3章
 
「お先に失礼します」
 医局に残って作業をしていた同僚に挨拶をしてから、俺は病院を後にする。
 職員通用口から外に出ると、涼やかに肌を撫でていく夜風が心地良い。思わず、頬がほころぶ。スマホを見れば、時刻は23時を少し過ぎたぐらいだった。
「夏の夜風ってのは、良いもんだ。これから、自転車が更に気持ち良くなる」
 今は初夏。これからドンドンと暑くなっていく。
 昼は地獄だが、早朝と夜にかけては自転車は最高だ。風を切るのが、なんと心地良い感触なのだろうか。自転車で走る爽快さを感じつつも、自分の汚い行いについては罪悪感を覚えてしまう。
「偽装……か」
 人は己の利害を考え、行動に移してしまう愚かな生き物だと実感する。
 偽装ということは、誰かを騙す為にやっていること。それは社会通念上の常識や倫理に反する行為だ。少なくとも、川口さんや俺の両親にバレれば非常に不愉快な思いをさせてしまうだろう。明確な犯罪ラインは決して超えていない。詰まる所、ルームシェアのようなものだから。それでも、人から褒められる行為でないのは間違いない。
「互いの両親や同僚が何も言わなくなる……。それまでだ」
 何時までもダラダラと続けはしない。お互いの利が確定するまでの一時的なものだ。それは川口さん自身も宣言していたから、間違いない。得も言われぬ罪悪感も、自ずと消え去るだろう。
 自宅マンションへ到着し、駐輪場へと自転車を停める。
 自室までの階段を上っていると、勤務で肉体が疲労したのをドッと自覚する。大腿が重い、足を動かすのにかなり気力を要する。だが、後少しだ。後少しで休める。その思いこそが、キツい階段の上へと俺を突き動かす力になる。
「ふぅ……。あ?」
「あ。……ぇ」
 玄関を開き、靴を脱ごうとすると――横目に半裸の女が目に入った。
 上半身には下着しか着用していないのか、縊れた腹は丸見え。下はハーフパンツを履いているから問題ないが、濡れた長い髪をタオルで拭っている。半裸女は、唖然とした顔で固まっていた。俺も同じだ。
 状況を一つ一つ脳内整理していくが、身体は錆び付いたかのように動かない。
「……タオルで隠してくれていて、良かった」
 偽装同棲している川口雪華さんが、入浴から出て来た場面に遭遇してしまった。そう理解した時、思わず口を突いて出た言葉は、大事故に至らなくて良かったという感想だ。
 これが全裸だったりしたら、もう最悪だ。お互いに気まずい。この状態なら水着姿より、布で覆われている面積は大きいからな。問題ないだろう。
「きゃぁあああ!」
 両手で身体を隠すように、川口さんがしゃがみ込んだ。悲鳴を上げて。
「へ、変態! スケベ! 覗き魔!」
 なんで俺が忍び込んだ変質者のように扱われているんだ!? 自分が賃借契約している家に帰ってきただけなのに! 全く納得がいかんぞ!?
「ふ、ふざけるな! 覗き魔などと蔑まれる覚えはない! 俺は自分の住む家に帰って来ただけだ! むしろ俺の家で半裸のアンタこそが露出狂だろうが!?」
「だ、誰が露出狂よ! 今は私の家でもあるのを忘れたの!?」
「な……なん、だと?」
 偽装同棲というのは、賃借人じゃなくても自分の家であると主張出来るのか!? あくまで同居人ではないのか!?
「良いから、出て行って! 良いって言うまで、入ってくるな!」
 その声に弾かれるように、俺は部屋を飛び出す。
「屈してしまった……」
 こんな理不尽な要求に応じてしまうとは……。何故、疲れて帰って来て直ぐに追い出されなければならんのだ!? クソ……。やっと休めると思っていた分、疲労が何倍にも感じる。
 心中で愚痴を言っていると、いよいよ身体に限界が訪れた。もう立っているのも辛い。ドアを背に座りこんでしまう。さすがに尻まで廊下につけるのは、衛生的にもマナーとしても最悪なので堪えたが……。
「どれ程譲歩したとしても、だ。……俺の家でもある、よな?」
 何故、入ることすら許されず表に出されねばならんのだ。
 ハァ~と、大きな溜息を吐いた時――背後から押される力を感じ、廊下へ顔から倒れ込んでしまう。
「……もう、入っても良いわよ」
「……俺の惨状を見て、他に言うことはないのか?」
「あんた、廊下で寝るの?」
 こいつ、張り倒したい。
 俺がうつ伏せに倒れているのは、アンタが突然ドアを開いたからだろうが。……いや、それを言うならば、だ。川口さんの半裸を見る原因になったのも、俺が何も声をかけずにドアを開いたからという理屈になるのか? これからはノックや声かけをしてから家のドアを開けと? なんて面倒な……。偽装であろうと、そうでなかろうと、同棲なんて最悪だ。少なくとも東京の狭い1LDK賃貸物件なんかでやるもんじゃあない。
 しかし何時までも共用の廊下に居るべきではない。文句を言ってやるにしても、室内に入ってからだ。グッと堪えて、俺は室内へと入る。
 靴を脱ぎ、汚れた手と顔を洗う。そうして洗濯機を回してから、理性的に話をしようと部屋を見る。
 開けたカーテンの隙間から、ソファーに座って肌に何かを塗る川口さんの背が見えた。その不貞不貞しいまでの図々しさには、いっそ尊敬の念すら覚える。
「アンタな、いくらなんでも――」
「あ、カーテンで囲われた中に入って来たら、警察を呼ぶって言ったわよね?」
「…………」
 警察を呼ばれ、冤罪をかけられても面倒だ。色々と納得はいかないが、狭い共用部分のフローリングに座る。体育座りでギリギリだ。
「……何故、文句を言ってやる側の俺がフローリングに座っている。アンタがソファーに座ってるのに。立場が逆じゃないか?」
「不満なら、あんたもソファー買えば?」
「どこに置くスペースがあると言うんだ!? 部屋の殆どを占領したくせに、どの口が言う!」
「この口よ。綺麗でしょ?」
「ああ言えばこう言いやがって……。アンタの親の顔が見てみたいものだな!」
「心配しなくても、後1ヶ月もすれば会えるわよ。予定を摺り合わせたのに、覚えてないの?」
 そうだった。それこそが、この不愉快な偽装同棲生活の主な目的だったな。これだけ自分勝手で我が儘な人間の親だ。碌なもんじゃないだろう。挨拶で顔を見るのが、逆に楽しみになって来たぞ。
「親の話は一旦、置いておくとして、だ。同居していると、入浴や着替えに出くわすこともあるだろう。通常のカップルであれば、それは問題ないのかもしれない。だが、俺たちの関係では問題だ」
「そうね。偽装関係でしかないからね」
「こんなどちらの得にもならない事故を防ぐ為に、だ。互いに入室する時、インターホンを押すというのはどうだ?」
「私の裸を見て、あんたは得したでしょうが」
「はんっ……。何が得なものか。自惚れるなよ?」
「は? あんた、本当に警察に突き出してあげようか?」
「お、俺は医者だぞ。人の身体なんて、仕事でイヤになるほど見ている! むしろ裸を見れば、そのまま解剖図が浮かぶぐらいだ!」
「本格的に気持ち悪い! もう黙って!」
「ぐ……」
 何故だ。事実を述べたまでなのに。ここで得だったと言っても、どうせ気持ち悪がられる。素敵だったと言った所で変態扱いだろう。正解なんて端からないじゃないか。同棲していると言論の自由すら奪われるのか? コイツはこれ程、自由に言いたい放題言っていると言うのに!
「まぁ、でも……。事故を防ぐ為にインターホン押してからってのは良いかもね」
「そうだろう?」
「特に朝と夜は、気を付けて」
「……は? ああ、朝は出勤前に着替えをするからか。確かに、クローゼットも共用スペースだから注意をする必要があるな」
「それもあるけど、朝はシャワーを浴びるから」
「……な、なん、だと?」
「全く……。玄関を開けて直ぐ、脱衣所もなしに浴室が見えちゃう構造って、どうなのよ? 入浴中に郵便屋さんとかが来たら大変じゃ――」
「――アンタ、今なんと言った!?」
 俺が目を剥いて声を上げると、川口さんはビクッと身を縮めた。そんな反応をしようと無駄だ。とても聞き流せない爆弾発言をしたんだからな!
「だ、だから……。脱衣所もないから郵便屋とかが来たら大変って」
「その前だ! 朝にシャワーを浴びるとか言っていただろう!?」
「え、そ、そうだけど……」
「あ、アンタは……。夜にも風呂に入り、朝にはシャワーを浴びると言うのか!?」
「え……。う、うん」
 し、信じられない。聞き間違いであってくれと心から願っていたが、現実とは非情だ。なんと耐えがたい話だ。まるで優雅なセレブ生活をラジオで耳にしているぐらい、現実感がない。
「ま、まさかとは思うが……。シャワーは、何分使っている!? その都度、止めるとは思うが……」
「た、多分……。使ってるのは15分ぐらい、かな?」
 その答えを聞いて、鳥肌が立つ……。な、なんというヤツだ……。何故、そうもキョトンとした表情が出来る!? まさか自分がどれだけおかしなことを言っているのか、理解していないのか!?
「ア、アンタ、正気なのか!? 1回の入浴に、いくらかかると思っているんだ!?」
「……はい?」
「良いか、よく聞いて理解しろよ!? 浴槽一杯200リットルを沸かすガス代で約75円。水道代は1リットル24銭だから、48円だ。この時点で123円!」
「…………」
「更にシャワーを流しっぱなしで、1分間に12リットルの水が出るから……。180リットルか!? ガス代68円に、水道代が43円! 更にはドライヤーなどの電気代も……。アンタが1回風呂に入るだけで235円以上かかっているんだぞ!?」
「へぇ……。そうなのね」
 驚かない、だと!? まさか、知っていたのか?……いや、とてもそんな反応ではない。どこか現実感のなさそうな表情……。そうか、予想外の金額に驚愕し過ぎて、唖然としているのか。
「これを毎日、つまり一月で7千50円だ! これに朝もシャワーを浴びると言い出すなど、正気を疑うだろう!?」
「疑うのは、あんたの常識よ! ケチケチして……。そんなんだから、あんたからは加齢臭がするのよ!」
「か、加齢臭だと!? ふざけるな、俺は医療従事者として衛生管理に気を遣っている!」
「私だって接客業として、衛生管理にも身だしなみにも気を遣ってるのよ!」
「確かに衛生管理は大事だろう。仕事のパフォーマンスの為に、必要なものだ」
「そうでしょ!? それなのに、なんで責められないといけない訳!? あんたは私にお風呂へ入るなと言うつもり!?」
「そうは言っていない! 朝か夜、どちらかにすべきだと言っているんだ!」
 浪費家だとは思っていたが、ここまで一般常識がないとは……。今まで一体、どんな生活をして来たんだ。戦慄せずにはいられないぞ!
「無理ね! 朝、バッチリ目を醒まして気合いを入れる為にも、必須なの!」
「せめて節水にシャワーの流しっぱなしを止めるとか。湯を沸かす温度を下げるとか、いくらでも節約方法はあるだろうが!」
 どうしてこうも理解されない!? 常識がないだけでなく、理屈を話しても通じない。同じ言語を話しているのだぞ!?
「そもそも、だ! 衛生面や肌の保持から言っても、二度も入浴するのは間違っている!」
「……え?」
「いいか、肌ってのは常在菌が守っているんだ! それを1日に二度も入って洗えば、紫外線や微生物に対しての抵抗も落ちる! それでは、本末転倒だろうが!」
「ボディクリームや日焼け止めクリームは、キチンと塗っているわよ!」
「自分でぶち壊して、それを補う為に出費を重ねる、だと? なんて非効率なんだ……。ん、待て。俺はアンタの荷解作業を手伝ったが……。そんな化粧品、あったか? それにバックや洋服も……増えている?」
「……買ったのよ。1週間前にお給料が入ったから、この生活で溜まったストレスを吹き飛ばす為に、パッと。紫外線も強くなる季節だし」
 思わず絶句してしまった。
 給料が入ったら、直ぐにパッと使う、だと。計画性の欠片もない。まだ次の給料日まで3週間あるだろうに。いくら使ったのかは知らんが、いずれも安くない外観をしている。ブランド名も、聞いたことや目にしたことがあるものだ。万札が何枚も飛んで行くのが容易に予測出来てしまう。これで給料日までに何かあったら、どうするつもりなんだ? 病気になって病院にかかるのだって、3割負担でも数千円かかるんだぞ。
「だいたいね! 人の持ち物を盗み見るなんて、プライバシーの侵害よ!」
「同居している住居に隠さず置いてある物を見て、何故そうなる!? 見られたくないなら、収納にでも入れておけば良いだろうが!」
「ああ、もう! イラつくイラつく~! このロジハラモンスターが!」
 ロジハラ……。ロジカルハラスメント、か。正論を強く主張し過ぎて、相手を追い詰める行為を意味する。だが一方的に論破されるだけで成立することもあるという、訳の分からない迷惑行為だ。
 そんなの正論で追い詰められ論破されるだけの問題を起こしている方が悪いだろう。暗黙の了解なんかじゃなく、公然たる事実を突き付けられたら迷惑行為の被害者だなどと、意味不明だ。
 職場の上司など言い返せない立場や、一方的な関係なら問題だと思う。だが対等に文句を言い合える関係で反論も出来ないなら、単に己の間違いを認めずにハラスメント、迷惑行為だと喚いて逃げているようにしか思えない。
 少なくとも川口さんと俺は、対等に言い合える関係性だ。人の契約しているマンションの大部分を勝手に占有スペースにして、都合の悪い時には家主を家から追い出せるんだからな。ムカつくだのイラつくだのと、本人の目の前で言っているしな。怖くて反論出来ませんでした、ロジハラです。そんな理不尽な主張が通ってたまるか。
 単に都合の悪い正論を言われて、ハラスメントだから止めろ。そう拡大解釈した権利を振りかざしているようにしか思えない。
 とは言え、職場でもロジハラっぽいと言われるのも事実。俺にはロジハラのきらいがあるのかもしれん。今度、ロジハラの定義をキチンと調べ、自分の言動と照らし合わせよう。それまでは一時不名誉な疑いをかけられるのも受け止めてやろうじゃあないか。
「もう話は終わり! じゃあね!」
 シャッとカーテンを閉め、川口さんの姿は見えなくなる。
 俺のリビングが消えた。
 ダイニングからクローゼット、そしてトイレに浴室。4畳の寝室のみ。しかも寝室は、ゴミ袋の保管所にもされている。家賃負担が半額負担になるのは嬉しいが……。これでは、狭い1DKだ。
 何故、疲れて帰って来てからまた疲労せねばならんのか……。恋愛や結婚を押しつけられ、仕事に集中出来ない日々から脱却する利の為に、多くの害を抱えてしまった気がする。
 光熱費も折半という好条件だと思って迎え入れたが……。むしろ、この浪費家と生活しているなら、俺が1人で生活している方が安くつくのではないだろうか? 家に居ない時間が長いし、無駄遣いなどは決してせず倹約していたからな。
 あの街コンの夜、家賃光熱費折半という甘言――エサに引っかかった自分を、恨まずにはいられん。疲労に空腹、アルコールで頭が回っていなかったと言ってもだ……。契約は契約、約束は約束。それを反故にするような、信用の置けぬ者にはなりたくはない。約束破りの癖でもついたら最悪だ。あの日、仕事場で働く姿に騙され、軽率に約束をしてしまった自分が許せん。
「後悔先に立たず、か……」
 髪を整えていたし、実は東央ニューホテルのウェディング会場で目にした川口雪華とは、同性同名の別人なのではないだろうな? あのキャリアウーマンのような姿と、家で浪費しながら人の家の大部分を占拠する横暴な姿が、どうしても重ならない。
「……寝るか」
 明日も朝から出勤だ。俺は自室へと入り、軽く床とベランダの掃除をする。
 音を立てないように、気を遣いながら。
 そしてソッと折りたたみベッドを広げ、床につく。
 明日は公私共にどんな問題が起きるのだろうか。グルグルと考えているうちに、意識が遠のく。
 次に気が付けば、もう空は朝陽が顔を覗かせようとしていた――。

 その日は、記録的な酷暑日だった。
「……暑いな」
 仕事を終え、もう夜だと言うのに……。スマホの天気アプリには、気温が29度と表示されている。気象庁が認めているものではないが、最低気温が25度を上回る夜のことを熱帯夜。そして30度を上回る日のことを超熱帯夜と呼称するらしい。
「急に暑くなったから、今日搬送されてくる患者には熱中症が多かったな……」
 職員用通用口から外に出ると、既に陽は落ちきっているのに蒸し暑さに襲われた。
 病棟勤務時間だと言うのに、搬送されてくる人が多過ぎて外来にも回された。熱中症とは本当に恐ろしく、命に関わるだけではない。油断すると、心筋梗塞や脳梗塞なども招く恐れがある。
 今日は死亡者が搬送されて来ることもなかったが、油断が出来ない季節が来た。
 そうして茹だる熱さの中自転車を漕いで自宅へ辿り着き、インターホンを鳴らす。するとスマホに『帰って来たの?』と川口さんからメッセージが来た。『そうだ』と返信すると、ガチャリとカギが開く音がした。施錠と防犯意識が根付いているのは嬉しいが、これではどちらが家主か分からないな……。
 顔が苦々しく歪むのが分かる。
 だが汗で気持ち悪い。汗が乾燥して臭気を発する前に、冷たいシャワーでサッと汗を流したい。
 そんな思いからドアを開くと、ひんやりと冷たい空気が室内から流れ出て来て肌を撫でていく。
「お? 冷房を入れているのか。涼しくて気持ち良いな、助かる」
 俺がそう言うと、川口さんは開けたカーテンの間から、少し驚いたような表情を覗かせていた。口にはアイスの棒が咥えられている。
「どうした? そんな呆けた顔をして」
「冷房を入れていることに、またネチネチ言われると予想してたから」
 そんなことを考えていたのか。コイツは俺をなんだと思っているのだろうか。俺だって鬼じゃないと言うのに。
「あんたはいつもみたいに、節約節約って喚くと思ってたわ」
 なんだか酷い誤解があるようだな? キチンと説明する必要がある、か。
「勘違いをするな。俺は必要な所には、適切で過不足のない予算を使うべきだと考えている。飲食物や衛生にしても、冷房にしてもだ」
 シャツのボタンを緩めながら、服をパタパタと仰ぐ。肌に冷房から出た冷たい空気が染みて、実に心地良い。少し水分を取ったら、川口さんにカーテンを閉めてもらわなければな。シャワーを浴びるにしても、目を逸らしてもらうのは互いに面倒臭いし。
 それにしても、俺をケチだと勘違いされているのは問題だ。本質を理解されていない。
「水分を不足なく摂る必要はある。しかし水の質が高額なジュースやミネラルウォーターである必要性はない。水分摂取にジュースなどを飲むのは、過分な贅沢だ。日本には安価で安全に飲める水道水があるんだからな」
 川口さんはアイスを舐めながら、グテッとソファーに腕と顔を乗せて俺の話を聞いている。薄着でそんな格好をするのは、危機感が足りないのではないか? 興味もない胸の谷間が見えている。いや、下らん情欲に流され、手を出さないと信頼されている。そう思えば、別に自宅で楽な格好をして気を緩めているのを咎めるのも違うか。自宅とはリラックスが出来る場であるべきだしな。
「ふ~ん。ケチでも、妥協点はあるのね」
「当然だ。熱中症なんて、場合によっては命にかかわる。昼だけでなく、意外に夜だって警戒が必要だ。命や健康、それは金に変えられん大切なものだ。もし体調が悪くなって受診すれば、光熱費とは比べ物にならん莫大な医療費が請求されるんだからな。予防費として使用すべき必要な経費だ」
「それでも医療費と天秤にかけている当たり、あんたらしいわ」
 本当に失礼なヤツだ。そんなのは国だってやっていることだ。予防医療にどこまで予算を配分するか。その配分によって、重篤な疾患で多額の医療費や健康寿命がどこまで延伸出来るのか。
 それを家庭レベルの小さな話にしただけだろうに。これだから正論が通じない常識知らずは困る。
 そうだ、川口さんは常識知らずだった。となれば、一応確認しておくべきことがあるな。
「ところで、当たり前のことを聞くようで失礼だが……。ちゃんと室内を換気してから冷房を入れたよな?」
「は? こんだけ暑いのよ? 帰って来て直ぐに冷房を入れたに決まってるじゃない」
 当たり前のように言い切りやがった。あり得ん、どこまでもあり得んだろう! 暑い夏だと言うのに、背筋が凍ったぞ。とんでもないホラーだ!
「バカなのか!? 冷房ってのは、室内を設定温度まで下げる道具だ! スタートが締め切りで暖気が籠もった状態からだと、余計な電力消費が必要になるだろうが!」
「知らないわよ、そんなの! 外だって暑いんだから、変わらないでしょ!?」
「締め切った部屋に差し込む光、そこから生まれ籠もる暖気は室外よりも高くなる! 常識だろう!?」
「良いじゃない! どっちにしろ冷たいシャワーを浴びてる間に涼しくなってるんだから!」
「だから、そこまで冷えるのに要する電力が違うと言っている!」
「どうせまた、数円程度の差でしょ!? 本当、みみっちくてイヤになるわ!」
 こいつ、本当に俺の日本語が通じているのか? 言語を理解する能力が、熱でやられているんじゃないのか?……いや、暑くない時からこんな感じだったか。
「ああ~もう……。あんたと言い合いしたせいで、暑くなったわ。ちょっと20度まで下げて――」
「――止めろ! 一時的に暑くなったからと、設定温度を頻繁に変える気か!? 更に電力を消費するだろうが!」
「うっさいわねぇ……。どうせ誤差よ。……ああ、冷たい風が気持ち良い」
「ぁ、ぁあああ……」
 本当にやりやがった……。この経済観念の乏しさ……。間違いない、コイツは不倶戴天の敵だ! 更に悪く言えば、貧乏神だ! 気が付いた時には俺の貯金まで奪われている予感がする。
 お互いの利益を果たしたら、直ぐに出て行ってもらわねば。
 もう、今はこれ以上何かを言っても無駄だろう。
「俺は軽くシャワーを浴びる」
「あっそ。じゃあ、カーテンを閉めておくわね」
 シャッとカーテンを閉められる。窮屈感が増した。仕方なしに受け入れていたが、よくよく考えれば既に侵略し、俺に不幸を振りまいていないか? 不幸の世界に生きるのは、病院だけで間に合っていると言うのに……。仮にも人を幸せにして飯を喰っていると言うのなら、家での俺も少しは幸せにして欲しいものだ。
 口に出せばまた不毛な言い合いになるから、胸中で留めておく。建設的な議論なら喜んでするが、不毛な言い合いでまたロジハラと騒がれるとカロリーの無駄だ。兎に角、今はシャワーを浴びてベタ付く肌をなんとかしたい。
 そうしてサッとシャワーを浴び、乾燥機付き洗濯機のスイッチを入れる。
 後は、眠るだけだ。
 俺は自室へのドアを開き、冷気を取り込む。そして折りたたみベッドを開き、横になる。
「ちょっと、ちゃんとドア締めなさいよ」
 川口さんの声が聞こえてきた。なんだよと思いつつ身を起こし、ドアから顔を覗かせる。川口さんもカーテンの隙間から顔を出し、こちらを睨んでいた。まさか、とは思うが……。
「今夜は最低気温29度の熱帯夜だから、エアコンを付けたまま寝るんだよな? 俺の部屋、ドアを空けておいても良いだろ?」
「このエアコン、7畳用よね? 良いのかしら、電力が余計に掛かるわよ?」
 たった1つしかないエアコンまで、独占する気か!? 防犯の為に、換気をしたまま眠る訳にも行かない。29度で、締め切った部屋で眠る……。考えるまでもなく、最悪だ。汗でベッドは汚れ、湿り気を帯びているから熱も籠もる。結果、疲れも取れ難くなると言うのに。だが頭を下げて冷気を取り入れさせてくださいなどと言うのは、もっての外だ。余りの不条理に、口にしている間に怒りで体温が上昇しかねない。
「……良いだろう。寝る前に小まめに水分摂取をすれば、熱中症や脳梗塞も回避出来るだろうからな。貴様も精々、冷房病に気をつけろよ!」
「冷房病って、正式な病名なの?」
「……ぞ、造語だ」
「私が以前に仕事中毒って口にしたら、正式な病名になってから言え的な話をされた気がするのだけど? 他ならぬ、あんたから」
「どこまでも口の減らないヤツだな……。忌々しい」
 俺は冷蔵庫に行き、冷やしておいた水道水を口に含む。スッと、体温と共に溜飲も下がった気がした。
 翌朝、俺は寝苦しさから、本来起床する予定の時刻より早くに目が醒めた。
 そして目が醒めたからには、早めに病院へ行って研究作業を進めたい。
 一晩中、冷房を付けたままなのだろう。軽く換気をしてやる。
 まだ眠っている川口さんを起こさないよう、そっと自宅を出る時、川口さんの気持ち良さそうな寝言が聞こえた。
 出勤前から、妙に気を遣って疲れた気分だ――。

 病棟で事務作業をしていると、モニタリングしている心電図から、ピーという緊急音が流れた。
 バッと、スタッフ全員が心電図を見る。
 波形は――心臓が静止している波形だった。
 この患者は昨日、開胸手術で肺梗塞と右心室梗塞の手術を終えた患者だったな! 心筋壊死部も広く、術後の末梢循環障害も、肺うっ血もあった。
「血管収縮薬投与開始だ、以後は3分毎に投与! 直ぐに心外膜ペーシングを用意、1分以内にだ! 心臓外科へコールも!」
 俺の指示に、プロフェッショナルである看護師たちが一斉に動き出す。
 ペーシング――ペースメーカーの開始に1分間以上かかるなら、胸骨圧迫を躊躇うべきではない。だが、ペーシングが可能ならば胸骨圧迫による蘇生を行うべきではない。大量出血死に繋がるから。
「蘇生拒否希望が出ていないことを確認してくれ!」
 統計的には、51パーセント以上の確率で再度の心停止が起きる患者だった。強心薬や鎮痛剤を輸液して注意深くモニタリングしていたが、ずっとハイリスクではあったんだ。
「再開胸セットに人工心肺装置も準備だ!」
 この事態を想定し、再開胸手術を行えるベッドに寝かせ、必要な手術具も用意してもらっていた。
 ICUで再度心停止が起きる確率は2.7パーセント。そのうち生存率は、文献によりバラつきはあるものの、20パーセント未満と言われている。だが、0じゃない! まだ自己心拍を再獲得出来る可能性は、残されている!
「俺は基礎領域である整形外科専門医だ! 心臓外科のサブスペシャリティを持つ医者はまだか!? 到着予定時刻は!?」
「ダメです! ブルートゥースで確認を取っていますが、心臓外科医は今、皆が手術室に入っているそうです! 終わり次第、直ぐにこちらへ向かうと!」
「畜生が! 既に心停止状態なんだぞ!?」
 蘇生は高度な知識を持つ――特に専門性が高い心臓外科の知識に、より深く精通している医師の方が成功率が高いというデータがあるのに! 
 救急医療では医学的緊急性への対応、すなわち、手遅れとなる前に診療を開始することが重要だ。救急科医は総合的判断に基づき、必要に応じて他科専門医と連携し、迅速かつ安全に診断と治療を進めることが求められる。
「再開胸手術の準備だ! それぞれ持ち場につけ! 心臓外科医と患者家族には、適宜連絡を取ってくれ!」
 ないもの強請りをしても仕方がない! 救急科入院患者で最も死亡退院が多いのは、心臓疾患だ。俺だって、それなりに場数も踏んでいる。
 それに迷ったり躊躇っている猶予などはない。蘇生措置をしながら、いかに早く開胸手術を行えるかが重要というのは、論文的にも明らかだ。ICUで心停止した患者を、ICU外へ運んでの再開胸手術は結果が悪いということも分かっている。だから心臓外科医を待ちつつ、出来ることに全力を尽くしてやるしかない――。

 手術が終わり、血に濡れた手術着を脱いだ後、家族が待っているという待合室へと向かった。手術後に、家族説明を行う為だ。執刀医は他患者の手術に呼び出され、一緒に手術へと参加した俺が説明することとなった。
「――先生、結果は?」
 家族は縋るような勢いで走り寄ってきて、不幸な顔を浮かべている。
 俺はこれから、この家族へ――最悪の不幸を宣告する。
「……残念ですが」
 滑り落ちるように、患者家族――いや、遺族が病院の床へと崩れ落ちる。そして、嗚咽を上げて泣き始めた。
「状況と手術中の経過について、ご説明させて頂きます」
 医者として必要な仕事だと明確に理解している。こういった不幸な宣告に冷酷な説明を含め、飯を喰わせてもらっている職業だから。
 恐ろしいのは、この最悪な不幸を通告することに慣れてしまっていたことだ。業務の一環と、当たり前に受け入れていた。初期の診察と決断をするのと同じように、円滑かつ正確に伝えれば良いと割り切っていたのだ。
 しかし最近になってから、医者になった初期の頃のように――心が軋むようになった。
 今まで当たり前にやっていた仕事に、異常感を覚えるように変化したのは何故だろうか?
 ああ、1つ心当たりがあった。
 川口さんの仕事ぶりを見たからか。
 俺の仕事は、頑張って懸命に働けば必ずしも人の幸福に繋がるものではない。むしろ人の不幸に遭遇する機会が増す。この職業の異質さに慣れる危険性を、知ってしまったんだ。
 懸命に働いた先に、相手が明るい笑顔になる幸せな職業を目にしたから。
 俺の仕事の常識は、外の世界では非常識だと学んだんだ。頼まなくても、余計な金を積んで安心を買おうとする異質な世界。営業をして契約を結ばなくても、次々とパンクするほど患者が運ばれてくる異常な場所。
 自ら選んだ仕事だ。贅沢な悩みだとは承知している。
 それでも、幸せを運ぶ職業が羨ましくないと言えば――嘘になる。
 だって、懸命に働いた所で……。俺の仕事は、これ以上ない不幸な顔をした人々と接することになるのだから。地獄の閻魔のような宣告を、現実のものとして突き付けねばならないのだから。
 どれだけ勉強をして研鑽を積んだ所で、医者は神様にはなれない。やはり我々病院職は、人の不幸で飯を喰わせてもらっているのだと痛感する。泣く家族の顔を脳裏に浮かべながら、プライベートを過ごすんだ。食事をする時も、入浴をする時も、どんな時にでも。
 人が笑顔になる幸せな仕事を、達成感を感じながら家でくつろげる仕事を――羨まない訳がない。
 それでも俺は、この不幸が跋扈する世界で、最悪の不幸を減らす為に努力を続けなければならない。自分の目標の為にも――。

 ICUでの緊急再開胸手術から2日後、俺は溜まっていた仕事を終わらせ、自宅へと帰った。
 時刻はとっくにAMへ移り変わり、刻々と数字を増やしている。もう、心身共にクタクタだ。
 年齢による体力低下もあるのだろうか? 単純な疲労ではない。これ程心身共に参ってしまったのは、久しぶりだ。
「……モグラが陽の光を浴びれば、衰弱するか」
 これは比喩だ。何も、院内に籠もって太陽光を浴びない不健康な生活を言っている訳ではない。不幸に満ちた暗い世界である病院。そんな場所に生きるのが当然になっていた俺が、煌びやかなホテルでキラキラ笑う客、キビキビとやり甲斐を持って働く人を見てしまったのだ。俺にとって、それは太陽のように眩しく、受け入れがたいものだった。これまで自分の当たり前にしてきた生活に疑問を抱く程に、だ。
「今日も冷房をつけているのか」
 インターホンを押してから部屋に入ると、冷たい風が肌を撫でる。今日はゆったりしたい気分だ。それなのに、自室に籠もればこの冷気には当たれない。そう考えると、イライラして来る。
 何故、俺の借りている部屋で、光熱費の半分は俺も払っているのに。こうまで我慢せねばならないのか? 今だってカーテンの敷居の外、僅かな隙間で疲労を回復するしかない。
 もう、立っているのも辛い。家事も風呂も、少し冷たい風が来る場所で座ってからだ。胡座をかくのにすら、身体を縮めなければならない。……この理不尽に、体温が上がってくる。いや、落ち着け。仕事でいつもより、感情が昂ぶり安くなっているんだ。一時の感情の昂ぶりによる言動は、余計な軋轢を生む。もっと俯瞰して、事実のみを冷静に見つめろ、俺……。
「今日はちゃんと換気してから冷房をつけたからね。文句を言われる筋合いはないわ。それどころか、あんたが帰って来るより5時間も前から冷やしておいてあげたのよ。感謝しなさい」
 アイスを咥え、スマホで動画を見ながら俺に言い放つ。こちらを見もしない。まぁ、それは別に良いが……。5時間も冷やしておいた? いや、本来なら確認をするまでもないとは思うが……。こいつは常識知らずだから、あり得るかもしれない。
「ま、まさかとは思うが!? エアコンをつけてから1度も換気していない、とか?」
 思ったより、大きな声が出てしまった。結構な夜更けにも関わらず、近所迷惑だっただろうか。気をつけねば。そう自分の感情の昂ぶりを抑えようとするが「当たり前でしょ。声。うるさいわよ」と。こちらへ目線を向けることなく開き直られると、イライラが止まらない。声は抑えつつも、しっかり伝えなければ……。大丈夫、ちゃんと伝えれば、コイツは修正出来るヤツだ。今日だって、換気をしてから冷房を付けたと言っていたからな。
「何をやっているんだ……。健康に過ごす為のエアコンで、不健康になるだろうが」
「は? なんの話よ?」
「いいか、エアコンは外気を室外機で取り込み、パイプを通して室内機で放出する。換気が必要な理由は細菌やウイルス、カビにハウスダストなどの有害物質や汚染物質を、部屋の外へ出したり薄める為だ」
 極めて冷静に伝えられた。良かった、感情に流されずに、事実を教えられた。
「相変わらず細かいわね。心配しなくても、そんなことしなくたって死なないわよ。本当、重箱の隅を突くみたいな文句しか言わないの? そんな医者、本当にイヤだわ。あんたみたいのに診られる患者が可哀想。いえ、同僚もね」
 その言葉が、努めて冷静であろうとしている俺の心に火を付けた。
「こんなことは常識中の常識だろう!? 知らないなら、覚えてこれから実践すれば良いだろう! 何故、そこまで文句を言われなければならんのだ!?」
「な、何よ、今日はいつも以上にキツい言い方じゃない。……八つ当たりされてるみたいで、本当に腹が立つわ!」
「……ちっ」
 思わず、目線を揺らし舌打ちをしてしまう。キツい言い方になったのは、俺にも自覚がある。だがそれは……。アンタが俺を……医者としてイヤだ。俺に診られる患者が不幸だなんて言ったからだろうが。俺にとってそれは、許しがたい言葉なんだ。プライベートの自分を貶されるより、余程な。
「あんたは、いつもそうね。正論だから俺に従え。こんな簡単なことも知らないのか。そう言う所がロジハラだって言ってんのよ」
「ハンッ。ロジカルハラスメントか……。近年は何でもハラスメントって言葉をつけているが、ロジハラはその中でも最悪だ。正しいことを伝えているのに、それを相手が受け入れられなければハラスメント。クソみたいな話だ。それじゃあ誰も成長出来ないし連携だって鈍る」
「伝え方と必要性の話よ! あなたは細かくネチネチと……。正にあなたみたいな人間を止める為の、素晴らしいハラスメント制定よ!」
 医療現場は正にそうだ。昨日ICUで救えなかった命にだって、最も可能性の高い処置を連携して迅速に行えた。普段から、こうするのは科学的根拠に基づき推奨されている。可能性として高いから準備をしておく必要がある。そう正論を訴え続けていたからだ。今回は結局、助けることは出来なかった。だが、これで開胸セットの準備が出来ていなければ、もっと絶望的だった。元より10回中、8回は救えない状況だった。その可能性が、10回中9回以上救えなくなっていたかもしれないんだ。結末は変わらないが、救える可能性を高める為に議論と準備を行ってきた。
 その連携を産み出した正論のぶつけ合いは必要だろう。それがハラスメントだと言うのか? 下らない、実に下らない!
「制定するなら、境界も定めるべきだ。パワハラはその点、明確で素晴らしい。パワハラみたいな最悪の迷惑行為こそが駆逐されるべきだ」
「なんでパワハラに対してはそう思ってるのに、ロジハラには否定的なのよ!?」
「ロジハラも、モラハラも、境界がないに等しいクソな言葉だ。相手が都合が悪いと感じる主張をされたらハラスメントなんて、感情論に頼り切ったクソみたいな言葉だ!」
「感情論の何がいけないのよ!? イヤな感情にさせる迷惑な言動を規制するのは当然でしょう!」
「ハンッ!」
 思わず鼻で笑ってしまう。
「感情ってのは、つまり相手次第で移ろう不確かなものだ。セクハラだってそうだ。相手が自分好みのイケメンなら、コロコロと境界線が変わる。仮に『髪切ったんだ。可愛いね』という同じ褒め言葉を言われたとしよう。だが容姿がタイプな相手と、嫌いな容姿の人間に言われた時では、受け取る側の感情も変わる。場合によっては、ハラスメントとして訴えられる。違うか?」
「う……。それは、仕方ないじゃない」
「部屋へ帰る男の行く手を、なんとしても阻みたい女性たちが、腕を組んで壁を作る。部屋に入りたいから退いて欲しいと男が触れば、セクハラだと言う。こんな乱用だって出来てしまうんだぞ? 欠陥があるとは思わないのか?」
 いつかのテレビ中継の録画放送で見たことがある。議論の場で、自分たちの主張が通らなかったからとハラスメントを拡大解釈して行く手を阻んでいた。どちらの主張が正しいのかは、詳しくは観ていない。だがそのやり方は褒められたもんじゃないだろうと思ったものだ。
「それは……。でも実際にハラスメント被害を受けている人もいるし……。胸とかお尻をバカにされたり、性的な言動されて嫌な気分になるのよ!? それをハラスメントだって言うのは悪いことじゃない、普通の権利でしょ!?」
「ああ、その通りだ」
「え?」
 拍子抜けしたように、川口さんは意外そうな声を漏らす。何をそう、意外そうな表情をするのか。理解出来ん。
「迷惑行為を規制するのは正しい。だが、境界が曖昧な状態で放置されていては言論の自由、引いては人権すらも奪う。境界が定められない一方的な感情によるハラスメントは、未完成だ」
「未完成って、どう言うことよ。ハラスメントはハラスメントでしょう。それ以上があるって言うの?」
「明確な境界線の有無だ。境界線が示された制度制定より先に、言葉だけが一人歩きして暴走しているクソな状態だ。感情論で変わる奇妙極まりないクソだ。タイプの容姿であろうと、そうでなかろうと、この言動からはハラスメント。そう言う細分化した明確な定義がないのは悪だ」
「そりゃ、ハラスメントされた側の自己申告な部分はあるし……。どうしても、感情論になっちゃうでしょう?」
「交通事故を起こせば報告義務がある。周囲も警察へ通報する。何故それがハラスメントでは報告義務が本人次第になっているのが当たり前なんだ?」
 言い返す言葉が見当たらないのか、川口さんがアイスの棒をガリッと噛み砕く音が響いた。痛くないのか?
「医療では数多の症例から導き、確立された治療法がある。明確に病気やケガの状態や進行度を分けて、この段階にはこの治療が良い。この治療はダメだとな。もし明確に分けられているのに、間違った治療を選択すれば、医者は処罰を受ける。多くのハラスメントには、まだこういった明確な境界がない。俺はそこが問題で未完成だと言っているんだ」
「境界がちゃんと引かれれば、あんたは直ぐにロジハラで訴えられそうね」
「キチンと妥当性のある境界が引かれれば、当然遵守する。むしろバシバシ取り締まる側に回るさ。妥当性がなければ、政治的な抗議も辞さない」
「その妙な素直さと信念は、一体なんなの? どこまで偏屈な訳?」
 そんなもの、法令を遵守して生きる善良な市民として当然のことだろう。理不尽や不条理を許さない、民主国家の一員としても当然だ。
「今の制度でロジハラとか言い出したら、キリがない。仮に法廷で裁かれたとして、だ。究極的な話、裁判官や弁護士だってロジハラをしている。法律という究極の正論で人を罪人と決め、被告人に不快な思いをさせるんだからな」
「また正論っぽいことをネチネチと……敵を増やしそう。本当、アナタは変人ね。小姑じみた物言いに文化的な生活とは思えない異常な節約と言い……。もうちょっと、社会性を身につけたら?」
「右に倣えの傾向が強く、自分の意思を主張したがらない日本人らしい意見だ。だが、おかしなことを言う。俺とアンタは、そう言う結婚するのが当たり前の社会風潮へ反抗する為に手を組んだはずだろ?」
「それとこれとは別問題よ。人の気持ちを察して行動してあげるのは、素晴らしいと思わない?」
「悪いが、俺の職場では顔だけじゃなくあらゆるデータから統合的に判断して適切な対処が求められる。顔色を伺うのなんざ、気難しい人たちの接待だけで充分だ。飽き飽きしている」
「日常生活でも、少しは役立てなさいよ」
「たまに解放される私生活で、何故そんな疲れる気遣いをしなければならない?」
「同棲してる私が疲れてイヤな思いしない為に言ってるの。伝わないかな?」
 随分と嫌みったらしい返しだ。疑問に対し、煽るようにまた質問で返して来やがった。コイツには私生活で自由気まま、人の家で勝手放題やっているという自覚はないのか? まるで私は私生活でも気を遣っていますと主張するように、上から目線だ。
 一度、同棲を始める前にホテルへ赴き、仕事中の川口さんを見た。確かに、あの時はよく人の心情や顔色を見ていると思ったが……。今は完全に別人だ。まるで仕事の反動が来ているのかのように、浪費家で自堕落、自分勝手な姿しか見ていない。
「アンタは人の顔色ばっかり伺う仕事で、かなり疲れてそうだな。反動が私生活を台無しにするぐらい。……特別高い化粧品に、使われた形跡のないブランド物。自堕落で浪費癖もあって、ゴミ出しも結局は俺がしている。部屋までゴミ置き場のようにされて。仕事中は、家でのアンタとまるで正反対なんだろうな」
「そうね。あんたが患者のデータを見て判断するのを武器にするように、私の仕事は相手の顔色、声音から判断して交渉するのが大切な仕事なの。人を笑顔にするには、人の要求を知らなきゃ行けないし。自分も特別感と清潔感を供えた綺麗な存在じゃなきゃ行けないのよ。結婚式という特別幸せなことをプランニングする相手が見窄らしい外見じゃあ、信用が出来ないでしょ?」
 俺を睨みつけながら、そう口にした。よく回る口だが、自分に都合の悪いゴミ出しなどの部分は避けている。こうして言いくるめて、高額な結婚式を契約させるのか。ウェディング会場の前にある、一杯600円と原価の平均をぶち壊すような価格設定と同じだ。なんて胡散臭いんだ。
「チッ……。人の幸せで喰う飯、か。嘘つきが。ぼったくり紛いの高い金を貪り取って得た金で、高価な私物ブランド品や化粧品を揃える正当性を訴える。随分、良いご身分の仕事だな」
「なんなのよ、あんたは!? 私に喧嘩を売ってるの!? 私生活は多少、言われても仕方がない! でも、あんたに私の仕事の何が分かるのよ!?」
 ぶち切れたのか、ドンッと地面を蹴って立ち上がり、俺の胸ぐらを掴み上げて来た。俺は座ったまま、鋭く睨みつけてくる目線を睨み返す。
「ああ、知らねぇさ! 俺がアンタの仕事を知らんように、アンタも俺の仕事を知らんだろう! 先に俺の仕事っぷりをバカにしたのはそっちだ!」
「はぁ!? あんたに診られる患者や同僚が可哀想って言葉!?」
「そうだ!」
「事実じゃない! あんたみたいなヤツ、どうせ誰も救えないどころか、不幸にさせる医者なんでしょうよ! 私ならそうね! 話しているだけで不幸になるもの!」
 その言葉は――俺の逆鱗に触れた。もう、我慢は出来ん!
「俺が誰も救えないだと!? ふざけるな! 俺は最善の行動をした、最も救える確率を高められるように、準備も勉強もして来た! それでも救える確率は20パーセント未満だったんだ! 懸命に最善を尽くしても、救える確率は20パーセント未満でした。だから残念ですがと最悪の不幸を宣告する俺の仕事が、笑顔に囲まれているアンタに分かってたまるか!」
 これは医者の言い訳に過ぎないのかもしれん。だがそれでも、全力を尽くした! それでも、どうにも現代医学の限界はある! 残念でしたと言わねばならない俺の気持ちが、幸せに囲まれた世界で飯を喰うコイツに分かってたまるか!
 叫んだ俺の言葉に、少し思う所が合ったのか。視線が一度気まずそうに外れた。
 胸ぐらを掴む手も少し緩んだかと思えば――再び鬼のような形相を浮かべる。そして今度は、両手で胸ぐらを掴んで来やがった。
「い、いつものようにグチグチ損得勘定を計算してたから手遅れになったんじゃないの!?」
「アッ!? アンタ、今なんと言った!?」
 胸ぐらを掴んだ以上、川口山も引っ込みが付かないのは理性で分かる。本心ではないことを口走っているのも察する。それでも――許せんラインを越えた発言には、怒りを禁じ得ない!
「人の命を目の前で失って、確率で気持ちを割り切ろうとするなんてバカみたい! 悲しくて悔しいなら、素直にそう言えば良いのよ!」
「医者が悲しくて悔しいなんて感情論を、患者家族へ口にするのが許されると思っているのか!? 何故救えなかったのか、科学的根拠に基づいて家族へ俯瞰的に説明する責務がある! そして救えた命、救えなかった命を冷静に比較検討し、どうすれば0.01パーセントでも救える確率を高められるのか。研究検証を続けて行く必要があるんだ! 感情論に流されて、医科学の発展を止められるか!」
「感情がなければ、熱意だって生まれないじゃないの! だったらAIが発展してくれるのを祈った方がマシよ! 自分の為に泣いて笑ってくれない上に、ケチで偏屈な医者よりも、知識が詰まったAIの方がまだ信頼出来るわ!」
「損得勘定で営業しているのはアンタも同じだろうが!? 交渉次第で値引き額が大幅に変わりやがる! そうやって、人によって取る金額を変えるのは、卑怯だろうが! 原価と交渉も知らない善良な人間から暴利を貪る詐欺師が!」
「だ、誰が詐欺師ですって!? 訂正しなさい!」
 言いたかった言葉をぶつけてやると、川口さんは顔を真っ赤にした。掴んでいた俺の胸ぐらを捻り上げ、馬乗りになる。
 完全に暴力へ訴えかけるような姿勢だ。口論で負け、正論に腹を立てたから、力で黙らせようってか。詐欺師という言葉に、自分でも心当たりがあったんだろうな!?
「ハンッ。図星を突かれたから怒っているんだろう。人を笑顔に出来る素晴らしい仕事だと!? ああ、真実を知らなければ笑ってくれるだろう。だがもっと安価に同じ結婚式が出来たと知れば、アンタの相手して来た客も不幸になる。知らないからこその幸せを提供して、アンタは自己満足に浸ってるんだろうが! そりゃ嬉しいだろうよ、暴利を貪り自分もインセンティブを得て昇進までして。幸せそうな顔をしている愚か者を見るのは、さぞ愉快だろうな!?」
「あんた、絶対に許さない! ボコボコにしてやる!」
「そうか、やりたければやれば良い!」
 バンッと、大きな音を立て俺の頬へビンタされる。だが、効かんな! そんな細腕で殴られたと所でな。こっちは手術後で意識が混濁している患者に、しょっちゅう殴られているんだ!
「喧嘩は同レベルでしか成り立たんと言うからな! 俺はやり返さん! 精々、暴力で自分の言い分を通すと良いさ!」
「ど、どこまでも、バカにして! この部屋に来た初日から、あんたの一言一言にストレスが溜まってたのよ!」
 何回かビンタをして効かないと判断したのか、ガクガクと掴んだ胸ぐらで俺の頭を大きく揺すり出した。狭い壁際で掴まれていたから、俺の後頭部がガンガンと壁に衝突する。痛い、これは首もヤバい! だが、それ以上に――賃貸の集合住宅なんだぞ!?
「お、おい! 揺すって俺の頭を壁にぶつけるのは止めろ! 近所迷惑だし――」
「――効いているってことね! 誰が離すもんですか!」
「後頭部、いや壁が! クロスだけなく、壁材まで凹めば、退居費用が跳ね上がる!?」
「壁に当たる度、あんたの頭も跳ね上がってんでしょ!? もっと痛がりなさい!」
 アホが! 肉体の痛みなど、我慢すればいずれ治る。だが懐の痛みは永遠だ。生涯に稼げる収入は、概ねの上限が決まっているんだぞ!? 余計な出費を投資に回せれば、もっと望む物を得られるかもしれないのに!
「余裕そうな顔が、また許せない! いい加減にしなさいよ!? あんたを殺して、私は自由に生きる!」
「偉そうに言うな! それでは、唯の殺人鬼だろうが!?」
「黙れ! あんたが泣いて謝るまで、この手は止めない!」
「落ち着け、賃貸で殺人事件を起こせば、多額の賠償請求も来るんだぞ!?」
 必死に止めるよう説得するも、怒り心頭なのか、川口さんが止まることはなかった。ヤバい、このままでは本当に硬膜外血腫などで殺されるかもしれん! なんとか逃げなければ……。だがやり返す訳にはいかん! 暴力に暴力で対抗するなど愚の骨頂。ましてや男女の筋力差だ。それだけは、個人のポリシーとしても絶対にダメだ!
 這いずるように、玄関の近くへ逃げると――。
『すいません! 警察署のものです! 男女が激しい喧嘩をしていると、騒音でクレームがあったのですが、大丈夫ですか!?』
『強盗ですか!? 空けてくれませんか!?』
 インターホンを連打しながら、そんな声がドア越しに聞こえた。
 2人の男の声は、警察官だと名乗っている。
 一気に頭が冷え、冷静になった。
 それは川口さんも同じだったようで――心底、気まずそうな顔をしながら、俺の胸ぐらから手を離した――。

 その後、警察へ事件性はない。お互いの感情が昂ぶってしまった。本当に反省していると2人でペコペコと頭を下げた所、なんとか帰ってくれた。警察は「強盗や強姦事件かと思う程、激しい音で危うく拳銃を抜く覚悟もしていた。ベランダから逃げることも考慮し、外にも警察が待機していた」と笑っていたが……。俺たちからすれば、全く笑えない。
 最後に「痴話喧嘩は、周りの迷惑にならない程度にお願いします」と告げて去って行ったが……。何が痴話喧嘩だ。お互いにとって大切な仕事を侮辱されたことによる喧嘩だ。もつれるような痴情なんて、俺たちには存在しない。
「その……。ごめんね。私、やり過ぎちゃった」
 体育座りをしながら、2人で横合い共用部分である壁に寄りかかっていると、川口さんが謝罪してきた。
「いや……。確かに暴力はやり過ぎだが、俺も言い過ぎた。アンタにとって、仕事が大切だというのは知っていたのに」
「それなら、私が先……。あんたは誰も救えないとか言っちゃったから……」
「それは……。まぁ」
「医者に、ましてや救急科って言う……。人の生死に沢山触れる機会がありそうな人に対して、言って良い言葉じゃなかった」
「……俺も、詐欺師と言って悪かった。大金を請求したと思えば、あっという間に値引きが出来たり。元々ふっかけた値段を出してたんじゃないかって……。どこかで思ってしまっていた」
「……ねぇ。会話の節々で思ったけど……。もしかしてあんた、私の仕事を見たの?」
「い、いや、それは!」
 マズい。疑いの眼差しを向けてきている。言い逃れは出来る。だが、そのような嘘をついて言い逃れするのは、人として間違っている。
「……何も知らない相手を信用して、いきなり同棲なんて許可出来る訳がないだろう? だから、1回だけ。ほんの少し……」
「全く……。この覗き魔」
 そう言いながらも、首だけをこちらに向け、クスリと笑った。顎を膝の上に乗せているから、流し目で……。しかも身長差もあるから、上目遣いのような形だ。
 一瞬、俺の心臓がドキリと跳ねた。――不整脈、だろうか?
「でも、意外だった。あんたは、私がどんなことを言っても正論で反論してくると思ってたから。私が仕事を大切に思っているのを分かってるから、その一線は越えないと見縊ってたわ」
「……それは、俺の触れられたくない所触れられて頭がカッとな。……済まなかった」
「……ねぇ。あんたの患者さん、亡くなったの?」
 視線を俺から外し、小声で尋ねてくる。その問いに対し、浮かんでくるのは……絶望的な状況に追いこまれゆくリオペ――再手術中の光景。そして最悪な不幸の結果を宣告した時の、遺族の悲痛に歪んで崩れゆく表情だ。
「ごめん、なんでもない! 聞いて良いことじゃなかったよね!……だから、そんな辛そうな顔しないで!」
 辛そうな顔、だと? 俺はそんな顔をしているのか? 今まで、医者として幾度となく死に立ち会って来た。今更にも程があるだろう。それに、患者が亡くなった後も仕事は山ほどあった。今更になって辛くなるなど、おかしな話だ。
「あんた……。泣いてるの?」
 ましてや、泣くなどと……。そんな業務の妨げになるような未熟さ、あるものか。俺は超一流の医者にならなければいかんのに。感情で仕事のクオリティを下げるような、愚物であってたまるか。
「何を言っているんだ? 俺がどれだけの死に関わって来たと思っている。今更、涙など流すか……」
「どれだけ殴られてもお金の心配をしてて、痛みでは涙を流す素振りすら見せなかったのに……。あんた、患者さんの為には泣けるのね」
「うるせぇ……。悪かったな、未熟な医者で」
「ううん……。悪くない。私がいつも仕事で目にする幸福な涙じゃないけど……。素敵な涙よ。本当に、ごめんなさい」
 川口さんの声は、潤み濡れていた。隣へ視線を向けると、ポロッと――一筋の雫が頬を伝い落ちて行った。
「……アンタこそ、泣いているのか?」
「何を言ってるのよ。……私は営利を目的とした法人に勤めるウェディングプランナーよ? 例えもっと安く出来たとしても、利益が多くなるようにやるのは、勤め人として当然。とっくに割り切ってる。だから今更、指摘された所で涙なんて……。私が涙なんか、流す訳ないじゃない」
「そうか……」
 そうやって割り切っているんだな。きっと、この悩みはウェディングプランナー特有ではないのだろう。車や家電の販売でも、規模こそ違えど値引きはある。定価で販売するか、値引き販売するか。営業を行う人なら、勤め人としての自分と良心ある自分とで葛藤が生じるのかもしれない。
 それを詐欺師などと言って侮辱したのは、本当に申し訳なかった……。俺だけじゃなく川口さんも、仕事に対して辛い部分はあるんだ。それを私生活では忘れようとしていただけなのだろう。やり方が行き過ぎた散財などだと言うのは、どうかと思うが……。
「ウェディング会場での1日は、お客様にとっては特別な1日よ。でもね、私たちにとっては平凡な日常なの」
「……ああ、そうだろうな」
 暗い表情でゆっくりと語る川口さんの言葉に、俺は深く共感した。
 患者にとっては人生に数度あるかないかの不幸でも、俺たち医療関係者にとっては日常なのと同じか。
「私たちだって人間だから……。体調が悪い時もあれば、気落ちしている時もあるの。それでも、お客様の特別を華やかな笑顔の対応で飾らなければいけない」
「笑顔、か……。大変じゃあないのか?」
「何年もそうあり続けるのは、大変だなって思うこともあるわよ。それでも、ね。幸せな笑顔が連鎖して広がるように、私たちは今日も明日も全力の笑顔と接遇をするのよ」
「その笑顔を、俺にも連鎖させようとは思わんのか? もう少し節約するだけで、俺は笑顔になるぞ?」
 川口さんはプライベートではとんでもない愚物だ。だが職場で感銘を受けるほどにプロフェッショナルなのはこの目で見ている。今のこの姿も、そうある為に彼女なりに工夫して辿り着いた在り方なのかもな。
「却下。職場で笑えるように、家でぐらい気を抜せてよ〜」
「アンタは、私生活では気を抜き過ぎだけどな。メリハリは大切だ、気を緩めるのも良いだろう。だが生活が破綻するレベルで弛むのは、どうかと思うぞ」
「またグチグチと私にストレス溜めてこようとしてる……。本当、小姑みたいな人ね」
 川口さんは、やれやれとでも言いたげに首を振り、ソファーへクタッともたれた。私生活ではやはり、自堕落極まりないな。
 しかし……思えば俺は、彼女のように笑顔でいようと努力したことがあったか? いや、ない。自分にも他人にも、患者にさえ常に真剣であることを求め続けた。命を守る為に、規律を遵守することを強要し続けている。患者の心からの笑顔どころか、俺自身が職場で笑ったことなど――いつからないのだろうか?
 そう考えると、やはり川口さんには見習うべき部分がある。私生活は壊滅していようとも、だ。
 そう言えば、だ。今になって考えれば……最近、俺は患者の死や入院患者について考えなくなった時間がある。
「なんてことだ……。アンタと喧嘩している時だけ……解放されていたとは」
 常に背中にのし掛かっていた、人の病やケガ、死という不幸への責任。フラッシュバック。それを忘れられたのは、建設的な議論の場でもない――口論の間だった。
 プライベートでは自由奔放。野放図に金を使う幸せな脳内をした川口さんと、下らない言い合いをしている間だけは――どこか責任も忘れられて、楽しかった。
 それは常に理論と根拠に追われるような生活をしていた俺には、救いのような時間だったのかもしれない。非常に認め難くはあるが……。
「アンタの両親との挨拶は、1週間後だったか」
「そうよ。……あんたが医者で忙しいからって、ここまで引き延ばしたのよ。このボロマンションを見せる訳には行かないから、家に来るのは阻止したけど……。これ以上は無理」
「そうか……。1ヶ月も、よく粘ったな。むしろ、挨拶なしでよく同棲を認めさせる交渉をしたな」
「本当に粘ったし、交渉も頑張ったわよ。仕事に集中する為だもの。それぐらいやるわ。……挨拶も短時間しか時間が取れないって言ってあるから。品川でお茶だけで納得してもらえるよう交渉したわ。長く居るとボロが出そうだし、これ以上は迷惑をかけたくないしね」
「助かる」
「お互い様よ。……あんたのご両親への挨拶日は、まだ決まらないの?」
「ああ、親も開業医だし、訪問診療もやっているからな。……親と摺り合わせが出来たら、直ぐに伝える」
「お願い。……その為の、偽装同棲、だものね」
「ああ。……それまでの、偽装同棲だ」
 それが目的で始めた偽装同棲だ。
 お互いの両親からの結婚圧力を消し、今は仕事に集中する。その互いに求めた共通の利得の為に始めた、社会通念上では常識外の行為だ。
 懸念事項が解消されれば、再びそれぞれの、1人で住まう日常に戻る。
 その未来は当然であり、必然だ――。

 迎えた、川口雪華さんの両親へ挨拶をする日。木曜日の昼下がり。
 ウェディングプランナーというのは、土日はまともに休みが取れないらしい。それはそうか。結婚式は土日が多いからな。兎に角、その関係で平日となった。
 俺も今日は当直明けで、研究業務を終えても昼過ぎには帰宅出来るようにしていた。教授に同棲相手の親へ挨拶すると伝えると、快く許可を貰たのだ。
 品川駅の改札前で、相手方の両親が到着するのを川口さんと待っていた。
一組の老人男女が改札から出て笑顔で歩み寄って来る。女性の方は手を振り、川口さんも手を振り替えしていることから、この方々がご両親だろう。年齢的には、70には達していないぐらいだろうか?
「雪華、久しぶりね!」
「お母さんも、久しぶり」
「ワシも母さんも、心配しているんだ。雪華、もっと実家に顔を出しなさい」
 こんがりと陽に焼けた男性――雪華の親父さんは、小言を言いながらも娘にハグしている。なんだ、これは? ここは日本だよな。家族とは言え、駅で再会したからハグをして挨拶をする文化などない国のはずだろうが……。川口さんも恥ずかしがりつつ受け入れている。なんだか欧米映画を観ている気分だ。
 凄まじい家族愛を感じると言うか……。成る程、相当に愛情表現をされながら育ってきたんだな。
「金に困っていないか? 小遣いは要るか?」
「もう、人前で止めてよ。お父さん」
 川口さんは確か、30歳を超えていたよな? 成る程。愛する余り、こうやって甘やかして育てて来た訳か。それは常識知らずで、稼いだ金も使い切るような娘に育つ訳だ。妙に納得してしまった。
「それで雪華? こちらの方を、早く紹介してくれるかしら?」
 お袋さんらしき老年の女性が、俺に視線を向けながら微笑んでいる。肌は陽に焼けているが、旦那ほどではない。物腰柔らかで、優しい人物という印象だ。
「ああ、そうよね。こちらが交際をしている南昭平さん。東林大学病院のお医者さんで、すっごく仕事熱心で、患者さんを大切にする立派な方なの。見た目もイケメンでしょ?」
「……は、初めまして。南昭平、です」
 猫を被るのに慣れている川口さんと俺は違うのだ。凄く立派? イケメン? 思ってもいないことを口にしやがって。激しく突っ込みたいが、我慢だ。口元をヒクつかせながらも、なんとか頭を下げて挨拶することで誤魔化せただろう。
「……君が娘と同棲している男かね。ふん、同棲前に挨拶もしないのは、不義理だとは思わんかったのか?」
「それは、誠に申し訳ないと……」
「まぁまぁ、お母さんは素敵な方だと思うわよ? 事前に挨拶に来なかったのはアレだけど、その分お仕事を頑張っていたってことでしょ? まるでお父さんみたいに仕事熱心じゃない」
「誰がこのような若造と同じか! ワシは義理は通す!」
「と、取り敢えず! 立ち話もなんだし、カフェに入ろうよ? 彼はこの後、また病院に戻らなきゃだしさ!」
 憤慨する父親を取りなし、川口さんが近場のカフェに向けて歩みを進める。親父さんと反対側にお袋さんも並び、3人仲良く横並びで移動している。
 俺は鳥肌が立つ思いで、3人の後ろをついて歩く。なんなのだ、この仲良し親子は……。とてもついて行けん。
 そんな思いを抱えつつ、カフェへと入る。大理石かと思う綺麗な床に、落ち着く暖色の照明。かなり洒落た雰囲気を持つ店の4人席だ。事前に予約していたらしく、すんなりと席へ案内された。向かいにはご両親、そして俺の隣に川口さん。
 店員がメニュー表を置き、爽やかな笑顔で去って行った。
「まずは川口さんのご両親からどうぞ」
 俺はメニュー表を手渡す。相も変わらず、親父さんは不機嫌そうに唇を結んでいる。だが、お袋さんはご機嫌そうに旦那へ「これ、美味しそう」などと話しかけていた。夫婦仲も良いようだ。俺の両親も仲は良いが、このようにベタベタとする関係ではない。俺の目には異常に映るが……微笑みを崩してはダメだ。
「――こちらは決まった。雪華たちも決めなさい」
「うん、ありがとう」
 そうして川口さんは、メニュー表を広げて俺にも見せて来る。
「な、なん――」
「――しっ! 声が大きい!」
 思わず白目を剥いて叫びそうになった俺の顔を、川口さんはメニュー表で隠す。小声で、大きな声を出さないようにと注意してきた。危なかった……。驚愕の余り、素が出る所だった。だが、しかし……。
「す、済まん。だが……なんだ、この価格設定は!?」
「私だって高いとは思うわよ。でも、仕方ないでしょ!? 両親には忙しく努力してる分、お金がある医者だって言って、安心させてるのよ!?」
 理屈は分かる。同棲前に挨拶に行かなかった挙げ句、中々挨拶へも赴かなかったり……。それならば、忙しくしていると伝えた方が都合が良い。まして経済的余裕がある方が安心して娘を任せられるし、親の金ではなく自分が努力して稼いだ金だという方が好感が高いのも、納得だ。
 だが、しかしだ――。
「コーヒーが1100円からって、ふざけているだろう!? 何故サンドイッチが2700円もするんだ!? 何を挟めばそんな値段になる!?」
「分かんないわよ! こういうのは、場所やサービスが良い分、高くなるのよ!」
「ふざけるな、そんな実態の知れないものを価格に載せるなど……。これでは、俺は何も注文出来んぞ! 正直、飲み喰いどころか、ゲロを吐きそうだ!」
「私だって悪いとは思っているわよ!」
「東京都の最低賃金は、時給1072円。つまりこいつは、1時間一生懸命に働いても飲めない代物だ! アンタ、1時間働かされて『これが対価だ』とコーヒー一杯に満たない報酬を出されたらどう思う!?」
「最悪な気分なのは分かったわよ! 今日の費用は、半分後で返すから!」
 半分……。つまり、コーヒー一杯で550円か。それでも高い!
「8割だ!」
「無理、6割!」
「7割5分!」
「無理だって! な、7割!」
「7割3分だ!」
「細かい! 分かったわよ、それで良いわよ……」
 よし、勝った。これでコーヒー一杯、197円。コーヒーとしては高いことに変わりはないが……。挨拶の費用と思えば、致し方ない。
「……決まったかね?」
 親父さんの目が、何やら怪しむように光っているように見える。年齢相応の聴力なら、まさか今のやり取りが聞こえていた訳ではないだろうが……。正直、同棲までするカップルとしては、かなり怪しく映ったのだろう。
「え、ええ。決まりました。雪華さんと、何が食べたいか話しておりまして……。失礼しました」
「それで、何を食べるのかね?」
「いえ、生憎俺は満腹ですので……。コーヒーのみで」
「ふむ。そうか。君も食べるかと思い、ワシ等はピザを頼んだのだが――」
「頂きます」
 即答で言い切った所で、右足の甲に激痛を感じた。川口さんがテーブルに隠れて思いっきり足を踏んでいる。こいつ……顔では満面の笑みを浮かべているのに、なんて器用なんだ!? 誘惑に乗せられても仕方がないだろう。高級店の、高額を取るピザなんだぞ!? 何を焼いているのだ、何をトッピングしてどんな味なら、それだけの金を堂々と徴収出来るのか、気になるだろうが!?
「まぁまぁ、南さんは私たちに合わせてくれてるのね。気遣いが出来る御方ね」
「そ、そうなの! お母さん、お父さん。昭平さんはね、そう言う気遣いもしてくださる人なのよ」
「ふん……。まぁ、その辺りは料理と飲み物が届いてからじっくり見極めさせてもらおう。すいません、注文よろしいかな?」
 親父さんは店員に声をかけ、手早く注文をしていく。これだけの価格を見て、身じろぎもしないとは……。まさか、富豪なのか? いや、あり得る。そうであれば、娘の金銭感覚もバグる訳だ。
 そうして、飲み物と軽食は直ぐにやって来た。確かに、手早い。だが少し早いだけで高額を請求するのはどうなんだろうか。ファストフード店なら、もっと早いのに安いぞ? 店員が綺麗な服を着て、丁寧な接遇をすることにそれだけの付加価値があるというのか?
「それで、南くんだったな。君は娘のどこが好きなのだね?」
「全てです」
 事前に打ち合わせをしておいた。絶対に聞かれるだろうから、と。キチンと考えようとしたが、この短い期間の偽装同棲。しかも殆ど顔を合わせていないか、喧嘩ばかりの関係だ。説得力がある好きな所など、語れるもはずがない。だったら全てと即答することで黙らせようと話合ったのだ。
「まぁ、即答! それも全てなんて……。ロマンチックね~」
「そうなの。勿論、まだ交際して日が浅いから、これからお互いに色々な面を見るでしょうけどね。私たちは、それも乗り越えていくつもりよ」
 よくもいけしゃあしゃあと……。俺をロジハラモンスターと言っていたが、アンタは嘘つきモンスターじゃないか。正直、恐ろしいぞ。
「ふん、底の浅い答えだ」
 親父さんは俺たちの考えた答えに納得がいかなかったらしい。腕を組んで眉間に皺を刻み、不機嫌そうにしている。
「娘のどこが特に好きなのか。具体的に言ってみなさい」
 なん、だと? 具体的に……。それは、予想だにしていなかった。横目に川口さんを見れば、戸惑うように視線を俺と親父さんへ行ったり来たりさせている。お袋さんも楽しそうに微笑むばかりで、止める気配はない。ここはアドリブで乗り切るしかないか……。
「……痛みを知っていること、ですかね」
「……痛み、だと?」
「はい。ウェディングプランナーとして、大金を支払う人の痛み。そして自分の勤める法人が赤字を出す痛み。双方の痛みを知っているからこそ、釣り合いを取り、皆が笑顔になれるように奔走しているんだと思んですよ。それは、とてもストレスが貯まるでしょう。楽をしようと思えば、もっと効率よく楽が出来るんですから。ですが、彼女……雪華さんは、手を抜いて楽をしない。プライベートで反動が大きく出るぐらい、頑張ってしまう。お客、法人……。その他多くの人が幸せになる空間を作る為に、誇りを抱き、釣り合いを取りながら行動していると思うのです。……そこが、特に素敵だな、と」
「南さん……。そうなのねぇ。雪華、ちゃんと見てくれる人に会えて、良かったわね」
「お、お母さん……。う、うん」
 川口さんは恥ずかしそうに頬を赤らめ、顔を俯かせている。咄嗟に良い所を挙げたが、間違っていなかっただろうか。俺が本人に聞いて欲しかったのは、プライベートで大きな反動という皮肉の部分なんだが、ちゃんと意図が伝わったのだろうか?
 親父さんはジロリと俺を睥睨した後、面白くなさそうに「ふん」と目を逸らした。その後は何も言葉が続かなかったことから見るに、一応の納得はしてくれたのだろうか? 分かりがたい爺さんだ。
「南さん、変なことばかり聞いて、ごめんなさいね。雪華は、私たちが35歳を過ぎてから産まれた一人っ子だから……。お父さんも、その交際相手が気になって仕方がないの」
 成る程、な。妊活に苦労し、もう子供は出来ないかもしれないと思っていた時、やっと出来た待望の子供という訳か。唯でさえ子供は可愛いと言うのに、そういう背景ならば可愛くて仕方がないだろう。親バカになるのも、納得だ。
「でも、お父さんも雪華を育てるのに頑張ったのよ? 引退した農家の農園を買って、大規模な経営拡大も成功させたの。親族や人も雇ってね」
「ふん。大事な娘に、選択肢の1つとして残してやりたかったのだ。収入が多く、安定した農園をな」
「そうなる為に、凄く努力してたのよ~。農作物のブランド化を成功させたり、あきる野市近隣のホテルや料理店に、新鮮なお野菜や果物を直接売り込みに行ったり、ね。今、雪華が勤めている東央ニューホテルの料理長さんとも、そうやって出会ったのよ」
「アイツは、職人として立派な心根を持っている。そんなやつが見張っていなければ、大事な娘を安心して働かせられん」
 そうなのか、大したもんだ。バイタリティー溢れる親父さんに、好感が湧いてきた。この人も家族を守るという目標の為に、仕事へ懸命に打ち込んだのだな。
 お袋さんは軽く言ったが、農作物のブランド化や売り込みなど、そう易々と成し遂げられるものじゃあないだろう。苦悩や発想力に、不撓不屈の精神や行動力がなければ、成し遂げられないだろう。拡大に伴うリスクに恐怖し、眠れない夜だってあったはずだ。
「親バカだってビックリしたでしょ? でもね、私たち夫婦が不妊で悩みながら、やっと産まれた可愛い1人娘なの」
「不妊治療は、少し前まで基本的な検査と治療にしか保険適用されませんでしたからな」
 分かる気がする。俺自身は人の親ではないが……。余計に、今の偽装同棲という状況に罪悪感を覚えてしまい、居心地が悪い。
「娘を可愛がるのも良いけどさ。私としては、お父さんに自分の身体を大事にして欲しいんだけど?」
「そうなのよね~。見ての通り、お腹が出てるでしょ? お酒も煙草もするし。それに高血圧と糖尿病のお薬も飲んでるしねぇ……」
「おい、止めないか」
「もうちょっと血糖値が悪くなったら、インスリン注射だって言われてるじゃない?」
「あんな薬漬けにして儲けようとする町医者の言うことなど、信用が出来るか!」
 町医者の子供である俺としては、耳が痛い話である。だが酒も煙草も、高血圧も糖尿病も、全ての疾患リスクを引き上げる。
「どうか、程々に」
「君に心配される筋合いはない!」
 いや、俺も医者だからな? だが俺の患者や義父と言う訳でもない。余計なお世話だったか。
 その後は、川口さんとの出会いや同棲生活について根掘り葉掘り聞かれて時間は過ぎていく。
 川口さんが受け答えをしてくれていたから、俺は楽をして過ごせた。だが俺は、彼女に恐怖心を抱くことになった。
 真実の中に、誤魔化しの聞く少量の嘘を混ぜているのだ。普段の営業や交渉能力をフル活用しているのだろう。実の親に対してその力を発揮するのは、どうかと思うのだが……。しかし、やむを得ない側面があるのは、俺も認める。
 申し訳ないとは思う。だが、今は偽装同棲に騙されてもらうしかない。親の思惑とは違い、俺たちは仕事に集中したいという強い願いがあるのだから。
 1100円のコーヒー、そしてピザは美味かったと思う。だが値段を考えると、味を上手く感じることが出来なかったのでよく分からん。
 兎に角、そうして短い挨拶も終わり、品川駅まで見送りに戻って来た。
 だが親父さんはピタリと足を止め、俺を射竦めるように睨めつけて来る。
「南くん、君は本当に――娘を愛しているのかね?」
 何かと思うと、そんな心臓に悪いことを聞いて来た。無言で頷くが……。疑われているのか?
 親バカではあるが、バカではない、ということか。なんだかんだで、親は子をよく見ている。俺の言動、或いは川口さんの言動に違和感を抱いたのかもしれない。
「率直に言って、かなり疑わしい。だが娘の交際相手を認めたくないと、ワシの目が偏っている可能性も否定は出来ん。そこで、だ……」
 一呼吸置いてから、親父さんは指を一本立てて、こちらに向けてきた。そのまま、俺の目をジッと睨んでいる。どうしろ、と言うのだろうか。……昔流行った欧米の映画で、宇宙人と人間が邂逅し友情を育むシーンに似ている。親父さんの年齢的には、流行直撃世代だろう。……え、まさか、やりたいのか? 俺との友情を確認する為に、か? 娘の伴侶となる人だから、友情を築きたい、と?
 まさかとは思いつつ、俺も指を立て親父さんの指に触れようとすると、サッと避けられた。
「違う! 一度、君と娘がデートしている所を見させてくれ。ワシ等は邪魔をしない。後ろから、母さんとついて行くだけだ」
 違うなら、さっさと要件を言えば良いだろうに。勿体ぶりやがって。……いや、ちょっと待て。今、なんと言った? デートを見せろ、そう言ったのか?
「あらあら! ダブルデートってやつですか!? 素敵! そうしましょう、南さん!」
「しょ、昭平さんは忙しい方だから……」
「愛する人とデートをする時間も全く割けんような、軽い愛なのか? 時間は作るものだ!」
「……分かりました」
「じゃ、じゃあ……。また今度、日程とか場所を決めましょう! また連絡するから!」
 川口さんが焦りながらも、この場を凌ぐ言葉で上手いこと締めくくった。その言葉に頷き、ご両親は川口さんとハグをした後、改札の奥へと消えていく。最後まで欧米映画のような触れ合いだったな。
「……ごめん、こんなことになるなんて。……お父さん、娘バカだから」
 両親の姿が完全に消えるのを見送った後、川口さんが仄暗い空気を漂わせながら謝罪してきた。
「いや、俺の演技も下手だったんだろう。仕方がない、さ」
「でも、貴重な時間が……。あなただって、お仕事に集中したいだろうに」
「それはなんとかする。眠る時間を少しずつ削れば、なんとでもなる。それよりも、だ」
「……それより?」
 不安げに、上目遣いをしながらこちらの表情を窺い見て来る。見目は確かに綺麗な川口さんがそれをするのは、破壊力がある。内面が壊滅しているのを知らなければ、騙される男も居るだろうな。
「次のデートとやらも、7割3分の負担を頼むぞ」
「あんたって人は……」
 呆れたように、苦笑を浮かべる。それで良い。仕事でいつも、不幸な顔を見ているだけに、プライベートでは笑顔を見たいと思うように変わってしまった。明るく幸福な世界に生きる川口さんの影響を受けてしまったようだ。
「7割ね」
「ダメだ。7割1分5厘」
「細かい、そう言うとこ!」
 キッと、眉を寄せながら指さしてきた。行儀が悪いな。人を指さすなとか、節約生活とか……。娘が大切なら、もっと人生に大切なことを、ご両親は教えるべきだったんじゃないのか?
「もう……。申し訳ないと思っていたのが、バカみたい。分かったわよ、7割3分で良いわ。……また、よろしくね」
 恭しくそう言いながら、柔らかに笑った。それはウェディング会場で見た笑顔や、今日、両親の前で見せた笑顔より――余程自然で、素晴らしい魅力を感じさせられた。

 そうして調整すること、約2週間後。
 うだるような暑さと時間も考慮し、ダブルデートは同じく品川にある水族館ということになった。
 今回は現地での集合ということになっている。俺たちの後ろをついてくるということだから、駅まで迎えに行くことはない。いつも通りにしてくれとの話だ。
 いつも通りと言われても……。一緒に外出するのすら、前回の挨拶が初めてだったんだがな。
「それじゃあ、入りましょうか」
 ご両親が俺たちの姿を補足したという連絡を受け、行動を開始する。手を繋ぐというプランもあったのだが、それは偽装ではやり過ぎではないかという俺の意見から、消えた。その分、良いタイミングで川口さんが身体的スキンシップを取ってくることになっている。その辺は任せた。交際経験がない俺には、難し過ぎる。
「それにしても……水族館ってのは、こんな都会にもあるんだな」
「東京の水族館、行ったことないの?」
「東京どころか、人生初だ」
「う、嘘でしょ!?」
 信じられないものを見るような目を向けるな。それ程、珍しいものでもないだろう。両親が開業医で忙しければ、十分にある。
 会場へ入り、案内に従いチケット売り場に行く。
「に、2500円だと!?」
 水に入った魚を見る入場料が、2500円!? 1人暮らしの水道代平均ですら、2000円もしないんだぞ!? 人が1ヶ月水を使って生きるよりも、ほんの数時間、水中の生物を見る価値の方が高いとでも言うつもりか!? 出鱈目だ!
「後で7割3分返すから! 券売機なんだから、1回は自分の財布から入れて!」
「う、うむ……」
 そうだ。これは後で帰って来る。だから……怖れることはない! ブルブルと手が震えて、上手く千円札が通らない。これは、交通系ICカードにチャージしているのと同じ。同じなんだ……。怖れるな、俺!
「ああ!?」
 遂に吸いこまれてしまった、俺の3千円が……。鉛のように重い手で、大人1人のボタンを押す。すると、500円玉がお釣りとして落ちてきた。サッと、誰かに盗られる前に財布へと仕舞う。
「多分、ここもお父さんは見ている。後で私の分は全額返すから……。1回、私の分のチケットも買うふりをしておいて」
「な、なんだと……」
「男は女に奢るべきって、古い考えの持ち主なのよ……」
「なんて男女平等を履き違えた意見だ! それは経済的に男が支配したいだけだろう!? 女性に稼ぐ能力がないと、侮辱するつもりか!?」
「そう言うあんたは、ケチなだけでしょ? ほら、早く」
 クソ……。この上500円玉に、もう2枚も千円札を入れろと言うのか? 手汗が凄いことになっている。だが俺の親に会ってもらい、結婚圧力を解消してもらう為だ。この一時的な犠牲も、やむを得ん!
「喰らえ!」
 500円玉の重りが消え、そして2枚の札が吸いこまれて消失する。俺は1周回って空笑いをしてしまった。足下に力が入らない……。
 そんな俺の腕に、川口さんが抱きついて運んでくれる。傍目からは、カップルが仲良く歩いているように見えることだろう。……実際は、歩行介助をしてもらっているのだがな。
 半券を切ってもらい、いよいよ入場する。金を払った分、元を取るつもりで楽しまねば……。
 最初の展示は、壁際にいくつもの小型水槽が点在する部屋だった。
「小型魚か……。ジャブってヤツだな」
「可愛い~! なに、この子! 桜の花みたい!」
 確かに、水槽の中に入っている魚は可愛い。癒やされる。だが……それ以上に、進行ルートが定められていないのが苛立つ。この規則性のなさが、許せん。キチッと管理されたルートがないと、割り込まれて効率が悪い。割り込んできたカップルに、チッと舌打ちをしそうになる。
 マズいと思い後方を振り返ると、ご両親は確かに居た。だが、あちらはあちらで楽しんでいる。もっと獲物を狙う鷹のような瞳で、穿った見方をされているかと思っていたが……。純粋に、夫婦でデートを楽しんでいそうだ。
 そのまま歩みを進めて行くと――開けた場所に出た。急に大きな水槽や分岐にぶち当たる。
「これは、どうしたら……」
「こっちから行って見ましょう」
「あ、ああ……」
 なんだ? かつてない程、頼りになるじゃないか。俺に馬乗りになって、頭をガツガツと揺すっていたり……。部屋の大部分を占拠してダラダラとアイスを喰っているヤツと、同一人物とは思えん。これが、仕事程にオンモードではないが、余所行きの姿というものか。女は皆が女優だと、以前に川口さんが言っていたのは嘘ではないようだな。
「ぅおおお!? ききき、恐竜!?」
 突如として自分の頭上、ほんの僅かを巨大な生物が通過していった! 目で追えば、ノコギリのようなものが着いている! なんだ、あれは!? いや、なんだここは!?
「あのね……。私に抱きついてるように見えるかもだけど、実際には盾にして隠れたでしょ?」
「す、済まん。だが、俺は身長が高いんだ。ほんの直ぐ上を巨大生物が通過する恐怖が……。そもそも、なんだここは?」
「海中トンネルよ。心配しなくても、ガラスで覆われてるんだから襲われないわ」
「そ、そうは分かっていても――ま、マンタァアアア!? お、おい、今マンタが通ったぞ!? 見たか!?」
 再び頭上へ襲い来る別の怪物に驚愕し、また川口さんにしがみついてしまう。
「マンタでビビるとか……。本当に水族館へ来るの初めてなんだ……」
「おま……。マンタをバカにしているのか!? 世界中のダイバーが一目見たいと、憧れている存在だぞ!? 謝れ!」
「ここは自然の海じゃなくて、水族館よ。何時でも100パーセント会えるの。もし、この水族館でダイバーだけがマンタを見られなければ謝るわよ」
 なんて夢のないヤツだ。だが、そうか……。慣れて来ると、目の前でこれ程大きな生物が優雅に泳ぎ回る姿は、正に圧巻の一言だな……。成る程、コーヒーに1100円払うより、良い体験が出来ている気がする。これは楽しいぞ!
「そろそろ、進みましょうか」
「まだ他にも展示水槽があるのか?」
「まだ始まったばかりじゃない。一杯あるわよ?」
 俺の問いへ子供のように無邪気な笑顔を向け、川口さんは答える。
 まだ他にも一杯ある、だと? だが、これが最大の目玉だったはずだ。余り期待値を高めて、ガッカリしても困る。期待せず、川口さんの誘導に従い進んでいく。
「な、なんだ……。この癒やし空間は」
 時が止まっているのか? いや、ゆったりと流れている。暗い室内に、水槽内を照らすLED照明。そして水槽の中で、水流に流されていくクラゲ。ふよん、ふよんと泳ぐクラゲ。何故だ……。知識として、クラゲという存在はよく知っていた。だが毒への処置だったり、文面によるものが大半だ。
「クラゲ、可愛いし癒やされるわね」
「俺は……この桃源郷へと辿り着く為に、今まで頑張って来たのかもしれん」
「ちょっと、あんた目がやばいわよ!? トロンって、溶けそう!」
「なんという、癒やしなんだ……。病院の当直室で、是非とも飼いたい」
「クラゲの飼育って難しいらしいわよ?……あんた、よっぽど疲れてたのね」
 水槽にへばりつく俺の背を、川口さんはソッと撫でてくれた。俺は猫じゃないのだが……。ああ、展示されているクラゲを見ていれば、医者としての一刻を争う現場の喧噪も忘れてしまえる。
「ほら、行くわよ。あんたをここに長居させたら、マズい目をしているわ」
 引きずられるように、クラゲコーナーを後にする。
 名残惜しいが……。言われると、その通りかもしれない。なんだか無性に泣きそうになっていたし。長居すれば、動けなくなっていたかもしれない。
 その時、館内アナウンスが流れた。
「イルカショー、だと?」
「良いタイミングね! 見に行きましょう! 私、イルカ大好きなの!」
「ハンッ。クラゲの癒やしに勝てる訳がない。だが折角金を払ったんだ。見世物があるというなら、見に行くか」
「……もう、あんたの憎まれ口も可愛く思えてきたわ。どうせこの後の展開も読めているし」
 ふん、言っていろ。確かにここまでの俺は、年甲斐もなく展示物の思惑に乗せられてしまった。それは認める。だが、何時までもそう上手くいくと思うなよ――。
「――見ろ! なんだ、アレは!? 賢い、賢過ぎるぞ、イルカ! ああ、2匹同時、一糸乱れぬ統率されたジャンプだと!? 芸術点満点だ!」
「……もう、私は突っ込まないわよ?」
「空中から降り注ぐ水の舞、そしてプール中央を彩る光! 調教師が飛び込むと、必ずイルカが背に乗せたり、鼻で運ぶ! 色彩豊かな光の下をイルカが芸をするなんて……。なんて幻想的で美しいんだ! これ程可愛く、賢い生物が居たとは!?」
「お願いだから、水に濡れたいとか言って飛び出さないでね? 大人しくしててね?」
 ギュッと腕を組まれ、阻まれる。何故、俺の考えていることが分かったのだ? 
 司会をしているお姉さんが、いよいよ最後だと告げてくる、音楽が一層の盛り上がりを見せ、中央の水面に浮かぶ青紫の光が色濃くなる。会場のライトも暗くなったのか。これは東京という室内プールならではの演出だな!
「ぅおおお!? ジャンプした! し、飼育員を鼻に乗せて、垂直にジャンプしたぞ!? 3……いや、4メートルは跳んだぞ!?」
「もう……。折角凄いと感動しても、自分以上にはしゃいでいる人が隣に居ると、ちょっと冷静になるわね。……あなた、こんな子供っぽくて可愛い一面もあったのね」
 苦笑する川口さんが少し気になりつつも、俺はこちらへ向けて手を振るイルカに手を振り返すのが忙しい。後にしてくれ!
 そうしてイルカたちも去って行ってしまった。時刻的にも、そろそろ病院へ向かわねばならない時間だ。……俺たちも、帰るとするか。
「仕方がない……。帰るとするか」
「ええ、そうね。……色々と、楽しかったわ」
 ああ、本当に。俺は何も理解していなかった。こんなにも楽しい場所が、品川にあったとは……。知らなかったな、品川にこんな景色があるなんて。俺は帰路につきながら、今日という1日を振り返っていた。
 東京なんか、全て把握しようとさえ思わないゴミゴミと乱雑な場所だ。なんでもある場所だとは、常々思っていた。学会などで駅へ入れば、普段俺が見ている暗く不幸な世界とは別だ。
 空腹と味に飢えている俺を誘惑する美味そうな食い物が、そこかしこのショーケースに所狭しと並び、誘惑して来やがる。
 異常に豪華なアート作品やら、贅沢品の数々。惑わされてたまるか、俺は金を貯めなければならない。その一心で目を逸らし、極力改札や電車、新幹線しか見ないようにしてきた。香りという姑息な罠に釣られないよう、マスクは常に何重にも着用して口呼吸という徹底ぶりだったんだ。そうやって誘惑を振り払い学び続けた先に、俺が目指す医者への道が続いているんだと言い聞かせて。
 今までは忙しさと目的のお陰で、打ち克つことが出来ていた享楽への誘惑。だが利害関係の為とは言え、2500円も支払い、遂に品川という街の誘惑に飛び込んでしまった。
 長年住んでいても、品川は俺にとって職場が近く新幹線が使いやすい街でしかない。
 こんなスポットがあるなんて、全く知らなかったな。……いや、知ろうとも思っていなかった。
 邪魔で煩わしいとすら考えていた。
 その考えは――今日という1日でより強くなった。
 この世界は眩し過ぎて、病院という人の不幸で金を貰い、飯を喰っている場所に籠もる俺には眩し過ぎる。病院に籠もり続けることに疑問を抱けば、医者の仕事への邪念となる。モグラにはモグラの生きる世界がある。変に陽の光を浴びれば、待っているのは――医者としての破滅だ。
「あ……。お父さんから通話。ちょっと待って」
 一旦、歩道の横に逸れて止まる。スマホを取り出した川口さんが、何ごとかを話し始める。少し話をした後、こちらへとスマホを差し出して来た。
「お父さんが話したいことがあるって」
「俺にか?」
「うん」
 そう言われては仕方がない。どうせこの姿も見られているのなら、直接話せば良いのに。通信料の無駄遣いは、親子同じか。
「はい。南です」
『デートは見させてもらった。……まだ半信半疑ではあるが、2人の楽しそうな様子も見た。……交際を認めよう』
「はぁ……。ありがとう、ございます」
『大切な一人娘を泣かせたら、ワシは貴様を許さんからな。また見極めさせてもらう!』
「……可愛いのは分かりますが、余り甘やかすと――」
 ギュッと、背中を抓られた。
「――更に、甘え上手な可愛い子になってしまいます」
 私生活が滅茶苦茶な浪費家のダメ人間になる、とはとても言ない。この暴力の化身は、本当に俺の皮を千切り取るるかもしれん。
『ふん。そこも雪華は可愛いから、良いんだ。それより、同棲を続ける条件を伝える』
「同棲を続ける条件……ですか?」
『ああ。翌日、雪華のみが休みの時には、必ず実家へ帰って来させること。……結婚を許可するまで、それは条件だ』
 耳を寄せていた川口さんに目線を向けると、頷いた。どうやら聞こえていたらしい。
「分かりました。それでは――」
 最後まで言い切る前に、通話を切られた。無礼な爺だ。顔を顰めたくなるが、交際相手を演じるのなら、最後までやりきらねば。
「……良かったな」
「ええ。……あなたのお陰よ。本当に、ありがとう。これで私は仕事に集中が出来る。次は、あなたの番ね」
「……ああ、頼む」
 川口さんの親へやるべきことは果たした。後は俺の両親へ偽装を真実のように見せかければ、この関係も終了。当初の目的通りに、俺たちはそれぞれの仕事へ集中出来る日常を手に入れられるんだ。
 俺は水族館のあった方角へチラッと視線を向ける。皆の笑顔が溢れていた場所へ。
 そして、背を向けて病院へと歩き出した。
 楽しく明るい世界に惑わされてはいけない。俺1人が幸せを感じていた瞬間にも、病院では新たに多数の不幸が運び込まれ、最悪の不幸が誕生しているんだ。
 自分が成すべきこと、成したいことだと定めし目標を遂げる。それまでは一時の歓楽で堕落する訳にはいかないんだ。
 俺が堕落したせいで、幸せな笑顔が失われることがあれば……慚愧の念に堪えない。
 金輪際、こんな眩しい場所を目の中央に止めたりしない。俺の目標が揺らいだら、困る人が沢山居るのだから――。