最終章

「――よっす。やってるか?」
「……大和」
 大晦日まであと僅かの十二月二十六日。
 日暮れ頃になって、大和が我が家へ様子を見に来てくれた。両肩には、何やら大きな段ボール箱を担いでいる。
「その汗、ちゃんと筋トレはサボってないみたいだな」
「……当たり前だろ。経過観察も良好で、素振りの許可も出たし」
 午前中に受診をしたのだが、その際に素振りの許可が出た。ただし、投げるのは絶対にダメだと厳命された。
 そうとは言え、バットを振れるようになったのは嬉しい。久しぶりに気持ち良く、屋外で素振りをしていたんだけど……。どうにも、余計な力が入ってしまう。右手の小指の下に血豆が出来てしまった。これは、腕の力で振っている良くない動きの証拠だ。
 どうしたものかと思い、晴れているのにも関わらず屋内へと移動した。
 例の畳部屋――野球屋敷と言われる所以、俺と桜の練習によってイ草が剥けた部屋でバットを振ってみた。
 すると、瞬く間にバットをキチンと振れるように変化したんだ。ビュンッと空を切り鳴らす音が、明らかに鋭くなった。
 勿論、壁に掛けてある鏡でフォームをチェック出来たり、憧れの大選手の動画をチェックしながら振れる環境というのもあると思うけど……。
 一番は――俺の対面に、バットを振る桜の陰が見えたんだ。
 俺にとっては最も身近で――肉体面の不利を押しのけてきた努力の結晶、桜の無駄がないフォームは、最高の師匠だった。……現実には目の前にいなくても、かつての幻影が俺を支えてくれている。
 いつまでも未練がましい男だと思われるかもしれない。――それでも、俺の野球は桜と一緒に育ってきた。もう野球をしている限り、桜の存在を感じずにいるのは無茶な話なんだ。
 練習着を着ることなく、ジャージ姿で練習していた俺が汗を拭う。そんな姿を見ながら、大和が呆れながらも少し嬉しそうに口を開く。
「全く、感情をもっと表現しろ、我が儘を通せとは言ったけどよぉ……。不器用だよなぁ」
「……悪かった」
「良いよ。実際、三国の態度も良くなかったからな。胸ぐらを掴む以外は、武尊が正しかった。――短絡的で、場所が最悪だったがな。見物人がいて動画を撮られてたら、監督だって庇いきれねぇよ」
「本当に、すまん」
「良いって。……一番心配したのは、俺じゃねぇから」
「……え?」
「それに部活禁止処分は、もしかしたらプラスかもなぁ。武尊のケガをちゃんと治す為にも」
 俺の足首と肘を交互に見比べながら、大和がしみじみと語る。
「ランニングはしてるけど、バーベルを持ってジャンプとかは出来ないからな……。家の床が抜けるし。正直、焦ってるんだぞ、俺は」
「そう言うだろうと思って、良い物をプレゼントだ」
 大和が両肩に担いでいた段ボールをドンッと床に降ろした。随分と重そうな音がしたけど……。まさか、学校から担いで歩いてきたのか? いや、それはさすがに無理だろう。どこか近くまで車で送ってきてもらったとか、近所の家に置かせてもらっていたんだろうな。
 恐る恐る段ボールを開くと――。
「これは……バランスボード? それに、こっちはメディシンボール……」
 中にはトレーニング機器が入っていた。家にある機材では物足りない俺からすれば、垂涎ものだ。
「ああ、自主練に使え。ピッチングで揺らがない強靱な下半身に体幹作りには最適だ」
「さすがだな、助かるよ!」
 本当に大和は気が利く。やっぱり、全体やそれぞれの調和をちゃんと見ている。キャプテンの素養を持つ大和には、敵わないな。
「それと、これは部活禁止処分期間中のメニューな」
「……え?」
 制服のポケットから折りたたまれた紙を取りだし、俺に手渡して来る。
 ゆっくり開いて見ると、A四用紙にパソコンで印字されたような文字が羅列されている。ご丁寧に、雨天用と分けて、二パターンある。
 読み進めていくうちに、俺は自分の表情が氷のように固まっていくのを自覚した。
 この練習、キツすぎないか?
 大きな文字で書かれたランニング禁止という文言にもビックリしたけど……。それ以上に、練習メニューの内容だ。
 バランスボード上での投球フォーム練習、片脚を上げた状態――つまり、片脚立ち。これが三十秒二百セットある。しかも、これはほんの準備運動かのように、一番上に書かれた練習メニューだ。
 その後、オーソドックスなメディシンボールを使った体幹トレーニング、これだってえげつない。一回の回数が少ない代わりに、セット数が異常。……普段、部活でやっていた三倍はある。
 それに続いて、階段一段飛ばしダッシュや秩父の急勾配を利用したダッシュインターバルがとんでもない回数ある。一回の距離は短いけど、回数がえげつないなんてもんじゃない。気が遠くなるレベルだ。……ここまでで、二回は嘔吐する自信がある。
 極めつけは――自転車で、三峯神社への往復。
 坂の途中での休憩は推奨。むしろ、ちょくちょく止まって水分摂取するようにと但し書きがある。ご丁寧に、地図で俺の家からのルートまで載せてくれている。――絶対にやれ、逃がさないといった意思すら感じる。
「……大和、三峯神社ってさ、秩父市からどれだけ離れてるか、分かってるか?」
「メジャー持って測ったことないから分かんねぇな。でも、片道四〇キロメートルは離れてたよな?」
「標高も、千メートルぐらいあるんだけど……」
「そんなところまでチャリで走れば、足腰が強くなるぞ~。走るよりか、足首への負担も少なく済むしな」
「……そりゃ、ママチャリよりは性能が良いけど……。一応、クロスバイクだし」
 田舎で暮らしていると、自転車にはお金をかける。一つ一つの移動が、とにかく距離があるからだ。免許が取得出来ない年齢では、自転車は走行性能が良い高価な物になりがちだ。
「あ、そうだ。危ないから路面凍結している時間は避けるように。ヘルメットも忘れず、暗くない時間に行けよ」
「……帰って来た時には、俺の尻が削れてなくなってるかもな」
「立ち漕ぎは推奨するそうだ。良かったな、ケツが宙に浮いてれば、削り取れねぇよ」
 大和はひょっとして、バカなのかな? 立ち漕ぎを続けなければいけない急勾配が延々と続くって、秩父市民なら知ってるだろ。しかも、途中で止まったところからまた自転車を漕ぎ出すとか……。どれだけのパワーを必要とすると思ってるんだ? この練習を完遂するのは、這いつくばってでもキツいぞ? 吐いても根性でどうにかなるってレベルじゃない。……山腹で、倒れたまま動けなくなる可能性があるレベルだ。
「……随分、簡単に言ってくれるな。他人事だと思って」
 ここまでクリアして、やっと医者の許可に応じてバットを振ったり投球フォーム練習をして良いと書かれている。
 うん、あれだな――こいつ、鬼か? 拷問官なのか?
 何より酷いのは、練習前三十分以内と、練習後三十分以内にプロテインなどを飲むことが絶対命令として赤字で書かれていることだ。水分で吐く場合は、ゆで卵を二個摂取するようにとも。……書いた本人も、これは血反吐を吐くって、分かってるじゃないか。
 ご丁寧に科学的根拠まで掲載しているのが、根性論じゃない正しいメニューだと強調している。……文句も言えないじゃないか。キチンと効果が高いって証明されているものを『やらない、やれない』なんて言ったら――夢を諦めたみたいになってしまう。
「武尊の弱点は、下半身体幹――インナーマッスルも含めた筋力が弱いことによるフォームの不安定性。それと、スタミナだそうだ。ダッシュのインターバルは再発した足首が治ってからやれってさ。最近はスタミナつけるのに、遅筋を鍛えるようなランニングはお勧めしてねぇんだとよ。メジャーリーグや日本代表でもな。ピッチャーみたいにフルの力を何度も繰りかえす競技は、インターバルのダッシュがベストだってさ」
「大和……。こんな練習メニューを考える才能も、あったんだな」
 前言撤回だ。全体の調和を考える良いキャプテンじゃない。――有能な鬼畜キャプテンだ。
「俺じゃねぇよ。……話しぶりで、察せよな」
「……一体、誰がこんな?」
「日本一――いや、人類観測史上最高のマネージャーからだよ。少なくとも、武尊にとっては、な」
「――桜が?」
 まさか、と思い呆然としてしまう。
 たった数日前、完膚なきまでに拒絶されたばかりだぞ?
 俺がどれだけ桜を想い、近づこうとしても……桜は傍にいて欲しくない様相だった。これ以上は、幼い頃からの付き合いがあれどストーカーになる。
 心の中で支えにして、密かに想い続ける覚悟でいたのに……。なぁ、桜? お前は一体、何を考えているんだ?――大好きな野球を辞めてまで、やりたいことが出来たって言ってたよな。それ、一体なんなんだ? ずっと一緒に競い合いながら、苦楽を共にしてきてのに……。桜が何を考え、何を決意したのか。俺には、全く分からないよ……。
「……俺は、二人の関係にはもう、何も言わねぇよ。いや、何も言えねぇが正しいな。別れた理由も、直接連絡しない理由も、何一つ教えてもらえなかった。ただ処分の速報と、練習道具にメニューの配達を任されただけだ」
「……そっか。それだけでも、嬉しいよ。……そうか、この性格が悪い鬼畜メニューは、桜が考えたのか」
「自腹で、練習機材もな」
「……それなら、やるしかないよな」
 惚れた人の期待に応えたい。俺ならこれが出来ると思っているから、メニューを作ったんだろうから。
 関係が変化しようと、交際は二度と出来なかろうと――俺は、桜と一心同体だと思っている。
 野球をする度、そう思う。今はもう、俺たちが目を輝かせて憧れた大選手の真似をしたフォームだけじゃない。あらゆる癖、フォームに――桜の面影がある。
 もう、俺が野球をしている限り、切り離せない関係なんだ。
 俺は一生桜の影響を受けながら、投げて打つ。
「……炎天下、真夏の大甲子園球場。灼熱のスタンドは、支えてくれた地元の皆や母校のみんなで超満員。鳴り響くブラスバンドに、熱狂する声援。それに応えるように――球速一六〇キロメートルを投げて湧かす」
「……桜ちゃんとの夢か」
「ああ。……ずっと揺るがない、俺たちの夢だ」
 おふくろとは、そこに更に追加されていたけど、な。予想も付かない偉業の達成だとか。……今の苦境に苦しむ俺では、そこまではさすがに望めない。いくら強気になろうとも、ボールも投げられない今の状況じゃあ、そこまでは……まだ、な。でも、この鬼のようなメニューを乗り越えられれば、もしかしたら……。
「真冬の風で肌がビシビシ凍りそうに痛む今、炎天下だの灼熱のスタンドだのと言われてもなぁ。俺には、イメージ出来ねぇな」
「……そうか」
「イメージが出来ないから――見せてくれよ。武尊の手で、さ」
 柔和な笑みの奥に隠れた瞳は、俺が実現することを全く疑っていないように真っ直ぐな瞳だった。
「ああ。――夏を、楽しみにしてろ」
 だから俺も真っ直ぐに見つめ返し、力強くそう口にする。
「……ヤベぇなぁ。ちゃんと捕れるように、俺も自主練だ。泣いても笑っても最後の夏までに、キッチリ打って守れるようにするからよ」
「そうだな。もう後ろに逸らすなよ?」
「うるせぇ。もう、あんなトラウマ級の悔しいミスはしねぇよ。――良いから、お前はその地獄の特訓メニューをこなせ」
「……地獄だって、分かってたんだな」
「当たり前だろ。最初見た時、どんな屈強な軍人を鍛えるのかと思ったわ」
「……だよな」
 苦笑を浮かべながら、俺たちは最高のラブレターを見つめる。
 何度倒れて泥や吐瀉物に塗れようと、必ず成し遂げて見せると誓って――。

 四月。
 医師からボールを投げる許可が下りてから、一ヶ月程度が経過した。
 最初は短い距離、マウンドの半分ぐらいの距離から。半分以下の力で。久しぶりに投げるボールが気持ちよくて、ずっと笑顔で投げ続けた。
 そして徐々に距離を伸ばし、投げる力を強くして良いとの復帰プログラムに従い――やっと、キャッチャーを立たせた状態で、マウンドから八割の力で投げて良いとお墨付きをもらった。
「行くぞ!」
「おう、来い! 八割だぞ? 絶対に忘れんなよ、絶対だかんな?」
「それ、フリか?」
「ちげぇよ!」
「はは、分かってるって」
 八割とは言っていても、調整が難しい。
 間違っても超えないように、少し軽めに投げよう。
 しっかりと、フォームを意識して――。
「――シッ」
 ああ、気持ち良い。
 指を抜けて、球が空気を切り裂き伸びていく感覚だ。八割以下の、軽く投げてこれなら――全力で投げられたら、どれだけ気持ちが良いんだろう。
 バンッと音を立て――大和はボールを取り損ねている。
 俺のボールをグラブの縁に当て、弾いてしまった。弾かれたボールは、後ろのネットへ突き刺さった。
「オイ、大丈夫か? 突き指とか――」
「――馬鹿野郎! 誰が全力で投げて良いって言った!? 八割の力でって言っただろうが!?」
 キャッチャーマスクを振り飛ばして、大和は怒気を顕わにズカズカと歩み寄ってくる。
「は? いや、俺はちゃんと八割で……」
 俺がそう弁明すると、大和はジッと俺の瞳を見据える。やがて、怒りに歪めていた表情が、徐々にあんぐりと口を開けた間抜けなものに変わっていく。
「……今ので、か?」
「あ、ああ」
「……なんてこった。筋肉がついて、かなり体格が変わったとは思っていたが……」
 掌で顔を覆いながら、ぼやく声が聞こえてしまった。
「大和?」
「――武尊! どんなスゲぇ球だろうと、ぜってぇに俺は捕るかんな! 身体がぶち壊されようが、絶対に後ろには逸らさねぇ!」
「俺……成長してるのか? 大和から……ずっと俺の球を受け続けた、大和から見てさ」
「……ああ。悔しいけどよぉ……。今ので八割って言うなら、武尊は正真正銘――化け物かヒーローだよ」
「そう、か……。そうか!」
 厳しい冬を、懸命に乗り越えて来て良かった。
 何度も苦しくてコンクリートの上で嘔吐して、泥に塗れて……。遭難しかけて。
 それでも、桜の作ったメニューをこなしてきた。練習に参加出来るようになってからも、時間が許す限り、ずっと。
 食べた物は、何度も全て吐いた。それでも、込みあげる嘔気と一緒に、少しずつ飲み込むことでなんとか補給して……。
 輝かしいヒーローの道筋というには、泥や吐瀉物塗れで汚れているけど――そうか。俺は、ちゃんと成長出来たのか!
「嬉しそうな顔しやがって……。俺には武尊を成長させるメニューも考えられなかったけどよ、武尊の球を捕れるのは俺だけなんだ! そこだけは、絶対に譲らねぇかんな!?」
「大和……。分かってる。俺の相方は――お前だけだよ。小学校から、ずっとな」
「……なら、良い」
「感謝してる。……大和が一緒に進学してくれたから、俺は市立秩父で全力を出せる。全力で、夢を――栄冠を掴みに行ける」
 甲子園を制した者に贈られる栄誉――栄冠。
 去年は、大和と一緒にテレビ中継で他の学校の野球部が手にしたのをボウッと見ていた。
 あんなに虚しくて悔しい思いは、もう繰りかえさない。
 そう決意を込めて口にすると、照れくさそうにした大和は、キャッチャーマスクを再び被って顔を隠してしまう。
 そうして二〇球程度、八割以下の力で投げて――俺たちは、グラウンドへと戻った。
 グラウンドでは、新たに四月から入部した部員たちも含めノックを受けている。ノックを受ける選手たちの声も気合いが入っており、誰もが泥に塗れながら必死に白球へ飛びつく。新品で純白だっただろう練習も、小汚く泥に染まっている。
 堀切が新たに加わったマネージャーに、しっかり仕事を教えている姿も見えた。……まるで、堀切を世話していた桜のようにしっかりとしている。オドオドとしていた去年からは、見違えたな。
「新入生が入って、人数もかなり増えたな。活気に満ちてる。……堀切は、桜がいなくなってからも良くやってくれてる。新しいマネージャーにも、意欲的に教えてるみたいだな。みんな、良い気合いが入ってる」
「ああ、堀切だけじゃねぇぞ。三国も先輩としての自覚が出てる。武尊にキレられてから、悪い癖もなくなってな。良い傾向だよ。今年の新入生は、即戦力ばっかりの粒揃いだしな。……順調だ」
「ああ、全て順調だよ。……桜の自傷行為も、少なくなったみたいだし」
「そうだな。……でも桜ちゃんの傷跡は、生々しく残ってるんだけどよ」
「俺はその距離で見てないけど……そんなに酷いのか?」
 三年生になっても、俺と桜はクラスが違った。
 桜が変わらず告白されまくっているという噂だとかは聞くけど……。つまりそれは、誰とも付き合っていないという証拠でもある。
 それだけで十分だった。さすがに、俺以外の誰かと手を繋いで歩いてるのをみたら、メンタルに来るかもしれない。それが桜にとって幸せだとは分かっていても、目の前で見たいものではない。
 わざわざ桜のクラスに行く用事もない。それなのに桜を見に行ったら、それこそ厄介ストーカーの誕生だ。
 去年のクリスマスイブの日、決定的な拒絶を告げられてからは、一度も話していない。近づいてもいない。だから桜の手首の様子までは知らなかったんだけど……。そんなに、生々しい傷跡が残っているのか。俺の記憶にあるのは、野球で厚くなった皮、豆だらけの桜の手だ。……想像が付かない。
「ああ。イカ焼きみたい……じゃあ、なかったんだよ。なんつうか、変な傷なんだよな」
「変?」
 どういうことだ? 傷に変も普通もあるのか?
「普通のリストカットって、手首を横に切るイメージだろ? イカ焼きの切れ目みたいによ」
「そう、だな。ネットとかで見ると、そういう画像とかが多いよな」
「でもよ、桜ちゃんの傷は、そんな綺麗に真っ直ぐじゃないんだよ」
「……どういうことだ?」
「なんて表現したら良いんだろうな……。あ、そうだ。映画とかで歴戦の武士が古傷だらけの姿とかあるじゃん?」
「ああ、あるな。……映画そのものを、あんまり観たことがないけど、想像は出来る」
「あんな感じなんだよ。両手一杯に、闘って切り傷が出来た跡がある、みたいなさ」
「なんだよ、それ。桜は戦闘訓練でもしてたって言いたいのか?」
「そうは言わねぇけどよ……。とにかく、普通のリストカットだったり自傷行為とは、違ったな」
「……まぁ桜の荒い気性なら、悔しさとかで武士のようにザクって斬っても、おかしくはないな」
 むしろ、桜が泣きながら静々と自分の皮膚を切っている姿の方が変だ。違和感の塊だ。クソッととか叫びながら、ズバッと切っている姿なら、まだ目に浮かぶ。……その分、深い傷になりそうだけど。
「止めろよ、オイ。想像しちまったじゃねぇか。夢に出たら、武尊のせいだぞ!?」
「悪いな。……俺なら、夢でも良いから出て欲しいけど、な」
 口に出してから、しまったと思った。
 願望や感情を素直に口に出すように意識付けてはいたけど、丁度良い塩梅がまだ理解出来ていない。一度ブレーキを取っ払ったら、歯止めが利かなくなったというか……。さすがに今のは、さじ加減を間違えた自覚がある。
「武尊……」
 引いた顔をして、大和が俺の名を呼ぶ。……分かってるよ。そんな目を向けるなよ。
「……片思いを密かに引きずってるのは良いけどよ。今のはさすがに、気持ち悪いぜ?」
「うっ……。言うなよ。俺だって、気持ち悪い自覚はある」
 桜にフラれてから、もう半年だ。
 それなのに『夢でも良いから、会いたい』といったニュアンスの発言は……引かれて当然か。でも、無理なんだ。それぐらい桜のことを深く愛してしまった。俺は、桜をライバルとして育って来たんだぞ。兄妹同然に、家族同然に。そして……一時とは言え、恋愛として愛し合ってしまったんだぞ。目の前で生きているのに忘れろとか、そう易々と出来るはずがないじゃないか……。
「未だに、忘れられねぇんだな」
「……大和。今日、俺が投げた時――背後に桜は見えたか?」
 去年の夏の大会前。大和に尋ねたことをもう一度聞く。あの時、大和は『俺の背後で、桜も一緒に投げているように見える』。そう言っていたはずだ。
 それだけで、俺が桜を忘れられない一番の理由は伝わるだろう。……まだ、俺の背後に桜の幻影があれば、な。
「……成る程、な。武尊が忘れられねぇ訳だ。これからも、野球をする限り武尊は――桜ちゃんを感じる訳か」
「そういうことだ」
「しんどいな……。背中に入れ墨を入れてる訳じゃないのに、一生残るものか」
「ああ……。もう、消せない」
「……まぁ、丁度良いだろ。武尊の中に、常に桜ちゃんがいるなら、さ。一緒に投げてるも同然だろ? それなら、二人で夢を叶えられるじゃねぇか」
「そうだな。――桜が、俺の身体を使って投げてる。……そう考えると、最高だな」
「未練がましい男だなぁ~。……気持ち悪いとは思うけど、嫌いじゃねぇよ」
 なんだかんだで、俺と桜をずっと見てきた大和だ。からかいながらも、気持ちは理解しようとしてくれているらしい。それだけで、十分だ。……さすがに、他のヤツにはもう言えないからな。桜を、未だに愛している。自分のピッチングやバッティングに――桜を投影しているなんて、さ。
 順調な状態を崩さないように――夢を現実にする、ラストチャンスが迫っている。
 栄冠を手に、お世話になってきた人へ恩返しする、最後のチャンスが――。

 そしてまた、熱い夏がやってきた。
 球児たちにとっては、心情的にも最も熱くなる季節だ。
 俺たち市立秩父野球部は、新戦力も加わり去年より遙かに総合力が高くなった。
 俺はそんな中でエースと四番として返り咲き、しっかりと結果を残せている。俺が敬遠で歩かされても、後続はしっかりとホームまで返してくれる。
 結果、大差がついてコールドゲーム――途中で試合終了となることも多かった。三国が投げてくれたり、コールドゲームで投手としての体力は去年より温存出来ている。
 厳しい冬の練習の成果もあり、余力は十分だ。
 そして今日、夏の甲子園大会予選、埼玉県大会の決勝の朝が――再びやってくる。
「おふくろ……」
 仏壇に線香も上げたが、やっぱりおふくろは――仏壇からは見ていない気がする。
 既に蒸し暑い明け方。まだ薄暗い空。これから熱くなる空の下――俺は、壁当ての跡を擦る。
 俺と桜が刻み、おふくろが将来、自慢話の種にしようとしていた証。そこから、たしかに桜とおふくろと過ごした時間を感じる。二人の魂を感じる。
「今年はさ、おふくろの飯が喰えないのが残念だよ……」
 おふくろからの返事は、当然返って来ない。
 生活がキツい中、介護士として懸命に働きながら、俺が野球を続けるのを支えてくれた、おふくろ。
 おふくろが亡くなってから、一日も欠かすことなく飯を指し入れしてくれた近所の人たち。
 そして――俺と競い合い、夢を託し……。ここまでの選手になれるよう支えてくれた桜。
 多くの人たちの思いを感じ――野球屋敷を去る。
「……今年もOB会の弁当、あるんだろうな」
 まだ発表はされていないけど、弁当は持ってこないようにと通達があったことからお察しだ。
「――行ってきます」
 去年果たせなかった夢の続きを見るために、俺は学校へと向かう――。
 
 朝早いにも関わらず、学校には生徒やOBが数多く集まっていた。去年より、多いんじゃないか?
 中には、寺尾キャプテンを始めとする先輩たちの姿もある。……誰もが、エースで四番の俺に期待しているのがよく分かる。グラウンドでキャッチボールをしていると、「大滝、頑張れよ」、「大滝、期待してるからな」といった声が、あちこちから飛んでくるから。
 その声の中に――俺が最も欲しかった人の声は、なかった。
 決勝戦も、桜は見に来てくれないのかな……。甲子園に行けたら――俺たちの夢の行方を、見届けに来てくれるかな? それとも、もう別の目標で、それどころじゃないんだろうか……。だとしたら、少し寂しいな……。
 勝負を前にセンチメンタルになっているのを責めるように、強い球が俺の胸元へと投げられた。キャッチボールの相手をしてくれた、大和からの球だ。さすがは、相方……気が散っているのも、バレバレか。
 大舞台を前にしているのに、酷く冷静だ。熱くなりきれずにいるのは……経験による成長なんだろうか。それとも、いつか堀切に言われたように、まだ喪の作業を終えられず……感情が平板化しているから、なのかな。
 桜のことを……完全には吹っ切れずにいるからな。だって、こうしてキャッチボールをしていても、桜を感じるんだ。忘れて抜け出すなんて、出来っこない。野球選手、大滝武尊は……和泉桜と、二人で一つなんだから、さ。
 十分に身体を温めた後、学校が手配してくれたバスへと向かう。
 県営大宮公園球場まで、長い移動だ。
「――今年もOB会で弁当屋をしてくださっている人から、差し入れを頂いた。各自、乗り込む前に一つずつ受け取るように」
 監督の声で、野球部一同は帽子を取ってお礼の挨拶をした。
 堀切が弁当入りの段ボールを、バスの乗降口前へと運ぶ。
 それを見て、次々に選手たちが弁当を手に取りバスへと乗り込んで行く。
 俺の胸中は……複雑だ。
 迷惑なんかじゃない。差し入れの好意は、素直に嬉しい。
 去年、おふくろの弁当を食べていたら優勝出来た訳でもない。……それでも、忙しい中、おふくろが作ってくれた必勝弁当を腐らせてしまう理由になったのも事実だ。
 どうにも気が進まず、俺は最後まで動かない。……動きたくない。
「……武尊、気持ちは察するけどよ……。あとは、俺たちだけだ」
 俺のことが心配だったのか、大和も最後まで残ってくれていた。俺の投球は、筋肉が付いて見違えたけど――未だにメンタルが大きく影響する、未完成なものだからな。
 友人としてと、キャプテンとして。二つの意味で、心配してくれてるんだろう。
「十文字、大滝! 早くしろ」
 監督が乗降口から身を乗りだし、早くバスへ乗れと催促してくる。
 行くしか、ないか……。いや、元々これがあるって分かってた。むしろ、差し入れがなければ空腹のままで投げることになる。
 有り難く、受け取るしかない。去年の苦い思い出は――忘れろ。
 俺が一歩踏み出したのを見て、大和も一緒にバスへと向かう。
 思えば、去年の夏から全てが変わった。――悪い方向に。
 おふくろの最期の飯を一番美味しい時に食べずに後悔して……。そこからメンタル不調からスランプに陥り、秋の大会もボロボロだった。その責任を取る形で、桜まで失って……。無茶な練習のやり方で、ケガまでして……。
 何もかも、失う切っ掛けは――この弁当を受け取った時からだった。
 後悔に後悔が続いても、泥に塗れながら這いずって進んで来たこの一年は……この弁当を選択し、おふくろの飯を選ばなかった時から始まった。
 自分の意思を殺して、協調性やらチームの和を重んじた結果の後悔だ。
 大和に後ろから見守られながら、俺は段ボールの中へと手を突っ込み――。
「……意地でも差し入れを断る勇気が俺にあれば、こんな後悔はしなかったのかな」
 誰に話しかけるでもない。俺は自嘲気味にそう呟いた。
 俺は苦い思いを噛み締め、弁当箱を手に取る――。
「――武尊、待って!」
 ドクンッと心臓が跳ねた。
 ホームラン性の打球を打たれた時でも、こんなに心臓がキュッとはならない。
 弁当箱から手を離し、声がした方向へゆっくり振り向くと――。
「――……桜」
 見送りに来てくれたのだろうか。
 ここまで全速力で自転車を漕いできたのか、肩で息をしている。
 背中にトンッと軽い衝撃を感じた。
「……行ってこいよ。武尊」
「大和……。良いのか?」
 本当に、輪を乱すような真似をして……良いのか? 早くバスへ乗るべきじゃないのか?
 そんな俺の内心を汲んでか、監督も目線で行ってこいと告げている。早く乗るように急かしていた監督も、秋の大会後に世話になった桜には弱いんだろう。
「ピッチャーは、ちょっとの我が儘を……自分の意思を貫くのも、大切だよな」
 確認するように呟いてから、俺は桜の方へゆっくりと近づく。
 距離を取られないか、近づいた分だけ、逃げないか。
 不安で、そろりそろりと近づく俺に――桜はタタッと地面を駆け、胸元まで近づいてきた。
 相変わらずの豪胆さ。いつの間にか、桜がこれだけ近くにいることの方が違和感を抱くようになってしまった。それはそうだ。……別れてから、もう半年以上が経っている。徹底的に避けられるようになってから……随分と時間が経っているんだ。
 でも――一旦受け入れると、凄く落ち着く。息を切らした桜の細い背中が愛おしくて、抱きしめたくなる。そっと背に手を回そうとすると――。
「――はい、これ!」
「……は?」
 俯いて息を整えていた桜が、小さな卵焼きを差し出してくる。
 サランラップで包まれたそれを見て、俺は目を丸くしてしまう。予想外過ぎる。甘い空気を、桜に望むのは間違っているとは分かっていた。それでも……この場面で、食い物を差し出すか?
「一口……食べてみて」
「……これ、桜のお母さんが作ってくれたのか? おふくろの代わりにって」
「良いから、早く!」
 バスに乗っている部員からは、俺の大きな背中のせいで見えないだろう。野次馬には見られているけど……。もう、周囲の顔色は気にしない。
 俺は桜が食べて欲しいと願ったから――我が儘を通したい。それは、人からは何をしているんだと言われるかもしれない。それでも、俺にとっては……どうしても、譲りたくない大切なことなんだ。
「……分かった」
 桜の手から、ラップに包まれた卵焼きを受け取り――一口食べた瞬間、目の奥から込み上げてくるものに耐えるのに、必死になった。
「……おふくろの、味だ」
 間違えるはずがない……。
 俺をこんなに大きく育ててくれた味。
 去年の夏から――もう、二度と口に出来ないと思っていた味。
 味覚は脳へすぐ伝えられると言うけど……。脳が、これは紛れもなくおふくろの味だと確信している。
 ああ、ダメだ……。懐かしさと嬉しさで、涙が込み上げてくる。
 グイッと袖で目元を拭うと、嬉しそうに笑いながら――ホロリと涙を流している桜の顔が目に映る。
 酷く疲れたように、それでいて――達成感と安堵に満ちた笑みだ。
「良かった……。やっと、やっと作れた」
 安堵の息に漏れたようなその言葉で、俺は察してしまった。
「もしかして……この飯は、桜が作ったのか?」
「そうだよ。一年間、一年間もかかっちゃったけどね……。ずっと傍で作ってるのを見て、一緒にご飯を食べてたのに。私、料理からずっと逃げてたから……。こんなに時間かかって、ごめん」
 衝撃的だった。
 家庭科の授業だろうとなんだろうと、桜は洗い物以外をしたことはない。刃物に近づけるな、危険過ぎるというのは、教師を含めた全員の総意だった。
 そんな桜が、おふくろの味を――再現した? 料理を作るだけでも驚愕なのに、家庭の味の再現なんて……難易度の高い技を?
「まさか、手や手首に付いてる傷跡って……」
「……私、包丁も握ったことなかったからさ。野球意外には大雑把で、不器用過ぎて……。恥ずかしくて人に言えないような、大惨事になっちゃった。毎日、事件現場みたいでさ……」
 傷跡だらけの手を見せながら、たははっと、桜は笑みを浮かべた。
「これで、私は武尊をちゃんと支えられるかな? おばさんみたいに、武尊の支えになれるかな? おばさんが望んだように――武尊の傍にいる資格に……足りるかな?」
 おふくろが望んだこと……。
 そう言えば、いつか……桜とおふくろと飯を喰った時に、おふくろが言ってたな。『武尊と結婚するなら、栄養管理でも支えてあげてね』って。
 まさか桜はその為に――それを成し遂げることに集中しようと、野球を辞めたのか?……あれだけ大好きだった野球を、俺を支えるって目的の為だけに。
 おふくろの最期の願いを叶えるまでは……俺の傍にいたくない。
 そういうこと、だったのか?
 桜はずっと――俺と同じように、想っていてくれたのか?
 なんて自己中心的で、我が儘で――なんて負けず嫌い。なんて……・ピッチャー向きの性格なんだ。
 俺は、そんなことも分からずに、桜に捨てられたと思い込んでいたのか……。
「お弁当も作ったんだけど……。受け取ってくれるかな。ずっと武尊を避けてた私からのお弁当なんて、イヤかもしれないけど……。武尊も認めた、おばさんの味になってるはずだから」
 OB会からの差し入れ弁当以外、受け取ってはいけない。食べてはいけない。
 そんな決まり、桜なら熟知しているだろうに。それでも、俺は――。
「受け取るよ……。勿論、有り難く、しっかり噛み締めながら、燃料にする」
 ここで断ったら――一生後悔する。
 我が儘で自分勝手を貫く、それで結果を残すのが――エースだ。
「あ~、腹減った。ほら、俺って食いしん坊だから、普段から弁当二つ食べるじゃん?」
 背後から、大和のわざとらしい声が聞こえてきた。
「弁当一つだけじゃ、力を出せないかもな。悪いけど、俺は二つ取って良いか?」
 堀切は、大和の問いかけに「勿論です」と即答している。
「サンキュー。OB会の皆さんがお弁当を差し入れしてくれたお陰で、俺は力を出せます。ごちそうさまです!」
 差し入れをしてくれた方の顔が立つように配慮までして、俺の我が儘のフォローをしてくれる。
 本当に俺は……色んな人に支えてもらっている。――恩には、キチンと結果で報いないとな。
「……桜。さっき、これで……。この、おふくろの味を再現出来たから、俺の傍にいる資格に足りるかって聞いたよな?」
「……うん」
「――足りない」
「……ぁ。そう、だよね。……ずっと意固地になって無視を続けてたのに、今更、ね。……虫が良すぎるよね」
 桜の顔が、悲痛に歪む。
「――違う」
「……え?」
「俺の方が、足りてない。優勝旗を持ってきて、やっと桜に釣り合う」
「……そっか。じゃあ、今日の決勝を楽しみにしてるよ。ちゃんと、優勝旗を勝ち取って来てよね」
「桜、何か勘違いしてないか?」
「……勘違い?」
「俺が持ってくるのは、真紅の優勝旗――甲子園で、栄冠を手にしたチームにだけ与えられる旗だ」
「それって――日本一になるって、こと?」
「日本一の野球チームの、エースで四番。それと一六〇キロメートルを軽々と投げられるヤツでもなければ、桜には釣り合わない」
「武尊……」
「俺たちの夢、みんなに託された思い……全部、現実にしてくる」
「……分かった。信じてる」
「インタビューを受けた時の言葉、考えといてくれよな。おふくろと同じように、俺を支えてくれて……。野球選手、大滝武尊の中に宿る――もう一人の野球選手としての、コメントをさ」
「武尊の中に、私が?……それ、私も一緒に、グラウンドで闘ってるってこと?」
「イヤか?」
「…………」
「桜が――世界一の師匠がいたから、二刀流の俺がいるんだ。当然だろ?」
「……それ、最高だね。私の野球人生は、秋で終わったと思ってたのに……。実はまだ、終わってなかったんだから」
 俺は受け取った弁当を手に、発進を待ち焦がれているバスへ向かいながら口を開く。
「むしろ、これから輝くんだよ。――俺の身体を使って、二人で夢を叶えるんだ」
 桜の洗練された投球フォームは、俺の脳裏に焼き付いている。
 厳しいトレーニングで、その動きを可能にするだけの筋力も、やっと得られた。桜の制球力に変化球、ボールを捉えるミート力。そして、進化した俺のストレートに、長打力。
 俺たちは――二人で一つになって、やっと憧れの大選手のような力が発揮出来る。
「最愛の人、桜の野球人生まで預かったんだからな。――今の俺は、絶対に負けない。どんな相手だろうと、だ」
「あ……」
 後ろから桜の声が聞こえて来るが、俺はもう振り返らない。気持ちは、既に球場に向かっている。後は、夢を成し遂げに行くだけだ。
「……桜ちゃん、知ってるだろ? 武尊のピッチングは未熟で、未だに未完成なんだ。メンタルにスゲぇ左右される。だから……この夏は、良い夢が見られそうだな」
 最後にバスへと乗り込んだ大和がそう告げてから、ドアが閉まり始める。
「――やっと、良い目に戻った。私が大好きな――闘う、格好良い瞳……」
 ドアが閉まりきる直前。
 ボロボロになった両手で顔を覆う桜の口から、そんな言葉が聞こえてきた。顔を覆うと、手や手首の傷跡が良く見える。
 本当に、不器用だよな……。
 生々しい傷跡だ。どうすれば料理で、そんな傷だらけになるんだ? でもそれは――野球屋敷に刻まれた跡と同じだ。――努力してきた、誇るべき証だよ。
 去年の夏の甲子園決勝――優勝校の野球部が提げていたメダルは、ギラギラ輝く陽光に反して、くすんで見えた。
 圧倒的なスターが足りてなかったんだろう。誰よりも泥を啜り、苦渋を舐めて来た末に誕生した、甲子園のスターが、さ。
 今年は、そうはさせない。
 栄冠は――太陽の光だけでは、真の輝きを放てない。
 煌びやかな光の輝きは、その暗い影がなければ存在し得ない。
 暗い泥濘が色濃く抜けがたい程――明るさを手にした時には、一際の輝きを放つ。熱いドラマという、装飾に彩られて。
 絶え間ない努力、その果てに待つ、最高の瞬間。
 後世に語り継がれるような偉業を――真に輝く栄光を、感謝の証として捧ぐ。
 県予選の決勝なんて、俺たちの夢からすれば通過点だ。緊張しなくて当然の舞台だ。
 炎天下、満員のスタンドに、甲子園を揺らす大応援。
 忙しい中、熱くても全力で声を張り上げてくれる地元民に、同校の生徒たち。
 様々な青春の想いを胸に、一丸となって勝ちを奪い取りに闘う。
 それこそが――夏の大甲子園大会。
 三千校以上の高校から、たった一校のみが手にする栄冠。
 栄冠は、必ず俺が持ち帰る。俺一人の為じゃなく――支えてくれた、みんなに捧げる栄冠だ。
 決して順風満帆、敷かれたスターロードを悠々と歩いて来た訳じゃあない。
 血の滲む努力に挫折、焦燥感に、絶望。
 幾多の想いに支えられ、艱難辛苦を乗り越えてきた。
 燃えさかるような意志に、託された夢の数々。
 背負う荷や期待は、多くて重いほど良い。
 最後のチャンス、追い詰められている程――素晴らしい。
 その分だけ、気力も体力が漲るってもんだ。
 泥塗れになろうと――這いずって、勝利を目指して進み続ける。
 そんな人間が、背負っていたものから解き放たれた瞬間に浮かべる笑顔。
 その汚い笑顔と、秩父の山々のように起伏が激しく熱いドラマに照らされてこそ――栄冠は真の輝きを放つんだ。