序文

 夏の全国甲子園大会予選、埼玉県大会の決勝へと向かう前のバス。
 OB会の差し入れという名の、強制配布の弁当を取ろうと段ボール箱の中へ手を伸ばす。
「……意地でも差し入れを断る勇気が俺にあれば、こんな後悔はしなかったのかな」
 誰に話しかけるでもない。
 俺は自嘲気味にそう呟いた。
 去年の夏を、それ以降の激動の日々を思い出す。
 自分の半身、彼女も去った。
 大きな家で独りぼっちになったのは、自分の弁当を差し置いて……。
 いや、言い訳はやめよう。
 失った大切なものは、もう帰ってこない。
 今は前を向いて投げ抜き、約束を果たすことに全てを注ぐしかないんだ。
 俺は苦い思いを噛み締め、弁当箱を手に取る――。
 

一章

「ノック始めるぞ! 守備位置につけ!」
「「「しゃす!」」」
 監督の指示に、俺たち秩父市立秩父高校――通称、市立秩父の野球部員は、一斉にグラウンドへと走る。
 野球部特有の、なんと言っているのか分からない声で気合いを入れながら。
 ノック――守備練習をする為に。
 それぞれがダッシュで守備位置へとついた。
 全員、準備オッケーだな。――よし、始めるか!
 ピッチャーマウンドに立つ俺は、ホームベース横でバットを握る監督に向かい投球動作をする。
「サード!」
 それに合わせて監督は、三塁に向かって鋭いゴロ――転がるような球を打つ。
 三塁手はクラブでボールを捌くと、強肩を活かしてファースト――一塁手へ投げる。ノーバウンドで、綺麗にファーストのグラブへとボールが収まる。よし、ちゃんと片脚はベースに触れている。これが本番なら、内野ゴロでワンアウトだ。
「――今やっているのは、ノックっている守備練習。野球はベンチにいる選手を除くと、九人対九人で戦うの。攻撃と守備に分かれて、三つアウトを取れば攻守交代。点差が付きすぎて、途中で終わりのコールドゲームを除けば、九回攻守が切り替わる。先行、後攻の順でね。ピッチャーがストライクを三つ取るか、守備でランナーが次の塁に到達する前に捌ければアウト。逆にピッチャーが四つボールを出したり、相手に当てると、四死球って言って塁に出させることになる。四死球は市立秩父のエース、大滝武尊の得意技だ! ここまでは平気?」
「は、はい。和泉先輩のご指導が上手いので、なんとか!」
 ユニフォームを着た桜が、季節外れに入ってきた男性新人マネージャーの堀切へ楽しそうに指導している声が聞こえる。堀切は眼鏡クイクイとさせて位置を整えながら、必死にメモを取っている。
「攻撃側は一塁から逆時計回りにランナーをホームベースまで進めれば得点。一人ランナーを返す毎に一点なの。打順は一番から順に九番まで行ったら、また一番に戻る。この中で最もホームラン――一打で、自分を含めた全ランナーを返す役割を期待されているのが、大砲と呼ばれる四番打者。警戒されて、敬遠――わざと四球を出されやすくもなるの。市立秩父の四番みたいにね! つまりピッチャーが完璧に抑えれば、一点も取られないから負けはない。敬遠されるようなボール球でも、四番がホームランを打てば勝てる! ここまでは理解できた?」
「だ、大丈夫です!」
「野球はピッチャーとキャッチャーが繰り広げる阿吽の呼吸で、打者に打たれないことが重要なの。この二つのポジションを合わせて、バッテリーって呼ばれる。電池とかじゃなくて、アクセントは砲兵って意味の方ね」
「な、成る程。キャノン砲のような球を投げる投手と、それを指示する人でバッテリーと覚えておきます」
「キャノン砲! いいね、その表現! やっぱり、ピッチャーは風を切り裂き呻る剛球で抑えてこそ――」
 基本的なルールさえ知らない状態で、堀切は良くマネージャーになろうと思ってくれたな。……いや、堀切もそこで躊躇ったからこそ、甲子園予選前の夏になってから入部したんだろうな。
 それにしてもピッチャーが完璧に抑えればとか、俺の得意技が四死球だとか。四番がフォアボールを受け入れず、ホームランを打てばとか言ってるのは、俺への皮肉か? それとも、女性だからという理由だけで、高校野球の公式戦に出られない無念さの八つ当たりか?……どっちもありそうだ。
 桜は、中学野球まで俺とずっとマウンドを奪い合っていたからな。女性というだけで、もう真剣勝負の舞台に立てないことが未だに無念なのは、マネージャーなのに練習用のユニフォームを着ていることからも理解できる。普通は堀切のようにジャージとかを着る。練習ユニフォームだって、高価だというのに無理して……。本人は絶対に無念だなんて口にしないけど。桜の野球好きは、常軌を逸しているレベルだからな。だから初心者の堀切にだってイヤな顔一つせず、一から野球のルールを教えているんだ。むしろ、キラキラと眩しい笑顔を浮かべながら、何度でも繰り返し説明している。
 そんな桜が――俺は大好きだ。
 中学校二年生から正式に付き合い出して、三年経った今でも、変わらず好きだ。
「大滝! マウンドで気を抜くな!」
「はい、すいません!」
 桜の方を見ていたのが監督にバレていたようだ。
 監督はバットを横に構え、ボールを転がす方法で俺を走らせる。ファールという、プレー続行とならないギリギリのラインにバントで転がしてきた。実際に試合でやられたら、イヤな打球だ。ランナーを次の塁に進めるだけでなく、バントしたバッター自身も一塁へ間に合おうという意図の打球。
「よし。良い反応だ、大滝!」
 素早くマウンドからダッシュして、一塁まで送球することが出来た。……実際の試合では、この全力ダッシュで疲れたすぐ後に投手としてピッチングをしなければいけないのだから、たまったもんじゃない。
「武尊、その程度で疲れた顔してんな! さっさとマウンドに戻れ!」
「……はい!」
 桜が俺に発破をかけてきた。ジョギングペースで戻っていたのを、全力ダッシュに切り替える。……堀切に説明していた時といい、やっぱり俺に厳しくないか?
「武尊、次の投球動作!」
 監督の横に立つ、キャッチャーの大和が次の指示を出す。くっ……。控え投手の後輩、三国が今はピッチング練習中でノックに参加していないから、俺への負担が大きい!
 その後も次々にノックは進んでいき、守備の連携も確認が出来た所で、ノッカーが変わった。それまで堀切に説明していた桜が、監督からバットを受けとる。
 俺が投球動作をすると――。
「キャッチャー!」
 見事にキャッチャーフライ――球をホームベース上、空高く打ち上げた。このフライを、地面に落とすことなくキャッチすればアウトだ。
「十文字、ナイスキャッチ!」
 俺の少年野球時代からの女房役――高校でも変わらずバッテリーを組んでくれている大和が、安定してキャッチした所でノックは終了した。
 それにしても……桜はノッカーとしても本当に上手いよな。キャッチャーフライを狙って打つのは、本当に技術がいる。普段は定年間近の体育教師でしかない監督だ。打つ前から無理だと諦める気持ちも分かる。甲子園常連の名門監督や外部コーチという訳でもない、普段は一教師なんだから、野球技術が職業監督やコーチよりも足りなくて当然だ。
「次、バッティング練習行くぞ! マシン出せ! ベンチ入りの三年から始める、それ以外は守備位置に残れ!」
 監督の指示で、ベンチ入りメンバー外の一年生が、急ぎバッティングマシーンを取りに行く。
 俺も普段やっているピッチャーのポジションから、サブで使われるライトへと向かった。
 駆け足でピッチングマシーンを運んできた一年生が、何やらピッチャーマウンド上で慌てている。
「監督! ピッチングマシーンが動きません!」
 どうやら、故障したようだ。
 元々、うちの高校に一台しかないピッチングマシーンをずっと酷使してきたからな……。随分と古いようだったし、禄にメンテナンスへ出す時間もなかった。それは壊れもするだろう。
 お金がなく、設備も私立ほど整っていない公立高校の辛い所だ……。予想外の事態に、監督も悩んでるな。
「――監督、私が投げます」
 桜が名乗りを上げた。バッティング投手を、桜がやるのか……。でも、それはちょっと……。
「和泉、行けるのか? ベンチ入りメンバーだけで、二〇人いるんだぞ。無理しなくても、実践形式のバッティングはこの後、大滝と三国にやらせるが――」
「――ずっと全力で投げる訳じゃないですから、身体は大丈夫です。それに、マシンが投げる球より、人が投げる生きた球の方が練習になりますので」
 桜はすっかりその気になっていて、引く気がない。普段、試合に出られない桜からすると、久しぶりの対戦形式で投げる機会だ。対戦に飢えてる桜は、絶対にマウンドを譲らないだろうな……。
「……分かった。痛みが出る前に、疲れたら即マウンドを降りろよ?」
「はい!」
「よし、聞いての通りだ! お前ら、全力で和泉の気持ちに応えろ!」
「「「」はい!」」」
 監督にわざわざ全力でやれと言われずとも、三年生や俺たちは理解している。
 桜相手に全力で行かなければ、出塁出来るようなヒット性の打球は、一球も打てない。
 ホームベースを囲うように、でかでかとしたバッティングケージも運ばれてきた。インプレーにならないファールの打球が、あっちこっちに飛ばないよう設置される。
 キャッチャーの大和がケージ内に座り、ミットを構える。桜が一〇球ほど投球練習をして肩を作ったのを見てから、三年生が打席に立った。
 左投げの桜がどんな表情をしているのか、ライトで構える俺は良く見える。――人は、こんなにも楽しそうな顔が出来るのか。玩具を与えられた子供より更に、無邪気で眩い輝きを放っている。
 投球モーションに入れば――ああ、本当に綺麗なフォームだ。
 俺が見とれていると、先輩のバットが空を切る。手玉に取られたのか、桜の投げた変化球にタイミングが全く合っていない。
「へいへい! バッチ来い!」
「しっかり球を見ろ!」
 声を出さなければ、やる気がないと見られる。守備についていた野球部員たちが一斉に野次や檄を飛ばす。でも、みんな分かっている。自分の打順が来たら――同じように空振りする羽目になると。
 打席で悔しそうにしている先輩も、バットを短くコンパクトに持ちかえた。そうすることで長打は期待薄になるが、その分スイングスピードが早くなる為、バットに当たりやすくはなる。
 マウンドに立つ桜は振りかぶらず、セットポジションから流麗な動作で次の球を投げる。スッと、先輩の振ったバットから逃げるように球が落ちた。あの速さから、消えるように落ちていく球は……スプリットか。
「和泉……。気持ちよく投げているところ悪いが、バッティング練習だ。バッターも気持ちよく打てる程度に頼む」
「はい! すいません! 次、チェンジアップ行きます」
 今度は何を投げるか、ちゃんと予告して投げた。打撃練習だからな、打てないからと必死になって、フォームを崩しても仕方ない。
 ストレートの軌道で、見事に途中からブレーキがかかるチェンジアップだ。しかし、先輩もグッとフォームを崩さずに耐え、今度は前に飛ばす。引っ張った打球が三塁手――サードの正面に転がる。
「次、ツーシーム行きます!」
 同じくストレートの軌道から、シュート――投げた腕の方向へ僅かに沈みながら曲がる。手元でクッと変化するその球に、先輩の打球も詰まった当たりになる。ボテボテのゴロだ。
「次、カーブ行きます!」
 今度は、投げた腕と逆方向へ大きく曲がる球だ。しかも、桜のカーブは途中からグッとブレーキがかかって大きく曲がるから、たちが悪い。合わせに行った打球が、振り遅れて二塁手――セカンドの正面に転がる。
「次、スイーパー行きます」
 籠から球を取り、そう宣言した桜が、一瞬俺の方を見た。
「……畜生」
 もう、小学生からの付き合いだ。一瞬、目を見ただけでも理解できる。――よく見てろよ。そう行っている目だった。
「まぁ……しっかり勉強させてもらうけどさ」
 桜は――俺の師匠とも言える。俺たちは、少年野球の頃からずっと競ってきた。投手としても、打者としても。
 筋力で男の俺に劣る桜は、理想的なフォームを磨き、技巧を高めることで差を埋めようとしてきた。惚れ惚れするそのフォームは、俺のものと酷似している。左投げ右打ちの桜に対して、俺は右投げ左打ちだから――隣で練習をすると、いつも鏡のようだった。まぁ……俺より桜のフォームが無駄がなくて、遙かに安定しているんだけど。
 美しく流れるようなフォームから投じられた球は――速い速度のまま、ホームベース手前でフリスビーのように、大きく利き腕と反対方向へクッと曲がる。
 短く持っていた先輩のバットは、球に届かず空を切った。
「……本当、お手本だよ。俺よりも遙かに、良い変化球だ。しかもどの球を投げてもフォームが全く同じだから、、打者からすると何が投げられるか判別出来ない。……畜生。悔しいな……」
 何も、桜にフォームの安定感やボールのコントロール、変化球の鋭さで負けたことだけじゃない。俺が悔しいのは――女性というだけで、公式戦のマウンドに上がれない、マネージャーとしてベンチにいることしか出来ない現行規則への不満も含めてだ。
「また、マウンドを競って勝負したかったよ、俺は……」
 言っても仕方ないが、思わずワクワクしてしまう。そうなったら、どれだけ良いかと。中学野球の時から、俺がエースナンバーを背負ってきた。でも、それは俺の身長が伸びて、球速が大きく勝っているからだ。
 他は、投手として何一つ勝っていない。
 打者としても、打率だけなら桜の方が上だった。二塁打以上の長打は、俺が大きく勝っていたけど……。つまりは、俺はまだ筋力でなんとかしているだけの荒削りの未完成品。桜のように芸術的なまでの技巧を凝らしていない、未熟な選手だ。
「それでも、お互いあの人にはまだ、届かないからな……」
 俺と桜のピッチングフォームとバッティングフォームが同じなのは、偶然じゃない。
 ずっとテレビ中継や録画で見てきた――打って投げて走れる。世界一の二刀流選手に、二人して強く憧れたからだ。野球の本場、アメリカで大活躍するあの人だ。
 打席に入っていく先輩たちを、次々と緩急で抑えていく桜。勿論、抑えてばかりではない。スタメンクラスには、しっかりヒット性の当たりを打たれる時もあったけど……。それは三打席に一度ぐらい。十分、高校野球で通じるレベルだ。それも、今は本気で勝負に徹して投げている訳じゃないんだからビックリだ。
「――夏の大甲子園、満員のスタンド。自分たちの名前を叫んで応援する同級生に、汗を流しながらも必死に奏でられるブラスバンド。その熱い気持ちに応えるように――球速一六〇キロメートルを投げて、甲子園球場を湧かせる……。それが、俺たちの夢だったはずなのに……」
 悔しくてたまらない。女性というだけで、桜はその夢を――俺に託さざるを得なかった。本人は納得しているらしいが、本音では自分もその舞台に立ちたかったはずなんだ。
 だって、あんなにも楽しそうに投げるヤツが――野球が好きで好きで仕方ないヤツが、簡単に裏方へ回る決断が出来る訳ないんだから。そうじゃなければ、筋力で劣るのに高校野球のベンチ入りメンバーを抑えられるまでにはなれない。
「――ライト!」
 ギンと詰まった打球が、ファーストの頭を越えて飛んでくる。
 俺はフラフラと上がっている打球を目がけ全力疾走し――。
「ナイス根性!」
「ナイスキャッチ!」
 頭からスライディングして、何とかグラブが届いた。泥だらけのユニフォームのまま立ち上がり、直ぐ様ボールを返球する。
 芝生の生えた練習場なんて有る訳もなく、見事に顔まで泥だらけだ。
 端から見たら、小汚く見えるんだろうな。ぺっぺっと口に入った砂を吐きながら思う。――滲み出る汗に、こびり付いた泥。凄く、良いじゃないか。それでこそ、野球に熱中して努力する球児の証だ。端から見たら小汚くても、俺たちからすれば、キラキラした青春の勲章だよ。
 チラッと桜を見ると、「それでケガしたら許さないからね」と、目で語りかけていた。
 桜は厳しいな。ダイブして全力で捕らなかったら、それはそれで怒られる。かといってケガしやすいダイビングキャッチをすると、ピッチングに差し支えが出るかもしれないだろと怒られる。
 でも、それだけ俺のピッチング能力に期待してくれているということだ。
 あれだけのピッチャーにそう期待されるのは、素直に嬉しい。同時に、もうマウンドを競い合えないのが、悔しい――。
「――大滝、ネクストに入れ! ボサッとしてんじゃねぇ!」
「すいません!」
 歯ぎしりして悔しさを堪えてたら、いつの間にか次の次が俺の打順になっていた。
 ダッシュでバットに持ち替え、ヘルメットを被る。
 バッティングゲージの横に立つと、桜が睨んでいる気がした。
 目だけで語り合えるって程じゃないけど……野球をしているのに気を逸らすなと怒られている気がする。
 投げる球種を告げた桜は、打席に立つ寺尾キャプテンに球を投げる。
 ギンっと詰まった当たりの打球が、バッティングケージに突き刺さる。タイミングがずれ、体勢を崩されながらもしっかりファールにして粘る辺り、寺尾キャブテンはさすがだ。
 徐々にタイミングを掴んだのか、寺尾キャプテンは打ち損じこそあれど、二打席に一度は良い当たりを放った――。
「よし、次!」
 監督の指示で、打席に立つのが寺尾キャプテンから俺に代わる。
「お願いします!」
 俺は左打席へと入り、構える。
 桜と睨み合うようにして、待つ。
 投げる球は、宣言しないようだ。……桜に普段から世話になっているとは言え、市立秩父の監督は、桜の自由にやらせすぎだろ。
 俺と、全力で勝負するってことか。チラッとキャッチャーの大和を見ると、こちらも真剣な顔。サインまで送ってる様相だ。――真剣勝負、上等だよ。
 ムチのようにしなった桜の左手から、球が放たれる。
「――シッ」
 内角――自分の身体へ当たるような軌道から、ストライクゾーンへと曲がっていくスイーパーを、しっかりとらえた。
 打球は、ライト前に飛んでいる。しっかり、ライト前ヒットだ。
「……なんだ、その顔は」
 マウンドから俺を睨む桜の眼光が、より鋭さを増した。打たれた悔しさか? いや、それもあるんだろうけど――。
「お前のバッティングに不満なんだろ」
「大和、お前もそう思うか?」
「ああ。俺にはこう聞こえるよ。――私たちの夢を託したんだから、あれぐらいホームランにしてみせろってな」
「……だよな」
 そうか。大和は、俺だけじゃなくて桜と小学校の頃からバッテリーを組んでるもんな。それぐらい、目で分かるか。
 なら、次の球は――。
「シッ!」
 同じ球だ。
 キィンと、耳を劈くような金属バットの音が響く。
 バットを伝う手の感触からも分かる。これは間違いなく――ホームランだ。
 ライトの後方、遙か上のネットに打球は突き刺さっていく。
「おいおい……。ちゃんと打ってみろって同じ球を投げた癖に……その目はなんだよ」
「それはそれ、これはこれなんだろ」
 マウンド上の桜は、しばらく打球の行方を見送った後――唇を噛んで俺を睨んできた。もはや、練習ということを忘れてないか?
「負けん気が強いなぁ……。相変わらず」
「じゃなきゃ、中三の夏まで武尊とエースの座を巡って張り合おうとは思わんだろうよ。あの負けん気――勝ち気も、投手として桜ちゃんが武尊に勝ってる部分だ」
「……違いない」
 その後も、俺は全力で投げてくる桜の球に――全力で応えた。
 見事な緩急にやられ、打ち損じることもあった。しかし、二〇スイングで七本の柵越え――ホームランと、かなり好調だ。
「素晴らしい」
「これは十年に一人の逸材だ。投手だけでなく、打者としても超一級品だな」
「ノーステップの打ち方であれだけ飛ばせるとは……。木製バットのプロでも、通用するだろう」
 学校側の許可を得て見学に来ているプロ球団からのスカウトが話す声が、少しむず痒い。
 褒められているのは嬉しいけど、どう反応していいのか分からない。それに――もっと見るべき洗練された選手が、マウンド上に立っているだろう……。
 俺は自分の打席を終えると、早々に守備位置へと戻った――。
「――よし、ネットはそのままに十分休憩。しっかり水分を摂れ!」
「「「はい!」」」
 もはや異国語なんじゃないかというぐらい、野球部特有で聞き取りにくい返事だ。実際、言ってる側の俺としても「はい!」というよりは、「やぁい!」と言っている方が近いんじゃないかと思う。
 それでも、より大きな声を出して雰囲気を盛り上げるのが大切だ。
 水分摂取休憩をもらった俺は、ダッシュでベンチへと戻り、水筒の水を呷る。
「大滝、お前はスゲぇな」
「寺尾キャプテン。何が、ですか?」
「いや……さっきの、和泉から打ってたバッティングだよ。ノーステップなのに、なんであんなにボールが飛ぶんだ?」
「あ~、キャプテン。それはこいつらの憧れが、別次元だからですよ」
 寺尾キャプテンと話しているところに、大和が入りこんできた。
「十文字……。そうか、たしか前にも聞いたな。二刀流のあの人だったか。……たしかに、な。プロの世界でも別次元の人を目標にしていれば、高校野球で別次元にもなる、か。少年野球ならともかく、今じゃ畏れ多くて……俺たちじゃ、目指してる人だなんて言えねぇよ。憧れの遙か先の存在だ」
 どこか遠い目をして、寺尾キャブテンは微笑んだ。
「なあ、大滝。お前はメジャーに行くのか?」
「プロ野球とか……ましてやアメリカのメジャーリーグとか、まだ考えていないですよ。高校二年の、夏の甲子園予選だってまだ始まっていないのに」
「こんだけ毎日のように、プロの球団のスカウトが調査に来てるのにか?」
「はい。野球をしてお金を稼ぐって、いまいち想像が付かないんですよ。今と同じ事をしているのに、お金はもらえるってことが。それに――俺たちの夢は、プロとは別のところにありますので」
「大滝と、和泉の夢か……。そりゃ、絶対に叶えないとだな。女子野球を捨ててまで、お前に夢を託してるんだもんな」
 そう、桜は同じ年代の男子を抑えられるだけの投球能力、更に打者としても見事な能力を持っている。――それにも関わらず、選手としての道を選ばなかった。
 俺たちの夢、満員の甲子園で球速一六〇キロメートルを投げ、沸かせるということに固執し、体格に恵まれた俺に夢を託してきた。……信じられないぐらい野球が好きなのに、マネージャーの道を選択するって、どれだけ覚悟がいることだったんだろう。
「――はい、絶対に叶えます。俺たちの夢を」
「そうか。……しんどいな、二人分の夢を背負って、孤独なマウンドに立つってのも。――いや、怪物のお前なら、当たり前か」
「そうっすよ、キャプテン。武尊には、普段からもっと重荷を背負わせてくべきです。試合でピンチだろうとビビらない、バッターの胸元を抉る球を投げるような、不貞不貞しい根性と我が儘さをつけてもらわないとです」
「おい、大和。誰がビビりだ。まぁ、たしかに……。強心臓とは言わないけどさ」
「十分、心臓は強く見えるけどな。和泉が投げてて、よくフルスイング出来るよな。打球が当たったら、とか思わないのか? いや……和泉にタイミングを外されまくってた俺が言うのも難だが」
「そんな気遣いで手加減なんかしたら、嫌われますから。――むしろ、どんな球を投げられようと、スタンドに放り込んでやるって気持ちでしたよ」
 桜に嫌われるなんて、考えたくはない。それに、野球を舐めるようなこともしたくない。
 俺にとって、野球と桜は天秤にかけられないぐらい、どっちも大切なものだから。
 常に本気で、真摯に向き合いたいんだ。
「うちのエースにして四番は、心強いな」
 帽子を被り直しながら、キャプテンが小さく呟く。
「大滝に、十文字。そして和泉。……市立秩父は、四回戦まで勝ち上がれば大騒ぎだったのに――お前らが来て、ガラッと変わっちまったよ」
 寺尾キャブテンは、帽子のツバを掴んで、目元を隠す。少しトーンダウンした声音は、哀愁を感じさせる。
「名門校の打球は早すぎて反応出来ないし、相手投手が投げる球も異次元ばっかりだ。俺たち三年は、守備でも攻撃でも、お前らに迷惑をかけてばかりだ」
「キャプテン、そんなことないっすよ! 謙遜しないでください!」
「いいんだ、十文字。自分たちでも、よく分かっているんだ。去年――夏の甲子園予選、準決勝まで進んだお前らの活躍を見て、今年入ってきた一年はどれも粒ぞろいだ。……もう、俺ら三年よりも上手いヤツが多いって、みんな分かってるんだよ」
「……寺尾キャプテン」
「市内外のシニアリーグで名前が売れてるヤツが、わざわざ市立秩父に入学するなんて、これまでは考えられなかったかんな。――きっと、あいつら一年も……大滝に夢を見たんだよ」
「俺に夢を、ですか?」
「ああ。大滝となら、甲子園を目指せるかもしれないって、夢をな。わざわざ辺鄙な場所にあるウチに入学した一年も――俺たち、三年もな」
 そう笑うキャプテンの目は、力強かった。少し悲しげだった言葉も、開き直ったかのようにトーンが強くなってきている。
「どうせ二人分の夢を背負ってるんだ。市立秩父の野球部と、応援するヤツ全員の夢も、ついでに背負ってくれよ」
 ポンと、グラブをはめた手で俺の胸を叩いてくる。
 どう考えても、ついでなんて数じゃないけど……。やることは同じだ。
 夏の大甲子園、満員のスタンド。自分たちの名前を叫んで応援する人たちに、汗を流しながらも必死に奏でられるブラスバンド。その熱い気持ちに感謝し、応えるように――球速一六〇キロメートルを投げ、甲子園球場を熱狂の渦で湧かせる。
 その夢を叶えれば――自ずとみんなの夢も叶っている。
「はい! 全力をつくします!」
 俺の返事を聞いた寺尾キャプテンは、満足気に笑いながら三年生の輪に入っていった。
「……武尊。力み過ぎんなよ? お前のピッチングは、メンタルに左右されやすいかんな」
 大和が心配そうに言う。俺はそんなに、感情が表情へ出やすいのか?
「分かってる。……ただ、少しマウンドで踏ん張る理由が増えただけだ」
「そっか、それなら良いんだけどよ。武尊は、変なところで弱みを見せない頑固野郎だかんな」
「酷い言い様だな。文句なら、頑固の師匠に――」
「――武尊! なんだ、さっきのバッティングは!」
 師匠が、道具の手入れを終えて戻ってきた。俺の頑固さも、師匠――桜に比べれば可愛いものだと思う。
 大和の顔を見ると、やれやれとばかりに苦笑している。……まぁ、いつものことだよな。
「身体に当たるとこから内角ギリギリをつく変化球にビビって、フォームが崩れてる! 外角は腕が長いから多少ボールでも届くから良いけど、内角を打つ時、腕を畳むのに苦手意識を持ってるのもバレバレ! そんなんじゃ、まともなストライクを投げてもらえないで、ぶつけられるよ!? 少なくとも私なら、一球ぶつけて、本気で怖がらせてから内角で勝負する!」
「おいおい……。凄いこと言うなぁ」
 わざとぶつけるって宣言しているようなもんだ。勿論、勝負だから、そういう手もあるけど……。それは、暗黙の了解だろう。野球は勝負の前に、スポーツだからな。口にしたら色んな人に怒られるってのに。桜は、怖い物なしか?
「あと、遅い変化球を待つ時にまだ身体の軸がぶれてる! インナーマッスルの筋力が足りてないのかもしれないけど、膝が先に動いてる! 身体全体を使ったスイングじゃなくて、手で打ちに行ってるよ! ボールを手で迎えに行かない!」
「え、本当か?……こうか?」
 俺は試しに、グッと耐えてからスイングする動作を見せる。
「そう! さっきはそれが出来ずに、腰と膝が先に回ってたの。こういう風に!」
 桜が俺の膝や腰――殿部を触りながらフォームを教えてくれる。
 周囲の部員から、良いなぁとでも言うような、羨望の眼差しが集まってる……。桜は、かなりモテるからな。身長こそ一六〇センチメートルないぐらいだけど、整った顔立ちに爽やかなショートカットは、快活で魅力的な印象を与える。何より、ぱっちりした目と高い鼻だろうな。可愛いと綺麗を兼ね備えてるというか、表情次第で可愛くもなり、綺麗にもなり――。
「コラ、聞いてるの!? 左肘と軸足の膝が連動するように、普段から意識して練習しないと! 私より緩急を使いこなすピッチャーに抑えられるよ!? それで良いのか、良い訳がない、でしょ!?」
 ――今みたいに、格好良くもなる。
「返事!」
「はい、すいません」
「桜ちゃん。夫婦漫才してるところ悪いんだけどさ……みんな注目してるから、後にしようぜ?」
「え?――ぁ」
 大和の言葉に、桜が周囲を見渡し――固まった。
 やっと自分がどれだけ大きな声で話していたか、視線を集めていたのか気が付いたらしい。野球のことになると、全然周りが見えなくなるよなぁ……。
「す、すいません、すいません! つい熱くなっちゃって!」
 まぁ好きなことに集中していると、周りが見えなくなるもんだ。桜といたり、野球をしている時は俺も、たまにそうなる。
 中二の時、学校からの帰り道で公園に寄って……桜に告白した時は、俺も必死過ぎて周りが見えなかった。分かりやすくオドオドしてた、不審者みたいだったって、桜に後からバカにされたけど……。
 あの時は、目の前の桜に全神経を集中して、周りとか見えてなかったからな。多分、後ろから本物の不審者に刺されても、痛みに気が付かなかったと思う。それぐらい、一点集中してた。……まぁ、あくまで例えだから。本当にやられたら痛みで泣き叫ぶ自信があるけど。
「――よし、対戦形式の練習に入る! スタメン意外は守備につけ! 大滝、三国! 一人、六〇球までだ。いいな!」
「「はい!」」
 監督の指示に、俺と一年のピッチャー、三国が返事をする。三年生のピッチャーもいるが、肩を痛めていることもあり、この練習では投げさせないらしい。
 この練習は、本番を想定しているからな。ある意味、勝負だ。ピッチャーは、打たれたくない。バッターも、抑えられたくない。投げる球を予告することなく、ストライクやボール球も織り交ぜて、全力で挑む。
 俺は調子にムラがあると言われているが――俺たちの夢、夏の甲子園に行くためにも再度、気を引き締めていこう。
 調子が悪く今日は乱調だなんて、トーナメント方式の大会で言ってられない。負けたら、そこで終わりなんだ。キツい練習をしてきた成果も、本当はもっとやれるなんて言い訳も何も通じない。過密日程を油断なく投げ抜く。今みたいに、スタミナ満点の恵まれた状態で投げられると思うな。それぐらい、打者のギリギリを攻める気持ちで行こう――。
 大和に始まり、俺を除くベンチ入り一九人と対戦が終了した。ここまで投げた投球数は五七球。制球が定まらない時はあったけど、奪三振は一三。ヒット性の当たりはなし。ほぼパーフェクトとも言えるピッチングだった。
 かなり複雑な気分だ。パーフェクトに抑えられたのは嬉しいけど……。未完成の俺なんかに、完璧に抑えられてしまった味方打線は、言い方は悪いけど、少し頼りない。果たして、強豪との試合で、打線に援護してもらえるだろうか……。連戦が続いたら時、強豪校を相手に無失点に抑えられる自信は、俺にはない。
「残り三球か……。大滝、ここで降りても良いが、誰か対戦したい相手はいるか?」
 もう一人誰かと真剣勝負というには、三球という制限は中途半端だ。
 野球はストライク、ボールのフルカウントで五球。ファールで粘られれば、際限なしに投げなければいけない。三球では、駆け引きも禄に出来ないからだ。
 それでも誰か対戦したい相手がいるかと聞かれれば――いる。
「誰でも良いのですか?」
「……好きにしろ」
 監督も、俺の言葉の意図を読み取ったんだろう。苦笑しながら答えた。この融通が利く感じ。やはり、職業としての監督というより、野球好きな教師という側面が強い故だろうな。
「では、さく――和泉。お願い出来るか?」
 一瞬、グラウンドがザワつく。
 堀切にマネージャーとしての仕事を教えていた桜も、指名されてこちらへ視線を向け――その瞳を燃やし始めた。優しいマネージャーから、勝負に出る選手へスイッチが切り替わったらしい。
「はい! お願いします!」
 先輩たち――野球部一同も、マネージャーとしての仕事を真剣にこなしながらも、誰より野球が好きな桜の実力を認めているんだろう。
 公式戦に出られないやつに、実戦形式の練習をさせるな。
 そんな声は上がらない。
 颯爽と右打席に入り、構える桜。
 大和の指示するサインに、俺は首を振る。
 一瞬、目が開いて驚いたが――俺の投げたい球が分かったようだ。
 次のサイン――ストレートに、俺は頷く。
 そうだよ……。桜は、俺のストレートに負けを認めて、夢を託すって言ってくれたんだ。なら、安心させてやらなきゃだろ?
 俺は振りかぶって――ど真ん中に全力のストレートを投げる。
 桜は――バットを振ってきた。
 ビュンッっと、鋭く空を切る音が聞こえる。振り遅れ、ボールの一個半ほど下を振ったな。まず初球、俺のワンストライクだ。あと、ストライク二つ――三振に取ってみせる。
 ある意味、これは桜への挑戦状だ。
 初球から、一番打ちやすい――ど真ん中にストレート。
 俺のストレートを、打って見せろと。
「凄い、一五四キロメートルだ!」
「速いだけじゃない、あの一九〇センチメートルを超える長身からの球だ。角度もあるぞ」
「まだ身体のラインは細いが、これで筋力が伴えば……もっと重い球も投げられそうだ」
 スカウトの声に、一瞬反応する。
 一五四か……。まだ、桜との夢を叶えるには、あと六キロメートル足りない。
 それも、連戦を乗り越えていった夏の甲子園で、となると……。元気な状態の今なら、当然のように一六〇キロメートルを投げられなければならない!
 二球目、大和の要求は――外角低め。バットの届きにくい、イヤな場所だ。
 俺が全力で投じた球は――チッと、桜のバットの先端を掠め、ファールゾーンを転がる。
「おいおい、大滝のストレートに当てたぞ……」
「スゲぇとは思ってたけど……。やっぱ和泉、とんでもねぇな」
 守っている部員たちの響めきが聞こえる。先輩たちですら、ストレートはバットに当てられなかったから当然か。――だが、桜は俺の球が速くなるのを、リアルタイムで追ってきた相手だ。
 当ててくるのは想定内……とまでは言わないけど、あり得るとは思っていた。
 外角低め、ストライクゾーンギリギリを狙ったのに……。俺のコントロールが悪くて、かなり甘くなった。キッチリと大和が構えているところに投げられていれば、空振りに取れていたはずだ。
 コントロールが悪い俺の甘さを反省しつつも――今はある物で勝負するしかない。
 マウンドで神経を研ぎ澄ませ、大和のサインを待つ。
「――なッ」
 思わず、小さく声を出してしまった。
 慌てて、マウンドのプレートから足を外した。
 ふぅと息をつきながら、滑り止めのロージンバックをポンポンと手につける。
 大和のサイン……。正気か? 何かの間違いだろう。少しすっぽ抜ければ……大事故の要求だぞ。そもそも、だ。大和は――捕れるのか? 俺の投げるストレートへの反応に、大和が遅れて来ていること……気が付いているんだぞ。バッターが振ってきた時、一番球が見えにくくなるコースだろう、そこは……。
 気を取り直し、もう一度プレートに足をつけ――大和のサインを待つ。
「――……」
 今度は声を出さなかったが、大和の要求するサインは、間違いじゃなかった。
 球種は良い。ストレートでの力勝負は俺も望んでいる。……問題は、投げるコースだ。
 大和の求めるサインは――内角高め一杯。
 つまり、胸元を攻めろと言うことだ。
 それは、少しコントロールミスすればデッドボール。しかも――顔面に当たるリスクがあるコースだ。
 中学までの軟球ボールでも危ないのに……。鉛の塊、高校の硬式ボールだぞ? 当たれば、陥没骨折は免れない。場合によっては、命だって危ない……。
 冗談じゃないと、俺は首を振る。
「――おいおい……」
 それでも大和は――サインを変えなかった。同じ要求を、もう一度出してきた。
 逃がさない、勝負しろってことか……。公式戦ならともかく、これは練習だぞ?
 顔や頭に当てて、後遺症が残ったら、どうするつもりだ。
 しかも、桜は――女の子だぞ。
 顔に俺のストレートが当たれば、一生跡が残るだろうが。そんなことになったら、どうするつもりだ?
 大和は、揺るがない強い眼差しを俺に向けている。桜も――獲物を見定める鷹のような眼光だ。
 畜生……。俺が、コントロールミスしなければ良いだろうって言うつもりか……。しっかり、ストライクゾーンに投げれば良いだけだろって言いたいのか……。
 分かったよ……。――やってやる。
 サインにこくりと頷いた俺を見て、大和はキャッチャーミットをバンと一度叩く。そして内角高めに構えた。
 ミットだけを見ろ、あそこに投げれば良いんだ。
 それ以外、考えるな!
 ただ――あそこに全力で投げる!
 バンッ――と言う音が、グラウンドに響いた。
 俺が全力で投じたストレートは――大和のキャッチャーミットに収まっていた。
 桜はバットを振り抜いた姿勢で、悔しげに顔を歪めている。
 コースは――高めの、ど真ん中。
「――出た! 一五六キロメートルだ! 凄い、大滝くんの最速記録更新だ!」
「本当か!? これが甲子園で出せれば、遂に歴代二位タイ記録だぞ! まだ高校二年生なのに……」
「オイオイ、野球は球速が速い方が勝ちってスポーツじゃないんだから。落ち着け」
 スピードガンを構えていたスカウトから、驚きの声が聞こえてくる。
 どうやら……俺の最速記録は更新されたらしい。
 でも――こんなに嬉しくない記録更新の瞬間は、ない。
 俺にとっては、逃げた方向へのコントロールミスだったから。
 無意識で当てないように、という気持ちが働いたのかもしれない。
 大和は……いや、桜まで険しい目つきでマウンドの俺を見てくる。
「――よし。次、三国がマウンドに上がれ! 大滝から打席に入れ!」
「はい!」
 マウンドに上がった三国にボールを預け、俺はバットを取りにダッシュでベンチへと戻る。
 ヘルメットを被りながら、打席に入ると――。
「――ビビったな」
「……すまん」
 キャッチャーマスクの下から聞こえてきた大和の言葉に、俺は謝らずにいられない。
「お前は速い球を投げられる、変化球も申し分ない。だけど――ピッチャーとして一番必要なものが足りてねぇな」
「勝ち気――我が儘なぐらいの、だろ」
「そうだ。……武尊、お前は優しすぎる。ピッチャーにとって優しさは、邪魔だ」
「分かってる」
「分かってるなら、いい。直せ」
「そう簡単に、行くかよ……」
「どうしても投げられないなら、自分の意志を貫いて、何回だろうと俺のサインに首を振れば良かったんだ。それすらしねぇ優しさは、負けの原因になんぞ。強豪校の打者なら、ど真ん中高めなんて長打にされる。不貞不貞しく我が儘で、自分の意志を貫きつつも冷静さは失わない。それが良いピッチャーだ」
「…………」
「だから、直せ。もっと勝負に活きるピッチャーらしくな。……野球中は、優しさなんて捨てろ」
 優しすぎるから直せ。
 そんなこと、勝負の世界――それこそ、相手の苦手なところを突いて……。大きな事故に繋がりかねない部分だろうと、気にせず攻めなければいけない競技でなければ、言われない言葉だろう。
 勝つ為に必要な要素だとは、分かってる。……でも、デットボールが当たって相手の苦しむ顔を見たことがあるなら、深層心理で避けてしまうもんだろう……。どうすれば、勝負の鬼になれるって言うんだよ……。
 昔から球が速かったのに、コントロールが悪かった俺は、何度も相手にボールをぶつけてきた。
 少年野球だと、相手の顔にぶつければ大泣きされて……。ベンチで応援していた親から「何かあったらどうするの!?」と責められたり……。しかも俺だけじゃなくて、デットボールと関係がない、おふくろまで責められて各所に頭を下げさせられる。
 俺のせいで相手も傷ついて、大好きなおふくろにまで迷惑をかけるんだぞ?
 そんなの、イヤじゃないか。当てたくないって、みんなで笑える、楽しい野球をしたいって……。幼い頃から心に植え付けられても、仕方がないじゃないか。
 そんな内心のみっともない言い訳を、口には出さない。
 俺は、内心の葛藤をグッと飲み込んで――三国の投げる球を、全力で打ち砕いた。
 
「――突然雨が降るとか、聞いてないよ~」
「秩父は山が多いからな。こういうこともあるよ」
 練習終わり、桜と一緒に自転車を漕いでいると、土砂降りの雨に降られた。秩父は山が多いから、通り雨自体は結構あるけど……。今日はタイミングが悪い。遮るものがない帰り道だったから。自転車を漕いで当たる雨粒は、容赦なく濡れ鼠にしてくる。
 濡れたままの自転車を家の車庫に停め、急いで引き戸をガラガラと開ける。
「ただいま、おふくろ」
「ただ~いま!」
「あらあら、二人ともびちょ濡れじゃない。急いでお風呂沸かすから、早く入りなさい!」
 玄関を開けると、エプロン姿のおふくろが出迎えてくれた。そして大慌てで浴室の方へとまた消えていく。夜勤明けで、家に帰ってきたのは昼頃だろうにな……。介護の仕事も大変だろうに、俺たちの世話までして、公私共に大変だな。感謝しなければ。
「ありがとう、おふくろ。じゃあ、桜が先に風呂入れよ」
「ありがと。おばさんも、お風呂ありがとう!――あ、またあの部屋借りるね! タオルも借りるよ」
 桜は俺と一緒に玄関で靴を脱ぐと、ドタドタと室内に入っていく。タオルの置かれている場所から何から、慣れたものだ。
 おふくろから返事をもらう前に畳まれたタオルを持って行く桜だが、俺たちは微塵も図々しさを感じない。――この家は、桜にとって第二の家も同然だし、俺たちにとっても桜は家族同然だから。
「また?……もう。せめて、そのタオルで拭いてからにしなさいよ!」
「どうせこれから汗掻くんだから、一緒だよ!」
「あ、コラ!」
 浴室の方からおふくろの声が聞こえるが、桜は言うことを効かない。実の子である俺よりも、手のかかる子供みたいだな……。
「……ごめん、おふくろ。そういうことだから」
「もう、仕方ないわね。お風呂が沸いたら、二人ともちゃんと入るのよ!?」
 桜の後に続いて、俺も家の奥へと歩く。
「は~い!」
「分かったって」
「……全く。昔っからこれだから、ご近所さんから野球屋敷って言われるのよ。あぁ、ユニフォームがまた泥だらけ。全く、お風呂場で泥を落とすこっちの身にもなりなさいよね……」
 おふくろの声は、木造立ての家の中でよく響く。
 泥だらけのユニフォームに呆れているようだが、泥で汚さないと「ちゃんと練習してきたんでしょうね?」と文句が口から飛び出す。おふくろからすると、泥だらけのユニフォームは、嬉しい悲鳴って感じなんだろう。
 我が家が周りから野球屋敷と噂されている理由も、良く知っている。
「――さぁ、やるよ!」
「おう!」
 俺と桜は向かい合って――鏡へとシャドーピッチングする。
 俺の直ぐ横には――俺と同じようなフォームの桜がいる。
 投球方向の壁に貼り付けられただけではなく、横にも鏡があるみたいだ。もっとも、こっちの鏡は自分が女性の姿になっているが……。
 俺たち二人は黙々とピッチングフォームを確認し続け――。
「よし、次はバッティングね!」
「ああ!」
 部屋に置いてある、重いマスコットバットをそれぞれ手に持ち、俺たちはバットを振る。鏡に映る自分を見たり、お互いのフォームを見ながら。
 この一二畳の和室は、小学校の頃から俺と桜の――雨天練習場だった。
 使い始めた最初の方は、もう亡くなった親父に『また畳がダメになるだろ!』と怒られていたんだけど……。親父もすぐに諦めた。憧れの人の投球や打席を録画で見る度、俺たちは我慢出来ず、すぐにフォームを真似してしまうから。外で濡れながら練習して、風邪を引くよりは、畳が犠牲になった方が良いと言っていた。
 畳を買い換えるのもムダだ。どうせ直ぐダメにするのに勿体ないと、足でイ草が擦れた畳を別の畳と敷き替え続けた結果――我が家にある全ての畳は、俺と桜の足で擦れた跡が残るものになった。
 ご近所の人が遊びに来た時、イ草が擦れていない畳が存在しない我が家に驚き、噂は風のように早く広まっていく。
 更には噂を聞きつけ様子を見に来た人が、塀についたボールの縫い目跡を目にして「これは何?」と聞いた時、おふくろが「子供たちの壁当て、野球のボールでついた跡です」。そう答えたのが決め手だった。
 そのような成り行きで、我が家は――野球屋敷と近所から呼ばれるようになったんだ。
「まぁ、俺は憧れの人と同じ目線でフォーム練習をしてたけど……。桜は鏡みたく、あの人に向かい合って練習してたから、投げるのも打つのも逆になったんだよな。対戦でもしてるつもりだったのか……」
「今、私をバカにしたでしょ? ほら、サボってないでもっとやる!」
「バカにはしてないよ。単純なミスだなって。そのお陰で、俺たちはお互いにフォームを確認し合いながら練習出来るんだなって、感謝してたんだよ」
「嘘つくんじゃない。もう、いっつも小っちゃい頃の私のミスをイジるんだから。そんな細かいこと気にしてるから、私の内角も攻められないんだよ! もっと豪胆に生きなさい!」
「……それは仕方ないだろ。相手がおと――」
 思わず、桜が野球をしなくなった理由を口にしそうになった。慌てて口を噤む。
「――何?」
「……いや、何でもない。さぁ練習だ!」
「そうだ! 良い根性だ!」
「良い根性だ、じゃないわよ!」
 練習に夢中になっていた俺と桜の頭を、おふくろがパシッとタオルで叩いてくる。
「お風呂沸いたよ、桜ちゃん。さっさと入っといで!」
「……は~い、ありがと。――武尊、覗くなよ?」
「の、覗かないよ!」
「あらあら。二人が小っちゃい頃は、よく一緒に入ってたのにねぇ」
「おふくろも何を言ってんの? 俺たちはもう、高校生だぞ!?」
「あら、母さんは、だからこそ覗けば良いのにって思うわよ? 他へお嫁に行けなくしちゃえば、武尊と桜ちゃんが結婚するのは確定じゃない」
「……ねえ。本当におふくろは、何を言ってるの?」
「あはは! 私も、おばさんのことをお義母さんって呼びたいけど……。そんなムードのないプロポーズはちょっとなぁ~。でも武尊だったら……それぐらいしないとかなぁ。ヘタレて、何時までもプロポーズしてくれないかも?」
「桜も何を言ってるんだよ! 速く風呂に行けって!」
「はいはい。お先にお風呂、いただきま~す」
 いくら物心ついた頃からウチに入り浸ってて、兄妹同然とは言え……限度があるだろ。頭が痛く成る程、好き勝手に言うなぁ。そんな、プロポーズなんて……。いや、たしかに俺は、夜景が見えるレストランでプロポーズとか、絶対に出来ないだろうけど……。白いタキシードを着て、指輪の箱をパカッとやる自分の姿……。いや、無理だ。想像つかない。白いユニフォームなら、直ぐに想像出来るんだけど……。
「……武尊。あんた、しっかりと桜ちゃんを捕まえなさいよ。じゃなきゃ、アンタみたいな野球バカ誰も拾ってくれないんだから」
「ば、バカにすんなよ。……その時が来たら、ちゃんとするよ」
「その時って、いつ?」
「その時は、その時だよ!……それに、俺は野球バカだけど、それなりに女子から人気があるんだぞ?」
「また見栄を張るのはよしなさいって。いくら身長が高くても、顔がいっつも泥塗れで小汚いんじゃあ、ねぇ……」
「――おばさん、武尊の言ってることは本当だよ。それでも去年の夏の甲子園予選、準決勝まで投げたエースだからね。しかもプロ大注目のエースにして四番。そりゃ~もう、人気なんだよ?」
 ひょこっと、桜が障子戸から顔を出す。
 早すぎだろ――って、ガラス越しに、下は体操着を着てるのは分かる。でも、もしかして――上は下着のままじゃあないのか!? 腰から上は障子で見えないけど、覗かせてる首……と言うか、胸骨の辺りまで、何も着けてないように見えるんだけど!?
「あら、そうなの? でもねぇ、そんな将来の収入を狙ってるような子は、ちょっとねぇ……。野次馬って言うか、そんな現金な子を、義娘にしたくはないわねぇ」
「そんなことより、桜! 上着は着てるんだろうな!?」
 顔が火照って熱い! 年頃の娘が、何をやってるんだ!?
「上着?――どうだと思う?」
 俺の焦りを見透かしてか、意地の悪そうな顔で笑いながら、桜が聞いてきた。
「からかうなよ! もう、俺も風呂入るから!」
 俺は桜とは別のルートで、浴室へと向かう。
 桜は、高校生になっても小学校の時と同じように振る舞うのをなんとかすべきだ! 思春期の男をバカにし過ぎだ!……そりゃ、ユニフォームに着替えたり、桜の方は、男の裸を見るのに慣れてるんだろうけど。こっちは、その……。女の子の身体を見るのに慣れてないんだから!

 俺が風呂から上がると、おふくろと桜は台所にいた。
「お、まさか桜が料理してるのか?」
 俺が聞くと、桜はハンッと鼻で笑う。
「まさか。私は洗い物の専門家。料理は全部、ちゃ~んと、おばさんに任せてるよ」
「そんな誇らしげに言うことじゃないだろ」
「洗い物を舐めちゃダメだよ? マネージャーしかり、縁の下の力持ちがいるから、花形も心置きなくやれるってもんだよ」
 マネージャーの仕事を持ち出されると痛いけど、それって単に、桜が苦手な料理を避ける言い訳な気がするんだけど……。
「あら、桜ちゃんも花形やってみる? 部活も私生活も裏方ばっかりじゃ、退屈でしょ?」
「え」
 おふくろも意地が悪い。桜が料理出来ないのを知ってて、提案してるな。いや、苦手を克服させようという、厳しい優しさなのかもしれない。
「い、いやいや! 私は遠慮しておこうかな~? ほら、高校に入ってからマネージャーとか裏方に楽しさを見出したと言うか!」
「そんなヤツが、帰って来るなり俺と一緒にイ草が擦れるまで練習するかよ」
 余計なことを言うなという目で睨まれるが、我知らぬ顔で俺も洗い物を手伝う。これで桜も、料理をしない言い訳が減ったはずだ。
「あ、こら! エースが洗い物なんて、指が荒れて投げられなくなったらどうする!?」
「真冬でもあるまいし、これぐらい平気だよ。ワセリンも塗って保護してるし」
「ぐぬぬ……。それでも私は料理しない! 絶対にだ!」
「意固地だなぁ」
 いつの間にか、俺と桜では三〇センチメートルぐらい身長が離れてしまった。昔は同じ目線で睨み合って喧嘩していたのに……。い上目使いで、可愛く睨まれいてるようにしか感じなくなってきた。もう、怖いなんて全く感じない。ただ、ひたすらに可愛いのみだ。
「桜ちゃんも、料理苦手って言うのは、いい加減に克服しなきゃねぇ。毎日のように手伝ってくれるのは嬉しいんだけど」
「これからも毎日、お手伝いさせていただきますよ~、おばさん」
「武尊と結婚するんなら、栄養管理でも支えてあげてね。じゃないと、この子は適当なものばっかり食べてケガしそうだから」
 なんで俺の話になる? というか結婚って、話が早いっての。俺たちはまだ高校二年生だぞ? 寺尾キャブテンにも今日、プロに行くのかって聞かれたし……。みんな、生き急ぎ過ぎだろ。
「それは、おばさんに任せるよ! 少なくとも高校のうちは、私はマネジメント面でサポートするから!」
 ひょいっと、皿に盛られていたおかずをつまみ喰いすると、桜は幸せそうに頬を緩める。……野球をしてる時の、凜々しくて格好良い桜と同一人物だとは思えない姿だ。
「コラッ。ダメよ、つまみ喰いなんて、行儀の悪いことをしないの! 盛り付けたお皿から、テーブルに運んでちょうだい」
「はいは~い!」
「分かった。……おふくろ、どこか届かない場所に仕舞う物とか、あるか?」
 洗った調理用具を拭きながら尋ねる。
「ん~、今日はないねぇ。いつも使う物しか出してないから。良いから武尊も、席に座ってなさい」
 桜のことを言えないほど、俺も料理が出来ない。もっとも、俺の場合は料理でケガをして野球に差し支えたらどうすると、おふくろが止めるからだが。だから、俺が出来る手伝いと言えば、この高い身長を活かすことぐらいだ。
 今日はもう、仕事がないということで、俺はリビングの席に座る。既に定位置のように、桜が俺の向かいの席へ座っている。……そう言えば、四つの席で誰がどこに座るかって、いつの間にか自然と決まってたな。
「それじゃ、食べな食べな」
「「いただきます」」
 手を合わせてから、俺と桜は、おふくろの作ってくれた夕飯を食べる。これが本当に上手い。学食とかもあるけど、おふくろの弁当の方がよっぽど上手い。金払って食べるなら、断然おふくろの飯だ。
「お、おばさん。ご飯御代わりもらうね!」
「はいはい、たくさん食べな」
「もう喰ったのか? ちゃんと噛んで喰えよ?」
「むっ。武尊こそ、ちゃんと喰え!」
「……おふくろが作ってくれるドカ盛り弁当を見てるんだから、分かるだろ? まだそんなに腹が減ってないんだよ」
「何を言っているの! 高校球児は吐くほど食べるのも仕事だぞ! そんなモデルみたいにヒョロヒョロッとした身体のラインで……。米とゆで卵を食べろ!」
「だから喰ってるって。マジで吐きそうなぐらいに……」
「なんの為に、ウチの親が大滝家に米を渡してると思ってるの!? 投資だよ、投資!」
 それを言われると、耳が痛い。桜の両親は農家だから、米や野菜を大量に渡してくれる。おふくろが介護の仕事でいなければ、玄関前に置いてあるぐらいだ。
 親父が病気で亡くなってから、地域の人たちはみんなで、俺たち家族をサポートしてくれている。俺たちが出来る恩返しなんて、あるだろうか。
「……率先して、消防団とかは将来やりたいなぁ」
「武尊、あんたは突然何を言いだしたんさ?」
「いや、おふくろ。ウチってさ……周りに支えてもらってばっかりじゃん? どう恩返しをしたものかなって――」
「――そんなの、甲子園で一六〇キロメートルを投げて勝つことに決まってるでしょ! 応援してくれる人に報いるなら、それだよ! 消防団なんて、メジャーに行く武尊は引退までお預け!」
 またそれか……。一六〇キロメートルは分かるけど、メジャーの話は初めて聞いたぞ。いや、いつか憧れの人みたいにメジャーで活躍出来たらって話しはしてたけど……。本格的に将来の道筋として確立されていたのは、初めて聞いた。俺の人生なのに。
「メジャーねぇ……。甲子園にも行ってないから、プロのイメージだって湧かないのに……。アメリカだと、もっと想像がつかないなぁ」
「そんな弱気でどうするの!? だから身体もヒョロヒョロと細長いし、神経も繊細なんだぞ!」
「ごめん、桜が何を言ってのるか、全く分からない」
「そんなんで、本当に私たちの夢――満員の甲子園で、一六〇キロメートルを投げられるの?……球速、伸び悩んでるじゃん」
 桜が一転、神妙な面持ちを浮かべる。……折角、真剣なところを悪いけど、口の端に米粒がついてて台無しだ。……あ、おふくろが気を遣って取ってくれた。やっぱり、空気が読めるなぁ。優しくて良いおふくろだ。
「市立秩父に入部した時が球速一五二キロメートルで、二年生になってから出した最速は、今日の一五六キロメートルでしょ?」
「そこは、入学時の俺を褒めて欲しいな。それに、一年で四キロメートル球速を上げるのって、十分凄いと思うんだけど」
「中学の軟式ボールから、よりスピード出やすい硬式ボールに変わったのもあるんだから、言い訳をしない! 最近は硬式ボールを握る感覚に慣れて、スピードが出るようになったのもあるでしょ?」
 痛いところを突かれた。……金銭的な理由と距離的な理由から、俺は本気で野球のプロを目指すようなヤツらが挙って行く、シニアリーグに入っていなかった。
 シニアリーグだったら中学から硬式ボールだが、学校の部活でやる場合は軟式ボールだ。これが、かなり違う。打ち方も、手で打てば負けるし、投げる方も滑るわ握力を使うわで……。慣れるのに本当、苦労した。
 勿論、コルクで出来てる硬式ボールの方がスピードは出やすいというのは、たしかだと思うけど。まずボールリリースが安定しないからなぁ……。それ以前の問題というか。
「中学の引退試合が終わってから、硬式ボールに慣れるのにも苦労したんだぞ。……去年秋の関東地区予選だって、コントロールが全く定まらなかったし……」
「あれは見事な自爆だったわねぇ。母さんも折角、お休みを取って応援に行ったのに……。息子がフォアボール連発して、ブーイングを受けてる姿を見るのは辛かったわ」
 ぐ……。イヤな思い出が蘇ってくる……。フォアボールの連発から、打ち損ねのポテンヒットで得点されて負けた、チームを負けに導く最悪な場面が脳内に……。
「に、二年になってからは、ちょっとコントロールは良くなったんだよ。ちょっとだけ……。でも、硬式に慣れたのか、変化球のキレも良くなったよな?」
「……たしかに、目も当てられなかったコントロールがマシになってきたのは私も認めるよ。一年の夏、秋の大会は、どっちも自滅だったし。変化球だって、私ほどじゃないけどキレが出て来た」
 自惚れじゃなく、これが事実だから反論が出来ない。閉口するしかない程、桜のコントロールや変化球は素晴らしいから。
 ああ、思い出すな……。針の筵に座っているような、マウンドの感覚。……特に夏は酷かった。準決勝になって――灼熱のような暑さ、禄に登板間隔がない疲れにやられた。軸足やリリースポイントが更に不安定になって、フォアボールの連発にデッドボールでゲームをぶち壊したんだよな……。ゲームを作る投手として、俺が桜に勝ってるのは、本当に球速だけだと思う……。考えてて、情けなくなって来る。悔しくて堪らない。
「自爆とか自滅とか、そんなメンタルを抉る言葉、口に出さないでくれよ……。桜も投手だったんだから、フォアボール連発して自滅する辛さと気まずさは分かるだろ……」
 俺はかなり情けない表情になっていたと思う。
 投手ってのは、孤独なんだ。
 味方のはずのバック――後ろを守ってくれる人たちも、ベンチやスタンドでさえ、投手が勝手にゲームをぶち壊すような四死球を連発すれば……かなりブチ切れる。あの孤独さは、正に四面楚歌だよ。
 投手は全員から責められても、強い気持ちを持ち続けなきゃならない、過酷なポジションなんだ。
 桜も、まだピッチャーを始めて間もない頃の苦い記憶を思いだしたのか、しゅんとした表情をしている。その捨てられた子犬みたいな顔、ズルいな……。ああ、可愛いな、畜生。
「そ、そもそもさ! ストライクゾーンなんてバッターの脇下から膝上の約六六センチメートル、横はホームベースの四三センチメートルしかないんだ! そんな狭いとこに、一八メートル以上離れたマウンドから投げる球をコントロールして投げろってのが難しいんだよ! それに少年野球では背が低いから、もっと縦幅が狭くなるし! 桜は悪くない!」
「少年野球は、マウンドから一六メートルぐらいだけどね」
「桜、おまっ……。人がフォローしてやってるのに!」
 落ちこんでたのは演技か? いや、違うな。これは野球に嘘がつけなくて、自分の責任から逃れない桜の強いところだ。受け止めつつ、済んだことだと開き直る早さも、良いピッチャーに必要な要素だ。
「……たしかに、俺の球速が伸び悩んでるのは事実だよ。でも、球速はもう十分武器になってる。強い相手に勝つには、桜みたいに遅い変化球も使った緩急だとか、コントロールも大切だろ?」
「十分速いんだけど、そうなんだけどさ~! 球速一六〇キロメートルには、浪漫があるじゃん!」
「そうねぇ~。……それに、連戦を戦い抜いていったら、その十分な球速だって落ちるんでしょ?」
「おばさん、その通り! つまり、連戦でも一六〇キロメートルを投げられるスタミナと筋力。――そして武尊には、何が何でも勝負に勝つ! 良いから俺に任せろっ! そう言う勝ち気と、周りに揺さぶられない面の皮の厚さがエースとして足りないの!」
 そうは言われてもなぁ……。性格の部分は、そう簡単には変えられない。
 桜の言うことも分かるんだけどな。中学時代、マウンドを俺に代わるよう監督に指示されても、中々ボールを俺に渡さなかった桜みたいな……。あんな負けん気を目の当たりにすると、頼もしく感じたのは間違いない。
 俺が先発で投げている時、桜が控えているから大丈夫。そんな安心感があった。あんな威風堂々とした姿を、俺に求めているんだろうな。
「でも桜ちゃん? おばさんが口を出すことじゃないけど、野球はどっちが速い球を投げられるかの勝負じゃないでしょ? いかに相手に得点されないで、いかに味方が点を取るかなんだから」
「う……。それは、そうなんだけど。でも、浪漫がぁ……」
「そうだぞ、桜。おふくろの言う通りだ。球速に拘って、また俺がゲームを壊すより良いだろ?」
 俺の正論に桜は、うぅっと呻り――。
「――そういう正論は、私たちしかいない場所では要らないの! それは堀切みたいな、ルールをまだ分かってないヤツの前でする話だよ!」
 ガタンっと音を立てて椅子から立ちあがりながら、叫んだ。……正論で追いこまれたから、キレたな。
「桜ちゃん、お行儀が悪いから座りなさい」
「……はい」
 おふくろは強い。桜の扱いも手慣れてたものだ。おふくろが冷たい瞳で軽く睨んだだけで、ヒートアップしていた桜が大人しく食事を再会した。
「……何の為に、私の夢を武尊に託したと思ってるの?」
 桜は静々と尋ねて来た。……ヒートアップしている時より、よっぽど胸に来る聞き方だな。
「桜の夢、いや……俺たちの夢、か。――灼熱の太陽の下、満員の甲子園。同級生やブラスバンド、地元の人々の大応援。そんな熱い気持ちへ応えるように……俺たちの憧れる大選手のような、一六〇キロメートルを投げて熱狂の渦を巻き起こす、か」
「そうだよ。忘れたとは言わせないよ? ちょっと言葉が変わってもいいけど、一六〇キロメートル投げるて、夏の甲子園を湧かせるって意味は変えちゃダメだからね?」
「そんなことを言われてもな……。球速を一キロメートル上げるのが、どれだけ難しいか分かってるだろ? そもそもの話、なんで桜は女子野球に進まなかったんだ? 勝手に俺へ夢を託して、マネージャーになったんだよ?……高校入って二年目だぞ。……いい加減、教えてくれても良いだろ?」
「それは……」
 目線を右往左往させて、桜は俯く。
「武尊には、言えない」
「何で俺にだけ言えないんだよ?」
「――とにかく! 武尊の球速が伸び悩んでいるのなら、それをどうにかするのもマネージャーの仕事! おばさんの美味しいご飯をガツガツ食べて、スタミナと筋力を付ける! おばさんのご飯、私のマネジメント力があれば――甲子園の歴代最速、一五八キロメートルを余裕で上回る一六〇キロメートルの夢が見える! 武尊には、そのポテンシャルがある!……はず」
「せめて、そこは言い切って欲しかったな」
 本当、表情がコロコロ変わるな。見ていて全く飽きない。
 一応の結論……と言うには少々アレだが、「俺もその方針で頑張る」と言ったところで、おふくろに夕食へ集中させられた。呆れつつも、いい加減にしろという口調で。
 食事後、俺が食器を洗おうとシンクへ食器を運ぶと、桜に止められた。「そんなことはマネージャーの私がやる。それでケガしたらどうするの。食後の栄養余ってる時間に、筋トレして来なさい」と。
 その言葉に従い、俺は自室でバーベルを使ってスクワットをしていたのだが――。
「――桜ちゃんは、すっかりマネージャーになったわね。……中学の途中までは、マウンドは譲らないって。お互いムキになってたのに。今の桜ちゃんを見ていると、あの時の姿が嘘みたいだわ」
 ドアの隙間から、おふくろと桜の会話が聞こえてきた。……どうやら、ちゃんと扉が閉まって居なかったらしい。今スクワットを止めると中途半端だし、決めた回数が終わったら閉めるか。……盗み聞きは良くないしな。
「ま、中学に入ってから武尊の身長がグングンとデカくなって……。あんな化け物みたいな剛速球を投げられちゃったらね。いくら負けず嫌いな私でも、さすがに選手としての夢を託したくもなるよ」
 ハーフスクワットの姿勢で、俺は聞き入ってしまった。
 今、もしかして桜が夢を俺に託した理由について話してるのか?……盗み聞きは良くない。でも、その話しは詳しく知りたい。知りたくて仕方がない。
「今日もね、私が三球だけ打席に立たせてもらったの。コースは甘いんだけど、とんでもない速さの球が風を切り裂いて呻りを上げてるんだよ。ギュワッて音を立てて、迫って来るの! 三振したのは悔しかったけど……。やっぱり、夢とか浪漫を抱かずにはいられないんだよ。……武尊のピッチングには」
 知らなかった。桜が、そんなことを思っていたなんて……。俺はただ、胸元に投げるのから逃げて、ただ全力投球をしただけなのに……。
「そうだとしても、女子野球をやりながら応援だって出来るじゃない? 桜ちゃんのお母さんも、意外だって言ってたわよ。あの子が選手じゃなくて、マネージャーの道を選ぶなんてって」
「……私たちが憧れたのはね、ただ野球の勝負に勝つことじゃあないんだ。球速一六〇キロメートルを投げて、打って走れる偉大な選手。汗と泥に塗れた――甲子園のスター。……それが私の目指した野球選手の姿なの。身体がドンドン女の子として成長してきて、武尊は男の子から男の肉体になっていって……。悟っちゃったんです」
「……何をかしら?」
「私の夢は――一六〇キロメートルを投げる選ばれた人間には、私みたいな身体ではなれない。それを成し遂げられるのは、武尊みたいに恵まれた体躯を持ってる人だって」
「……それでも、簡単に諦めて渡せるような、軽い夢じゃなかったんでしょ?」
 そうだ。桜の野球好きは、俺も知ってる。一つの夢が叶わなそうだったら、別の目標を定めたりとか……。何としてでも、野球を続けようとすると思っていた。
「ん~、それがね、アッサリと渡せちゃったんだ」
 あっけらかんとした声で桜が言う。……意外だ。意外過ぎる。とにかく負けず嫌いで、俺にエースナンバー、背番号一を持って行かれる度に悔しがっていた桜が……そんな敗北宣言みたいなことを軽く言うなんて。
「……いい目をね、してたんだぁ」
「いい目? 誰が?」
「武尊がだよ? 他にいないでしょ?」
 え……。俺?
 俺の目なんて、いつも変わらないと思うけど……。
「私の夢……野球への想い。ずっとマウンドを競って来た武尊になら、託せる。――中学三年の夏、武尊の目を見て、そう思えたの」
「中学三年生の夏に、何かあったの?」
「うん。今でも忘れられないよ……。私が先発で投げて、打ち込まれちゃってね……。ランナーも溜まったまま、監督からマウンドを降りろって指示されたの。畜生ッて思いながら、マウンドに齧り付いてやろうかと思ってたんだけど……。ライトからマウンドに走って来た武尊が――後は、俺に任せろって」
「え?……あの子が、そんな強気なことを口にしたの?」
 あ……。あった。たしかに、あの時、桜は自分の責任だとマウンドで孤立しているように見えて……。何とかしてやりたいって思ったんだ。俺も格好付けようとか意識せず、気付いたら、そう口走っていた。
「そうなんですよ。――灼熱の太陽の下、どこまでも熱く、一心不乱に闘おうとする格好良い瞳をして……。そんな頼もしいことを言われちゃったら……ね」
「あの子がねぇ……。想像つかないわね。桜ちゃんにマウンドを取られる度、私にビービー泣きついていた武尊が……そんな格好良い目をしてたなんて」
「え、ズルい!? 私、武尊が泣いた顔、見たことないのに!」
「格好付けてるのよ。好きな子に弱い顔は見せない、心配かけたくないって。……変なところで強情だからね、あの子は」
「う~ん。それは、たしかに……」
「話が逸れちゃったわね。――武尊よりも負けず嫌いで、よっぽど強情な桜ちゃんでも……。夢を託そう、託すって決意するぐらいの目を、あの子がしていたんだ?」
「うん。……マウンドを降りる時、ボールと一緒に私は、武尊に夢を託したんです。――後は任せる。武尊になら、全部託せるって……。不覚にも、そう思っちゃったんだ。……ああ、もう。滅茶苦茶、格好良かったなぁ~。あの勝負師って感じの、ギラギラと輝く瞳。中二から付き合ってたのに、惚れ直したって言うのかな?」
「自分の息子との惚気を聞くって、複雑な気分ね」
「あははっ。……でもね、それで改めて、私は自覚しちゃったの。――私は野球選手の前に、恋する女の子だったんだって」
「桜ちゃん……」
「でも……武尊は選手として、未完成も未完成だから。手足が長い分、支える体幹。それに足腰だって、もっと筋力が必要なのに、まるで足りてない! メンタルだって、ピッチャーとして必要な――譲らない精神とか、ふてぶてしさとか、負けん気も足りない! たりないとこだらけなのに、それでもあれだけ凄いピッチングをしてるの。勿体なさ過ぎて悔しい!……普段は優しくて、嬉しいんだけどね。武尊が、完成したら、どんな凄い選手になるんだろうって。……バッターとしても、ピッチャーとしても。……真の二刀流スターに、憧れのあの人みたいに、本当になるんじゃないかって。女の子としての私とは別に、野球好きの私として、すっごくワクワクしちゃうの!」
「そうなのねぇ。あの子はねぇ……。親として、優しい子に育ってくれたのは嬉しいんだけど……。勝負事に向いてる性格じゃあないわよね。……そっか、桜ちゃんを幸せにするには、ただ優しい男じゃダメなのね」
「いひひっ。私、こう見えても、かなりモテるから。理想が高くて、贅沢なの」
「そうねぇ。……桜ちゃんは、見た目は良いものね」
「あっ、おばさん酷い!……まぁ、そもそも高校野球は、女子ってだけで公式戦に出られないからね」
「それも、今の男女平等な時代からしたら、どうなのかしらね。出場資格ぐらい、あげても良いと思うんだけど……」
「私も、中学三年まではそうなれ!――って、毎年祈ってたよ。……でも、今はいいの。――栄冠はきっと、もう一人の私が取ってくれるから」
「栄冠? もう一人の私?」
「甲子園で優勝することを、栄冠を手にするって表現するんだよ。深紅の優勝旗に、優勝トロフィーだけじゃなくて――栄冠を掴むって。……何かさ、格好良い響きじゃない? 栄冠ってさ!」
「そうねぇ。王者っぽくて素敵だと思うわ。――それで、もう一人の私って何?」
「う……おばさん、私の口走った一言も、見逃してくれないね」
「当たり前じゃない。面白そうな匂いが、ぷんぷんとしたもの。おばちゃんになると、面白そうな話にはセンサーが反応するのよ」
「そのセンサーが難いなぁ。……私と武尊は、ピッチングフォームもバッティングフォームも、全部鏡合わせしたように一緒じゃん? だから……ね」
「成る程ねぇ。桜ちゃんは、武尊に自分の姿を重ねて見てる訳か。たしかに、動きがそっくりだものねぇ」
「そういうこと!……でもね、武尊はきっと私が見ている以上の――格好良い姿、夢を見せてくれるって信じてるの」
「想像以上の夢?……メジャーリーグでMVPを取る、とか?」
「あははっ。そうなれたら凄いけど、さすがにそこまではまだイメージが出来ないなぁ。それに、私たちの憧れの大選手がそれはもう達成してるよ。私が言ってるのは、そんな眩いスターが集ってる場所じゃないよ。……もっと泥だらけなのに――泥だらけだからこそ、キラキラしてる世界の話だよ」
「じゃあ、高校野球のことなのね? 栄冠を取る以上に、格好良いことってあるの?」
「あるよ。ただ勝つだけじゃあ、格好良さの味が足りない。……私は我が儘で理想が高いから、もっとキラキラとした栄冠が欲しい。優勝するだけなら、毎年日本中から強い選手を集めれば、可能性は上がるんだし!」
「あらあら、問題になりそうなことを言うわね~。強い選手を集めても、血の滲むような努力とチームの連携が必要でしょうに」
「そうなんだけど、さ。……私は、武尊なら……偉業を成し遂げると思ってるの」
「偉業?」
「そう、偉業!――私たちの夢は、まず甲子園で一六〇キロメートルを投げるのが必須だからね!」
「……それだけでも十分、偉業を成すヒーローよね。たとえ優勝――栄冠を手にしなくても」
「そんなキラキラしたヒーローに、武尊ならなれるんじゃないかな?――でも、もしかすると……。それ以上の浪漫まで用意してくれちゃうんじゃないかなぁ~って、つい期待しちゃうの!」
「はぁ~。そんな熱い思いを抱いてたのねぇ。……それ、武尊には言ってあげないの? あの子、きっと燃えて、今以上に頑張るわよ?」
「私がこんなことを言ったら、武尊はケガしてでも努力しちゃうじゃん。それこそ、燃え尽きるぐらいに」
「……そうね。桜ちゃんの為ってなったら、そこまでやるわね」
「でしょ?――だから、言わない。私たちの夢は、たしかに叶えて欲しいけど……。武尊は、世界で輝く原石なんだから。私にできる限りのサポートをして、それでも無理なら仕方ないよ」
「気持ちは解るけど……。仕方ないなって、甲子園の夢を諦められるの?」
「……私の身体だけなら、壊れてでもやるよ。甲子園で燃え尽きても良い。プロ野球選手になれなくても、働ける身体なら、それで良いし。……でも、武尊にはそうして欲しくない。代わりに、もっと長い目で、大きな夢を見せ続けてくれれば良いの。何より、ケガで才能を潰して欲しくない!」
「桜ちゃん……」
「あ、そんな可哀想な人を見る目しないでよ? マネージャーだって、野球が全く出来ない訳じゃないんだよ? 今日みたいに、大好きな野球に混ざれる機会もある。自分の代わりに戦う人をサポートする楽しさも、応援するドキドキもあるの」
「そう……。桜ちゃん、うちの家の塀、何色だったか覚えてる?」
「え? う~ん、灰色じゃないの? 今は灰色だし」
「元は白かったのよ。……二人が小っちゃい頃から、ず~っと壁当てをするから、すっかり灰色に染まっちゃったの」
「え……。嘘?」
「本当よ。……いつか桜ちゃんのマネジメントで武尊が大活躍して……。おばちゃんがインタビューされたら、その話しをするわよ?」
「ちょ、ちょっと止めてよ! 恥ずかしい!」
「いいじゃない、何も恥ずかしくないわ。……おばちゃんからするとね、武尊も桜ちゃんも、自分の子供みたいなもの。……あのボールの跡は、二人で一緒に努力して、成長していった証なのよ。おばちゃんの、誇りなの。……人生で一番楽しみなのが、そうやって成長してきた子供たちの姿を、人に自慢することなのよ。桜ちゃん風に言うなら、おばちゃんの夢ね。……武尊に言ったら、また重荷を背負わせることになるから聞かせられないけど」
「おばさん……。うん、そうなれるように、私も頑張る。頑張って、全力で武尊を支えるから!」
「お願いね」
 もう、どれだけの回数スクワットをしただろう。……数えていないから、決めた回数には達していない。だから――二人の話しが終わるまでドアを閉められなかったのも、仕方がないことだ。
 ただ、聞こえてしまったからには――夢を、現実にしなければいけない。桜が夢を託すに値すると認めたヤツとして。
 桜の夢も、おふくろの夢も――皆、俺が背負って行ってやるよ。現実に変えてやるさ。
 弱いと指摘された足の筋肉を鍛える為、徹底的にやってやる。――気が付けば、足下に小さな水たまりが出来ていた。
 それが汗だったのか、それとも別の何かだったのかは、タオルで拭ってしまった今、もう分からない――。