2章

 翌日の夕刻。
 業務を終えた俺は、病院を出た足で川口雪華さんが勤めるという東央ニューホテルへとやって来た。自転車で病院からは15分程度。通勤手当が出るのであれば、俺が賃借契約しているマンションからの通勤にも便利な立地だろう。
「本当にそんな女性が勤務しているのなら、だがな」
 結局、一昨日の夜――意識も朦朧としていて帰宅するなり俺が眠ってしまってからは、メッセージも返していない。朝に『おはようございます』などと送られて来ても、見ていないふりをしている。
「もしも川口雪華の勤務先が嘘ならば、メッセージもブロックだ。詐欺が濃厚となるからな」
 ホテルに入りウェディングコーナーへと向かう。華やかな場所だ。いつも歩いている病院の、無機質で白く、硬い床や壁とは違う。靴が沈み込むほどに柔らかな絨毯に、煌びやかな調度品。壁の意匠だって、贅が凝らされている。
「こんな足場では、歩くのに体力を使うだろうに。機能性が乏しい。雰囲気を重んじる、ということなのだろうか? 理解が出来んな……」
 さて、到着したは良いが……。唯、突っ立っていたのでは目立つだろう。どこか居ても不自然でない場所をと思い辺りを見渡す。
「カフェスペースか。あそこなら、俺が居座っていても不自然じゃないだろう」
 ウェディング会場のスタッフは何人も通っているが、川口雪華さんの姿はまだ見えない。腰を据えてかかるべきだと思い、カフェスペースへと歩み寄る。
「な、なんだと!?」
 だが立て看板を見て思わず目を剥き、声を上げてしまった。
「ただのコーヒーが――一杯で600円だと!? なんだ、これは……。ふざけているのか!?」
 一体どんな豆を使用すればそんな価格になると言うんだ! 一般的に飲食店の原価率は3割が平均と言われている。コーヒーカップ一杯なんて、精々が120ミリリットルちょっとしかない。350ミリリットルペットボトルの半分にも満たない量で、600円を払えというのか。完全にぼったくりだろう!? コーヒー一杯に挽かれる豆は、概ね10グラム。この店が平均通りの原価率だとしたら、豆は180円計算になる。吹けば飛ぶよような1グラムで18円もするコーヒー豆なんぞ、豆じゃない。砂金か、金粉なのか!? 利益率は一体、どうなっているんだ!
「これはダメだ。あり得ん……。こんな無駄遣い、出来るか。スーパーで税込み355円で売っているコーヒー豆なんて、360グラムも入っていると言うのに。1グラムだと1円以下。一杯にすると、たった10円以下だと言うのに!」
 憤りが隠せない。しかも、こんなぼったくりか価格にも関わらず、カフェスペースには結構な人々が居るじゃあないか。信じられん……。搾取されていると気が付いていないのか? それとも、それだけの値段を支払う価値があると思っているのか。やはり病院に住むような俺には、理解が出来ん世界だ……。
「こんばんは。お待ちしておりました」
「川口さん、ご無沙汰しています。よろしくお願いします」
 居た。名前が聞こえてバッと振り向けば、あの時の川口雪華さんが働いていた。ビシッとした制服を着て、にこやかな笑みを浮かべている。あの日は眠気と酔いで、顔もうろ覚えだった。だが声を聴いて間違いないと確信した。どうやら、ここで勤務しているというのは嘘ではなかったようだな。目の前に居る暗い顔をした男は、客だろうか?
 俺は立て看板に隠れるように屈んで様子を伺う。決して悪いことをしている訳ではないのだが、川口雪華さんに見つかれば説明が面倒だ。
「こちらこそ、どうぞよろしくお願い致します。それでは、あちらで打ち合わせを――」
「あの……。今日は妻が居ないからこそ言えるのですが、実はキャンセルをしたくて。ここまで進めて頂いたのに申し訳ないんですが……」
 なんだと? そうか。こういった仕事だと、キャンセルもあるのか。それは収益が減少して大変だろう。病院のように、キャンセルなど基本的にはない業種には考えられない苦悩だ。
 彼女はウェディングプランナーだったな。ならば自分が担当している客がキャンセルするとなれば、損失の責を問われるかもしれん。どれだけの経費がこれまでにかかっているのかは知らんが、その補填としてキャンセル料だって請求するだろうな。ウェディング業界だって、商売なのだから。だが一番収益になるのはそのまま開催させることだろう。気の弱そうな男だし、説得にかかるかもしれんな。
「そうですか、それは誠に残念です……。正式なキャンセルには、ご夫婦で来場して頂く必要がございますので……。誠に申し訳ございませんが、本日直ぐにキャンセル手続きが出来ないのを、私も心苦しく思います」
「は、はぁ……」
 なんだと? 貴様、それでも営利を目的とした法人の一員か? そう簡単に引き下がるなど、スタッフとしての自覚が足りないんじゃないのか!?……これが給料泥棒、というやつか?
「止めないんですね……。意外です」
「私としては……。そうですね、お客様は最初から奥様の後ろで暗い顔をされていましたから。結婚式を挙げることに前向きではないのではないか、と以前より感じておりましたので。……奥様とは、結婚式に対して温度差があるのでしょうか?」
「そうなんです。実は、妻は派手に結婚披露宴を行いたいそうなのですが……。私は結婚後の貯金が兎に角、心配でして。挙式だけでも良いんじゃないかと、当初から……。甲斐性なしと言われても仕方がないのですが……」
「成る程、それは当然のお悩みです。決して甲斐性なしではありません。私どもの責任です」
「え?」
「挙式だけであれば、35万円でご案内差し上げられますが……。披露宴があると、どうしても高くなりますからね。まして以前のプランだと、400万円近くなってしまいますので。それだけの金額差ですから……。将来の2人の幸せな生活への貯えにとお考えになるのも、至極当然かと思います」
「そうなんですよ!……唯、僕の意見は結局、通らないので。こうして妻に隠れて、キャンセルが出来ないかと……。それで、披露宴はもっとお金が貯まってから、とか……」
 男性が辛そうな表情で俯くと、川口雪華さんは何度か頷いた後に、冊子を取り出した。
「こちらが先日、奥様がいらした時に立案されていたプランのお見積もりでございます。――そして、こちらが奥様からお伺いしていた内容から、私がご提案させて頂く秘密の最安値プランです」
「……え!? こんな、一気に100万円近くも安くなるんですか!?」
 な、100万円、だと!? 長辺を下にすれば、札束が机に立つ程の大金じゃあないか!? それだけの値引きを、この一瞬で成すというのか!?
「先ほどお伝えしたように、私も予てよりご事情を察していたと申しますか……。関係各所へかなり頭を下げ、交渉させて頂きました。ご希望に沿った上であくまで最安値の選択肢でございます」
「それでも、ここまで安く出来るんですね……」
「勿論、削っている部分には奥様が妥協出来ない点や流れもあるかと存じます。ですので、更にご夫婦や私を交えてのお話し合いが必要にはなりますが……」
「……そう、ですね。絶対に、そうなると思います」
「とは申しましても、以前のプランより旦那様にもご納得頂けるプランではないでしょうか?」
「ん~……。しかし妻を説得出来るかどうか……。人よりも高級思考が強いので……」
「――そこで今回は、特別に無料の宿泊プランをご用意させて頂きました。是非、こちらを説得材料に奥様と改めて計画されるのは如何でしょうか?」
「無料の宿泊プラン、ですか?」
「はい。当ウェディング会場は、ホテルに併設されております。その為、宿泊面でかなり融通が利くのです。ウェディング当日は、終わった後に疲れてしまうと思われます。そこで特別な夜の締めくくりに相応しく、夜景を見ながらフルーツやケーキ、そしてシャンパンが楽しめる格別なお部屋とプランをご用意させて頂きます。今回に関しては、無料でサービスさせて頂きますので。ご安心ください」
「安くして頂いただけでなく、ここまで……。この価格なら、貯金もなんとか……。これなら妻を説得出来るかもしれません!」
「良かったです。旦那様も、初めて私の提示させて頂くプランで笑顔になってくださいましたね」
 本当に嬉しそうに、川口雪華さんは笑みを浮かべた。いや、入ってきた時には暗い顔をしていた男も、だ。大したもんだ……。キャンセルの話をなくし、ぼったくりではなく、説明した上で納得が出来るプランを提示した。それも自身が頭を下げて調整したと言う。本当にそんなことをしたのか、とも思うが……。男の顔が立つよう、様々な配慮をしたというのが重大なのだろう。
 これが仕事に誇りを持つプロフェッショナルの仕事の一端、という訳か。
 医療も接客業と言われるが、相手が笑顔になることなど、ほぼない。それはそうだ。元気の対義語が病気なのだから。暗い世界から脱却する可能性や方法を提供するのが、医者の仕事だ。笑顔や笑い声など皆無の空間で、だ。
 この絢爛豪華なホテルで、彼女は幸福と元気を提供する仕事をしている。眩し過ぎて、俺が知らなかった世界だ。本来なら知ることさえ出来なかった、美しく素晴らしい世界……。
「……メッセージ、返すとするか」
 もう、十分だろう。もはや彼女が俺を騙して事件を起こすなどとは疑っていない。これ程に格式の高いホテルへ従業員を装い、実際に従事している姿を俺に見せつけるなど不可能だ。事前に日時を指定して訪れると言っていれば、まだ可能性はある。だが突如として来訪した俺に見せつけるなど、出来ようはずもない。
 俺は仕事に対する熱意を見抜く目は確かなつもりだ。金の為に仕方なしに取り繕いながら働く人間を腐るほど目にして来た。
 その俺が、確信している。
 彼女は間違いなく、この仕事に誇りを持ち、続けたいという一心から偽装同棲を提案したのだ。男性の笑顔に釣られ、自らも心から輝く笑顔を浮かべている姿。こんな素晴らしく鮮やかな仕事ぶりを見ては、蟠りも霧散するというものだ。
「家のセキュリティについて再考せねばな……。俺の責任ではない、同居での事故を防ぐ為に……」
 彼女の仕事ぶり――用意周到さは、練達していた。あれだけ幸せそうで、キビキビと丁寧な仕事をする人間なんて……見たことがない。一朝一夕の努力で辿り着けるような領域ではない。きっと今のように業務をこなせるようになるまで、想像が付かないほどの苦労を重ね、それでも折れずに仕事へと邁進して来たのだろう。
「結婚の強要などと言う、個人の選択権を否定する同調圧力なんかで、今までの努力が踏み躙られて良いはずがない。……決めたぞ。俺は彼女を信じ、応援すると約束する」
 川口雪華さんへ『必ず貴女が仕事を続けられるよう、出来る限りの協力をすると約束します』とメッセージを送る。
「……少し、セリフが臭いか? いや、だが仕方ない」
 胸に込み上げている感動を、これでも理性で抑えた方だ。知らなかった世界の魅力を垣間見て、プロフェッショナルの生き方に感銘を受けたのだ。俺と同じく恋愛などに現を抜かすより、仕事でやりたいことがあるプロフェッショナルの同志に。この感動を言葉にしようとすれば、酷く支離滅裂な上に長文となるだろう。
「俺の知らぬ明るい世界で、懸命かつ活き活きと働いているんだ。俺には手が届かない、縁遠い世界だが……。だからこそ、新鮮な感動を覚えてしまった」
 同じように仕事へ情熱を注ぐ者として、だ。働く世界、住む世界の明るさは天と地獄ぐらい違くても、仕事に目標を持ち輝いているのは変わらない。それなら、応援してやりたくもなる。
 良いものを見させて頂いた。これ程に深く感銘を受けたのは、ちょっと記憶にない。彼女ならば、互いのメリットを果たす契約を守ってくれる。そう信じられる仕事ぶりだ。
 気付かれないように立ち去ろうとして、多くの視線が集まっていることに気が付いた。
 カフェのスタッフに、客。立て看板に隠れている俺を、皆が訝しげに見つめている。
「す、すいませんね。今、帰りますんで」
 焦ってガンッと軽く立て看板に衝突しながら、俺は早足で立ち去った。沈み込む深い絨毯のせいで、足がもつれる。クソ、これだから機能性を考えていない造りは嫌いなんだ!
 胸中で悪態を吐きつつ、自転車に乗り自宅へと戻る。
 その夜、俺と川口雪華さんはシフト勤務カレンダーアプリを共有した。これにより、彼女の転居日程や互いの両親への挨拶日の摺り合わせなどは一気に進行した。
 彼女が転居してくる予定日は、約1ヶ月半後だ。
「しっかりと、彼女を迎える準備をしないとな……」
 医者がやる単発のアルバイト――スポットバイトを探す為、俺は知人の医師へと連絡を取った――。

 そうして、約1ヶ月半が経過した。
 桜の花弁は既に散り、青々とした若葉が芽を出し始めている。徐々に温かな日が当たり前になってきた。換気をすると、心地良い風が室内へと入ってきた。
 そんな今日。いよいよ川口雪華さんが転居してくる。
 教授にもその旨を伝えた為、今日は丸1日仕事がない。中々ない、丸1日の休みだ。安心して彼女を迎えることが出来る。
 時刻は午前10時。引っ越し業者は先に到着してマンションの前で待機しているが、本人である彼女が到着するまで荷物の搬入は待機している。
「おかしいな、予定では彼女もとっくに着いている時間だが……」
 スマホがポケットで震動する。川口雪華さんからメッセージで連絡が来た。『教えて頂いた住所に到着したのですが、迷っています』とのことだ。
 慣れない場所、それもマンションなら余計に分かりづらいのだろう。仕方ない、迎えに行くか。
 俺は靴を履き、マンションの外へと出る。
 すると直ぐに、戸惑った様子で引っ越し業者と会話している川口雪華さんが見えた。これだけ近くに居ても分からないとは……。東京の密集した集合住宅で建物を判別する難しさを物語っているな。
「川口さん」
「あ、南さん!」
 俺が声をかけると、川口さんが小走りに駆け寄ってくる。その表情は、どこか焦っているようにも見える。
「あの、どこから出ていらしたのですか? 近くにそれらしき建物が見当たらないのですが……」
「何を言ってるんですか。ちゃんと、ここに伝えておいたマンション名が書いてあるじゃないですか」
 マンションの外壁に小さく書かれた建物名を指さす。少し錆びているから、見えづらいか?
「……え?」
「本人も到着したことですし、搬入を始めてもらいましょう。業者さん、お待たせしました」
 待機していた引っ越し業者に声をかけると、弾かれたように動き出す。キビキビと建物に傷を付けないようブルーの保護材を貼り付け出す。あっという間に、壁中が青く染まった。無駄なく素早い仕事ぶりだ。見ていて気持ちが良い。隣で川口さんは「え、え?」と小さく漏らしながら、呆然としているが……。彼女も、引っ越し業者によってあっという間に壁が変わってゆく様に驚愕しているのか? そうだろうな、これだけ手早い仕事だ。同じプロフェッショナルの仕事人として、感嘆しないはずがない。
「さあ、我々は先に部屋へ行きましょう。搬入してくる荷物の指示は、本人が必要ですから」
「……え、あ、え?」
 業者と建物を交互に見比べている川口さんの腕を引き、自室まで案内する。6階だからな。結構階段を上る必要がある。慣れていない川口さんの表情からは、少々の疲労と戸惑いが見られた。体力がつけば、自ずと慣れるだろう。
「さあ、どうぞ」
 俺が扉を開くと、川口雪華さんは室内を目にして足を止めた。
「こ、ここ……ですか? 本当に?」
 念願の同棲生活、その新居だ。込み上げてくるものはあるのだろうが……。引っ越し業者が「すいません、保護材を張らせて下さい」と告げ、軽く頭を下げながら室内へと入ってゆく。
「壁や床を傷つけないように、お願いしますよ。念の為、作業前の壁や床は撮影してありますから」
 忠告するまでもないだろうが、引っ越し業者へと伝える。ほんの少し、業者の顔に緊張が増したような気がする。やはりキチンと証拠を残しておくことは大切だな。
 川口さんは邪魔にならないように配慮してか、3点ユニットバスに立っている。さすが仕事が出来る人は違うな。トイレや風呂には、家具を運び込むことはない。そこに立っていれば、引っ越し業者が搬送する導線にも引っかからないから、邪魔になることはない。オマケに少し顔を覗かせれば室内が一望出来る。指示出しだって容易だ。
「あの……南さん?」
「はい? どうしましたか?」
 力ない声で、川口さんが口を開いた。心なしか、肌がいつもより青白いような……。女性の月経と重なってしまったのか? 貧血なら、キチンと休めるようにベッドも早く整えるべきだが……。
「このお部屋の……間取りは?」
「間取り、ですか? ああ、まずそれをお伝えしてませんでしたな。失礼。間取りは、1LDK。リビング7畳に、洋室が4畳です」
「……築年数は?」
「確か、45年ですよ。――ああ、業者さん。ベッドは窓際で組み立てをお願いします。クローゼットの開閉に当たらないようにね」
 この部屋の賃借人は俺なので、代わりに指示をする。業者は「かしこまりました」と、キビキビ動く。重い荷物を持って階段を何往復もしているのに、動きが鈍らないとは……。更にはベッドの組み立てもあっという間に終わらせて行く。なんて美しく、素晴らしい手際の良さだ。今のユニットバスに立つ川口さんじゃあないが、思わず見とれてしまう。
「……高級タワマン、コンシュルジュ付きのハイクラス住居。……え? 築45年の、おんぼろユニットバス一口コンロ物件?」
 ボソボソと呟いているが……。なんだ? いや、それより今は引っ越し業者の美しい仕事っぷりだ。元々1人暮らしの荷物など、たかがしれているのもあるが……。段ボールに梱包された荷物も、あっという間に運び終えた。素晴らしい、素晴らし過ぎる! さすが高額を請求するだけはある仕事っぷりだ。作業完了のサインを川口さんに求め、川口さんがゆっくりサインをする。……思っていたより、汚い字を書くんだな。力なくよれていて、細いミミズがのたうち回っているようだ。
 そうして引っ越し業者は保護材を回収し、あっという間に撤収していった。
 部屋に残されたのは俺と川口さん。そして梱包されている荷物や細かい配置をしていない家具だ。
「さて、細かい調整をしましょうか。いよいよ偽装同棲生活のスタートです。持ち込んでくださったベッドは窓際に、ソファーとローテーブルが部屋の中央。となると、梱包されている物を収納するのは……空いている壁際ですかね」
「…………」
「いやぁ、何もないと広く感じた部屋ですが……。こうして荷物が搬入されると、狭くなるもんだ。通るのがやっとですな」
「……おかしい」
「…………川口さん?」
 おかしい? 何がだ?……いや、そうか。確かに、おかしかったな。順序が間違っていたか。俺としたことが。
「これが家のカギです。ないとは思いますが……。念の為、チェッキーという、締めると赤くなる装置も付けておきました。この防犯グッズが1980円しましたが、必要な投資です。はい、どうぞ。それでは、懸念されているだろうセキュリティについて、もう少し説明します」
「…………」
「まず、玄関から進んだキッチンの天井には、室内や施錠状態も見渡せるペットカメラを設置しました。これが3562円で、ランニングコストもかかりますが……。スマホで何時でも確認が出来ます。共同生活でどちらかが防犯上のミスをしていないか、確認する為には必要経費でしょう。凄いんですよ、高画質で上下114度、左右はなんと360度見渡せるんですから! 視野限界は人間以上だ!」
 説明しながら室内を進んで行く俺の後ろを、川口さんがついてくる。
「――い、痛いっ!」
 運び込まれたソファーに足をぶつけている。人が1人、横向きになって通れる幅しかないからな。壁紙を傷つけないよう、早く慣れてもらいたいもんだ。梱包された段ボールを荷解して整理すれば、もう少し幅に余裕も出るか?
「このクローゼットは、平等に半分にしましょう。私が右半分。川口さんが左半分です」
「……ちなみに、何着ぐらい収納出来るんですか?」
「10着が限度、ですかね。それを半分ずつなので、1人5着でしょうな」
「…………」
「まぁ肌着は収納ボックスへ入れれば良いですし、着ない季節の服は圧縮袋に入れておけば問題ない。スーツと部屋着を1着ずつに、普段着を吊してもお釣りが来るレベルですよ」
「……え?」
「さて、一番気にされているのがベランダでしょう。分かりますよ。防犯上、最も危険ですからな。ベランダは、私の居室である4畳の方へあります。こちらへどうぞ」
 身体を捻りながら扉を開き、部屋へと入って行く。貴重品は今後、常に持ち歩くつもりだ。医学書の在りかを知られるのは少し不安だが……。俺は彼女を信じると決めたのだ。
 折りたたみベッドと本棚の間を通り抜け、ベランダの戸を開く。
「ご覧ください。俺の作ったセキュリティは万全です」
 余りに充実した防犯体制に感動したのか、目を丸くして絶句している。そうだろう、そうだろう。
「有刺鉄線に、忍び返し。これが我が家の自慢の防犯具です。ああ、位置も時々変えていますので。安心してください」
 川口さんは口をパクパクとさせて驚愕している。ふっ……。俺の自慢のセキュリティだ。それぐらいの反応をしてもらわないと、困るってものだ。
「川口さんと偽装同棲するとなって、私も気合いを入れてお迎えの準備をしないといけないと思いましてね。新たに導入した防犯具、チェッキーにペットカメラ。この導入にかかる5632円とランニングコストを得る為に、スポットバイトを2回も入れてしまいましたよ。唯でさえ少ない休みを費やしてしまいましてね……。それで詳細な説明をやり取りする時間が作れず、すいませんでしたな」
「……どういう、ことですか?」
 心なしか、声も震えている? そうか、スポットバイトなんて、一般人は知らないか。医者の常識で話してしまったから、理解が出来なかったのか。しまったな。先日も、専門用語ばかりで半分も理解出来ていない。そう入院患者から指摘されたばかりだったのに……。川口さんと居ると、反省や学びが多いな。これが偽装とは言え、同棲すると言うことか。
「スポットバイトとは、医者が空いている時間や休日に単発でするバイトで――」
「――そこじゃない!」
 耳を劈くような怒声が、室内に広がった。
「な、何か俺の防犯体制に不適際がありましたか!? 教えてください! それが妥当な意見ならば、直ぐに改善をせねばならない!」
 ペタンっと、川口さんは床にへたり込んでしまった。そして深々と大きな溜息を吐く。何度も、何度も両手で頭を抱えながら。なんだ、その反応は……。不安で胸の鼓動が止まらん。心臓は自律神経の支配を最も感じやすい臓器の一部だ。俺は今、極度の不安から心拍数が上昇している!
「……取り敢えず、コーヒーを飲んで話し合いね。直ぐに荷解するから、ソファーに座って待ってて」
「わ、分かりました……」
 そんなに腰を据えて話さねばならない程、抜本から改革が必要なのか!? どこだ、どこに穴があると言うんだ!? ソファーに座りながら、部屋中を見回す。だが俺には、防犯上の穴が見当たらない。クソ、これが病院に籠もっているモグラのような人間と、明るい世界で生きる人間の視野の違いというやつなのか!?
 早く教えて欲しいと思いながら、滲み出る手汗を気にする余裕なく手を擦り合わせて待つ。
 川口さんはコンセントの位置などを確認しながらコーヒーメーカーを設置し、手早く2杯のコーヒーと、皿に盛ったお茶菓子を運んできてくれた。引っ越し初日だからか? こんな大盤振る舞いをしてくれるとは……。ありがたく、お茶菓子を頂くとしよう。
「――これは、どういうことなの!?」
「……何が、でしょうか?」
「こんなオンボロマンションなんて、聞いてないわよ!」
 は?……なん、だと。防犯上の穴を指摘しているのかと思えば……。住居に文句があったというのか? 何を言うかと思えば……。十分だろうに。屋根があり喰って寝て、収納が出来るスペースがある。風呂トイレにエアコンまで付いていて、文句を言われるなど筋違いだ。こんな声を荒げて責められる謂われなど、俺にはない!
「川口さん、アンタがどんな想像をしていたか知らないが……。十分な住居だろう? 住居に拘りがあり、文句があるのだとしたら何故、事前に確認しなかった?」
「品川区在住の医者で、車持ちのマンション在住って聞いたら、聞くまでもなく高級タワマンを想像するでしょ!?」
「だ、誰が決めた、そんな常識!? 自分の確認不足という不手際を、俺に当たるな!」
 なんという理不尽だ! 自分の勝手な想像……いや、妄想を押しつけて、思う通りじゃなかったら人に当たるなど……。あり得ん態度の悪さだ!
「だいたい、車はどこ!? この辺りに駐車場なんてなかったわよ!?」
「あっただろうが! この地下に駐輪場が!」
「は? 駐輪……まさか、自転車!?」
 驚愕に目を剥きながら、川口さんが悲鳴のような声を発する。なんだ、医者が自転車に乗っているのが、そんなに悪いというのか!? それは権利の侵害だ!
「自転車も、法律上は軽車両。立派な車だ!」
「何よ、自転車しかないっての!?」
 そんなに文句を言われる筋合いは、ない! だいたい、俺が無駄金を排除するタイプの人間だと、先に婚活パーティーで言っておいたはずだ。そうだ。酔ってはいたが、俺は確かにあの会話を覚えているぞ!
「俺は倹約家だと忠告したはずだ! アンタは倹約家でも、費用を抑えて幸せにするプランの提案が仕事だ。そういった方には慣れていると、その口で言っていただろうが。何故、俺が文句を言われねばならん?」
「倹約家にしても、外車ばっかり乗ってる医者の中で、国産車ぐらいかなと思ってたわよ! 医者なのにガソリンじゃなく自分のカロリーを燃やす自転車なんて予想外。対応不可だわ!」
「都内で自動車を持ってない医者なんてゴロゴロと居る。それなのに対応出来ないなんて、アンタは未熟なんじゃないのか?」
「なんで私のせいになるのよ! ケチらずに自動車ぐらい買いなさいよ!?」
 ケチ、だと? ふざけるな。どうせ都内で自動車を持つことが、どれだけコストパフォーマンスが悪いかも計算したことがないんだろう。良いだろう、ならば教えてやる!
「自動車でかかる金は、車体価格だけじゃないんだ! 維持するだけで全国平均でも年間25万4千円もするんだぞ!? 東京都品川区の月極駐車場なんて、平均月額3万987円だ。全国平均より遙かに高くなる! ガソリン代年間平均7万5千円を引いても、維持しているだけで年間54万840円だ! そんなもんを払うなんて贅沢、正気じゃない! 山手線1周するのだって280円だ。動かしもしない車を所持しているだけで、1年に山手線を1931周するだけの移動が出来るんだぞ!? 毎日、山手線を毎日6周以上してやっとトントンの金額だ。アンタは365日、山手線換算でそれだけの距離を車で移動しているのか!?」
「山手線山手線って喧しいのよ! なんなのよ、山手線換算って。分かりづらいのよ! 旅行で遠出するとか、車じゃないと行けない観光地だってあるじゃない!」
「旅行なんて贅沢をする暇があったら仕事や勉強をする! アンタの仕事ぶりは尊敬していたのに……。倹約を考えな過ぎだろう!?」
「あんたのは倹約とか節約だとかのレベルじゃないの! ガソリンもない、サバイバルの領域なのよ!」
 ハァハァと荒い息で、叫ぶように訴えかけてきた。何がサバイバルだ。俺は災害に遭っている訳でもない。唯、論理的に無駄や贅沢を排除して倹約をしているだけだ。生き残るのがギリギリなサバイバルと一緒にするなど、サバイバル生活を経験してきた人にも無礼だ。
「良いから、さっさと荷解をしろ。段ボールを片づけんと、狭くて叶わん」
 はぁ~、と。長い溜息を吐いてから川口さんは渋々と言ったように荷解を始めた。
「――な、なんだと!? 何故、財布やバッグがいくつも出てくる!? 1つで十分だろうに!」
「服装に合わせて変えるのよ! オシャレよ!」
「俺なんて100円均一で買った財布だぞ!?」
「ビリビリ言う財布!? 医者がそれをメインで使ってるの!?」
 俺の財布を見せると、信じられない化け物を見たような反応をしてくる。ふざけるな、これ程安くて機能が整っている物をバカにしやがって……。
 その後も荷解をする度に出てくる贅沢品の数々。俺でも知っているハイブランドのバックや財布が店で陳列するほどに飛び出して来やがる。更にはネックレスやピアス、技巧が凝らされたガラス瓶の中に、雀の涙程しか入っていない化粧品。違いが分からないコスメ用品の山。この無駄遣い……。この異常な経済観念こそ、コイツが婚活パーティーで話していた、男にこっぴどくフラれたという原因じゃないのか!?
「一体なんなんだ、アンタの無駄遣いの数々は!?」
「うっさいわね! 私は仕事のストレスを、買い物とか美味しい物、エステで吹き飛ばすタイプなのよ! 美貌を磨くのに必要なお金よ!」
「な、なんだと!? それで金が貯まるほど、ウェディングプランナーとは稼ぎが良いのか!?」
「貯金なんて、しないわよ!」
「ば……バカな!?」
 噂では聞いていたが、都市伝説の類いだと思っていた。まさか、貯金をしない人間が実在するだなんて……。 
「目の前の仕事に最高のパフォーマンスを発揮する為の散財! それが私のライフスタイルよ!」
「そんなんだから、元交際相手にこっぴどくフラれたんだろう!?」
「あんた、触れちゃいけないことに触れたわね!? 黙りなさい! 何よ、私が働いて稼いだお金をどう使おうと、自由じゃないのよ……。なんで口出しされた上に、責められなきゃいけないのよ。全く、どいつもこいつも……」
 ここまでの非常識な言動から察した。俺の本能が警鐘を鳴らしている。こいつは、プレイベートはとんでもない愚物だ、と。仕事場での凛とした姿も、上辺を取り繕うのが上手かっただけかもしれん。もはや何が真実で何が虚偽か、分からん!
「あんたこそ、医者って高給取りじゃないの!? なんでこんな極貧サバイバル生活をしてるのよ!?」
「俺は920万の年収、賞与が含まれてな。手取り年収は676万円。毎月49万5千円だ」
「やっぱり高給取りじゃないの!」
「まぁ俺の素晴らしい貯蓄プランを、最後まで聞け。手取りの20パーセントを家賃上限として、他は生活費と貯金だ。住んでいるのは管理費込み8万5万円のマンション。住宅手当3万5千円が出るから、実質支払うのは5万円。親への学費返済が月々4万。手元に残るのは40万5千円。それをなるべく、将来の貯蓄としている」
「それでも、十分にもっと良い暮らしが出来るじゃない……」
「日本人が手取りの何パーセントを貯金に回しているか、知っているか?」
「し、知らないわよ」
「手取り額の30パーセントが平均だ。――だが俺は、敢えて厳しく70パーセント以上を貯蓄に回している」
「はぁ!? 家賃20パーセントも含めると、自由に出来るのは10パーセント以下ってこと!?」
「救急科と整形外科専門医を取得して、親の病院を新装開業するまでの8年間に、俺は合計3千万円を貯めねばならん。給与が安かった初期研修医2年間で足りなかった分も含め、6年間は年間450万円の貯蓄が必要だ。月々だと37万5千円を貯蓄。自由に出来るのは3万円。食費1万5千円と光熱費を入れると、カツカツもカツカツだ。ボーナスみたいに上下する収入が学会費や研修費、医師会費へと消えてゆく。どうしても栄養不足で死にそうになれば、専攻医になってから許可が出たスポットバイトを入れる。そこで得た給与の10パーセントが自由にして良い金となる。19時から翌朝までで6万以上の支給とかだぞ? 貯蓄に税金とかを考えて、手元に6千円だとしても、1日では凄い金額だ!」
「…………」
「浪費家のアンタじゃ、言葉も出ないか? だが俺は実際にやって来た! 後1年足らずで、全ての目標を達成だ!」
「……1周回って、あんたはバカよ。いえ、病気だわ」
 恐れ戦いてると言うか……。受け止められない現実に直面したように、川口さんは言う。しかし、よりにもよって俺が病気とは……。実にアホらしい。だが、これも一興だ!
「ハッ……。医者に病気を語るとはな。なんて病気だ、言ってみろ」
「し、仕事中毒とか?」
「…………」
 それは否定が出来なかった。何日だろうと、職場である病院に籠もっているから。暗く淀んだ病院に住まうモグラと、自分でも表現したぐらいだ。しかしそれを言うなら、川口さんも仕事の為に男と偽装同棲を図るぐらい、仕事中毒だろうに。……いや、待てよ? さっきまでの言動から察するに、コイツは医者が金持ちだと思って、良い暮らしをしようと偽装同棲を提案したのか? なんて策士だ……。生存戦略としては、寄生虫と同様レベルだ。これだから恋愛や結婚なんてクソだと思ってしまうんだ。だが残念、宿主選びを間違えたな!
「あ、後、節約家だとか几帳面の行き過ぎだとか……」
「残念ながら節約家や几帳面は勿論、仕事中毒だって病名じゃない。造語だ。強いて言うなら、今の俺に必要な治療は虫下しだな。これじゃ結婚出来ないで周囲に心配されるのも当然だな」
「親や同僚に結婚を急かされてるのは、あんただって同じでしょう!? 結婚出来ないからって街コンに参加させられて! 私と同じじゃない!」
 自分と同類だろうと憤る川口さん。だが俺は、その意見に対して思わず鼻で笑ってしまう。確かに前半は同じだが、後半は違うな。俺が結婚出来ないから街コンに参加していたと、コイツは思っていたのか?
「違うな、俺の場合は結婚出来ないんじゃなくて、しないんだ。アンタとは違う」
「ハイハイ、そう言うことにしたら? あぁ、彼女も出来たことない男の見栄ほどキモいものはない」
「ふんっ。良いか? 俺には医者という社会的ステータスがある。これは資格を持つ限り減らない資産価値だ。自称外見が美しいとか言う、老化と共に目減りする資産しかないアンタは今後、結婚したくても出来ない。これは客観的に見た事実で――」
「――ああ、ウザい! もう、あんたの声も聞きたくないわ! このままじゃ縊り殺しそう、今すぐ出て行け!」
「なっ!? ここは俺が契約している家だぞ!?」
「あっそ! それなら、私が自宅に帰らせてもら――」
 ドスドスと音を立てて、川口さんはバックを手に取ってから玄関へと向かう。そして乱暴に靴を履き、ドアノブを捻った所で動きを止めた。
「……もう、退居手続きは終わったんだった」
 ガクンっと、力が抜けたように四つ這いで落ち込んでいる。それはそうだろう。じゃなきゃ、ここに荷物もないだろうからな。そんなことにも頭が回らないとは、気が動転しているのか? 或いは頭に血が上っているのか? 俺は正論しか言っていないと言うのに。
「ああ、どうしよう……。同僚や友達にも威勢の良いことを言ったから頼れないし……。実家なんてもっての他。財布の中身も……うっ」
 バックから財布を取り出し中身を開くと、呻き声を上げる。そして瞳が涙で滲んでいる。何故だろう、俺が泣かせたようになっている。偽装同棲を言い出したのも川口さん。よく確かめもせず、俺の家に上がり込むと言い出したのも川口さん。そして想像と違うと言い出し、出て行くと言い出したのも川口さんなのに。俺が悪いとでも言うのか?
「そんな……。この偏屈なクソ変人と、一緒に暮らすしかないって言うの?」
 偏屈と変人なのは頻繁に言われるから、そういった素養もあるのかもしれない。だが、誰がクソだ。そこまで言われる程に不条理なことを言ったつもりはない。むしろ正論しか言っていない。それで俺と折り合いが悪いからと不当に罵倒されるのは、間違っている。
「……アンタ、口が悪過ぎだろう。よく仕事でボロが出ないな」
「女は皆女優なのよ。仕事のスイッチを入れれば、そんな間抜けはしないわ」
「酷い事実を聞いた」
 良く言えば、オンとオフの使い分けが出来ているとも取れるが……。職場での姿は演技だとなると、あの丁寧な仕事姿に感動していた俺としては、少し悲しい。
「……バァカ、バァカ。夢見てんじゃないわよ」
 遂には拗ね出した。人間は余りに受け入れ困難な事象に遭遇すると、精神年齢が退行するとは耳にしたことがある。それ程までにショックだったのか? 当たり前にこの生活をしてきた俺に、無礼だろうが。
「それより、生活空間……。ん~……」
 川口さんは額に手を当て、悩み続けている。そしてハッと思いついたように目を見開いた。
「せめてカメラの監視だけでもなんとかする! 私のプレイベート空間を作ってやるわ!」
 何かを閃いたのか、バッと立ち上がると、玄関から出て行った。プライベート空間を作る、だと? どういうことだ。
 そう悩みながら、家に放置されている段ボールの山を見る。ハァ、仕方がない……。片づけるか。このままでは、圧迫感が強過ぎるからな。衣類などと書かれた段ボールには触らず、それ以外の荷物を取り出す。驚く程に美容品の類いが多い。棚を組み立て、理解出来ないながらに陳列して行く。細かい配置の拘りなどはあるかもしれないが、そこまでは知らん。
 そうして40分ほどかけ、粗方の段ボールを片づけた。――だと言うのに、川口さんは新たに大きな段ボールを持って玄関から入ってきた。2メートル近くありそうな段ボールを、ゼェゼェと言いながら家へねじ込んでいる。喧嘩を売っているのか?
 玄関からリビングまでの廊下幅は50センチメートルぐらいしかない。必死に段ボールの向きを変えたりして、なんとか押し込んできている。そんなことをしたら、壁紙が傷つくだろうが……。退居費用が増えてはたまらん。玄関で梱包を外し、小袋を一つ一つ運び入れる手段を提案すると、目から鱗だと言わんばかりにキョトンとしていた。
 そうして一つ一つ運び入れ、リビングで買ってきた物を組み立てて行く。すると、出来上がったのは突っ張り式のポールカーテンであった。川口さんはポールを立て、間仕切りをしていく。ここは俺が借りている物件なんだが……。勝手に自分のスペースを決めやがった。パッと見だが、リビング7畳のうち6畳近くを持って行ったんじゃないか?
「このカーテンの中に入ってきたら、警察に突き出してやるからね!」
 どこまで面の皮が厚いんだ。人の家に上がり込んだ挙げ句、リビングの大部分を占拠してその言い分とは……。俺の部屋より占有スペースが多いじゃないか。共有スペースは、俺の部屋から出るドアとキッチン、ユニットバスにクローゼット。殆ど半身になって移動しなければ通れなくなったと言うのに。
「軒を貸して母屋取られるか……」
「お金が貯まって両親や同僚になんにも言われなくなったら、絶対に出て行ってやるわよ!」
 そうしてくれ、と強く思う。いくら俺は殆ど家に帰って来られないで、不幸の巣窟である病院に住んでいるような状態だとしても、家でまでこのような不幸に陥りたくはない。
 家賃や光熱費が半額になるメリットは大きい。更に互いの両親への挨拶で、煩わしい世間の同調圧力からも解放される。
 そのメリットだけを考えて、ストレスが溜まる偽装同棲の期間を乗り切るしかない――。