二章

 迎えた夏の甲子園、埼玉予選。
 準決勝から二日後、県営大宮公園球場で決勝戦という日程だ。
 俺たち市立秩父は――今年も、決勝にまで駒を進めた。
 そしていよいよ明日が、甲子園を賭けた運命の最終戦だ。
 自分の高校で軽く調整をした後、俺たちは明日の臨時バスへの集合時間を伝えられ、解散となった。
 何しろ秩父から大宮公園球場まで、電車で行けば二時間ちょっとかかる。そこに駅までの移動や、徒歩で駅から球場まで行く時間を加味すると、三時間以上は移動だけで取られる。まず、駅までが遠い。自転車でも二〇~三〇分はかかるし、起伏のある道だから疲労もする。
 そんなことで体力を使うべきじゃないと、学校側がバスを手配してくれた。有り難い話だ。
「ただいまって……おふくろはいないか」
「ただいま~。あれ?……あっ、そっか。明日の決勝を観戦する為に、おばさんは今日、夜勤に出てるんだね」
「そういや、シフトが変わったって言ってたな。絶対に応援に行くからって、頼み込んで代わってもらったとか……」
「成る程、成る程。誰かさんがミーハーな女の子からキャーキャー言われて、鼻の下をビロ~ンと伸ばしている間に、おばさんは頑張ってくれた訳だ」
「う……。べ、別に俺は……鼻の下を伸ばしてなんか、いなかっただろ?」
「いやぁ、だらだら~んって伸びてたよ? 可愛い子も結構いたし。気持ちは分かるよ、うん」
 腕を組みながら、笑顔で桜は頷く。……もしかして、だけど。
「……桜。もしかして、嫉妬してくれてるのか?」
「は? 何言ってんの。私が嫉妬とか、そんな訳ないじゃん」
 ちょっと引いたような顔をしながら言われた。……自分でも自惚れてた思うけど、彼女にそんな顔されるとちょっと凹むし、傷つく。連投中のエースを癒やしてくれる気はないようだ。桜らしくて逆に安心するけどさ……なんか、決戦に臨む前ぐらいはって、ドラマチックな展開を期待してしまう。
「むしろ、彼氏がモテてるの気持ち良いぐらいだよ。どうだ、私の彼氏は良いだろ~ってね」
「ははっ。性格、歪んでるな」
 成る程、それなら納得だ。凄く桜らしいし、愛されてることも伝わって嬉しいぐらいだな。
「今更何を言ってるの?」
 そうだよな。桜の性格が変わっているのなんて、今更だ。長い付き合いだ、性格はよく分かっているけど、未だに恋愛絡みの部分は良く分からないんだよな。……まぁ、交際を始めてから、まだ三年だし。それで全て分かろうとするのは、強欲か。
「初戦以外は、殆ど先発で投げてきたんだし……。武尊も疲れてるんでしょ?」
「まぁな……。腕の毛細血管が千切れまくってるのかな。腕も足腰も、かなり怠い」
「だったら、下らないことを言ってないで早く休みなさい。ほら、おばさんが作り置きしてくれてる夕食、食べるよ!」
「……冷蔵庫の中に、当たり前のように俺と桜、二人分の夕食が用意してあるってのがな」
「良いお義母さんになりそうだ。明日の朝ご飯と――バスで食べる用のお弁当も作ってくれてるね」
 冷蔵庫の中を覗き込みながら、桜が安心したように、それでいて嬉しそうに知らせてくれる。
 おふくろのお陰で、コンビニとかで飯を調達せずに済む。やっぱ、決戦当日には手作りで、大好きなおふくろの美味い飯が喰いたいからな。その方が、気力面でも万全を期せる。
「明日、忘れずにお弁当を持って行くんだよ」
 しかし……本当に、おふくろには頭が下がる思いだ。
 無理して決勝の時間に合わせて休みを作ってくれた分、他の時間が忙しくなっているだろうに。……お人好しなおふくろのことだ。人手不足の中でシフトを代わってもらう為に、無茶な対案を提示して交渉したに違いない。
 大変な中でも、今日の夕食に明日の朝飯、弁当と……三食分も作ってくれるなんて。……改めて、野球に打ち込める環境を作ってくれてることに感謝しないとな。恩返し、したいもんだ。
「分かってる、おふくろが真心を込めてくれた弁当だからな。忘れないで持って行くよ」
「それなら、よし!」
「……試合開始が一〇時からで、学校に集合する時間が五時だろ? 全く、球場まで遠い高校は飯の時間もずれるな」
「文句を言っても仕方ない。条件はそれぞれ! 軽く朝、身体を作ってから球場に行くんだから、朝早いのにブーブーと言わない!」
「はいはい。……飯の時間がずれるよりもさ……。太陽の陽射しが一番キツくなる時間が、試合後半だって方がシンドイしな」
「それは、本当に同情するよ。立ってるだけでも、体力がギュンギュン持っていかれる炎天下のマウンドで……九回、一四〇球ぐらいは投げなきゃだからね」
「だよなぁ。……こんな連戦が続いていく甲子園本戦で、球速一六〇キロメートルか……。尋常じゃないな。俺たちの夢は、険しい道のりだ」
「今は弱音を吐いても良いけど、明日は勝ち気で行きなよ! 甲子園での心配をする為には、明日の決勝に勝たなきゃなんだから! それに、全員を三球三振に切って取れば、九回合計二五個のアウト、たったの七五球で終わるよ!」
「無茶言うなって、それこそ前人未踏の怪物だろ。最早、ヒーローじゃない脅威だ。連戦の決勝で完全試合とか……偉業も偉業だよ」
「良いじゃん! そんな誰もが予想し得ない偉業を成したら、格好良いでしょ?」
「格好良いなんてレベルじゃないな。……先攻だったら、勝ってても九回は絶対に投げないといけないんだよな」
「そこは寺尾キャプテンの、ジャンケンに期待かな? サヨナラを競り合ってる中だと、裏の守備では投手のプレッシャーが凄いからね。自分が一点取られたら、即試合終了。……ましてや、高校球児の最大目標――甲子園の出場キップがかかってるんだもんね」
 先攻、後攻を決めるのがジャンケンってのも、なんだか少し気が抜ける話だ。ここまでの得失点差で選択権があるとかだったら、事前に心の準備だって出来るのに。
 決勝の相手は、甲子園常連の名門校。ここまで、エースも上手く温存している選手層の厚さだ。
「相手は、全国に名の知れた私立……。テレビで、小っちゃい頃から何度も見てきた高校か。俺にもスカウトが来たけど、野球部は寮が確定で、午後の授業時間に練習してるようなとこだもんな」
「それでいて、機材も豊富と野球漬けには絶好の環境。……そんな野球エリート相手に、雑草魂を見えて公立高校が勝つ。痛快でしょ?」
 桜が言うと、簡単に聞こえる。……桜が、控え投手にいてくれれば、と今更ながら思ってしまう。
 そうすれば、ここまでの投球数だってもっと少なく済んでいたはずなのに。
 甲子園まで考えれば、少しでも投げる球数を減らしたい。そうでなくても、九回裏の守備は避けたい。
 寺尾キャプテンも、それは理解しているんだろう。責任の重さからか、青い顔をしていた。お気の毒に。……それにしても、だ。
「……いよいよ、明日が決勝なんだな。次の試合に勝つと、甲子園なのか……」
「実感、湧かない?」
「……正直、そうかな。目の前の試合をとにかく勝つしかない。それだけ思って必死に投げて、打ってたからな……」
 試合中に次の試合以降のことを考えている余裕なんてない。熱さや疲労で吐きそうでも、その場その場を必死に乗り越えて、勝ったら全力で皆と喜びながら抱き合ってきたから……。一所懸命、というか。ここまで、とにかくギリギリの試合が多かった。気が全く休まらない、一点差とか。
「明日は学校の皆に、地元の人も大勢駆けつけるからね。それ以外の観客も含めて、超満員だよ。準決勝までとは、ガラッと雰囲気が違うんだから」
 中学時代、遠い大宮公園球場まで夏の甲子園埼玉予選決勝を観戦しに行ったことを思い出す。
 たしかに、座る場所を見つけるのも大変なぐらいだった。決勝を戦う両校のベンチ裏スタンドは、互いの肩が触れ合っても大きな声で応援し、一球毎に一喜一憂する熱狂ぶりだった。
「そっか……。学校の皆も、休みなのに駆けつけてくれるんだな」
「そうだよ。これまでのように黙って敬遠されてたら、駆けつけて応援に来てくれたみんなの大ブーイングが聞けるね」
「相手投手も、満員からのブーイングなんてイヤだろな。……俺だって、好きで敬遠されてた訳じゃないんだけどな」
「多少のボール球は、長い手足でスタンドまで持って行きなさい! それぐらいの覇気と勝ち気を見せろ!」
「……場面によってはそうするけど、出塁してチームを信じるのが大切だろ?」
「そうなんだけどさ。……やっぱり一、二回戦でホームラン連発したのが警戒させたよね。正直言って、市立秩父は武尊を除くと繋げる打線じゃないし」
 言われて、切なくなる。
 一、二回戦や点差が付けば、ちゃんと勝負してもらえたけど……。ここまで基本的には、バットが届かないような敬遠気味のボール球しか投げてもらえなかった。たまにコントロールミスで、ストライクゾーン付近に来た球を狙って打ちはしたけど……。
「……そう言うなって。みんな気合いを見せて、ゴロでも全力ダッシュしてるんだ。だから、相手のミスだって誘発して勝ち進んで来れたんだろ?」
 俺が長打を打たなくても、みんなの力で勝ってきた。
 一塁まで全力疾走してヘッドスライディングで突っ込む。そんなことを毎回のようにされたら、ショートやサードのように、ファーストと距離がある守備は、最高にイヤだろう。ちょっとでもミスをしたら、一塁に投げても間に合わないんだから。
「そうなんだけど、そうなんだけど! やっぱ武尊との勝負から逃げてまで試合に勝って、嬉しいのかって……。なんか、悔しいじゃん?」
 それは、俺だって悔しい。ランナーが出てれば、自分のバッティングでホームまで返して攻撃の流れを引き寄せたいから。
 チャンスを作る、チャンスでランナーを返す一打を放つというのは、バッターとして最上の喜びだ。……でも、珍しいな。桜が自分のチームが負けるような想像をするなんて。
「……どうしたんだ? いつもは、試合前に負けることなんて考えるな、強気で行け!――って、俺に説教する側なのに。やっぱり、緊張してんのか?」
「う……。そう、かも。……いや、そうだね。夢の甲子園が目の前って思うと、胸がウキウキするのと、不安で……。やっぱりマネージャーってさ、試合が始まると信じるしかないじゃん? 一つ一つのプレイに、一喜一憂して祈る!――ってのが、もどかしいのもある、かも?」
「そっか……。プレイしてる選手と違って、自分が守り切る、得点するって訳にいかないもんな……。ずっと選手だった桜からすると、私を出せってウズウズとしそうだな」
「そ、そこまでは言わないけど……。あそこに立ってるのが私なら――って考えることが、全くないとは言えないよ。……声をかけてアドバイスをする後方支援って、こんな不安になるんだね」
「俺たちが試合をしてる時、おふくろや桜の親も、そんな気持ちだったんだろうな」
 俺の言葉に、桜が神妙な顔を浮かべ、考え出す。
「そう、だね。……自分がその身になって、初めてこんなにハラハラするんだって分かったよ。――自分のサポートが間違ってたら、どうしようって……責任感が凄いよ。まぁ、これはこれでワンプレー毎に感情が揺さぶられて、案外気持ち良いけどね! お化け屋敷とかジェットコースターよりも、心臓がバクバクするんだよ!」
 微笑みながら、そう言った。……そうか、桜は――やっぱり野球が大好きなんだな。遊園地とかよりも、よっぽど。
 選手としてプレーするのが一番なんだろうけど、後方支援でもこれだけ楽しめるなんて。……野球を楽しむ。これは、何よりも大切なことだと思う。
「明日、俺も楽しんでくるよ。桜も、一緒に戦って楽しもう」
 俺の言葉に、桜は目を見開いた。そして満面の笑みを浮かべて――。
「――うん!」
 弾んだ声でそう返した。……全く、この可愛い笑顔を見てると、ムダに気負うことを忘れる。この笑顔を、甲子園に連れて行きたい。そして――俺たちの夢、満員の甲子園で一六〇キロメートルを投げて、ベンチに咲く最高の笑顔が見たくなる。
「じゃ、今日はこれ以上練習せずに休むこと! またね!」
「ああ。また、明日の朝な」
 集合時間が早いから、寝る時間も早くしなければならないと気を遣ったのか、今日は本当にちょっと立ち寄っただけらしい。
 夕食だけ手早く食べると、桜は笑顔で手を振りながら、自転車を漕いで帰って行った。
「……負けられないな。後方で支えてくれる人、応援してくれる――おふくろや、みんなに恩返しする為にも」
 パンッと両手で顔を叩いて気合いを入れ直す。身体が疲労で怠いとか、気弱になっている場合じゃない。
 明日、いよいよ勝負の決勝だ――。
 
 決勝当日の朝。
 夏空がまだ薄暗い中、俺は自転車で学校へと来た。ジメジメとした空気で肌がベタつく。
 エナメル質の鞄には、しっかりと――おふくろが思いを込めて作ってくれた弁当箱も入れてきた。大事なおふくろが、必勝を願って作ってくれたんだ、忘れる訳はない。
 出発前の軽い調整をする部員たちの表情は、緊張で引きつっている。かくいう俺も、同じだ。桜も監督も、いつもとはどこか様子が違う。
 そうしている間に、バスへと乗りこむ時間となった。
「よし、行くぞ!」
「「「しゃあ!」」」
 寺尾キャプテンを中心に円陣を組み、声出しで気合いを入れる。
 バスの前に移動すると――地元の人々や、同じ高校の生徒が歓声で迎えてくれた。「後で球場にも行くからな!」、「頑張って来てね!」、「絶対勝てよ!」と、声援は様々だ。
 そしてバスの前に整列し、監督が訓示を述べる。
 監督はバスを背に激励をする。粗方話が済んだ頃に、段ボール箱を運んでくる桜と堀切のマネージャー二人が目に入った。……なんだ? 桜の顔が、妙に悲しそうに見えるけど……。
 そうして大きな段ボールがゆっくりと降ろされたのを確認して、監督は深く頷き口を開く。
「お前ら、OB会で弁当屋を経営している方からの差し入れだ。炎天下で痛んだ弁当を喰って、腹を壊さないようにと、わざわざ出来たてを作ってくれた。――試合前のバスでは、これだけを食べるように! 感謝しろよ!」
「……え」
 監督の指示に、一瞬固まってしまう。
 他の部員が、「ありがとうございます!」と口にすると、応援に来てくれている中の一人が、照れ臭そうな顔を浮かべた。あの人が、弁当屋を経営しているOB会の人か……。
「各自、弁当を手に取ってからバスへ乗りこむように。では、一時解散!」
 返事をして、次々と部員たちが乗りこんでいく。俺は――その場から動けずにいた。
「俺には、おふくろの弁当が……。でも、これを断ったら、チーム全体に迷惑をかける」
 一人だけ特別扱い、特例を出すなんて――試合前にチームの和を乱すようなものだ。
 こんな突然、言われるなんて……。弁当屋からすると、サプライズプレゼントの好意なんだろうけど。俺としては、全く嬉しくない。――おふくろが真心込めて作ってくれた弁当が、ムダになってしまう。
 試合後に食べようにも、炎天下の中で鞄にしまっておけば、間違いなく傷んで腐るだろう……。一生懸命、忙しくても真心を込めて作ってくれたおふくろの弁当を、後で捨てなければいけない、というのか……。
 そうか。だから――桜も悲しそうな顔をしていたのか。
 そんな桜は、「頑張って」と言いながら、段ボールから弁当を取る部員一人一人に声をかけている。どこか心苦しそう顔で……。
「……武尊、どうした? 大丈夫か?」
「大和……。俺、おふくろの弁当が……」
「……そっか。俺が、監督に行ってやろうか? エースが言うよりは、まだ雰囲気を壊さずに済むだろ?」
 心配そうな笑みで、自ら汚れ役を買って出てくれようとしている。その申し出は嬉しいけど……そうも行かないだろう。
「……いや、守備の纏め役のキャッチャーが言っても、ダメだろ」
「……すまん」
 大和も、そんなことは分かった上で言っていたらしい。チームプレーの野球で、監督の指示に背くのは――絶対に許されない行為だと。
「――十文字、大滝! 後はお前らだけだぞ、早くしろ!」
 何時までもバスへ乗りこもうとしない俺たちに、監督が発破をかけてくる。
「……本当に、すまんっ!」
 大和は悔しそうな表情を浮かべた後――帽子を深く被り、目を隠してバスへ向かった。登板前の俺に、自分のことまで気にはさせたくないという、大和なりの思いやりだろう。
 おふくろ――本当に、ごめん。
 グッと拳を握りながら、心の中でおふくろに謝罪する。……あとで、たくさん謝るから。甲子園出場という手土産を持って、ちゃんと謝るから……。――チームの和を優先する俺を、どうか許してくれ。
「――……ごめん、説得出来なかった」
「……桜」
 意を決して弁当の入った段ボールへ手を伸ばすと、俺にしか聞こえないよう小声で桜が呟いた。
「もしかして――それで監督と、喧嘩でもしたのか?」
「……選手のいないとこで、私が言う分には問題ないと思って」
 そうか……。説得して、喧嘩して……。それでも無理だったから、桜は暗い顔をしていたのか。
 俺を――おふくろのことを想って、スポーツでは絶対的な権限を持つ監督に、逆らってくれたのか。
「悪い……。俺一人の為に」
「……ごめん」
「謝らないでくれ。……俺が泥を被るべきだったんだ」
「それだけは、試合前のエースにさせちゃダメだと思ったの。後方支援って言いながら、私は何も出来なかった……」
 歯がみしながら、桜は顔を俯かせてしまう。……こんな心配をさせちゃ、ダメだ。
「試合終わったら、おふくろに土下座して謝るからさ。そんな顔、すんなって」
「武尊……」
 やっと、顔を上げて俺を見てくれた。目が、今にも泣きそうなぐらいに潤んでいる。
 気丈な桜が、こんなにも弱々しい表情を見せるなんて……。よっぽど、悔しかったんだな。桜にとっても、おふくろは実の親のようなもんだから。
「……弁当、もらっていくからな」
「あ……うん。……無理して笑顔を作らせて、ゴメンね」
 無理をして? そんなつもりはない。手で顔を触ってみると、たしかに口角が吊り上がっていた。こうした方が良いと、勝手に笑顔になっていたんだな。
 とにかく、バスの中で他の部員を待たせている。俺たち選手を見送らないと、マネージャー二人もバスに乗れない。
 俺は弁当箱を一つ手に取ると、バスへと乗りこんだ。
 地元の人々の熱い声援が見送ってくれる中、県営大宮公園球場まで向かうバスが、いよいよ発進した。
 球場に着くまでに食べた弁当屋の弁当は、プロが作っただけあって美味かったけど――なんだか、複雑な味がした。おふくろの手作り弁当に比べると、凄く物足りなかった――。

 夏の甲子園予選、決勝。
 ジャンケンの結果、俺たちは――先攻となった。
 これで、勝っていても九回の裏――合計二七人以上へ投げることは確定。「すまん」と謝る寺尾キャプテンに、「元から九回裏まで投げ抜くつもりでした」と返すことしか出来なかった。それだけでも、寺尾キャプテンは随分と救われたような顔をしていたけど。
 そうして、白熱する試合は――〇対〇のまま、八回の裏を迎えた。
「畜生……。腕の感覚が鈍い」
 俺はマウンドで、一人そう呟く。ここまで、バッターとしては分かりやすく敬遠をされている。……さすがは名門校というべきか、勝負で勝つことに徹している。
 俺がここまで無失点に抑えられているのは、一概に奇跡と言わざるを得ないだろう。
 疲労困憊で、弱点が浮き彫りになっている。制球が定まらず、フォアボールのランナーを毎回のように出していた。それなのに無失点なのは、守備のみんながしっかり守ってくれたり、打たれた良い打球が、ことごとく守備の正面に飛んでいたお陰だ。
 何より、大和のリードが上手い。
 フォアボールで一塁へランナーを出した後、上手くゲッツーが取れるようなサインを要求してくる。相当、相手の打者を研究してくれていたようだ。
 バントの気配があれば、しっかりと守備にも警戒させてくれる。バントされた瞬間に飛び出し、強肩を活かしてセカンド、ファーストへのダブルプレーにしてくれたのにも助けられた。上手くバントを決められて二塁へ進塁されれば、空いた一塁にランナーを進めても良いとばかりに全力で投げろと指示してくれる。
「たまんないな……。この、一点も譲れない緊張感」
 スタンドからは母校の――市立秩父みんなの応援、地元の人々からの応援が、地鳴りのように響いている。マウンドに立っていると、小さな地震が起きているようにも感じた。
「これが、決勝か……」
 おふくろも、あの応援の中にいるんだろうな。
「――あと二回、か。いや……延長戦だろうと、どこまでも付き合ってやる」
 九回の裏が終わっても同点なら、延長戦だ。
 投げる投球数は増えるだろうが……構わない。
 相手だって、何時間も緊張しているんだ。名門校だろうと、いつか必ず――付け入る隙が生まれるはずだ。
「――プレイ!」
 八回の裏、投球練習も終わり、審判からプレイの合図がかかる。
 巌のような体格をした相手校の打者が、どっしりと構えている。……鋭い視線だ。さすが、エリート揃いの名門校でレギュラーを張るだけはある。威圧感が凄いが……何てことはない。俺に夢を託し、ベンチで見守る最愛の人が放つ圧の方が――よっぽど心身に響く。
「――シッ!」
 バァンと、渾身のストレートがミットへ収まる。
「ボール!」
 きわどいコースだった。それでも、球審が告げたのは、ボール。ストレートの球威も落ちている今の俺が甘いコースに投げれば、簡単に打たれるだろう。相手は、それだけの力がある粒ぞろいだ。
「――シッ!」
 その後も、相手が苦手そうなコースを狙って投げるが――。
 キンッと、軽く当てたような打球がファールゾーンへと転がる。
 苦手なコースに来たら、確実にファールで粘ってくる。結果、俺の球数がドンドン増え、制球力は更に乱れて――。
「――フォアボール!」
「……くっ!」
 先頭打者を、フォアボールで出塁させてしまった。
 アウト一つなく出塁したランナー。それも試合終盤に来て、一点が極めて重要な局面でのランナーだ。……ここは、バントで大切に送ってくるだろうな。
 監督からもサインが送られる。バントシフト――サードがホーム寄りに守備位置を変更し、ファーストは俺が投げると同時にホームへダッシュする指示が出た。
「武尊、焦るな! 落ち着いて投げろ!」
 メガホンを使った桜の声がマウンドまで届く。……そうだ、落ち着け。まだランナーが一塁に出ただけだ。
「――シッ!」
 初球――それまで普通に構えていた相手打者が――バントの構えをした!
「――くっ!」
 俺は投げ終わった瞬間に、ホームへ向かってダッシュする。
 しかし――。
「ボール!」
 相手はバットを引いて、見逃した。
 揺さぶりだ。バントをするのか、しないのか。俺たちを揺さぶっている。……それでも、バントの構えをされる度にダッシュしなければいけない。ただでさえ疲労が蓄積している俺の足腰を、更に追いこんでくる。……イヤな手だ。それだけに――上手い。
 俺がスタミナに課題がある投手だと、見抜かれているな……。
 再びマウンドへと戻り、大和からの返球を受け取る。
 ふぅっと息をつきながら、ロージンバック――滑り止めを付け直す。
 ランナーもイヤな動きをしている。ベースから離れたリードが大きいかと思い、ボールを投げようかと思えば、直ぐに一塁へと戻る動きをする。
 盗塁もあるぞ、ヒットエンドラン――打者に必ずバットに当てさせて、同時に盗塁を仕掛けることもあるぞ、と揺さぶりを掛けて来やがる。
「落ち着け。自分のやることを、しっかりと、だ」
 プレートに足を掛け、セットポジションに入る。大和からのサインは、バントのし難い内角高めへのストレート。
 俺が最も、投げるのを苦手としているコースだ。どうしても、過去に打者の頭に当てた記憶がフラッシュバックする。一旦、プレートから足を外し、呼吸を整える。
「ふぅ……」
 滑り止めのロージンバックを、改めて着け直していると――。
「――武尊、思い切って行け!」
 ベンチから、桜の声が響いてきた。思わずベンチに目線を向けると、桜の瞳はビビッてんじゃねぇぞと言わんばかりに鋭い目つきをしている。制服に野球帽という、可愛らしい姿なのに……熱気は、ユニフォームを着た選手に負けず劣らずだ。
 そうだよな……。インハイ、相手に当てることばっかり考えてちゃ、ダメだよな。
 これは、勝負なんだから。――もし相手にぶつけても、それは事故だ。真剣勝負の中でのことだから、仕方ない。真剣勝負の場に上がる権利さえ与えられない桜の為にも――逃げちゃダメだ。
 心持ちを入れ替え、再びプレートに足をかけセットポジションを取る。
「――シッ!」
 投げたストレートは、内角高めストライクゾーンへ向かって行く。
 相手は、俺が投球フォームに入った瞬間、またバントの構えに変えた。――バントを成功なんて、させない!
「――ストライク!」
 見逃された。……どっちだ。ストライクゾーンでもバントをしなかった。送りバントしてくるのか、それとも二ストライクに追いこまれるまで揺さぶるのか。
「――シッ!」
 その後も、バッターはバントの構えをしては引いて――カウントは、二ストライク二ボールとなった。
 打ちに行ってファールなら、アウトにはならない。でも、バントでファールなら……ストライクカウントに加算され、アウトだ。……やっぱり、ランナーを送らないのか? この場面でも、普通に打ってくるのか?
 迷っても仕方ない。大和の要求通りに投げられれば、なんとかなる。外角高めにストレートの要求……。慌ててバットを押っ付ければ、ゴロが転がせずフライになりやすいところだ。……よし。
「――シッ!?」
 大和を信じて投げた瞬間――またバントの構えをしてきた。スリーバント!? ファールになってアウトになるリスクを背負ってでも、バントをして来るのか!? 
 俺の投げたコースも、甘い! 外角ではあるけど、低めに投げてしまった!?
 コンッと、バントで横に構えられたバットにボールが当たる。――上手いッ! 俺も走っていたが、ピッチャーマウンドより更に遠いファースト側へ見事に送りバントを決められた。いや、下手をしたら送球が間に合わない。打ったバッターランナーも、生き残るかもしれない!
「セカンド、ベースカバー!」
 ダッシュしている俺とファーストの代わりに、セカンドが一塁へ入るよう、大和から指示が出る。ファーストの先輩がダッシュしてコロコロ転がる打球に追いつき――。
「一つ!」
 大和の指示で、二塁へと向かったランナーは諦め、ファーストへ送球するよう指示が出る。先輩は迷う事なく、取った瞬間にファーストへ球を投げ――。
「――アウト!」
 際どいタイミングだったが、ファーストで処理出来た。……これで、ワンアウトランナー二塁。得点圏にランナーを進められた。
「ナイスファースト!」
「セカンド、ナイスベースカバー!」
 それでも、口々にみんなで互いのプレーを褒め合う。
「タイム!」
 監督が審判にタイムを告げた。試合が一時中断し、内野手六人がマウンドへと集まって来る。伝令――監督の指示を受け取ったベンチメンバーもだ。
「監督、なんだって?」
 ショートを守っていた寺尾キャプテンが、代表して伝令に尋ねてくれる。
「気持ちを切らすな、一つ一つ、目の前のことを大切に、と。外野は前進守備にするそうです」
 前進守備、か。外野を定位置よりも前に出させる、と。それは……一点もやれないこの展開だもんな。俺は――外野の頭を越える、長打を打たれる訳には行かないな。そうなったら、本来はツーベースヒット級の当たりでも、一気に三塁、下手すればランニングホームランにされることもあり得る。
「――よし、お前ら! 気合い入れてけ!」
「「「しゃあ!」」」
 寺尾キャプテンの合図に、全員が声出しで気合いを入れ直す。
 そして元の守備位置へとダッシュで戻った。
「――プレイ!」
 出し惜しみなんて……元からしていなかった。それでも、ここで力を振り絞らなきゃな!
 俺は、自慢のストレートで勝負に行く!
「――シッ!」
 投げた瞬間――。
「――走った!」
 ショートを守る寺尾キャプテンの声が聞こえる。ランナーが走ってる!? ここで、初球からヒットエンドランだと!?
 俺が内心、驚嘆している中――投げた球は、バッターの内角高めに浮いている。
 当然、バッターはバットを振るが――。
 ギンッと、詰まったフライが上がる。
「――よし!」
 本来、ヒットエンドランは転がさなければいけない。フライだと、捕球された場合にランナーは元の塁に居なければタッチアウトに出来るから。
 だが――。
「――なっ……」
 疲れで、俺の球がいつもより球威が軽かったのか――球は、ショートとサードの間、その後ろまで飛んでいく。
 セカンドランナーを牽制して守備位置がセカンド寄りになっていた寺尾キャプテンからすると、逆を突かれたような形だ。
 そのまま――ポンッと打球はグラウンドへ落ちた。
「クソッ!」
 慌ててホームのカバーに入る。ボールを取ったレフトが、ホームへと投げた球が後ろに逸れても……即座にカバーする。打ったランナーを、これ以上は進めない!
 レフトの先輩が掴んだ球を、全力でホームへ送球してくる。
 打った瞬間に走っていたランナーは、サードを回っている! 間に合え、ホームでタッチアウトになれ!――タイミングは、かなり際どい!
 レフトからの返球を受け――タッチに行く大和と、ヘッドスライディングでホームへ飛び込むランナーが交錯する。……土煙で、良く見えない!
「――セーフ、セーフ!」
 球審の声が――聞こえた。取られてしまった……。終盤に来て、均衡を崩される一点を――。
「――セカンッ!」
 俺がそう打ちひしがれているのに――大和は、素早く二塁へ送球した。打ったランナーが、一塁に留まらず二塁へ向かっている!?
「アウト!」
「しゃあ! 二アウトッ! ここで気持ちを切らすなッ!」
「オッケー!」
「しゃあ!」
 大和の的確で素早い判断で、また得点圏にランナーを進ませることは、逃れられた。それどころか、二アウトランナーなしの状態に持って行けた。
 大和の鼓舞に、他の守備も応えている。……本当に、冷静で頼もしいな。
「武尊、気持ちを切らすな! 大丈夫、次の回で逆転してやれば良い!」
「……ああ。ああ、そうだな!」
 次の回――九回の表だ。
 俺にも、必ず打順が回ってくる。そこで同点に出来なければ、ゲームセット。逆転して、裏の守備を守り抜けば――俺たちが甲子園行きだ。
 気持ちを切り替え、マウンドへと戻る。――スタンドからの声援は止まらない。……いや、むしろ一層の大きな声が響いてくる。守備についている人やベンチを見れば、誰も諦めたような表情なんてしていない。必死に声を出している。――勿論、桜も。
「誰も諦めてないのに……エースが最初に諦めて、たまるかよ!」
 感覚も鈍く、握力も弱くなってきている。足腰だって、度重なるダッシュで悲鳴を上げている。
 それでも――。
「――シッ!」
「ストライク! バッターアウト! チェンジ!」
「しゃあ!」
 エースなら、踏ん張らなきゃな!
 三振で切って取り、次は九回の表――俺たちの攻撃だ。
 ダッシュでベンチまで戻る。監督の鼓舞の後、先頭打者、そして次の打者が準備する。
 俺は、打順的に三人目だ。
「武尊。ドンマイ、気持ちを切り替えてね!」
「桜、分かってるよ。……取られたら取り返す、それが野球だ」
「よし! 分かってるならオッケー!……多少のボールでも、振り抜いてよ」
「ああ、分かってる……」
 ここで点を取らなければ、試合終了なんだ。
 四番の俺を、また敬遠してくる可能性もあるが……。この大声援の中、四打席連続敬遠なんてしたら――大ブーイングだ。学生野球でそんな選択をするのは――容易じゃない。
 おそらく、ストライクかボールか、際どいコースをついて来るはずだ。
 俺も――全力で振り抜く。
 ギンッと、二番打者――寺尾先輩の詰まった当たりがサードとショートの間に転がる。これは――面白いところに転がった! タイミング的には際どい!
 寺尾キャプテンが、何とか間に合えと一塁にヘッドスライディングして――。
「――アウト!」
 惜しかった。……泥だらけに汚れたユニフォームで帰って来る寺尾キャプテンの顔は、本当に悔しそうだ。本気で三年間、頑張ってきたからこそ……この一瞬に、それだけ悔しい思いが出来るんだ。
 俺も――応えなければ。
「――大滝。全力で行け」
「……監督」
 打者の控える場所――ネクストバッターズサークルへ行こうとする俺に、監督が声をかけてきた。
「ここまで我慢してきたんだからな。出塁することは、考えなくていい」
「はい!」
「よし、行ってこい!」
 笑顔で背中を叩かれ、俺はネクストバッターズサークルへ入る。
「――ストライク! バッターアウト!」
 三番の先輩のスイングは、見事に相手のストレートにねじ伏せられた。……さすが、名門校のエース。それも、俺みたいに連投してないから……ここに来て、まだ余力はありそうだ。
「すまん、何としても、お前の前に出塁したかった!」
 無念そうな先輩は、ベンチに走りながら――すれ違い様、そう呟いていた。悔しさに満ちた声だった。
「……勝負して来い。みんなの夢を、俺は背負ってるんだよ! こんなとこで、負けられない!」
 自分に活を入れる。
 ここで俺がアウトになれば――試合終了だ。みんなの夢が、努力が――水泡に帰する。
 ポタッと顎から落ちた一滴の汗が――グランドの砂に吸いこまれ、湯気になって宙を漂う。
 肌をジリジリと焼く、カンカン照りの太陽の下、だもんな。熱い、よな……。本当に、野球ってのは――イヤに成る程、熱いスポーツだよな!
 気合いを入れ、左のバッターボックスへと入ると――ブラスバンド部の演奏が鳴り響く。
 満員のスタンドから、かっ飛ばせ!――大滝と聞こえてくる。ベンチからも「いけぇ大滝!」、「武尊、ホームラン打ってこい!」と檄が飛んできた。
 小さな白球の行方に、こんなにも大勢が本気になる。青春をかけて、熱狂の坩堝に落ちる。――これだから高校野球は――面白い!
「――ボール!」
 初球は、大きくワンバウンドするボール球だ。
 でも――敬遠じゃない。狙いとしては、ボールとストライクのギリギリか。球に力も籠もっていた。ただ、緊張して力んだんだろうな。……分かるよ、その気持ち。なんせ相手からすると、俺を抑えれば――夢の甲子園の舞台だ。
 自分の投げる一球で、甲子園行きが決まるかもしれない。場合によっては……それが、先延ばしになるかもしれない。
 こんなプレッシャーを抱えて投げるピッチャーってのは、本当に大変で――胸がときめいて、楽しいよな。他じゃあ体験出来ないぐらいに、さ。
 神経が更に研ぎ澄まされて来た。究極に集中している感覚……。今はもう、ピッチャーと自分以外は見えない。あれだけ鳴り響いていた応援も、聞こえなくなっている。
 それでも――声援で届けられた熱い想いは、ちゃんと胸に闘志として宿っているから。
「――ボール!」
 外角、これはコントロールミスか、一四〇キロメートルは出てそうなストレートが大きく外れた。
 ボール先行、それでも……逃げてくれるなよ。勝負に、来い!
 振りかぶって――内角低め、ストライクゾーンに来た!
「――ぐッ!?」
 ストライクからボールに変わる、落ちるスライダーか!?
 ストレートの軌道から、見事なブレーキ。前のめりに振りに行く気持ちを突かれ、思いっきり体勢を崩された。見事な緩急だ! 思わず左膝を地面に突くが……俺は、諦めない! もっと見事な緩急を使う技巧派投手を――俺は知っている!
「――シッ!」
 左膝と左肘は連動させるように! グラウンドの砂で、膝の皮が擦り剥けようと、師匠の教えを守って振り抜く!
 キィンっと――打球が大きく打ち上がる。
 体勢は崩されたが――バットの芯で捉え、ボールを打ち抜いた。
 高々と上がった打球はライトの頭上を大きく越えていき――スタンドを、ポンッと跳ねた。
「――しゃあ!」
 ガッツポーズしながら走り、ベースを回る。
 轟く味方スタンドからの大歓声、相手スタンドからの悲鳴。鳴り響くブラスバンド部の――ホームラン用の演奏。ブラスバンド部の演奏に合わせ、スタンドで歓喜に熱狂する地元の人や市立秩父の生徒が目に映る。――これだけいちゃ、おふくろは見つからないか。
 本当はおふくろの喜ぶ顔も見たかったけど、満員のスタンドってのは、そういうもんだよな。熱いドラマに湧くスタンドってのは――こういうもんだよな!
 相手への礼儀として、しっかりと走り、ホームベースを踏む。
 これで同点に追いついた! 勝負は、まだこれからだ!
 満面の笑みで俺がベンチへ戻ると――。
「大滝! お前は最高だ!」
「何だよ、アレはよぉ!? 膝を突いてるのにホームランとか、あり得ねぇだろ、武尊!」
 キャプテンや大和、仲間たちがヘルメットを叩く手荒な方法で迎え入れてくれる。
「ありがとうございます! 自分で取られた点を、取り返して来ました!」
「武尊、お前ってヤツはよぉ! 行ける、まだ勝てるぞ!」
「「「しゃあ!」」」
 大和の声に、ベンチは再度気合いを入れ直した。……大和、市立秩父でも、すっかりムードメーカーになったな。
 昔から、そうだったよな。お前は――人好きのする笑みに、締めるとこは締めて頼りになるヤツだもんな。少年野球でも、中学でも――人を纏めて率いるキャプテンに選ばれてきたのは、俺でも桜でもない。大和だった。市立秩父でも、すっかりそんな立ち位置になったんだな。
「武尊! ナイスだよ、スカッとしたよ!」
「――桜。桜に注意された通り、しっかり膝と肘を連動させて振り抜いたよ」
「膝、地面に擦ったから……血が滲んでる?」
「ああ、多分。でも今は、アドレナリンが出てるのかな、感覚が良く分からない」
「……もう! 試合が終わったら、ちゃんと手当するんだよ!?」
 言葉では怒ってるのに、顔が合っていない。喜色満面だ。しかし、ハッと表情を引き締め――。
「――延長、大丈夫?」
 そう小声で尋ねて来た。……まだツーアウト。これから味方が打席に入るという状況だ。たしかに、追加点を取れない前提の話しをするなら……声を潜めないと怒られるな。
「正直……スタミナは残ってないな。気持ちで、気合いで投げ抜くしかない」
「だよね。ペース配分が下手……って責めるには、ちょっと相手が悪いか」
「ああ。……さすがは名門校の選手だよ。気を抜けば、下位打線だろうとスタンドに持って行かれるようなスイングの鋭さだ。良く練習してるんだろうな。……バットを振ってきた回数、半端じゃないんだろうな」
「とにかく、スポーツドリンクだけでもしっかり飲んで!」
 桜はキャップを開けてから、スポーツドリンクを俺に差し出す。……キャップを回すだけの握力も惜しむってことか。さすがだな。
「一球入魂。……全力で投げ続けて、もし力尽きても……。俺の後には――もっと良いピッチャーが控えてるぞって……。そんな、甘え癖がついてたのかな」
「武尊……」
「小学校の頃から、そうだったからな。簡単には、考えを変えてペース配分も出来ないよ」
 桜は、悔しそうな顔を浮かべた。……しまった。熱さと疲労で参っているとは言え――マウンドに上がりたくても上がれない桜に吐いて良い弱音じゃなかった。本当は、今すぐにでも俺の後を継いで投げたいはずなのに。そんな分かりやすいことにも、俺は配慮してなかった……。
 桜は目を数度、瞬かせてから――。
「ベンチで疲労とプレッシャーから泣き出す選手もいる夏の予選で、そんな冗談が言えるなら平気だね! 武尊ならやれる!」
 満面の笑みで、帽子を叩いて来た。……桜には、救われてばっかりだな。
「――ストライク! バッターアウト! チェンジ!」
 そんな会話をしている間に、スリーアウトチェンジのコールが球審から告げられた。……みんながベンチから身を乗り出して応援してる中、申し訳ないことをしてしまった。
 簡単に崩れては、くれなかったか……。
 ホームランを打たれて、勝ちが掌から零れ落ちたばかりなのに。すぐ気持ちを立て直す当たりも、さすがは名門校のエースだ。鋼のようなメンタル――不貞不貞しくて、心臓が強いとでも、言えば良いのか? 
 九回裏――ここで点を取られれば、サヨナラ負け。無失点で切り抜ければ――延長戦か。
 他の仲間を信じていない訳ではない。でも、もし全てアウトに取られれば、次に俺の打順が回ってくるのは――延長、一二回だ。
 もう三イニング――この回を入れて、四イニングを無失点で切り抜けるぐらい、強い気持ちで投げなければならない。……余力なんて、こっちはとっくに尽きてるんだから。
 グラブを手にマウンドで投球練習をしながら、俺はそんなことを考えていた。
「――プレイ!」
 一瞬たりとも気が抜けない、九回裏の幕が――切って落とされた。
「――シッ!」
 全力で投げる俺のストレートは――もう、球威が落ちていた。速度も、ノビも……普段の六割程度。元から、剛球でねじ伏せるような、未完成なピッチングだ。
 初球、引っ張られた強い当たりは――ファールゾーンへ切れていく。……助かった。
 桜のピッチングを名刀とするなら、俺のは、さながら無骨な斧だ。精彩さがない代わりに、剛球でねじ伏せる。疲労で斧から球威という刃さえも失われれば、簡単に対処されるのも当然か。
 大和からのサインは、外角低め、ボールになるカーブ。変化球を主体に、切り替えるか……。握力、頼むからさ……最後まで持ってくれよ。俺だって……血豆を何度も割るような――文字どおり、血の滲む努力をしてきているんだから。いざという場面で、打たれたくないんだよ!
「――シッ!」
 大きく曲がったカーブは――打者が見逃してくれたお陰で、大和のミットに収まる。ど真ん中低めに。外角を狙ったのに……今のは、危険な甘い球だった。
「ストライク、ツー!」
 普段とは……まるで軌道が違う。
 リリースポイントも無茶苦茶なのか? 軸足で支える力も、まともに残っていないからな……。変化球でそれなら、制球は――最悪だ。大和の要求は、外角大きく外れるところから、ギリギリでボールゾーンになるカーブだったのに。狙ったところから、大きく外れている。
 次の要求は……内角高め、ギリギリストライクに収まるスイーパー――フリスビーのように、左打席に立つ相手の方へと横に曲がる球だ。……頼む、まだ力尽きる訳には行かないんだ!
「――シッ!」
 左打者の胸元を抉れという思いを込めて、スイーパーを投げる。普段はフリスビーのように気持ち良く曲がってくれるスイーパーも、曲がりが鈍い。
「――ぁ!?」
 コントロールミス――かなり内角へ、投げたボールが行く。
 それだけなら、まだ仕方ない。だが――相手は、ユニフォームをわざと、だぶつかせている!?
「――デッドボール!」
 クソ、やられた!
 ワンタイミング、避けるタイミングをずらして、反則じゃない範囲でだぶつかせたユニフォームにボールが当たった。完全に、チャンスがあればと待っていたな……。所謂、くせ者ってやつか。
 胸元へ来るコントロールミスがあれば、使う。もしコントロールミスがなければ、普通に打ってくる。出来るを全てやるという、勝ちへ拘る信念。正面からの強さだけじゃなく、こういう強かさを持っているのか。さすがだ……。
「武尊、気を取り直して行け!」
 大和の声を耳にして、大きく息を吐く。ローンジンバックをポンポンと手にして、汗で球が滑らないようにする。気を取り直せ、またノーアウトからのランナーだ。
 またしてもバントシフトの指示が監督から出る。それはそうだ。
 一点でも取られれば――サヨナラ負け。今までの努力も、甲子園に行けないまま――終わってしまう。
「――シッ!」
 放った一球目――バントの構え!
 しかし、またしてもバットを引いた。
「ストライク!」
 本当に、イヤな揺さぶりだ。もう、足腰は限界だってのに……ここに来て、ダッシュさせるんだから。
「――シッ!」
 次も――バントの構え、勿論ダッシュだ!
 今度は――バットを引かない! 当てて来た! 打球を殺した、いいバントだな! ボールは、俺とファーストの中間辺りに転がっている!
 全力でダッシュして――俺が間に合う! セカンドへ投げ――。
「――一つ!」
 大和から、ファーストへ投げるように指示があり、振りかぶっていた手を止める。この場面で、得点圏にランナーを進めるだと!? 一瞬、そう思うも――大和を信じて、ファーストへ送球した。
「アウト!」
 相手の必死のヘッドスライディングも虚しく、キッチリアウトを一つ取った。……たしかに、ボールを捕ってから振り返って見た限りでは……セカンドはかなり厳しいタイミングだった。
 それでも、俺の肩なら……。
「武尊、ワンアウトだ! 落ち着いてけ!」
 いや、そうだな……。いつもの俺の肩なら、たしかにアウトも取れたかもしれない。だけど、ここまで既に一五〇球近く投げている今の俺なら……。しかも、疲労した足腰で、急いで投げようとしたなら……暴投してランナーを三塁まで進めていたかもしれない。大和の判断が、きっと正しかったんだろう。
 得点圏にランナーを――サヨナラのランナーを進めたことで、相手のベンチ裏スタンドは、熱狂的な盛り上がりだ。ブラスバンド、打ち鳴らされるメガホンの音。声援が……俺にプレッシャーを与えてくる。
 真夏の灼熱の陽光が、肌をジリジリと焦がす。
 流れ出る汗が、目にまで入った。痛む目と、吹き出る汗を袖でグッと拭い、俺は再びマウンドから大和を――右打席に入ったバッターを見る。
 バットを短く握っているな……。長打なんて要らない、コンパクトに速いスイングスピードで、二塁ランナーを返そうって狙いか。うちの外野も前身守備だ。一点でも取られたら、サヨナラ負け……。いや、考えるな! 弱気になるな!
「――シッ!」
 初球、タイミングを外すチェンジアップが内角に――。
 ギンッと、振り遅れて詰まったゴロゴロの当たりが、セカンドとファーストの間へ転がる。
「――クッ!」
 しかし、セカンドはランナーを牽制していて、そこには待ち構えていない。
 ファーストが必死に追いかけている。なら――俺がファーストのベースカバーに行かなければ! どっちがベースまで早く駆けられるか、ランナーと勝負だ!
 全速力で駆け――ファーストが球に追いついた! そしてベースカバーに入った俺に送球――グラブに入った。あとは、ランナーより先にベースを踏めば、アウトだ!
「――ぁ」
 タイミングは、ほぼ同じ。
 全速力で走れば――勢いを殺せず、ランナーと衝突する。
「――クソッ!」
 無理やりに右足首の方向を捻り――衝突から避ける!
「セーフ!」
 間に合わなかった!――三塁へ進んだランナーはッ!?
 ホームを目指すようなら、送球しなければと思い、方向転換して――鋭い痛みが全身へ迸った。反射的に、痛みで目を細め歯ぎしりする。
 右足首が、痛む!? マズい……。今のプレーで、足首をやったのか!? 全力疾走から、相手に当たらないように、急に方向を変えたからか!?
 ランナーは――三塁で止まっている。助かった……。
「ワンアウト!」
 俺はマウンドへとゆっくり戻りながら、そう声を上げる。あくまで笑顔で、雰囲気を壊さないように。
 サヨナラのピンチだけど……相手も、このチャンスを逃せば流れを失う。そうなれば、ウチに――市立秩父に、流れが来るかもしれない。
 相手のピッチャーだって、ここまで結構な球数を投げてるんだ。きっと、打ち崩せる!
「しゃあ! 一球集中!」
 いつも以上に声を上げる。……大丈夫だ。歩いた感じ、まだ投げられる。ポーカーフェイスだ。弱みを見せるな、俺! ムードを壊すな、ホームランで追いついたウチの流れを、断ち切るな!
 狙いはホームゲッツーだ。……打たせて飛んだ場所次第では、二塁から一塁へのゲッツーだってある。切り抜けられるはずだ! 俺だって――桜と競い合いながら、汗まみれ、泥塗れになって努力を積み重ねて来たんだ! ここで踏ん張れなくて、どうする!
 マウンドへ戻り、セットポジションに入る。サインは――ストレート、内角低め。
「――シッ!?」
 軸足の右足首に痛みが!?
 しかも――バントの構え!? スクイズか!?
「クッ!」
 クソッ! 出遅れた上に――ダッシュは足首が余計に痛む! 間に合え!
「ボール!」
 全力ダッシュしたが――相手はバットを引いた。
 危なかった……。もし今、スクイズされていたなら、反応が遅れて成功していたかもしれない。
 そうだ、俺たちはアウトを二つ取らなければいけないけど、相手はホームにランナーが生還した瞬間――サヨナラ勝ちなんだ。
 ああ、熱いなぁ……。この緊張感、割れんばかりの大歓声。両ベンチに、守っている味方の張り上げる声。……泣き言なんて、言っていられないよな。
 控え投手の一年生……三国は、まだ肩も温めていないんだ。せめて、この回のピンチを凌ぐまでは……マウンドを降りる訳には行かない。
 そもそも、俺が作ったピンチだしな。ベンチに返って、監督にピッチャー交代をお願いして……。三国の方が十分な出来になる時間ぐらいは、稼がなければ。――しっかり、抑えないとな。痛みなんか、忘れろ! 絶対――顔に出すな!
 マウンドで構え――大和の要求は、内角低めのスプリット、か……。良い要求だ。早いスピードから落ちる球へ無理やり当てに来て、内野の正面にゴロが転がれば、ホームでアウトに出来る。
「武尊、肩の力を抜け!」
 桜の声が――耳に入った。
 そうだ、桜は――力なんて、今の俺よりもないだろ。それでも、ウチの選手たちを抑えられたのは……ムダな力を入れずに、必要な力をボールに伝えたから。
 その変化球を――俺より完成された、お手本のようなフォームを思いだせ。脳内に桜の磨き上げられたフォームを思い浮かべろ! 俺は、いつも野球屋敷で……目の前で見てきたじゃないか! 痛みなんか気にするな! 俺は――桜たちの夢を背負ってるんだぞ!
「――シッ!」
 投じられた球は――内角低め、リリースの手応えも、最高だ!
 バッターの手元で――スッと消えるように落ちる。ストライクゾーンから、地面へ向かって。
 見事に空振り。
 ボールは、そのままキャッチャーの後ろへ消え――見えなくなった。
「――ぁ」
 ダッシュしてホームベースへ向かい駆ける。
 大和は後ろに逸らしたボールを、必死に追っている。
 ホームベースカバーに走る俺の目の前で――砂煙を巻き上げながら、ヘッドスライディングで飛び込む人の影。
 ブワッと舞う砂煙が晴れた時、目に映ったのは――破顔してガッツポーズする相手ランナー。
 そして、ボールを握りながら呆然とする大和の顔だった。
「――ゲームセット!」
 球審が――試合の終わりを告げた。
 負けた?――サヨナラ、負け……したのか?
 思わず、膝からガクッと崩れ落ちる。
 辺りを見渡せば――先輩たちも、泣き崩れて雄叫びを上げている。大和は、顔を俯かせ、ボールを力一杯握り絞めていた。
 本当に、俺たちは……負けたのか? 返ってきたランナーを抱きしめる相手チームを見ても、実感が湧かない……。
 エラーで、負け……。
 なんて、あっけない幕切れなんだよ……。こんなの、信じられる訳が――。
「――立ち上がれ、整列しろ! 最後まで……胸を張って礼をしろ!」
 ベンチから、桜の声が響いた。
 その顔は――誰よりも悔しさに満ちていて、泣くのを必死に堪えている表情だった。
 ああ、そうか……。
 俺たちは――負けたんだな。
 そう現実を認識した瞬間――相手側スタンドから、震えるほど歓喜に沸く声が聞こえた。
 耳から入った音を、やっと脳が認識した。
「――お前ら、立て! 和泉の言う通りだ! 立派に戦い抜いたって、最後まで格好付けて見せろ!」
 寺尾キャプテンの大きな声に、俺たちはハッとして――駆け足で整列する。
「――礼!」
「「「ありがとうございました!」」」
 両チーム並んで礼をした後――相手チームは、自分たちの生徒が応援に来てくれているスタンドへ向け、全力疾走していく。満面の笑みでフェンスに飛びついたり、身体一杯に喜びを表現して。
 甲子園を決めたんだから、当然か。……そうか、俺は――ダメだったのか。
 みんなの、桜の夢……甲子園への切符を――目前で逃したのか。
「――おら、前を向け! お前ら、走れ! 十文字、お前も泣くな!」
「寺尾キャプテン、すいません。俺が……最後の最後に、エラーなんか、やらかしたせいで! 俺が、武尊の球を捕れないキャッチャーだったせいで!」
「もう終わったことだろ。――十分、夢を見させてもらったよ。お前らがいなきゃ、見られない夢をよ! 十文字、ありがとうな!」
「……はい。ありがとう、ございます」
 涙ぐむ先輩や大和たちは、短い距離なのに――全力ダッシュでベンチへと向かう。
 悔しさを、ダッシュにぶつけたんだ。
「そっか……。負けたんだよ、な。……もう、投げられないのか」
 思いだしたかのように――電流のような痛みが足から全身へと駆け巡る。
 俺は足の痛みに耐えながら――ゆっくりベンチへと戻った。
 その後、しばらくしてから――夏の甲子園予選、埼玉県大会の閉幕式が執り行われた。
 プラカードを持った桜を先頭に入場し、整列。
 オーディションで選ばれた高校生による大会歌――『栄冠は君に輝く』の独唱を、俺は整列しながら呆然と聴いていた。
 栄冠――甲子園を制した者に輝く、最大の栄誉。
 少なくとも、この歌は――準優勝で敗退した、俺たちに捧げられるものじゃない。隣に並ぶ、優勝校の選手達へ向けられた歌だ。勝利した君たちに、輝けと。……それが、凄く悔しい――。

「お前ら、よく頑張った! 胸を張ってバスに乗れ!」
 選手通用口から球場を出た後、俺たちはスタンドで応援してくれていた部員を含めて再度集合した。監督からバスに乗って帰るように指示され、それぞれが動き出す。
 まだ泣いている先輩たちもいるが……。
「おら、いつまでもクヨクヨと泣いてんじゃねぇ!――引退だぞ、炭酸飲むぞ、炭酸! ずっと飲むのを禁止されてたのが、解禁だぞ!? おい、後輩共! 俺たち三年は、もう炭酸も好きに飲めるんだ! 羨ましいだろう!?」
 気丈にそう振る舞うことで、俺たちを笑わせようとしてくれる先輩もいる。寺尾キャプテンのように、だ。
「――武尊」
「……大和」
「すまん、最後の一球――今までで一番鋭いスプリットを、俺は捕ってやれなかった!」
「――え」
 今までで一番? あの、疲れきっていた時に、か?
「今までで一番、だったのか?」
「……ああ、言い訳みたいだがな。桜ちゃんみたいに、鋭く落ちて……。桜ちゃんより、圧倒的に早くてよ! 俺は、反応が遅れちまったんだ!」
 そうか……。だとしたら――桜が力を抜けって言ってくれたお陰かもしれない。
 熱さと疲労で意識が朦朧としてたから、あまりよく覚えてない。でも――今までで一番、脳内で描く憧れの大選手や、桜に近いフォームだった気がする。ケガをして力が入らないからこそ、たどり着けたのか。怪我の功名……って言うには、場面が悪かったな。
「……そっか、それは、後逸らしても無理ない。あの場面で、過去一番の球なんて想定出来ないさ……。投げた俺でも、予測してなかったんだから」
「――違う! 俺は、武尊を信じてた! ここでも踏ん張って、最高の球を投げてくれるってよぉ。それなのに、俺は……ああ、クソ! 何で俺は、後ろに逸らしちまったんだ! 甲子園が、俺のせいで!」
 嗚咽を上げながら泣きじゃくる大和なんて、初めて見た。……そうか。これが、大勢を魅了する夏の大甲子園の魔力って代物か……。
「――バカ言ってんじゃねぇよ! 十文字、お前の指示がなきゃ俺たちは、もっと点を取られてたぜ!」
「寺尾、キャプテン……。でも、俺は――」
「そうだ、寺尾の言う通りだ。甲子園なんて夢のまた夢だった俺たちだぜ?」
「おう、ここまで良い夢を見せてもらったんだ! お前に感謝してねぇやつなんていねぇよ! 俺たちのエラーも、何度もカバーしてもらったしな!」
「三年生のみなさん。……ありがとう、ございます!」
 泣きじゃくる大和は、先輩たちに支えられるようにバスへと消えていった。
 俺もバスに乗ろうと一歩踏み出した時――ビシッと、電流のような痛みが右足首から全身へ迸る。閉会式の行進の時も、耐えて無理していたからな……。ゆっくりでも良い、行くか……。
「――私の肩に掴まって」
「……桜」
 桜が、俺の左腕を掴み自分の背に回させる。……でも身長差がありすぎる。
 肩を貸すっていうより、横から身を寄せ合っているような感じだ。そもそも、俺が足首を痛めていたことは、誰にもバレてないはずだ。自分のことで精一杯なみんなに、要らぬ心配をかけないようポーカーフェイスを貫いているんだから。
「なんのことだ?」
「……もう、試合は終わったんだよ。誤魔化さなくていい」
「…………」
「身長差、ありすぎるね。……私の肩を、杖代わりにして」
 バスのステップ台の前まで歩き、桜はそう呟いた。
 身長差で肩を貸せていないことに、今更ながら気が付いたのか。
「要らないよ。そんなこと、出来ない」
「良いから!……それぐらい、させてよ」
「桜……」
「私を杖代わりにして、肩に体重を掛けて。……お願い、こんな些細なことでも良いから、私は武尊を支えられてるって……。そう、思いたいの」
 近すぎて頭上から桜を見下ろすような形になっているから、顔までは伺えない。それでも――悲痛なことが良く伝わってくる声に、俺は断れなくなる。
「……ありがとうな」
 桜の肩に手を置き、ほんの少しだけ体重を掛け、ステップ台を登っていく。
 そのまま車内に入ると、三年生からは「見せつけてくれるな!」、「イチャついてんじゃねぇぞ、お前ら二年は、もう秋の大会への準備期間だかんな!」と野次が飛んでくる。
 そんな声に苦笑で返しながら、空いていた通路脇の座席に、二人で腰を降ろした。隣り合って座ることで、やっと桜の表情が目に映る。……下唇を、噛み締めていた。
「――よし、全員乗ったな。運転手さん、お願いします」
 監督の合図で、俺たちを乗せたバスは学校へ向け発進した。
 手を振りながら送ってくれる人が見えなくなって、何分ぐらいが経っただろうか。
「……ごめんね」
「ん? 何が?」
 窓際に座った桜が、外の景色を見ながらポツリ、と囁くように謝罪を口にした。
 謝るのは、俺の方だと思うんだが。……桜の――俺たちの夢の成就を、先送りにしてしまった俺の方こそ、謝るべきだろうに。
「試合中には、気が付けなかった。……右足、痛めてること」
「こんなの、大したことないよ」
「武尊は変なところで頑固だから、絶対そう言って平気な振りをするよね。心配かけて、ムードを壊さないようにって、笑顔を作ってさ。……だからこそ、私が一番に気が付いて――三国を直ぐ準備させるよう、監督に進言しなきゃいけなかったのに」
「……なんだそれ。いくらなんでも、気負いすぎだろ。プロのコーチがやるベンチワークレベルだぞ」
「それでも、出来なきゃならなかった。試合が始まった後、私が戦えるのは……そこしかなかったから。私は――甲子園を目前にして、浮かれてた」
「おいおい……。何を言ってるんだ? 桜は、最高のマネージャーだよ。誰に聞いても、そう言うさ」
「ううん。最後の一球だって、私が力抜けって言ったから――あんな、今まで見たことがない変化球のキレが出たんでしょ? 今までで一番、腕が良く振れてた。……武尊は、最後まで自分のやるべきことをしたのに。私は、自分のやるべきことを怠った。むしろ、余計な助言で邪魔しちゃった」
「違う、俺も桜も――」
 俺も桜も、やるべきことをやった。そう言おうとして、思わず口が止まる。
 精も根も尽き果てるぐらい死力を尽くしたはずなのに、桜に対してそう言うのは……気が咎める。
 俺は――まだ出来る。出来なきゃならない。連戦の甲子園、今日のように超満員で熱く応援してくれる人たちに、一六〇キロメートルのストレートで応えるためには。
「……俺も桜も、まだまだってことだよ。まだまだってことは、成長する余地がある。……マネージャーのやるべきことは、桜にしか見えないんだろうけど……。少なくとも、今日のは黙ってた俺の判断ミスだな」
「……言ってたよ」
「ん? ごめん、声が小さくて――」
「私が後ろに控えてたら、武尊はちゃんと、ケガをしたって言ってたよ」
「――……」
 外を見ていた顔をこちらに向けた桜の目尻から――雫が一筋、頬を伝っていく。
「今の私……無力でさ。……悔しいよ」
 俺が三国を信用して、ケガをしたと直ぐに言わなかったせいだ。
 準備時間が少なくとも、三国なら抑えてくれる。――中学野球まで、桜が後ろに控えていたら、安心してマウンドを譲ってた。それは否定できない。……桜のように長年の信頼は難しいけど、チームメイトなのに……。俺が三国を信用していたら――結果は、変わっていたんだろうか。
「私たちの夢を、武尊に背負わせるだけで……・なんの力にもなれてない自分が――許せない」
 桜の瞳から次々と溢れ出る涙を止める適切な言葉が、俺には見つからない。
「……それでも、桜がベンチにいてくれて……俺は助かる」
 俺のユニフォーム――その右肩に桜が顔を埋めた。汗と泥に塗れ、汚れたユニフォームに、涙まで加わる。これが嬉し涙だったら、最高なのにな……。
 いつか、行動で示してみせる。
 桜が支えてくれたから、二人で挑んだから――夢を成就出来たんだって。栄冠も手に入れて、偉業も成し遂げられたんだって。
 来年の夏こそは……絶対に言ってみせる。
 無力感の悔し涙なんて、桜に流させない。
 努力が報われた結晶のようにキラキラと輝く嬉し涙を、このユニフォームで拭ってやる――。

「――あれ、叔母ちゃん?」
 学校に到着してから、野球部は解散となった。その後、俺は一人、整形外科病院に寄ってから帰宅したんだけど……。家の前に、母方の叔母がポツンと佇んでいた。
「武尊くん、良かった……。試合が終わっても、ずっと電話に出なかったから……。どうしちゃったのかと思った」
 愁眉を開きながら、叔母ちゃんがホッとしたような声を吐く。どうしたんだろう。いつもより言葉に力というか、覇気がないというか……。おふくろに似て、もっとズバズバと物を言う人だったはずなのに。
「ああ、ごめん。……スマホ、ずっと鞄の奥だった。それに病院に寄ってたから、さ。スマホを見ようともしてなくて」
「――病院? もう、行ってきたの?」
「え、もう行って来たよ?」
「そう……。なら、私がここに来るまでもなかったわね」
 そうか。叔母ちゃんも、試合の応援に来てくれていたのか。それで俺がケガをしたのを見たから、心配して家まで来てくれたんだな。それにしても、よく俺がケガをしていると分かったな。
「うん。……別に、大したことないって」
「大したことないって、何を言ってるの! そんな訳ないでしょ!?」
 今までの力ない口調から一転して、強く咎めるように声を荒げた。怒気すら感じる。心配してくれるのは嬉しいけど、何もそこまで怒らなくても良いだろうに……。
「お、叔母ちゃん? いや、本当に。一、二週間も安静にすれば治るらしいから、大したことないって医者も言ってたし……」
「……え?」
「え?」
 叔母ちゃんはキョトンと、目を丸くしている。俺も同じだ。大したケガじゃないって報告で、なんで叔母ちゃんがそんな顔をするのか理解が出来ない。
「待って、話しが噛み合ってないわね。……病院で、自分を診てもらって来たの?」
「う、うん。そうだけど……」 
 他に何があるというんだろう。他の誰かを診てもらう付き添いの予定なんて、入ってなかったはずだ。親戚、友人を思い起こすけど、みんな元気だよな……。
「そう……。なら、やっぱりここに来て良かったわ。――直ぐに、私の車へ乗って」
 俺の左手を掴み、グイグイと引っ張る。訳が全く分からない。正直、疲れているから……直ぐにでも風呂に入って泥のように眠りたい。
「は? なんで? どこに行くの?」
「病院よ」
 俺を強引に引っ張って歩きながら、叔母ちゃんが答えた。……なんで今更、病院なんて。ついさっき行ったって報告したじゃないか。
「いや、だから……行ったって。ちゃんと診てもらって――」
「――違うわよ!」
 足を止め、金切り声を上げ叫んだ。背中越しでも、尋常じゃない気配が伝わって来る。……俺が知らない間に、何かとんでもないことでも起きたんだろうか?
「……叔母ちゃん?」
「……武尊くんの、お母さんに会いに行くのよ」
「――……え?」
 言っていることが、理解出来なかった。
 沈黙する俺たちなんて関係なく、セミの鳴き声が合唱されて耳に届く。スタンドの大声援と比べてしまえば、ささやかな音だからだろうか。妙に、物静かに感じられた。
「……早く、乗りなさい」
 予想だにしないことに、返事をすることすら出来ず、俺は力なく叔母ちゃんの車へと乗りこんだ――。

「――……おふくろ?」
 叔母の運転する車で、秩父市内にある総合病院へとたどり着いた。
 病院職員に案内され、一室に通された俺を待っていたのは――ベッドに横たわり、目を瞑ったおふくろだった。普段は化粧なんてしないのに、肌が真っ白くなる程に濃い化粧をしている。
「どうしたの、おふくろ? 仕事に行く時だって、化粧なんがしないのにさ……」
 返事は返って来ない。
「これ、病院の浴衣?……もう、右を前にしたらダメだって、俺には説教する癖に。……ダメだよ、これじゃあ、まるで死人みたいじゃないか」
 間違えて右を前に病衣を身に纏うおふくろ。ちゃんと着せ直してあげようと思い、手を伸ばすと――。
「武尊くん……。ダメよ」
「叔母ちゃん?」
 叔母ちゃんに手を掴まれ、阻まれた。
「ダメって……。これじゃあ縁起が悪いじゃん。ちゃんと、直してあげないと……」
「合ってる、それで合ってるのよ……」
「合ってるって、何が?」
「……もう、旅立った後なのよ」
「旅立ち?」
 何を言ってるんだろう。おふくろは、どこにも旅に出てなんか、いないだろ……。ここに――ちゃんと、ここにいるじゃないか。
「――亡くなってるのよ」
「――……」
 俺が現実から目を逸らしていたのに、叔母ちゃんから――決定的な一言を突き付けられてしまった。
「なんで……。昨日の朝まで、凄い元気だったのに」
「交通事故、なんだって」
「……交通事故?」
「今朝――夜勤が明けて、家に向かって自転車を運転していた時だったらしいの。……後ろから来た大型トラックに撥ねられて、そのまま……」
「…………」
「自転車用のレーンを走っていたらしいんだけどね、車道が枝分かれして、自転車用のレーンが狭くなる場所だったみたいで……」
「……こんなに、綺麗な顔してるのに?」
「そう……。なんでも、頭を強く打ったそうなのよ。……傷を縫って、血も拭いてくれたから、こんな綺麗な姿で旅立てるの」
「……そう、なんだ」
「旦那とこれから、葬儀の話をしてくるわ。……武尊くんは、お家にまた送るから」
「え? なんで俺だけ家に?……俺、おふくろの息子なんだけど」
「試合で疲れてるでしょ?……それに、ごめんなさい。今の武尊くんを、叔母ちゃんは見ていられないの」
 叔母ちゃんは、俺から目を逸らした。ポケットから取りだしたハンカチで、目元を拭っている。……そんなに辛そうな顔で言われたら、言う通りにするしかない、か。
「そっか。……分かった」
 苦笑を作り、俺は叔母ちゃんに軽く頭を下げる。
「おふくろを――母を、よろしくお願いします」
「ええ。それじゃあ、行きましょう」
「はい。おふくろ……また、後でな」
 霊安室と書かれた部屋の扉を開け――俺は叔母ちゃんの車へと再度、乗りこむ。
 僅かな時間しか、おふくろに会うことも出来ず、家までトンボ返りか。
 道中、何度もハンカチで涙を拭う叔母ちゃんを見ていると、叔母ちゃんまで事故を起こさないかと心配になる。「叔母ちゃん、事故を起こさないように気をつけて」と俺が注意したが、かえって逆効果だったらしい。望陀の涙を流し始めてしまった。
 このまま運転させるのは余りに危険だ。車を路肩に止めてもらい、俺は自宅まで歩くと告げて車から外へ出た。
 自宅までは歩いて四〇分ぐらいかかる距離だけど、なんてことはない。
 既に陽は落ち、辺りは暗くなっている。自動車のヘッドライトの白光、テールランプの赤色の光に照らされる中、ゆっくりと自宅に向かいアスファルトの上を歩く。
 道中、陸橋に掛かる横断幕が目に入る。
 そこには『市立秩父野球部、お疲れ様! 夢をありがとう!』と書かれていた。
「仕事が早いな。まだ負けてから、半日も経ってないのに」
 その『お疲れ様』。『ありがとう』という言葉に、なんの感慨もなかった。
 俺が欲しいのは、機械で書かれた、事務的な労いや感謝の言葉じゃない。
「……言って欲しい人の口から、直接聞きたい言葉だよな」
 自宅までは、あと二〇分ぐらいかな? 自宅近くは起伏があるし、このペースだと三〇分ぐらいかかるかもしれない。
 でも、急いで家に帰る理由は別にない。
 どうせ家で待っている人もいないし、急いで試合結果を報告したい人もいないんだ。
 だから、何も問題はない――。

「――ただいま」
 自宅に帰り着いた俺は、玄関の引き戸を開きそう言う。
 暗い家の中から、返事は返ってなかった。
 それはそうか、おふくろは――家にいない。今は病院にいるんだから。
「あ~、腹減った。朝にバスで飯を喰ってから、何も喰ってないかんな。あんだけ動いたのに」
 冷蔵庫を空けると、中にはもらい物の野菜や調味料ばかりだ。調理せず、直ぐに食べられそうな物はない。
「そうだ。あれがあるじゃん」
 俺は野球部のエナメル鞄から、弁当箱を取り出す。おふくろが今日の試合用に作ってくれたんだった。弁当屋のOBから差し入れがあったからな。おふくろが作ってくれた飯には、手を付けず取っておいて――良かった。
「いただきます」
 ドカ弁って表現が当てはまるぐらい、大きな弁当箱が二段もある。海苔で『必勝』と書かれた白米の弁当が一つ。もう一つの箱には、おかずが所狭しと詰め込まれている。
「そうそう、やっぱり秩父って言ったら、コレだよな。滅茶苦茶デカい、わらじカツ。これが米に良く合うんだよなぁ」
 口に含んだカツは、いつも食べるものとは違う妙な味がした。
 それでも、間違いなくおふくろが作った独特の味付けが――まだ微かに残っている。
「――武尊?……いるの?」
 後ろから、俺を呼ぶ声がした。
「……桜?」
「電気も付けないで……。電気、付けるからね?」
 パッと、暗かった室内に眩しい電気が灯った。そう言えば、電気も付けてなかったな。すっかり忘れてた。ああ、本当に桜がいる。声だけでも分かってはいたけど……。実際に目で見ると、安心するな。
 家に帰る前に俺の家に来たのか、野球部用のエナメル鞄に、制服姿のままだ。……マネージャーは、試合が終わってからも色々と裏方仕事があるんだろうな。本当、大変だな。
「……武尊、そのお弁当って。もしかして……」
「ああ、おふくろが最後に作ってくれた飯だ。……美味いよ」
「それ、腐って――……」
 物事をハッキリさせたがる桜らしくもない。躊躇いがちの声で呟き、言い切ることもなく口を噤んだ。
 いつもなら、白黒ハッキリさせるのに、迷っている様子だ。桜の中にグレーはない。やるか、やらないか、言うか言わないかの二択。こんなに曖昧な態度の桜を目にするのは、激レアだな。
「ううん、なんでもない」
「そっか」
「……ねぇ。そのお弁当さ……・。私も少しだけ、もらって良いかな?」
「……なんで?」
「おばさんの作った料理の味、しっかり……絶対忘れないように、記憶へ刻めるように」
 そうか。桜は――桜も、おふくろからすれば、自分の子供みたいなもんだったな。桜だって、おふくろのことを実の母のように見ていた。それなら、おふくろの作った最後の飯を喰いたくもなるか。
「良いけど、腹壊すよ?」
「構わないよ」
「そっか。じゃあ、いつもの席に座りなよ」
「うん」
 桜は慣れたように自分用の箸と皿を棚から取り、俺の前に座る。
 四人用のダイニングテーブルは、その半分が空席だ。
「いただきます」
 一口、おかずを口にした桜は、何度か咀嚼してから、動きを止めて俯いた。
「……美味しい、ね」
「ああ――世界一、だよ」
「うん。本当に世界一、だね」
「世界一、俺に力をくれる飯だ。この弁当に込められたエールを燃料にしてたら、今日も踏ん張れたかもな」
「そう、かもしれないね。ううん、きっと、そうなってた……」
「俺、おかしいよな。弁当屋――プロが作った飯よりもさ、素人が作った飯の方が、美味くて力になるって言ってるんだから」
「何も、何も……おかしくなんかないよ。私も、そう思うから」
「そっか」
「……ただ、今日のはちょっと、しょっぱ過ぎるかな」
「それは、桜が泣いてるからだろ?」
 試合に負けた後だって精々、雫が頬を伝う程度しか泣かなかったじゃないか。こんなに分かりやすく涙を流してなかったのにな……。野球好きで負けず嫌いな桜を――野球よりも泣かせるなんて。おふくろは、やっぱり凄いな。
「そう、だよね。私が、泣いてるからか! ダメだな……。これじゃあ、おばさんの味が変わっちゃうよ」
「仕方ないよ。小っちゃい頃から食べてきたのに、これが最後なんだから」
「――武尊は、さ。……泣いてくれないんだね」
「…………」
「私の前で……人前で武尊が泣いてるのなんて、見たことがない。おばさんにしか、泣いてる顔を見せないんだよね!?」
 嗚咽を上げる桜に、俺は何も答えられない。
「今日の試合で負けた後も、そうだった。――みんなに心配かけないように、武尊は泣かないんだよね! だったら、私が武尊の分まで泣いてあげるから!」
「……桜?」
「武尊が私の夢を背負ってくれてる代わりに、武尊のミスとか悲しみは、全部私が背負うから! そうしないと、無責任だよね。おばさんの代わりに、支えてみせるから!――だって私たちは、フォームまで鏡合わせにしたように瓜二つで……一心同体みたいなもんだと、私は思ってるからさ!」
「……なぁ、やっぱり電気、消しても良いか?」
「……うん、良いよ。――真っ暗じゃないと……武尊は泣きたくても、泣けないもんね」
 泣きじゃくる桜から視線を外し、俺は電気を消す。
 窓から差し込む月光が、僅かにテーブルの上を照らしてくれる。
「……おふくろに、ちゃんと謝りたかったな。一番美味い時に、弁当を喰えなくてごめんってさ」
「うん、そう、だよね……。私も、一緒に謝りたかった」
「……俺も、おふくろに怒って欲しかったなぁ……。試合で負けたことも、ケガを隠してたこともさ」
「すっごい、怒ってただろうね」
「ああ。……生きてたら、怒ってもらえただろうな」
 桜からの返事は、よく聞き取れなかった。
 ああ、そうか。感情の表現方法こそ違うけど――桜は、言葉にならないぐらい、おふくろの死を悲しんでくれてるんだな。俺と同じぐらい――おふくろを愛してるんだもんな……。
 二人で無我夢中になって食べ進めるから、弁当はあっという間に空っぽになってしまった。
 これでもう――二度と、おふくろの飯は口に出来ないのか。
 俺をここまで育ててくれたおふくろの飯を――もう、二度と……。
「――なぁ、壁当て、しないか? 外の塀で、久しぶりにさ」
「でも、近所迷惑……」
「……今日ぐらい、許してくれるだろ。それに野球屋敷、なんだからさ。周辺のみんなも、理解してくれるって」
「武尊のケガとか、腕……」
「そんなの、今は感じない。痛みも、疲労だって。だから……頼むよ」
「……分かった。夜も遅いから、近所迷惑で、怒られるまでだよ? 足首が痛かったら、すぐに言うんだよ?」
「分かってる」
 俺は自分の部屋から、軟式ボールを引っ張り出して外に出る。
 桜は、マネージャーとして試合観戦に行く時も、自分のグローブを持ってきているらしい。エナメル鞄の中からグラブを取り、一緒に外へと出た。
「……田舎の星は、綺麗だよな。きっと良い気持ちで旅立てる空、なんだろうな」
 燦然と輝く星空の下、玄関を閉めて道路へ歩く。夏の夜は、過ごしやすく心地良くて――大好きだ。散歩もしやすいし、おふくろが旅立つにも絶好だろう。
 桜の返事は返って来ない。
 仕方なく、俺は塀に向かってボールを投げる。
 バンッバンッと、野球屋敷に新たなボールの跡が刻まれていく。
 おふくろが自慢したいと言っていた――壁当ての跡が、増えていく。
 なんだかんだ言いながらも、お袋は俺が――いや、俺たちが野球をやってるのを見るのが大好きだったからな。
 星月の光が照らし見る夜の街道で、俺たちは互いに白球を追いながらステップを踏む。
 桜と俺の息のあった壁当ては、まるで荒々しいダンスを舞っているようだ。
 スタンドの人々のように、夜空に瞬く星々の中で――見ているか……おふくろ。
 心悲しい経文じゃ、おふくろが安心して成仏するには、物足りないだろ? 
 野球バカの俺たちじゃ、洒落たレクイエムも奏でられないから……さ。
 おふくろが自慢しようとしてた――壁から跳ね返るボールの音、ボール処理の為にステップを踏む音。
 これこそが、おふくろの子供たち――俺たちなりの、葬送曲だよ。
 満足、してくれるかな。安心して空の彼方に旅立てるかな。あの世で話す、自慢の種になれるかな。
 届いてるのかな、おふくろがいる、あの世にまで……。
 桜にバレてないかな、今――俺が泣いているのが。
 横で跳ね返ってきたボールを処理するのに忙しい今なら、顔を見られないよな。
 もう――泣いて良いよな。壁当ての間ぐらい、泣いてもバレないし……余計な心配をかけないよな?
 おふくろ――本当に、ごめん。
 自慢の息子って言うには、情けなさ過ぎて……。
 本当に、ごめんな。
 親孝行一つ出来なかった、愚息でごめんな……。
 俺、おふくろが自慢できるような息子になるから。
 テレビでインタビューされるような……。俺と桜が憧れた大選手みたいに、偉業を成すスターになるから。
 だからさ……。ちゃんと、見守っていてくれよな――。
 朝焼けでお互いの顔がハッキリ見えるようになるまで、俺たちは壁当てを続けた。
 おふくろがいれば、絶対に直ぐにでも止められたのにな。やっぱり、おふくろはもう、本当にいないんだな。……いや、分かっていた。理性では、分かっていたんだけどな。
 結局、夜通しボールが壁に当たる音がしているのに、誰にも注意されて止められなかった。
 田舎の情報は早いからな。おふくろが亡くなったという事情を、近隣に住む人たちも汲んでくれたんだろうか。
 朝陽に照らされた桜の顔は――泣きすぎて、目が真っ赤に腫れていた。
 多分俺も、似たような顔だったんだと思う――。