最終章
 
 マンションのドアを開ければ――憤怒に顔を赤く染める、仁王の眼前へと通じていた。
 自分が悪行をしていると自覚している分、その姿を見て余計に身が震え、心臓がバクバクと全身を揺すってくる。怖い、怖過ぎる! この恐怖は、逃避反射でドアを閉めようとさせるには十分だ! 今すぐドアを閉め、穴蔵に籠もりたい気分だ!
「閉めさせるか!」
 だがそうは問屋が卸さない。足をガッとドアと壁の隙間に挟み込み阻止された。荒い呼吸でドアをこじ開けようとしてくる様は、さながら秋田県に伝わるナマハゲだ。大きく違うのは、ナマハゲは神の使いで、親父さんは憤激の化身だということだろう。
「こ、こんな朝早く、なんの御用ですか?」
 仕方なしに、ドアの隙間から覗く親父さんに声をかける。すると更に剣呑な表情になった。
「なんの用だと!? 騙されている娘を連れ戻しに来たに決まっているだろうが!」
 近所迷惑など考えられないぐらい興奮しているのか、怒声が響く。
「お、お父さん!? なんで、ここに!?」
 大きな声で、さすがに来訪者が誰か気が付いたのだろう。川口さんが玄関へと駆け寄ってきた。頼む、早くここを代わってくれ!
「おお、雪華! 今すぐに実家へ帰るぞ! 早く準備しなさい!」
「は!? ど、どういうこと!?」
「可哀想に……。こんな粗末な部屋に住まわされて、偽装同棲などと、嘘にまで加担させられて! 今すぐ、助け出してやるからな!」
 娘の姿を目にした親父さんは一瞬、頬を緩めた。だが扉をこじ開けようとする力は一切緩めない。と言うか、偽装同棲だとバレているだと!? どういうことだ!?
「ぎ、偽装同棲? な、なんのこと? この部屋が狭いのは認めるけど、それは望んでることだし。別に嘘なんて……」
 金持ちである医者と苦労ない生活をしていると親父さんが都合の良い勘違いをしてくれているはず。その生活ならば、同棲も認めてくれるだろうという話だった気がする。だが住んでいるマンションが古く想像と違っただけで、偽装同棲などという発想に至るものだろうか?
「興信所に、2人のことは調べさせた! その纏まった報告を聞いて、直ぐに駆けつけたのだ!」
 そう言ってから、親父さんは懐からボイスレコーダーを取り出し、再生を始める。
 流れて来たのは、先日俺の実家へと向かう日の朝、路上で俺と川口さんがしていた会話だ。『私たちが仕事に集中する為だもの! 今は心を鬼にして、嘘を貫くわ!』。と、決定的な声が流れる。前半の俺の声は、よく耳を凝らせばやっと偽装同棲と聞き取れるかどうか、というぐらい小さい。しかし明瞭に録音されている川口さんの声と照らし合わせて考えれば、偽装同棲で間違いないという結論に至るだろう。
 しかし興信所まで使って録音をしていたとは……。この親父さんは、どこまで過保護なのだ……。
 余りの衝撃にドアを引く手を緩めると――親父さんは一気呵成に室内へと踏み込んできた。土足のままで、リビングまでズカズカと進む。
「……なんて部屋だ。とても、うちの娘が住む環境じゃない」
 親父さんは顔を顰めながら、一口コンロやユニットバスを睥睨する。それから怒気の混じった声で、改めてそう呟いた。
 すると川口さんの普段から使っている鞄にスマホなどの私物を乱雑に突っ込む。更にはクローゼットからスーツなどの衣服を持てるだけ引っ張り出すと、川口さんの手を強引に取った。
「今すぐ帰るぞ! 雪華!」
「ちょっ、お父さん!? 嘘を吐いていたのは悪いと思うけど、そんな急に!」
「足りない物は、ワシがまた買ってやる! ここには二度と来るな!」
「私、まだ寝間着なんだけど!?」
「車で来ている! 直ぐ目の前までの辛抱だ!」
 怒り狂った親父さんは、川口さんの抵抗に聞く耳を持たない。川口さんの抵抗も虚しく、連れ出されようとしている。目に薄らと涙を溜めた川口さんと目が合う。その目は助けてと訴えているように感じた。
「親父さん、一度落ち着いてお話を――」
「――貴様は黙っていろ!」
 手に持った鞄ごと、親父さんの拳が俺の頬にめり込む。チカチカするような衝撃を感じ、次に気が付くと天井を仰いでいた。俺は今、殴られて倒れたのか? 一瞬のことで、理解出来なかった。
「お父さん、暴力は止めて! 南さんは悪くないの!」
「悪くないはずがあるか! 良いか、二度とワシの娘に近づくな、関わるな!」
 そう叫んで、ドタドタと川口さんを部屋から連れ去ってゆく。
「待っ……」
 制止の声をかけても、止まることはない。ドアが閉まり、川口さんの姿が――見えなくなる。
 殴られて、ふらついている場合じゃない! 壁にもたれ掛かりながら、必死に彼女を追いかける。だが共用廊下に出ても、その姿はもう見当たらない。
「それでも、俺は!」
 この生活を……。やっと許された、一時の幸せな空間を――失いたくない。何より最後に見る川口さんの姿が不幸な表情なんて、絶対に認められん!
 必死に追いかけるが、真っ直ぐ歩けない。
 普段から農作業で鍛えている親父さんの怒りが籠もったパンチが、脳にまでダメージを与えていたらしい。
「ぐっ!」
 そのまま階段を下りようとして――階下まで転げ落ちて行く。
「身体が、クソ……」
 上手く歩けないで階段を踏み外すなら、最初から這って進めば良い! 流れ出る血も気にせず、必死に階下を目指し進む。だが――。
「――車の、発進音……。間に合わなかった、のか……」
 マンション前から急にアクセルが踏み込まれたようなエンジン音が聞こえたかと思うと、音は遠ざかってゆく。それは川口さんが去って行く証拠で……。
 やっとの思いで外に出た時、そこには誰も居なかった。
「……終わった、のか? そう、か……」
 暫し呆然とした後、痛む身体を引きずり自室へと戻る。
 そこには、変わらず川口さんが作ったカーテンの敷居、ベッドがある。ベッドシーツには、彼女が這い出た時に出来た生々しい皺さえ残っている。それなのに、肝心の彼女はもう、ここには居ない。
「偽装同棲生活が、終わってしまったのか……」
 怒濤のように押し寄せ、あっという間に消えて行ったから……。受け止めるのに暫しの時間を要したが……。約3ヶ月以上に渡り続けていた偽装生活が終わりを告げたのだと、実感した――。

 その日の夕刻、俺は久しぶりに定時で帰宅した。
「……やはり、スマホも通じないか」
 川口さんへ通話をかけるが、案の定繋がることはない。1つ息を吐いてから、手荷物を抱えて自室への階段を上る。
 ボロボロの血だらけで出勤した俺に、普段は冷たい看護師も異常に優しかった。処置をしてくれたり、優しい言葉をかけてくれたり……。教授まで「今日は定時で帰りなさい」と、心配気な表情で肩を叩かれた。医局へ残って研究をしようとしたが、追い出されるように帰宅させられる始末だ。
「そんなに分かりやすいのか、俺は? 表情に、出ていたと?……クソッ」
 自室に戻るなり、俺は壁を背に床へ座りこむ。部屋着に着替えることもせず、昨日まで彼女と座りながら語っていたソファーを眺める。……このソファーは、こんなに広かったのか?
 手荷物から、帰りに激安スーパーで700ミリリットル税込み958円で買ってきたウイスキーを取り出す。しかも3円はレジでオマケしてもらえる上に、通常のスーパーで買うより2割も安い。かなりお得だ。とは言え、普段なら酒税が値段に加算されるアルコールなんて、絶対に自腹では買わない。だが今日だけは、どうしても酔いたかった……。
 ラッパ飲みで口に含むと、焼けるような辛さが口に広がった。度数が高いからか、あっという間に血中アルコール濃度も高まってゆくのを感じる。
「人とは己の利害を考え、行動に移してしまう愚かな生き物だ……。社会通念上の常識や倫理に反する行為だろうと、追いこまれれば実行に移してしまう」
 俺の人生訓とも言うべき言葉だ。それは他者だけでなく、自己にも当てはまる。正に今の俺だ。愚かな生き物を体現している。
「俺も……明るい幸せを味わう権利を持つ人間、か」
 昨夜、川口さんに言われた言葉を思い出し、自嘲気味に呟く。
「幸せな世界を中途半端に知って、こんな不幸を味わうくらいなら……。知らなければ良かったよ。今の俺には、1人の部屋は病院より不幸な場所に感じるよ」
 世闇で必死に羽ばたく蛾は、幸せな光を灯す誘蛾灯に吸い寄せられ、結果その身を滅ぼす。俺は自分をモグラだと思っていたが、実は醜く飛ぶ蛾だったのかもしれない。不幸が渦巻く病院という夜闇に済む存在にも関わらず、身の程知らずに幸せな光を求め身を滅ぼすに至った、という所だろう。
 そんな思考に耽っていると、玄関のドアがゆっくりと開いた。
「……え?」
 一瞬、川口さんが帰って来たのかと思った。だが玄関ドアから伺うように顔を覗かせてきたのは――もっと驚くべき人物だった。住所は教えているが、この部屋で一度も目にしたことがない人物。
「……親父? 何故、ここに?」
「雪華さんから、私に連絡が来たんだ」
 相変わらず、仏のように優しい笑顔を浮かべていた。全身から、人を安心させるような雰囲気が溢れだしている。
「親父の所に?……そうか、挨拶の時に連絡先交換をしていたのか。相変わらずの手の早さだな……」
「そう言うな。……お父さんが連絡先を消したから、昭平に連絡が取れないらしくてな。謝っておいてくれ、とさ」
 裏でそんな事情があったのか。親父から俺のスマホに連絡をしてくれれば済む話なのに……。忙しい中、わざわざ来てくれたのか? 今の俺がどんな心理状態か予測して、会いに来てくれたということか……。昔から忙しくて、俺のことなんが碌に見ていないと思っていたが……。やはり、親というのは子を知っているものなんだな。
「昭平……。酒を飲んでるのか? ケチな昭平が、自分で買ったのか?」
「……俺だって、買ってでも酒を飲みたくなる時はある。悪いか?」
「酒を飲むことは、何も悪くないさ。だが――酒に逃げるのは悪い」
「…………」
「お前は、今後どうしたいんだ?」
「……今後も何も、ないだろう? もう、偽りの幸せに浸る時間は終わったんだ。後は自分の目標を達成して親父の診療所を――」
「――ふざけたことをぬかすな!」
「な……」
「幸せを感じていたんだろう!? 仕事人間だった昭平が、この人と居ると幸せだと感じる。そんな人に出会えたんだろう!? そんな大切な人1人守れないヤツが、他人である患者に寄り添い、守れるものか! そんな腑抜けに継がせる診療所なんてねぇ!」
 預けていた3千万近い数字が刻まれている預金通帳を、親父は俺の顔面に投げつけて来た。人当たりが良くて、優しい親父が……怒鳴った? その上、俺が大切に貯めていると知っている預金通帳を投げる程に怒るなんて……。これ程に怒っている親父なんて、産まれて初めてみた。
「親父……。俺は……」
「なんだ? 昭平の本音を、語ってみろ。ここには、私しか居ないんだ。医者としての建前も強がりも要らない。素直になってみろ」
 先ほどまでの怒った顔なんて嘘のように、柔和な笑みで語りかけてくる。親父の言葉に、俺は自分の中に仕舞っていた感情を一つ一つ掘り起こしてゆき――気が付けば、涙が堪えられなくなっていた。
「俺は……36歳になって、初めて恋をしたんだ。俺も……。不幸を減らすことに全霊を注いでいる俺にも、幸せでいられる安らぎの場所が欲しい。この場を失いたくない。……そう思ってしまったんだ」
「そうか。……よく言えたな。偉いぞ」
 ああ……。親父に頭を撫でられるのなんて、小学校低学年の時以来だろうか? 親父の腕の中で、涙を流してしまう。
「この歳になって、これ程に涙を流すなんて……俺は、なんて情けないんだ」
「泣くのはアルコールのせいにしてしまえ。今は恥も外聞も、気にするな」
 ああ、そうか。アルコールは理性を弱らせ、感情の起伏をコントロール出来なくなるからな。それなら、仕方ないか。そう、俺が泣いても……仕方ない。別に泣いても良いんだ。
「……なぁ、私も一緒に飲んで良いか?」
「親父も?……これは、安酒だぞ」
「味なんて関係ないさ。ずっと互いに忙しくて叶わなかったが……。私は息子と杯を交わしながら、幸せな恋とかを語るのが夢だったんだ」
「そんな夢を持っていたのか……」
「正直、私が死ぬまで無理かもしれないと思っていたんだが……。街コンに参加させて良かった。死ぬまでに、夢が叶ったよ」
「さぁ、ゆっくりと聞かせてくれ。彼女のどこが好きなのか、彼女とどうなりたいのかをな」
「……長くなるぞ。川口さんには良い所も悪い所も、あり過ぎるからな」
「はははっ。望む所だ」
 それから夜が更けるまでずっと、俺は川口さんについて語り続けた。彼女の格好良い仕事姿。人の幸福の為に、自分を犠牲に出来る仕事へのプライド、強さ。同一人物とは思えない程に、壊滅している私生活での金銭管理能力。そして、こんな偏屈な俺を受け入れてくれる器の大きさ。酒で饒舌になっているにしても、だ。どこまで話しても、尽きることはなかった。
 ずっと嬉しそうに聞いていた親父だったが、何を思いだしたような顔で徐に口を開く。
「ところで、どこまで進んだんだ?」
「どこまで?」
「3ヶ月以上も同棲していたんだ。最低でも、キスぐらいはしたんだろう?」
「な!? す、するか! 偽装だったと言っているだろう!?」
「なんだと!? お前、それでも私の息子か!?」
「親父は息子に何を言っているんだ!」
「息子だからこそ、言っているんだろう!?」
 何を言っているんだ、この親父は!? 酔っているにしても、発言が酷過ぎるぞ!
「好きと認めたなら、行動に移せ! 無理やりはダメだが、次に会った時にはキスぐらいしろ!」
「出来るか!?」
「根性がない! そんなんだと、また街コンに登録するぞ! 今度は昭平の自腹でな!」
「なん、だと!? 横暴だ!」
 街コンの自腹……7600円!? 冗談じゃない、今日のアルコールなんて比にならん出費だ! そもそも俺はもう、川口さんが好きだという気持ちで満ち満ちていると言うのに!
「父の愛とは、時に横暴になるものなんだ。イヤなら相手に好きと伝えて、キスぐらいして来い!」
「無茶を言うな! 人工呼吸なら兎に角、キスは医療行為じゃないんだぞ!?」
「これだから、救命にマウスピースを使う軟弱世代は困るんだよな~」
「アレには口腔感染を予防すると言う、立証された効果があるんだ!」
「ガタガタと文句ばっかり言うな。良いから、やって来い!」
「いい笑顔で、なんてことを言いやがるんだよ、親父……」
 親父の言うことは極論だとしても、だ。
 俺が川口さんに対してどんな感情を抱いているのか。そして、これからどうしたいのか。その感情は纏まった――。

 翌日の仕事終わり、研究を抜け出して俺は東央ニューホテルまで来ていた。いつかと同じように、コーヒーショップの看板に隠れていると――川口さんが働いてる姿が目に入る。
 時間にすれば、ほんの少し会っていないだけ。偽装同棲期間中にも、もっと長い期間会わないことなんて頻回にあったと言うのに……。何故か、随分久しぶりに姿を目に出来たような感動が押し寄せる。
 ウェディング会場のスタッフたちが姿を消して行く。時間的に退勤時刻なのだろう。それに合わせ、俺も移動する。こういう時、ホテルの表側の通りに職員通用口はないものだ。裏側、人目につかなそうな細い道路からホテルを眺めていると――予想は的中。私服に身を包んだスタッフらしき人物が出て来た。ここで待っていれば、川口さんも出て来るだろう。
 やっていることは完全にストーカーと同じだ。法律上、規制されるストーカー行為には待ち伏せも含まれる。
「だが、先に法に抵触する行為に訴えたのは、親父さんだ」
 押しかけに、誘拐。それは特定の者と社会生活において密接な関係にある人でも有効だ。親父さんに無理やり連れ去られ連絡方法を奪われた結果、俺は同棲していた川口さんと今後の生活をどうするか。大切なことが議論出来ていない。今でも俺の家に彼女の私物がある以上、これは必要な会話だと言い訳が効く。
「――来た」
 間違いようもない、川口さんだ! 俺は小走りに駆け寄り、彼女に声をかける。
「川口さん!」
「南、さん? え、なんで……。なんで、ここに!?」
「貴女と、話がしたくて……」
 親父の問いに、俺の出した答え。
 それは社会通念上の常識や倫理に反さないように整え、行動に移すことだ。
「……突然、ごめん。お父さんが乱暴なやり方をして……」
「いや、それは……。仕方ないさ。偽装と知れば、親としては怒りもするだろう。今は実家から職場に通っているのか?」
「それは余りにも遠過ぎるからって、強く断ったの。……代わりに新居が見つかるまでって、近くのマンスリーマンションを契約させられたわ」
 確かにな。あきるの市から東央ニューホテルまでは、片道で2時間近くかかるだろう。現実的に通勤は難しい。
 川口さんは既に、前を向いて新たな生活を始めようとしているのか。そう考えると、断られる恐怖で及び腰になる。しかし俺とて簡単に引く程、浅い覚悟を決めてここへ来た訳ではない。
「……うちに、戻って来ないか?」
「……そんなの、許される訳がないじゃない。また偽装同棲なんて……。お父さんがまた乗り込んでくるのは、目に見えてる」
「それは……。貴女は、本当にこれで良かったと思っているのか?」
「……仕方がない、でしょう? 貴方だって、私が居ない方が光熱費も安くなって嬉しいんじゃないの?」
「いや、光熱費は……。確かに、そうだが」
「そうでしょう? それなら、貴方はこのままで良いじゃない。私が居なければ、元通り病的な節約も出来るんだし」
 病的などと評す川口さんの変わらない態度が、逆に安心感を覚える。だが彼女は、俺の意図が全く分かっていない。最初からそうだが……何故、こうも俺の意図が伝わらないんだ? こうして迎えに来ている時点で察するものもあるだろうに!
「あのボロマンションで偽装同棲をしたこの3ヶ月ちょっと……。やっと居心地が良くなって来て、私は幸せだと思ってたけど……。嘘は、いつか明るみに出て裁かれるものよ。こうなってしまう覚悟も、最初からしていた」
「……それなら、嘘じゃなくせば良いんじゃないのか?」
「……え? どういう、こと?」
 キョトンとした顔で、川口さんは首を傾げる。コイツ、どこまで鈍いんだ! 俺の節約術を説明した時の反応からも、理解力に乏しいとは思っていた。洞察力もだ。しかし、ここまでとは! 1から10まで説明せねば、理解が出来んのか!?……良いだろう。俺も覚悟を決めて、全て伝えてやろうじゃないか!
「――うちの病院では、扶養の有無に関わらず、家族手当が支給される! 配偶者が居れば、毎月1万2千円だ。貴女が……雪華さんが居ることで増えた光熱費も、これで採算が取れる。更に、どちらかがもし病気になって働けなくなれば、配偶者控除で所得税、住民税が年間10万円単位で安くなる。更にはキーパーソンという、入院時に世話をし合える保証人になり、社会信頼性と安定性も増す。孤独死のリスクだって減る!」
「何? 長々と突然……。結局、何が言いたいの?」
「そ、その……。だから、結婚することのメリットだ!」
「結婚って……。え?」
「貴女と俺が結婚することは、お互いにメリットがあると言っているんだ!」
「私と、貴方……昭平さんが?」
「ああ、そうだ! 俺と、雪華さんがだ!」
「……意味が分からない。私たちは、お互いに結婚なんて最低なものだって考えていた。……だからこその、利害ある共犯関係じゃなかったの?」
「い、いや、だから……。その……」
 思わず口ごもってしまう。川口さん――雪華さんとは、確かに最初は互いのメリットを考えて偽装同棲を始めた。それを指摘されると弱い。だが、もうそんなメリットとか……そんな理屈じゃなくなってしまったんだ! 俺をそう変えたのは、他ならぬ雪華さんだろうが!
「ああ、畜生! 利害とかそんなもんを超えて、雪華さんと一緒にいたくなっちまったんだよ!」
「え……」
「それぐらい分かれ! そんな鈍感だから貴女は仕事熱心で素敵なのに、これまでは独身だったんだ!」
 口をあんぐりと開き唖然とした表情で、川口さんは俺を見つめたまま固まっている。俺の正論に対し、議論することも出来ない程の衝撃だったのか? それとも、信じられないということなのだろうか? だったら、信じられるまで想いを語るまでだ!
「貴女が部屋から居なくなって、初めて気が付いた。たまに帰る家に、ただいまと言って帰れない寂しさ。誰も生活していた痕跡がない虚しさ。貴女の歯ブラシだけ変化がないという辛さ。経済観念がボロクソの人だろうと……。なんだかんだで、人の温もりがある家に帰るのは素晴らしいことだと気付いちまったんだ!」
「そんなの、別に私じゃなくても――」
「――俺みたいな一々金にうるさくて、偏屈な細かい男、雪華さんの他に誰が受け入れてくれるって言うんだ!? 雪華さんは、俺の知らなかった考え方、世界を教えてくれる。尊敬出来る部分のある人だ。俺たちは共に暮らすことで高め合える、共存共栄の関係だと確信している! それに……何よりも、俺自身が! 雪華さんじゃなければ、もうイヤだと思ってしまっているんだよ!」
「……ちゃんと自覚、あったんだ。自分が細かくて口煩い小姑クソ男だって」
「俺は、そこまで自分をボロクソに言っていない! しっかりした経済観念が、どうやら世間一般では非常識なレベルだと認識してるだけだ」
「あんだけ、感情論なんかに流されて結婚するなんてクソだとか豪語してたのにね……」
「俺だって、自分が情けないとは思ってる。だが結局人を動かすのが感情、しっかりした経済力は、実現へ動く為に必要な要素だと気が付いたんだよ」
「……今更ね。気付くのが遅い。本当に、頭は良くてもアホだわ」
「自分でも……自覚はある」
 そうだ。確かに俺はアホだ。親父に叱責されるまで、自分の感情を覆い隠し、大切な人が離れてゆくのを見過ごそうとしていたぐらいにな。アホなのは、理解している。だからこそ、こうしてアホなりに考えを伝え、答えを聞きに来たんだ!
「経済的なメリットを突き付けて、なんて……。ロマンチックの欠片もない、酷いプロポーズ」
「な、何だと!? こ、これは……。プ、プロポーズのように、婚約してくれと言う場面ではない! あくまで、こういう利害があると説明しているだけだ。もしプロポーズなら、俺だってもっとしっかりやる!」
「どうだか。貴方って夜景が見えるオシャレで豪勢なレストランとか、鼻で笑いそう。婚約指輪に何十、何百万円かけている人を小馬鹿にしそうだし?」
「ぐ……」
 否定はしかねる。そんな演出をして相手の気分を高揚させなければ成功しないようなプロポーズ、平時に戻ったら撤回されてもおかしくない。むしろ、何ごともない場で永遠を誓い合える方が、より強固な関係じゃないのかと考えている。
 婚約指輪だってそうだ。かつては給料3ヶ月分の値段がする指輪をプロポーズ時に女性へ贈ったそうだが、それは男性側が戦争などで急死しても当座の資金にしてくれと言う名残りでしかない。現代では死亡保険もある上に、女性だって立派に働いて稼いでいる。むしろ金に困るだろうからと高額な婚約指輪を渡すのは、女性を舐めている時代錯誤で下らない文化だと蔑んでさえいる。
 指輪などという、紛失しやすく小さな貴金属だぞ? どうしても結婚に必要だと言うのなら、その明確な理由。そして科学的根拠を教えて欲しいぐらいだ。なんなんだ、あの箱をパカッと開ける謎のお約束は? 今後の共有財産を削り、格好を付けることになんのメリットがあると言うんだ?
「ほら、やっぱり。……全く、本当に常識が通用しない人。貴方みたいな人は、この世に2人と居ないでしょうね」
 横髪を掻き上げながら、雪華さんは上目遣いに柔らかく微笑む。
 覗くうなじから漂う色香。女性としての魅力を強く感じた瞬間、脳裏に過る。酒の勢いだとは思うが、親父が言っていた言葉が。そう、次に会ったら好きと伝え、キスをしてしまえという言葉だ。
 ロマンチックというのはイマイチ理解が出来ない曖昧な概念だが……。一般的には、この先を考え同棲を約束した瞬間に、好きと伝えてキスをする。それが、ロマンチックというものではないのか? だったら今、実行すべきなのか!?――臆するな、俺!
「す、すすす……。すっ!」 
言葉が、出て来ない! 唇が振るえて、脳が真っ白だ!
「す?」
「すすすす、す!」
「…………」
「――す、隙だらけだな! あ、貴女が隙だらけだから、興信所にバレたんだ!」
「……はぁ!? こんな時にまで何!? いい加減にしなさいよ! もう、折角のムードがぶち壊し!」
 やってしまった! 逃げるように言った一言に怒ったのだろうか。雪華さんは表情を剣呑に変え、ツカツカと歩み寄ってくる。
「い、いや! あの、違……」
「もう……。ヘタレね」
 しかし――俺の目前に彼女の顔がズイッと現れた時には、また微笑んでいた。
 次に感じたのは――唇への、柔らか感触。
 ファーストキス。……その感慨に耽りながらも、俺はどこか冷静に考えていた。以前、雪華さんが話していた女は皆が女優という言葉。あれは、本当だったのだな、と。
 数秒もそうした後、ゆっくりと彼女の唇が離れてゆく。
 どこか照れくさそうに笑う彼女を見て、俺はカッと頬が熱くなり動揺してしまう。
「あ、相手の同意を得ないままキスをするのは、強制わいせつ罪に抵触する恐れがあるぞ!?」
「貴方はどこまで……。はぁ、なんでこんな男を好きになっちゃったんだろ」
「す、好き!? 好きだと!?」
「そうよ、悪い? 貴方も同じ気持ちなんでしょ?」
「そ、それは……。まぁ、そうだ!」
「なら、同意があるも同然。何も問題はないわ」
 なんだコイツ。俺たちのファーストキスだってのに、何も焦っていない。……まさか、手慣れているのか? 俺ばかりが焦らされるなど、不公平だ。……まぁ良い。俺が最後の男なら、それで良い。今大切なのは、これからのことだ。
「それで、この後はウチに帰って来られるのか? 道具も、だいぶ親父さんに鞄に詰め込まれてしまったようだが……」
「いいえ。折角だけど、あのマンションには行かない。今日はもう、帰るわ」
「そう、か……」
「一刻も早く、ちゃんと両親を説得したいから」
「え?」
「ちゃんと許可を貰って、心置きなく貴方と同棲したいの。だから……これから実家へ帰るわ」
 吹っ切れたように快活な笑みで、彼女はそう告げる。思わず俺まで、口角を吊り上げて何度も同意をしていた。しかし彼女の実家は東京都内ではあるが、品川からの交通の便はあまり良くない。この時間からの移動だと、夜道の危険もあるかもしれん。
 どうにか出来ないかと思った時、財布の中に良い物があると思い出した。
「それなら、このタクシーチケットを使ってくれ」
 財布から取り出し、彼女へ上限2万円のタクシーチケットを手渡す。多分、これで足りるはずだ。
「……え? これ、タクシーチケット? どんな距離でも自転車か歩きで行きそうな程にケチな貴方が、なんでこんな物を?」
「先日、講演をした時に無理やり渡された物だ。これも経費という名をした、袖の下の一種かもしれんが……。贅沢が身についたら困ると電車で帰ったから、余っていた。換金も出来ないし、先方は自由に使ってくれていい、と言うからな。同僚に格安で売ろうかと思っていたんだが……。雪華さんの安全の方が、大切だ」
「……ケチの昭平さんが、そんなことを言うなんて」
「こんな端金より、雪華さんが安全に家に辿り着くって安心の方が大切なんだ」
「……今のが一番、昭平さんが私を本当に想ってくれてるんだって伝わる、衝撃的な言葉だったわ」
「どういう意味だ、それは?」
 本当に無礼な人だ。金より大切だというのを、実行に移して見せたからか? 俺の言葉は、信用していなかったと?
「妥当でしょ。それより、また連絡先教えてよ。お父さんにブロックした上で連絡先を消されちゃったし。電話番号も、今度は偽名で登録しておくから。ケチっぽい名前で」
 若干の憤りを覚える扱いだ。これがファーストキスを失った夜なのか? 雪華さんこそ、ロマンチックの欠片もない。しかしホテル前のタクシープールから、決意を込めた表情で去って行く彼女の格好良い横顔を見られて、その鬱憤も消え去る。
 彼女がタクシーに乗っている間、益体もない雑談のようなメッセージを繰り返した。熱を持たない機械文字なのに、その繋がりが心地良い。
 そして実家へ到着した後から再び、彼女へ連絡はつかなくなった――。

 翌日以降、俺は毎日のように東央ニューホテルのウェディング会場へ通った。スマホで連絡のつかなくなった彼女に、話し合いで何があったのかを確認する為だ。
 だが、何日通っても彼女の姿はない。さすがにこれは異常事態だ。職場にすら居ないだなんて……。退職をするにしても、1ヶ月前には上司へ意思表示する就業規則がある会社が殆どだ。引き継ぎだってあるだろう。ぱったりと姿を消すなんて、あり得ない。特に彼女のような仕事へ矜持を持つ人ならば、余計に考えられない。やはり、なんらかの事件に巻き込まれたと見るべきか。警察に相談も違うし、どうする? どっかの過保護親父のように、興信所へ行方不明として捜査を依頼するか? いや、費用が――。
「――あの、川口雪華の彼氏さん、ですよね?」
「うぉお!? あ、貴女は……。確か、雪華さんの上司でしたか?」
「そうです。……あの、ここ最近は毎日、ここへいらしてますよね?」
「ああ、いや……。その」
「……川口と、何かあったのでしょうか?」
「何かあったのか、とは?」
「先日、川口のお父様が突然いらしたのです……。近くに娘のストーカーが居るから、安全が確保出来るまで休職をさせたい、と。丁寧に頭を下げられまして……。会社側も協議の結果、安全が確認されるまでの休職を認めたんです。……まさかとは思いますが、そのストーカーとは」
 貴方のことですか、と言いたそうにしているが、さすがに口にするのは躊躇っているようだ。
 しかし、あの親父さんが頭を下げている場面か……。是非とも、この目で見たかったな。だが事情は理解した。
「そのストーカー疑いの相手には、心当たりがありますよ。しつこく、病的に細かく偏屈という噂でしてね。更には諦めも悪い。……早急に疑惑を晴らして、彼女を復職させてみせます」
「ありがとうございます。川口は仕事も大好きでしたから。……陰ながら、応援しておりますね」
 雪華さんの上司に背を見送られ、俺はホテルを後にする。
 これで明日からの方針は決まった。人をストーカー扱いとは……。良い度胸だな、親父さん。それなら、トコトンやってやろうじゃねぇか――。
 
 翌朝。俺は非番だったこともあり――朝から彼女の実家へとやって来ていた。
 だが俺はアポイントメントもなく早朝から乗り込むような、どこかの自分勝手な感情のみで動く過保護脳筋爺とは違う。郵便配達などでも訪問される、常識的な時間の範囲に訪れた。時刻は午前9時丁度だ。パシッと着込んだスーツのネクタイを、キュッと締め直す。
「よし、敷地に入らせてもらうか」
 スマホのデジタル時計が午前9時になった瞬間、彼女の実家である農園の敷地へと入る。始発に乗って到着し、数時間も経っていたからな。足が土に取られそうだ。
 数分も歩いていないだろうが……人影を見つけた。
「……お袋さん?」
 近づいて目を凝らして見てみると果樹園で作業をしていたのは、間違いなくお袋さんだった。
 以前に品川で会った時のように、上品な衣服ではない。汚れても良い作業着に日除け帽子を被っているから、パッと見では分からなかった。
 あちらも、俺の存在に気が付いたらしい。作業を中断して、小走りに寄って来た。
「貴方は先日、品川でお会いした……。その、雪華と一緒に私たちを騙していた方ですよね? 本日は、なんの御用でいらしたのでしょう?」
「――すみませんでした! 俺たちは、ご両親に対して社会通念上の常識や倫理に反する行いをしてしまいました! その不誠実さを、まずは詫びさせてください!」
 バッと、俺は土下座する。額を土にめり込ませるように、深く深く頭を下げた。
「ええ!? ちょ、こんな所で土下座なんて……。折角の綺麗なスーツに、ど、泥が付いてしまいますよ!?」
「良いのです、いくらクリーニング代がかかろうとも! 最悪、買い直しになっても構わない! この不誠実を詫びずに、貴女へと向ける顔がない! ですが、その上で厚かましいお願いがあります。今の俺たちは、本気で愛し合っている! だから、だからどうか――」
「――昭平さんの綺麗なお顔を、私に見せてください」
 その優しい言葉に、ゆっくりと顔を上げる。そこには慈愛に満ちた笑みを浮かべる、上品な老婆の顔があった。以前も思っていたが、この丁寧で優しい言葉……。何故この天使のような母親から、川口さんのように口汚い子供が産まれたのだ? やはり、父親の影響か……。

「私はてっきり、お金で解決を迫られると思っていたのに……。やっぱり、あの子の言う通り。夫が言っていたような……。お金のことしか考えない、血も涙もない冷血漢じゃなかったわね。土下座なんて、何一つ金銭にはならないわ。感情論での謝罪の究極じゃないですか」
 それは俺に話しかけているというより、自分の中で何かを整理しているかのような言葉だった。だが、このまま黙っているのも失礼に当たるか。
「お金は、目的を遂げる手段に必要なだけです。真に大切なのは、誰と何を成し遂げるか。そう、娘さんとの生活から学ばせて頂きました」
「雪華から昭平さんのことを詳しく聴いたわ。夫は何を言われても聞く耳は持たなかったけど……。やっぱり、私はあなたが夫の言うような悪人には思えないの。案内するわ」
「親父さんは、農園に居ないのですか?」
「さっきまでは居たんだけど、体調が悪そうだったから帰したのよ。……この所、娘が勤務するホテルの管理者に頭を下げたり、慣れないストレスが沢山あったから。少し疲れているのかしらね? ちょっと休むように、強く言ったわ。今は家で、あの子が逃げないように見張ってると思うわ」
 元々、あの親父さんは高血圧やら中等度以上の糖尿病で医者に通っていると言っていたからな。体調も崩しやすいだろう。それでも家で見張っているというのは、さすがの根性だとは思うが。
 兎に角、だ。俺はお袋さんに案内され、雪華さんが育ったという生家まで案内してもらった。
 日本家屋の大きな家だ。塀はなく、トラクターと一緒に高級外車が並んでいる。
 そんな玄関先で、俺は待たされていた。
「……気まずい」
 家の中から怒鳴り合いの声が聞こえるからだ。海外のホームドラマのように仲が良かった一家だが、口喧嘩はまともにするらしい。「今すぐ帰らせろ、誰が合ってやるものか!」、「良いから会いなさい!」、「私が会いに行くわ!」、「行かせてなるものか!」などと、3人の激しい口論が聞こえてくる。
 波風を立たせた張本人が、屋外で唯々待っていること程に気まずいこともないな。
 やがて「お前たちはここで待っていろ!」という怒声が聞こえたかと思うと、ドタドタ音を立てて玄関に近づいてくる足音が聞こえた。この品性の欠片もない下品な足音は、親父さんだ。
 俺はすかさず、玄関先に向けて土下座した。
 ドアが勢いよく開く音がしたかと思うと、足音が目の前まで近づいてきて――。
「――帰れ! 二度と娘に近づくなと言ったはずだ!」
 俺を蹴り飛ばしながら、親父さんが怒声を発しているのが分かった。地を転がった俺は、素早く土下座をし直す。
「偽装同棲などという、倫理や常識に反することをしたのはお詫びします! ですが今は、心から雪華さんを愛している! 必ず幸せにする覚悟もあります! どうか――」
「――貴様に娘の幸せの何が分かる!?」
 再び、蹴り飛ばされた。人をゴミのように蹴り飛ばしやがって……。だが娘と共謀とは言え、騙されていたのだ。怒るのも理解が出来る。
 両膝を突いたまま、親父さんに視線を向ける。精神的な興奮からか呼吸は荒く、胸を押さえていて苦しそうだ。それでも視線で射殺しそうな程の殺意を込めて俺を睨みつけている。
「仕事もプライベートも認め合い尊重し、気兼ねなく言いたいことをぶつけ合い、支え合えるパートナーが出来る。それは幸せなことです!」
「貴様が、貴様如きが……そんな上等な存在だとでも言うつもりか!?」
「そうです! 少なくとも、俺は娘さんと暮らせて変われました! 私の知らない幸せを売る仕事で、最初は理解不能な生物でした。でも良質な幸せを提供しようとする雪華さんの努力と成果を見てきて、自分には出来ない仕事をしていると尊敬しました。眩し過ぎるぐらい明るく幸せをコーディネートする職務への誇りを尊重しています! 今後も笑いながら、気兼ねなく励めるように支えるつもりです! 実際、そうなっていたという実績もあります!」
「僅かな金をケチり、娘に不自由な生活をさせた貴様が何をほざく!?」
 こんな大きな家で何不自由なく物を買い与えた親父さんから見ると、俺は大層不自由な生活をさせた甲斐性なしに見えるんだろうな。だがこの過保護爺は、大きな間違いを犯し続けている!
「……失礼ながら、アナタは娘さんの自由を勘違いされています」
「なんだと!? ワシほどあの子に自由で幸せな生活をして欲しいと願ってる者はおらん!」
「それは違います! 自由には、責任とリスクが伴います! 娘さんは大変、危険な状態でした!」
「雪華が危険な状態だった、だと? どう言うことだ!?」
 そんなことも分からないのか?……いや、雪華さんも退居費用が払えない時に親には言えないと話していた。そう言う意味では、彼女の金銭管理能力が致命的な程に破綻していることを親父さんが知らないのも無理はないのかもしれない。
「貯金1つない。収入に合わぬ、計画性のない無駄遣い。出会った頃の彼女の自由とは、今しか見ていなかった。何か事故があれば、直ぐに破綻する危険なものでした!」
「では貴様のように過度な節約で、息苦しい生活をするのが自由だとでも言う気か!? 小姑のようにネチネチと責めていたくせに!」
 何故そこまで知っている? まさか、とは思うが……。盗聴などしていないだろうな? 興信所を使い、屋外での出入りを調べさせていたのなら兎に角、だ。盗聴は家族であろうと罪に問われるぞ。
 厳密に言えば、盗聴器を仕掛けることが罪になるのだが。もし勝手に住居に侵入していたのなら、3年以下の懲役刑だぞ? いや、忍び返しに有刺鉄線、その他万全な防犯対策をしている我が家に忍び込むのは困難だ。ならば、彼女の私物か? それなら、家族の問題か……。
「確かに俺は先ばかり考えていて、非常識な程に倹約家で、細かいかもしれません! 給料を全て投棄対象へ使い切る、非常識な程に浪費家で大雑把な彼女と足して2で割れば丁度良いです!」
「雪華と貴様を、足して2で割るだと!?」
「そうです! 未来への道筋ばかり考えて、俺は今すぐ壊れてもおかしくなかった。俺が必要なこととして引いていた常識のラインは、世間にとって非常識だった。お互いに常識が狂っていたのを、対極の視点だからラインを見る目も判断も対極です! 喧嘩し合いながらも自由に言いたいことを伝え、互いに修正が出来てきた。自由に討論し合うことで、雪華さんも俺も、やっと常識的で釣り合いが取れた生活が出来ると思うんです!」
「それがあの子の幸せなものか! 好きな物1つ買わせてやらない、甲斐性なしの言い訳に過ぎん!」
「ずっと過保護に雪華さんを囲い、好きな物を買い与えて甘やかし続けるおつもりですか!?」
「それがあの子の幸せなら、ワシが頑張れば良い!」
 なんという……。後先を考えず、計画性のない親父なんだ。それでは――雪華さんが可哀想だ!
「それではペット、愛玩動物と同じだ! 金を与え、自由に使わせるばかりが愛じゃない! 常識を教える厳しさも、必要な愛情表現だ!」
「なんだと、貴様!」
「平均寿命で考えれば、どう考えてもアナタより雪華さんの方が長生きです! 父という世話人が居なくなった後、雪華さんは常識も知らず、収入に見合った生活も出来ずに破滅してゆく! そんなのは自由なんかじゃない! 親の自己満足で愛でている無責任な愛だ! いや、愛なんて呼称するのも烏滸がましい。自分だけ満足すれば言い、責任逃れの差別だ! 雛鳥を巣立たせる気もない、無茶苦茶な親鳥だ!」
 ぐぬっと呻り何かを言い返したいのか、唇をわななかせながら息を切らせている。
 そしてどうなるのか気になったのか、お袋さん。そして雪華さんが――玄関先に出て来ていた。胸の前で手をギュッと握り見守ってくれていた。
「……最初は、不倶戴天の敵だと思っていました。でも、あの狭い1LDKで共生するうちに互いの考えにも一理あると学べた」
 先ほどまでのように怒鳴り合いではない。落ち着いたトーンで語る。どうすれば説得が出来るのか、理論立てて、ゆっくりと。
「仕事もプライベートも充実したまま、常識ある範囲で、日々楽しいと思える生活をさせてあげたい。足りない所を補い、支え合いたい。お互いにそう思えるよう、考え実践させて欲しいんです。私に至らない所があれば明確に教えてください。最大限の尽力をします。娘さんと一緒に居させてください」
「……貴様が開業して成功する保証はない。独立がどれ程に大変かも分かっていない、雇われのくせに。独立拡大路線が失敗した時、残るのは多額の借金だけだ! 若造が大口を叩くな!」
「だからこそ私は、節約で自己資金を貯めているんです。勝算をより確実へ近づける為に。金だけじゃない。下げたくない頭を下げ、媚びを売って成功への根回しだってしてきました。それでも失敗したなら、いくらでもやり直せる。少なくともそう出来るように日々寝る間を惜しんで準備をしています」
「減らず口を……! 医者ってのは、どいつもこいつも口先が上手いんだな! ワシを重病人のように脅して金を毟る町医者と、貴様は同じだ!」
「口先だけではありません。これを見てください」
 手提げ鞄の中から、今日の為に夜通し準備していた書類を取り出し、親父さんへ両手で手渡す。親父さんは、受け取りもしない。唯、見下ろすように俺が差し出した書類を睨めつける。
「なんだ、その分厚い紙の束は?」
「医者は研究を始める時、研究計画書を作成して実現可能性まで他の医者に説明し、承認を得るんですよ。この書類は私たち2人が生活し続けた時に生じる利益、不利益。予測される困難な可能性とその対処法を、先人が築き上げてきたデータや統計から導きだしたものです」
「……な、なに?」
「ここに開業が成功した時の収益とライフプラン。失敗した時のリカバリープランも載せてあります! 考えなしに同棲を続けさせてくれと申し上げている訳ではありません!」
「下らん、貴様の口車になど乗らんわ! こんな小難しく書かれた紙切れなんぞ、実に下らん! 夫婦生活というのは、予想外の連続だ。このようなものは、机上の空論に過ぎん! 大切なのは、その場その場の困難を互いに乗り越える想いだ! 医者はこんなもので説得出来ようと、ワシを説得出来ると思うな!」
 この脳筋頑固親父、人が賢明に考えて造った書類を――読みもせずに破り捨てやがった!? それは人として超えてはならない一線だろう!? これだから理屈の通じないヤツは……。だが落ち着け、冷静になれ。俺がここに来た目的を忘れるな。理論も通じない相手、ならば――掛け値なしの本心で、ぶつかるしかない!
「俺は娘さんを愛している! もしもの時も、最悪の不幸に付き合わせないよう、いざと言う時に巣立って生活できるように、厳しい優しさも伝えてきた! だから、娘さんとこれからも一緒に居させてください! 一緒に暮らしたい、初めてそう思える人だったんです!」
「あの昭平さんが、感情論で……」
「もういい! ワシの軽トラに載れ! 街に捨ててきてやる!」
 片手で胸を押さえたたままの親父さんは、辛抱出来なくなったのか――俺のスーツの襟を掴み、引きずり始める。なんて力だ。180センチメートル以上ある俺を、引きずるとは。だが意地でもここを離れてたまるものか! 先に住居侵入したのはアンタだからな。俺は帰れと言われても、絶対に立ち上がらん!
「説得が出来るまで、俺はここを離れません!」
「抵抗するな! 早く立て!」
 顔を真っ赤にして怒鳴りつけていた親父さんが――急にガクッと膝を折り、地面に倒れ伏した。
「――ぅ……ぐぅッ!?」
「お義父さん? どうしました、胸が痛むんですか!?」
「き、貴様に父と呼ばれる、覚えは……。ぐぅ、ぁあ……」
 慌てて縋り付くと、呻きながらも――しゃくり上げるような呼吸が呼吸音が聞こえた。
「――いかん! 死戦期呼吸だ! お袋さん、直ぐに救急車を! 雪華さんはAEDを持って来てくれ!」
 ここまでの身体症状からも、急性心筋梗塞の可能性が高い。だとすれば、時間との勝負だ! 
 俺はすかさず胸骨圧迫を開始しながら、そう指示を飛ばす。既に親父さんの意識はない。狼狽しながらも、お袋さんが涙目に屋内へ駆けて行くのが見えた。救急車の手配へ走ったのだろう。問題は、雪華さんの方だ。
「何をしている!? 早くしろ!」
「え、AEDがどこにあるのかなんて、分からないわよ!」
「俺の鞄からスマホを出せ! 日本全国AEDマップと書かれたアプリが入っている!」
「え、わ、分かったわ。……こ、これ?」
「そうだ! 一番近い所に向かって、直ぐに持って来い! 車でも良い!」
「う、うん!」
 足をもつれさせながらも、雪華さんも行動へと移った。俺はその間、適切な救命処置が出来るよう全力で胸骨圧迫を行う。雪華さんが向けたスマホには、9時24分と表示されていた。心停止が起きてから現在1分程度の経過。通報から救急が現場到着するまでには、9分前後かかると言われている。つまり、10分以上は俺1人で胸骨圧迫を続けなければいけない。
 汗が髪先から滴り、飛び散る。――だが疲労したなんて言ってられない。心臓の血流を胸骨圧迫で補助しなければ、致死率は飛躍的に上がる。後遺症率もだ!
 心筋梗塞は突然死もあり得る。だが不幸中の幸いか、まだ生きている。病院に運び込まれても5から10パーセントは亡くなる重い病。だがAEDを使用すれば生存率は跳ね上がる。AED不使用での生存率が8.1パーセントに対し、AEDを使用すれば32.1パーセントだ!
「しょ、昭平さん! 救急車、直ぐに駆けつけるそうです!」
「AED、取って来たわ! これを開けば良いのよね!?」
「ああ、そうだ! 俺は胸骨圧迫を止められない! 音声案内が流れるから、落ち着いてやれ!」
「わ、分かった。頑張るわ!」
 続々と人が帰って来て次の行動に移る。救急要請にかかる時間は約2分。AEDは片道1分程度の場所に設置されるのが目安だ。農園という立地から、少し遠かったようだが……。車を飛ばしたのだろう。思ったよりも早く戻ってきてくれた。
 お袋さんは涙を流して狼狽えているが、俺を医者だと知っているからだろう。信頼したように見つめている。両指を祈るように組みながら、「お願い、助かって」と。
「準備出来たわ!」
「――よし!」
 俺はすかさずパッドを貼り付け、AEDの解析結果を待つ。すると『電気ショックが必要です』と音声が流れた。やはり、か! AEDは心疾患の全てに対応し電気ショックを流す訳ではない。だが心筋梗塞には非常に有効だ。
「全員、離れろ!」
 全員が離れているのを確認し、電気ショックを流すボタンを押す。バンッと、親父さんの身体が軽く跳ねた。そして直ちに胸骨圧迫を再開する。
「ね、ねえ! もう助かったんじゃないの!? AEDはどうすれば良い!?」
「まだだ! 病院で処置するまで、ずっと続ける! AEDもそのままで良い! 以後は2分毎に電気ショックの必要性を解析してくれる! 絶対に電源は切るな!」
「わ、分かったわ!……お願い、お父さんを助けて。こんな強引な人でも……私を大切に想ってくれる、たった1人のお父さんなの」
「――全力を尽くす!」
 医者として、絶対に助けるなんて……。間違ってもいない。だが医者としても人間としても――全力を尽くすことは誓う。それが俺の仕事に対するプライド。そして最悪の不幸に陥らせないという、信念があるからな。
 救急隊は、予想通り9分程度で到着した。
 問題はこの後だ。
「――そうですか、分かりました」
 そう、救急車に搬入された後だ。救急隊の到着までは、平均9分。だが救急への入電から病院収容までの平均時間は、40分から42分。最悪の差として、33分間を搬送先を決める時間と搬送時間に費やすことになる。
 案の定、搬送先の病院が直ぐには決まらないようだった。お袋さんや雪華さんは、一向に発進しない救急車を見てヤキモキしている。
 胸骨圧迫を救急隊員に引き継いだ俺は――スマホで一本の通話をかけていた。
「行けますか!? ありがとうございます! はい、直ぐに救急科へ入電があると思います」
 通話を切ると、俺は搬送先を探している救急隊員へと声をかける。
「俺は東林大学病院の医者です! 今、伝手で近隣の病院から受け入れ可能と返事を貰いました! 病院名は――」
 最初は煩わしそうにしていた救急隊員だったが、試しに電話してみて、事実であったのを確認したようだ。受け入れ可能の返事が返って来たのが窺える。
 そうして救急車は搬送先の病院へ向け走り出す。これならば病院収容して初期治療を行うまでの平均時間は大幅に短縮出来そうだ。後は病院到着後、カテーテル室への入室がスムーズに行くよう、俺の伝手が活きることを願うばかりだ――。

 救急搬送後、急性心筋梗塞の診断で早期に手術が執り行われた。
 無事に成功し、脳に後遺症などはなさそうとのことだ。当然、今後の生活や運動量に制限は残るだろうが。
「……あの頑固親父めが」
 何故、こうも不確かな情報しかないか、と言えば――あの親父が、俺との面会を拒んだらしい。部外者には会わない、と。患者にそう言われては、病院側は頷くしかない。
 結果として俺は、医者なのに患者家族から情報を伝え聴くしか出来ないという憂き目に遭っていた。お袋さんや雪華にはもの凄く感謝され、今後は同棲の説得もしたい。だが今は、興奮させたくないから強く言えなかったとのことだ。気持ちはよく分かる。
「そちらが意固地になるのなら、こちらにも考えがある」
 俺はスマホをポケットから取り出し――奥の手を使わせてもらった。

「――具合は如何ですか?」
「……な、何故、貴様がここにおる!? ワシは貴様の面会を……ぐぅ」
 まだ手術直後で呼吸も苦しいだろう。俺はICUに設置された計測機器に表示される数値を見ながら、問題のない範囲であることを確認する。それを見てナースも安心したのか、従来の業務へと戻ってゆく。
「興奮なさらずに。――医者ってのは、インテリヤクザって言われる程に仲間意識が強いんです。特に医局ですが、学会の懇親会で意気投合し、共同研究した相手も同じですな。ここの院長は、私と共同研究をした方でしてね。こちらの病院にある救急科病棟のスポットバイトも、先日お誘いを頂いていたんですよ。それを、お受けさせてもらっただけです」
「貴様、どこまで卑劣な……」
「まだ興奮なされずに」
「誰のせいだと思って……」
 そこで自分が置かれている状況――何が起き、誰に何をされ、生きているのか。そう思い至ったのか。視線を気まずそうに小刻みに揺らした後、口ごもった。医者として、人間としてやるべきことをしただけだ。恩に着せる気はない。だが散々俺を蹴り飛ばした人と同一人物とは思えない変化が、少し愉快でもある。
「……貴様のせいで、憤死しかけたわ」
「歴史上、憤死したと伝わる人物は確かにおります。ですがそれは、医学的には存在しない死因ですよ。年単位の長期的な強い心理ストレスが蓄積することにより、健康を害して死亡に至った。それを憤死と表現しているに過ぎませんからね」
「貴様のせいで、数年分のストレスが一気に溜まったのだ」
「それは現代医学への挑戦ですな。断民という究極の心理、身体へのストレスを200時間以上続けても、人は死ななかったという記録もあるんですよ」
「ええい、喧しい! この時間にもストレスが溜まるんだ! 貴様は私の命を救いたいのか、それとも止めを刺したいのか、どっちなんだ!?」
「俺の願いは2つです。1つ、貴方の命を救いたい。2つ、雪華さんと同棲する許可を頂きたい。……それだけです。どうか、お願いします」
 スッと、頭を深く下げる。ICU内で、医者が患者に深々と頭を下げることなど滅多に目にするものでもないだろう。だがやっと得られた譲れないことの為に、公私混同をしている。これは俺の中にある良識の一線を越えている。願いだけでなく、改めて謝罪の意味を込めて頭を下げた。
「……ふん。雪華も、もう大人だ。……貴様の言う通り、巣立ちの時期だったのだろう」
「では、同棲を認めてくれる、と?」
 頭を上げ、親父さんの顔を見ると、不機嫌そうに顔を顰めていた。
「興信所の調査は、不定期で入れる! 娘を悲しませてみろ、ワシは地獄からでも貴様を呪うからな!」
「分かりました。……娘を巣立たせる気、ないだろう。親バカ頭鳥が」
 余り興奮させても困るという配慮から、後半は聞き取れないように小声で呟いた――。

 それから数ヶ月が経過した。
 季節はもう晩秋にさしかかる頃。
 俺は雪華さんと共に、東央ニューホテルへとやって来ていた。
 目の前に座っている雪華さんの上司が、スッと差し出してきた用紙に目を通し――。
「――ば、バカな!? 母親がベールダウンするだけで、5千円のオプション料金が発生するだと!? ヴァージンロードを歩く前にパサッと下ろすだけの行為に!? ふ、ふざけるな、ボッタクリだ!」
 思わず目を剥き、大声で叫んでしまった。挙式、披露宴。その見積もり額を見ると、視界がホワイトアウトしてゆく。ああ……。ショックで呼吸困難になりそうだ。
「ボッタクリじゃないわよ、白目剥くな! これは新郎の元へ父親と歩み寄る前に、母親が入り口でベールを下ろしてあげるという特別感のある儀式なのよ!? これは絶対に入れるからね!」
 隣に座る雪華さんは、断固として譲らないと眉をキッと引き結んでいる。コイツ、浪費家だ浪費家だと何度も再確認していたが――やはり、生活破綻レベルの浪費家だ! 寄生虫だ! 結婚資金だって、自分は全く貯めてもいないくせに!
「ふざけるな、自分でベールを下ろして入場してくれば無料だろう! 特別な技術もない雰囲気演出なんぞに金を出せるか! 論外、却下だ!」
「何よ、自由に議論し合える方が健全で素晴らしいとか言ってたくせに!」
「これは議論にもなっていない! アンタが我が儘を通そうと駄々を捏ねているだけだ! 大金がかかる分、子供のように可愛げもない! 大人になれ!」
「はぁ!? 唯の水族館で興奮した幼児みたいに騒ぎ回るようなヤツが、大人を語るんじゃないわよ!」
 一体、何時の話を持ち出して来るつもりだ!? そう言う所が諍いの原因になると、どうして理解出来んのだ!?
「また関係ない話を持ち出して来やがって! ならば俺も言わせて貰うがな、アンタの浪費は常識が狂っている! 化粧品が必要なのは理解出来る、だが高級化粧用品である必要がどこにある!?」 
「安物で済ます油断が、5年10年後に肌の違いとして現れるのよ!」
「化粧用品なんて、成分比率をほんの僅かに変えただけで新作と売り出すと知っているのか!? 薬剤知識があれば、成分を見て直ぐに分かる! そもそも数値化して効能を論理的に説明することすら出来ない代物だぞ! こんなことは常識だろう!?」
「あんたの常識は世間の非常識なのよ、貯蓄バカ! 高級品は使用感がまるで違うのよ! 化粧をしたこともないのに、偉そうに語らないで!」
「一体なんなんだ、特別感や使用感などという不明瞭な価値基準は!? 得に化粧水なんて中身の原価は激安でほぼ水だ。化粧水原材料費が2円程度、対して容器に包装代金は300円程度と言われている! 150倍だぞ!? 高級酒のような瓶に何万と金を払い、違いが分かったつもりに浸りたいだけだろう! 騙されても笑顔で搾取されるアホめが!」
「このロジハラ野郎、絶対に許さない! やっぱり、あんたは生かしておけないわ! ここで縊り殺してやる!」
 俺が正論を突き付けてやると、いつか俺の部屋で暴れて警察沙汰になった時のように、両手で胸ぐらを掴んで来た。口論や議論で勝てないと、直ぐに暴力に訴えかけて来やがる。顔の美しさはお袋さん譲りなのに、堪え性の乏しさは親父さんに瓜二つだな!
「またしても暴力か! 自慢の化粧品セットで図工した顔が歪んでいるぞ! 無駄遣いだったな、今度からは水でも塗って貯金するが良い!」
「……あの、川口さん? うちのホテルで殺人事件はやめて欲しいんだけど……。犬も喰わない痴話喧嘩は、家でやってくれない?」
「あ、す、すいません!」
 慌てて席を立ち、ペコペコと頭を下げる。処世術に長けている雪華さんらしい行動だ。
 苦笑しながら、優しい瞳を向けていた上司さんに、やっと気が付いたのか。これだから感情で視野が狭まる輩は……。俺は席から立ち上がり、乱れた服を整える。そして上司さんへと軽く頭を下げた後、雪華さんに――。
「――ハンッ。家でじっくり常識を叩き込んでやる」
 居丈高に、そう言い放つ。そしてホテルの出口へ向け歩き出す。
 雪華さんは面白いように俺の言葉へ反応した。表情を般若か古い不良のように歪めながら、俺の隣へ小走りで追いついて来る。
「上等よ! あんたこそ、あの部屋から泣いて逃げ出すんじゃないわよ!?」
「誰が泣くものか!」
「どうだか! お義父さんから、私が居ないのが寂しくて泣いてたって聞いてるんだからね!」
「なっ、なんっだと……。飲んだくれクソ親父が、余計なことを言いやがって!」
 ホテルを後にして、俺たちは口論しながら帰路に着く。
 2人で暮らす1LDKマンションを目指して。だがこの口論する時間も――幸せだ。自由に議論が出来て、視野が広がる。
 俺たちは、どちらも別の方向で――常識的とは言えないだろう。
 俺は不幸な世界で生きるのが当たり前と、視野を狭め歪んでいた。
 彼女は幸せな世界に生き、汚く不幸な部分からは目を逸らして、破滅的なまでに眼前しか見ていなかった。
 俺は計画通りに進める、過度な節約家。
 彼女は過度にノープランな浪費家。
 どちらも1人で暮らしていれば、いずれは破綻していたかもしれない、極端に真逆な2人。
 だが、真逆で良い。むしろ、それがお互いのメリットデメリットを釣り合いが取れたものへ昇華する。
 一般論のように、お互いが同じ価値観じゃない者同士でも、上手く生活は出来るんだ。
 狭い1LDKの間取り。イヤでも毎日顔を合わせる。完全無視なんて出来ない同棲生活。
 心からの議論を交わし合えれば、互いに共存共栄して幸せになれる。
 そう、俺たちは確信している――。