序文

 あなたと出会ったからこそ、後悔なく生きられました。
 もしも、あなたがいなかったら。きっとこの人生には何もなかった。
 なんの面白味もなく、生命の火が尽きていたと思います。

 あなたと出会えたから、自分の人生に意味はあったと思えるんです。
 感謝と希望の火を、まるでオリンピックの聖火のように繋いでいこうと、決断ができたんです。
 これは最高に幸せなことであり、同時に寂しいことでした。

 最後に、これだけ伝えさせてください。
 
 不可思議な存在に導かれたことにも、今では感謝しています。
 導かれた先に、その想いがあったから。
 この想いが、どうか天にも昇る焔となって届きますように――。


プロローグ

 人は死んだら肉体や精神も、何もかも消えてしまうと思うかい?
 ――それは違うと思う。
 人の一生ってのは一つの物語にして、後世にまで燃え広がっていく火なんじゃないかな?
 焔とも呼べる情熱は、死や悔恨の灰を被っても消えはしない。
 歴史上で偉大な事を成した者の名言、成果。
 それらは口伝えや書物の中で燃え続け、誰かの心に影響を与え、場合によっては飛び火もするだろう?
 情熱とは一時的に灰に埋まっているだけに過ぎず、再び燃え盛るのを待つ火種だ。
 それは実に興味深いものだよ。
 人にそれほど影響を与えるような人間が現代にいるか?
 ――いるよ。
 社会全体ではちっぽけな存在でも、観えない英雄とは身近に存在するものだよ。
 普段、人の物語を一から終わりまで観る機会の乏しい者が疑うのも無理はない。
 これは、俯瞰的に観測ができる者たちの特権だからね。
 さて、わかりやすい実例をあげるなら……ちょうど、とびきり興味深い人間がいる。 
 それでは、この人間が生き、成してきたものがどうなるのか。
 一緒に物語を観ていこうじゃあないか――。


 既に消灯時間をとうに過ぎた病棟は、足下灯や眠らずのナースステーション、トイレを除けば不気味な程に暗くて静かだ。
 そんな静寂と暗闇に包まれた病院で――カタカタと音を鳴らしながら、弱々しい灯りが灯る部屋がある。
 まるで灰の中で火だねとして残り続ける、弱々しい炭火――埋み火(うずみび)のような灯りに照らされたその一室。
 リハビリテーション科スタッフルームと書かれたプレハブのように狭い部屋だ。
 男は白髪に染まったボサボサの髪をしており、見るからに疲れきった風貌(ふうぼう)だ。一見すれば多くの入院患者と同じ、高齢者に見える。
 だが、この男が病院職員である事は、紺色のスクラブと白いズボンを身に(まと)っている事でわかる。
 男は鬼気迫る表情でパソコンに向き合っていた。
 ディスプレイには数多の研究論文がウインドウ表示され、机には最新の医学書籍もある。
 そういった文献を元に、担当患者の症例検討レポートを書いていた。
 そして一人分を纏め終えファイルに保存する。
 ファイルには膨大な量の症例報告や論文データが保存されていた。
 そして新たにファイルを開き、別の患者の症例報告を書こうとキーボードを操作すると――タイプミスを告げるビープ音が連発した。
「……っ」
 おかしいと思い手元を見ると、左手が動かない。
 いや、声を出そうとしたのに声すら出ない。
 男が慌てて立ち上がろうとすると――。
「――っ!」
 左足に全く力が入らず、椅子から転げ落ちてしまう。
 男は悟った。
 自分が脳卒中か何かで左半身に麻痺を生じている事実、そして声まで出ない。
 感覚も鈍く、あっという間に意識まで遠くなっていく。
 前兆もなく、激しい頭痛を伴いながら、急速に意識が朦朧としてきた。
 これは脳室という脳の深い空間にまで、出血した血液が及んでいる可能性も大いにある。
 ――つまり、命に関わる重大で広範に及ぶ脳出血(のうしゅっけつ)の見込みが高いだろう、と。
 まだ死ぬ訳にはいかない。
 その執念から、何とか人目がある場所まで這いずって廊下まで出るも、ナースステーションの煌々とした明かりは遠い。
 暗闇で懸命にもがくも、意識がもう持たない。
 頭の中が靄つくと感じた時――男は確かに聞いた。
 ――この世ならざる者の声を。
 臨死体験をした患者から、三途の川や花畑を見た。
 亡くなった配偶者の声を聴いたなどの話は山ほど聞いた事がある。
 男は、この世ならざるその声を聴いた後――思わず笑みを浮かべた。 
 灰色の日々を送り、暗く沈んだ心にわずかな希望の火が灯る。
 足下灯の薄明かりが――男の乱れた白髪と、不気味な笑みを照らした。

1章
      1
(かえで)ラストファイトー!」
「ラスト腕振れ!」
「顎上げんな! 川越(かわごえ)ラストファイトーッ!」
 まだまだ残暑が続く九月上旬のこと。
 埼玉学園総合高等学校の陸上部専用グランドに、汗をびっしりかいた部員達の声と、インターバル走をする生徒達がいた。
 長距離種目、短距離種目、跳躍やフィールド競技を専門にする者など。総勢六十名近い陸上部員達の声があちこちから飛び交う。それに加え、グランド外からも歓声に近い声が飛び交う。
 厚いゴムで出来た真っ赤なタータンが炎天下の熱を吸収し、表面に肌が触れれば軽い火傷すら負う。汗が垂れれば即座に蒸発する。百メートル先は陽炎のように揺らめいて見える程の熱さだ。
 そんな過酷な環境でも、陸上名門校として名高い高校の学生達は目に情熱の炎を宿して練習に臨む。
「――……っ。(なぎさ)、ラストファイトーっ!」
 動きやすく爽やかでありながら、小顔にみせる黒髪ショートウルフヘアーで、身長百七十センチメートル前後の細身の女性――大宮楓(おおみやかえで)は、自分がゴールラインを越えた瞬間、即座にトラックからフィールドへ移動して後続の応援に声を出す。
 僅かに遅れて二番目にゴールしたのは川越渚。黒髪短髪で日に焼けた小麦色の肌から、いかにもスポーツ少女といった容姿をしている。
 二人は、幼い頃から近所に住んでおり同じ陸上クラブに通い、同じ中高一貫校へと進学した。
 部活も常に一緒で、種目もお互いに長距離専門。
 幼馴染みであり親友、そして競技が始まれば好敵手という複雑な間柄だ。
「よし! 五分休憩!」
「「「はい!」」」
 続く全員がゴールしたのを見て、顧問が指示をする。
 部員達は顧問の指示に返事をした後、各々が水分補給などの休憩へ移動する。
「大宮さん! 格好良い!」
「楓先輩! こっち向いて下さい!」
 野次馬のように見ている同じ学校の生徒達。既に部活が終わったのか、今日は部活がないのか。
 いずれにせよ、多数の野次馬の視線を独占しているのは――大宮楓だった。
 川越渚も十分に女性として美しい魅力的な外見だが、楓には敵わない。
 楓は元々、日焼けすると肌が真っ赤になり痛む。その為に日焼け止めを塗ったりしていることもあるのかもしれないが、陸上選手らしいとはいえない新雪のように白くきめ細やかで美しい肌をしている。
 さらには大きな瞳に高い鼻、モデルのように均整の取れたスタイルで、男女ともからアイドルのように見られていた。
「――相変わらず、楓の人気は凄いな」
「いや……。どうせ長続きしないって」
 切らした息を整え、吹き出る汗をタオルで拭いながら渚と楓は苦笑する。
「まぁ、確かに今は人気にブーストかかってるのもあるだろうけどさ。やっぱ世界陸上U―二十で金メダルってのは、抜群の宣伝効果だよ」
「そんな宣伝効果を望んで走った訳じゃないんだけどな」
 少し困ったように、そして面倒くさそうな表情で楓は言う。
「諦めな。有名税だよ」
「私は走れればそれでいいのに……」
 心底、辟易とした声音で楓は座り込む。水分を豪快に煽る姿からはスポーツマンらしさが出ているが――それすらも美しく、上品に洗練された仕草に映ってしまうのは、恵まれた容姿からしてもう仕方がない。
 そもそも野次馬のような観衆に声援を送られるのも、これが初めてという訳でもない。
 楓は幼い頃から走るのが大好きで、走る事意外にはあまり興味を持たなかった。
 他者からの話やアドバイス、教師の話も聞き流す程度。
 そんな彼女は中学から高校二年の現在に至るまで、国内の中学生日本記録を持っていたり、国際大会で優勝したり。何度も学校内外を問わず表彰されて注目の的だった。
「高校女子陸上界にあらわれた超新星様が情けない。星なら人から見上げられるのも諦めなって」
「星ってさ、光り耀いて地球上から見えるときには大抵、もう爆発してない?」
「授業で習ったばっかの知識で屁理屈言うなよ。本当、我が儘で負けず嫌いだな」
 楓は、天才にありがちな他者からの意見より自分の信念や考え方が正しいと思い込みあまり人の意見に流されない――というと聞こえが良いが独りよがりな傾向にあった。
 ただ走るのが速くて将来の陸上競技日本代表候補というだけでも、周囲からは魅力が加算されて見えるのに、本当に外見まで魅力的なら、それはもうスターでありアイドルとして祭り上げられるのは当然の流れだ。
 特につい先月、八月の世界陸上Uー二十で金メダルを取ったことで、人気が更に過熱してい状況は止められないものだ。
 才能があって結果を出せば周囲の期待と好奇の目にさらされるものだから諦めろ。
 渚や周囲は嫌がる楓にそう言って聞かせてきた。
 楓は、幼い頃に離婚して一人で育ててくれた母親や自分に敗れた選手達の事を思えばこの恵まれた状況を嫌がっているなどと、簡単に口へ出して言えないと思う。
 だが、それと同時に――。
(でも、本当は面倒くさい。……一人の、普通の人間として扱って欲しい)
 それこそが、しがらみを取り払った偽らざる本音だった。
 勿論、楓とて応援してくれるみんなの期待に応えたいという気持ちはある。
 だが、彼女は自分がやりたくて走っている。走るだけで気持ちよくて、辛い練習を乗り越えてベストタイムを上げていき、大会で全力のぶつけあいに勝てれば中毒性すらある快感が襲ってくる。
 そんな陸上競技の魅力に、楓は心を奪われていた。
「そもそもさ、陸上やってる人なんてだいたいが自分勝手で負けず嫌いで、我が儘じゃん?」
「楓。あんたは世界中の陸上選手を敵に回してるよ」
「だって事実だと思うんだよね。そうでもなきゃ個人種目でこんなキツい競技じゃなくてさ、別のチームスポーツを選んで仲間と楽しくスポーツするって」
 そんな楓の言葉を聞きながら、タオルを置いた渚は苦笑を浮かべて不適に笑う。
「まぁ、一理あるかもな。ウチだって自分勝手でスゲぇ負けず嫌いだし」
「でしょ?」
「それでも、楓程じゃない。加えてあんたは頑固な癖にどっか抜けてるから、チームプレイなんて絶対無理」
「いやいや、さすがに言い過ぎ言い過ぎ」
「しかも好奇心旺盛すぎて周囲の事が見えなくなって、自分勝手な振る舞いでモメる事もあるしさ」
「そこまでじゃないって!」
「違うんだったら駅伝にも出ろよ」
「う……。ま、前向きに善処する事を検討する……かな?」
 苦々しい表情を浮かべ、顔を逸らしながら楓が段々と語気を弱める。
 言いくるめられる楓の表情を見て、休憩中の長距離仲間達も笑いながら愚痴混じりの雑談を始めた。矛先となっている楓はたまったもんじゃない。
 楓は駅伝のような、複数人で協力して勝利を目指すという種目がどうにも苦手だった。
 自分が区間賞を取る程に早く走っても、他の人が抜かれれば駅伝は負ける。自分まで敗北する。サポートはできない。
 自分が全体で一位のタイムを出したにも関わらず、結果は敗北という事実を突きつけられる事がどうにも納得がいかなかったのだ。
 そう考えれば、渚に指摘された欠点――そもそもは自分が言い出したことだが。
 自分勝手や頑固というのは、反省すべき事実だよなと思い直した。思い直した所で、生まれ持った気性というのはそう簡単に変わるものではないが。
「お前等っ! くっちゃべってる元気あるならインターバル追加だ! 二百メートル×四、トラックの間二百メートルはジョグだ。準備しろ!」
 ジョグとは、ジョギングの事だ。四百メートルあるトラックの二百メートルをダッシュして、二百メートルをジョギングする。速度変容を伴う、非常にキツい練習だ。
「「「はい!」」」
 顧問の怒声に、全員が内心ではマジかよと思いつつも即座に身体を動かしてスタートラインまで、一目散に走る。
 スタートラインに並んだ選手達は、ラップタイムを記録する為スにポーツ用の腕時計を握りながら構え、ジッと顧問の声を待つ。
「ゴーッ!」
 汗が滲む互いの身体をぶつけ合いながら、スタートの合図と共にポジションを奪いながらダッシュしていく――。
「――ああ、今日も走ったなぁ。つっかれたぁ」
「途中のインターバル追加は、誰かさんが無駄な口答えをしたせいだけどな」
「何? 私のせいにすんのは止めてくんない。渚だってノリノリだったじゃん」
「だからウチは、疲れたとか愚痴言ってなかっただろ?」
「そういうの本当ずるい。顔はグチグチと文句言ってたよ」
「顔が喋るか!……ん、楓。お呼びみだいだぞ」
「え?……あ」
 部活が終わって本校舎に戻り、シャワーを浴びてから制服に着替えて下校しようとしていると、校門前で一人の男子生徒が楓を見つめて立っていた。
 少し離れた所に、他の男子生徒が囃し立てるようにしながら立っている様子を見るに、これは。
「あの、大宮さん。ちょっと、お話したいことがあるのでお時間を下さい!」
「……はい」
 ソワソワした男子生徒とは裏腹に、沈鬱とした表情で楓は応えた。
 表情には出さないよう、『やっぱりまた告白か。ろくに話もしたことない人から』と内心で溜息をつく。目線で渚に『待っててね』と送ると、渚は頷いた。
 視線で簡単な会話ができるあたりは、さすが長い付き合いの幼馴染みという関係だった。
 男子生徒に連れてこられたのは、体育館裏の人目が付きにくい場所。
 ここに来るのはもう何度目だろうか、アンダーの世界陸上で優勝してから急速に増えたよなと思いながら、楓はまだまだ緑色の葉をつける樹木を見ながら付いてきた。
 男子生徒は、早鐘をうつ自らの胸を抑えながら左右に体重を移して落ち着きなく楓の前に立ち、意を決して言った。
「大宮さんの走る姿や何もかも大好きです! もっと深く知りたいので、付き合って下さい!」
 楓は、真剣な面持ちで告白する男子生徒の目線をみながら、湧き上がる疑問をぼそりと口に漏らした。
「え。……それは、やっぱり一緒にいたいとか。もっとこの人を知りたいとかじゃない、ですかね?」
 それを聞いた後、楓はやっぱりそういうものだよなと思いながら深々と頭を下げて――。
「ごめんなさい。それならお友達で十分だと思うし、私は陸上を愛しているんです」
「あ……。そう、ですよね。ありがとう、ございました。――あの、また普通に話しかけても、いいですか?」
「それは勿論。友達としてよろしくね!」
 楓は、笑顔でそう言って男子生徒を残したまま元来た道を砂利をゆっくりと踏みならし、戻っていく。砂利がゆっくりしたテンポでこすれる音は、どこか悲しげだ。
 渚を待たせているし――また話しかけていいですかと言って、気軽に話しかけてくれて実際に友達になれた人なんていない。みんなあわよくばと下心を持って近づいてくる。
 人からすると嫌味に感じるかもしれないが――。
(なんで、してもくれないのに『普通に話しかけていいか』とか『これまで通り接していいか』とか聞いてくるの?)
 そう感じていた。
 小学生の頃に仲が良かった男友達に告白され断ってから、楓は幾度となくこういった言葉に騙され、裏切られ続けてきた。
 こちらから話しかければ他の女子から『中途半端に気を持たせるとか最悪』、『思わせぶり』等と悪口も言われてきた。
 好意を伝えられれば伝えられる程、人からの好意は離れていき、悪意すら抱かれる。
 その繰り返しの結果そして楓は恋愛に嫌悪感すら持ち、苦手意識を抱くようになっていた。
「――お待たせ!」
「お帰り。どうだったか……は聞かなくても、そのしかめっ面で分かるな」
 一人で帰ってきた楓の顔を見れば分かる。
 渚と楓は、再び下校路を歩み始めた。
「なぁ、楓は彼氏が欲しいとか思った事って無いのか?」
「渚まで、今日はどうしたの?」
「何となく。世界陸上のアンダーまで制したのに、楓が何を求めているのか分からなくなったのかも」
「そうだなぁ……。私は、負けるのが嫌いで走るのが好きってなだけだからなぁ。……まぁ、彼氏はいらないかな」
「何でだ? 私もだけど、デートとかしてみたくないのか?」
「え、渚は彼氏が欲しいの!?」
「今はウチの話をしてるんじゃないだろ!? いいから、楓はどうなんだ?」
 照れて頬を赤くした渚に微笑みながら、楓は考えて――。
「別にいいかなぁ。恋愛感情とか、ドキドキするって分からないから。そんな気持ちで誰かと付き合うとか、逆に失礼じゃない? 私にとって一番ドキドキするのは、陸上だから。スタート前とさ、競技後半の胸の鼓動はヤバいよね、癖になる!」
 快活な笑みを浮かべ興奮して言いきる楓は、西日に照らされて――神秘的なまでに美しかった。
「……やっぱ、敵わないな」
「え、なんか言った?」
「何でも無い。楓はスゲぇなって言ったんだよ」
 何処か儚げな笑みを浮かべながら、渚は親友の腰に軽く鞄をぶつけた。
 その後も人の迷惑にならないよう、負けず嫌いな二人は鞄をぶつけ合いながら下校していった――。
 その日は、九月としては記録的な猛暑日だった。
「――あ、水筒がない……っ。そっか、朝にゴミ出ししてから出てくる時、鞄に入れ忘れてた」
 両手にゴミ袋を持つことに必死で、楓は鞄に水筒を入れることを忘れていた。
 スポーツ名門私立高校にありがちな、週に何度か授業の代わりに部活を行う日。
 よりにもよって、最も気温が高い時間帯に水筒を忘れていた事に、しかも練習開始直前に気付いた。
 この時間からでは、自販機に飲み物を買いに行く時間もない。
「――仕方ない、休憩時間に買えばいっか」
 楓はユニフォームに着替えて、グラウンドに集合した。
 遮るものがない陸上競技場の真っ赤なゴムは、殺人的な太陽光を存分に吸収しておりさながら熱したフライパンのようになっている。
 顎から流れ落ちた汗がジュッと音を立て一瞬で湯気と代わり、辺りを加湿していた。
 その表面温度は皮膚が火傷を負う程であり、約五十℃程もあるという。
「アップ終了後、タイムトライだ。部内記録会とはいえ、公式戦だと思え! マネージャーはノートとストップウォッチ、メジャーを忘れるな」
 顧問から今日のメニューを言われて、楓はタイミングの悪さに驚愕した。
 まず、アップ――ウォーミングアップにはだいたい40分間程度時間をかける。
 八百メートルジョギングした後、体操。その後にミニハードルやラダートレーニングなどの基礎練習を行い、百メートルダッシュを四本行う。
 そうして息を整えれば、すぐに記録会に移る。
(近くには水道もない。あるとしたら芝生用だけど……これはさすがに飲めないな)
「……楓、どうかした?」
「……いや、何も無いよ」
 アップのジョギング中、張り詰めた表情をする楓が気にかかった渚が声をかけた。水筒を忘れたなどと言えば、もしかしたら分けてくれるかもしれない。――だが、楓は知っていた。
 以前、渚が熱中症で大切な公式戦の競技中に倒れた事があることを。
 あの時の悔しそうな渚の涙を見ているから、熱中症で苦しむ渚なんてもう見たくないから――水分を分けてなんて言えなかった。
 アップが終わった後、僅かな水分補給時間が設けられた。
 時間は五分。
 アップ用のランニングシューズからスパイクに履き替える時間を考えれば、実質四分未満。
「間に合え……っ」
 楓はアップが終わるなりランニングシューズでロッカールームへ財布を取りに走る。
「よし、いける……っ!」
 片道二分。残り二分で自販機に寄って戻れば――。
「自販機!――自販機に行ったら……間に合わない!?」
 楓は焦る余り、完全に抜けていた。
 往復時間で片道二分と考えていたが、帰りは遠回りして自販機によらなければいけない。財布もしまってこなければならない。
 しかも、五千メートルなら四百メートルトラックを十二.五周する。つまり、スタートラインはメインスタンド前ではなく――反対側。二百メートルラインがあるバックストレートだ。
 今楓がいるメインスタンド下とは真逆。
 自販機に寄る時間を考えると、五分ではやはり足りない。
「――しょうが無い! 財布だけ持っていってスパイク袋の中に入れとこう。タイムトライが終わった後なら行ける!」
 記録を取る前に買うのは無理だ。だが、記録を取った後に設けられる休憩時間なら余裕で買いに行ける。財布の盗難にあう危険はあるが、隠しておけば良いと名案が閃いたように顔を明るくさせ、楓はグラウンドへと戻った。
「――何処行ってたの?……まぁ、今は元気そうだから平気か。さっき凄い焦った顔してたぞ?」
「打開策が閃くって気持ち良いね」
 スパイクを履きながら渚と雑談を交わす。水分補給の解決の糸口が見えたから、気が楽だ。相変わらず、熱に体内の水分もグイグイ持って行かれる。だが、それもこれもタイムトライが終わった後に取るであろう水分を考えればドンとこい。負けず嫌いな楓はそう思っていた。
「――よし、長距離組! まずは五千が専門の奴らからだ。続いて三千、千五百とスタートする。男女ともにスタートラインにつけ!」
「「「はい!」」」
 男女の長距離部員達が声に弾かれたようにスタートラインにつく。
「オンユアマーク」
 顧問の『位置について』の声に合わせ、スタンディングスタートの姿勢に全員が体重を落とす。
 雷管のピストル音が鳴る瞬間までの緊張感と静けさ。
 出遅れないよう全神経を注ぎ込む。
 顧問が鳴らすパァンと甲高い雷管の音が鳴ると同時に、全員がスタートを切る。
 楓は女性集団を置き去りに男子集団と走っている。二百の通過タイムをラップし、腕時計で確認するが、問題ない。いつも通りのペースだと確認してそのまま走り続ける。
 楓に問題が起きたのは、十周が過ぎた頃からだった。
 まだ四千メートル。ここからが一番辛く、ラストスパートもかけていかなければいけないという時だ。
(おかしい、意識が……っ。身体に力が入らないっ)
 身体に不調を感じ始めた。
「――根性だせッ!」
 顧問の声が響く。
 その言葉に、弱気になって競技を中止しようかとさえ思っていた楓はハッと気を取り直す。
(そうだ。長距離で一番大事なのは、気持ち。後半で気持ちが負けたら、勝てるレースも勝てないって、先生も言ってた。――今は、その言葉を信じようっ。絶対に、自分に負けない!)
 かねてより顧問が言っていた言葉を思い出し、唇を噛んで走り続ける。
 頑固であまり大きな挫折を体験して来なかった故に独りよがりだった楓だが――何故か窮地に陥っている今は、他者の言葉に対し素直に従おうと思えた。
 だが、それでも動きは鈍い。意識が朦朧としてくる。
(――駄目だ……っ。何とか、残り二百メートル……最後まで)
 タイムは最早、絶望的だった。大きくリードしていた女性集団にも追いつかれ、抜かれていく。
 それでも楓は、ゴールだけを目指した。
「――……」
 そしてゴールラインを切ると、楓は腕時計のタイム停止を押すことすらなく――トラックへ倒れた。
「大宮! そこだと後続に潰されるぞ! 寝るならフィールド内に入れ!」
「――おい、楓! ほら、肩に掴まれ!」
 楓より先にゴールしていた渚がたまらずに楓をフィールド内へ連れて行くために駆け寄り、肩を貸す。だが楓はなされるがまま、力なく渚に持ち上げられると――。
「ふぁ――」
 目も開けずに生あくびをした。
「おい、自分で歩け! 何を欠伸してるんだ。寝るな! 部活中にふざけてるのか!?」
 自由奔放だと思ってはいたが、ここまでマイペースでふざけるなど許せない。
 そう渚が怒気を顕わにしている時、顧問がサッと顔を青ざめさせた。
「――欠伸だと……? おい川越! 大宮をゆっくり降ろせ!」
「え、は、はい」
 顧問の言う通り、即座にトラック上に楓を横たえる。
 楓は、相変わらず目も開けない。唯ならぬ顧問の様子に、渚も不安になり始めた。
(もしかして熱中症かなにかなのか、だとしたら、ウチは何て酷い事を……っ)
「おい、大宮! 聞こえるか! おい、おい!」
 大声で声をかけ、肩をバンバンと叩き――そして楓の親指を思いっきり握り潰すように親指と人差し指で挟む。
 見ている部員が思わず顔を顰める程に痛そうだったが――それでも楓は何一つ反応しない。
「おい、川越は救急車を呼べ、急げ! 他の部員は日陰になりそうな物を持ってこい!」
「――え」
 救急車と言われた意味が一瞬飲み込めず、渚は呆けた声を出した。
「急げ、早くしろ!」
「は、はい!」
 顧問の悲鳴にも似た怒声にハッと我に返り、救急車を呼んだ。
 渚は電話先の隊員に症状を聞かれ、しどろもどろながらに「陸上の練習中に欠伸をした後、意識が無くなって」と伝えた。救急隊員は直ぐさま向かいますと告げ、電話を切った。
 その後、数分間。
 救急車が来るまでの間、部員や顧問が必死に、そして涙ながらに楓の名前を呼び続けるのを渚はただ呆然と見ていた。
 そして救急隊員がそっと楓を担架に乗せ、部長に解散指示を伝えた顧問と一緒に救急車の中へ消えて行くのを見ると、思わず脱力して膝をついてしまった。
 直ぐに搬送先が決まったのか、救急車がサイレンを鳴らし『端によって道を空けて下さい』と叫ぶ救急隊員の声を聴くと――全てが夢のように感じた。
 周囲には騒然としながら戸惑っている部員が取り残されているだけだ。
 ただ、渚の横には――確かに楓がいない。
 ずっと傍にいて当然だった存在がいない。
 それだけで渚には、とんでもない違和感で――やっと楓が大変な事になったという実感が湧いてきたのか、涙が溢れてきた。
「楓……っ。かえでぇえええ……っ。ぁ、ああああああ……っ」
 何故アップの段階で不調そうだったこと、様子がおかしかった事を顧問に伝えなかったのか。
 違和感に気が付いて対処してやれなかったのか。
 渚は後悔の念に苛まれ――いや、それだけではないと自ら気が付いた。
 真夏の太陽が作り出した影の中は、果たして肉体を遮ってできたものだけだったのか。
 あるいは混乱する幾多もの想いがおとした陰だったのか。
 渚はどんな表情をしていたのか、影からは判断できなかった――。
      2
「――……?」
 眩しい。まず楓が思った事は、それだった。
 瞼越しでも分かる程に眩しい。瞼を通過して目に沁みる程の強烈な光に徐々に慣れ、少しずつ瞼を開けていった楓が目にしたのは――青いキャップにマスク、ガウンをして、涙目の女性だった。
「……お母さん?」
「楓……っ! よかったっ。楓、楓……っ!」
「お母さん、なんで泣いてるの? その格好は?」
「ここはね、埼玉大学医学部付属病院の集中治療室よ。貴女は倒れて、今入院してるの」
「え……」
 楓は事態が飲み込めなかった。少し腕を動かしてみたり、顔を動かすと、楓の腕には点滴ラインが何本も繋がっていて、周囲にはモニターなどの医療機器が大量にあった。
「私、走ってて……途中から意識が無くなって。……なんの病気なの?」
 少しずつ、靄付く頭で何があったかを思い出す。
 楓の頭には陸上部のグラウンドで走っていた時から先の記憶がない。
「それは……っ。大丈夫、大丈夫だからね」
「大宮さん、お話はまた。今日はこの辺りで。医師からもまた説明がありますから」
「もう少し……っ。いえ、我が儘言ってすいません。わかりました」
 母親と同じようにキャップやガウン、マスクをしている人が話しかけていた。青いガウンから透けて見えるスクラブから、看護師か何かだと楓は理解した。
「じゃあね、また直ぐ来るからね」
 母親は真っ赤に腫れた目で自動扉から出て行ってしまった。
「あの……私は何の病気なんですか?」
「それは医師がきたらご説明させて頂きますからね。まずはゆっくりお休み下さい」
 看護師はそう言ってから心電図や点滴用のパックをチェックし始める。
(何だろう。私、全然何ともないのに……ッ)
 楓はなんで自分が集中治療室に入院しているのか分からない。自分はこんなにも元気なのにと身体を動かしてみると、一部身体が言うことを聞いてくれなかった。
「あのっ。左足首、私の左足首が言うことを効かないんです!」
「落ち着いて下さい。それもちゃんとご説明しますからね」
 看護師はそう言って落ち着かせようと微笑む。だが、楓はとても落ち着ける状態では無かった。
(なんで、どうして!? 自分の身体なのに……っ。自分の身体じゃないものがついてるみたい!)
 その違和感と同時に、楓は考えてしまった。自分の脚が、もう元通りにならないのではないかと。
 ――二度と、前みたいに走れないのではないかと。
 そう考え出すと、もう止まらなかった。涙が溢れ、呼吸が浅くなる。
 楓の隣にあるモニター心電図から、妙な音が響いた。その音がまた不安をかき立てる。
「心拍数が早くなってます。落ち着いて深呼吸して下さい」
「わた、私は……もう走れないんですか!?」
「それは医師から」
「答えて下さい! 誤魔化さないで!」
 看護師の声を遮り、身体を起こして楓は訪ねた。
 しかし、看護師は答えない。答えられない。ただ、優しく手を握っているだけだ。
 その態度だけで分かってしまった。答えられない程――自分はもう、駄目な身体になってしまっただんだと。
「ぁあ……っ。ぁあああああ……っ!」
 そして涙が溢れてくる。看護師は大丈夫と同僚に伝えながら、優しい言葉を投げかけ続けてくれた。それでも、楓の絶望は止まらなかった。
 左足首が動かなければ、走れない。
 自分は命はある。――だが陸上選手としての自分はもう、死んだ。
(走れない私に、生きる理由も――意味も無い)
 モニター心電図の警告音を看護師が操作してすぐに切っても、泣きわめく声と啜り泣く声が切れる事は無かった――。
「――大宮楓さんですね?」
「……はい」
 それから暫くして、楓が泣き疲れて落ち着いた頃だった。白衣を着た女性医師がやってきた。
「私は医者の小林と言います。大宮さんは、自分のご病気について知りたいですか?」
「はい、知りたいです」
「では、取り乱さず聞いてくださいね」
「……頑張ります」
「大宮さんがかかったご病気の名前は、脳梗塞です」
「脳梗塞……」
「ええ、血管が何らかの原因で詰まってしまう病気ですね。本来若い人はなりにくいご病気です。ですが脱水などが重なると稀に起きてしまうんです」
 そこまで聞いて、楓は目を見開いた。あの日、自分が水筒を忘れるミスをして殆ど水分摂取などをしていなかったことを。そして、次の瞬間には深く悔やみ、また泣き叫びそうになった。
「不幸中の幸いと言ってはなんですが、大宮さんは搬送が早かったので重大な後遺症だったり命の危険性が高くならない治療法を行えました。とはいえ、一時的に血流が通ってなかった血管は脆くなっていますので、もう少し、リハビリの時間以外は安静にしててくださいね。何事もなければ三日ぐらいかな。それぐらいで一般病床に行けますからね」
(不幸中の幸いなんて、気軽に言ってくれるっ。私にとっては脚が動かなければ、走れなければ死ぬことよりも不幸なのに……っ)
 そんな内心の憤りを抑え込んで、楓は頷いた。
 その様子を見て、小林医師は去って行く。
 そうして、憤りもやがて消え――残ったのは、『もうどうでもいい』、『死にたい』そういった空虚感や虚しさ、絶望だけだった。
 約束通り安静にしていたからかは分からない。大きな何かも起こらず三日が経過し一般病床に移りますと看護師が言ってきた。
 途中、松木さんという女性理学療法士――リハビリの人がやってきて座ったり、立ち上がったり。軽く身体中の筋肉の運動や関節が固まらないようにと運動をしてくれた。だが、時間にして二十分程度。しかも血圧など色々なものを観察しながらの為、殆ど運動をしているという実感は楓には無かった。
(むしろ、軽く歩いて絶望した。自分の脚が、身体が自由に動かないなんて……私の身体なのに)
 強いストレスで楓は限界に近かった。自暴自棄になり、口数も減ってきているのを自覚していた。
「――お母さんに何かして欲しい事ある? こっちの病棟に移ったから、ある程度は持ってこられる物も、自由も増えたのよ。あ、あなたのスマホは持って来てあるからね」
「ありがと……。そうだな、日記帳とか。ほら、入院生活って暇だからさ」
 必死に笑顔を浮かべる母に、空元気のように空虚な笑みで返す。
 母を心配させないようにと必死に笑顔を作ってみたが、楓は作り笑顔に慣れていなかった。
 逆効果のように、母は悲しそうに沈んだ顔をしてしまう。
 誰の目からも、楓が憔悴しているように見えた。
 そんな顔と、快活な笑顔を浮かべて走る楓が同一人物だという事を母は受け入れられなかった。
 二人きりの病室にノック音が響くと、続いてゆっくり開いた扉から小さく優しい女性の声が聞こえてきた。
「――失礼します。大宮さん、改めて詳細な病状説明をする準備が整いました」
「分かりました。すぐに行きます」
 訪室してきた看護師は、母親が部屋から一人で出てこようとした時、気遣うような声音で聞いてきた。
「ご本人様はどうされますか? 担当の理学療法士や医師からは歩いても問題ないとの事だったので、このまま一緒に行って聞けますが」
 正直、いい話が聞けるとは思っていない。
 それでも詳細に聞けるならと思い、楓は「私も行きます」と答えた。
 案内された部屋には、机に医師が大量の書類を置き、モニターには脳血管らしきものを映して待っていた。先日の小林という医者とは違う、男性医師だった。
 二人を案内してきてくれた看護師は医師の後ろに立った。
「どうも、脳卒中外科の中野と申します。どうぞ、おかけください」
 モニターを見た状態のまま、ちらりと一瞥して医師は無愛想に――いや、疲れているように言った。
 促されるままチョコンと椅子に座り、母親と一緒に中野という医師の前に楓は座った。
「まず、こちらを見て下さい。これが搬送された時に撮った脳画像なんですが、この血管が詰まっているんですね。そして今回は搬送時間が早かったので、血栓溶解療法という重い後遺症などが残りにくい治療法をできました」
「私にその治療をしてくれたのは、中野先生なんですか?」
「ああ、お母さんから説明を受けてなかったですか。そうです、私がやらせてもらいました」
「……ありがとうございました」
 楓は平坦な声で御礼を言い頭を下げると、医師も軽く頭を下げて返した。
「説明の続きですが、この治療法は重大な後遺症が残りにくいですが、全く後遺症が残らないという訳ではありません。色々と検査したり様子を見た結果、左足に運動麻痺というものが出てしまったようです。手足とかの運動は脳が指令して動かしているので、一時的に脳に血流が行ってなかった間に死んでしまった脳細胞が原因と思われます」
「治らないんですか? 娘は、まだ十七歳なんです!」
 母親の縋るような声が中野医師に投げかけられる。
 楓も、それを知りたいとばかりに俯き掛けていた顔を上げる。
「それはまだ分かりません。後遺症が完全に回復する人もいれば、残ってしまう人もいます」
「そう……ですか」
 唇を噛んで、母は涙を流すのを耐えていた。瞳を塗らす涙が零れないよう必死に耐えている母を横目にしながら、力ない声で楓も尋ねてみた。楓にとって最も重要な事を。
「――走れるようには、なりますか?」
 その言葉に、医師は一度書類に目を落とす。
「楓さんは陸上の選手だったようですね」
「はい」
「……正直、大変難しいとは思いますね。まずは日常生活に支障がないよう脚が動くようになる事を――」
「ぁあああああ……っ!」
 遂に母親が泣き出してしまった。母親は誰よりも楓が陸上の大会に出て優勝するのを喜んでくれていた。女手一つで育て上げた母親に、立派な姿を見せてくれた。
 そんな娘の夢が、大好きな陸上への道が断たれると分かり、もう堪えられなくなってしまった。
「お母さん、落ち着いて下さい」
「そうですね、今日はこの辺りにしておきましょう。またリハビリも続けますし、その後の事はまた話し合いましょう」
「……はい」
 冷静な声で楓は返答した。
(入院して直ぐ、一人でこれを聴かされていたら、私は狂ったかもしれない)
 そう内心では思いつつ、事前にある程度『無理だろう』と言われると予測していた事。
 母が隣で自分よりも泣いていた事で思ったよりも冷静でいられた。
(いや……冷静って言うより、諦め、なのかな)
 力なく、左足を躓かせながら病室に戻った。母はその後、「また来るからね」と言って帰って行った。仕事で忙しい母に、楓が「無理ない時間に来てね」と言うと、また口を押さえながら病室を出て行った。廊下からは、母が嗚咽をあげて泣いている声が聞こえた。
「私は……もう二度と、走りたいなんて口にしちゃいけないんだ。もう、そんな贅沢が叶う身体じゃないんだから……。私がそんな事を言ったら、お医者さんも看護師さんも、お母さんも不幸にしちゃう……。この気持ちは、お墓まで持って行かなきゃ、なんだよね……」
 脳梗塞を発病してから、今日までの出来事を思い返し、楓は儚く笑う。
 これは、言ってはいけないこと。
 この先ずっと、永遠に言えないし、言うべきことではないのだ。
 そう、心に諦めという名の暗い蓋をした瞬間だった。
(スマホ……。沢山、メッセージも電話もきてる)
 母から渡されたスマホを力なく見つめる。おそらく心配や励ましの言葉が来ているのだろうが、楓には今、それらに答える気力はなかった。
 例え気力があっても、どう返せば良いのか分からなかった。
 楓が発症して入院生活を始めてから、一週間ほどが経過した。
 母親は毎日のように仕事後、残された僅かな面会時間にも関わらず会いに来てくれた。
 約束の日記帳も買ってきてくれた。
 それから日記帳には、怨嗟のように日々の不満や絶望が綴られた。『態度が悪くて、こちらの話を聞いてくれない』、『疲れてるのかもしれないし実際他人事なんだろうけど、他人事みたいに話してるのが本当に腹が立つ』、『リハビリをしてても全く変わらない。時間も短いし、もう嫌だ』、『食事も味がしないし、味噌汁なのかお湯に野菜をつけてるだけなのか分からない』。
 書いている本人すらも開く度に過去の自分が書いた内容にイライラしてくる愚痴ばかりだ。
(もう少し、前向きな事を書けば良いのに。こんなの、最悪じゃん)
 そうは思いつつも、腕は勝手に嫌な事ばかり書いていく。これでは日記帳ではなく愚痴帳だ。
 楓はふと、スマホを見る。電源を落としていた事でその後どんなメッセージが来ていたかは分からない。だが、今はどうしても――無性に渚と話がしたい。いや、話を聞いて欲しいと思った。
 歩く度に左足の爪先が引っかかる無様な歩きだ。そう思いながら、談話スペースへ座る。ここは通話も許可されたスペースだ。
 Wi-Fiも通ってないのにと、また不満でイライラしながらメッセージアプリを見ると、通知はおびただしい数になっていた。心配してくれるメッセージの数々を無視している事に心痛みながら『川越渚』の名前を見つけた。何通ものメッセージが来ている。メッセージを読みながら、どう返事をしたら良いのか楓が悩んでいると、渚から通話がかかってきた。数秒程、戸惑った後に楓は通話に出る。
「……もしもし」
『――楓!? 良かった、生きてた……っ』
「生きてるよ、勝手に殺さないでよ」
『だって、ずっと既読つかなくて……やっと既読付いたから』
「だからすぐに通話かけてくれたの?」
『そうだよ! ウチ、ずっと心配してたんだからな!』
「心配かけて、ごめんね」
『良いよ。生きててくれただけで本当に良かっ――』
「――良くないよ」
『……楓?』
「ちっとも、良くない! 生きてても、嬉しくなんかない! 動かないの、脚が……っ。私の脚なのに! ちっとも地面を蹴ってくれない、やっと出ても爪先が床にひっかかる! 何なの、この脚は……っ。なんで、なんで私がこんな目に遭わなきゃいけないの!?」
『……』
「私、もう走れないだろうって! 私の生き甲斐で、全てだったのに! ねぇ、なんで……っ。なんでもう駄目なの!? 水飲まないで走ってた人なんて沢山いるのに、なんで私が……っ」
『楓……』
「嫌だよ……っ。走りたい、また走りたいよぉ……っ。動いて、思い通りに、動いてよ……っ!!――こんな身体で生きて行かなきゃ生けないなら、そのまま死んでれば良かった!」
 枯れ果てたと思っていた涙が湯水の如く溢れてきた。病院で誰にも言えなかった我が儘が、心を許して、今もきっと毎日走り続けられているであろう親友の声を聴いている間に出てきた。
 最も願うのに、叶わない思いを、本音をぶつけてしまう。
『……ごめん。軽率な事を言った』
「違う、渚は何も悪くない! 悪いのは私、こんな自分が本当に嫌だけど、でも止まらないの!」
『うん。……聴かせてくれよ。楓の気持ち全部』
「――……っ。覚悟、してね」
 建設的ではない、唯の我が儘のような叫きを渚は全て頷いて聴いてくれた。
 その晩、消灯時間になるまでずっと――。
 発症から約二週間が経過した。
 再び、中野医師や他にも医療相談員も交え今後の事について話をするという事になった。
 医療相談員に連れられやってきた面談室に、遅れて中野医師が来た。手術着のままと言うことは、直前まで手術をしていたのだろうか。忙しい時間をぬって時間を割いてくれる事に本来は感謝しなければならない。
 そう理性的に思える程度には渚のお陰で回復した。
 だが、自分の人生に悲観しているのは変わらない。楓にとっては、走る事が全てなのだから。
「改めまして医療相談の谷口です。まずは先生から病状の説明を御願いします」
 進行役は医療相談員の谷口という女性が務めるらしい。
「病状は安定していますね。日常生活をおくれる能力はありますし、今後は定期通院に切り替えても良いレベルです。まだリハビリを続けたいというなら、歩きをより良くする為の理学療法継続を目的に回復期リハビリテーション病棟へ転院という形もできます。どちらを選ばれるかはご本人様とご家族様次第で対応可能です」
 相変わらず他人事のようだと感じたが、職員と患者ならこれぐらいの距離感が普通なのだと楓は最近では思い直していた。
「では、今の先生からのお話をお聴きしてご家族様の希望は如何ですか?」
「その、回復期リハビリテーション病棟っていうのはどういう所なんですか?」
「はい。その名の通り、リハビリを中心にする病棟ですね。現在は一日に多くて四十分程度のリハビリ時間だと思いますが、回復期なら限界三時間までリハビリを受ける事ができます。当院でもそうでしたが、大宮さんの症状の場合ですと理学療法士による理学療法が中心かと想います」
 母の質問に医療相談員の谷口さんが答えた。
 三時間のリハビリという言葉で、少し楓は興味が湧いた。
 そして母は、身を乗り出しながら――。
「――それだけリハビリをすれば、娘はまた走れるようになる可能性はありますか?」
 楓の胸がズキっと痛む質問を口にした。
 死ぬまで、その希望は……想いは言えないと、先日誓ったばかり。
 もう走れないと動揺して、涙ながらに願いを口にした自分の責任だ。
 そう楓は、己を強く責める。
 尋ねられた中野医師は、困ったような表情を一瞬浮かべて呻った。
「それは断言できませんが、凄く悪い状態からちょっと良くする事は結構できます。ただ、かなり症状が軽い状態から完全に無くすというのは凄く難しい事なんですよ」
「そうですか」
(――ほら、やっぱり。私がまた走りたいなんて、そんなワガママは……皆を不幸にするんだ。絶対に、言っちゃいけない言葉なんだ)
 少し沈鬱として俯く楓に、母は気丈に笑いながら声をかけた。
「可能性がゼロじゃないなら、もうちょっと頑張ってみない?」
 母の言葉に、楓は少しだけ励まされた。
 誰から聴いたか、何処で聴いたかも覚えていないが――『この世に0%と百%は存在しない』という言葉を思い出した。
「――行ってみたいです、その回復期リハビリテーション病棟って所に」
 楓が口にした、自らの希望。前向きな発言。
 脳梗塞発症後、おそらく初めて心から口にした希望に母の顔が笑顔になった。
「分かりました。いくつかこちらとしても候補はあるんですが、ご希望とかはありますか? 例えばですが、ご自宅から近い所が良いとか」
 医療相談員の提案に、母は身体を前のめりにさせ希望を述べる。
「その、昔有名な元プロ野球選手とかが入院していた東京の病院もリハビリ専門でしたよね? あそこは駄目ですか? そこなら腕の良い理学療法士さんも沢山いらっしゃるんじゃないですか?」
「勿論、駄目というわけではないですが、当院との関係が薄いことや人気という事もありますのでベッドの空き次第では入院受け入れ判定に時間がかかるか、もしかしたら判定が駄目という事も……」
 申し訳なさそうに言う谷口さんに、楓の方こそ申し訳なくなってしまう。
「あの、こちらの埼玉大学病院さんの系列で、そういった病棟はないんですか?」
 県外の遠い場所で母親に迷惑をかけたくない。
 楓としてはそのぐらいで気持ちで聴いた言葉だったのだが――中野医師も、そして谷口相談員までもが苦虫を噛みつぶしたような顔になった。
「あの……私、何かマズイことを言いましたか?」
 不安になって楓が問いかけると、数秒悩んだ後に中野医師が重々しく口を開いた。
「……うちの系列で、確かに回復期リハビリテーション病棟はあります。というか、建物は離れてますけど同一敷地内に。……ただ」
「ただ? 腕の良い人が居ないとかですか?」
「いえ……。知識技能は恐らく超一流の者が一人います。しかし、心からお勧めするかと言われると……」
「ま、まぁ人には相性がありますから!」
 場を取りなすように谷口相談員がフォローを入れる。楓は、医療相談員に聴いてみた。
「相性というと……その理学療法士さんは、性格が悪いという事ですか?」
 谷口さんは、絵に描いたように眉を八の字にして困っていた。
「患者さんに対しては、凄く良い方だと思いますよ。私も保坂(ほさか)が一年間人事交流で当院に来ていた時に一緒に働かせてもらいましたが……凄く、患者さん思いで熱心だと思います」
 その口ぶりで楓も母も理解した。『保坂』という理学療法士は、患者さん思いで熱心だが、おそらくスタッフから嫌われる癖がある人物なんだろうなと。
「その保坂という人のフルネームをお聞きしてもいいですか?」
 母親の問いに迷った谷口相談員は中野医師にチラリと目をやると、中野医師が頷いた。
「――保坂のフルネームは、保坂旭(ほさかあさひ)と言います」
 保坂旭。
 一先ず、急な事なので転院するにしても退院するにしても考える時間を頂きたい。決意が固まったら谷口さんに連絡をすると言って場は解散になった。ただ、埼玉大学病院もベッドの空きを待っている人がいる状態だから、いつでも転院できるよう紹介状は出せるように準備しておくし、入院判定は今日のうちに保坂のいる埼玉大学リハビリテーションセンターへも出しておくから、と。
 その時の谷口相談員の遠くを見る目が、少し気にかかった。
 母は谷口相談員の名刺を受け取り、保坂旭について調べてみると言って帰って行った。
 そして楓は、いつも担当してくれる松本理学療法士に尋ねてみた。
「松本さん、保坂旭さんって理学療法士を知ってますか?」
「大宮さん、なんで保坂さんの事を知ってるんですか?」
 驚愕したように目を見開いた。間違いなく、保坂旭について知っている人の反応だった。
「ちょっと、今後の事で中野先生達と話した時、その方の名前が出たもので」
「……大宮さんが、保坂さんのいる埼玉大学リハビリテーションセンターに転院するって事ですか?」
 松木理学療法士は明らかに動揺し、軽く顔を引き攣らせる。
「いえ、まだ決定ではないんですけど。どんな人なのかなって」
「そう、ですね。私は一年しか一緒に働いてないですけど、知識技能は抜群ですね。私も勉強会で知識技能を教えてもらった事があるんですけど、理学療法士としては心から尊敬してます。世界中を飛び回ったり、休日は必ず何処かの勉強会に参加してるって噂ですよ。脳卒中と運動器の認定理学療法士も持っていますし、たしか神経の専門療法士資格も持ってるはずですから」
 やや早口に言う松木理学療法士。
(普通、たった一年間一緒に働いただけの人の事をこんな覚えてるものなのかな? それとも、つい最近この病院にいたとかかな)
 一人で納得して、楓は本丸に斬り込んだ。
「人間性についてはどう思います?」
「え!? あー……。そこを聞いちゃいます?」
「みんな似たような反応するんですね」
「あ、他の人もそんな感じでしたか。まぁ、でしょうね。……とにかく、熱心ですよ。患者さん思いで、患者さんの為になる事なら常識を破るというか。一言で言うなら――奇人(きじん)ですね」
 奇人。変人ならいくらでもいるが、変人ではなく奇人とまで呼ばれる人物。
 その言葉を聞いて、楓は思った。
 久しぶりに、好奇心が湧いた。
 腕と知識は確かで、患者思い。それなのにここまで色々な人々の表情を歪める奇人を知りたいと。
(どうせ何をやっても駄目なら……そんな面白そうな人を知りたい)
「……これ、今すぐ突っ込まれないようなサマリーを書かないとヤバいなぁ」
 小声で松木理学療法士が呟いた。サマリーとは、経過や状況を書いた紹介状のようなものだ。
 楓は言っている意味もよく分からなかったし、深く追求しないようにした。母に保坂という人に担当してもらいたいとメッセージを入れると、母から直ぐに電話がかかってきた。
 慌てて談話スペースへ移動したため、転びそうになりながらも何とか楓は電話を取った。
「もしもし、かけるなら先に言ってくれないと、早歩きして転びそうになったよ」
『ああ、ごめんなさいっ。でもね、凄いのよ! お母さんも保坂旭さんについて調べてみたの! そしたら、日本だけじゃなくて英語で論文が沢山載ってたり、なんか有名な学術紙で! 各所でセミナーも開いてたり、本当に凄い人みたいよっ。是非、保坂さんの所に行きましょう! 谷口さんにはお母さんからすぐ連絡するから!』
 一体、どんな資料を見たのか。
 母親はもの凄く興奮した様子で、まるで地獄に垂れた蜘蛛の糸を見つけたかのようだった。
 ――そして、翌日の朝だった。
 疲れた顔をした谷口相談員と母がやってきたのは。
 まだ面会時間ですらないというのに、なぜ母がここにいるのだろうか。
 その疑問を口にする前に谷口相談員から説明があった。
「すいません朝早く突然で。ただ、本当に突然で申し訳ないのですが――これから転院となります」
「――え?」
 突然の言葉に、楓は頭が追いつかなかった。
「いえ、入院判定審査書類を昨日の昼にあちらの医療相談員に送りまして……。ベッドの空きもありますし、受け入れ可能と。それと、『脳なら早ければ早いほうが効果が出ます。病態が落ち着いていて、ご本人様やご家族様が希望されるなら極力早く、一分一秒でも早くこちらに来て集中的リハビリができるよう転院と準備の手配を御願いします』と言われまして」
「……一応聴きますが、その強引で、我が儘で人を振り回す発言は……誰が言ったんですか?」
「……保坂です」
 谷口相談員は、遠い目をしていた。
 保坂という理学療法士のその言葉に、方々を走り回り頭を下げた事が窺えた。
「な、なんだか……。私達のせいで、申し訳ありません」
「いえいえ! そんな……。あちらでもリハビリ等、色々と大変かとは思いますが、どうぞお大事になさってください」
「ありがとうございました」
 母の謝罪の言葉に応じる谷口相談員に、楓は心から頭を下げて御礼をした。
 そうして、楓は僅か二週間未満だが滞在していた埼玉大学付属病院を退院する事になった。転院先の埼玉大学リハビリテーションセンターは同一敷地内という事もあり、病院の車で移動する。
 母親は入院手続きをするために急遽来たとの事だ。本当は明日でも良かったが、職場に連絡して休みを貰えたから今日入院手続きもできるとの事で、今日に転院が正式決定したらしい。
 付き添いの看護師は「退院おめでとうございます。リハビリ、頑張って下さいね」と明るく笑顔で言ってくれている。だが、楓は見てしまっていた。
 病院を出る前、誰が付き添いで行くかをナースステーション内で揉めていた事を。
 そしてジャンケンにまでなり、結果この看護師が負けた瞬間、この世の終わりのような顔をしていた事を――。
      3
「大宮さんですね。初めまして。担当看護師の中島と言います。お部屋にご案内しますね」
 車で僅か五分程度走り、楓は埼玉大学リハビリテーションセンターの病棟へと辿り着いた。
 病棟へ着くと担当看護師の中島という女性が迎えて、入院手続きや説明、契約があると病室へ案内してくれる。
 楓は個室であることに驚いた。
 個室は、個室料金という保険が効かない入院料が取られると聞いた事があるからだ。
 母に小声で聞いてみると――。
「楓が入院してることがニュースになってるみたいなの。相部屋だと、いつ拡散するかわからない時代じゃない? お金なら大丈夫だから。心配しないで」
 母親にそう言われては納得するしかない。
 一緒に付いてきた看護師さんは一言、楓へお別れの挨拶をするとナースステーションへ入り、書類などを手渡して埼玉大学リハビリテーションセンターのスタッフへ説明していた。
 それはもう、絶望的な表情で。話を聞く看護師も、同情的な目を向けていた。
「――以上で病棟での契約書類手続きは済みました。あと、入院費などに関しては別途で契約と説明があるので、ご家族様はお手数ですが一階事務所にお声かけいただけますか?」
「あ、はい。分かりました」
 担当の中島看護師に案内され、母親はエレベーターで一階まで降りていった。
 入院の手続きや説明って大変なんだなと楓が思うほど、大量の書類を読み、いくつもの書類にサインをしていた。後で母に改めて御礼をしなければと思っていると――。
「失礼します」
「失礼致します」
 男女の二人組が病室にやってきた。五十代だろう男性と、三十歳前後の女性だ。着ている服装は白衣のズボンと紺のスクラブ。服装こそ殆ど一緒だが、楓もリハビリ職の人と看護師や介護士の見分けが大分付くようになった。それぞれ、体付きや雰囲気が違うのだ。
 この身体の引き締まり方、歩き方はリハビリ職の人だ。という事は、この年配で自分より少しだけ身長が小さい、百六十センチメートル後半ぐらいの人が保坂旭だろうか。そう考えていると――。
「大宮さんの担当を務めさせて頂くことになりました、リハビリテーション科の科長で理学療法士の岩原和義です」
「同じく担当を務めさせて頂くことになりました、主任で理学療法士の高木です」
「――え」
 思わず、楓は声をもらしてしまった。
「どうかされましたか?」
「あ、いえ……。あの、担当は保坂旭さんって聴いていたので」
 それを聞いた女性は苦笑し、男性の方――科長の岩原は露骨に眉を寄せた。
「……すいません、保坂も担当なのですが、今はリハビリ中だからと。また後ほど、他の方のリハビリ時間でない時に挨拶へ来ると思いますので」
 頭を下げてそういう高木理学療法士――主任に、楓も思わず頭を下げ返してしまう。
「あ、いえいえ。こちらこそ、失礼しました」
「……それでは、失礼します。またリハビリの際にお伺いしますね」
 そう言って岩原科長は足早に病室から出て行った。
 病室に残されたのは、楓と高木主任だけだ。
「……余程嫌われているんですね。保坂旭さんという方は」
 保坂の名前を出した瞬間に岩原科長の態度が急変したのを見て、楓は苦笑しながら高木主任に呟く。
「まぁ、円滑で平穏を維持したい管理職からは特に嫌われちゃうからね」
 どこか悲しみをおびた目で高木が言う。そんな含みのある態度が、楓の好奇心を刺激する。
「……前の病院の方々も保坂さんは性格に癖があるみたいに言って嫌わ……苦手みたいな態度をとってましたけど、高木さんから見ると違うんですか?」
 そんな疑問に、高木は苦笑して少し悩みながら答える。
「確かに、保坂は性格が良くないですからね。チーム医療には多職種の協力と連携が大事なんです。でも、保坂は協力と連携を要請するんじゃなくて強要する……というか、せざるを得ないように追い詰めるって言った方が正確ですかね?」
「追い詰める、ですか?」
「保坂は中心に必ず患者の利益を置いて、医療従事者としての正論で攻めるからたちが悪い。自分勝手に見えて、誰よりも相手の意見を聞きたがって、誰よりも努力して働いて。そうやって患者さんに尽くすから、なおたちが悪い。質じゃなく、性格って意味で、ですね」
「成る程。確かにそれは、癖が強いし性格は良いとは言いづらいですね。……でも、そんな強引な事をやっていて、よく孤立したり誰も話しかけなくなったりしませんね。私の高校なら、そういう人はイジメられそうです」
「それは、保坂が相手を見下すことも上に見ることもなく、対等に接しようとしてるからじゃないですかね? 私達医療従事者の多くは国家試験を受けて、受からなきゃこの仕事はできないんです。今は、試験問題と回答なんてすぐネットで見られるようになったんだから凄いじだいですよね」
 楓は、保坂の説明をしているはずなのに医療従事者の国家資格について苦笑しながらもしみじみ感じ入りながら説明を始めた高木主任の言葉に何を言っているのだろうかと思うが先程の岩原科長の態度で重苦しい雰囲気が尾を引いており、突っ込むこともなく真剣に耳を傾け続ける。 
「保坂はセラピスト――理学療法士や作業療法士、言語聴覚士だけでなく看護師や管理栄養士、薬剤師や医師とかの国家試験問題を毎年受けて必ず合格点どころか超高得点を取ってるんですよ。対等に議論できるようにって。しかも勉強会だってセラピスト以外の勉強会や学会にもガンガン参加するし。臨床に出て自分が日常やってる業務外の知識は日々忘れていく私達からしたら、たまった存在じゃないんですよ」
「……は?」
 楓の口から、穴を押さえることなく息を吹き込んだリコーダーのように間の抜けつつも綺麗な声が漏れ出て、高木主任は思わず笑顔になる。
「ハッキリ言って化け物ですよね」
「え、医療系の国家試験って難しいんですよね?」
「専門性が高い試験なのは間違いないですね」
「……それ、保坂さんって本当に人間なんですか? 私、そんな嫌みったらしい化け物とリハビリするんですか……。ちょっと保坂さんと会うのが嫌になってきました」
 高木主任は渋面を浮かべた。高木主任自らも化け物と表現したが、そこには敬意がある。
 だが、楓の放った『嫌みったらしい化け物』という表現には少しムッと来たらしい。
「怖がらせてごめんなさい。でも、勉強熱心で患者さんをよく見ている人程、保坂の事を尊敬してるんですよ。彼とディスカッションすればする程、追い詰められるけど勉強になるから。だから、実は保坂に追いつき追い越そうなんてセラピストは沢山いるんですよ」
「そう、なんですか。……高木さんもその一人みたいですね」
 揶揄するような楓の言葉に、高木は頬を少し赤らめた。
「大人をからかわないの! まだ病棟内を案内されてないですよね? 話ながらトイレの場所とか、リハビリ室の場所とか教えますからついてきて下さい。歩けるって情報でしたけど、平気ですか?」
「はい、平気です。……ゆっくりなら」
 ゆっくり、気を付けて歩けば転ぶことはない。だが、歩く度に自分の身体がもう、言うことを利かないという現実を突きつけられて――表情に影がさす。
 高木主任は楓の隣に立ち、歩く速度に合わせてゆっくりと病棟内を歩く。
 楓が病棟内を歩いていると、病室のドアから「嫌だって言ってんだろ! 帰れ!」という老年男性の叫び声がして、男性のリハビリスタッフが殴られていた。それでも、スタッフは笑みを浮かべながら「そう言わずに。家に帰るためにも一緒にいきましょう?」と優しく語りかけている。
 その異様な光景が、楓には酷く衝撃的だった。日常で暴力を見ることすらほぼないのに、殴られて平気な顔をしているなんて――不気味だと感じた。
 楓の表情から考えを読み取ったのか、高木主任が優しく説明の続きをする。
「医療従事者って、患者さんから日常的に暴言暴力を振るわれるんですよ。一般職なら、取引相手に暴力を振るわれれば警察沙汰でも、医療従事者にはそんな事はない。暴言暴力を受け入れる事すら業務の一環。さらに世間が思ってるよりも薄給で、同業者間でもストレスでパワハラやイジメが横行しがちです」
「……大変な仕事ですね。辞めようとか思わないんですか?」
 自分には耐えられそうにない。そんな思いで楓は尋ねる。
「まぁ、離職率が高い仕事だから……人の入れ替わりは激しいですね。人はいつまでも誰かの役に立つ仕事がしたいという希望だけでモチベーションを維持できる程、強くないです。医療従事者も人間なので、暴言暴力を受ければ患者さんへのストレスも溜まります。――だから、保坂はああなったのかもしれないですね」
「ああなったって、どういう事ですか?」
「私は保坂と同期なんですけどね、保坂が変わったのは六年前からなんです。それまでも凄く勉強熱心ではあったんですけど、周囲と上手く連携しようとコミュニケーションを取っていたんです。それが、六年前のある日を境に人が変わって。取り憑かれたように常軌を逸する猛勉強と自他共に厳しい勤務姿勢になって――医療従事者共通の敵、ストレスの捌け口になったんですよ」
 何か保坂の中で心変わりするような事件でもあったのだろうか、と思ったが――楓はそれよりも気になる事があった。
「六年前に激変した保坂さんと、その前の姿も知る同期って――高木さんは今おいくつなんですか?」
「大宮さん。女性に年齢を尋ねるのは、慎重になった方がいいですよ? お姉さんからのアドバイス」
 前を向いて歩くのを止め、横を向いた高木主任の笑顔は威圧的な雰囲気を醸し出していた。
「すいません」
「……まぁ、いんですけどね。元々、私はサブ担当みたいなものです。本当は保坂が午前中と午後に一回、岩原と私どちらかが午後に一回リハビリをする予定なんです。一回のリハビリはだいたい一時間ぐらいですね。――患者さんが若い女性なら、同性として話を聞ける若い女性で、ある程度は保坂の手綱を握れる人も担当にいた方がいいって事で私が選ばれたので」
「若い女性……」
「大宮さん? 医療従事者は、別に患者さんに怒らない訳ではないからね?」
「すいません、ちょっと心の声が……」
 思わず漏れ出てしまった本音が失礼な事を理解していたのか、楓はペコペコと頭を下げた。普段、自分が接している女性の大半が女子校生なのだから、どう見ても大人な高木が若いというのに違和感を抱いてしまったのだ。素直過ぎる楓は、それを隠せなかった。
「はぁ……。私は確かに、もう三十二歳ですからね。ちょっと敏感な年齢なもので、こちらこそごめんなさい」
「という事は、同期の保坂旭さんも同じ三十二歳なんですか?」
「三十二歳を強調しなくていいんですよ?……保坂は三年制の専門学校を出て就職したから、大卒の私より年齢的には一個下ですよ。三十一歳です」
 成る程、と楓は思った。同期ではあるが、年齢的には高木主任の方が一個上。そして役職も主任と名乗っているから、保坂旭のストッパーとして選ばれたのだろうと納得した。
「はい、ここがリハビリ室ですよ。ウチの病院はちょっと特殊で、フロア毎にリハビリ室があるんです」
「うわ……。凄い、機械とベッドが沢山ありますね……。テレビであの歩く為の棒は見た事ありますけど、他は見た事無いものばかりです」
 リハビリ室には、所狭しと低いプラットフォームというベッドや高さ調節ができる診療台、平行棒にウォーキングマシンなどが並んでいた。どれも、楓からすれば新鮮なものだった。
「大宮さんは、前の病院ではリハビリ室に行かなかったんですか?」
「そう、ですね。病室で筋トレとかマッサージして、後は廊下を歩いたり階段を上り下りでした。だから、こういう場所って新鮮で……ちょっとドキドキします」
「ああ、そうなんですね。まぁ、徐々に慣れていきましょう。あ、あそこがナースステーションで――」
 入口から覗くリハビリ室を後にして、再び廊下を歩く。
 少し歩いて見えたナースステーションの前で、高木が固まった。
 そして、楓も固まった。
 ガラス越しのナースステーションの中。――背中しか見えないが、百七十センチメートル後半ぐらいの細身の男性スタッフが女性看護師に詰め寄っている。
 ステーション内は剣呑にも感じる雰囲気で――楓がよく見れば、詰め寄られているのは付き添いで送ってくれた看護師だった。男性も、付き添いだった看護師も書類を手に討論している。
 周囲の人も、白衣を羽織った医師も座って真剣な、それでいて心配するような表情を浮かべている。
 少し耳を澄ませば、女性看護師が必死に書類を見ながら説明していて――。
「では、看護上の問題は特に無かったのですか? ストレステストでの血圧変化や、服薬による副作用の症状は?」
「そ、それは……すいません。私。担当じゃないので……」
「貴女が見てきた範囲でもいいんです。観察したことを教えて下さい」
 男性スタッフが熱心に詰め寄っていた。
 女性看護師は後ずさり壁に背を当ててしまうが、男性スタッフは引く様子がない。ナースステーションの外にまで、少しでも情報を得たいと気迫が漂ってくるようだ。
「す、凄いんですね。医療現場って……」
 病院とは命の現場という。その重い責任から、きっとこんなにも重苦しい空気でも必死になっているのだろう。ナースステーション内で起きるスタッフのやり取りに息を飲み、呟いた楓だが――。
「いや、あれは――相手が保坂旭だからです」
「――え?」
「……あれが、保坂旭です」
 苦笑しながら、行きましょうと高木が楓の腕を軽く引いて案内を再開した。まるで長居するのを避けるように――。
 病棟の案内が終わった楓が病室へ戻り、先程の保坂旭のやりとりを思い出しながらしばし呆然としていると、やがて担当の中島看護師から入院時全員に取っている胸部のレントゲン撮影のためと呼ばれ、X線撮影室に案内された。
 楓が病棟へ戻ると、リハビリに呼ばれるまで自室で待機する事になった。予定では医師がリハビリ処方を書き終えて、夕方ぐらいにはリハビリできるとの事だったが――。介護士の手で「お昼ご飯ですよ」と昼食が配膳される十二時まで、保坂旭の僅かに見えた背中と、必死すら滲む声が離れずベッドに座り続けた。
 怖い物見たさにこの回復期リハビリテーション病棟へ来たが、早くも本当に怖くなってきていた――。
「――失礼します」
 ノックの後、男性スタッフの声が楓の病室に響いた。下膳に来てくれたのだろうか。
 まだ昼食の運ばれてきた十二時から二十分しか経っていない。
 だが丁度食事を終えたタイミングだったので、楓はお盆を整えて渡そうとすると――。
「――初めまして、大宮楓さんですね?」
「――あ、はい……」
 高い身長、細身でも引き締まった筋肉。
 纏う空気が看護師や介護士とは明らかに違い、ちょっと面食らった。
 肉体的には完全にリハビリスタッフのものだ。
 リハビリのスタッフだとしたら、今は昼休みだろうから――完全な不意打ちだった。
 手にはバインダーと黒い大きなバッグを持っていて、明らかに下膳に来てくれた等という雰囲気ではない。
「改めまして――僕は大宮さんのリハビリを担当させて頂く理学療法士の保坂と申します。これからどうぞよろしく御願いします」
「あ、こちらこそ……。よろしく御願いします」
 恭しく頭を下げている男性――保坂に倣うように、ベッドに腰掛けていた楓も返礼する。
(頭を起こしているとは言え、ベッドの上に座って挨拶はないよね)
 楓は慌ててベッドから立ち上がって挨拶しようと動き出し――そこで気が付いた。
 口調は穏やかで朗らかな笑みも浮かべている。一見すると爽やかな好青年だ。
 ――だが、笑みに隠れたその視線は鋭い。
 楓が座っていたベッドから立ち上がって挨拶をしようとすると、すぐに作られた笑みは消え真剣な面持ちへとと変わっている。旭の方を向く動作。その一挙手一投足が観察――いや、分析されている。
 楓とて人に観察されるのは慣れている。
 顧問や強化合宿でのコーチ。同じ学舎に通う生徒や、練習まで見に来ていた者達。誰もが楓の動きを観察していた。ずっと好奇の目線にも晒され続けてきた。
 しかし、保坂旭の探るような目線は今まで経験したどれとも違う、異質なものだった。
 ギラつくと言うと言葉が悪いが、獲物を狙う飢えた獣のようだ。一瞬、女子高生に対して欲情してるのではと慄いたが――しかし一切の下心が無い事はすぐに分かった。
 今まで見た誰よりも真摯な瞳で、奥に秘めた炎の如き熱が溢れ出ているのを楓は感じとった。
 陸上の大会でスタートを切る直前の選手――いや、それ以上の集中力を感じる。
「座ったままでどうぞ。食後に突然ですみません。今後のリハビリの為に色々と検査したり、お伺いしたい事があるのですが、お時間よろしいですか?」
「あ、はい」
(まだお昼休みだろうに。成る程、さっき高木さんが言ってた誰よりも働くってこういう所なんだ)
「では、よろしく御願いします。まず、リハビリにどんな事を求めますか? 目標でも何でも、自由に仰って下さい」
 保坂は荷物を床に置き、バインダーを開いてメモの用意をする。
 保坂の問いに対して、楓はしばし迷った後――半ば諦めていた夢物語を語った。
「……私、この年代では世界一早いランナーだったんですよ。いつかは年代どころか……オリンピックや世界陸上で金メダルを取る。真の世界一にって、思ってました。まぁ、もう絶対に無理なんですよね。……早く諦めるべき、なんですよね」
 乾いた笑みで自嘲的に語った。
 長年の目標であり、蓋をした秘めた願いだ。
 正直、この身体では無理な事は、いい加減理解している。
 言っても、周囲を困惑させるだけだ。
 だから、『リハビリをして走れるようになりたい』。
 その思いをはぐらかすように、過去の目標を語ったのだか――。
「――なぜ、諦めるべきだと思うんですか?」
 力強く見つめてくる保坂の言葉に、顔を俯かせていた楓は戸惑った。
「え……。だって、私の左足首が上手く言うことを効いてくれないから。……みんなも、早く私が現実を受け入れてくれる事を願ってるような態度でしたし」
「それは周囲の願いであって、大宮さんの願いではないように聞こえますと。つまり、大宮さんは左足首が自由に動かせるようになりたいという事ですね。そして、それができないという問題で走れない――大宮さんの笑顔が奪われていると」
「……はい」
「大宮さん自身の願い、目標は――走れるようになりたい。そこが本心で間違いないですか?」
「…………」
「――沈黙していても、目は正直ですね」
「……え?」
「大宮さんの絶望の闇に染まった瞳の奥には、諦めたくないという想いの炎が灯っているように、僕には見えました」
「な、何を……。何を、言ってるんですか? そんな事を願われても、保坂さんだって困るでしょう?」
「僕が困る困らないなど、この問いには関係ありません。それでは願いに、笑って過ごすための目標に向かい全力を尽くしましょう。左足首の随意性――自分の意思で自由に動かせるようにしていきましょう。まずはそこを目標にリハビリをしていきましょうか」
 何でも無いことのように、平然と言ってのけた。
 医師も看護師も、誰もが口を濁して『わからない』と言ってきた事を『出来るようにしよう』と言ってくれた。
 それだけで、楓にとっては救いのような言葉だったが――俄には信じられない。
「……元通り、動くようになるんですか?」
 これは、楓が勇気を振り絞って出した言葉だ。
 誰もが『難しい』、『何とも言えない』と説明されてきたのだ。
 それをまた否定されたら――考えるだけで身が震えるようだった。
「この世に絶対はありません。――ですが、十分に可能性はあります」
「……え」
 楓は自分の耳を疑った。
「リハ医とも脳画像を見て話し合いをさせて頂きましたが、大宮さんは血栓溶解療法で一度途絶えた血流が再開しています。当初、虚血状態にあった中心の周辺部位――ペナンブラというのですが、その部分は血栓溶解療法による迅速な血流再開で壊死はしていませんでした。今は一時的な阻血の中心部が極々僅かに梗塞化していることが確認できました。梗塞化し、壊死した神経細胞によって左足を動かす神経路の働き、神経伝達が阻害されていると予想されます。残念ながら、一度死んでしまった神経細胞が生き返る事はないと言われています。ですから完全に元通りという訳には行かないかもしれません」
 保坂は、淡々と検査機器らしきものを取り出したり、メモの準備を整えながら全く噛むことも詰まることもなくのべ、更に続ける。
「――ですが、脳はニュートラルネットワークと言って身体を動かす神経繊維の繋がりが大量にあります。既に死んでしまった神経細胞の周りにもです。適切なアプローチをする事で死んでしまった神経の代わりに働く新たな神経回路が出来る事が明らかになっているんです。そして、この神経回路の再構築は若く、発症早期から早ければ早い方がより効果が高いと言われています。――ですから、諦めるにはまだ早い。リハ医と僕は、話し合いの上でそう考えました」
 保坂はバインダーに目を落とし、挟まれた用紙にメモや姿勢、訴えなどを書きながらスラスラと淀みなく答えていった。
 保坂が説明してくれた言葉を一割も理解できていなかった。
 だが、丁寧に説明されたことで――少なくとも、自分にはまだ可能性があるという事だけは理解出来た。
 勿論、絶対に良くなる訳ではないことも理解出来た。
 だが、よく解らない専門用語を使って説明された上で『今後の事は分からない』と濁されている時より、こういった理論で良くなる可能性がある。だが、こうした理論で無理な可能性もあると説明されると――凄く納得ができた。
(何で、泣きそう……っ)
 同時に先程まで不審で怖かった保坂という理学療法士に対して、信頼感さえ覚えてきた。
「私……諦めなくていいんですか? 周囲の為に、後遺症を受け入れなきゃって……」
 俯き震えた声で絞り出すように問う楓に、眉根を真剣そうにキリと寄せながら冷静な声音で応答えた。
「リハビリをせずとも大宮さんが障害を受容できる、それを望んで笑えるというなら、早期に受け入れて付き合っていくべきでしょう。――ですが、僕には大宮さんが周囲の為に自身の感情を押し殺そうとしているように見えますし、そう聞こえました。……違いましたか?」
「……いえ、違いません」
 実際、楓はかなり我が儘で自分がやりたい事を全力でやって生きてきた。
 だが、自分が最も我が儘を貫きたかった部分が出来ない現実を突きつけられ、周囲にこれ以上の迷惑を掛けないようにと自らの心底からの願いを押し殺そうとしていた。
 ――そして、それは多大なストレスであった。それを、保坂は観察し見抜いてくれ、一緒に解決しようと手を差し伸べてくれた。
(お母さんも、前にリハビリをしてくれた松木さんも……保坂さんを優秀って言っていた理由がなんとなく分かった)
「抑圧した感情はストレスになり、いつか爆発します。――では、脚の動きを見させて頂きたいので裾を捲りますね」
「はい。……はい?」
 表情一つ変えず保坂はしゃがみ込んで、楓の両ズボン――今はジャージだが。
 ジャージの裾を捲り上げていく。膝上ぐらいまで、スルスルと顔色一つ変えずに淡々と。細くもよく引き締まり艶やかでスラッとした生足が出てくる。迷い一つ感じ無い慣れた手練で行われる匠の技だ。
(え、え!?)
 男性に身体を触られた事なんて殆どないし、ましてや裾を捲り上げられた事なんて無い。
「では、そのまま座って両足の爪先をなるべく早く上げたり下げたりしてください」
「こ、こうですか?」
 パタパタと踵を着けたまま、爪先を上げたり下ろしたりする。
「そうです。次は麻痺側の脚を伸ばして爪先を上げて下さい」
「え、はい」
「分かりました。――では、普通に座って爪先を上げたままにしておいてください」
 淡々と平坦な声で、それでいて流れるように動きを指示しながら何事かを考えている。
「あ、はい」
「僕が押すように力を入れますが、負けないように僕の押す力に対抗してください。――では、いきます」
 保坂は楓が吐いている靴や靴下を脱がせながらそう指示してきた。
「え、ええ!?」
 保坂はむき出しになった楓の生足をしゃがんだ自分の脚の上に載せる。足首を外側に捻るようにさせ、足首と足の甲を無遠慮に触っている。力を徐々に入れて押し込んでくる保坂に、楓は反射的に足に力を入れて抵抗した。やはり、左足の方は力がちょっと入りづらくて動きもぎこちない。
「――はい、もう力を抜いて大丈夫です。ちょっとメモします」
 何食わぬ顔で元のように靴下と靴を履かせ、保坂はしゃがんだまま、またバインダーにメモを始めた。
 人の身体に触るのがセラピスト――理学療法士の仕事なのだという事は楓とて理解している。
 松木理学療法士にだって身体を沢山触られた。だが、松木理学療法士は女性だった。
(この人、なんで表情一つ変えないの? 男としておかしくない?)
 世間では、女子校生というだけで欲情されて性犯罪を受けるリスクが上がる。
 楓は自惚れなどではなく、自分の容姿にはそれなりに自信がある。
 告白されてきた回数などを客観的に考えれば、自分は女子高生の中でも容姿が良いはずだ。
 それなのにも関わらず目の前の保坂旭という男は、自分を女性としてみていないように感じた。
 機械のように己の役割をこなす存在。
 機械と違い情熱などの人間味は伝わってくるのだが、年頃の――女子校生の生脚を触ってこうも動じないというのは、プライドが許さなかった。
 楓は変に負けず嫌いで、好奇心旺盛なのだ。
 だからこそ――。
「――あ、白髪発見!」
 己の足元にしゃがみ込んでメモをしていた保坂旭の頭を見下ろすと、何本か白髪が生えていた。
 楓はそのうちの一本をピンっと手早く抜いてやった。
「へへぇっ。保坂さん、苦労してるんですね。若白髪ですよ、ほら」
 ――初対面の相手へ突拍子もない行動をしながら、悪戯をする子供のような笑みを楓は浮かべる。
 そんな楓に『え?』とでも言いたげに、キョトンと大きな目を丸くして見上げ、凍りつく保坂旭。
 まるで何が起こったのか解らない小動物のような顔をしていた。 
 保坂旭とは機械のような化け物で、周囲から酷く恐れられる存在。
 楓自身も、最初はちょっと怖いと思った相手。
(確かに奇人だけど……。ロボットじゃないんだよね。奇人、だもん。ちゃんと人間なんだ)
 そんな保坂旭が予想外の出来事に人間らしく戸惑い、可愛い顔を浮かべ凍りついたのが面白くて。
 楓はやってやったぜとばかりに、思わずふふっと声に出して笑う。
 思えば、久しぶりに出た楓の自然な笑顔だった。
 楓の心を覆っていた暗い蓋に、ほんの少しだけ隙間が空いた気がした。
 白髪一本抜けられる程度の、僅かな隙間が――。