三章

 母さんの葬儀が終わってしばらく経っても、まだ我が家の周りのセミは忙しなく鳴いている。セミって案外、寿命が長いんだな。
「……少年野球の頃から、お前の一番のファンはおばさんだったよな」
 大和は麦茶を飲みながら、そう言葉を零した。
 机にコップを置くと、カランッと氷がコップに当たる音が響く。大和の視線の先には、仏間で親父の遺影の隣に増えたおふくろがいる。炊きたての線香の奥で、おふくろは良い笑顔を浮かべていた。
「ああ、一番のファンで、一番のアンチだった。俺がフォアボールを出す度に、一番大きな声で文句を言ってたよ」
「そうだったな……。そんなことも、あったっけな」
「知ってるか? 野球の道具って、結構高いんだぜ? 道具を揃えるだけで、三〇万はするんだ」
「……知らなかったよ。バットやらグローブ、手入れ道具の値段ぐらいしかな。ユニフォームやら練習着の請求書は、親に行くかんな」
「だろうな。おふくろ宛ての請求書を目にするまでは、俺もそうだったよ。……全部硬式用に変えなきゃならないのにさ、俺が高校でも野球をやりたいって言った時……。おふくろ、どんな気持ちだったんだろうな?」
「そんなもん、嬉しかったに決まってんだろ」
「そうかな。親父もいなくて、おふくろの収入じゃあ家計管理も苦しかっただろうにさ……」
「それでも、生活が苦しくても、だよ。……武尊は、野球をしてる時が、一番良い笑顔してんだからよ」
 テレビでは、夏の甲子園大会決勝戦が中継されている。
 球児たちが泥に塗れながら小さな白球を追い、一喜一憂する姿を眺め続ける。本来なら、自分たちが立っていた……立たなければいけなかった舞台だ。
「飯とか、どうしてるんだ?」
「家に帰ると、玄関の前にクーラーボックスがあるんだよ。そこにおかずが山ほど入ってるんだ」
「ご近所さんの差し入れか」
「ああ。……米は桜の家がくれるし、俺は炊くだけ。……人に支えられてばっかりだ」
「そっか。……一人でも、なんとか暮らしてんだな。ちゃんと喰えよ?」
「分かってる。身体のラインが細い。筋肉が足りないって、桜に怒られるからな」
「球速一六〇キロメートルへの道、か」
「ああ。俺たちの夢だ」
「俺も、ちゃんとついていかなきゃな。……武尊の成長に、せめて高校が終わるまで」
 風鈴がチリチリンと音を立てる。俺にとっては夏の甲子園と合わせて風物詩だ。高校が――俺たちの高校野球が終わるまで、あと一年か。俺たちの夢を叶える為には、あと一回しかチャンスがない。
 まだ今年の甲子園大会が終わってもいないのに、来年のことを考えるなんてな……。いや、これは敗れた高校球児全員が考えていることなのかもしれない。
 静かすぎる家で、またチリチリンっと、涼やかな風鈴の音が響いた。遮る喧噪が少ないからか、僅かな音なのに家中へ広がっているような気がする。
「本当に……おばさんはもう、いないのか」
「ああ。もう、いない」
「そっか……」
「一人で住むには、この一軒家は――野球屋敷は、大きすぎるよ」
「そうだな……。武尊一人じゃ、スペースが余ってるよな。ガランっとしてるっていうか。……だから、だろうよ。ちょっと寂しい気持ちになるのは」
「ああ――スペースの問題、だよ」
「……そうか。恩返し、しないとな。家計が苦しくても、野球をやらせてくれたおばさんに。寂しがりな武尊の心の隙間をずっと埋めてくれていた、おばさんに」
「そうだな。――また、背負う物が増えた。でも、俺が背負いたくて背負ってることだ。……必ず、夢の果てまで運んで行くさ」
「武尊……。無理はしても、無茶はすんなよ」
 大和が心配そうな目で俺を見つめている。……そんな顔、するなよ。大丈夫だってのに。俺の相方は、心配性だ。それに、多少無理し過ぎるぐらいじゃないと、来年までに肉体改造は間に合わない。あと一年後までに、球速を四キロメートル上げなければならない。制球を安定させなければいけない。スタミナや、変化球だって……。改善するべきこと、やるべきことは目白押しだ。
 今から燃えて行くぐらいの気持ちじゃなければ……。
「麦茶、ご馳走さん」
 しばらく俺を見つめていた大和が、席を立ちながらそう言う。もう帰るようだ。
 桜と付き合うまでは、毎日のように用もなく遊びに来ていたのにな。まぁ、高校生にもなれば昔みたいには行かないか。おふくろに線香もあげ終えたし、そりゃ帰るよな。
「洗うから、コップくれ」
「ああ。サンキュー」
 大和から空になったコップを受け取り、シンクで洗う。
「……本当にもう、おばさんは、いないんだなぁ」
 家事を普通にこなす俺を見て、大和がしみじみとそう呟く。
「ああ。もう、いない」
 目線を大和に向けることもなく、再びそう返した。
「おふくろがやってくれてたことも、これからは……俺が一人でやらなきゃだからな。洗い物で、手が荒れるのなんて気にしてられないよ」
「武尊、お前……。ちょっと、大丈夫か?」
「……何が?」
 振り返ると、不安そうにじっと見つめている大和の表情が目に入る。
 大和は頭を掻きむしると――。
「――また、学校で元気に会おうな
「おう」
 そう言って、帰って行った。
 水切り籠に洗ったコップを入れる。それとほぼ同時に、ガララッっと大和が戸を開けて出ていく音が聞こえた。ミンミンと鳴くセミ、風鈴の音を聞きながら、俺は汗をグイッと拭う。
 ふとテレビを見ると、いつの間にか今年の夏の甲子園を制覇した高校が決まっていたらしい。のんびり、考えごとをしながら大和と話していて気が付かなかった。
 テレビ画面には、甲子園を熱狂させる灼熱の如き太陽の下、表彰式が執り行われている。
 優勝校選手達の栄誉を讃え、トロフィーと真紅の優勝旗が授与されていた。
 今年の栄冠――甲子園制覇の勲章は、俺たちじゃない誰かの手に渡ったか。渡って、しまっただんだよな……。
「……へぇ、この高校が勝ったんだ」
 感動も特にない。……夜にやってる、球児たちのドラマを語る番組も見ていなかったからかな?
 栄冠を手にした球児たちは、首から金色の優勝メダルを提げている。陽光の下、光を照り返すメダルの輝きが――俺には、くすんで見える。
 球児たちがどのような野球人生を歩んできたか、どのように夢の舞台に至り、どのように散ったか。または成就させたか。そんなドラマを特集する番組を見ていなければ、心に沁みることもないのか。
 今年は忙しくて禄に特集番組も見ていなかったからか――何も感じない。
 くすんで見えるは言い過ぎかもしれないけど……。少なくとも、栄冠がキラキラした輝きを放っているようには映らない。
 本当、物事は見方で色がガラッと変わるな。感動的なドラマという下地があれば、甲子園は涙の舞台なのに……。いずれにせよ、もう俺たちの夏は終わりだ。
「春の選抜甲子園予選も秋にあるけど……。――もう球児たちには、次の夏が始まる」
 洗濯機に汚れた衣服を突っ込んでから、ランニングへと出た――。

「――大滝! もういい、マウンドを降りろ。バッティングの用意だ」
「俺はまだ投げられますが……」
 秋の予選が近づいてきた十月の中旬。
 相変わらず調整不良が続いているピッチングマシーンの代わりに打撃投手を務めていると、監督からマウンドを降りるように采配があった。まだ、三〇球ぐらいしか投げてないのに……。
「そんだけコントロールが荒れていると、危険でしょうがない」
「それは……」
「和泉、悪いが投げられるか?」
「はい、直ぐにでも行けます。堀切、ごめんだけど、ボール磨きの続きは任せたよ」
「は、はい! これぐらいの仕事なら、僕一人でも出来ますので!」
「すまんな。和泉、堀切。――大滝、聞いての通りだ」
「……はい」
 俺はマウンドを降りて、桜に代わる。悔しい……。俺はもっと、もっともっと上手くならなきゃいけないのに……。そうでなければ、偉業どころか――俺たちの夢の舞台にたどり着くことすら、夢のまた夢だ。
 練習を観に来ては黄色い声援をくれた市立秩父生徒の姿も、いつの間にか殆ど見かけなくなった。ドンドン、俺から人が離れていく。堕ちて行く一方だ。
 悔しい思いのまま、打席に入る。
 桜の緩急がついた球に、グッと堪えてから全力で振り抜くが――。
 ギンッと、バットの芯を外した打球が高々と上がる。完全な打ち損じだ。
 ボールは見えているはずなのに、芯で捉える能力も前より酷い。……いや、元々俺なんて、こんなもんだったのかもしれない。天才だの、化け物だのの評価は、絶好調の時の俺を見た錯覚で……。本来は、これぐらいの選手だったのかもしれない。夢どころか、偉業なんて成せる器じゃない。自分でも、そう思い始めている。
 化けの皮が剥がれた俺は――みんなが夢を託すに値しない、凡庸な選手だよな。
「――次、スイーパー行きます!」
 遂には、桜が投げる球を予告し始めた。今までの俺との対戦では、絶対にしなかったことだ。桜が全力で抑えに行くレベルに、俺はもうないってことか……。
「――くっ!」
 桜が申告してくれて、どんな球種が来るか分かっているのにも関わらず――俺は打ち損じ続けた。バットが上手く振れていない、言葉では説明し難い感覚がある。
 言葉では説明出来ないってことは、理論的で有効な対策を取れないってことでもある。
 結局、調子が上向くまで努力するしかないって問題だ――。
「――次、ノック行くぞ! 守備につけ!」
 大和の声に弾かれるように、部員たちはグランドをキビキビ走っていく。
 三年生が抜け、人数も減った野球部。大和が新キャプテンに指名され、練習はよりメリハリのある動きを求められるようになった気がする。グラウンドで歩くのは、もっての外。休む時は、とことん笑って休め、と。
 小学校、中学校でも大和はキャプテンを務めていたし、大和は人を纏めて締めるところは締める。緩める時は緩めて、チームの連携を高める能力に長けているから。
 俺だって、大和がキャプテンになったことに不満なんて一切ない。
 大和としては、キャプテンとして俺が不調なことに不満……というより、責任感を感じているらしい。以前より更に、心配する声をかけられている。
「――シッ!」
 大和が指揮を執り監督がノックをしている間、俺は別メニューだ。暗い校舎裏で、ネットに向かいひたすら投げ込みをさせてもらっている。
 下がり調子の俺に、監督もどうしたものかと思っていたらしい。俺が投げ込みで良い感覚を掴みたいと言うと、簡単に許可をくれた。
 その瞳に心配とは別の感情――哀れみのようなものも宿っていた。監督も俺がおふくろを亡くしたことを、気遣っているんだろうな……。
 でもそのお陰で俺は、他の部員が守備練習やベースランニングをしている時間、投げ込みが出来る。
「――シッ!」
 また一球、全力の球を投げ込む。
「――クソッ!」
 全く思ったところに投げられない! 球威も、変化球のキレも……全部、夏より落ちてる! 俺は、甲子園の舞台で球速一六〇キロメートルを投げなきゃならないのに。こんなところで、成長を止めている場合じゃないのに!
「――シッ!」
 そのまま、がむしゃらになって投げ込みを続け――気が付けば、陽が落ちていた。
 監督から部活終了時刻だと伝えるよう指示された堀切が止めてくれるまで、俺は辺りが暗くなっていることにも気が付いてなかった。
 今日だけで何球投げたかすら、もう数えていなかった――。
「お疲れ」
「お疲れ様でした!」
 部室でユニフォームから制服に着替えをした部員たちが、次々と帰っていく。
「お疲れ。じゃあな」
「おう。……武尊、今日も一人で帰るんか?」
 同じように部室を出ようとした俺に、まだ着替え途中の大和が声をかけてきた。
「ああ。……桜は別室で着替えて、さっさと帰ったみたいだしな。部室の前にいないってのは、そういうことだろ」
 以前までは、桜が俺の着替えが終わるのを待っていてくれた。
 小さな部室で混み合う中での着替えは時間がかかる。別の更衣室を使用する許可が出ている桜は、もみくちゃにされながら出てくる俺を、笑いながら待っていてくれたのに……。
「……そっか。でも、桜ちゃんが武尊を嫌いになったとかじゃねぇかんな? 武尊はメンタルが調子に影響しやすいんだからよ。気にすんなよ?」
「分かってる。……桜はさ、やりたいことがあるらしいんだよ」
「武尊と帰る以上に、やりたいことって?」
「……さぁな。彼氏にでも、分からないことはあるんだよ」
「武尊……」
「じゃあ、また明日な」
 まだ何か言いたそうな大和を置いて、俺は自転車置き場まで歩き、自転車を漕ぎ出す。
 暗い道を、自転車の頼りない光が照らして進む。
 桜が俺と帰らない――やりたいこと。それを聞くのが、怖くもある。
 桜とはちゃんと会う機会がある。平日の放課後に、休日だろうと部活で会える。……逆に言うと、それ以外は会えていない。
 二人っきりの時間を作る以上に、やりたいことってなんだ? 野球意外に、そんな大切なものがあったなんて、長い付き合いなのに知らなかったんだよ……。
 おふくろが亡くなって以降、桜が俺の家に立ち寄る機会はめっきり減った。
 最初の数日は夕食を一緒にすることもあったんだけどな……。ある時、「やりたいことがあるから明日からはあんまり来られない」と言ってから――完全に俺の家へ寄りつかなくなった。
 桜と出会ってから、今までで一番距離が空いてしまった。
 一抹の寂しさと同時に、不安が胸中を駆け巡る。
「ああっもう! こんな憂いは、野球で忘れよう!」
 胸中のモヤモヤを吹き晴らす為、俺は家に帰ったら野球屋敷の畳へ新たな跡を刻もうと決意した――。
 そう考えているうちに、家まで着いた。
 ガララッと、引き戸を開ける。
 もう、ムダにただいまと言うこともない。パチッと、スイッチを押し、真っ暗だった家に電気の光を灯す。
 鞄を洗面所に置いたまま、手を洗い米を研ぐ。
 炊飯器のスピード炊き上げをセットしてから、俺は再び洗面所へと戻った。
 浴室で泥だらけのユニフォームや靴下を鞄から取り出すと、タイルの上に泥が舞い落ちる。
「うえっ。汚ね」
 綺麗なタイルの上だからこそ、泥という異物が目立つ。
 蛇口から水を出し、泥だらけのユニフォームを洗濯板で擦ると――泥水が排水溝に流れていく。
「ああ……。今日も、こんなにユニフォームを泥だらけにしたな。このまま洗濯機に入れてたら、大惨事だったなぁ」
 普通の衣服まで、綺麗になるどころか汚れたり、泥が配水管に詰まって漏水したかもしれない。
「……知らなかったなぁ」
 ゴシゴシとユニフォームを擦りながら、思わず口を突いて出る。
「……ユニフォームを洗うのがこんなに大変なことすら、俺は知らなかったんだよ。もう、一〇年以上野球をやってるのに、な。……おふくろは、凄いよな」
 こんなに大変なことを、一〇年以上もやってくれていたのか……。
 俺はそんなことすらも知らずに、感謝しているフリをしていた。おふくろがどれだけ大変な思いをしているのか、理解出来ていなかった癖に……。
「そんだけしてもらってたのに……。全然、成長出来てないダメ息子で、ごめんな……」
 食事だって、周りの人に助けてもらっているのに……。
 それでも、米を炊いて弁当に詰めたり、家の掃除や自分の衣服を洗うだけで大変だなんて感じている。
「本当に、俺はおふくろに甘えっぱなしだったんだな……。いなくなってから、痛感するよ。言葉だけで感謝しているなんて言って……。もっと、おふくろを手伝って家事するべきだった。手が荒れるとか言われても、押し切るぐらいに……」
 甘えられる人がいなくなって、自分で掃除や洗濯をしなければいけなくなったら、急に調子が下がるなんてさ……。それも、料理は差し入れで支えてもらっているというのに。
 我ながら、自分が情けないよ。
 泥を落とし終えたユニフォームを洗濯機に入れ、炊き上がった米とレンジで温めなおした食事を摂る。
 四人用のテーブルを、広々と一人で使いながら――味気ない気分になる。
「……ごちそうさまでした」
 誰に聞かれるでもない言葉を口にして、洗い物をこなす。
 そうしてる間に、洗濯物が洗い終わった。
 室内の物干しにかけ、前日に干していた衣服を代わりに鞄へと詰め込む。
 そして、やっと野球屋敷で汗を流せる。
「――シッ!」
 せめて絶不調のピッチングだけでも、なんとかしよう。バッティングはともかく、ピッチングは勝敗への関与が大きすぎる。焦る気持ちで、シャドーピッチングを始めた。
 隣に桜がいない違和感を抱きつつ、俺側の畳だけ――イ草が新たに擦れていく。
 また汗をかいた俺は、着ていた服を洗濯機に放り込み入浴する。
 結局、浴室の掃除や新しく出た洗濯物を干し終え、やっと睡眠出来る状態になったのは――午前〇時を回っていた。
 明日も朝練があるから、五時半過ぎには起きなければいけない。
 疲れ果てた身体のお陰で、余計なことを考えることなく、沈むように眠りへつけた――。

 メンタルによる不調なのか、自分でもよく分からない。
 それでも――間違いなく大乱調だ。どれだけ投げ込みをしても、結局調子が上向くこともなかった。
 そんな状態で秋季地区予選に突入したから――。
「――ふぅ……」
 まだ、埼玉県大会の三回戦なのに、大ピンチに陥っている。
 少なくとも埼玉で三位以内に入らなければ、関東地区予選への出場権すら得られない。
 春の選抜甲子園出場校に選出されるのなんて、夢のまた夢だ。関東地区予選で、相当な好成績を残さない限り、選抜されることはないんだから。
「――武尊、落ち着いていけ。力む必要はない」
「大和、分かってる。分かってるんだけど……。球が、思うように投げられないんだ」
 タイムを取り、マウンドまで来てくれた大和の励ましに、口元を歪めながら答える。
「何点取られても、最後に点差をひっくり返せば勝ちが野球、だろ? ここで焦って崩れていったら、敵の思う壺だろうがよ」
「それは……。分かってる。だけど……」
 まだ五回の守備にも関わらず、ここまで俺は――相手に七点も献上している。それも、殆ど自分で四死球を出しての自爆か、とにかくストライクゾーンへと甘い球を投げて完璧に打たれるかで。
 その上、なおもノーアウト満塁のピンチだ。
 バッターとしては、ここまで全打席凡退していて、チームとしても三点しか取れていない。……完全に、俺がゲームを壊している。
「取られたら取り返す。流れがちょくちょく変わる、そのシーソーゲームが、野球の楽しみだ。楽しみながら、思い切って投げて来い。夏みたいに、後ろには逸らさねぇよ」
「ああ……。分かった」
 大和はポンと背中をタッチすると、ホームベースの方へ走っていく。
 球審がプレイの合図を告げ、再びドンと構えて見せた。
 ベンチにチラリと目線が行くと、桜が祈るような瞳を向けて来ている。メガホンを片手に「締まっていこう! ビビらずに思い切って投げろ!」という声をかけてくれていた。
 思い切って……か。ここで点を取られるのと、満塁のチャンスなのに抑えるのでは、大きく長れが変わるよな。
 大和がストレート、内角高めのボール球を要求してきた。
 大和め……。ストレートは投げて良いから、度胸を示せって言ってるな。一球、顔の前を通る剛球で腰が引けた打者を、ボテボテでゲッツーに打ち取ろうという計算か。俺としては、無難に変化球でゴロを打たせたいけど……。それは、逃げとでも言うつもりか?……やってやろうじゃないか。
 グッと、力が入る。
 思いっきり腕を振り抜き、全身全霊のストレートを放った瞬間――。
「――グッ!?」
 俺の肘に、何かが起きた。雷でも落ちたような衝撃だ――。
「――ボール!」
 だが、球は完璧だった。内角高め、顔の近くを通る剛球に、完全に相手の打者は腰が引けた。バッターボックスで、ベースから少し離れて立っている。
 さっきのは一体……。俺の肘に、何か起きたのか? 
 戸惑っている間に、大和から返球が返って来る。球を左手のグローブで受け取り、右手で握ろうとした時――右肘に、熱さを感じた。何かが目覚めたんじゃないかと錯覚する、これまでにない肘の変化だ。
「……え?」
 それは、明らかな違和感。これは覚醒なんかじゃない。――異変だ。
 本来なら――プロなら、自分の肘や肩に違和感を覚えればマウンドを降りて病院で検査をする。
 でも、これは高校野球だ。
 プロと違い、豊富な控えピッチャーなんていない。まして、ここまで自分でピンチを作ったまま――マウンドを降りたくない。
「――よし」
 ゆっくりと、グラブの中のボールを握る。肘を曲げたり伸ばしたりすると、ジンジンと熱いような痛みがある。でも、どうにもならないって程じゃない。
 気にして身体の一部位に意識を向けると、何もないのに感覚が鋭敏になり、妙な感覚に陥る時がある。それと同じかもしれない。曲げ伸ばしした時の痛みも、ほんの僅かに痛みがあるかなって程度。我慢できる範疇だ。
 これなら、いける。まだ投げられるレベルだ。
 そう思っていると――何やら、ベンチが騒がしいことに気が付いた。
「桜と監督が……喧嘩してる?」
 激しい口論が、ここまで聞こえてくる。
「――だから、それは本人が申告することだろうと言っている! 準備だってある、今すぐは無理だ!」
「それでは手遅れなんです! 今すぐに、お願いします!」
 もはや怒鳴り合いに近い。
 俺が投げないことでプレイが止まっていると、監督がベンチから出て来て――。
「――タイム! ピッチャー交代!」
「え……」
 何を言われたのか、理解出来なかった。
 控え投手の三国は、まだ準備が出来ていないだろ?
 慌ててベンチ横でキャッチボールを始めているが……。全力を出せる状態に仕上げられないのは、誰が見ても明白だ。
 監督がベンチにゆっくりと戻るのと入れ違いに、三国がマウンドへ走り寄ってきた。
 当然、内野も含めた選手もマウンドへと集まる。
「……武尊。何かトラブルがあったのか?」
 大和の声に、俺は沈黙を貫く。違和感……なんて、弱気なことを言いたくない。すると、気まずそうな顔をした三国が、ベンチで何が起きていたかを説明した。
「その……。あれなんすよ。和泉先輩が、大滝先輩は故障したのを隠そうとしている。すぐにピッチャーを代えてくれって譲らなくて……」
「え……」
 桜が、そんなことを言ったのか?――なんで、バレた。
 俺は痛みを表情に出してないはずなのに。――いや、夏の大会で俺が足を捻ったのに気が付けなかったのを、桜はとても後悔していた。だから、観察するように俺を見ていた桜に、バレたのか?
「監督は、本人が何も言ってないんだから、下げるべきじゃない。せめて代わりの投手――俺の準備が出来るまで、投げさせるべきだって。でも、和泉先輩は全く引かなくて……」
「……武尊、どうなんだよ?」
 厳めしい表情で尋ねる大和に、俺は「すまん」としか返せない。
「……馬鹿野郎が。三国、やるぞ!」
「は、はいっ!」
 三国がひったくるように俺からボールを取る。集まっていた選手も散開し――俺は、顔を俯かせたままダッシュでベンチに走った。
 ベンチ上のスタンドでは、応援に来ていたOBや保護者がざわめいている。「なんでエースを下げるんだ?」、「調子が悪いにしても、中継ぎに準備させてやるべきだろ」、「そもそも自分で作ったピンチなんだから、最後まで投げさせてやるのが学生野球じゃないのか?」と。意見は様々だけど、突然の降板に賛成する声は殆ど聞こえてこない。
「――大滝。ちょっと来い」
「……はい、監督」
 ベンチに戻るなり、監督に呼び出された。帽子を取り、監督の元へ行く。
「和泉は、大滝が故障をしたと言ってる。事実か?」
「……はい。右肘に、違和感があります」
「馬鹿野郎が、なんで直ぐに言わなかった!? アイシングしておけ! 試合が終わり次第、お前は病院へ行って来い!」
 監督の怒声に頭を下げ、アイシングをしようと氷が入ったクーラーボックスへ向かう。
「……はい」
「……桜」
 既に氷を入れ終えたアイスバッグを、桜から手渡される。
「……すまん」
「別に良いよ。……試合が終わったら、すぐに病院に行くんだよ?」
「……分かってる」
 俺は桜の横に腰を下ろし、右肘を冷やしながら試合の行方を見守る。桜もすぐにスコアシートを手に再開された試合に目を向けた。
 大ピンチの場面に準備不足で上がった三国は……完璧に抑えるには至らなかった。
 夏の大会で準優勝だった俺たち市立秩父は、秋の埼玉県大会の三回戦で敗退した――。

「――お前ら、学校に集合だ。俺と和泉は、学校でOB会と話しがある。後で合流をかけるから、グラウンドで練習をしていろ。あとは十文字に任せる。……・大滝は、病院に行ってから集合だ」
「……はい」
 疲れた顔をした監督が指示をして、選手は一度解散する。そして大和の指揮の下、駅へ向かった。
 少し離れた場所から、駅へ向かって歩く部員たちの背を見守っていると――。
「――武尊。大丈夫だから、今は早く病院に行きなよ?……私が合流した時に、まだ病院に行ってなかったら、本気で怒るから」
「……分かった。本当に、俺のせいで……ごめん」
 桜にもそう言われてしまっては、動かざるを得ない。後ろ髪を引かれる思いではあるけど……。俺も、みんなの背を追って歩き始める。
 振り返れば、桜と監督が、OB会の誰かが運転する車に乗っている。車で移動した方が、駅から離れた場所にある市立秩父には近い。……どうやら、先に着いて話しをしようということらしい。
 車に乗って消えていく桜を見送りながら、俺は奥歯が割れんばかりに悔しさを噛み締めた――。

「――靱帯損傷、ですか?」
 超音波検査で肘を診てくれた医師から、靱帯損傷という診断名が告げられた。投手としては――深刻なケガだ。現実を、受け入れたくない。
「そうですね。……ただ、そんなに損傷度合いは大きくないです。伸びるぐらいで済んでいるから、試合中に投げるのを止めたのは大正解ですよ。投げ続けていたら、靱帯が切れていたかもしれないですから。そんなことになれば、もっと復活に時間がかかるし、癖にもなりやすいですからね」
「その……復帰には、どれぐらいかかるんですか?」
「肘は四ヶ月ぐらい安静にして、二月……。いや、寒い冬を挟むから、温かくなる三月頃までは投げるのは絶対禁止ですね。また経過を診て判断したいのですが、そこからゆっくり投げ始めて大丈夫って感じでしょうね」
「さ、三月ですか!? あと、五ヶ月も!?」
「重い球を遠心力使って投げるピッチャーの肘は、とても負荷がかかるんですよ。もし手術レベルだったら、引退まで投げられなかったでしょうね」
「そんな……」
 三月から徐々に投げられるようになるって……。五ヶ月間、球を投げるなだなんて……。そんなの、夏の大会までに球速一六〇キロメートルを投げるなんて、不可能じゃないか……。
「まぁショックなのは分かりますが……。時間は戻らないですから。バットもしばらく振るのは禁止です。また経過を診て、お伝えします。今日、お薬も出しておきますね」
「……はい」
 呆然としながら、診察室を出る。
 俺たちの夢が――絶たれた。
 野球を始めて以降、毎日のようにボールを投げてきたのに。バットを振らなかった日なんて、殆ど無かったのに……。
 なんで、なんでこんなことになってしまったんだ……。どんな顔をして、あの世のおふくろに報告すれば良いんだ? チームメイトや監督――桜に、なんて伝えれば……。
 俺は、必ず夏の甲子園を球速一六〇キロメートルで沸かせて、恩返しをしなければいけないのに。そうやって――栄冠を手にして、桜や皆の夢を叶えなければいけなかったのに……。
 学校へ向かって自転車を漕ぐ俺は、ふわふわとした世界にいて……。
 ここは、現実じゃない。夢なんじゃないかと現実逃避を続けた。
 でも――学校に着いてすぐに大和が駆け寄ってきて告げた言葉で、現実に引き戻される。
「武尊、ヤベェぞ! 桜ちゃんが責任を取って――マネージャーを辞めるって言ったらしい!」
 その追撃の言葉は、俺から何もかもを奪うには十分だった。
 大和に左腕を引かれ、空いている教室へと連れ込まる。
 そこには、四角を描くように並べられたテーブルに椅子、監督と桜が座っていた。
 誰も座っていない机に、紙コップがいくつも並んでいる様子から、さっきまでOB会や保護者がいたんだろうことが窺えた。
「大滝、来たか……」
「監督、一体どうして……」
「武尊。その前に、診察結果の報告でしょ?」
 桜はいつものように笑顔で――いや、無理やり作った笑顔を浮かべながら、そう注意してきた。
「……靱帯損傷、でした。来年三月まで、投球禁止という診断結果です。また経過観察していく中で、早くもなるかもしれないそうですが……。しばらくは、バットを振るのも禁止で……。本当に、すいません!」
「なんでケガをして痛い思いをしてる武尊が謝るの? 謝るのは、マネージャーなのに管理が出来なかった私だよ。今回のことは、全部私の責任なんだから」
「桜! 何を言ってるんだ!? どう考えてもこれは、俺の自己管理が――」
「――全ての責任を、和泉が負う。……そう言って、OB会を納得させたんだ」
「……監督? 監督は、桜を守っては下さらなかったんですか!?」
「俺だって守ろうとした! 本来、負けたのもお前がケガをしたのも、俺の監督責任なんだから当然だ! だが、和泉に先んじられた! 落とし所として、自分の退部を話しの真っ先に持ちかけたんだ! 自分が越権行為をして、監督に無理を通そうとベンチで暴れてたのはスタンドで聞いてましたよねってな! 頭に血が上ったヤツらは、それで納得して帰っちまったんだよ!」
「そ、そんな……」
「……俺が監督を辞任することで責を取ろうとしていたのに、和泉に先手を取られてしまった……。まさか、和泉が退部するなんて言い出すとは……。しかも、それで納得されてしまうとは……。思ってもみなかった」
 無念そうな声で言いながら、監督は帽子のツバを下に向ける。
 監督だって、桜がどれだけ野球を愛していたか、見て来たはずだ。
 本当に、野球を辞める――野球人生を完全に止めるような発言をするのは、想定外だったんだろう。
「今回、武尊をマウンドから降ろすように進言したのは、間違いなく私ですから。それに、監督がピッチャー交代に反対していた声は、スタンドの皆さんにもちゃんと届いてましたからね。……仕方なかったんですよ。負けたのが悔しくて堪らない観客は、誰かの責任にして当たり散らさなければ気が済まなかっただけなんです。監督が、職業監督じゃなくて部活の顧問でしかないのも知っているでしょうし。……元々、誰が、どう責任を取るかなんて、怒って周りが見えない人たちには些細な問題だったんですよ」
「それにしても、桜ちゃん! 何も、辞めるまで言わなくても良かったんじゃねぇか!?」
「人ってさ、自分が求めていた以上にインパクトがある謝罪の証を突きつけられたら、それ以上は追求しなくなるでしょ?……ほら、例えば貸してたボールペンが壊れた時、新品のを三つも買って弁償してくれたら、それ以上は文句言って責めようとはならないじゃん?……だから、責任を取って退部するって先制パンチが必要だったんだよ」
「それは……。でも、今回のことは、みんなの責任で――」
「――違う。俺の責任だ……」
「武尊、違うよ。さっきも言ったように、私がマネジャーとして――」
「――桜は、俺が責任を追及されるようにしたくなかった」
 桜の声を遮り、呟くようにそう言うと――ピタっと動きが止まった。
「だから、桜はこれ以上、誰かを責めようってならないぐらい、過剰な責任の取り方を宣言した。……その思惑通り、OB会も保護者も納得して、黙って帰らざるを得なかった。……違うか?」
「それは……」
 桜は、目線を右往左往させている。……俺が着くまでに、言い訳を用意していたんだろうな。でも、慣れない嘘は隠し通せないよ、桜……。流暢に例え話まで用意してても、さ。そんな作り笑いをしてたら、バレバレだよ……。
「……俺のメンタルが弱くて、調子を崩したせいだ。……無茶な練習をするなって忠告されてたのに、無茶をしたせいだ。……そのせいでチームは負け、桜からも大好きな野球を奪うことになってしまった……」
「…………」
「挙げ句、俺は三月まで投げられもしないケガで……。どうして、桜が責任を取らなきゃいけないんだよ。罰せられるべきは、どう考えても俺だろ!? 夢を途絶えさせた、俺だろ!?」
 桜は唇をギュッと噛み締めながら、ツカツカと俺に歩み寄り――。
 パンッと、俺の頬を叩いた。
「和泉!?」
「さ、桜ちゃん!? いや、たしかに武尊は情けねぇことを言ってるけど、でも正論で――」
「――まだ、私たちの夢は終わってない! ちょっとケガをしたぐらいで、勝手に諦めないでよ!」
 桜の激高した声に、教室内はシンと静まり返る。
 俺も、何も言えずにいた。
 ただ、呆気に取られていた。
「……マネジャーとしての引き継ぎは、堀切にちゃんとしていきます。次からはスタンドじゃなくて、しっかりベンチで仕事が出来るように教えておきますから」
「あ、ああ……」
 監督も、桜の圧に言葉を詰まらせている。
「それでは、部室にある私物を持ち帰らないといけないので、これで失礼します。……今まで、お世話になりました」
 ペコリと頭を下げ、桜は足早に教室を出て行く。
 しばらく呆然としていた俺だが――このまま、桜を行かせて良い訳がない。ちゃんと、話しをしなければ!
 廊下をバッと見やる。
「くそ、いない!」
 廊下へ出て駆けるが、桜の姿が見つからない。
「まさか、桜も……教室を出た瞬間に走ったのか!?」
 校舎を出て部室へ向かう。
「――いた! おい、桜!」
 何とか追いついた時には、もう部室へ入る目前だった。
「……武尊。叩いたことは、謝らないからね」
 こちらへ振り向くこともせず、桜は部室へと入っていく。
 俺も慌てて、夕陽が差し込む部室へと入る。
「そんなことを謝って欲しいから追って来たんじゃない! むしろ、謝らなきゃならないのは、俺だ!……全部、桜の言う通りなんだよ」
「…………」
「俺は、二人の――みんなの夢を、ケガにしょぼくれて諦めようとしていた。五ヶ月間も投げられないんじゃ、もう無理だ。どうせ俺はここまでの人間なんだって……。おふくろや、みんなが期待したような才能は、俺にはないんだって……」
 桜は、それでも荷物整理の手を止めない。俺の顔を、見ようともしない。
 置いていた予備のグローブまで、鞄に詰め込もうとしている。それは――野球漬けの人生から、本当に離れるという桜の意思表示に映った。
「桜……。お前から、野球を奪わせないでくれよ!」
 思わず俺は、左手で桜の腕を掴んでいた。
「…………」
「自分のケガだとか、痛みには耐えられる。……でも、それだけは耐えられない。桜がどれだけ野球を愛しているか知っているから。だから、野球だけは捨て――」
「――別れよう」
「……え?」
「武尊……。私たち、別れよう」
 ハンマーで殴られたような衝撃だった。
 ぐらぐらと視界が揺れ、平衡感覚を保てない。
 それぐらい、ショックが大きい宣告だ。
「なんで……」
「やるべきことが、他に出来たから。……今の私じゃ、武尊の傍に……いられない。もう、いたくないの」
「…………」
 言葉が出ない。
 本当に予想外で衝撃的なことに遭遇すると……人はこうなるのか。
 ガタンっと、外で何かの音がする。
 今の話しを……誰かに、聞かれていた?
 俺と桜の視線が部室の入口に向かう。
 すると、ばつの悪そうな顔をしながら――。
「――大和。私たちの話、聞いちゃった?」
「……すまん。心配で追いかけてきて、聞こえちまった」
「そっか……。ううん、どうせ直ぐにバレることだから、良いよ。私と武尊が別れたなんて噂、すぐに広まるだろうし」
「桜ちゃん……」
「じゃあ、そういう事で。――ばいばい」
 唖然として俯く俺と大和を置いて――桜は部室を去って行く。
 俺も大和も、その背中を追うことは出来なかった。
「武尊……。大丈夫、か?」
 大和が心配そうに声をかけてくれる。
 その瞳に――明確な憐れみの感情が浮かんでいる。……そりゃそうだよな。スランプで試合をボロボロにした戦犯。挙げ句、彼女にフラれた男だ。まして……大和は、俺が野球と桜をどれだけ愛しているか、知っている。憐れむなって方が無理な話、か……。ダメだな、新キャプテンに、余計な心労をかける訳にはいかない、よな。俺のことは、俺でなんとかしないと……。
「大丈夫だよ。……俺が余りに情けないから、さ。桜に見切りをつけられても、当然だよ。……恋愛に現を抜かさず、野球に専念しろって話だろ」
「そんな、簡単に受け入れて、割り切れるもんじゃねぇだろ! 二人は、絶対に結婚するぐらい――」
「――そう言ってた過去に縋っても、仕方ない。……そうだろ?」
「……そう、だけどよぉ!」
「大和も、明日からのことを考えてみろ。……桜がいない中で、練習をしなきゃいけない。夏に向けて、また強いチームを作らなければいけない。大和は、キャプテンなんだからさ。……俺一人の恋愛まで、考えてる暇はないだろ?」
「そんな正論、今は聞きたくねぇんだよ! 今は野球部キャプテン、十文字大和じゃねぇ! 武尊と桜の友人として、心配させろよ! そんぐらい、させてくれよ!?」
 怒鳴りつけるように叫ぶ大和に、「ありがとうな」とだけ告げ、俺は部室を出る。
 もう、自宅へと帰ろう――。
 
 誰もいない、真っ暗な自宅へと入る。
 窓から差し込む月灯りに頼り、野球屋敷と呼ばれた我が家をゆっくり見て回る。
「……どこもかしこも、桜との思い出が刻まれてんなぁ」
 家中のどこを歩いても、桜との思い出だらけだ。
 二人の野球大好きっ子によって、そこかしこに野球の練習跡が残る一軒家。
 畳の部屋に入ると、ストライドの大きな俺と、身長の小さな桜が刻んだイ草の擦れた跡が目に入る。
 肘のケガのせいでピッチングは出来ないし、バットを振ることも許されていない。
 だから、バットを持たずに、スイングフォームの確認だけをしてみる。
 桜のいた側の畳は、全く変わっていない。
 それなのに、俺がいた側にだけ――新たに跡が刻まれる。
「今日からはもう、こっち側だけしか……跡が増えることはないんだよな」
 二畳の畳を見比べて、一人呟く。
 もう、二人の道は別たれたことが――視覚からも体感させられてしまう。
 十年以上、二人で刻んできた証が、二人で競い合い努力してきた勲章とだ思っていたものが……妙に苦い思いを与えるものとして映った。
 たまらず、背を向けてダイニングへと向かう。
 暗さで良く見えなくても、自分の家だ。だいたいの物の位置は分かる。
 リビングテーブルは、闇に射す月光で寂しげに照らされていた。
 かつてのように、キッチンに立つおふくろの姿は勿論、笑顔で洗い物を手伝う桜の姿もない。
 ゆっくりと、椅子を引いて腰を降ろす。
「……別れ、告げられたんだよな。もう、俺と会いたくないってことだよ、な……」
 四人用のダイニングテーブル、俺用の席に座りながら、ボソボソと呟く。
 黙ってなんて、いられなかった。
 隣に座っていたおふくろは、亡くなった。斜向かいの親父は、もっと前に亡くなった。
 俺の向かいで、小動物のようにコロコロと、大仰に感情表現をして盛り上げてくれた桜も――もう、ここに座ることはない。
「俺一人で住むには……野球屋敷は、広すぎるよ」
 暗い空間に吸い込まれ、俺の声はなかったように消えていく。
 スズムシの音しか聞こえてこない空間は――寂しすぎる。
 かつての明るさを知っているから、余計に暗く淀んだ空間に感じる。
 思わずテーブルに両肘を突き、掌で顔を覆った。
 指が皮膚や肉に減り込むぐらい強く、強く……。
「ぐ、うぅ……」
 絞るように漏れ出す嗚咽を、抑えきれない。
 温い涙が両手から手首へと伝い、そのまま肘へ――テーブルへと流れ落ちていく。
 かつては親父、おふくろ、桜と笑いながら過ごしたテーブルから、離れられない。
 同じ物とは思えないぐらい、かつての輝きを失っていても……今は、離れたくない。
「もう少し、後もう少しだけ……。楽しかった過去を思い出しながら、休もう」
 孤独な暗闇の下、溢れ出す涙が止まってくれるまでだけ……どうか。どうか立ち止まることを、許して欲しい。
 恋愛対象以前に――野球選手、和泉桜の一番のファンは……俺だった。
 相手の裏をかく見事な配球選択、バットを避けるように動く鮮やかな変化球。
 精密機械のようなコントロールに、バットへボールを当てる抜群のミート力。
 桜がする全てのプレイに、胸を躍らせていたんだ。
 それを成す為の異常なまでの努力や工夫も、ずっと目の当たりにして驚嘆してきた。
 俺が桜に向ける感情は、愛情に先立ち――尊敬の念があったんだ。
 そんな大好きな選手であり愛している人を、大好きな野球から離れさせた自分が……許せない。
 桜に見放される程に弱い自分が、情けない自分が――大嫌いだ。
「明日からは、また……。みんなの夢を背負って頑張るからさ。だから、今だけは……」
 泣かせて欲しい。
 情けない男は、今日で卒業するから。
 産まれ変わる前の、産みの苦しみだと思って……思う存分、泣いた――。

 桜が野球部を辞めた翌日。
 放課後に部活をしている俺の耳に、女生徒たちの会話が聞こえてくる。
「あれ? 今日は大滝くんいないの?」
「なんか、ケガしちゃったらしいよ」
「え? マジ? プロ入りとか大丈夫なの?」
「わかんない。でも、この間の試合でボロボロだったのは、ケガのせいらしいし……。心配だよね」
「ね~。契約金だけでも億って言われてたのに……。心配だなぁ」
 そう言って、野球部の練習を見学に来ていた女子生徒が帰っていく。
 俺はその声を、窓の開いたウエイトルーム内で聞いていた。体幹、下半身を徹底的に鍛える為に、監督から指示されたものだ。
 全体練習に混ざることもなく、徹底的に個別メニューが組まれている。
「……見学に来ている生徒がいるのは見えてたけど……。結構、現金な話をしていたんだな……」
 いつか、桜にからかわれたことがある。
 女子生徒に人気が出て、鼻の下が伸びている、と。でも、実情は……金目当てだ。桜と別れたという噂は、幸いにしてまだ広がっていないらしい。
 勿論、時間の問題だとは思う。
 桜が毎日、野球部へ行くことなく帰っていれば、誰かしらが「部活は?」と尋ねるだろうから。
 そうして野球部を辞めたとなれば、交際相手だった俺との関係にまで質問が波及するのは、目に見えている未来だ。
「……俺にも、聞かれるんだろうな」
 入学当初、「和泉さんと付き合ってるってマジ?」と聞いてきた生徒の数は、数え切れない。
 別れたという噂が広まれば、真偽の確認が怒濤の如く押し寄せてくることは想像に難くない。そして別れたのが真実だと知れ渡れば、多くの男子から桜はアプローチを受けるだろう。告白だって、何人からされるか分かったもんじゃない。
「……それをイヤだと思うのは、未練がましい、よな」
 ちょっと光景を想像しただけで、胸がチクチクと痛む。
「忘れろ。……終わったことだ。やるべき練習に、集中しろ!」
 気持ちを切り替え、体幹と下半身を徹底的に鍛えていく。三キログラムのメディシンボールを腹筋しながら上まで上げたり降ろしたり。或いは身体を左右に捻ったり。肘に負荷をかけずに出来るメニューを、徹底的にやっていく――。
「――大滝先輩、お待たせしました」
「堀切。悪いな、筋トレに付き合ってもらって」
「いえいえ! 僕で手伝えることがあるなら、なんでも言ってください!」
「ありがとう。じゃあ、このバーベルに重りをつけてくれるか? 肘の曲げ伸ばしで重い物を持つの、禁止されてるからさ。五〇キログラムで頼む」
「分かりました!」
 俺以上にヒョロッとした堀切が、重そうにプレートを一つずつバーベルにセッティングしてくれる。どう考えても、堀切は体育会系には見えない。……医学部を目指してるって、前に桜と話してたっけか?
「お、終わりました!」
「ありがとう。じゃあ、危ないから離れててくれ」
 バーベルを肩に背負うと、俺はジャンピングスクワットで下半身を強化していく。ケガで投げられないオフシーズンに、徹底的に身体を作り替えなければと。
 二〇回を終え、一時休憩とバーベルを戻した俺に、堀切はキラキラとした瞳を向けてくる。
「……どうした? そんなに見て。これ、珍しいか?」
「い、いえ! 凄いなって! こんな重い物を担いで、二〇回もジャンプするなんて……。やっぱり、大滝先輩はさすがです!」
「そ、そうか?」
「ええ! 僕には絶対に出来ませんから!」
「ははっ。マネージャーなんだから、これが出来る必要なんてないよ。桜でもあるまいし――……。あ、いや。すまん……」
「先輩……。やっぱり、噂は本当なんですか?」
 見ろ、もう一人目だ。俺と桜が別れたか、なんて残酷な質問を、本人にするなんて……。
「桜とは、別れたよ。……フラれた」
「そう、なんですね……」
 堀切は、少し気まずそうにしている。
 自分から聞いといて、その反応は……。いや、それはそうか。別れたかどうかは知りたくても、実際に当人から別れたと告げられて、あからさまに喜ぶようなヤツは殆どいないだろう。
 話題を変えるか……。
「堀切はさ、なんで野球部に入ったんだ? 途中からだし、医者を目指してるなら、こんな忙しい部活に入っている暇はないだろ?」
「先輩、なんでそれを知ってるんですか?」
「元気で声を張ってたマネージャーの声で、聞こえちゃったんだよ」
「そう言えば……。夏前の練習休憩で、そんな会話をしましたね」
「悪いな。……もしかして、聞かれたくなかったか?」
「い、いえいえ! そんな大した話ではないってだけです!」
 堀切は眼鏡をカチャカチャとかけ直し、あたふたとしている。
 挙動不審にしばらく動いた後、深呼吸をした。
「……憧れちゃったんです」
「誰に?」
「大滝先輩、ですよ」
「……は? 俺?」
「そうです。……中学三年の夏、受験シーズンの息抜きにテレビ埼玉を見ていたら……力強い、大滝先輩のピッチングが映ってたんです。……それが、格好良かったんですよ、本当に。病弱でヒョロヒョロの僕と、大して年齢も違わない人がドンッドンッって、中継先まで轟いてきそうな剛球を投げているのが! 本当に、凄く格好良くて……。直接見たいな~って。ずっと思っていました」
「……まさかとは思うけど、それでウチの高校に?」
「そのまさか、です」
 信じられない。
 市立秩父は、決して進学校ではない。頭が悪いとまでは言わないが、医学部へ進学する生徒なんて、滅多にいないはずだ。
「……だとしても、なんで夏頃になってから入部したんだ?」
「それは……。ずっと、僕なんかが入ったら邪魔だろうなって。運動は全く出来ませんし。そうやってウジウジと見学していたら、強引に……。野球が好きなら、やる前からツベコベ言わずに来なさいって」
「その言い方は、桜だな。……良いよ、俺の前だからって、名前を出さないように気を遣わなくてさ」
「あ、ありがとうございます。……親には反対されましたけど、塾だとか家庭教師を増やすのを条件に、許可をもらえて。それで、憧れの先輩のサポートをしたいって思ったんです。大した理由じゃなくて、すいません」
 ペコペコと頭を下げている堀切を見ると、こっちが申し訳ない気分になってくる。……だって、俺はそんな輝かしい存在じゃないんだから。
「そんな謝るなって。……毎回、自滅する情けない俺を見ていたら、幻滅しただろ? 素直に進学校へ進んでいれば良かったって」
「そんなことないです! 和泉先輩に野球のルールから教えてもらって、苦境に立たされても弱みを見せない先輩への憧れは、もっと強くなりました! それをモチベーションに、学力だってむしろ上がってるんです!」
「そう、なのか?」
「はい! だから先輩は、もっと自信を持ってください!」
「…………」
「――あっ。す、すいません! 生意気なことを言ってしまいました!」
「い、いや……。嬉しいよ。そうだな、俺に足りないのは……自信だとか、メンタルもなんだよ。桜にも、何度も注意――叱られた。勝負に生きる気持ちが足りないってさ」
「大滝先輩は、優しい方ですからね……。それが魅力なんでしょうけど、勝負の世界は大変ですよね」
 堀切は、凄く親身になってくれる。
 突き放すような言い方ではなく、この瞬間もどうすれば良いかを一緒に考えてくれているようだ。
「……堀切は、良い男だな」
「え? いやいや、僕はちょっと勉強と医学が得意なだけの、凡人ですから! 精神科医として、凄い研究や実績を残していく父を見ていると……。日々、劣等感を感じてばかりの……凡人です」
 謙遜する堀切の、凡人という言葉で――胸がチクッとする。
 俺には、果たしてみんなから夢を託されるだけの才能があるのか。それとも、凡人なのか……。
「凡人、か……。凡人と天才の違いって、何だろうな?」
 堀切は、顎に手を当ててから――恐る恐る口を開く。
「恵まれた体格とか、運動神経とか、色々な要素があるとは思いますが……。僕は、伸び率だと思います」
「伸び率?」
「はい。同じ環境、同じ条件で同じだけやっても、人より効果が並外れて高い人がいます。……研究では、そういう人は外れ値と言って、統計処理の段階で除外されることが多いんですけど……。それは、科学的に同じ条件のはずなのに、違うだけの効果が出てしまうからなんです。……外れ値の人を、視点を変えて見れば……天才とも呼称出来るのかな、と」
「……成る程、な」
「そう考えれば――やっぱり大滝先輩は、天才です」
「……は?」
「だって、そうじゃないですか。中学、高校へ入学するまでの間に、野球を出来る時間は大差ないですよね? それでも他の人より高い能力になっているというのは、才能があるってことです」
「それは、身長が人より高かったからじゃないか?」
「それも能力が伸びやすい要素としてはあると思います。結局は筋力って、筋肉の長さも関係してくるんです。だからこそ、まだ筋肉量自体が足りない、身体のラインが細いって言われた先輩は、まだ未完成で……。それなのに、これだけ凄い結果を残している。これでもっと筋力が付いたらって思うと、やっぱり伸び代の塊。天才、なんだと思います」
「そうか……。恵まれた体格に産んで、ここまで育ててくれた親に、ちゃんと感謝しなきゃだな」
「はい! 先輩の持ってるポテンシャルを少しでも引き出せるように、僕もサポートします!」
 堀切は、本当に良い男だ。
 肉体労働のマネージャー業務を、運動なんて得意でもないのに一生懸命こなしてくれる。それどころか、しょぼくれた俺を元気づけてもくれる。今みたいに。
 自分が天才かどうか、か……。堀切の言ってくれたことが正しいのかは、分からない。統計とか、難しいことは分からない。それでも、持っていると言われるポテンシャルは、発揮出来るようにしなければいけない。
 才能のあるなし。環境の変化に拘わらず、俺が果たすべき夢は――何一つ変わっていないんだから。
「よし、じゃあ続きやるか」
「はい!」
 そうして、筋肉が悲鳴を上げるまで追いこみ続けた――。

 桜が野球部を辞めて、一週間程が経った時のことだった。
「ねぇ、聞いた? 桜、リストカットしてるらしいよ!」
 教室内で、そう噂話をする声が聞こえてきた。
「見た見た! 両手とも、傷だらけで包帯してるもんね!」
「やっぱり、アレだよ。……大滝くんと別れたから」
 俺の名前を出すからと急に声を潜めたところで、もう聞こえている。桜の名前が出た時点で、注意はそっちに向いているんだから。でも、先が気になる俺は、聞こえていない素振りを続ける。
「ええ? でも、あれって桜から別れを切り出したって噂じゃん?」
「分かんないよぉ~。お互いに庇い合ってるのかも。桜だって、私の都合で別れたとか言ってただけじゃん? 本当は、大滝くんがフッたのを隠してんのかも」
「え、なんの為に?」
「そりゃあ、大滝くんに悪い噂が流れないようにでしょ。プロ野球選手になりそうな人のゴシップとか、メンタル追いつめそうじゃん?」
「ええ~。だとしたら、桜は強がってるってこと? めっちゃ健気じゃん」
 どれだけ想像力豊かなんだろか。
 真実は、俺が愛想を尽かされてフラれただけだ。
 でも、本当に桜が自分で自分を傷つけるような――リストカットなんてしているのだろうか。あの気丈な桜が、そんなことをするはずがないだろう。
 そうは思いつつも、気になる。
 あれから桜とは一度も合っていない。部活で予定が埋まってるいるし、教室も離れてるから、姿を見かけることもなかった。
 桜のおじさんやおばさんに連絡しても、「桜に何も言わないでって口止めされてるから」と情報はもらえない。おじさんやおばさんから、謝罪されるばかりだ。まるで一方的に婚約破棄をした娘の非を認め、謝罪するような文言ばかりが送られてくる。
「……別に、婚約をしていた訳じゃないし。逆にこっちが申し訳なくなるんだよな……。もう、家族ぐるみの付き合いだったから……」
 おじさんやおばさんとしても、俺を息子のように思ってくれていたらしいから。桜と別れてから、連絡すれば直ぐ謝罪されてしまうので、こちらとしても気軽に聞きにくい。
「……見に行ってみるか?」
 火のない所に煙は立たぬと言うし、何かしら似た傷を負っているのかもしれない。それは――何が出来る訳でもないけど、気になる。
 スッと席を立ち、トイレに行く風を装って廊下へと出る。
 実際、遙か遠いトイレを目指して歩いた。ただ、その途中に桜のいるクラスがあるだけだ――。
「――嘘、だろ……」
 横目に桜のクラスを覗き見た俺の口から、思わず現実を否定する言葉が出てくる。
 ドクンドクンと、心臓が早鐘を打つ。
 それは何も、久しぶりにみた桜の美しさに胸がときめいただけが理由ではない。
 俺は早足で遠くのトイレへと駆け込み、洗面台に手を突き目にしたことを整理する。
「……本当に、絆創膏とか包帯が……両腕一杯だった」
 前腕の真ん中辺りから指先まで、殆どが覆われていた。
 リストカット――自傷行為をしたのかは分からない。
 でも、そう考えれば肌を覆い隠している説明がつく。
「日常生活じゃ、あんな広い範囲に……。しかも両手に傷なんてつかない……よな」
 例え、落ちた大きなガラス片を拾い損ねて傷が付いたとしても、両腕一杯が傷だらけにはならない。
 自分で意図的に傷でもつけなければ、あんな広範囲かつ両腕に傷なんて……。
「……野球から離れたストレスか?――きっと、そうだ」
 桜が自分を傷つけてしまうようなストレスとしては、俺と別れたことよりも、野球から完全に離れたことのほうが納得がいく。
 逆に、そう考えてみれば――自傷行為をしてもおかしくない程のストレスだろうとさえ思う。
「ケガで投げられなくなっただけでも、俺は凄いストレスを感じているんだ……。野球そのものから、もし離れたら……。まして、野球が誰よりも好きな桜なら……」
 あり得る。
 野球をしていた時と違って、もう指を大切にする必要もない。その理由に思い悩んで……ということなら、十分にあり得る。
「どうにか、止めないと。……俺の事はともかく、それだけは! 桜が傷つくのだけは、絶対にダメだ!」
 俺には何が出来る?
 桜から野球を奪った俺に、一体何が……。
 考えても考えても、答えは出ない。
 悩んだ末に、桜の両親へ連絡した。『桜のリストカット……というか、自傷行為が学校で噂になってます。桜から野球を奪ってしまった俺が言えた義理じゃないのは百も承知ですが、どうか桜とキャッチボールだけでもしていただけませんか?』と。
 返ってきた返事は、親父さん、おふくろさんともに殆ど同じだった。『心配かけてごめん。でも、詳しくは言えないこちらの事情もある。桜のことなら、心配は要らない。武尊くんは武尊くんのすべきことに集中して欲しい』と。
「気にするなって……。無茶だよ」
 俺は――今でも、桜が大好きなんだぞ?
 未練がましくも、ずっと、ずっと……。野球と同じぐらい、桜が大切な俺に……桜を気にするなって?――それこそ、無茶だよ。
「俺が……調子を落とさなければ。ケガなんて、しなければ……。こんな事には、ならなかったのに!」
 吐き気すら催すほど、自分を責めてしまう。
「いっそ、桜の代わりに俺が野球を辞めてしまえば……。いや、そうしたら、桜も責任を感じてしまうか……。俺は、どうするのが正解なんだ?」
 俺に、何が出来る? どうすれば、桜が傷つくのを止められるんだ?
 直接自傷行為は止めろなんて、野球を奪った張本人である俺が言える訳もない。
 いくら考えても結局、俺に出来ることなんて見つからなかった――。

 何も出来ないまま、数週間が経過した。
「聞いた? 桜にフラれた人、また増えたらしいよ」
「え? 今度は誰?」
 聞き耳を立ててしまう。そして出た名前は、俺でも知ってるイケメン生徒の名前だった。
「うっそ!? マジで!? え~、ダメだったんだ。桜、理想高いなぁ~」
「桜さ、最近は図書室にも通ってるらしいんだよ」
「ええ!? 嘘、なんで!? 勉強ってガラじゃないのに! また告白断ったのより、そっちのが衝撃だわ!」
「行動が変わった理由なんて、一つしかないっしょ!」
「もしかして……心に決めた、新しい男の影響とか!? 嘘、マジで!?」
「多分だけどね。大滝くんと別れたのはマジっぽいし、誰から告白されてもOKしない。部活もないのに、直ぐ帰るし……。あれは、勉強出来る系の良い男に心を奪われたってことじゃない?」
「あ~。それで、相手と同じ大学を目指して勉強してるとか?……たしかに、もうすぐウチらも三年だしね」
 心当たりがある。
 勉強の出来る男で、桜と交流のある眼鏡の後輩――堀切だ。
 医学部を目指しているとは聞いてたけど、どこの大学の医学部かまでは聞いてない。……でも、それなりに偏差値が高い大学なんだろう。
「でもさ、リストカットの跡、更に増えてるよね? ヤバいぐらいに」
「あれじゃない? やっぱ、慣れない勉強でストレス溜まってるとか。ずっと野球ばっかりしてたのに、急に勉強漬けじゃぁねぇ。ストレスも溜まるっしょ」
「あ~。成る程ね、納得だわ」
 たしかに。……そうだとすれば、一応の納得は出来る。桜が慣れない勉強に強いストレスを溜めながらも、自分の定めた目標に向かい――正に身を切る思いで日々を精進しているのだと。
 それなら俺は……応援するべきなんだろう。遠くから、幼馴染みとして。
 それが正しい。
 正しいとは理解していても――思い通りになってくれないのが、人の心なのかもしれない。
「――大滝先輩? 僕の顔に、何かついてますか?」
 放課後の部活。
 肌寒い日もかなり増えてきた十一月。
 今日もウエイトルームで肉体改造を図っている俺の傍には、堀切がサポートをしてくれていた。
「ああ、いや……。ごめん、堀切は良い男だよなって」
 思わず、今まで以上に堀切を意識して見てしまう。
 肌は綺麗だし、身長だって低くない。目鼻立ちは綺麗だ。ちょっと色白でヒョロヒョロとしているが、如何にも利発そうに見える。性格だって頑張り屋なのを知っている。
 間違いなく、勉強も出来て爽やかな、綺麗系の良い男だ。
 じっくり観察して頷いていると、堀切が怯えた表情をしている。
「あの……。僕はLGBTに理解がある方だと思います。それでも、その……僕自身は異性愛者でして……」
「俺だってそうだよ!?」
 曲解されている!? いや、そうだよな。どう考えても、俺の紛らわしい言い方が悪かった!
「よ、良かった……。和泉先輩と別れたのを切っ掛けに、目覚めたのかと……」
「目覚めるとか、可能性が眠っておるみたいな言い方は止めてくれるか?」
「でも、先輩は女性からの告白を断りまくっているそうですし。男性にしか興味ないのではって、僕たちの学年でも話題ですよ?」
「そうなの!?」
 思わぬ評判が広がっていた! その風評は、想像出来なかったよ……。
「はい。一番の候補は、十文字先輩×大滝先輩だそうです」
「大和相手に俺が襲いかかるのが話題になってるの!?」
「あ、逆です。先輩が襲われる側が候補です。そこは大切らしいですよ?」
「もうどっちでもいいよ! 俺は、お前なら桜が好きになるのも納得だなって――……ぁ」
「……え?」
 堀切にからかわれて、勢いで口から出してしまった。
 先ほどまでの和やかな雰囲気は消えた。一気に室内へ重苦しい空気が漂う。
「あの……先輩? 僕が……和泉先輩に好かれてるって?」
「……噂、だよ。そういうのが聞こえてきたから、さ」
「そ、それは……頻回に連絡を取ってはいますけど……」
 ほら、な。藪をつついて蛇を出すって言うけど、余計なことなんて言うもんじゃない。
 分かっていたのに、こんなに胸が苦しい。
 俺は、あれから一度だって桜に連絡を返してもらえていないのに……。頻回に連絡を取っているとか、知りたくなかった。
 桜の幸せを願っていて、堀切なら納得だとは思っても……心は、正しいことを受け入れられるとは限らないんだから。
「そっか。……お幸せに、な」
 これ以上、話を続けたくはない。
 心が折れて、情けないことを言ってしまう前に――ウエイトを持ち上げて、スクワットジャンプを再開した。
 堀切は何か言いたそうにしていたけど、俺は逃げるように練習に打ち込んだ――。
 その日の部活後だった。
「武尊、ちょっと残れるか?」
 帰ろうとしている俺を、大和が止めた。隣には、堀切もいる。……ウエイトルームでの出来事を、大和に相談したんだろうな。キャプテンとして、部内でのわだかまりを解消しようということか。
「分かった……」
 俺は部室のパイプ椅子に座り直す。部員たちは、重苦しく大切な話しが始まる気配を察したのか、急いで着替えて部室を出て行った。同級生たちは、一緒に聞きたそうにしているが、大和が「帰れ」というと、渋々出て行った。
「……大和、大丈夫だから」
「何が大丈夫なんだ? ちっとも大丈夫じゃねぇだろ」
「いや、俺は堀切を認めてるし。……まだ難しいけど、応援したいと思う」
「……は?」
「え?」
「……武尊、お前は何の話をしてるんだ?」
「……え? 堀切が桜と付き合ってるって話だろ?」
「え!? 桜ちゃんが!? ほ、堀切、そうなのか!?」
「ち、違います! それは大滝先輩が勘違いしてるだけです!」
「俺の、勘違い?」
「そうですよ! 僕は和泉先輩から、大滝先輩のやっている練習メニューとか、身体の状態を毎日報告してくれって言われてるだけです!」
「――ぇ……」
 桜が……俺の状態について毎日報告を求めている? なんで、そんなことを?……二人の夢を実現させるため、か? 俺とは連絡したくないけど、一緒に抱いた夢の行方は気になるから……とか? いや、なんだかしっくり来ない。
「桜と付き合っているのが俺にバレたから気まずいって、大和に相談したんじゃないのか?」
「違いますよ! 十文字キャプテンに相談したのは、和泉先輩の腕の傷についてです!」
「そのこと……か」
「武尊も、この噂を知ってるんか? いや、俺も目にはしてたんだけどよ。ちょっと聞けなくて、な……」
「ああ……俺も、同じだ。噂も聞いたし、目にもした。だけど、なんでそんなことするのかは、聞けてない」
「……話さねぇのか? 俺は元バッテリーで幼馴染みってだけの仲だけどよ、武尊は家族同然だろ? 別れても、それは変わらないはずなのに」
「聞ける訳、ないだろ」
「武尊、本当にそれで良いのか? もう桜ちゃんのことが大切じゃねぇのか!?」
 訴えかけるように大和が言う。声が大きいな……。これぐらいの声が出ないと、満員の球場で選手に指示も出せない、か。
「――大切に決まってんだろ。野球と同じぐらい、桜が今でも大切だ。俺自身より、よっぽど大切だよ」
「だったら――」
「――俺を庇って、大好きな野球が出来なくなった子に『傷だらけなのは、野球を辞めたせいか?』って聞けるのか?……そんな無神経な真似、出来ないよ」
 俺の反論に、いきり立っていた大和も返す言葉がないのか――押し黙ってしまった。
「そりゃ、たしかに言いにくい立場なのは分かるけどよ……。でも、心配なら……」
 ゴニョゴニョと呟くように、大和は言う。自分でも、無茶を言っていると思っているんだろう。本当に俺が桜に声をかけるのが正しいのか、大和も自信がないのかもしれない。
「俺だって、桜に自傷行為を止めさせる為に何が出来るか、ずっと考えてたよ……。でも結局、俺が出来るのは、桜なら立ち直ってくれると信じること。――それと、あいつが大好きな野球の夢を叶える為に、努力を続けることだけだ。やっぱり俺になら、夢を託せるって安心してもらうことだよ」
「武尊、それは……声をかけるより、よっぽど辛い道だろうが。一人で頑張り続けられるほど、人は強くないだろ。桜ちゃんがいつも発破をかけてくれたから、武尊は……」
「分かってる。でもさ、いつか大和も言ってただろ?」
「何をだよ?」
「俺の背後で、桜が一緒に投げてるように見えるってさ」
「そりゃ、言ったけど……。それがどうしたってんだよ?」
「俺たちは、同じ人に憧れて、ずっと一緒に競い合ってきた。……未来は一緒にいられなくなっちゃったけど、それまで切磋琢磨し合ってきた過去まで離れる訳じゃない。桜は野球が大好きなんだから、さ。俺の後ろにちゃんと自分がいる、グラウンドで輝いてるって、見せてやりたいんだ」
「武尊、お前……。それまで、桜ちゃんの傷は見ないことにするつもりかよ!?」
「じゃあ、何か出来るのか!? 桜に、今すぐ自傷行為を止めろ、野球に戻れって言えるのか!?」
「それは、言えねぇけどよ! 武尊が桜ちゃんを野球と同じぐらい好きなように、桜ちゃんだって武尊のことが大好きだったんだぞ!? 武尊と別れたから自分を傷つけずにいられねぇのかもしれねぇだろ!?」
「大和は見ていただろうが! 俺がキッパリ桜にフラれたのを! もう傍にいたくないって言われたのを、聞いてただろう!?」
「それは!……それは、言葉通りじゃねぇかもしれねぇだろうが。……桜ちゃんだって、武尊に負けないぐらい不器用なんだぞ……」
「俺だって、何度も連絡したさ! それでもメッセージは既読スルーされてる! 桜の両親からだって『何も言えない』って距離を取られてんだよ! 愛してるヤツにそれをされる苦しみ、大和に分かるか!? 俺に残された唯一の家族だと思っていたヤツに避けられる悲しみが、大和に分かるのか!?」
「……すまん。俺には、両親もいる、武尊の苦しみも、桜ちゃんの苦しみも……なにも分かんねぇ。――ただ、イヤなんだよ」
「……何が、イヤなんだ?」
「武尊と桜ちゃんが、仲良くしてねぇのは、イヤなんだよ……。俺の大切な二人が、距離を取り合ってお互いに傷ついてるのを、黙って見ていたくねぇんだよ!」
「……大和」
「俺だって、自分の言ってることが筋通ってねぇって分かってる! それでも、大好きなヤツらにはいつまでも変わらず、笑顔で仲良くしてもらいてぇ! それが、おかしなことかよ!?」
 おかしくなんてない。それは、当たり前の感情だと思う。
 俺だって、そう出来ればどれほど良いか分からない。それでも、桜は俺と別れたいと願い出た。売り言葉に買い言葉じゃなく、まるでずっと考えた末の答えのように。
「大和、お前は良いヤツだよ。俺は、俺にしか出来ない――桜や皆に託された夢を果たす。約束を守る姿を、見せる。俺がやることは、何一つ変わってないよ。……彼女彼氏って形じゃなくなってもな」
「武尊……。分かった。たしかに、野球を辞める切っ掛けになった上に、フラれた本人――武尊には、厳しい言葉だった」
「……すまん。じゃあな」
 すっかり俺たち二人の世界に入りこんでしまっていた。
 大きな身体をした男が怒鳴り合う空間にいるには、経験が足りなかったんだろう。小さくなって震えている堀切にも謝ってから、俺は部室を後にした。
 今日も俺は――家族と暮らしていた家に帰る。
 楽しかった思い出が刻まれた空間で、一人でも栄冠を目指し、努力の跡を刻み続ける――。

「――桜ちゃん、武尊とちゃんと話してやってくれないか?」
「俺たちからも頼む! 大滝は、和泉のことが大好きなんだよ! 本当に、呆れるぐらい!」
「もう、見てられないんだよ! 野球部にも、戻ってきて欲しい! 元はと言えば、点を取られても取り返せなかった俺たちだって悪いんだから!」
 昨日は、帰ったフリをした野次馬が部室の前にいたらしい。
 大和や堀切としていた会話を、聞かれていたようだ。
 桜の傷が増えていないか見ようと、部活に行く前にクラスの前を通れば――暑苦しい声が聞こえてきた。同じ学年の野球部たちが群がっていて、中心にいるだろう桜の姿は見えない。
 野次馬と一緒に、俺は野球部のヤツらの行動を、ただ眺めていた。
 きっとあいつらは、昨日の話で全ての原因である俺が言えないなら――と思い立ったんだろう。ここに来ることを俺に伝えてないのがその証拠だ。俺が入り込んで良い場面じゃない。
「……ごめん」
 久しぶりに聞いた桜の声は、驚く程に元気がない声音だった。声質は同じなのに、全く別人の声かと思うほどの違和感だ。
「今の私には……武尊の傍にいる資格はないから。そんなことより他に、やるべきこともあって忙しいし、野球部にも戻れない。それに今、私が野球部に戻ったら、責任の話もぶり返されちゃうから」
 酷く悔しそうに、そう言う声が耳に届く。
 これだけ野次馬がいても、好きな人の声は特別なんだろうな。ざわめきの中でも、弱々しいその声をハッキリと聞き分けられた。――改めて決別を告げる言葉を、な。俺にとっては……二度と聞きたくなかった言葉を。
「責任なら、俺たち全員で頭を下げる! 元々、桜ちゃん一人で追うべきもんじゃなかっただろ!?」
「そうだね。でも、私がそうしたかったの」
「桜ちゃん……。武尊はさ、今でも桜ちゃんのこと、バカみてぇに一途に愛して、努力してんだぜ? 腕の傷だって、本気で心配してんだ」
「だから――だよ」
「え?」
「私が言いだしたことなのに、お情けでなかったことにしたくない。腕の傷は、これまでの私のせいだし。武尊のせいでもなんでもない。今、武尊と付き合っても……私は対等になれない」
「武尊は、常に桜ちゃんを対等だと思ってる!」
「私がそう思えなきゃ意味がないの。……武尊に負んぶに抱っこの関係とか、耐えられない。こんな気持ちで付き合ったら、プロになるかもって打算で付き合う野次馬と同じ。……本当に、無理。吐き気がするぐらい、自分が許せない。傍にいても笑えないぐらい、心の底から無理」
 俺こそ、吐き気がしてくる。
 愛する人に、ここまで頑なに、傍にいたくないと言われたら、傷つきもする。
 桜のあまりの拒絶っぷりに、野球部のやつらも言葉を失っている。……俺と同じように。
「……ごめん、私はやることあるから、帰るね」
 そう言って桜を囲む野球部を掻き分け――桜の目が、俺を捉えた瞬間に見開いた。
 気まずくて、お互いに目を逸らしてしまう。
 数秒ほど、お互いに固まっていた後――桜は、無言で俺の横をすり抜けて行った。
「……武尊、すまん」
 大和が代表して、固まっている俺に謝って来る。
 野球部、そして集まっていた野次馬が浮かべる憐憫の眼差しに晒されるのは……辛い。
「……良いよ。お前らは、桜と俺の為にやってくれたんだろ?」
「でも……。最悪の結果になっちまった」
「何も言わない俺より、よっぽど立派だって。……昨日までと何も変わってない。俺は俺のやりたいことをやる。桜も、桜のやりたいことをやる。それだけだろ。……ほら、部活行こうぜ」
 暗い顔で沈黙しているヤツらの背を、笑顔で叩く。
「……無理に笑うなよ。辛いとこも、ちゃんと見せてくれよ」
 大和の囁くような言葉が、耳に入ってしまった。
 群衆のざわめきがあるのにも関わらず、大和の声は明瞭に聞き取れて……。俺は、大和のことも大好きなんだな、と。今更ながら理解した――。

 十一月も後半に入った。
 日没の時間も早くなったのに伴い、野球部の活動時間もかなり短くなっている。暗い中では、ボールも見えずに危険だからだ。
 ウエイトルームは、安全管理の関係上一人で使用することは許されない。
 だから俺は、一度帰ったフリをして学校付近の山へとランニングをしていたんだが――。
「――電気が灯ってる? ブルペンか?」
 僅かに、電球の光が灯っている。咎められないぐらい、局所だけの灯りだ。
 誰かいるか、消し忘れだろうか。
 そう思い、近づいていくと――ボールがミットに収まるバンっという音が響いてきた。
「……大和、か?」
 捕球する時に、良い音を鳴らすのにも技術がいる。市立秩父の捕手でこれだけの技術を持つキャッチャーなんて、大和以外には考えられない。
 そっと、壁に隠れながら近づいて行く。
「……三国に、大和? 居残りで投げ込みしてるのか?」
 長袖のアンダーシャツで防寒対策をした三国と、大和が屋外ブルペンにいた。スポットライトは、二人が立っている所だけ。他は暗く――これでは、ボールの軌道も見えにくいだろうに。
「……いや、三国の立ってる場所、おかしいだろ。それ、少年野球よりもホームに近いだろうが……」
 三国は、本来のマウンドから四歩ぐらいホームに近寄ったところから投げている。さすがに三国もこの時期に全力では投げていないだろうけど……。
 そんな距離で、球速一四〇キロメートル近いストレートを大和は受けていた。体感速度で言えば、球速一六五キロメートル以上の球を受けていることになる。
「――グッ!」
「キャプテン! 大丈夫っすか!?」
 案の定、捕球に失敗して身体に硬球がめり込んでいる。いくら防具の上からでも、衝撃はとてつもないだろうに。思わず駆け寄りそうになると――。
「来るな!」
 ビクッと止まった。俺に見られていると、気が付いてたのか?
「良いから、続けてくれ!」
 続く言葉で、俺にかけられた制止ではなく、三国に向けられていた言葉だと分かった。
「でも……やっぱり無茶っすよ! こんな距離で俺の球を受けるなんて……」
 三国の言う通りだ。この距離だと、投じられてからホームベースに到達するまでの時間は、約〇.四秒だ。
 しかもピッチャーの投げる球は、投げられた直後の初速が最も早く、だんだんと減速していく。それがこの距離なら、減速も少ない。キャッチャー目線なら、今まで見たことがない程、手元でノビる球に感じるだろう。
「厳しい冬に肉体改造したら、きっと武尊は復活する! 今まで以上に、進化してな! そんな時に俺が捕れなきゃよ、折角の成長だって意味がねぇんだよ!」
 大和は、こんな……日本最速のプロ投手が投げるよりも厳しい速度に、対応しようと己を磨いている。 俺の復活を信じ、球を受ける為に……。
「――三国だって、この距離で俺に捕られたら悔しいだろ!?」
「当たり前っす! 俺だって、秋のような悔しさは、もう二度と味わいたくないんすよ!」
「だったら、遠慮なく投げろ! 練習中には殆ど投げる時間もねぇんだから!」
 冷える時期は、ケガをしやすくなる。かといって十分に身体を温めていたら、あっという間に暗くなって投球練習なんて出来ない。
 三国も、大和も――必死に取り組んでいる。
 それは、夢の為だ。
 夏に掴み損ねた甲子園――球児たちの憧れにして、夢の舞台。
「しゃあ! 対応したぞ! どうした、武尊のストレートは、こんなもんじゃねぇぞ!?」
 バァンと、気持ち良い音が響く。……ミットがあろうと、寒い時期に硬球を取るのは、手がもの凄く痛いのに……。割れるんじゃないかって、思うほどなのに。
「クソッ! 次は、もっと速い球を……」
 泥で茶色く汚れた白球で、大きな身体をした二人が一喜一憂する。
 上手く捕れれば大和が満面の笑みを浮かべる。取りこぼすぐらいの球を投げれば、三国が満面の笑みでライトの灯りを照り返す。
 俺は……こんなに頑張るヤツらがいるチームの、エースにして四番なんだ。
 こいつらの夢を、背負って行く存在なんだ……。
「負けられないな……」
 首に巻いていたタオルで汗を拭ってから、再びランニングに出た。
 課題のスタミナも、筋力も――このケガで投げられない時期に、全て解消してやるさ。
 ケガから復活した後には……目を剥いて、安堵の息を吐くような成長をしてみせるからな。
 俺なら夢を叶えられるって……どんな苦境でも何とかしてくれる。
 そんな頼られる存在に、絶対なるから。
「星空が綺麗だ……」
 道が枝分かれしていて、どちらの道に進もうかと一旦、走っていた足を止める。
「俺たちのやりたい道も別れちゃったけど……。この星空の下、桜もやりたいことを頑張ってる最中なのかな……」
 思わずセンチメンタルになり、自嘲気味に笑ってしまう。
「考えても仕方ないことか……。とにかく、俺は頑張るしかない」
 より険しい起伏がある道を選んで、再び走り始めた――。

 十二月二四日。
 世間はクリスマスイブだと浮かれているようだが、俺たち野球部にそんなイベントは無関係だ。
 その日も俺は、朝から晩まで練習した後、家に帰ったフリをしてランニングに繰り出した。
「――ふぅ」
 学校に着いて、閉門された校門を乗り越えて部室に向かう。
「……やりすぎた、か? いや、でも……これぐらいしないと、目覚ましい成長は出来ない……。痛みに負けてられないよな」
 夏に痛めた足首が癖になっているのか、この頃は足首が痛む。ランニングだけでなく、筋トレでも足首に衝撃を受けるようなものを多くやっていた。ウエイトを使ったトレーニングは、特に足首に来る。
 さすがにオーバーワークだったのかもしれないけど……身体のラインはあまり変わっていない。筋肉が付きにくい身体というのもあるのか、目に見えて肉体改造の効果が出ないからと焦燥感に駆られる。
「俺……こんなんで、みんなの夢を叶えられるのかな」
 最新の機器を用いている名門校では、足首に負担をあまりかけずに筋力を強化出来るようなマシーンもあるんだろう。市立秩父には、バーベルとかメディシンボールのような、昔ながらの基本的な機材しかない。
 マウンドが懐かしくなり、ブルペンへと足を運ぶ。
 本格的に寒くなる十二月になってからは、三国と大和の姿も見ていない。さすがにケガのリスクが高いからだろう。
 ブルペンのマウンドの横に、ボールが一つ落ちていた。……回収忘れだろうか。
 すっと、落ちていたボールを握ってみる。ああ……良い感触だ。このまま、全力で投げたくなる。
 そのままマウンドに立つ。ホームベースまでの約一八メートルが、以前よりも遠く感じる。もう二ヶ月も投げていないんだから、当然かもしれない。
 そのまま、軽く投球フォームに入り――。
「――ぇ」
 ガシッと、上腕と腰を掴まれた。
「大和?……それに、堀切? なんでいるんだ?」
 振り返れば、大和が俺の腕を押さえ、堀切は腰にしがみついて俺が投げられないように止めている。
「なんで、じゃねぇだろ。……今、何をしようとしてた?」
「……本気で投げる訳じゃない」
「三月まで、軽くでも投げることは禁止されてただろうが!? それに、さっき足首も気にしてたよな!? また痛めたんか!?」
「……いつから、見てたんだ?」
「そんなん関係ねぇ! なんで違和感があるって俺に言わなかった!? なんで医者の制限を守らねぇんだよ!?」
「……すまん。でも、ダメなんだ」
「何がだよ?」
「投げられないと、焦燥感でおかしくなる。気を紛らわす為に、ランニングや筋トレもしてるのに……。それさえ出来なくなると思うと、気が滅入るんだ。そうかと思えば、ソワソワしてきて……。動いている時が一番、気楽なんだよ」
 首を垂らしながら、罪を告白するように、心情を吐露する。はぁ、と大和の大きなため息が聞こえてきた。
「それにしても、よく俺が残ってるって気が付いたな。さすがは幼馴染みにして、キャプテン」
「……気が付いたのは、俺じゃねぇよ」
「……じゃあ、堀切か? さすが、俺に一番触ってるマネージャーだな。……ストレッチをしてる時にでも、違和感に気が付いたのか?」
「……違います。僕でも、ないんです」
「え?」
「気が付いたのは、僕じゃないんです……。僕は大滝先輩のストレッチやマッサージで筋肉に触れていたのに、全く気が付けませんでした……」
 顔を伏せて、堀切は無力を嘆くように声を漏らしている。
「先輩の練習メニューとか筋肉の状態を送って……。身体のラインがむしろ細くなって来ているのは、絶対に隠れてオーバーワークしてるからだって。筋肉の疲労に、栄養摂取が付いて来れてないから、痩せてるんだって……。だから、絶対に止めてくれって言われたんです」
 誰に、とは聞かなかった。……聞かなくても、分かっていたから。
 俺の癖や肉体をそこまで理解しているヤツなんて――もう、この世に一人しか残っていないから。
「野球におふくろ、桜まで失った俺は……空っぽなんだよ。この空虚な感情を埋めるには、努力しているって慰めが必要だったんだ……」
「それでオーバーワークになってたら、意味ねぇだろ?」
 大和は、本気で心配しているような視線を向けてくる。いっそ、怒鳴られた方が気持ち敵には楽だったのに。そんな顔をされたらさ、また本心からの弱音を吐いてしまいそうになるだろ……。
「本当に、やり過ぎだとは思ってなかったんだ。……むしろ、全然足りないと思ってたんだよ」
「正気か?」
「ああ、筋肉が付かないのは、むしろ努力が足りないからだと思ってた。ケガするほどの練習量だとは、露程も思わなかった」
「そんな訳がねぇだろ。客観的に見て、他の部員よりやり過ぎだって分かるだろ」
「客観的に、見られなくなってたんだ。……自分がどうなっているのか、良く分からなかった。……なあ、教えてくれよ。……十全な練習って、一体なんなんだ? どれぐらいが、最適なんだ?」
「武尊……。お前のそんな虚しそうな顔、始めて見たぞ」
 虚しそうな顔、か。……そうだな、大和の言う通りだ。
 全てが虚しくて、目標に向かって努力しているということだけが、俺を現実に存在すると繋ぎ止めている楔だったのかもしれない。
 その結果が、大和にこんな不安な顔をさせるなんて、思っても見なかった。現実感がない、というか……。今になって思えば、何かしていないとパニックになりそうな日々だった気がする。
「なぁ……。大和、堀切。――桜がどれだけ野球を好きか、知ってるか?」
「知ってるに決まってんだろ。桜ちゃんの球を小学校、中学校で受けてきたのは、誰だと思ってるんだよ」
「僕も、あんなに楽しそうに野球のルールを教えてもらって……知っている、つもりです。野球好きが増えたって、迷惑そうな顔なんて一切せず、ウキウキした表情で教えてくれて……」
「そうだよな……。やっぱり、桜は野球が大好きなんだよな」
「ああ……。辞めた今でも、それは疑ってねぇよ。武尊に負けないようにって、ずっと工夫して来たんだかんな。変化球やら制球は大和より勝ってるって俺に言われた時……。あんなに嬉しそうな顔は、忘れられねぇよ。……あんな顔、野球が大好きじゃなきゃ出来ねぇよ」
「そう、だよな。……あいつさ、高校ではマネージャーになったのに、親に借金してまでユニフォームと硬式用グローブとか揃えたんだぜ? 毎日、手入れも欠かしたことがなかった。練習でも、俺と対戦する時の目は、本気の目だった。本気で、楽しんでる瞳だった。……どんな気持ちで、ずっと愛してきたグラウンドに、自分から背を向けるって言ったんだろうな?」
「武尊……。自分を追い込み過ぎだ。だからセンチメンタルになるんだよ。余計なことは考えず、ちょっと休め。――今の武尊は、危ういんだよ……」
「危うい?」
「線路にでも飛び出しそうっていうか、さ。……自暴自棄になってる気がすんだよ」
「そんなこと、しないよ。それだけ野球を愛していたライバル――愛している人から、大好きな野球の夢を全部、託されてるんだぜ?……真夏の大甲子園、満員で応援してくれるスタンド、それに応えるように球速一六〇キロメートルを投げるってさ。……それを成し遂げるまで、死んでも死にきれない。人より何倍も練習するのなんて、当然だと受け入れていた。……泥水に突っ伏して、苦しくて飯を吐いてからがスタートだとさえ思っている。……実際に、やってる。この背中に、何人もの夢を背負ってるんだから」
「だから! そういう、死ぬとかって単語が出る時点で危ういって言ってんだよ! 武尊が潰れたら、背負ってる夢も何もねぇだろ!? そんな押しつぶされそうな重みなら、一回降ろして休んでくれよ!? 今の武尊は、甲子園の夢以外はなんも見えてねぇ! ケガしても、無茶やり続けそうなんだよ!」
「そんなことは、ないよ。……多分」
「あるから言ってるんだよ! 夢を語ってるなら、笑顔で語れよ! そんな空虚な能面で、夢を語らねぇでくれよ! もっと楽しそうに、野球をしてくれよ……」
「……俺、そんな風に見えるのか?」
 心からの疑問を堀切に尋ねる。この中で、一番客観的に観てくれていそうだったから。堀切は、深々と頷いた。
「……和泉先輩は、大滝先輩を護る為に大きなミスをしたと思います」
「ミス?」
「はい。……喪の作業って、知っていますか?」
「喪? 喪って、おふくろの葬式とかで聞いた言葉だな……。喪中とかの、喪か?」
「そうです。その喪です。僕は親が精神科医なので、その手の資料を目にしたこともあるんですが……。大切な人が亡くなったストレスから抜け出すには、四段階の過程が必要って言われてるんです」
「四段階の過程?」
「そうです。第一段階は、無感覚や情緒欠落の段階。死を現実のものとして受け止められない段階です。そして第二段階は、思慕と探求、怒りと否認の段階。喪失を充分に受け入れられず、強い愛着が続いている段階です」
 ああ、覚えがある。最初は、驚く程に現実感がなくて、情緒が欠落していたようにも思えた。家に帰ってもおふくろがいないことに喪失感を覚えて、失意に陥っていた。それなのに、おふくろの名残がする飯だとか……。怒りをぶつけるように、おふくろの思い出がある壁にボールの跡を朝まで刻んだり。
「第三段階は、断念と絶望の段階。それまで故人との関係を前提に成立していた心や生活の在り方が意味を失い、絶望や失意、抑うつ状態になります」
 それは……自分では良く、分からない。でも、そうなのかな。もしかしたら……今のこの状態を、そう言い表すのかもしれない。
「最後が、離脱、再建の段階です。思い出として故人を受け入れ、新しい人間関係や環境での生活を再建します」
「そんな段階があるんだな……」
 堀切の語った内容は、凄く興味深かった。
 俺自身がおふくろを亡くした時の、実体験にも共通している部分がある。
 同じような感情の流れは――桜が離れていった時にもあった気がする。
「俺は、まだ喪の作業の最中なのかもな。……おふくろが亡くなった生活にもまだ慣れていないし、桜がいないのなんて……。いや、何でもない。忘れてくれ」
 最初は受け入れられず、自分を責めていた。
 どうにもならないと分かると、桜がいないのが当たり前の生活をしていて、失意のどん底に落ちたと思う。野球屋敷の跡を見て泣き出したり、四人用のリビングテーブルで失意に陥ったり。……抑うつ状態にも、あったのかもしれない。
 その時の感情を思いだし――思わず、顔が引き攣ってしまう。
「忘れらんねぇよ……。武尊、今みたいに苦しい顔、今まで見せてくれなかったじゃねぇか。なんで隠すんだよ。そんな悲痛な笑顔、見たくねぇよ」
 隠してる? 俺が? そんな意識はなかったけど……。
 いや、言われてみれば――人にマイナス感情を与えないように習慣付けていたから、本気で苦しい時は、笑うように意識してきた。
 残されたおふくろや、近所の人々に余計な心配を掛けたくなかったから。
 それが、無意識で表情に顕れているのかもしれない。
「それだと思います。……それが、大滝先輩がこのように無茶をしてしまった原因なんだと、僕は思います」
「え?……それって、俺が苦しい顔を見せないってことか?」
「はい。……人は、悲しいときや苦しい時には泣いたり喚いて、感情を発憤します。怒ったときも、同じです。――でも大滝先輩は、そういった感情に蓋をしてしまう。それは、とても優しくて親しみやすいですが……。先輩自身が気付かないうちに、ストレスを溜め込んでいるんだと思うんです」
「……裏では、俺も泣いて喚いてるかもしれないぞ?」
「それでも、人前では弱さを見せて、慰め合ったりしないじゃないですか? 人間は孤独で生きている訳じゃない、社会的動物なんです。感情を発露して、人と交流することが、メンタルヘルスではとても大切なんです。……ただでさえ大滝先輩のように情が厚い人は、喪の段階から抜け出すのに苦労する傾向にあるんですよ。そのまま、うつ病を発症してしまうことだって……可能性としては高いです」
「俺は、うつ病なんかじゃ……」
「僕もまだ医師免許を持ってないので、確実なことは言えません。でも……辛い、痛い、苦しいという情緒。寂しい、悲しいという感情表現が、平坦化していた覚えはありませんか? あるいは、判断能力が低下していたり……」
「……あった気も、する」
 言われてみれば、今回のケガにしばらく気が付かなかったのもそうだ。普段より、判断能力が低下しているのかもしれない。
 桜が去って辛く寂しいという気持ちも、耐えなければと思っていた。耐えられていると、自分では思っていた。それが――実は、うつ状態で、感情表現が出来なくなっていただけなのか?
「大滝先輩のお母様が亡くなられた後、リカバリーしてきていた時に……追い打ちの如く選手生命に関わるケガをして、和泉先輩まで同時期に去ってしまいました。大滝先輩と和泉先輩は、家族同然だったと伺っています。……大滝先輩に積もり積もったストレスは、計り知れないものだったでしょう」
「……たしかに。桜は……俺の家族同然だった。そこは間違いないと、断言出来る」
 おふくろと一緒にいる桜を見れば、親子じゃないと言う方が不自然な仲だった。それなら当然、俺とは同じ親を持つ、まるで兄妹のような仲だ。
「僕が言った和泉先輩の最大のミスは、そこです。――和泉先輩は、大滝先輩の中での自分の大きさを測り間違えていたんだと思うんです。それが、正常な判断を下せない、このような事態を招いている。僕は、そう思います……」
「…………」
 桜のせいじゃない、と否定するのは簡単だ。でも、それは俺の中で桜の存在はそこまで大きくないと嘘をつくようなものだ。――そんな嘘を、言える訳がない。
 こうなっているのは、俺の責任であることは疑いようがない。俺がもっと強ければ良かったんだから。でも同時に……。桜が責任を取って去るという事態が、逆に俺を追い詰めていたのも――否定は出来ない。
 身を切る過度な優しさや正義、自己犠牲は――劇薬のようなものだと思う。
 桜がやったような強烈な手段は、人を黙らせる力があり、自分の為に何かをしてくれたというのは良く効く。……それ故に、副作用も強い。度が過ぎれば、かえって人を窮地に追いやり、お返しせねばと暴走させることもあり得る。今の俺が、まさにそれだ。
 俺のせいで桜が去った。これ以上、桜に迷惑をかけてはいけない。桜に報いる為に夢を叶えなければいけない。もっともっと、練習して成長しなければいけない。
 その『しなければいけない』という果てしない責任感の中で――視野が狭まっていたように思う。
「……武尊、どうだ?」
「どうだも何も……。こうなっているのは、結局俺が弱いからだろ? 桜の責任はない」
「そうだな。そんなことは分かってる。――その上で、お前はどうしたいだと思うんだ?……桜ちゃんは、武尊の中で掛け替えのない存在だって分かったんだろ?」
「……俺がそうでも、桜の中で俺はそうじゃなかった。……野球部を辞めるだけじゃなく、プライベートでもフラれたんだから。連絡すら、取ってくれなくなったんだから」
 そうだ。自分に都合の良いように解釈ばかりしてはいけない。
 桜が大好きな野球を辞めてまで、俺を庇ってくれたのは事実だ。――でも、その後俺と別れるまでする必要はなかった。
 その選択は、必要に迫られてした判断じゃない。自分の意思で、俺の傍にいたくないって言ったんだ。つまり、俺といると辛くなるってことだろう。
 そんなの、俺といるだけで野球や、おふくろのことを思いだすからじゃないのか? 単純に、桜が俺に惚れ直したと言っていた――格好良く、闘う目じゃなくなっているから見限られた可能性もある。
 どちらにせよ言えるのは……だ。俺がどれだけ桜を愛していて傍にいたくても、桜にとってはそうじゃないってこと。要は、俺のしている片思いの、押しつけになるってことだ。
「和泉先輩は……とても不器用な人です。大滝先輩を批判から守るために盾になって……。その後、なんで連絡を取らないのかは分かりませんが……。僕を通じて情報とアドバイスをするぐらい、大滝先輩を想っている」
「桜が今でも俺の心配をしてるなんて、俄には信じられない。……だって俺は、もう傍にいたくないって言われて、ずっと無視されているんだぞ?」
「理屈なんて考えんなよ。桜ちゃんが武尊の心配をして、堀切と俺を代走に使った。これこそが事実だろうが。……お礼を言うべきだとは、思わねぇか? そこに身勝手な想いをプラスしてよ」
「それは……。でも、俺の傍にはいたくないって桜が――」
「――武尊! お前は自分がこうしたら、相手がどう思うって……。人の気持ちや顔色を伺いすぎなんだよ! ゲームを支配するピッチャーなら、もっと我を貫け!」
「我って……。でも、そんなことしたら桜に迷惑が……」
「言い訳や反省なんて、勝負に負けた後で良い。――会いたいんだろ? 俺の傍にいてくれって、言いたいんだろ!?」
「それは……。でも、桜にもやりたいことが――」
「――でも、でもって、うるせぇんだよ!」
 俺の言葉を遮り、大和は怒声を上げた。
「お前は誰より速い球を投げるが、お前自身は誰よりもヘタレだ。だから人に嫌われたくねぇ、ムードを壊したくねぇ、みんな仲良くって、良い顔しようとする優しい癖があるけどよ。そんなもん、誰も頼んでねぇんだよ。勝負の世界で、みんな仲良くなんてあり得ねぇ! 映画のヒーローにでもなったつもりか!? 現実は味方に叱咤激励して、自分が勝てば相手が泣く! そんなもん、私生活でも同じだろうが!」
「……そんな、子供向け映画のヒーローになったつもりはない。……ただ、そうした方が周りが笑顔になってたから……。だから、俺が優しくしたくて、気が付いたら癖になっていたのかもしれない」
「……武尊、お前のそういうところは好きだよ。ああ、良いヤツだって思うよ。でもな、バッテリーを組むキャッチャーとしては――そういうところが大嫌いなんだよ!」
「大和……」
「そんな間違った優しい根性だから、いざという時に度胸が出ねぇ! バッターに当てるのを怖れて、胸元にも投げ込めねぇ!――とんでもねぇストレートを投げられるのに、俺みてぇなどこにでもいるキャチャーの手一つ、未だにぶち壊せねぇんだよ! 一生、二流選手でいるつもりか!?」
「…………」
「武尊は一度でも、桜ちゃんに本音をぶつけたのか!? ぶつけてねぇだろ! 今のように、でも仕方ねぇって自分に言い聞かせて……。相手の意思を尊重した結果、一人でショックを受けてる腑抜けだろうが! 別れないでくれって、みっともなく縋り付かれてでも、桜ちゃんはお前に止めて欲しかったのかもしんねぇだろ!?――ちゃんと自分の意思を口に、表情に出せよ! 芯を持った我が儘を、貫いて見せろよ!」
 今の言葉は、効いた。
 何もかも、大和の言う通りだ。俺は……常にマウンドから周りの顔色を伺っていたのかもしれない。
 ゲームを壊しちゃダメだ。良いムードを壊しちゃ行けないと、知らず知らずのうちに、守りの姿勢へ入っていたのかもしれない。
 そうだ、俺は桜に別れを告げられて、どこまで我を通した? はい、分かりましたと受け入れられるような軽い想いなのか?――違うだろう。
 連絡を無視されているから、近づかない方が良い?――そんなのは、臆病になっている自分を正当化する言い訳だ。会って話しかけて、それでも無視されるのが怖いだけだ。
「世間で怪物だヒーローだって呼ばれててもな、武尊は――人間だ。野球が上手いだけの、ちゃんとした人間なんだよ。人間らしく泣き喚いたり、喧嘩したり……。時には人の笑顔をぶっ壊しても良い。……もっと、人に弱みを見せて良いんだぜ? 迷惑をかけて、かけられて。許して、許されて。それが、面倒な人間関係ってもんだ」
「そ、そうです。大滝先輩は、もっと自分の感情へ素直に生きるべきです! いつも僕たちに弱みを見せない背中は心強いですけど……。夏の試合で負けた時もそうでした。喜怒哀楽のうち、先輩は努めてマイナス感情を表に出さないようにしていると感じます。もっと泣きたいときに泣いて、怒りたいときに怒って。――そうやって自然に生きないと、大滝先輩が壊れてしまいます! このまま悪化していけば、感情が欠落した人間になってしまいます!」
「感情が、欠落……。それは、未完成ってことか?」
「み、未完成?……そう、ですね。そうも表現出来るかと思います」
「そうか、未完成……か」
 桜も大和も、常々言っていた。俺は荒削りの未完成品で――完成したら、凄い選手になるかもしれないって。そうか……。俺は、もっと感情のままに動くべきなのか。
 それなら、俺はどうしたい?――桜に、会いたい。
 会って、本心からの気持ちを伝えたい。結果なんて、関係ない。その結果、桜にどう思われようと――それが俺の、本当にしたいことだ。
 気付いて行動に移すのが遅過ぎるが――。
「――分かった。……今から、桜の家に行ってみる」
 やらないよりは、よっぽど良い。
「い、今からですか!?」
「オイオイ!? いくらなんでも、もう夜だぞ? 明日じゃダメなのか?」
「今、桜に想いを伝えたくなった。……それとも、この感情の発露方法は、間違えているのかな?」
「……いや、良いんじゃねぇか? 機械のように感情を抑えてぶっ壊れるより、その暴走はよっぽど人間らしくて、魅力的な暴走だ。――行ってこいよ。大好きな子に、想いを伝えてこい」
 精密機械のような制球力もない癖に、感情表現を控えて内で爆発させるような愚か者、キャッチャーとしてもイヤだよな。
 ピッチャーは、多少自己中で我が儘な方が、度胸が据わって大成すると言われる。
 今までそういう性格に育って来たから、そういう性分だから――なんて言い訳は、もう止めよう。
 俺はまだ、変われる。大切な人にこのまま去って欲しくない。自傷行為をするぐらい、桜がストレスを溜めているなら、なんとかしたい。
 そんな、強い自分の意思があるんだから――。

 桜のスマホにメッセージを入れても、通話をかけても繋がらない。もしかしたら、ミュートかブロックされているのかもしれない。そんな最悪の状況に思いを巡らせつつも――背を押してくれた大和と堀切の言葉があったお陰で、心は折れなかった。
 桜に会いたい、会ってちゃんと想いを伝えたい。あの日、別れを告げられた日に言えなかった言葉を、口にして伝えたい。
 その揺るぎない意思で、俺は桜の家にまで来た。
 インターホンを押すと、桜の両親が驚いた顔をして出て来た。どちらか片方ではなく、両親揃ってだ。俺がまだ小学生の頃からずっと仲良くしていたから、「久しぶりに顔を見られて嬉しい」と迎え入れてくる。本当に有り難いけど、今日の目的はご両親と話すことではない。桜に会って話がしたいと告げると、「あの子に聞いてくる」と言って、家の中へ戻って行った。
 そうしてまた玄関ドアを開けてくれたのは、お母さんだけだった。本当に申し訳なさそうな表情をしている。
「ごめんねぇ武尊くん……。折角、家まで来てくれたのに……。あの子ったら、何度言っても会いたくない、会えないって聞かなくて……」
「そうですか……」
 家の中からは、お父さんと桜が口論している声が響いてくる。桜は頑固だから、まともに説得されるとかえって意地になる。こうなれば、梃子でも動かないだろう。
「では、こう伝えてください。――そこの公園で待ってる。来るまでずっと待っている、と」
「ええ!? そんなの、武尊くんが危ないわよ!? もう夜も遅いのに……」
「良いんです。俺はもう、『でも仕方ない』って引きたくない。……桜と、根比べです」
 梃子でも動かないなら、自分から動かざるを得なくすれば良い。桜はピッチャー向きの性格だ。ちょっと我が儘で、自分がこうすると決めたら、その通りにしたがる。だから自分から、「行った方が良いかな。行っても良いかな」といった具合の思考を抱かせれば良いんだ。
 朝まで残っていても来ないなら、それはもう本当に俺と会いたくないんだろう。完全に愛想を尽かされたということで、俺にしても踏ん切りがつく。行動した上でのダメなら、行動しないで諦めていた時よりもよっぽど、受け入れも進む。
「武尊くん……。少し見ない間に、大きくなったわね」
「え? まぁ最近は測ってないですけど……。身長はあっという間に一九〇センチメートルを超えましたね」
「そっちじゃないわよ。……分かった、必ず伝えておくわ」
「お願いします」
 桜のお母さんに頭を下げ、俺は約束の公園へと向かう。
 場所はすぐ傍、桜の家――桜の部屋の窓からだって、頑張れば見える。
 女子校生を夜に呼び出すのは危ないって理由と、桜と根比べする為に指定した場所だ。姿が見えれば、まだ帰らないのかと焦れるだろう。そうしてイライラしてくれば――桜は、必ず出てくるはず。俺への興味を完全に失っていなければ、だけどな。
 桜の両親と俺が仲が良くなければ、通報されてもおかしくない悪辣な手口だ。そんな手を使っても、だ。俺はなんとしても桜と話しがしたい。
 勝負に勝つためには、搦め手や相手の苦手な場所を責めるべき。――そう教えてくれたのは、他ならぬ桜だ。技巧派ピッチャーの桜が教えてくれたことを、俺は応用させてもらう。
 寒さに震えながら待つこと――二時間。
 もうすぐ警察に見つかれば補導されるような時間になって、街灯の下を歩く桜の姿が目に映った。
 機嫌良く来てくれるとは思っていなかったけど、不服そうに目を伏せながら歩いてくる。あの目、あの歩き方……。俺にマウンドを譲って、降りていく時の目と一緒だ。懐かしいな……。
「――卑怯だよ、こんなやり方……」
 あと数歩も歩けばぶつかるというぐらい近づいてから、桜はボソボソと口籠もる。
 その声は、怒りが籠められたものとは違う。ただ、悔しそうな声だ。
「相手が嫌がる攻め方は、桜に教わったんだ。忘れたか? 俺の師匠は、憧れの大選手だけじゃない。桜を常に、身近な師匠として見ていたんだ。目の前でな」
「武尊……。なんか、変わった?」
 桜は目を見開きながら、やっと俺に視線を向ける。
 俺は、変わったのかな……。そうかもしれない。馬鹿正直に、ただ真面目に正攻法で挑む以外の方法にも手を着けた。周りの目を気にするばかりじゃなく、自分の意思を持ち、貫く必要性も学んだ。――そうか、俺は……いつの間にか、変わっていたんだ。私生活から、ピッチャーに必要な、強く狡猾なメンタルを手に入れていたのか。そうやって成長出来たのは、他ならぬ桜が――突き放してくれたからだ。
「だとしたら……桜が俺を巣立たせてくれたお陰だろうな。おふくろに桜――俺の大切な家族を失って、強くならなければ心が潰れるってぐらい、悲しかったから」
「…………」
 桜は気まずそうに目を伏せ、両腕を組む。その手は、絆創膏や包帯で埋め尽くされていた。痛々しい手だ……。
「桜……。教えて欲しい。なんで、自分を傷つけるようなことをしてるんだ?」
「……言いたくない」
「ストレス、か? やっぱり、大好きな野球を辞めたから――」
「――違う! 言いたくないって、言ってるでしょ!?」
「桜……」
 子供のように、がなり声を上げて叫んだ。乾いた冬空の下、閑静な住宅街に声が反響していく。普通なら、これで萎縮してしまうだろう。――でも、俺は違う。
 桜はたしかに怒っている。でも、その怒りは俺に向けられていない。桜が怒っているのは――自分自身に、だ。肉に食い込みそうな程、桜の指が腕にめり込んでいる。新しい傷もあるのか、腕の包帯や指の絆創膏に鮮血がジワッと滲み出てきている。
 怒りが本当に俺に向いているなら、とっくに拳や蹴りが飛んで来ているだろう。そもそも、言いたい放題言って、直ぐに帰るだろうな。でも、桜は俺の前から去ろうとはしない。
 桜は、何かを待ってくれているんだ。きっと俺に、チャンスを与えてくれているんだ。……さすがに、久しぶりに話せるから、まだ帰りたくないだけなのかもって可能性は、思い上がりが過ぎるかな?
「本当はあの日、桜にフラれた日に、伝えるべきだった」
「……何を?」
「俺の、気持ちだよ。空気を読んで、無意識に隠してしまった、気持ち」
「……気持ち?」
「ああ。――桜と、別れたくない。OB会や保護者どころか、例え世界中から責められても……俺は桜一人に応援してもらえれば、それで十分に幸せで強くあれるんだって、気持ちを」
 ポカンっとした表情をしてから、桜は目をゴシゴシと擦っている。そんなに、俺が別人に見えるのか?……見えるんだろうな。マウンドから周囲の顔色を伺っていた俺とは、別人に。
「……無理、だよ。私は……武尊の傍にいられない。いたくないの」
 悲痛な表情を浮かべながら、囁くように言う。俺のことが本当に嫌いになって傍にいたくないなら……なんでそんな、悔しそうな素振りをするんだよ。
「――桜が惚れた、戦う男の目を……俺はもう、していないからか?」
「……武尊、なんでそれを?――やっぱり、私とおばさんの話しを盗み聞きしてたの?」
「頼む、答えてくれ」
「……ごめん。今の私には、武尊と付き合う気はない。これは……揺るがないから」
「……そう、か」
「……武尊だって、フリーになってから色んな女の子に告白されてるんでしょ? 私みたいに色気より食い気の女じゃなくて、他に良い子を見つければ?」
「…………」
 ダメ、だったか……。当たって砕けろとは言うけど、やっぱり砕けると……悲しいんだな。当たってみなければ、何も変わらない。そうは分かっていても、辛いものは辛いよ。……でも、同じ最悪にしても、だ。言いたいこと、やりたいことを我慢して、いつの間にか失っているよりかは、幾分かマシな最悪だ。
 本当、バカだよな……。もしかしたら、ちゃんと告白し直せば、またやり直せるかもって、淡い期待を抱いてたんだから。……同じバカなら、トコトンまでバカになるか。言わない後悔より、言った後悔だ。
「桜、フラれたのに見苦しいって思うかもしれないけど……」
「……まだ、何かあるの?」
 野球部のヤツらへ桜が言ったように、モテてるからって後出しの……野次馬と同じになるかもしれないけど。――臭いセリフかもしれないけど、伝えたい想いは止められない。これは、良い暴走、だよな?
「桜がたくさんの人に告白されてるのを黙って見てて、今更って思うかもしれないけど……。あと一つだけ、俺の気持ちを聞いてくれ」
「……何?」
「桜のことを好きなヤツが百人いたら、俺はその一人だ。桜のことを好きなヤツが、もし一人だけになったら、その一人は俺だ。……桜のことを好きなヤツがもし、誰もいなくなったら――それは、俺がこの世からいなくなった時だけだ」
「――……たけ、る」
「このまま俺たちの関係が切れても、俺がやることは変わらない。俺は――俺たちの夢を叶える為に、全力を尽くすから。だから、せめて見ててくれると――」
「――もう、止めて……」
「……え?」
「もう、止めてよ。私を、私の決意を……揺らがせないで」
 山風に吹き消されてしまいそうな、か細い声でそう言って――桜は、走り去っていった。
「……泣かせちゃったな」
 最後の声は、必死に泣くのを堪えていたのか、涙に湿ったような声音だった。
「俺も、帰るか……」
 明日、大和や堀切にどんな顔で報告しよう。
 そう悩みながら公園を出る。すると、桜のお父さんとお母さんが、塀から首を覗かせ、心配そうにこちらを見ていた。
 俺たちの会話を、聞いていたのか?……・まぁ、すぐ傍だし、気になるよな。
 笑みを浮かべて会釈しようとして――俺は、ハッと表情を変えた。
 そうか、悲しいんだから……この顔で良いんだよな。
 涙腺をツンと刺激する感情に逆らわなかった俺の顔は、二人の瞳に濡れ雑巾のように歪んで映っていただろう――。

 桜に改めてフラれた翌日、十二月二五日。
 その日は、季節に似つかわしくない、暖かい日になった。元々、温暖な気候の関東平野にある秩父でも、冬でここまで暖かいのは、まさに異例だ。
「よし、今日は紅白戦やるぞ! チーム分けを発表する」
 高校野球の対外試合禁止期間は、十二月一日から三月七日まで。しかしそれは、あくまで他校との対戦が禁止されているのであって、同校の中で紅白戦をやることは禁止されていない。
 今日のように異例の温かさでケガをしにくい環境ならば、実戦経験は非常に有効な練習になる。
 久しぶりに試合が出来るとあって、野球部一同はワクワクと胸を躍らせているようだ。
 俺は、ケガで試合に出場出来ない。自分が出られないで、試合をただ眺めているのは――歯噛みするほど悔しい。
「大滝先輩、重い物は僕が運びますから。ケガしてるのに、無理はしないでください」
「ああ。ありがとう、堀切」
 昨日、桜と話せたこと。結局、ダメだったことを大和と堀切には伝えた。
 俺の顔をみた大和は、パンッと帽子のツバを下に叩いて「良く頑張ったな」と言ってくれた。堀切は「僕が余計なことを言ったせいで、また傷つけてしまいました」と、少し後悔していた。だから俺は、堀切の眼鏡をかけ直してやり、ちゃんと俺の顔が見えるようにしてやった。ちゃんとやり尽くした男の、振り切れた顔が堀切の目に映っていたら嬉しい。
 紅白戦を前に、俺はライン引きをしていた。重い飲み物を運んだりの作業は堀切がやってくれている。
 こうして裏方に回るのは、桜の目線になれる。人がプレーしやすいように準備をするのも、疲れるもんだ。
 やり甲斐はあるけど……やっぱりプレーがしたい。桜だって、同じように思っていただろう。性別という壁で、叶わなかっただけで。口惜しかっただろうな……。
 女子野球じゃなくてマネージャーを選び、不満一つ言わず精力的に働いていた桜は――やっぱり凄いな。いくら甲子園球場で球速一六〇キロメートルを投げる夢を俺に託したとは言え、桜はケガをしてプレー出来ない訳じゃないんだから。
「大滝! 試合始めるぞ、一塁の塁審頼む!」
「はい!」
 紅白戦ということもあり、高野連から審判は来ない。ケガをしている俺が、一塁の審判を務めることになっている。球審や二塁、三塁審判は、引退した三年生の一部が急な呼びかけに応じてくれた。既に推薦で進学する大学が決まっているからと、快く学校へ来てくれた。久しぶりに野球に関われるからか、先輩たちも楽しそうだ。
 クリスマスにも関わらず部活の為に登校していた生徒たちも、紅白戦が行われるとあって多数集まっている。部活終わりに、甲子園目前まで行ったウチの試合でも見ようかという流れだろうな。
「――礼!」
 紅白に分かれた部員たちが整列し、互いに礼をして試合が始まる。投手は三国、もう一人は俺と同じ二年生の投手だ。普段は外野も兼任していて、今は三番手ピッチャーという扱いになる。
 試合が始まると、展開は意外なものになった。
「――クッ!」
 二番手ピッチャーの三国が、滅多打ちにされているのだ。
 元々、ピッチャーは冬の時期に登板を想定して調整していない。この時期は、ハードな筋トレなどで肉体を作り替えたり、フォーム変更にトライしたりする。打者よりも身体が出来ていなくて当然。
 甘い球なら、しっかり打つだけの力を――市立秩父の選手たちは身につけていた。
 四回を投げた時点で、三国の自責点――自分が原因で取られた点は、既に八点。
 シニアリーグで結果を残してきた三国からすれば、かなりイライラする状況だろう。同じピッチャーとして、気持ちは良く分かる。本番なら、とっくに降板させてやるべきだろう。でも、これは練習試合だ。ピンチの経験の為か、監督も投手交代の采配は振るっていない。
 マウンド上では、三国が明らかに苛立っていた。ガシガシとスパイクでマウンドを掘っている。これは踏み込む足が滑らないように、事前に掘る人もいる行為だけど……。三国の場合は、怒りのやりどころにしている感じがする。
 大和との居残り練習を見てきている俺からすれば、三国がこうして悔しがる気持ちも理解出来る。それでも、チーム全体のムードを悪くしているのは感心しない。
 ピッチャーがちょっと我が儘な方が良いというのは、こういう場面で活かされる訳じゃない。
 不貞不貞しいまでの豪胆さで、打たれても自分を崩さない我が儘が求められるんだ。そうすれば、キチンとリセット出来て、打ち込まれ続けることはないから。
 大和が俺に伝えたかったのも、そういう我が儘の通し方だ。三国が今やっている振る舞いは、悪い見本だ。
「――アウト! チェンジ」
 やっと四回の守備が終わった。ランナーが埋まっていたから、サードゴロを捕った三塁手がそのままベースを踏んで最後のアウトを奪えた。――しかし、当たりとしてはかなり強い当たりだった。反応が悪ければ、そのまま抜けて長打になっていたかもしれない。
 一塁側ベンチに戻る三国も、それが分かっていたんだろう。
 悔しそうにベンチへと戻っている。
「畜生、何でだよ! ああっもう!」
「おい、三国。落ち着け……紅白戦だぞ」
「熱くなり過ぎんなって」
 三国と同じ同級生が宥める。先輩の二年生は、三国の態度にかなり不快感を覚えている顔だ。同じチームの誰かしらが、ちゃんと注意しそうだな。
 俺がそう思っていた時――。
「――俺は、ずっと努力してきたのにッ!」
 バンッと――三国が自分のグローブをベンチに投げつけた。まるで、ゴミのように。
 それは怒りの発散方法として、テレビ中継で良く見る光景だ。
 メジャーリーガーならバットを折る人だっている。あるいはテニスなら、ラケットを叩き付け、折ることで気持ちを紛らわせている人もいる。
 それは、俺だって見たことがある。褒められないが、スポーツ選手のメンタルリセット方法の一つだと分かってはいる。……分かってはいるけど――それでも、俺には許せない行為だ。
「――おい、三国!」
 三国に向かい、大股で近寄る。かなり大声を上げたからか、誰もが手を止めていた。感情的になり過ぎるなとは思いつつも、憤る気持ちが止められない。
「……大滝先輩」
「そのグローブは、お前が買ったのか?」
「……先輩には関係ないっすよ」
 ああ、たしかに俺には関係ないかもな。でもな、俺は許せないんだよ。野球が出来ることに、野球をやれる道具を揃えてくれたことに感謝も出来ないヤツがな!
「お前が野球を出来るのは誰のお陰だ!? そのユニフォームも、スパイクも、ゴミのように叩き付けたグローブも! お前が働いた金で買ったのか!? 違うだろ!?」
「……すんません」
 ふてくされたように、形だけ帽子を取って謝る三国の態度が――余計、頭に来た。
 道具を与えてくれた人への感謝が微塵も籠もっていないのに、この場を逃れる為に取り敢えず謝るその態度が――許せない!
 俺は三国の胸ぐらを掴み上げ――。
「――俺たちが使う道具ってのはな! 野球をするのを支えてくれる人たちの、応援してくれる思いが籠もった結晶なんだよ!」
「や、やめっ――」
「お前の両親が一生懸命に働いて稼いだ金から、応援の気持ちを込めて贈ってくれた物なんだよ! それを大切に出来ないようなら――」
「――武尊、そこまでだ! 落ち着け!」
 三塁側ベンチから飛んできたのか、大和に羽交い締めにされた。
「離せ、大和!」
「感情を出せとは言ったが、暴力はちげぇだろ!」
「ぐっ……」
 大和の正論で、急速に頭が冷えていく。
 タガが外れたのか、自分の感情をコントロール出来ていなかった。たしかに、胸ぐらを掴み上げるまですることはなかったか……。
 スッと、掴んでいた手を離したが――。
「試合は中止だ! 大滝、十文字! こっちに来い!」
 遠くから見ていた監督に呼ばれ、顔を向ける。
「あ……」
 多くの生徒のスマホが、俺に向いていた。……撮られていた? 今の光景を第三者が見たら、暴力事件として……。活動停止――最悪は、対外試合が禁止。春も、夏も……市立秩父は、試合出来なくなる可能性だって……。
「……武尊、行くぞ」
「……分かった」
 激しく怒声を飛ばす監督に叱られ、俺は直ぐさま自宅へと帰された。
 追って――処分を下すから、と。
 それから数時間後。
 休日なのに、緊急で飛んできてくれた校長を始めとする教師たちが会議した結果――俺は、三週間の部活動禁止処分になったと電話があった。
 動画の流出は、なんとか避けられたようだけど……お咎めなしには出来ない、と。
 チームとして咎められなかったのは、不幸中の幸いだと思ったが……。
 予想だにしない形で、俺は野球から遠ざけられることになった――。