらとは言え、楓はちょっと息があがっていた。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫です!」
 楓は持ち前の負けず嫌いさで即座に反応した。
 この辺りが体育会系育ちだよなぁとは楓自身も思う。
「では、今日のリハビリの効果判定をします。病棟内を一往復歩きやすい速度で歩いてみて、主観的な変化を教えてください。僕は横から見てて口出しをしませんので」
 今日のリハビリの成果を確認するというような言葉だ。
 楓は、旭の言葉に埼玉大学病院のリハビリ前後で自分の歩きに変化を感じられなかった事を思い出し、表情を暗くする。
 楓は、ごくりと息を飲んで椅子から立ち上がり一歩一歩噛み締めるように意識と視線を足へ集中して、おそるおそる歩き始めた。
 だが保坂が横につき、同じ歩幅、同じペースで歩いてくれているのを見て徐々に心が軽くなり――。
「――軽いです! 元通りとは行かないけど、今までより全然動きやすいし、足が引っかからない!」
 楓は、リハビリで変化があり病気になっていなかった頃に近づいていると感じ声帯が裏返ったように上ずる大声で言う。静かな療養が求められる病棟内の廊下にも関わらずだ。
 保坂が促した椅子に座って興奮に弾む息を整える。
 そしてぐしゃぐしゃに歪み潤んだ瞳で斜め前にしゃがんだ保坂へと視線を向けた。
 その様子を見ていた保坂は何度も頷く。相変わらず真顔のままで。
「確かに、こっそり計ってましたけど、十メートル歩く速度もやる前より全然早くなってますね。僕から見ていても、動きが良くなっていました」
「――え、勝手に計ってたんですか!? そういうのって盗撮……盗聴、でもないし、あれ?」
「盗録とでも言っておきますか?」
「からかうの止めて下さい!」
「すいません。……でも、効果が出て良かった」
 安堵したように小さな声で保坂が言った。
 その時、リハビリを始めてから保坂が初めて笑顔を浮かべた。
 ロボットのようだと思っていた人間の胸中を知れた。
 本当は保坂も不安で、必死だったのだと楓は悟った。
(この人、不器用だな。ずっとそうやって笑ってれば……ってのはさすがにキモいか)
「でも、まだ安心はできません。即時効果が出ていても、それが持続するかが大切です。まだ初日でそこは解りませんから。今後、一週間ごとに再検査して効果判定をしっかりしていきましょう。ちょっと休憩してお待ちください」
 楓が椅子に座って休憩している間に、保坂は「道具を持ってくる」と小走りでリハビリ室へ戻っていった。小走りで去って行く保坂の背を見ながら、楓は――。
(また、ああやって私も走れるのかな……)
 いつの間にか諦めていた再び走るという願い。
 諦めようとしていた期待を、希望を再び抱きながら保坂の走る姿を見つめていた。
「――お待たせしました。さっき使った電気刺激の機械を貸すので、自主トレでこれをつけてみてください。やり方はまた書面でも説明しますが、自主トレの場合はモードをこれに設定して、電極をさっきペンでマークをつけた位置に。慣れてきたら三分の快適な歩行と三分間の大股歩行を交互に、随意的――意識して切り替えながら病棟内を歩いて見てください。正しい動きが出なくなったら、絶対に練習を中止して報告してください。それが正しい運動学習に繋がります。根性と気合いで変な動きを続ければ誤った学習をしてしまいます。あと、歩く以外にも――」
「ちょ、ちょっと待って下さい!」
「……どうしたんですか?」
「これ、私が借りてもいいんですか? みんな使いたいんじゃ……」
 本当は欲しい。喉から手が出るほどに。だが、さすがの楓もそこまで自分勝手にはなれない。良くなりたいのは自分だけじゃないのに、独占しておくのは気が引けた。
「これは僕が個人的に買ったものだから問題ないです。それに、合計三台ありますから」
「個人的に!? こ、こういう医療器具ってお値段高いんじゃ……。それとも、意外に私のお小遣いでも買えたりとか?」
 それなら、自分で購入してもいい。そう思って楓は聞いてみたが――。
「一台の値段はまぁ、僕の月給より高いですよ? 大宮さんのお小遣いはもしかして、僕の月給以上のセレブなんですか?」
「月給……っ。いや、間違いなく無理です!」
 理学療法士の月給がどれぐらいかは解らない。
 だが、どう考えても社会人の月給に、高校生の楓のお小遣いを貯金した額じゃ足りないという事は解った。自分では手が出せない高価な物なのだと。
「まぁ、そもそも病院や企業か、業者に特別繋がりがある医療従事者じゃないと買えないですけどね」
「なら最初からそう言ってくださいよ! 私をからかって楽しんでませんか!?」
「すみません。白髪一本分の仕返しと思ってください」
 からかう保坂に、楓は笑いながら文句を言う。
 百面相のように表情が変わるなんて、ほんの少し前の自分なら考えられない事だと思った。
「……でも、そんな高価な物を借りて本当にいいんですか? 私、壊れても弁償できないですよ」
「そんな事は気にしなくてもいいんですよ。物は壊れても、修理できるし買い替えることもできます。でも、あなたの身体は一生変える事ができない。むしろ正しく使って使命を全うした結果、壊すぐらい使用されることを願います。良くなるお姿を僕に見せる事がレンタル料だと思ってください」
 この人はずるい。
 からかうような事を言ってきたと思えば、大事な事は真顔で見つめながら言ってくるなんて。
 楓は感謝と同時に、複雑な感情を抱いた。
 この人には、親友である渚のように心を開ける気がする。そんな直感も同時に。
「……大宮さんって呼び方、なんか距離を感じますよね。私の事は、楓で良いですよ?」
「そうですか。そこまで気を許していただき、ありがとうございます。僕の事は保坂でも旭でも良いですよ、大宮さん」
「……旭さん、私の言ってた事を聞いてました?」
「ええ、聞いてはいましたよ大宮さん。ただ、医療従事者は決して患者さんのお友達という訳ではありませんから。適切な距離感を保ちますよ。大宮さん」
「……旭さん、マジで性格悪い」
「何を言ってるんですか。性格が悪くなければ、キツいリハビリを毎日一時間も提供できませんよ」
 それは確かにと楓は強く思った。
 その日楓は、旭とのリハビリを終えて自室へ戻ると後ろ向きな事しかするされていない日記帳に、こう記した。
 『保坂旭という名前の、爽やかで常軌を逸する熱心さを持つ三十一歳の奇人理学療法士と出会った。セクハラ、パワハラ、モラハラされた。悔しい。――それと、また走れるかもって希望と笑顔を貰った。嬉しい』と――。
     2
 その夜、楓はスマホで母親や渚とメッセージのやり取りをしていた。
 楓の母親は入院手続きの後、結局午後から出勤しなければならなかった。埼玉大学リハビテーションセンターから自宅までは自家用車で三十分程度の距離。ここの所、楓の入院関係で有給休暇をかなり使用していたが、同僚の一人が急病になり人手が足り無かったらしい。
 それでも、夜に愚痴混じりで楓が今日の出来事を送ったメッセージには丁寧に送り返してくれた。『効果が出て本当に良かった。リハビリの動画とかも調べて見たけど、触られるのはある程度仕方ないみたい。でも、いやらしい事をされたら直ぐに言ってね』と。
 渚は『それセクハラだし、絶対に担当変更して貰ったほうがいい! 今度、リハビリ見学に行って絶対エロオヤジに文句いってやる!』とかなりキレ気味だった。
 やはり年頃の女の子と親世代だと、同じ事実を告げても反応が違う。
「キレる渚を落ち着かせる方が大変とか。……絶対、渚はリハビリの時間に面会来ないようにしなきゃなぁ」
 とはいえ、落ち着かせて最後には『光が見えて良かったな。また一緒に走れる日を待ってるから』と言ってくれた。
「また、渚と一緒に走るかぁ……。出来たら、夢のようだなぁ。――夢、見て良いのかな……?」
 以前の埼玉大学病院では土日のリハビリはほぼ無かった。しかし、ここの埼玉大学リハビリテーションセンターは三百六十五日、土日関係なく一日三時間のリハビリを行うと楓は説明された。
「休み無しで集中的にリハビリって、本当凄い。……毎日、旭さんのリハビリを二回受けるとか。私の身体持つかな?」
 長距離選手で体力がある楓でも、弱点ばかりを的確に突いてくる旭のリハビリはキツかった。
 しかも限界のギリギリまで的確に追い込んでくるから更にたちが悪い。
「……絶対、旭さんはドSだ」
 思い出しながら思わず膨れ顔をしてしまう。だが、悪い気はしない。あの後、夕方に岩原科長のリハビリもあった。一時間みっちりとリハビリを行ってはくれたが、やはり内容としては物足りない。
 マッサージに筋トレ、階段の上り下りに傾斜や障害物のある屋外を歩くという内容だった。
 体力はついていくとは思う。だが、旭とリハビリした直後のように明らかに良くなったと実感はしない。
 勿論、即時効果が持続するかはまだ解らないと旭が行っていたように、長期的に見れば岩原科長のリハビリの方が正しいのかもしれない。だが、「うん、歩けています。もう大丈夫そうですね」と岩原科長が言った一言は少し不満だった。
 楓としては大丈夫じゃないと思っているし、目指しているのは走って選手復帰するまでだ。
 目指している状態と現在の状態は大きく乖離している。それなのに「もう大丈夫そうですね」と言われると、楓としては「大丈夫じゃないです!」と言い返したくなってしまう。多くの患者を診ていた自分の基準や目標で纏めるな。貴方にとっては大丈夫かもしれないが私にとっては全く大丈夫じゃない、走れない事は絶望なんだ。そう憤りを感じる。
 いくら気が強いと周囲から言われる楓でも、さすがにそれは言わなかったが。
 その後は旭から言われたように高価な電気刺激装置を使いながら、ひたすら歩き続けた。
 言われた通り、疲労で動きが悪くなりかける直前まで。
「本当に、走れるようになるのかな。……駄目だ、不安で眠れない」
 病棟の消灯時間は二十一時だ。早いが、今までは問題なく眠れた。むしろ、気力もなくて眠る事しかなかった。
 だが、『もしかしたらまた走れるように戻るかもしれない』と希望を持った事で、かえって不安になり眠れなくなってしまった。
 希望を持ってしまったが故に不安も生まれた。諦めていれば、無味乾燥に生きられた。
 どちらを望むかと言えば断然今の状況だが、考え出すと眠れないものは仕方ない。
 楓は動画サイトに投稿されている自分の大会の動画画面を開いて見た。
 おそるおそる再生ボタンを押す。
「……っ。う……ぁあっ」
 スタートを切って、スマートに先頭集団とポジション争いをしている所で我慢できなくなった。
「駄目だ……っ。もう元に戻れないかもって、考えると動悸がする……っ」
 元の走りを見て、そして旭が動画で撮ってくれた病棟で歩いている動画を思い出して。
 脳内で比較した時、あまりの違いに精神が持たなくなった。
 楓は自分の脈が、レース直後のように速くなっていることを感じる。吐き気すら感じる。
 もう、自分の走っている動画を見るのは止めよう。そう心に誓った。
 時刻が〇時になっても、眠れない。巡回にきてくれた夜勤の看護師が「不安で眠れないのは仕方ないですよね。眠剤、先生に相談しましょうか?」と言ってくれた。だが、なるべく薬の力には頼りたくなかった。唯でさえ、血の塊が出来にくくする薬を今後、飲み続ける事になるだろうと言われて辟易しているのに。
 代わりに「ちょっと気分転換に病棟の中を散歩してもいいですか?」と聞くと、「大きな音を立てなければ大丈夫ですよ」と言ってくれた。
 その好意もあり、楓は電気刺激の機械を装着して病棟内を歩く。機械による力かもしれないが、左足の爪先が引っかかる事もない。割と自然に近い歩きが出来ていたように感じる。
 そうして病棟内を歩くうちにリハビリ室の前を通る。
「……あれ?」
 真っ暗なリハビリスペース。
 その奥が少し明るい。小さな電気でもつけているのだろうか。だが、その明るさは本当に僅かだ。
 病棟を照らす足下灯より弱々しく儚い光。
 やっぱり消えているのかもと思いまがう程に僅かな電気の灯りが見える。
 リハビリテーション科のスタッフルームだ。
「スタッフルームって、深夜も電気を消さないのかな?」
 興味本位で真っ暗なリハビリ室を突っ切り、奥にあるスタッフルームの前に辿り着く。
 すると、キーボードをタイピングするような音が聞こえた。
「深夜0時に、まだ誰かいるの……?」
 当然のことながら、リハビリに夜勤は無いはずだ。好奇心旺盛で、ちょっと抑えが効かないところがある楓はそっとスタッフルームの扉を開いて中を確認する。すると――。
(旭……さん?)
 薄暗いスタッフルームの中、一人でパソコンに向かって作業する保坂旭がいた。
 夜闇に灯る僅かな明るさは、暗い部屋の中で灯るパソコンディスプレイの照明だったようだ。
 楓は一瞬、声をかけようかと思ったが――。
(なんで、そんな追い詰められたような……鬼気迫る表情で作業をしてるの?)
 横顔しか見えない。だが、旭の横顔は酷く真剣で――気迫が伝わってくる。
 尋常じゃない程に集中しているのがよく分かった。楓自身も大会の中、所謂ゾーン状態に入って集中し、周囲の声が聞こえなくなる時がある。動画で見たその時の自分と、同じような雰囲気をしている。いや、もしかしたらそれ以上に集中しているかもしれない。
 何かに取り憑かれているかのように真剣に打ち込む姿。
 その姿を見て、声をかけて邪魔をしてもいいとはとても思えなかった。
 しかも、音声を消しているようだから最初は気が付かなかったが――旭の横に立てかけてあるスマホには、動画が流れている。
 それは見間違いようもない。ユニフォームを着ている楓自身が走っている動画。
 世界陸上Uー二十の動画だ。
 再生速度をギリギリまで落として、時折その動画に視線を向けては何かをタイピングしている。
 今は自分の走っている動画なんて見たくない。それに、邪魔できる雰囲気ではない。
 そう考えた楓はそのままそっと戸を閉めて、ナースステーションまで歩いて行く。
 ナースコール対応の為に残っていた二人ほどの看護師と介護士が、楓に気付いて声をかけてくれた。
「あら、眠れないんですか?」
「いえ……。まぁそれもそうなんですけど、ちょっと聞きたい事があって」
「どうしました?」
「旭さん……保坂さんって、なんでこの時間まで残ってるんですか?」
 保坂の名前が出たことで一瞬、二人の表情が引きつった。
 だが、質問的に自分達が保坂について知っている情報を教えて欲しいという内容で、保坂と会話をして欲しいというものではないと理解した。苦笑を浮かべた二人は顔を見合わせながら答える。
「研究とか勉強とか、色々やってるんじゃないかな? いつも電子カルテの計画書とか、深夜に更新した形跡があるから、仕事もしてるかもだけど」
「いつも? いつもこの時間まで残ってるんですか?」
「この時間までっていうか……」
「私、この間三時くらいに荷物持って階段を降りてく保坂さん見ましたよ」
「私はこの間、オムツ交換で回ってた時だから……四時近かったかな?」
 その言葉は楓にとっては衝撃的だった。
 社畜やブラック企業という言葉は聞いた事があるが、実在しているのを初めて見たからだ。
「その……。この病院はブラック企業なんですか?」
 楓の言葉に二人は吹き出して笑った。
「ストレートですねぇ。ブラックとは言えない、かな? 別に保坂さんも業務命令で残ってる訳じゃないですし。……まぁ、勝手に残ってるみたいな感じかな。勿論、残業せざるを得ない時はあるけど、正当な理由で申請すればちゃんと残業代も出ますしね」
「指定の研修会の時とかの業務なら確実に残業代出ますし、休みも取れますしね」
 つまり、保坂は自主的にやりたいことがあるから勝手に残っているという事だ。
 高木主任が言っていた言葉、『保坂は誰よりも勉強して働く』と言う言葉を真に理解した気がした。
「そう、なんですね。ありがとうございます」
「いいえ、早く寝なさいね」
「はい」
 そうして楓は自室に戻り、手早く電気機器を外して床につく。
(なんで……。そこまで出来るんだろう。その分だけお金が貰える訳でもないのに)
 理学療法士の仕事は、何も運動をやるように指示するだけではない。
 楓自身も一緒に体験しているから解るが、一緒に運動して、場合によっては患者以上に疲れる肉体労働だ。それに加えて頭脳もかなり必要とされる。自分は旭と一時間リハビリをしただけでへばっていたし、旭だって汗をかいていた。それを、朝から夕方までやっているのだ。疲れていないはずはない。
 だが、そんな熱心な旭と一緒にリハビリをできるなら、きっと良くなる。いや、良くなってみせる。その為には、明日に備えて体力を回復しなければ。
(私は、こんな所で終われない。あんな真剣に、深夜まで頑張ってくれてる人がついててくれてるんだから)
 元は、ただ走る事が大好きで始めた陸上競技だった。ただ適性が高かったというだけの理由で長距離走の選手を選んだ。
 だが、本格的に取り組めば取り組むほど魅力に取り憑かれていった。
 誰にも負けたくない。世界一になりたい。
 雨の中でも走り続けた。競技場の端が熱気で揺れて見えるような炎天下だろうと、風邪をひいて微熱があろうと走り続けてきた。
 ただ楽しいだけではなかった。
 大会で結果を残せば残すほど、追われる側になって。そうすると、一日何もせずに休むだけでも怖くなった。
 自分が怠惰に寝ているこの瞬間、ライバル達は走って追いかけてきている。陸上トラックで後ろから走ってくる選手にかけられるような重圧が常にあった。
 少しでも早くなろうと、タイムを縮めようと血の滲む努力を積み重ねてきた。
 辛い練習の日々。
 文字通り、苦しくてトイレで胃液や水を嘔吐してからがスタートというような練習量。
 食事も成長期の肉体と練習量に合わせてコーチが計算してくれて、大好きな甘いものを食べたくても食べられない日々。逆に食べたくなくても糖分不足で体重が減っていれば吐き気がする程に食べさせられる。
 疲れた肉体に無理やりねじ込む味つけもしていないようなパサパサの鳥肉も、水で流し込んで毎日のように食べ続けた。
 思春期の女の子だろうと関係ない。
 食事の内容や体重の増減もバストや足の長さも周囲に計測され、記録されてきた。
 走る上で歩幅や体重は走るフォームにも関わる重要な要素だからだ。
 煩わしく思い、周囲の期待なんか関係ないと逃げだそうと思ったこともある。
 でも――。
(この期待は、裏切りたくない。一緒に頑張ってくれている保坂さんの期待を、裏切りたくない)
 深夜だろうと関係なく、真剣に動画を見ている保坂の姿が再度目に浮かぶ。
 業務時間なんて関係なしに、善意でやってくれているのが嫌でも伝わってくる。自分だって、肉体労働の後で疲れているはずなのに。今は、私よりも疲れる事をしているはずなのに、私より頑張っている。
 偉そうに横から口を出すだけではない。
「私は……こんなところでは終わりたくない。夢半ばで、終わりたくない。戻りたい、競技場に戻りたいよ……っ」
 不安はいまだ渦のように脳内をぐるぐるめぐり続けている。
 だが、あの人とならば私は、また大好きな走りを取り戻せるかも知れない。
 楓はそう思いながら今日のリハビリを思い出すと、心がだんだんと楽になる。
 誰よりも熱心で、勉強してきたであろう奇人――保坂の事を考えていると、なんだか不安も取り除けていける気がして。
 楓は、いつのまにか頬を緩ませ意識を手放していた――。
『おはようございます、朝になりました。これから朝食を運びますので、皆様準備をしてお待ちください』
 ナースコールに繋がるスピーカー越しに耳元から流れた声で、楓は目を覚ました。
 時計を見れば、時刻は六時。
 病院は消灯時間も早いが、起床時間も早い。
 重い身体を起こし、楓は寝ぼけ眼のまま洗面台で髪を梳かすため移動した。
 女性としては短髪だとは言え、寝癖はつく。
「……あれ?」
 そう言えば、と気が付き足下に目をやり、一気に目が覚める。
 旭からもらった電気刺激の機械を着けていないのにも関わらず、左脚が引っかからずにここまで歩いてきていた。勿論、重さはあるのだが――昨日までと全然違う。
(良くなってる、間違いなく変わってる!)
 朝だというのに、思わず大きな声をあげて喜びそうになった。
 洗面台の鏡に映る自分は、声を出さないように口を手で押さえても隠しきれないほどに喜色満面であった。
 そうして薄い味の朝食を食べた後、七時過ぎ。
 朝のリハビリ開始時間が九時頃と考えるとまだ早いが、自主トレをしようと思い立つ。
 充電していた電気刺激の機械を装着し、病棟内を散歩する。
「おはようございます」
「あ、おはようございます」
 朝から下膳したり、歯磨きなどの補助に回っている看護師さんや介護士さんとすれ違い挨拶をする。そんな楓がリハビリ室の前に来ると、信じられない光景が目に入った。
「……は? まだ七時になったぐらいだよね?」
 リハビリ室には、十名以上のリハビリスタッフがいて――資料を手にホワイトボードを使って説明する人物の話を聞いていた。参加している者の中に高木主任もいたが、それよりも気になる人物が一人。
 そのホワイトボードの前に立つ人物こそ、昨夜もおそらく三時過ぎまで残っていたであろう旭であった。
「いやいや、なんでいんの? 絶対ブラック労働じゃんっ。あの人、いつ寝てんの? 本当に化け物!?」
 運動部の強化合宿で早朝から夜まで練習をしていたとしても、睡眠時間はキッチリと確保されていた。そう思うと、旭という人物は強化合宿のような事を、睡眠時間もまともにとらずにやっている事になる。普通に考えて三時まで残っていたとして、今は七時ぐらい。
 家がどれだけ離れているかは知らないが、三時間も寝られていれば良い方だろう。
 勿論、これが毎朝やっているのだとは限らないが――。とにかく、その労働形態は女子校生の楓からしたら衝撃的だった。
(私……社会人になりたくない)
 自分には無理だなと。負けず嫌いな楓でさえ負けを認めた――。
 数十分間ほど歩行速度を変容させながら歩いた後、自室に戻った。
 予定では、朝九時前にはその日の何時にリハビリに来るか担当が挨拶に来ることになっている為だ。
「――失礼します。大宮さん、おはようございます」
 ノックの後に入ってきたのは高木主任だった。
「おはようございます。……あの、高木さん朝の勉強会に出てましたよね?」
「ああ、はい。出てましたよ」
「あれって、毎日やってるんですか?」
「基本的には、ですね。でも、有志でこういう勉強がしたいって集まりだから。あんまり興味がない内容の時は出ない事もありますかね?」
「旭……さんも出てましたよね?」
「旭さん……?」
 その呼び名に軽く眉を寄せた高木主任だが、すぐに気を取り直して話を続けた。
「保坂も出てましたよ。……というか、勉強会の講師役が保坂ですから。科長にはあまり聞かれたくないですけど、あれってもっと勉強したいって若手が保坂に御願いした所から始まったんですよ。朝が苦手な人も多いから、夕方の業務後にもやってるんです」
「……あの人、いつ休んでるんですか?」
 その言葉に高木主任は苦笑する。
「よく聞かれるなぁ、それ。本人に聞いてみてもらっていいですか? 私もよく解らないから。あ、私のリハビリは十六時頃にお伺いしますね。入浴が安全に出来てるか、今日はちょっと入浴動作を見させてください。個室のお風呂は予約してありますので」
「あ……はい」
 この後も挨拶に回る必要があるのだろう。高木主任は足早に退室していった。
 数分後にまたノック音が聞こえてから「大宮さん、失礼します」と旭の声が聞こえてきた。
「大宮さん、おはようございます。今日のリハビリの時間をお伝えに」
「旭さん、その前に。昨日深夜まで残ってるの見たんですけど」
 早足で部屋に入ってきて楓の斜め下にしゃがみ込んで話す旭の言葉を、楓は遮った。
 この斜め下から話すというのは、人に威圧感を与えない為だったんだと楓は感じた。
 昨日、平行棒の中で目の前に立たれたときは、威圧感を覚えて話しづらかった。だが、今は非常に話しやすい。
「子供は早く寝ないと駄目ですよ」
「大人だって早く寝ないと駄目です! 朝には早くから勉強会の講師してましたし。いつも何時間ぐらい寝てるんですか?」
「ちゃんと寝てますよ」
 誤魔化すように、具体的な数字を旭は言わなかった。
「……そんな生活をしてたら、早死にしますよ?」
「知ってますよ。誰よりも」
 苦笑しながら軽くそう言う旭の言葉は、何故か楓の心に重々しく響いた。
 何か、その言葉に確信があるような。それでいて本人はもう、早死になど全く気にしていないかのように軽く言った。
 人に『身体は一生変える事ができない』から大事にしろと言っておきながら、自分の身体は全く大事にしていないような。矛盾する態度が楓にとっては気にくわない。
「知ってるんだったら少しは自分の身体も労ってください。患者に心配される医療従事者ってどうなんですか?」
「お互いに思いやる関係で素晴らしいなぁと思います」
 薄く笑いながらそういう旭に、楓は睨みながら「こっちは本気で心配して言ってるのに」と不満を述べた。
「では、また十一時にお伺いします。午後のリハビリ時間はその時に改めて伝えますね。失礼しました」
 旭とのリハビリは相変わらず厳しく、ギリギリまで追い込んでくる。
 それでも「様子を見ながら微調整はしますが、一週間はこのプログラムで効果を判定して、再検査での測定後にまた大きくプログラムが変わるかもしれない」と言われた。
 午後の旭とのリハビリは十四時からで、約一時間ほどの休憩をしてから高木主任とのリハビリが始まった。
 高木主任との入浴動作確認では、高木主任がドア一枚隔てた所で安全確認をしていて、終わったときに問題が無いかと尋ねてきた。そうして全て問題ない事が確認できた後、病棟側と調整して十七時から一時間なら個室の浴槽で毎日入浴していいとのことになった。
 楓にとって、毎日入浴出来るというのは本当に喜ばしい事だ。
 入院してから、入浴は大浴場で週に二回程度で、シャワーばかりだったからだ。
 しかも必ず看護師や介護士がついていて、一人でゆっくり入浴はできない。
 流れ作業のように次の人が待っていたから。それが浴槽につかれるうえ、毎日一時間ゆっくり風呂に入っていいというのは心から嬉しい事だった。
 旭との再測定までに何とか効果を出したいと思って、入浴後も自主トレをしていると、気が付けば時刻は十八時を回っていた。次々と職員が階段やエレベーターで退勤していく。
 そんな中、リハビリ室にいくと――やはりいた。
 旭がホワイトボードの前で講義をしていた。参加している人数は朝より多く、二十名ほど。
 見た事のない顔ぶれも多い。このフロア外で働くリハビリスタッフもいるようだ。
 しばらくそんな旭を見ていた楓だが――。
「楓。こんな所でどうしたの?」
「楓、久しぶり!」
「あ、お母さんに渚。来てくれたんだ」
「うん、面会時間終了まであと少しだけど……。お洗濯物も取りにね。渚ちゃんも会いたがってくれてたから、練習終わりに学校まで迎えにいったのよ」
「楓、練習場から救急車で運ばれてった以来だね。――無事でよかった。生きてて良かったよ……っ」
「渚……ありがとう。心配かけてごめんね」
「本当だよ、バカ!」
「バカは言い過ぎ」
「それで……セクハラ野郎の保坂って人はどこ?」
「いや、だからそれは冗談で愚痴を言っただけでさ。本当にリハビリに必要な事なんだってば」
「いいから! 楓は可愛いんだから、間違い起こさせないようにセクハラオヤジに牽制しとくんだよ!――ってか、ウチが文句言ってやりたいの!」
「まぁ……旭さんなら、あそこにいるけど」
 楓はホワイトボードの前に立ち、真剣な顔で講義をしている保坂を見る。
「……あの人? めっちゃ若く見えるんだけど」
「遠目はね。近づくと苦労人なんだなぁって解るよ。若白髪とか生えてるし」
「あらら。凄く一生懸命そうにやってるわね。……お母さんも御礼を言いたかったんだけど、ちょっと邪魔できそうにないなぁ」
「……なんだよ。唯のセクハラオヤジじゃ無さそうじゃん」
 後輩から出る質問にも、懇切丁寧に。それでいて真剣に指導をしている旭を見て、渚はそう漏らした。
「だから、そう言ってたじゃん」
 肩すかしを食らったような渚を見て、楓は軽く笑顔になる。
 そんな楓の笑顔を見て、母親は目に涙を溜めながら満面の笑みを浮かべた――。
 そして翌日も、旭は朝から勉強会の講師をしていた。
 楓は午前中のリハビリの休憩時間に、旭に聞いて見た。
「旭さん、毎夜遅くまで残ってるじゃないですか。それだけじゃなくて、朝と夕方の勤務時間外に勉強会の講師まで。……なんでそこまで出来るんですか? 出世に繋がるとかですか?」
 先日の朝の挨拶と違って、今この時間は楓のリハビリの時間。旭の逃げ道を塞いだ状態で尋ねた。
 何としても、旭を逃がさずに聞く。意固地になっている部分と、負けず嫌いで頑固な部分が出た。知りたい事を知れないのは気持ち悪い。
 あえて個別リハビリの時間に尋ねる事で、しかも自ら休憩と言った手前、旭も仕方なしに答える。
「あんな事をしても出世はできないですよ。僕には、他にないからです。僕は理学療法だけが生き甲斐で、生きる意味、帰っても家族はいない。人を笑顔にしたい。それだけが、僕の人生の目的なんですよ」
 その言葉を聞いて、楓はスッと腑に落ちるものがあった。
(そっか、この怪物のように見えていた人は、私と同じなんだ。走る事だけが生き甲斐で、生きる意味で人生の目的な私と)
 そう思うと、より親近感が湧いてくると同時に――化け物だと畏怖さえ覚えつつあったこの人を、ただ自分以上に努力しているだけの人間に感じた。
「……理学療法は個別に介入します。自分が寿命を迎えるまでに、何人の人へリハビリができるかと考えると、ゾッとします。そう考えたら知識技能向上を望む後輩達に、自分の持つ知識技能を伝えないのは罪ですらあります。――だって、腕の良いセラピストが沢山いれば、その分より笑顔になれる患者も増えるんですから」
「……だから、自分の命を削ってでもやると?」
「そうです。近い未来に自分の死が待っているとしても、やりたい事をやらずに生きるのは――僕にとっては生きていると言えないんです」
(なんて自己犠牲的な生き方なんだろう。この人は、自分勝手だと思っていたこの旭という人は――その実、人の事、人を笑顔にする事しか考えてない)
 利他主義であり、そして自分がやりたい、生きている意味だと思う事の為に人を巻き込む利己主義者でもある。
 人の笑顔を奪う障害や後遺症という敵をかみ砕こうと、優しい牙を研ぎ続け、忌避された男。
「……あ」
 楓は旭の言葉に思い出した。自分も利己主義であり、同時に利他主義的な一面もあるのかもしれないと。渚との練習での自分がそうだった。
 いつもライバルだった渚。彼女に負けたくないと他者からの休んだらという言葉を無視した。そして、渚が足りない部分や求める部分に応じスタート時の競り合いなど、自分の得意としている部分を何度も何度も練習して牙を磨きあい、自分の練習時間を大幅に増やした事もある。
 その結果、二人で成長して楓も笑顔になれた。
 ライバルが身近に居てくれた結果、楓は世界的な大会でも結果を残せるように成長し――そして周囲から日本代表候補として好奇の目で見られるまでになった。
 これが俗に言う『情けは人のためならず』という事なのだろうか。
 忌避とは行かないまでも、地方大会で他の選手から畏敬の眼差しを向けられていたらしい。
 そしてもう一つ、共通点がある。
 旭の言った『やりたいことをやらずに生きるのは、僕にとって生きていると言えないという言葉』。
 走れないどころか、上手くも歩けない現状。
 そんな日々で、自分は生きていたと感じただろうか。いや、生きる目的を見失った自分は――死んだように、ただ生命活動をしていただけだと。
 だが無味乾燥に、死んだように生きていた自分が――ここにきてから『生きている』と実感している。他ならぬ旭とのリハビリを受けてから。
「リハビリって……何なんですか?」
 セラピストという職業は、そこまでしないといけない仕事なのか。
 そもそもリハビリという言葉を何気なく使っていたが――その意味すら解っていなかった。
 ただ何となく身体を良くする運動だと思っていたから。
 他ならぬ旭の口から、自分を救う光を見せているリハビリの意味について知りたかった。
「リハビリテーションとは、機能能力を回復する為の運動や物理療法の総称です。元々、ナチュラルリカバリーと言って、脳梗塞の後遺症は発症後、勝手にある程度は良くなるんです」
「そう……なんですか?」
「ええ、仮に元の能力を百として、ナチュラルリカバリー……まぁ自然回復と言っておきますか。これで六十%まで回復するものを七十%、八十%まで引き上げる。リハビリテーションとはそういう元の状態に近くなるよう引き上げるものです」
「放っておくより、より元の状態に近づけるという事ですか」
「いい解釈ですね。元々、リハビリテーションの語源は『人間的復権』、『再び適したものにする』などとあります。――つまり、究極的には本来有るべき状態に戻る為の行動全てがリハビリであると言えます」
「本来、有るべき状態……」
 その状態とは、楓にとって走る事、元のように走り――そしてタイムを上げて誰よりも早く走れるようになりたい。そんな夢想だった。
「……自惚れに聞こえるかも知れないですけど、私……五千メートル走るのは、二十歳以下で世界一早かったんです。何れは日本代表として全世代の頂点に立ちたいと思っていました。それが私の生きる意味で……そんな状態にまで、復権出来ますか?」
 泣きそうな表情を浮かべながら楓は言った。そんな姿を見ながら、旭は隣にしゃがんで言う。
「それは楓さんと、楓さんに関わる全ての人の正しい努力次第でしょう。科学に基づく理学療法を――リハビリをして、その後は正しい復帰プログラムを科学的に考えて行けば、復権できる確率〇%とは言い切れないでしょう。――少なくとも僕は今、その確率を少しでも上げられるように全力でプログラムを組んでいるつもりです」
 思わず目を丸くして、楓は旭を見た。
 他の人が言えば『無責任な』と感じてしまうかもしれない。
 でも夜遅くまで自分の動画を見てくれたり、一時的ではなく長期間に渡って努力を続け、知識技能を磨いてきた旭が、本当に全力で取り組んでいるのが解るから――。
 自分と同じような考えを持ち、更には自分より頑張っていると知ったら――。
「さ、休憩終了の時間です。まずは遠くの目標を見る前に、そこに至る為の小さな目標から達成していきましょう」
「はい」
 楓は救いのない暗闇にいた。
 そんな暗闇を照らし、導いて暖めてくれる火のような男――旭。
 楓が――初めて男性に対して格好良いと思い、煌めく太陽のように旭を特別な存在だと感じてしまうのも、無理のない話だった。
「……頬が赤いですね。血圧と脈を一回失礼します」
「――きゃっ!」
「え?」
 無遠慮に手首を触り脈を測る旭に、頬を赤く染めた楓が過敏に反応してしまった。
(無理! 一度意識したら、もう今まで通り平静なんて装えない……っ)
 結局、不審がりながらも旭は血圧と脈を計測した。脈が早く血圧も高い。だが中止基準には至っていないという事で、経過を観察して必要なら服薬や運動量を調整しようと旭は言った。
 でも、薬でこの症状は治らない事を楓は解っていた。
 ――恋の病に効く薬なんて、存在しないと聞いた事があるから。
      3
「――私は恋なんてしてない。ただちょっと私に近しい感性を持つ人がいて、それもタイミング的に凹んだ時に現れたから。だから、唯の気のせい!」
「――何が気のせいなの?」
「きゃ!?」
「驚かせてごめんなさいね。食後のお薬の時間だから、本人確認してと思ったんだけど、名前と生年月日を教えてもらえる?」
「あ、はい名前は大宮楓です。生年月日は――」
 誤薬や食事を間違った人に配膳したりしないため、逐一本人確認として名前や生年月日を聞かれる。病院として事故を防ぐ対策をしているのは楓としても素晴らしいと思う。
 ただ、埼玉大学病院リハビリテーションセンターへ転院してから二週間が経過した今となっては、看護師も殆どが顔見知りで、時たま雑談などもする間柄になってきた。年齢が下という事もあるのだろうが、かなり職員の態度もフランクで気遣いが無くなったように楓は思う。
 特に担当の中島看護師はその気が強い。
 病室のドアを開けっぱなしにしていた自分も悪いとは言え、ノックもなく入ってきたのがその証拠だ。
「はい、じゃあこれが夜のお薬ですね。……で、恋が何で、何が気のせいなの?」
「聞いてたんですか!?」
「聞こえちゃったの。若いっていいよねぇ」
「ち、違うんです! 気の迷いというか、きっと気のせいで……っ!」
「うんうん、あるよね。――で、誰に気の迷いしちゃってるの? 学校の男の子?」
「いや、その……」
「いいなぁ、若い男の子に囲まれて。病院なんて若い男の子はリハビリ職ぐらいしかいないもの。イイ男なんて取り合いなんだから、絶対に負けちゃ駄目よ?」
 病院には若い男なんてリハビリ職ぐらいしかいない。取り合い。
 その言葉に、楓は焦燥感を覚えた。
(確かに、看護師さんも介護士さんも女の人だらけ。職場内恋愛が起きるなら……相手はリハビリの人が多いんだろうな。旭さんは、顔はイケメンだし、年齢も結婚適齢期……。もしかして、相手いるのかな!? いや、あんな仕事人間とまともに付き合える物好きなんてないか。殆ど病院にいるし――もしかして、職場に長く残ってるのは相手が看護師とかだから!? 夜勤の隙をついて仲を深めてたり!?)
 完全なる邪推である。
 だが、もしかしたらと思うと、止まらない。いくらイヤイヤ、ないわと思っても、可能性は消せない。
「り、リハビリの人って……取り合いなんですか?」
 結局、楓から出たのは遠回しな言葉だった。
 直接的に「旭さんって相手がいるんですか?」なんて聞けるはずもない。
 もし聞いて、まだ好きと確定した訳でもないのに噂が広がっても困る。
(それに……私が旭さんの恋愛事情を気にしているとか知られるのは、なんか気恥ずかしい)
 頬を赤らめ、上目使いに聞く楓を見て――人間観察が仕事であり、人の色恋話が大好きな中島看護師はニヤリと笑った。
(ヤバい、ちょっと露骨だったかな!?)
 そう焦った楓に、中島看護師は――。
「――岩原科長は駄目よ。結婚して子供までいるんだから」
「違う。そっちじゃない」
 驚くほど真顔で、反射的に冷淡な声が出た。
 ヤバいと楓が己の失言に気が付き、目を剥いた時には遅かった。
「そっちじゃないって……まさか保坂さん? 正気!?」
 楓なんて目じゃない程、中島看護師は驚愕に目を剥いている。
「ち、違いますよ! 別に好きとかじゃなくて! ただ、あんな奇人を取り合う変な人がそんな居るのかなって!……っていうか、一人でもいるのかなって」
「ふ~ん……成る程ね」
 あたふたと慌てる楓を、冷静に舐め回すように中島看護師はニヤニヤと見つめて聞いていた。
 予想外の事態に遭遇しても、直ぐに冷静さを取り戻すの看護師はさすがである。
「な、なんですかぁ……その目は」
 だが、今はそんな冷静さが楓にとって恨めしい。恥ずかしさ混じりにいじけ、中島看護師に上目使いで非難の眼差しを向ける。
「いやぁ、何でもないよ。でも、そっか……。例えば保坂さんだと……そうだなぁ」
 壁を見つめて、遠い昔を思い出すように中島看護師はゆっくりと言う。
「六年前ぐらいかな……。保坂さんがあんな人に変わるまでは、奪い合いだったな。イケメンだし、専門卒とは言え国内外で研究実績も残してた有望物件だったからね。それに、当時は優しかったし」
「優しかったんですか? あの鬼が?」
 ここ二週間、検査の数値が上がったり運動負荷でバイタルサインに異常がないのを確認しては運動量も増加した。いつの間にか、楓の中で旭の評価は『厳しいリハビリを平気でやる性格の悪いドS』から、『リハビリの鬼』になっていた。
「確かに、今でこそ鬼畜なクソ悪魔だけどね。昔は本当に優しかったの」
「私はそこまでボロクソには言ってません」
「まぁ……結局、同じリハ科の人に取られちゃって。当時は看護サイドも相当悔しがってた人がいたね」
「――付き合ってる人がいたんですか!?」
「そんな反応されると、お姉さん嬉しくなっちゃうなぁ」
「いや、六年以上前の旭さんを知っててお姉さんっていうのは……」
「楓ちゃん。看護師を怒らせると、怖いよ?」
 それまでヘラヘラとしていた中島看護師が、怒気を顕わにしていた。楓は反射的に頭を下げた。楓の謝罪でふうと気を取り直した中島看護師は、周囲に聞こえないように配慮して小声で言った。
 個室だから小声とかあんまり意味ないと思うけど、と楓は一瞬思った。だが、病室の扉が空いているし、誰が聞き耳を立てているか解らないかと、中島看護師の方へ耳を寄せる。
「実はね……おかしくなる六年前まで、保坂さんは――高木主任と付き合ってたらしいのよ」
「ええ!?」
「しっ! 病院だから静かに!」
「す、すいません」
 叱られて、楓はペコペコと頭を下げる。
(でも、そっか。確かに……同期って言ってたもんな。そういえば、入院初日に私が旭さんの事をちょっとバカにした時、不機嫌そうな顔してたかも)
「あの……もう二人は別れちゃったんですか?」
「どうなんだろうねぇ。噂では別れたって聞いたけど、病院内の噂って適当な事が多いから。唯でさえ、女の人って面白おかしい噂が好きじゃない?」
「中島さんが言うと説得力がありますね」
「痛い採血の仕方って知ってる? 私は知ってるんだけど。そういえば、太い注射針が余ってたなぁ」
「すいませんでした。勘弁してください」
 看護師、怖い。楓がそう思いながら謝罪をする。でも、事実じゃないかなと内心では思いながら。
 結局、中島看護師は「さすがに話しすぎた。……大々的に応援した方が良い? それとも、影ながら応援した方が良い?」と去り際に聞いてきたので、「何もしないで黙っててください。有りもしない噂が広まると迷惑ですから」と早歩きで去って行く背中に声をかけた。
「そっか……高木さんか。――明日、ちょっと聞いて見ようかな」
 翌日、岩原科長か高木主任のどちらかが来るかは解らない。
 二人は出勤態勢や管理職としての業務量次第で、どちらが来るか話し合っているようだったから。
 ――運良く、翌日の午後は高木主任のリハビリだった。
 さらに運が良いことに高木主任は屋外歩行訓練に行こうと言って、体力が落ちないように、また少しでも太陽の光を浴びられるようにと外に連れ出してくれた。
 楓と高木主任は、夕陽を浴びながらベンチで休憩していた。この病院の敷地は本当に広く、それでいて傾斜も多い。あちこちに休憩用のベンチやカフェがあった。
「――高木さんって、旭さんと付き合ってるんですか?」
 唐突に切り出した楓の言葉に、高木主任は目を見開いた後、怪訝な面持ちで楓を見つめた。
「……どこでそんな噂を聞いたの?」
「風の噂です。でも、六年ぐらい前に別れちゃったかもとか言ってましたけど」
「これだから噂好きの人達は困る……」
 高木主任は目をパチパチさせながら天を仰いだ。
「それで、どうなんですか?」
「付き合ってないですよ。……もう、とっくにフラれた」
 高木主任は既に割り切った過去のように、懐かしそうに語り出した。
「フラれたとも違うかな。なんか突然、『十年後までに別れて、忘れて貰うことになる。そんな期限付きの交際なんて嫌だろ?』ってさ」
「十年後までに、必ず別れて貰うですか?」
「そう。不思議でしょう? なんで十年なのかって聞いても、複雑そうな顔して『それが契約だから』とか濁すし」
「……契約?」
(一体、誰とのだろう。高木さんと……にしては繋がりがおかしいし)
 結局、誰と交わした契約なのか聞く間もなく、高木主任は言葉を繋ぐ。
「こっちとしては結婚も考える年齢だったからさ。……だから、言い合いになって別れたんですよ。まぁ、それからの常軌を逸する勉強量を始めた旭くんを見てたら、私と別れてリハビリと結婚したかったのかなぁとか思ったり、ですね」
「……リハビリが生き甲斐で、生きる意味って言ってましたからね」
「そう。まぁ、結局は理学療法士として凄く尊敬しているから、今の関係に落ち着きましたけど……。本当、あの時は自分が惨めに感じる程、あの手この手で必死に迫って。……年単位で強引に口説き落としたんだけどな」
「旭さん、昔は取り合いになるほどモテてたらしいですからね」
「そんな時期もありましたねぇ……。大宮さん、保坂を犯罪者にしたくなかったら、保坂を好きになるのは止めてくださいね。十七歳と、今年三十一歳になる人の恋愛なんて、周囲からは犯罪にしか見えないんですから」
「別に、そういう意味で聞いた訳じゃないですよ。ただ、あの奇人と高木さんがって疑問に思っただけですから」
「……そうである事を祈りますよ。さて、もうちょっと歩いてから戻りましょうか」
「はい」
 体力を付けるためと言うことで、速度を数分ごとに切り替えながら合計四十分歩いた。この速度を意識的に切り替えるというのが非常に効果的だ。機械の補助があるとは言え、傾斜や段差もある屋外を歩くのはかなり疲れたが――弱点を的確に攻めてくる旭のリハビリほどではなかった。
 回復期病棟に転院してから三週間ほどが経過した。
 測定で出る結果も順調に上がってきていて、用紙に印刷される自分のデータがドンドン改善されていくのが楓にも解る。
 主観的にも良くなったと感じているが、こうして数値化されて良くなったと解るのは嬉しい。走ってタイムを縮める事に拘っていた楓としては尚更だ。
(本当に走れるようになるかもしれない)
 未だ走る事は出来ないし、旭からも禁止されている。段階的に進めるからと。だが、楓はそんな希望を夢ではなく、現実として抱けるぐらいスムーズに歩けるようになっていた。
 そして、昼食後の腹ごなしに病棟を歩いて自主トレしていると――。
「――ですから、一ヶ月は体重変化を見たいって言ってるじゃないですか!」
 ナースステーションから大きな女性の声が聞こえてきた。
 そっと楓が覗き見れば、それは初日に「食べられない物やアレルギーはないですか?」と優しく聞いてきた管理栄養士の女性だった。
(たしか、名前は鈴木さんだったっけ。話してる相手は――旭さん?)
 鈴木が声を張り上げている視線の先にいる人は、背中しか見えない。
 だが、もう背中だけでわかる。――間違いなく旭だと楓は確信した。
「急性期病院の時に計測した体重データも、むこうの病院から貰ってきました。これでトータル一ヶ月分にもなります。昨日、体重を看護師に測定して貰ったら、この一ヶ月で四キログラムも体重が落ちています。入院時と比較して明らかに活動係数も上がっているんです。最初はベッド外活動もあるとして、必要カロリーの計算式に活動係数1.3をかけていたと思います。ですが、今はリハビリ内容や自主トレ的に1.7はかけることが必要です。体組成計がうちにはないので正確にはわかりませんが、このままでは運動療法をしても、かえって過用性筋萎縮が起きてしまうリスクがあります」
「そういう情報をなんで先に言わないんですか! だったら、BCAAを含有している附加食品を足せばいいんじゃないですか? それならタンパク質も含有してるんですから、使いすぎて逆に筋力が落ちる事もないでしょう!?」
「その言葉をお待ちしていました。筋肉を作りやすくするBCAAと筋肉の元であるタンパク質、更にはカロリーまで含む物が必要です。是非、御願いします。改めて計算式に当て嵌め計算すると、糖質や脂質も含めて相談したいのですが――」
「その前に、食事変更は医師に依頼をかけるんですから医師に聞くのが必要でしょう! 私がいきなり変える事はできないんですから!」
「現状を説明して、医師から病状は安定しているし既往の病気も無いから、食事変更の許可は頂いています。あとは鈴木さんの提案に合わせて、問題が無ければ承認すると」
「そういう抜け目なく逃げ場を封じておく所が本当に腹立つんですよ! だいたい――」
 喧嘩とはまた違った。
 だが、険悪な雰囲気に感じるのは間違いない。
 楓はそっと自室に戻った。
 旭が同僚と揉めるというのは聞いていた。
 だが、生でバチバチやり合っているのを見るのは初めてだった。――そして、言っていた内容は殆ど理解出来なかったが、相手を協力せざるを得ない状態に追い込むと言っていた高木主任の言葉も理解できた。
 現に、鈴木さんが発言する度に先回りしてそれを潰す情報や手段をとっていて、それでいて患者の利益の為にという姿勢を貫いていた。
「旭さん、性格悪いって言われて怖がられる訳だわ……」
「――本当にそうですね、保坂は性格が悪いです」
「え!?」
 病室の入口を見ると、そこには先程まで旭と喧嘩していたはずの鈴木が立っていた。
「すいません、ドアの先まで声が聞こえてしまったもので……。少しお話があるのですが、お部屋にお邪魔してもよろしいですか?」
「あ、ど、どうぞ!」
「失礼します。実はお食事についてご相談したいのですが。お食事の時間以外にこういった栄養補助食品を追加したいのですが、よろしいでしょうか?」
 鈴木管理栄養士は、パック上の飲み物を二種類手に持ってやってきた。
「内容としては、筋肉を作りやすくしたり、不足している栄養を補うものですね。こちらは味も飲みやすいと評判で――」
「――あの、もしかしてさっきナースステーションで喧嘩してたのって……私のせいなんですか?」
「あ、聞かれていましたか。お見苦しい所を見せてしまい、すいませんでした」
「い、いえ。……その、聞いてても本当にこの人は性格悪いし嫌われるなって思いましたが。でも、私の――患者のためにした事だと思うので、これ以上旭さんを嫌わないであげてください」
 楓は自分の栄養管理の事で旭が鈴木に強引な連携――身勝手な要求をしたと解り、申し訳なさで一杯になる。その上で、旭が一生懸命故に、自分が良くなるように思いやった事を理解している。
 不安な思いで頭を下げると、鈴木は朗らかな笑みを浮かべた。
「私は、保坂の事を全く嫌っていませんよ? むしろ好感さえ抱いていますが?」
「え?」
「確かに、討論は熱くなったので……喧嘩しているように聞こえたかもしれませんね。そこは申し訳ありませんでした」
「あ、いえ……。鈴木さんはあんな言い方されて、腹立ったりしないんですか? 栄養管理のプロは鈴木さんなのに」
「勿論、腹は立ちます」
「あ、そこは腹立つんだ……」
「ですが、そもそも他の職種が栄養にもしっかり興味を持ってくれて、勉強して討論してくれるだけで嬉しいんです。お互い、自分の仕事に誇りを持っているからこそ討論が熱くなりますが……。私は、保坂が包括的に、色んな方向から患者さんを見られるように活動している事を尊敬しています」
「そう、なんですね。……私なら面倒って思っちゃいそう」
「まぁ保坂の言い方や、やり方は面倒ですけどね」
「ですよね~」
 鈴木のような医療従事者は少数だろう。
 楓は午後のリハビリの時に、旭がどんな思いで他者に攻撃的な態度を取っているのか聞いて見ようと決意した。旭が聡明な人だという事は、この短い付き合いで解っていた。
 絶対に揉めると解っていて、なぜわざわざそんな態度を取るのか、好奇心が止まらなかった――。
「――旭さん、チーム医療には人との連携やコミュニケーションが大切ですよね?」
 病室に迎えに来た旭に、ベッドで腰掛けたまま楓は訊ねる。
「……なぜ大宮さんがチーム医療なんて言葉を知っているのかは置いといて、一般的にその通りですね」
「私達陸上選手も、個人競技ではありますが人とコミュニケーションを取り合って、助け合って円滑に効率よくなるようにしています。――なんで旭さんは、人が苛立つような言い方をするんですか?」
 楓の言葉で、旭は昼に鈴木管理栄養士と討論していた事が知られたのだと悟った。
「……人は、楽な方に流れるからです。そして、医療従事者というのは患者さんから日常的に暴力や暴言を受けます。唾を吐かれる事など日常茶飯事です」
「それは……。厳しい仕事だなって思います」
「自分に敵対して攻撃する患者さんの為に、全員が団結して良くなるように頑張ろうといつまでも思える聖人ばかりだと思いますか?」
 楓は自分に置き換えて考えてみる。
 クラスで虐められている人がいたとして、その人が馴染めるように周囲と団結したとする。
 でも、虐められた当事者は余計なお世話と思っていて、庇う自分達に攻撃的な態度をとってきたら――何れその人から離れるだろう。
「最初は出来ても……いずれ無理になると思います」
「その通りです。人の善意や感情というのは、長続きしない。給与とか仕事だからと縛っても、人間は感情で生きる生物です。最低限、形だけやればいいという楽に必ず流れます」
「それは、確かに……」
 自分も、いじめられっ子に対して教師が仲良くするよう注意喚起すれば、形式上やってみせるだろう。だが、一定の距離を持ったり深入りは絶対にしないと思った。
「人がチームを組むのに最も効率的なのは、共通の厄介な敵を持つ事です。患者さんではなく、僕という不足を指摘してくる共通の厄介な敵がいるなら、五月蠅いことを言われないようにとチームが組みやすいと思いませんか? 結果、それが患者さんに良質なサービスを提供する事に繋がっています。根底に暗い思惑があるとしても」
「……でも、そうしたら旭さんの居場所がなくなります。それが正しい行いなんですか?」
「僕は、居場所を失わないように手も尽くします。研究で実績を出して病院の評判向上に勤める。現場でも知識技能で多職種と同等以上に知識を持たなければならない。そうでなければ、間違っている事を間違っていると指摘して、共通の厄介な敵にもなれない。ただの邪魔者に成り下がります。僕は誰よりも患者さんの味方で、誰よりも多職種から敵視されている現状が正しいと思います」
 さも当然のように言い切る旭は――誰よりも強くて、孤独なように見えた。
 旭のそんな姿が、世界陸上Uー二十を制した後、孤独感を感じていた自分に重なると楓は感じた。
 思えば、自分は日本中――世界中の女子長距離選手から見て共通の厄介な敵だっただろう。
 もしかしたら、幼い頃から競い合っていた渚から見ても。
 だが、結果としてあの厄介な敵を倒そうと周囲も躍起になっていた。それは、正しいと思う。
 そして、そんな追ってくる相手に負けないようにと楓も必死になれた。
 旭は医療現場、しかも理学療法士以外の職種からも共通の厄介な敵になり、あいつを倒すために頑張ろう。知識を増やして打ち負かしてみろと煽り、全員のライバルになろうとしているのだ。
 同じ医療従事者が旭の意見を聞けば、暴論で最悪な奴だ。一緒に働きたくないと思うだろう。
 だが、またしても――楓は旭に共感してしまった。
(旭さんは……周りからどう思われてても、自分の道を貫くと決めてるんだ。――私は、心が折れてしまっているのに)
 楓は自分の目頭が熱くなってくるのを感じた。
「……旭さん、これを見てください」
 目を伏せながら、楓は自分のスマホを渡す。
 ディスプレイにはスクリーンショットを撮ってある写真が表示されている。
「これは……ネット掲示板やSNSの写真ですか?」
「そうです……っ。内容は見ての通りです。それ一枚だけじゃないです。沢山、あります」
 画面をスライドして写真を見ながら、強ばった表情の旭がその内容を読み上げる。
「……『邪魔者がやっと消えて嬉しい』、『天罰』、『天才とか言われて調子に乗ってるから病気になった。大宮はもう終わった。ざまぁみろ』、『そのまま死ねば良かったのに』……酷いものですね」
「私、みんなから恨まれていた厄介者なんですっ。……頑張って練習して、速くなればなる程、周囲の目は変わっていって……っ」
「…………」
「悔しいんですっ。こんな事を書かれても、何も言い返せない自分が悔しいっ!」
「……これを見て、もう走るのは嫌だと思ったんですか?」
「――違う!」
 強い声で否定した。
「私は……言ってやりたいんですッ! 私に負けて悔しいなら、追いついて来れば良い! ネットで吠えてるだけだから私に勝てないんだって、悔しければ追い抜いてみろって、本当はそう言ってやりたいんです! 旭さんのように、悔しければ自分を打ち負かすだけの知識を持ってこいって言えるような、厄介な共通の敵であり続けたいんです!」
 楓が打ち明けられず抱え込んでいた悩み――魂からの慟哭が、個室に響いた。
 その声音は涙で震えていた。
「――でも、私は……もう走れない身体だから……っ! きっと、そのうち話題にもならなくなるっ。旭さんみたいに、『悔しければ実力で追い抜け』って、そう言えないのが悔しい!――本当に、悔しいんです……っ!」
 楓が気が付けば、止まらぬ涙がポロポロと流れ落ちていた。
 そんな自分に動揺が隠せないのか、頬を手で拭い瞠目している。
 だが楓は、その心の内側から滲み出る涙を眺め、勇気を振り絞る事にした。
 困惑する周囲の反応を見て、二度と口にしない。墓まで持って行こうと考えていた、本心。
 他ならぬ旭だからこそ……ずっと言えなかった想いを伝えようと決意して――。
「――私、走りたい。走る事は、私にとって一番楽しい生き甲斐でっ。また元のように……、元より速く走れるようになりたいんです!」
 楓は弱々しい手つきで旭の腕を握る。
 救いを求めるように、助けてと訴えかけるように。
 その細くて美しい手を――旭は両手でそっと包んだ。
 楓が泣き止むまでずっと、強い意志で燃え盛る炎のような瞳で見つめながら――。
 楓が泣き止み、「リハビリに行こう」と自ら言い出すまで、ずっと待っていた。
 その後、「遅刻しやがってふざけんなテメェ」と男性患者に旭が殴られたと楓は噂で耳にした。それでも、旭は全く気にせず穴埋めに残業してリハビリを行ったたらしい。
 やはり、心を失った化け物だという噂が病棟で流れた。
 その日、楓は日記帳にこう綴った。
 『旭さんは世界一優しい化け物で、みんなの共通の敵だ。でも、私の隠してた愚痴を話させてくれて、どうしようもない闇から救ってくれようとしてくれる。私にとっては敵ではない。私のせいで後の患者のリハビリに遅刻して殴られたのに、動じないで謝罪して穴埋めまでする。まるで英雄であり、王子様だ。私は、旭さんのようになりたい』と――。