4章

 偽装同棲生活が始まってから、2ヶ月以上が経過していた。
 そして俺は、偽装同棲生活を受け入れたことを――心から後悔していた。
「い、一体、なんなんだ!? この電気料金の徴収額は!? 何かの間違いじゃないのか!?」
 夏の心地良い黎明の光が差し込む中、自宅マンションへと帰り着いた。そして階段を上っている最中、思わず絶叫してしまった。スマホにインストールしている電気の使用量や目安、請求金額を確認出来るアプリを、ふと開いて確認した瞬間だ。途端にカッと体温が上昇していくのを感じる。
「アイツ……。金銭管理能力が常識外過ぎるだろう!」
 手数料が安くなるからと口座引き落としにしていたから、発覚に時間がかかってしまった。不覚だ!
「この間は退居費用が敷金を上回ってるのが予想外だったとか言いやがったし……。挙げ句、クレジットカードをリボ払いにしたり、消費者金融などと金利が高い所で金を借りてやり過ごそうとしやがるし……。生活能力が酷過ぎるぞ!」
 結局、借用書を書いた上で俺が貸した。無利息で、だ。親にも同棲生活に不安を与えるから言えない。職場仲間や友人には、仕事が出来る女で通しているから、お金を借りられないから、と。
 もう少し、俺が気が付くのに遅れていれば、川口さんは余計な金を払う所だった。その無駄遣いの熱も覚めやらぬうちに、この電気代請求だ。電気代は数ヶ月遅れてから請求額の通知が来るというのも、発覚が遅れた理由の1つだろう。
 兎も角、文句を言ってやらねば! 堪忍袋の緒も切れたというものだ!
 俺は自室のドアを開くなり、声を荒げる。
「オイ、この電気代は――」
「――インターホン!」
「……そうだったな。済まない」
 舌打ちをしながら、インターホンを今更ながらに鳴らす。怒りとパニックで忘れていたが、ドアを開ける前にインターホンを鳴らす決まりだった。理由はあれど、この線引きを破ったのは俺が悪い。
「で? 今度はなんのお小言? どうせ、また小姑みたいにイビるつもりでしょ?」
 カーテンを少しだけ開き、顔を覗かせている。寝起きで出勤の準備をしていたのか、非常に面倒臭そうな表情で……。余計に怒りが増す。
「電気代だ!」
「電気代?」
「そうだ! アンタ、どうせ家を出る時に家電のコンセントを抜かなかったんだろう!?」
「……は?」
「良いか!? コンセントを挿しっぱなしで生じる待機電力は、年間平均228キロワットアワーだ。これまでは年間7943円も節約出来ていた。月々の使用量が300キロワットアワーを超えると、1キロワットアワー毎に45円43銭に値上がりする。最初の120キロワットアワーまでは24円84銭で、毎月120キロワットアワー内で済んでいたのに! 先月は304キロワットアワーも使用していたんだぞ!?」
「朝から、本当にうっさいわねぇ……。2人暮らしなんだから、増えて当然でしょ」
「2人暮らしの平均は約200キロワットアワーだ! どれだけ無駄遣いしているか、見直す必要がある!」
 俺が冷静に話し合い、改善しようと言っているのに、川口さんは大きな溜息を吐いた。なんだ、まるで俺が間違っているかのような態度を……。
 これまでは月々2600円程度の電気代請求だったのに、折半しても倍ぐらい高くなっているんだぞ!? 偽装同棲の利点の1つであるはずの、光熱費が半額になるというのがむしろ俺にだけ負担増だ! これが黙っていられるか!
「コンセントを一々抜くとか……。イヤにならないの?」
「こんなことは常識の節約術だろう!?」
「あんたの常識は、世の非常識なのよ!」
 どっちが非常識だ! 俺は少し倹約家なだけだ。川口さんのように、貯金がないからとリボ払いや消費者金融をポンポン利用とする方が非常識だろうが! これだから、お金の大切さや怖さも知らないお嬢様育ちは困る!
「さすが、金持ちのお嬢様は違うな! だが庶民の世界ではこれが常識だ!」
「私だって1人暮らししている時は庶民の生活をしていたわよ! でもね、同僚でも友達でも、あんたみたいなサバイバル生活をしているヤツは居なかったわ!」
 またしても俺がサバイバル生活をしていると罵りやがったな。類は友を呼ぶと言うからな。川口さんの周囲には、金遣いの荒い人が集っていたのだろう。ならば、この異常に計画性がない金銭感覚で身を滅ぼす前に、俺が常識を教えてやらねば!
 改めて、冷静に電気の使用について話し合おうとするが――。
「あ、化粧始めるから、もう話しかけないでくれる? 手元や加減が狂ったら困るの」
 ピシャッと、カーテンを閉められた。
 ならば、と意固地になってカーテンの前で待ち続ける。
 そして化粧が終わったのか、やっと出て来た。そうかと思えば、クローゼットから通勤用の服を取り出すなり「覗くつもり? 部屋に籠もっててくれない?」と追い出された。
 そう言われては、自分の寝室に籠もるしかない。寝室で憤りながら待ち続けると、バタンとドアが閉まる音がした。
「は!? まさか……」
 まさか、俺がこれだけ待ち続けていたと言うのに、気にせず出て行ったというのか!? 
 慌てて寝室から出ると、室内には既に誰も居なかった。本当に、無視して仕事へ行きやがった。
「畜生! 逃げられた!」
 悔しさに顔を顰めてしまうが、本人が居ないのではどうしようもない。
 どう節約に協力してもらうか、常識を教えこむかと考えながら、俺は次の出勤時刻まで暫しの睡眠を取る――。

 そしてまた、翌日の深夜。俺は愛車を停めてマンションへの階段を上る。
 手には一枚の書類を用意していた。分かりやすく、出勤までにやる流れを纏めたものだ。情報量が多過ぎると、人は読まない。口で言っても聞かないなら、分かりやすい書面だ。
 しかし折角作成したは良いが、川口さんは明日、休日だ。シフト勤務カレンダーアプリの連携は未だに続いているから、家に居るか居ないのかが一目で分かる。
「同棲条件として、翌日川口さんだけが休みの場合には実家に行くよう言われていたからな。あの寄生虫、今日は里帰りか」
 仕事後の疲れた身体で6階までの階段を上るのは辛い。ドアノブへカギを差し込み、開く方向へと回す。思わず疲れたと呟きながらドアを開く。
「……インターホン、鳴らしなさいって言ってるでしょ」
「……え?」
「あんたは、私にグチグチと言うくせに。自分だってだらしがないじゃない……」
 室内から川口さんの力ない声が聞こえた。瞠目しながら室内を覗き込むと、ソファーに体育座りしながら背を向けている川口さんが映る。
「アンタ……。実家に帰らなくて良いのか?」
「……気分じゃなかったの」
 落ち込んでいる、のか? いつもの不貞不貞しい態度は鳴りを潜め、弱々しさが醸し出されている。そう言う夜も、あるか。俺にも覚えがある。自分の無力さを痛感した時には、人知れず弱音を吐きたくなるものだ。
「……ねぇ。あんた、この後は暇?」
「まぁ……。シャワーも浴びてきたから、寝るだけだが」
「ちょっと、付き合いなさいよ」
 トンッと、テーブルにアルコール飲料の缶を置きながら、川口さんが言った。そこはカーテンの敷居内だが……入るのを許された、ということだろうか?
「分かった。手洗いうがいと、部屋着に着替えたらな」
「……相変わらず、細かいわね」
 ボソッと呟きながら、川口さんはチビチビと缶に口を付けている。
 ウイルスは持ち込まないことだ。同居者が居るのなら、尚更気をつけねばならない。しっかりと準備を整えた後、そっとカーテンの敷地内に足を踏み入れる。一歩踏み入れた所で様子を窺い止まるが、何も咎められることはなかった。気が変わった、やっぱり警察に通報すると言われることを警戒したのだが……。考え過ぎだったようだ。ホッとして、そろそろと近づく。
 床へ胡座をかき缶を手にしようとすると、川口さんは無言でポンポンとソファーの横を叩いた。座れということだろうか? 犬猫を呼ぶような意思表示だな。なんの為に口がついているんだ。だが素直に隣に来いと言える関係性でもない、か。
 苦笑しながら、ゆっくりとソファーの隣へ腰掛ける。……自分の借りている部屋のはずなのに、何故こうも新鮮で気を遣うのだろう。そう思いつつ、アルコール缶を空けた。折角タダで酒が飲めるんだ。大切に頂くとしよう。
 それに、気になることもあるしな。
「今日、ね……」
 暫し酒を味わっていると、川口さんがゆっくりと口を開いた。
「仕事で、失敗しちゃった」
「……そうか」
 何となく分かっていた。いや、人が落ち込むのは熱中していることか、大切にしていることで上手く行かない場合が殆どだ。川口さんの場合、それは仕事だろう。
「幸せなウェディングを提案したかったのにな……」
「どんな失敗だったのか、聞いても良いか?」
「……あんた、クロージングって分かる?」
「いや、分からん」
「簡単に言うと、契約成立のことよ。新規顧客にヒアリングして、ウチでウェディングを挙げる魅力を説明して契約をもらう流れよ」
「成る程な」
「予算の疑問とか不安に答えて、安心しながらウェディングを出来るようにプランを提示する。それが私たちの最初の仕事なんだけど……」
 その最初の仕事が、一番大切で大変なのだろう。俺たち大学病院の医者とは違い、ウェディングプランナーは営業のような業種にも思える。黙っていても契約を希望する人が来る、或いは多くの選択肢も与えられず、一刻を争って搬送されて来たり、紹介状を渡されて来る訳じゃないんだ。
「……失敗、しちゃった」
「商談もそうだろうが……何時でも成功する類いの仕事じゃないんだろ?」
「そうなんだけど……。今回の失敗の原因は、私のミスなの」
「ミス?」
「そう。私、実は東央ニューホテルのウェディングプランナーで、2番目に責任ある立場なんだけどね……」
 それは衝撃の事実だ。この私生活が壊滅しているヤツが、責任者だと?……いや、一度仕事を目にした時、あの姿は確かに出来る人の姿だった。あの姿しか見ていなければ、自ずと立場もついてくる、か?
「昨今、ブライダルマーケット全体が不調で……。ウチも、ノルマ達成率が凄い低いの。だから、焦っちゃった……」
「まさか……契約を強要した、のか?」
「ううん。普段、余裕がある時ならね。即決出来ない人の場合、一度持ち帰って、またこの日に話しましょうって提案していたの。クロージングのサンドイッチって言うんだけど……。その方がお客様も納得してくれて、成約率も上がるから」
「成る程……。ノルマ、か」
 ノルマ。営利を求める団体、企業なら、それはあるだろう。病院のように不幸が渦巻く場所でも、利益をどれだけ出すかは大切なのだ。そうしないと経営破綻して潰れる。大きな病院なら地域の基幹病院として救済を受けるだろうが……。一ホテルのウェディング会場だ。生き残る為の経営戦略として、利益をしっかり出せるようなノルマ設定ぐらいはするだろう。
「そう。今月は私個人のノルマだけじゃなくて、ホテルのウェディング部門全体の成約率が本当にヤバかったの。だから、焦って月を跨ぐ前に、今日中にって促して……。お客さんに、不信感を与えちゃった。もう、ここには来ないって……」
「大勢居る、一組だろ?」
「それでも、不審を抱いたって口コミは広がるの。ましてネット社会だから、口コミを見てから式場を探すしね……。新人なら兎も角、私が今回したのは、やってはいけないミスなの」
「そうか……」
「……何より、ね」
「うん?」
「あの時、私は……自分の利益や都合ばっかりで、お客様が真に幸福になることを、忘れていた。……それが、どうしても許せないの」
「アンタは……。アンタの仕事への姿勢は、本当に尊敬している」
 俯かせていた顔を上げ、川口さんは俺へと視線を向けた。アルコールが入っているからか、或いは泣いていたからか……。瞳が潤んでいる。普段は気丈な美女が、不意に弱った表情を見せる。これがギャップというものか。なんだか無性に、味方をしてやりたくなる感情に襲われる。
 だが、俺は言いたいことを言う。自分に嘘をついて、口先だけの優しさを見せるなんて出来ない。医者は一言一言に責任が伴う。不幸な中で、「必ず助けます」なんて軽々しく口にしてみろ。もし救えなければ、不幸に追い詰められた家族は、訴訟を起こす。やり場のない悔しさ、怒りの矛先としてな。
 そして訴訟になれば、まず負ける。だからこそ、医療従事者に無責任な発言は許されない。手術をするにも、何枚も何枚も同意書を書いてもらう必要があるんだ。
「だが結婚式なんて、俺は挙げたいと思わない。たった1日の為に大金を払って、本当に幸せなものなのか? 特に男は、ウェディングドレスを着る訳でもないからな」
「……あんた、私の仕事に喧嘩売ってるの?」
「単純に疑問なだけだ。偽装同棲の前、あんたが結婚後の資金に不安を持つ男の相談に乗っているのも見たが……。あれも、よくよく考えれば上手く口先で丸め込んだようなもんだしな。最初の高額よりは、これなら得だって手口でな」
「……良いわ。そんなに言うなら、私の仕事がいかに幸せを提供する素晴らしい仕事か。見せてあげるわよ!」
「ほう、どうやって?」
「あんた、来週の日曜日にウチのホテルへ来るでしょう?」
「な、何故それを知っている!?」
「あんたのシフト勤務カレンダーアプリに、整形外科学会って書いてあったのよ。その日、東央ニューホテルの5会場が医学系の学会で貸し切られるのは知ってたの。どうせあんたも参加するんでしょ? 交通費もかからない会場で、勉強熱心なあんた。シフトもわざわざ空けてるんだし、そりゃ来るって分かるわよ。その日の夜、懇親会とも買いてあったしね」
 シフト勤務カレンダーアプリのことは兎に角、だ。交通費のかからない会場だから行くだろうという予測は不服だ。俺は必要な知識を得られそうな、興味深い演題がある学会ならば、交通費がいくらかかろうとも参加する。
「学会も懇親会も、必要な出費だ。酒の場で重要な話が決まるのは、何も営業だけじゃない。医者の共同研究の切っ掛け、病院長などの権力者から割りの良いスポットバイトの話まで。上手い話は、酒の席に転がっているもんだ。アルコールで気が大きくなる分、余計に話も纏まりやすい。……偽装同棲のように、な」
「どうでも良いわよ、そんなこと。兎に角、隙間時間でも何でも良い。ウェディング会場に来なさい! スタッフ用の特別席から、秘密で私の仕事を見学させてあげる!」
「オイ、それは職権乱用じゃないのか!?」
「どこにも式場関係者以外に式を見せないなんて契約書に書いてないもの。スタッフのふりをして、そっと眺めていれば良いの。……上司の許可が降りなかったら、ヤバいけど。でも片づけの1つでも手伝うって言えば、まず大丈夫! 日本人らしからぬ、融通が利く人だから!」
「アンタのウェディング会場、大丈夫なのか!? トップ2人がそんなんって、マズいだろ!?」
「うっさいわね! 来るの、来ないの!?」
 本調子を取り戻して来た、か? いや、瞳はまだ不安そうに揺れている。……まぁ良いだろう。どうせ学会に参加すると言っても、全てのセッションで興味深い演題がある訳ではない。
 空いた時間に仕事へと情熱を注ぎ、結婚へ現を抜かす暇がない同志の姿を見ることぐらい、訳ない。
「分かった」
「良かった。じゃあ当日、スタッフに私の名前を出して。裏へ通すように伝えておくから」
 やっと笑ったのは良いが……。本当に、大丈夫なのか? 部外者を招き入れるようなもんだろうが……。まぁホテルの一施設に偶々、迷い込んだ。偶々目にした。そう言うことにすれば良いのか?
 何ごともそうだが、抜け道はあるのだからな――。

 そうして、約束の日曜日がやって来た。朝から学会のセッションに集中していた俺だが、夕方にもなってくると聞きたい演題も乏しくなってくる。懇親会に参加しない参加者がチラホラと掃けていく姿も目に付く。
 そんな中俺は、ホテル内の地図を頼りにウェディング会場へと向かう。
 ようやく見覚えのある場所に辿り着いたのは良いが、誰に声をかけろと言うのだ。さすがのホスピタリティとも言うべきか。忙しそうな素振りこそ見せないが、気軽に声をかけられる場でもない。
 倫理的によろしくないのではないか。これからそう思う行動をするという、後ろめたさもあるのだろうか。そんな自分の小心さが、妙に悔しい。
「お客様、どうされましたか?」
「あ、ああ。えっと……」
 スタッフの方を見つめ挙動不審になっていたからか、後ろから声をかけられた。慌てて振り向くと、川口さんと同じくウェディングスタッフの制服を著た女性が立っている。化粧があるから正確な年齢は判断しがたいものがある。だが恐らくは、川口さんより年上だろう。
「えっと、川口雪華さんはいらっしゃいますか?」
「ええ、おります。本日は川口とお打ち合わせでしょうか?」
「ああ、いえ……。その、会場に来いと呼び出されておりまして……」
 俺がそう答えると、目がキラリと輝いた気がした。口元の笑みも、作り物ではなくなっているような。どこか先ほどよりも、自然なものに感じる。
「失礼ですが……。川口と同棲をされている御方でしょうか?」
「え、ええ。まぁ……」
「そうでしたか! 初めまして、私は川口の上司になります」
 綺麗にお辞儀をする女性。そして興味深げにこちらを見てくるスタッフの視線。「実在したんだ」といった囁き声まで聞こえてくる。さては、アイツ……。同僚への証明に、俺を利用したな?
 それにしても、この人が川口さんの上司、か。成る程。締める所は締めそうで、接遇にも丁寧な物腰ではあるが……堅過ぎず、親しみが持てそうな柔軟性も感じる。
「どうも。それで川口さん――いや、雪華さんが無理を言ったようで。公私混同も良い所なんで、無理なく――」
「――いえ。それでは、ご案内させて頂きます」
「……え? 良いんですか?」
「はい。スタッフ用の控え室から、こっそりと見て頂くだけにはなってしまいますが……。彼氏さんにも、我々の仕事の良い所を理解して欲しい。その願いは、スタッフへと通じましたので」
「……そう、ですか」
「特に、今が2次会中だというタイミングも良かったです。挙式や披露宴では、さすがにお断りすることを考えていたのですが……。新郎新婦から2次会はカジュアルに楽しめる場を、との要望でしたので」
 成る程、な。一般的な知識だが、挙式や披露宴には親族や特に親しい友人を招くことが多い。両家が集う場であるから、厳格な家族であれば厳粛な式になると聞いた。
 対して2次会とは、挙式や披露宴に席の関係で参加が出来なかった友人たちへ結婚報告する場だと言われる。基本的に親や親族は参加せず、己が趣味嗜好が凝らされた楽しい場。メモリアルを作るのだ、とも。
 だからこそ2次会が行われている場なら、多少のことは多めに見られるのだろう。スタッフ控え室からスーツを着たやつが見ているのも、案外気にならないのかもしれない。
「それでは、音響の設備がこちらになります。ここはガラス越しに会場が一望出来ますので。こちらからご観覧ください」
「分かりました」
「失礼ですが、ウェディングプランナーの仕事についてはどこまで川口とお話しておりますか?」
「それは……。余り、していないですね。彼女が並々ならぬ仕事への情熱を持っていることしか……」
「……そうですか。では簡単に、御説明させて頂きます。我々の仕事は、非常に多岐に渡ります。ご成約は勿論、関係各所との打ち合わせや発注に、納品管理。各種問い合わせに事務作業や会場設営から撤去まで。一から十まで話し合い、計画し、全てを抜けなくこなさなければいけません」
「それは、大変な仕事なんでしょうね」
「ええ、ですが――非常にやり甲斐のある仕事です。特に自分が担当したお客様の晴れ日というのは。川口の努力の成果を、本日は知って頂ければ嬉しく思います」
 だがこの人も仕事にやり甲斐を感じている人なのだな。明るく朗らかだが、川口さんがどれだけ頑張っているのかを知って欲しいという思いやりまで伝わってくる。機械のように仕事をこなすのではなく、人情もあると言うか。それは幸せの場をプランニングするという、この業態が故にだろうな。
「川口は現在、披露宴会場の片付けをしております。折を見て、こちらへ向かわせますので」
「ご丁寧に、どうも」
 既に会場は大盛り上がりだ。音響さんたちも会場のテンションに合わせて機材を弄ったり、忙しそうだ。医療機器とは違う精密機械。おそらくは高価なのだろう。俺は会釈をして、なるべくスタッフの邪魔にならないよう端に寄る。
 しかし、だ。
「なんて、幸せそうな顔をしているんだ……」
 新郎新婦へ結婚にちなんだ芸を披露したり、逆にビンゴでゲストへプレゼントを渡したりしている。プレゼントや芸に必要な道具も、滞りなく出てくる。これも綿密な打ち合わせをしたが故に、ゲストを待たせることなく執り行えているのだろう。会場の音楽だってそうだ。新郎新婦の希望を聞いて、音響さんへと川口さんが打ち合わせを行ったんだろう。
 途切れる間もなく、新郎新婦や会場が幸福に包まれ続けている。この忘れがたいメモリアルを残す為に、一体どれ程打ち合わせを繰り返したのだろうか。親身に寄り添い、幸せな場を作る為に奔走したと言うのだろうか?
「眩しい。……なんて眩しさだ。この幸せが不幸に変わらないように……俺は別方向から全力を尽くさねば」
 笑顔溢れる新郎新婦を見ていると、ポロッと本音が口から零れた。
 結局、忙しかったのだろうか。2次会が終盤にさしかかっても、川口さんが俺の元へ来ることはなかった。だが、それで良い。今は勤務中。ましてや集大成の日だ。仕事に集中するぐらいの方が、好ましい。
 俺も懇親会の時間が迫っている。音響さんへ邪魔をした謝罪と先に帰らせて頂くことを伝えて、俺は明るい会場へと背を向ける。
 人の幸せを見られる。ましてやプロフェッショナルの仕事という裏方側から知れるのは、素晴らしいことだ。自分がこの幸せに飲まれ、目標がぼやける訳でなければ……。遠目から見ている分には、これ程に貴重でエネルギー源となるものは他とない――。

 懇親会から帰宅した時には、既に川口さんも帰宅しているようであった。インターホンを鳴らすと、室内からドタドタと足音が聞こえる。
「お帰りなさい」
 川口さんは輝くような柔和な笑みを浮かべて向け入れてくれた。先週の落ち込み具合が嘘のようだ。それにしても……お帰りなさい、か。偽装同棲を始めてからも、初めてそんなことを言われたな。
 余程、今日の式の感想を俺に聞きたがっているのだろうか。少し浮かれているように感じる。
「た、ただいま」
 いかん、どもってしまった。実家でも両親から「お帰り」なんて言われる機会がなかったから、「ただいま」なんて言い慣れん!
 からかうような笑みを浮かべる川口さんを押しのけ、室内へと入る。そしてクローゼットへネクタイとスーツの上着を仕舞う。すると川口さんが、冷蔵庫からアルコール飲料の缶を取り出した。
「今日のお客様から、お礼にって差し入れを貰ったの。貴方のシャワーが終わったら、付き合ってよ。感想も聞きたいし?」
「……分かった」
 そう言うと川口さんは、カーテンの中へと楽しげに消えていった。何故だろうか。材質は変わらないのに、カーテンがいつもとは別物に見える。突き放すような心の壁を具現化したものではなく、単なるプライバシーの配慮という優しい壁だと感じたのだ。
 俺はそのことに得も言われぬ心地良さを感じながら、シャワーで汗を流す。ベタ付く汗が消えた爽快感も相まって、心身共に産まれ変わったかのように錯覚する。
「それで、どうだった?」
 待ちわびていたのだろうか。俺が部屋着に着替えるなり、直ぐに川口さんはソファーへと俺を座らせた。目の前には、冷えたアルコール飲料。開封して乾杯とほぼ同時の第一声は、嬉々とした彼女が俺に感想を尋ねる言葉だった。
「見直した。新郎新婦、そしてゲストの心から幸せそうな顔。スタッフの統制された迷いのない動き。見事な調和だった。この幸せな場を作るには、きっと貴女の仕事振りが大きな役割を果たしているんだろう。そう強く感じる、見事なものだった」
「そ、そう……」
 川口さんは何故か両手で缶を掴み、視線を逸らしながらクピッと中身を飲む。予想外の反応だ。もっと喜ぶか、己の仕事ぶりを誇ると思っていた。
「どうかしたのか?」
「あ、貴方の口から、そんな素直な賛辞が出るなんて予想してなくて……」
 成る程、な。人間は予想外のことに直面すると、動揺するものだ。咄嗟にどう返して良いのか、分からなくなったということか。
「……俺の仕事は、貴女の仕事とは真逆だ」
 代わりに、俺が抱いた感想を語らせてもらう。真剣な声音を察したのか、川口さんも軽口を挟む様子はない。まだ座るのはたった2度目のソファー。隣に川口さんが座っているという慣れない環境の中で、俺は自分の脳内に溢れんばかりの想いを整理して言葉にしていく。
「人の不幸で飯を喰っている、とは街コンの時にも言った通りだ。来院した時には、自分か家族が死と隣合わせの絶望と、苦痛の表情を浮かべている。未来を充実させる結婚式の成約をしに来るのとは、真逆の表情だろうな」
「……そう、でしょうね」
「俺の手元から離れる時も、まだ不安で仕方ない。命の一番の危機を脱したと言っても、まだ先行きが見えない状況だからな。元通りの日常に帰れる訳ではないと、暗い空気だ。今日、貴女の手元を離れていった客とは正反対の表情、空気だ」
「…………」
「知っての通り、俺はそんな不幸に満ちた病院に住んでいるんじゃないかってぐらい籠もっている。だから水族館にしても、今日みたいなウェディングにしても……。俺1人では知り得ない、眩しい世界だ。……俺には出来ない眩しい1日を作り上げる為、仕事に情熱を持って取り組む貴女を、俺は心から尊敬する」
 幸せの絶頂とも言うべき結婚式、その2次会会場で笑顔を溢れさせていた人々の顔が浮かぶ。脳内で浮かんだその光景に釣られるかの如く、頬が緩むのを感じた。
 川口さんは俺のこんな暗い言葉に、どのような心情を抱いているのだろうか。気になり横目に彼女を見ると、頬を赤く染めていた。ほろ酔い状態、という所だろうか。意外に彼女は、酒に弱いのかもしれない。
「そ、尊敬なんて……。あ、ありがとう。嬉しいものね、大好きなことで頑張った成果を認められるのって……」
「ああ。多岐に渡る業務で泥臭く努力しているのも、軽くだが貴女の上司に説明してもらったしな」
「ちょ、調子が狂っちゃうわね……。貴方に、そんなことを言われると……」
 歯切れが悪い川口さん。もう既に彼女は、かなり酔っているのかもしれない。疲労と緊張から解放されたのだとしたら、アルコールに酔いやすくなるのも理解出来る。少し飲酒量の自己調整をミスしたのかもしれないな。
 そんな状態の彼女に伝えるのもどうかとは思うが、俺たちは毎日顔を会わせる保証もないのだ。かといって、メッセージで最初に聞くのも違う気がする。俺は彼女に、確認しなければならないことを思い出し、忘れぬうちにと口を開く。
「9日後の火曜日、9時から16時過ぎ、空いているか? 仕事は入っていないようだが、プライベートで用事とかあるか?」
「え!? そ、そんな急に誘う!? あ、いや……。うん、空いてる、けど?」
 髪を手で擦りながら、川口さんは答えた。何をモジモジとしているんだろうか。
「良かった。――実家へ挨拶に行く日が、親父と摺り合わせ出来たからな。早く川口さんの予定を確認しなければと思っていたんだ」
「……へ?」
「俺の実家は地方にあるからな。電車の往復時間も、それなりにかかる。金も足りなければ、借用者付きで貸すから」
「…………」
「川口、さん?」
「なによ、南さん」
 明らかに、言葉に棘がある。というよりも、かなり不機嫌なのだろう。目付きも鋭く、口元は怒りに歪んでいた。これもアルコールの影響か? 飲酒をすると、まず先に思考や理性を制御する前頭葉の機能が低下する。そんな中で真面目な話をするなという気持ちも分かる。もっと言えば、今日のこの会は川口さんのお疲れ様会だ。アルコール飲料2缶。頂き物とは言えど、ご馳走になっている側の人間が会の趣旨を変えて自分勝手に語り、話題をコントロールしようとしているのだ。不機嫌になるのも、至極当然か。
「す、済まん」
「なんで謝るの? 何が悪いと思うの?」
「いや。この場で話す話ではなかったかな、と」
「ふ~ん」
 川口さんはジトッと俺を見た後、バカにするように鼻で笑った。なんだ、その反応は?
「貴方がそう思うなら、そうなんじゃない?」
 そして突き放して来た。なんという面倒臭さだ……。これだから酔っ払いは困る。冷静に理性を働かせてもらえれば、場に相応しくはなくとも直ぐに連絡すべき内容だと理解出来るだろうに。だがアルコールに酔った人間にまともな判断を期待出来ないのは、身に染みて分かっている。街コンで俺も痛い目をみたからな。
 暫しそう考えていた俺の顔を覗き込み、川口さんはハァ~と微かに酒臭い溜息を吐いた。
「良いわ。行くわよ。こっちも挨拶してもらったんだからね」
「そんな、半ギレ気味に言わなくても……」
「へぇ? 貴方には、私が怒ってるように見えるの? なんで?」
「…………」
 余計な口を開くのは止そう。何を言っても攻撃的に返されるだけだ。
 げっそりとした気持ちになっていると、ぷふっと、隣から含み笑いが聞こえた。見ると川口さんが愉快そうに口を押さえながら笑いを堪えている。情緒不安定、か。アルコールの恐ろしさを、再認識するな。
「冗談よ。……でも知らない人、それも偽装とは言え、同棲している相手の両親に挨拶かぁ。緊張するな」
「俺も条件は一緒だったぞ」
「そうなんだけどさ……」
 むしろ川口さんの両親はキャラの癖が強過ぎた。特に親父さんの方は、先に取扱説明書でも作っておいて欲しかったレベルだ――。

 迎えた火曜日、朝8時50分。予定より10分ほど早く、俺たちは2人でマンションを出た。電車に乗り遅れるより、早く駅に着いて待つ方が良いだろうとの判断からだ。
 だが階下に降り、駅へ向けて道を歩き出した途端、俺のスマホがポケットで揺れた。
 見ると、教授からであった。
「もしもし、南です。どうしましたか?」
『南先生、済まないが今から出勤出来ないか!? 近くで玉突き事故が発生したそうなのだけどね、どうしても整形外科医が足りないんだ』
 叫び声にも似た、切羽詰まった声だった。非常に大きな声であった為、隣に立つ川口さんにも聞こえていたらしい。彼女は大きく頷いてくれる。
「分かりました。直ぐに向かいます」
『済まない、頼むよ!』
 直ぐに通話も切られた。交通事故ということは、一刻を争うだろう。明らかに生存者がいないような事故であれば、呼ばれることはなかったはずだから。ならば、ゆったりとしている暇などない。
「済まない、行ってくる!」
 駐輪場へと向かい愛車を出しながら、川口さんへ謝罪をする。
「あ、挨拶は中止?」
「いや、楽しみにしていたから……。悪いが、川口さんだけでも向かって欲しい!」
「わ、分かったわよ! なんとかするわ! そっちも頑張ってね!」
 自転車に跨がり、路上に出る。
「ありがとう! くれぐれも偽装同棲だとバレないようにな!?」
「分かってる! そんなヘマはしない! 私たちが仕事に集中する為だもの! 今は心を鬼にして、嘘を貫くわ!」
「それで良い!」
 背に聞こえる大きな声に返答をして、俺は病院へと急いだ――。

 結局、全てが落ち着いて家に帰れたのは、2日後のことであった。
 帰宅タイミングが合わず、川口さんとも火曜日の朝きり会えていない。
 本当は直接謝罪をしたいが、メッセージでしか未だに謝れていないのは辛い所だ。気にしないで良いと返信はくれるが、1人で両親への挨拶に行かせたのは、本当に心苦しい。
 昼過ぎに戻った自宅。誰も居ない部屋は、妙に広く感じる。すっかり同棲生活に心身が馴染んでしまったようだ。
「最近は打ち解け始めているし……。家事も分担が出来る分、悪くないかもな。金遣いの荒さが治れば、だが」
 自分の心情変化に、ふっと笑いながら洗濯機を回す。
 そして夕方からの出勤を前に、睡眠を取った――。

 川口さんとの再会は、意外な場所になった。
 18時48分、東林大学病院の救急外来だ。救急車から、搬送された患者と一緒に降りてくる彼女の姿を見つけた時は驚いた。だが今は、それどころではない。
 救急隊員から患者を受け継ぐ。事前情報にあったのは、40代前半の男性。突如として呂律が回らなくなり、脱力と意識障害が強くなり救急搬送となったとのこと。
 最新のバイタルサインを聞きながら、患者を引き継ぐ。意識は完全に消失しているようで、どんな刺激にも反応を示さない。
「ラインを確保する! ブレードを早く!」
 最初の治療を行う初療室へとストレッチャーで搬送し、処置を指示しようとした時だった。
「てんかん発作!?」
 患者の全身がガクガクと揺れている。歯もガチガチと音を立てており、即座にマズいと思い至る。このままでは、舌を噛んで大出血を起こす!
「ブレード、早く!」
 ストレッチャーで院内へと移動しながら、看護師へと指示をする。
「え、ブレード? ブレードって……」
 チラッと横目に見れば、今年入ったばかりの新人看護師だ。普段なら対応出来るだろうに、今は予想外のてんかん発作で完全にテンパっているのか!?
「クッ!」
 咄嗟に胸へ挿していた金属製のボールペンを患者の口腔へ突っ込む。
 人の指なんて本気で痙攣している人間の咬合力を前にすれば、肉深くまで食い千切られる。舌を噛まないように、それでいて自分の指を守るには、金属製のもので歯が噛み合わさるのを防ぐのが最優先なのだ。
 結果として、患者は舌を噛まずに済んでいる。金属製のボールペンの凹みから、若い男性の力と歯の丈夫さが窺える。
「ブレードとは喉頭鏡の医療略語だ! 挿管セットも一緒のプレートにあるはずだから、一式頼む!」
「あ、喉頭鏡! は、はい!」
 洗浄を終えた一式の中から喉頭鏡を受け取り、ブレードを使って舌を避ける。そして直ぐに挿管と固定を終えた。
「頭部MRIとCTを! ラインも確保だ!」
 救急外来の看護師や放射線技師がすかさず動き出す。
「川口さん、患者の発症時刻は!? 可能な限り細かく、かつ正確に分かるか!?」
 付き添いでやって来た彼女に問う。彼女が付き添うということは、彼女のホテルに来た客なのだろう。ダメ元で聞いてみた。
「えっと、18時に集合した時には普通だったんだけど……。その2分後、呂律がおかしくなっていたわ」
「2分後という根拠は?」
「初期案内の場合には、トークスクリプトっていう台本をプランナーは作っている。それを脳内で読みながら、反応を見るのよ。私の場合は、確認を取った所までで2分なのよ」
「……そうか、貴方なら信じられる。参考になった、ありがとう」
 彼女に背を向け、俺は処置へと向かう。川口さんが言う通りなら、発症から到着までには46分が経過していることになる。
 CT撮影の結果が出るまでには7分。MRI撮影の結果が出るまでには更に10分。それまでは脳卒中疑いとして必要な処置を継続することだ。
 そうして撮影された画像を見て行く中で分かった。
「これは脳梗塞、だな」
 早期の搬送が功を奏した。アルテプラーゼ療法という、後遺症が少なくて済む治療が行える時間内だ。この治療は発症後4から5時間以上経過すると、実施が出来ない。来院後1時間以内の治療開始が推奨されており、発症から1時間と8分。病院到着後、現在は25分だ。ここから手術へ入っても、治療指針の推奨には余裕がある。しかし、治療が早い方がより良いのは間違いない。
「脳外、誰か手術室に入れますか!? 画像診の結果を共有します。発症からは現在1時間と8分です」
『麻酔科は大丈夫です』
『この脳梗塞にその時間なら、アルテプラーゼ療法と血栓回収だね。行けるよ』
 救急科は自分の専門外の手術は、基本的には専門性の高いサブスペシャリティ領域の医師へ引き継ぐ。俺が取得している専門医資格が整形外科専門医である以上、脳などの手術は余程の緊急事態でない限りは行わない。
 こうして救急科医として1人の患者の引き継ぎは無事に終了した。ブライダル会場の予約という幸せの中から、脳梗塞という不幸に陥ってしまった方に、極力後遺症が残らないよう迅速な対応を行えたとは思う。
 川口さんと再会は出来たが、タイミングが悪い。まともに会話をする暇もなかったな。だがこの場は、一刻を争う命の現場だ。それで良い。話はまた、同棲している家でだ。
 俺は他の患者の初期治療と判断を、迅速かつ的確にと心がけながら続けていく――。

 仕事と研究計画書の作成を終えて自宅マンションへと辿り着いた時には、もうすぐ朝陽が顔を出そうと言う頃合いであった。先日、医学会の懇親会で浮上した共同研究計画書の草案を送り終えた時には、もうこの時間になってしまっていたのだ。
「明日……いや、今日か。川口さんは休みの予定。それなら実家に帰っているか」
 日付が終わる前にでも帰れていて明日が出勤ならば、まだ起きていたかもしれない。俺の実家へと挨拶に行くのを。当日の朝に目の前でキャンセルした無礼を謝る時間もあったかもしれない。
 だがタイミングというのは得てして己の望む通りに上手く運ばないものだ。会いたいと思った時には会えず、もどかしい気持ちになる。
 どうせ室内には誰も居ないが、集合住宅でドアの開閉をするのは存外に響く。近所迷惑を考慮し、そっと自宅のドアを開く。
「……遅いわよ。それと、インターホン」
「……え?」
 思わず声が漏れ出てしまった。居るはずのない人物が、起きているはずのない時間に起きていたのだから。だがリビングの大部分を取り囲むカーテンの隙間から、確かに彼女の艶やかで長い黒髪と、か細い背中が姿を覗かせていた。
「……幽霊、か?」
「本物よ。……自分のお客さんの付き添いで病院に行ったんだし、今日は実家に帰らなかったの」
 言われて見れば、成る程と思った。
 そもそも、だ。肌を気持ち良く冷やす冷房が運転している。幽霊なら熱中症もないだろうから電気代も浪費しない。まさか実家に帰るのに、冷房を付けっぱなしにして行くという恐怖行為はせんだろう。
 ウチの冷房の消費電力は平均的な2200ワット。1時間辺りの期間消費電力は、単純計算でも2.2キロアワー×45.43円×1時間で、99.946円もかかるんだ。いくら生活破綻浪費家の川口さんと言えども、だ。何時間も留守にするのに、そんな無駄金を消費する訳がないか。侮ってしまったな。
「そうか。……そうだよな。ずっと患者のその後が気になっていたんだな」
 彼女としても、自分の付き添った客がその後どうなったのか。気になっているのだろう。
 あの後、患者の妻だという女性が間もなく来た。だが目の前で人が病気になり、悪化してゆくのを目の当たりにする。それは医療従事者でなければ滅多に遭遇する場面でもない。精神的ショックも受けることだろう。人によってはメンタルケアが必要となる場合もあると、精神医学の教科書や文献に記されている。
 そうでなくとも彼女は、プロフェッショナルだ。ウェディングプランナーとして幸せな式を作りたいと願っていた方の病状経過を知り、今後の交渉や式の進行の参考にしたいと考えていてもおかしくはない。付き添いが終わった後に自力で職場まで戻り、抜けていた間の仕事処理にも追われたことだろう。頭の下がる思いだ。
「今日は助かった。詳しいことは守秘義務で言えないが、対処が早かったお陰で、最悪の展開にはならずに済みそうだ」
「そう、良かったわ。……本当に、良かった」
 ホッとしたような声を漏らす彼女の声音は、ウェディングプランナーとして顧客を大切にするものからだったのだろうか。それとも、1人の人間としてだったのだろうか。両方あるのかもしれない。
「良かったな。ノルマ達成は損なわずに済みそうだぞ」
「貴方って、本当に損得勘定しかないの? それとも、長らくあんなに沢山の病人が運び込まれる場に居るから、神経が狂ってるのかしら?」
 それは否めない。ここ最近、感情に流されることもあるとは言え、それは医者としては邪魔だ。スムーズで正確な判断をするのに必要なのは、明確な情報と知識、そして明瞭な線引きがされた診療ガイドラインを実行する冷静さだ。いつか川口さんにも言われたが……感情を有さず、俯瞰的なAIが医療現場で優秀になるだろうというのは、割と冗談話ではない。予測される未来なのだ。
「まぁ良いわ。……早く着替えてきて」
 クローゼットを開く、部屋着を手にした俺の行動パターンも、既に分かるのだろう。目線をこちらに向けることもなくそう言い放ってから、自分の座るソファーの横をポンポンと叩いた。俺1人が座れるスペースを空けてくれている。
 最初は、立ち入れば警察を呼ばれると言われていた禁止区域に、今では俺を招く場を作ってくれているらしい。そもそも俺が借りている部屋ではあるんだが……妙に嬉しいもんだな。
 寝室で手早く部屋着に着替えると、俺は川口さんの隣へ腰を下ろす。そして彼女へと頭を下げる。
「済まない。仕事とはいえ、貴女に全てを丸投げしてしまった」
 頭を下げ続ける。床とソファーしか見えないから、どのような表情をしているのかは分からない。だが不義理を働いたのは俺だ。怒り心頭のはずだろう。
 そんな俺の後頭部に、柔らかな手が触れた。
「……は?」
思わず反射的に顔を上げてしまう。触れていた手は、俺の後頭部を撫でるのを止めない。桃のように甘い香りが漂う。肌荒れ防止の、ハンドクリームか何かの香料だろうか? 医療現場でも、アルコールで肌が荒れるから導入されているが……それよりも遙かに上等な香りだ。病院の経費で買っているものより、高価なハンドクリームなのだろう。川口さんも30歳を越えている。放っておけば肌から潤いが消えて行くからな。上等な香料が付いた高価なものを使用する必要はないが……。そこは浪費家だから、やむを得んか。
「貴方のご両親に合ってきたわ。凄く……後悔していた。いえ、懺悔かしらね?」
「後悔? 懺悔だと?」
「ええ。貴方を歪んだ性格にしてしまったって」
「…………」
「子は親の背を見て育つ。自分の幸せを我慢して、人に尽くすばかりの大人に育ててしまったって……ね」
「親父が、か?」
「お母さんもよ」
 あのお袋も、そんなことを言っていたのか? AI程ではなくとも、感情は理論の邪魔だと効率的に動くお袋が、そのように科学的根拠もない感情論を?
「色々と話してくれたわ……。昔は感情的で優しい子だったって。今の理屈責めしてくる貴方からは信じられない」
「だろうな」
「色々と教えてはくれたけど……。貴方の目標と、異常な倹約家になった理由だけは教えてくれなかったわ。貴方が信頼してくれたら、直接私に話すはずだからって」
「……そうか」
「……ねぇ。偽装とは言え、私たちはそれなりに長く暮らしてきたじゃない? まだ私には、話せない?」
「……退屈で、長い話になるぞ?」
「構わないわ。貴方の退屈で長いロジハラに比べれば、夢や目標、倹約家になった物語を語られる方がよっぽど面白いもの」
 相変わらず、口が減らないな。しんみりとした重い話のはずなのに、どこか軽い感じになってしまう。それは彼女の人となりによる力だろう。俺としても、それぐらい軽い空気の方が話しやすいってもんだ。
「……地域で暮らす人が調子悪い時、気軽にかかる医療機関を、一次医療機関と呼ぶ。そこで入院や手術、もっと命に関わる必要があると思ったら、設備の整った大きな病院へと紹介するんだ」
「あ、要は町医者でしょ? 私のお父さんが通っているような」
「そうだな。確か……高血圧に糖尿病だったか?」
「うん。ずっと注意してるんだけど、医者が信用出来ないからってね……。通うのも、お母さんが無理やり連れていかないとでね。ちょいちょい薬も切れてるのよ」
「医者としては聞きたくもない、愚かな話だ。……地域医療は本当に大切なんだよ。本来なら命に関わる病気が、ここで見過ごされることもある。或いは、だ。せっかく忙しい中を来院してくれて、何千円と払っているのに、診断が的外れなこともある。薬や治療方針も合わず、悪化して行くこともな。貴女の親父さんも、そうかもな……。俺はそれが絶対に許せないんだ」
 思わず言葉に力が籠もってしまう。軽口を叩きがちな川口さんだが、さすがに茶化せる話ではないと感じたのか、こちらを真剣な眼差しで見つめている。
「人の不幸で金を貰い、飯を喰っているのに……。人を絶望に落とすのは、医療従事者失格の詐欺師だ。検査機器不足や専門外の病気というのは、医者にとっては正論の言い訳だ。だが金を払う患者には、関係ない」
「詐欺師……。貴方が私にそう罵ったのは、そういった医療従事者と私が重なって見えたからなのね。当時はボコボコにしてやる、謝っても許さない。許されたと思った時にまたボコボコにすると思ってたけど、そう言う深い信念があったのなら、多めに見て水に流してあげるわ」
 コイツ……。まだ根に持っていたのか? なんて恐ろしいんだ。もう終わった話だっただろうに。これが噂に聞く、男性脳と女性脳の違いというヤツなのだろうか。
「俺はな、自分のクリニックを開設したいんだ。ウェディング会場と違い、病院やクリニックに笑顔で来る客は居ない。誰もが痛みや不安を抱えて訪れる。俺は……危険な状態を決して見逃さない場を作りたいんだ。……不幸なのは変わらない。だが十分な知識や機材、適切な治療方法を選択し、最悪の絶望に落ちるのを防ぐことは出来る。病で不幸だと思いながらも、笑って生きていけるような未来を失わないクリニックだ!」
 こんな退屈な話、誰にするでもなかったんだがな。自分の胸の内に秘め、情熱の炎に燃やしていただけだったのに。何故、俺は川口さんになら話したい。話しても良いと思ってしまったんだろうか。
「夢のような場所ね。それが実現したら、凄いと思うわ。……それが、貴方が異常に働いて、常軌を逸する貯金をしている理由なの?」
 常軌を逸するは言い過ぎじゃないか? そこまで言わなくても良いだろう。計画的に無駄を排除しているだけだ。川口さんのように浪費家の視点だと、そう見えるのかもしれんがな。
「父親の診療所はな、未だに紙カルテを使っているような、ボロボロで古い場所なんだ。いわゆる昔からある小さな町医者ってやつだ。俺にはその診療所を継ぐと同時に、整形外科内科として必要な機材もしっかり導入し、綺麗なクリニックへ改装するという野望がある」
「……だからって、急いで貯金することなくない? 親の病院を継ぐ医者には私も出会ったことはあるけど……。貴方みたいに無茶苦茶な生活で、あり得ない貯金をしている人は居なかったわよ?」
「俺の両親に会ったのなら、分かるだろ? 2人とも既に70歳を超えている。この年齢になれば、いつ倒れて働けなるか分からない」
「それは、そうかもしれないけど……」
「かかりつけ医が倒れたら、通っている患者はどうなると思う?」
「……え? 他の病院に行くんじゃない?」
「それまでの診療経過も、一切知らされずにか? 一から全部、自分の病状経過をちゃんと説明出来る患者がどれ程居る? 何年何月発症、どのような治療を受け、薬は何時どう変化していたのか」
「……だいたいは無理、でしょうね。うちのお父さんぐらい記憶がしっかりしていても、多分無理だわ」
「そうだ。紹介状を書けるような非常勤医師を雇っていれば、まだ良い。だがウチのように小さな医者では、それも望めん。親父が倒れる前に跡を継ぎ、更に充実と発展をさせる。これは俺の目標にして、医者としての責務だ!」
 ついつい言葉が強くなってしまう。ずっと胸の内で温めていたものを放出しているからだろうか?
「気軽に来院が出来て、重大な変化を見逃さない。地域に暮らす人々が、あそこの診断と判断、治療ならば正確で信用が出来る。病という不幸な状況でも、安心して頼れる素晴らしい場所だ。……親の残してきた場所を、俺はそんな地域医療の希望にしなければならないんだ。……一時の幸せな享楽に浸っている訳にはいかん! いかにイルカやクラゲが可愛くても、だ!」
「そんな歯ぎしりをしながら言わなくても……。目が充血してて怖いわよ? そ、それ程に心を揺り動かされたのね。確かに、今の夢を語ってる貴方と同じぐらい、あの時の貴方の目はキラキラしていたわ。無邪気に夢を語る子供みたいにね。……なんだか、ちょっと可愛いわね」
 誰が可愛いだ。俺は川口さんよりも6歳も年上だ。川口さんが中学校へ入学した時、俺は社会人になっていたんだぞ?……そう考えると、何故だか急に犯罪臭がする。だが互いに大人となってしまえば、そんな歳の差は関係ない。犯罪でもないのだから、気にしてはいけないことだ。敢えて目を逸らすことも、精神的安寧には必要だろう。
「救急医療では幅広い医学的緊急性への対応、すなわち手遅れとなる前に正確な判断と決断、初期治療を開始することが重要だ。救急科医は総合的判断に基づき、迅速かつ安全に診断と治療を進めることが求められる。絶好の修行場なんだ」
 仕事の疲れも忘れ、俺は今日の臨床。そして未来へと繋げるべき成長への道しるべを……。その果てにある理想のクリニックを思い浮かべる。
「単純X線にエコー、電子カルテ導入などなど。中古で買い集めてもかなりの価格になる。親が貯めている内外装改修費以外で合計3千万円は、どう足掻いても初期投資として自己資金が必要なんだ」
「それが3千万円もするのね……。凄まじい額だわ」
「ああ、かなりしつこく交渉したんだが……。これ以上の値下げは不可能だった」
「そう、可哀想ね。交渉相手の業者が」
 川口さんは口元に手を当て、目を伏せる。言葉も弱々しい。気の毒そうな雰囲気を、隠す素振りすらない。むしろこれでもかと、その仕草で表現している。
「何故だ?」
「偏屈で常識外れな貴方が、自分でしつこくって自覚してるのよ? それは常識的価値観だと、強迫や恫喝に近いと容易に想像がつくわ」
 無礼だ。本当に無礼だ。だが対応してくれた営業の疲れ果てた顔を思い出すと、強くも否定出来ん。そうか、川口さんは売る物こそ違えど、同じ営業という側面もある仕事だ。もし自分が俺の交渉相手だったら……と、思いを馳せているのかもしれない。
 だが交渉とは勝負だ。俺は少しでも安く良い環境を得たい。営業は少しでも高く売りたい。この考え方からも、俺と川口さんが相反する人間だと示していると言えよう。
「……そう言えば貴方、食事は何時摂ってるの? この家の一口コンロは、使った様子もないし」
「管理栄養士がメニューを考える、職員食堂だ。福利厚生が効いて、通常より安く喰えるぞ」
「そこでもケチを発揮するのね……。でも栄養満点で安いのは羨ましいわ。納得した。営業にとってモンスターのような客が、高くつく外食をしているとは思えなかったのよね。身体を壊さないように食べているなら、良かったわ」
「ふん。身体を壊さずに栄養摂取が出来るよう、割りの良いスポットバイトも入れている。この間、貴女のホテルで懇親会があっただろう? あの場でも、以前から付き合いのある病院長から、割りの良いバイトと共同研究の話を貰ったんだ。財力知力経験、どれを取っても理想に近づく一歩だ!」
 思わず、フハハハと二流の悪役のように笑いそうになる。世の中は、伝手だ。コネクションだ! 利益にしても、成長にしてもな。独力でやるより、互いに高め合える利益を提供し合う関係は素晴らしい。……そう、この偽装同棲のようにな。だがここ至るまでも楽じゃなかった。積もり積もった鬱憤を晴らすかのように、饒舌になってしまう。どうやら俺は、甚だしい程にストレスを抱えていたようだ。
「家賃と貯蓄で90パーセント消えて……。光熱費とか、食費。自由に出来るのは10パーセント、確か3万円だっけ?」
 呆れ混じりの声で、川口さんが微笑む両手で頬を包み込む。その顔は初めてこのプランを説明した時のように唖然呆然とした顔ではない。
「その通りだ。なんだ、ちゃんと計画的な計算を覚えているじゃあないか」
「余りの衝撃に、脳へ焼き付けられたのよ。当時はそれぐらいアホらしいと溜息が出たけど……。貴方の壮大な夢と目標を聞いて、実際にやり遂げているとなると……うん。感嘆の溜息に変わるわね」
 褒められた。やっと俺の素晴らしき貯蓄プランと、それを達成する根性を理解したのか。成長したじゃあないか! 思わず頬が緩む。バカにした目を向けてきた頃を思いだせば、今の心情変化に俺こそ感嘆してしまうというものだ。
「……私、あの頃より性格が悪くなったのかも。貴方と話していると、口汚くなったと感じちゃうわ」
「最初からだろうが、烏滸がましい」
「うるさいわよ。イキリ偏屈ロジハラ中年」
 これ程に酷い言葉がスラスラ出てくる人間が、一朝一夕で口汚く変化した訳がないだろう。自覚したのが最近なだけだろうが。ロジハラでイキッた中年だと? マシンガンのように悪口を言ってくる悪魔が。元々、性格は最悪で口汚かっただろう。仕事モードじゃない時はな。
「……変、なのよ。本人に直接文句や悪口を言ってるのに、とてもスッキリするんだもの」
「そうか……。奇遇だな。俺もその素敵な変化を、自覚しつつあった」
「は? 貴方も? 貴方は最初から愚痴愚痴と好き放題に言ってたじゃない」
「同じ言葉でも、言ってる時にはどこか不快感があった」
「今は不快感なく、楽しく小姑をやってるって言うの?」
「小姑をやっているつもりはないが……。何を言っても言われても、ストレスを感じなくなった。むしろストレス解消になっている」
「それはね、あれだけ言いたい放題ならそうでしょうよ。ロジハラで訴えられるのが怖くないのか、不思議でしょうがないわ」
「俺を訴えるのか?」
「……最初はそう思って、ボイスレコーダーを買おうとしたわ。でも、何故かしらね。今はそんな気にならない」
 え、そんなことをしようとしていたのか? それは……法廷に持ち込まれていたら、かなり面倒なことになっていたかもしれんな。
 今は編集で、自分に都合の悪い音声部分はカットされる可能性だってある。一方的な悪を作り出し、印象操作をすることだって容易なのだ。
 俺としても彼女が無駄遣いをしていた記録や、偽装同棲前との比較データを提出せずに済んで良かったと思う。訴訟は時間もかかるし、勝つ為の証拠を揃えるのも一苦労だからな。
 何より、だ。川口さんとは……訴訟に怯えず、本音で自由に語り合いたい。
「貴女の価値観で、俺の価値観を否定することをズバズバと言う。俺も同じように、遠慮なく思ったことを貴女に忠告する。この関係性は、ハラスメントに怯えて右に倣えでは出来ない。この自由な言動の時間が、感情の起伏をくれる。俺は最近、そうやって感情の起伏を感じられる貴女との時間が好きになりつつあるんだ」
「それは……。成る程、そうね。認めましょう。職場では感情を押し殺して、いかにお客さんが幸福になれるか演じている。私は貴方の小姑みたいな価値観は受け入れられないし、嫌いよ。それでも、貴方と居ると……自分が感情を持つ人間だと思い出せる。我慢していた自分を解放して、自分らしくいられるから。その時間は、好きだわ」
「俺は最初、貴女を不倶戴天の敵だと思っていた。いかに契約解除して追い出そうかとさえ考えていた。……分かんねぇもんだな。未来がどうなるかなんて」
「お互い様よ。……空が白んで来たわね」
 思ったよりも長く話してしまっていたようだ。月の代わりに、太陽が出勤して来た。
 俺も後数時間後には病院へ出勤せねばならない。名残惜しくはあるが、体力も限界が近い。
「そろそろ寝るか。……話せて良かったよ」
 俺がソファーから立ち上がり、寝室のドアを閉めようとすると――。
「暑いでしょ? 空けとけば?」
 やや早口に、そんな言葉をかけられた。
「……良いのか?」
「良いの!……私の方が電力を使ってるし、熱中症で倒れられたら介抱も疲れるでしょ? 貴方にも冷気を分け与えなきゃね!」
 そう言って電気を消すと、川口さんはボフッとベッドへ潜りこんだ。以前なら、すかさず締めていたカーテンを閉めることもなく。
 川口さんはプライベートではダメダメだから、閉め忘れかと思いカーテンを触ると。
「……そのままで良い。その方が、そっちに風が行くから」
 枕に突っ伏した、くぐもる声で――そう伝えて来た。
 俺はそれを、彼女から明確に信用されたと感じる。今まで壁のように隔てられて来た仕切りカーテンを開いてくれるだけで、これ程に親しみを感じるとは、な。案外俺は、単純なのかもしれん。
 嬉しく思いながら、折りたたみベッドを広げて床に就く。淡い暁月色の朝陽が差し込む室内は、どこか幻想的に映る。そこに贅沢な冷房の涼やかな空気まで入ってくるもんだから、夢見心地とは正にこのことかと感じる。眠るのが惜しい程、心身共に晴れやかな素晴らしい時間だ。……だが眠らねばならない。体力が足りず100パーセントの力を出せなかった。そんな言い訳は、1つ限りの命に向き合う現場で通用するはずもないのだから。
 目を閉じると、空いたままのドアから川口さんの声が聞こえてきた。
「貴方の語ってくれた仕事の目標……素敵だったわよ」
 俺の理想とする地域の希望となるクリニックに、良い医者となる為のステップアッププランの話、か。「今日は俺ばかりが話してしまったが……。いつか貴女の理想とする将来像も聞きたいもんだな。きっと素晴らしい笑顔に溢れる、幸せな空間を作るんだろうなぁ」
「それは約束する。……結婚とか、邪魔が入らなければ、ね。権力を掴み取って、色んな個人の幸せを実現出来る場所を作ってみせるんだから」
 それは本当に楽しみだ。個々人によって、結婚式に望むことも違うだろう。趣味だって、幸せの感じ方だって。その多様なニーズに応えられるように働く川口さんの姿は、想像するだけで胸が躍るようだ。
「貴方は、さ。……開業したら、この品川から離れちゃうの?」
「住む場所は、どうだろうな……。だが俺は開業しながらも、大学病院で非常勤勤務をしながら研究を続けるつもりだ」
「……そう。そうなのね。貴方の仕事に対する信念と想いは、心から尊敬するわ。資金を貯める為に、現代の文化的日本人とは思えない節約サバイバルもしていたし。テレビでもNGを喰らうような、ね。業務目的の違いもあるけど、私には決して真似出来ない仕事へのスタンスだと思う」
 褒められている、よな? 俺は確かに、人より節約家なのかもしれない。だが川口さんだって、人より浪費家なのは間違いない。
 実際に暮らしてみれば、相容れないとは違う。唯、考え方が全く逆なのだ。
「俺たちは、真逆な目的の世界で、仕事を極めたいと思っている。価値観や経済観、生きる世界も真逆だ。人の幸せで飯を喰う貴方。人の不幸で飯を喰う、俺」
「……うん。本当に、そう……。私たちは、何もかもが真逆」
「だからこそ、良い刺激になる。……不幸の世界に住む俺からしたら、この1LDKに帰る時間は、ホッと息が着ける幸せになっていた。貴女にとっては、不幸と混ざり合うイヤな時間かもしれんがな」
 結局、俺が1人でこの時間を悪くないと思っているのかもしれない。いや、むしろ素晴らしい時だと勝手に思っている。偽装、社会通念上の常識に反する行いとは言え、そこで得た経験は――掛け替えのない、貴重な経験だ。
「そんなことない。私だって、ここは礼節を纏わず自分らしく居られる場所。……それに、自分の経済観が常識的じゃないってことも分かっていた。生活の仕方も、何もかも。だから、良い勉強にもなった。勿論、何度も貴方は縊り殺してやろうと思ってたけど」
 だから――彼女も同じように悪くないと思っていたと知れて、心底から驚愕した。本当に快楽物質に脳が支配される程、甘美で身を震わせる心地良さだった。
「そうか……。貴女にとっても、偽装同姓は良い社会勉強だったって訳だ。互いに利点は、キッチリあったな」
「そうね……。でも、心配ごとも増えたわ。……私には貴方が――酷く歪な存在に見えるわ。最初の偏屈さだけじゃなくて、深く知れば、知るほど。危うくて、心配になるの」
「……何? どういうことだ?」
「貴方は、不幸を祓う道具じゃないの。明るい幸せを味わう権利を持つ、人間なのよ? どうか、そのことは忘れないでね?」
 彼女の心からの心配は嬉しくもあり――同時に、俺にとっては屈辱でもあった。
 感情論で判断を鈍らせてはならない。大きな目標を達成する為、感情に流されるのは邪魔だと割り切って来た。メリット、デメリット。根拠と計画に基づき、生きてきた。
 そうして遂に、長年の目標へと手が届きそうなのだ。その努力を否定されているような気分になってしまう。だが川口さんに俺を侮辱する意図がないことは明らかだ。口に出すような愚かな真似はしない。
 いや、むしろ、だ。こうして何故だか落ち着く空間で、よくよく考えてみれば……。押し殺していたはずの感情は自覚してみれば、俺の原動力だったのではないか、と思う。
 このまま俺は、素晴らしい医者になれないのではないかという、絶望。
 自分の目の前で、不幸のどん底に落ちて行く人を見る、悲憤。
 目標を達したい、何故目標に届かないのだ。必ず届くはずだという、自尊心。
 彼女と暮らすようになり、余りの非常識な金銭感覚で目標貯金が遠のく、憤慨。
 プロフェッショナルな姿を知っているから、もっと出来るだろうと諦めずに放ってしまう、皮肉。
 彼女の素晴らしさ、親の愛情深さを知っているから、倫理に反する行為をしている、罪悪感。
 自分とは違う、幸せな世界を作り出す人を知りたい。それが糧となるはずだという、好奇心
 そして――帰ればきっと楽しいという期待に、信頼が出来る存在に出会えたという、運命。
 そんな数多の感情に、ずっと揺さぶられていたじゃないか。
 奇しくもそれは、アメリカの心理学者が提唱した感情の輪と同じだ。和訳された8つの複合感情と一致している。
 運命の位置には、愛が置かれることもある。だが愛という概念は元々、日本語にはなかった。未だ明瞭に定義づけもされていない。だから無視だ。偽装の同棲で――愛という感情を語るなど、あってはならないし、な。
「……元気の対義語が病気だ。俺は病気で不幸で満ちた病院に籠もり、貴女が暮らすような幸せで明るい世界を知らなかった」
「…………」
「……不幸に包まれる病院へモグラのように籠もっていた俺だ。それが、明るく幸せな世界と、感情を学べた。不幸を脱した後、当たり前に皆が暮らす世界をな。それだけで、充分だ」
「……そう」
「暗い病院で懸命に働いて、やれることを全て正しくやっている気になっていた。……そんな俺は、なんて視野が狭かったんだろうな」
「そうね。確かに貴方は、視野と心が狭くて、偏屈な小姑だからね」
 長くその空間に居ると心が染まり、環境適応していく。俺は不幸な病院という環境に歪み、彼女はウェディング会場という過度な幸福に染まった。それは本来の人生では、そう何度も足を踏み入れる場所ではない。
 他人にとっての特別が、俺たちにとっては常識。
 それが、お互いに人とは違う極端に偏った性格や価値観を形成させていた。自分の世界しか見られない忙しさに負け、視野を狭めて可能性を潰していたのかもしれない。
「……やっぱり、貴女は口が汚ねぇな。だが、その通りかもな。……普通の人からすれば当たり前の常識を見えるようにしてくれたのはな、川口雪華さん。貴女なんだよ」
「え? 私?」
「そうだ。貴女の丁寧な仕事ぶりと、享楽主義なプライベート生活。自分とは違う事情を抱えながらも、努力している輝かしい世界があると知れた。お陰で自分のクリニックを、自らの失態で潰す前に、変わる機会を得られたんだ」
「自分のクリニックを、潰す? どういうこと?」
 眠気で滑舌が悪くなっていたはずの彼女の声が、途端に張りが出た。目が醒める程の衝撃だったのだろう。
「俺は目標を遂げる為の機械のようになっていた。……それでは、感情を持つ人間を治療する医者としては失格だ。人の心に寄り添った治療が出来るはずがない。我々の相手は、機械システムじゃない。――不幸と幸福。どちらも感じ、感情に揺り動かされる人間が相手なんだからな」
「…………」
「目標を定め、達成に必要なタスクを設定して努力するのは良いことだ。だが俺は、眼前の世界に固執する余り、視野が狭まっていた。暗く不幸渦巻く中で自分は生きる。……その常識は、他の人にとっては非常識だったのに」
「そう、ね……。常識を知らなきゃ、非常識も分からない。自分の感情を知らなきゃ、人の気持ちも分からない」
「前のままなら俺は、機械のように淡々と正しい治療、正しい服薬をするよう患者に強要していただろう。感情を捨てて、な。そして正しく遂行出来ない相手に怒り、ロジックで責め立てていたかもしれない。結果俺のクリニックの評判は落ち、事業は失敗。夢も潰えていた可能性だってある」
 そう、本当にあり得たのだ。どれだけ勝算が高いと計算しても、人は感情で動くのだから。搬送は兎も角、かかりつけ医は選ぶ時代だ。それなら温もりを感じる医者が選ばれるのは、当然だ。親父のように機材が足りない設備でも長く愛され続けているのは、医者としての優しさに厳しさ、真に思いやる人格からだろうから。とても大切で――欠けていたピースだったんだ、と今は思える。
「本当に、ありがとうな。いや、この感謝は……。そんな言葉じゃ、とても足りないな。……本当に、雪華さんと同棲が出来て良かったよ」
「貴方……。今、私のことを名前で?」
「き、聞き間違いだ! この後も直ぐに起きて仕事なんだよ。もう俺は寝るぞ!」
「ふふっ。……お休みなさい」
 その言葉を最後に、俺たちは眠りに落ちた。
 そうして僅かな睡眠を取ると、スマホのアラーム音に起こされる。
 正直、まだまだ疲れは抜けていない。中途半端に眠ったことで、むしろ疲れたような気さえする。
 だが動かない訳にも行かない。
 重い身体を引きずり、リビングへと行くと――ベッドから這い出ようとする生物が居た。いや、それは川口さんだった。長く艶やかな黒髪を顔に貼り付けている姿は、普段の綺麗な川口さんからは想像がつかない悍ましさだった。死霊かゾンビだろうか? 余りの恐怖に、目が醒める。なんと背筋が凍り、脳髄まで刺激する絵面だ……。
「朝からとんでもないホラーを見せやがって! 心臓に悪い!」
「……眠い」
 ダメだ、話にならない。カーテンを開くようになった弊害は、ここにあったのか!
 俺は放置することに決め、身形を整える。地を這う川口さんは見えないことにした。
 歯ブラシ置き場にある自分用の青いブラシを手に取る。川口さんが持ち込んだピンク色のブラシと触れ合っていたのが、妙に恥ずかしい。
 歯磨き粉を必要量つけて、歯を磨き出す。
 すると、インターホンが鳴った。
「こんな朝早く、誰よ……。失礼じゃない」
「全くだ」
 常識観で川口さんと一致したことに若干驚くが……。だが余りに朝早いアポイントメントなしの訪問が無礼なのは事実だ。
 俺は不機嫌にドアを開ける。すると――。
「――貴様ぁ……。よくもワシを騙してくれたな!」
 思わず口に咥えていた歯ブラシを落としてしまう。
 まるで悪鬼羅刹のような形相に顔を歪める川口さんの親父さんが、そこに立っていたから――。