1章

 勤務している救急科の集中治療室――ICUにて、俺は女性患者のベッド横に立つ。俺は医者として状態を直に見たい。患者から生の意見も聞けるしな。状態はどうかと患者に尋ねながら、カートの上に載せた消毒セットの準備を進める。すると患者が突如俺に身を寄せ、声を潜めながら話しかけて来た。人目を忍ぶような仕草だ。
「南先生、こちらを……」
 ベッドとフレームの隙間から患者が封筒を取り出した。目立たないように、俺の着ているスクラブへ突っ込もうとしてくる。――そんな患者の手を、俺はサッと避ける。
「先生、これは気持ちですから」
 なおも諦めず、俺のポケットへ向け手を伸ばしてくる。患者の素早い動きに、思わずチッと舌打ちをしそうになってしまう。俺はまたしても手を避け――患者の手をベッドへと強く押さえつけた。
「せ、先生?」
 袖の下、賄賂。言い方は様々だが……賄賂というのは、大きな利の為にする反倫理的行為の1つだ。医者をしていると、頻回に遭遇する場面だ。俺の所属する東林大学病院でも、表向きは袖の下を禁止している。発覚した時には罰する法人も、最近では出て来たらしい。だが、医師への袖の下というのは、古くから続いていた悪しき風習だ。そう簡単に撲滅出来る物でもない。
 明確な線引き、ルールを作った所で、それを全員が守る訳ではない。
 しかし残念なことに――人とは己の利害を考え、行動に移してしまう愚かな生き物でもある。
「……良いですか、よく聞いてください」
 戸惑う患者の目を見据え、重々しく口を開く。
「貴女が俺に袖の下を送ることのメリットは、安心を買えることでしょう。ましてや、集中治療室での治療が落ち着き、これから骨折の手術があるのでは、不安も強いはずです。唯でさえ、貴女は交通事故による出血性ショックで死の恐怖を知った。少しでも良い治療を受けられるよう便宜を図ってくれと金銭を渡すのは、安心感に繋がる行為かもしれない。これが貴女の得るメリットです。そして俺のメリットは、出所不明で非課税の金銭を一時的に得られる」
「えっと、不安なのもありますが……。先生には、救急搬送された私の命を救って頂いたので。お礼にと――」
「――でしたら、余計にこれは仕舞うべき物です。俺のデメリットに触れます」
「デメリット、ですか?」
「ええ、そうです。この封筒を俺に渡したとしましょう。貴女のデメリットは、自身の大切に貯めてきた金銭を失うこと……だけではない。入院規則を破ったことで、強制退院や厳重注意を受ける場合もある」
「え、ええ!?」
「それだけではない。紙幣とは製造以後、洗浄されることもなく人の手を渡って来て、かなり汚れている。ウイルスや細菌のパラダイスだ。貴女は交通事故の外傷で皮膚が捲れている。皮膚とは感染予防に重大な役割をしているんですよ。もし、傷口に細菌やウイルスが入れば、感染により病状の悪化もあり得る」
「そ、そんな!?」
「これが貴女のデメリットですよ」
 ここまで言えば、一先ず大丈夫だろう。抑えつけていた手を離す。
 俺はその感染リスクというデメリットを減らす為に、傷口の洗浄と消毒を行いに来たのだ。そんなことになれば、俺が来たのは無意味どころか逆効果。医者失格の詐欺師ではないか。
 傷を覆っていた被覆材を剥がすと、患者が痛みに顔を少し歪める。だが洗浄を怠り感染すれば、もっと苦しむことになる。構わずに水や消毒剤を科学的根拠に基づく適正な必要量用意し、適切に処置を進める。
「そして俺が受けるデメリットは、更に大きいんですよ」
 涙目の患者へ先ほどの話を再開する。処置も一段落して、落ち着いて話せる環境になったからな。重要な話は、キッチリと意味まで伝えられねば無意味だ。
「医者がインテリヤクザと揶揄されているのは、ご存じですか?」
「い、いえ……。暴力団、なんですか?」
「違います。そう言う意味ではないです。仲間意識の高さと、派閥の戦いから、ですよ」
「あ……。やっぱり、そう言うのはあるんですか。ドラマの世界だけじゃなかったんですね」
「大抵のテレビドラマは、実情よりも綺麗で優しく描いていますね。自分の所属する医局や学閥による仲間意識と助け合い、そして争い。これこそ、医者がインテリヤクザと言われる所以です」
 目に力が籠もってしまった。女性患者は俺と視線を合わせるのが怖くなったのか、キョロキョロと目を揺らしている。
「俺が受けるデメリット。その1、病院内で懲罰委員会にかけられれば、俺は様々な人に攻撃される弱味を与える。病院医局内での地位、そして学閥や医療従事者全体からの信頼まで喪失する。その2、目の前の金に目が眩み、医師免許を失効する可能性。つまり、俺の夢が絶たれる。苦労して医者になり、叶えたかった夢が失われてしまう。その3、俺の心を支えている、仕事へのプライドを失う。袖の下を渡さねば最善の医療選択をしないと思われていることは、俺にとって最大級の屈辱です」
「は、はぁ……」
 俺は明確に作成されたルールを破り、倫理をねじ曲げる行為を決して認めない。
「以上のことを説明した上で、貴女はどう選択しますか?」
「……その、失礼いたしました」
「分かって頂けて、何よりです」
 女性患者は渋々と、ベッドフレームとマットレスの間に再び封筒を仕舞った。大きく頷いてから、俺は患者の手を取り洗浄と消毒をしてゆく。せっかく傷口の洗浄をしたのに、汚れが付着した手で触れてしまえば全て台無しだ。時間は有限。こうして洗浄をしている間に、病状経過の説明もしていく。
 ツラツラと話している時間で、疾病対策予防センターが推奨している通りの手指洗浄と消毒を終えた。
 手指洗浄には十秒のもみ洗い後、15秒のすすぎだ。これでウイルス残存率は0.01パーセントまで減少する。流水ではない為、そこまでの効果は認められないだろうが……。目に見える汚れはないので、これが妥当な洗浄だ。
 目に見える汚れがない場合は、消毒の方がより重要だ。擦式アルコール手指消毒で、指や爪の間に手首までしっかり擦る。液状のエタノールなら、1回量は3ミリリットルだ。そして乾けば、アルコール耐性菌などを除けば殆どの微生物が死滅する。
 医薬品から時間まで、過不足なしだ。――実に素晴らしい。思わず微笑んで手を見つめてしまう。そんな俺の顔を、女性患者が覗き込んでいることに気が付く。思わず自分の世界に浸ってしまっていた……いかんな。咳払いをしてから、会話を続ける。
「説明は以上ですが、何か転科前に質問はありますか? 或いは、データに表れていない些細な気付きや病状変化でも、気軽にどうぞ」
「い、いえ……。毎度、丁寧過ぎるぐらい丁寧に説明して頂いてますので……。大丈夫です」
「そうですか、それは良かった」
「先生は本当に、几帳面過ぎるぐらいに丁寧で……。あのお金は、本当に感謝のつもりだったんですが……」
 まだ言うか。金とは、様々な意味で重いんだ。人生で稼げる額の目安は、概ね決まっていると言うのに。たとえこの患者の主張が事実だとしても、正当な診療報酬だけでなく、このような無駄遣いをしたがる気性は好ましくない。
「お気持ちだけで結構です。私はやるべき当たり前のことをしただけです。人の不幸で飯を喰わせてもらっている仕事として、ね」
「……人の不幸で、飯を?」
「そうです。医者っていうのは、病気やケガで不幸になる人が居なければ不要な仕事です。そして、それは有史以来供給の絶えない不幸だ。これだけ医学や科学技術が進歩して、日夜研究業務に励んでいようと、人が不幸になる歴史に終止符を打てないでいる。つまり、医者とは人の不幸で飯を喰い続けて行く仕事なんですよ」
「それは……。少し、自虐され過ぎでは? 私は、先生に命を救われました」
「そう、それです」
「え?」
「不幸の中でも、最悪の不幸よりは少しマシだ。そう患者さんに思ってもらえたのなら、充分です。袖の下なんて渡されたら、不幸な人に余計な不幸を追加してしまう。そんなプライドのないルール違反者に、私はなりたくないんです」
「あ……。そう言う、ことですか。……先ほどは、本当に失礼しました」
「いえ。それでは、もう二度と私に遭わないことを、お祈りしています」
「……え? そこは、また会いましょうでは?」
「救急科で働く私に会うということは、緊急事態に遭遇するのと同義だ。そうならないことを、お祈りしていますよ」
「……先生は、偏屈ですね」
「よく言われます」
「それに、不器用ですよね。冷たいと、人に誤解を与えそう」
「それでも、俺は正しいことを伝えるのみです。……それでは、どうかお大事に」
 頭を下げる患者に背を向け、俺は集中治療室から出てスタッフステーションへと向かう。
 スタッフステーションに入り、椅子へ腰掛け大きく息を吐く。経済観念が低いのか、それとも地獄の沙汰も金次第という言葉を、昨今の病院実態が崩せていないのか……。封筒の厚みから、札が十枚以上はあっただろう。全く、面白くない……。金はもっと計画的かつ、利害を考え適切に使うべきだ。
 今の患者の様子や処置内容を医師記録へと記入し、転科先へと送る診療情報提供書には詳細なデータと合わせて記入して行く。
「南先生。ここは僕が代わるから、医局に行ってきな?」
 先輩医師がスタッフステーションへとやって来て、そう声をかけてきた。
「医局に?」
「うん。教授が呼んでいたから」
「……そうですか」
 俺は書きかけの診療情報提供書を下書き保存し、席を立つ。
 スタッフステーションに残されたリーダーナースにも「医局に行って来ます。何かあれば、ブルートゥースで」と院内用のスマホをかざして見せる。
 忙しなくも頷いたのを確認してから、俺は完全に病棟を離れる。
 昨今はPHSが使えなくなった代わりに、スマホが支給された。スマホの電波が医療機器の誤作動を起こすというのは、もはや都市伝説だ。便利なことにブルートゥースで繋がったスマホは救急科病棟や医局などのグループへ、音声や映像をライブで共有出来る。慣れるまでに時間はかかったが……。これまで以上に、迅速に多部署や多人数と情報共有や対応を可能にしている。1秒を重んじる救急科では重宝するアイテムだ。
 そうこう考えているうちに、医局へと着いた。
 ドアを開けると、パソコンに向かいながら作業をする医師が山と見える。……あの先生、何日帰ってないんだろうな。前に医局へ戻った時にもいたし、昨日も同じ服装だった気がする。まぁ、医者にはよくあることだ。36時間連続の勤務。そして勤務が終わっても仮眠を取ってから、自宅に帰らず研究を進める人がゴロゴロと居る。……俺もその1人な訳だが。
「教授、お待たせしました」
 鼻の下に立派な髭をたくわえた教授に声をかける。机に置いてある文献を見る限り、先日共同で発表した研究内容を論文化する話だろう。
「おお、南先生。悪いね。私もこの後、病棟に行くからその時でも良いかなとは思ったんだが……。急患や急変で半日会えなくなると、困るからね」
「ええ。大丈夫です。俺もそこは理解していますから」
 救急科とは、ハッキリ言ってそう言う場所だ。急患が来て外来担当が足りなければ、病棟からも家からも駆り出される。病棟配置人数が足りなければ、呼び出されるのが当然だ。顔を合わせられる時に顔を合わせ、情報共有や分担などを話し合っておくに越したことはないのだ。
「そうか。それで、南先生が引用したこの文献の妥当性に関してなんだが……」
「はい」
 それから数分、問答をしながら修正をして行く内容のご指導を受けた。
「それで、話は変わるのだが……」
「教授、なんでしょう?」
「私の姪っ子で、まだ未婚の――」
「――結構です」
「……まだ、何も言っていないんだがね」
「どうせ、結婚話でしょう?」
「まぁ、そうなんだけどね。いい加減、君も身を固めたらどうだ? 心配しているんだと、お父様もよく私へ連絡してくるんだ。女の影はないのかってね」
「ありません、要りません、必要もありません」
 教授は学生時代、親父の後輩だったらしい。互いに医者となってからも付き合いは続いていて、今でも連絡をよく取っているそうだ。お陰で教授は俺を殊更気に懸けてくれる。正直、このコネクションはデカい。医者はコネクションや伝手が非常に有利に働く場面が多い。インテリヤクザと揶揄されるのも、頷ける話だ。教授にも、人間関係など諸々で助けて頂く場面は多いのだが……。結婚は、仕事の邪魔にしかならない。この話を毎度される時間すら、無駄で惜しむべきものだ。この話がなくなり業務効率が上がれば、1人でも多くへ巡回が出来ると言うのに……。
「南先生は、今年で医師になって何年目だっけ?」
「8年目です」
「それなら、十分に身を固める適正時期だろう。今年で救急科専門医試験を受験するカリキュラムだって、修了するのだろう?」
「このままプラン通りに進めば、そうですね」
 専門医というのは、医師としてその分野に関連する臨床、研究について知識や技量が十分であると認定された医師のことだ。専門とする診療分野の所定カリキュラムや、実績を積まなければいけない。認定医よりも更に高い基準を満たす必要がある。第三者機構が評価してくれるので、1つ売りになる看板や広告が増えたと思って良い。しかしメリットばかりではない。デメリットは面倒で複雑、学会費などが高くつくことなどだが……。それでも、患者が信用するのは称号だ。医師資格がない者が、これは健康に良いというより、医師資格を持つ者が良いと言えば説得力が増す。それは健康関連書籍などの売り上げからも明確な事実だ。ましてそこに、専門医とか教授といった称号が加われば、より説得力と信用度が増す。俺はどうしても、それが欲しい。
「南先生だって、もういい歳だろう?」
「今年で、36歳になりましたね」
「何時までも異常な節約生活と自己研鑽ばかりせず、家庭でも幸せを掴む区切りだろう? メリハリは大事だよ?」
「俺にその余裕はありません。父の開業している診療所が、今どうなっているのか。教授も状況はご存じでしょう?」
「それは、そうなんだけどね」
「俺は結婚している暇なんてないですし、向いてないですから」
「間違いなく向いていないとは、私も思うが……」
「そうでしょう?」
 隙あらば、教授は俺に縁談を持って来る。俺が子供の頃から見て来たから、未来を心配しているのだろうが……。正直、良い迷惑だ。それに、俺は知っている。偏屈な俺を結婚まで導いた者は英雄だ、そう医局内で囁かれているのを。つまり、俺の結婚は娯楽の1つとして扱われているんだ。だから色んな人が女性を紹介してくる。我慢強さに定評があるとの売り文句で女性を紹介してきて……。まるで俺と結婚するのは罰ゲームのように言いやがる。結婚という業務と一切関係がない話に掴まるだけでも面倒なのに、罰ゲーム扱いされたら気分が悪い。勘弁して欲しいものだ。
「確かに、南先生は間違いなく結婚には向いてない。だがね、結婚することで人間は成長するのも事実だ。新しい世界も見えるんだよ?」
「……そうですか。すいません、自分にはやるべきことがあるので。論文の添削、ありがとうございました。近いうちに、再提出させて頂きます」
 深々と頭を下げてから、足早に教授の前を去る。
「……全く、にべもないなぁ」
 小声で呟く教授の声に聞こえないふりをしながら、自分の机へ向かい歩く。
 論文へのアドバイスは、絶対に忘れないようにしよう。自分の院内スマホと私用スマホにメモ、念の為、二つにメモをしておくか。自席に戻り、引き出しのカギを開く。自分のスマホの電源を入れると、親父からのメッセージが来ていた。
「……は? なんだ、これは」
 緊急だろうか。『メッセージを見たら直ぐに電話をくれ』と書かれている。受信時間としては、今朝の6時……。今が午後の5時だから、11時間無視をしていたことになる。規則では問題ないのだが、勤務中は気が散る時もあると私用スマホを持ち歩いていなかった。それが裏目に出たか……要改善だ。
「……くそ」
 親父もお袋も、高齢だ。もう年齢は70近い。何かあったのだろかと、慌てて個室トイレへと駆け込み、電話をかける。
「早く、出てくれ。頼む!」
 何か大きな病気か、事故だろうか。職業柄、焦るとそっちにしか頭が行かない!
『――もしもし、昭平か?』
「親父! 大丈夫か!?」
『は? どうした、昭平。そんな慌てた声で』
「いや、親父が直ぐに電話を寄越せって……。何かあったんじゃ、ないのか?」
『確かに、あったと言えばあったな。いや、重大なことがあると言うべきか……』
「重大なこと、だと? なんだ、もしかして入院か? それとも、親父の診療所に何か……」
『いやいや。――街コンだ』
「……は? 街コン?」
 街コン……。聞いたことはあるな。確か……病棟でナースたちが話していた。要は出会いを求める男女が集まる婚活パーティーってやつだろう。それを街の店とか、色んな形式でやる合同コンパってことだよな。それが一体、どうしたと言うのだろうか?
『今日の20時が受付開始時間だ』
「……親父。お盛んなことに文句を言うつもりはない。だが、お袋にバレたら怒鳴られるぞ?」
『何を言っている。――昭平が参加するんだよ』
「は?」
『ほれ、URLを送ったぞ』
 ポンッと親父からメッセージが送られてきた。リンク先のタイトルは『エリート限定。男性プレミアムステータス限定』。なんとも、開きたくなくなるタイトルだが……。仕方なしにリンク先へ飛ぶ。
「な、なんだこれは!?」
 リンク先のHPへ飛んで、思わず目が丸くなる。会場は俺でも知っている有名ホテル。しかも、参加者のイメージ写真にはフォーマルなスーツやドレス。見るからに高価で贅沢そうじゃないか。なんて言う無駄遣い……。顔を顰めたくなる光景だ。
「いや、親父。俺はこんな婚活パーティーに参加する暇はないんだ。今は仕事が第一だって、いつも言っているだろ? 結婚なんざ、考えている余裕も暇もない」
『今日の17時半からは、休みだよな? 9日ぶりの、完全非番だろうが』
「……何故バレているんだ」
『お前にシフト勤務カレンダーアプリを紹介したのは私だぞ。細かい昭平のことだから、キッチリと書くだろうと思っていた。予想通りだったな』
「いや、そうじゃなくて!……なんで俺がカレンダーに書いた勤怠記録が、親父にバレているんだ?」
『あのアプリはな、指定した相手との相互共有機能があるんだよ。知らなかったのか?』
「……知らなかった。記録帳としか思っていなかった」
『今朝になっても、今夜から明日の朝にかけては新たなシフトが入らなかったからな。さすがに急患でも来ない限りは、十日目に突入することはないだろう。だから、当日予約をしておいたんだ』
 なんてめざとい親父だ。36時間前後の連続勤務には慣れている。だが9日間帰れないのは、さすがに疲れた。論文だって、早く修正して、また教授に提出しなければならないのに……。結婚なんて言うクソみたいな契約をするつもりもまだないし、完全に時間と金の無駄だ。やっていられるか!
「……俺は論文を書き進める予定だったんだ。親父には悪いが、そんな集まり――」
『場所は昭平の住んでいる品川区のお隣、赤坂。参加費は7千6百円でビュッフェとアルコール飲み放題だ』
「さ、参加費だけで7千6百円だと!? ふざけるな、俺は絶対に――」
『私の奢りだ』
「――仕方ないから行ってやる。今回だけだぞ」
 全く、親父には困ったもんだ。だが無料でビュッフェの食事にありつけてアルコールも飲めると言うなら悪くない。1週間以上は病院に籠もりっぱなしだったし、栄養が足りなくて困っていた所だ。ビュッフェなら、不足していた栄養を摂れるだろう。親父が払う金の元を取るだけ飲み食いするには……。頭の中でプランニングする必要があるな。必要栄養素を摂りつつ、酒税でコストの高いアルコールを飲む。普段は絶対に飲まないからな。……たまには、悪くない。
『……昭平。お前は本当にケチだな』
「親父。俺はケチなんかじゃない。計画性があると言うんだ。目標があるから、プランを立てて必要な倹約をしている。それだけだ。親父こそ、無駄遣いはもう止めてくれ。先々のこともあるんだ」
『これは無駄遣いなんかじゃあない。昭平には早く結婚して欲しいんだ。私も母さんも良い歳だからな。息子の結婚式にだって出席したいし、孫の顔も――』
「ああ、分かった分かった。その話、長くなるだろ。仕事に戻るから、またな」
 返事も待たず、通話を切った。
 全く、親父と連絡を取るといつもこれだ。36歳になって独身というのを、いつも責めてくる。晩婚化している社会に反し、親父は考えが古い。もはや結婚は義務という風潮じゃない、結婚しないで仕事を頑張るというのもスタンダードな選択肢になっていると言うのに……。
「仕事や夢に向かって集中することの、何が悪いんだ。上司にしても、同僚にしても……。独身であることを悪し様に責めやがって。煩わしくて、業務の能率が落ちかねん。命の現場で少しでもパフォーマンス低下に繋がることは、排除したいが……」
 手っ取り早く周囲が黙るのは、誰かと結婚を見据えた交際をすることだろう。だからと言って、男女交際や結婚なんてクソみたいなことに使う時間も金もない。俺は医者としてやりたいこと、やらなければならないことがある。
 初期研修医期間の終了後、2分野における専門医を目指す研修制度、ダブルボードカリキュラムに従って整形外科専門医は既に取得出来た。だが、救命科専門医試験が受験可能になるのは、今年だ。今年は色々な意味で勝負の1年だと言うのに……。
「どいつもこいつも、恋愛だ結婚だのと……。俺は、そんなことに時間を割くほど余裕がないと言うのに」
 今夜参加する街コン情報が開かれたHPを見て、吐き捨てるような言葉が出てくる。
 スクラブのポケットにスマホを仕舞い、俺は病棟へと戻る。金を支払ってしまったものは仕方がない。20時からの開始に間に合うよう、後3時間で仕事を不足なくやり遂げねば……。

自宅へ向かって自転車を漕ぎながら、眠気に抗う。
「眠い……。いや、油断するな。事故を引き起こすぞ、俺」
 こういう時は、考えごとをするに限る。途中で仮眠は取っていたが、もう9日家にも戻らず東林大学病院に詰めていた。
 勤務に研究、家に戻る暇もない。もはや俺は、不幸という暗い闇が渦巻く巣窟――病院に住むモグラだ。巣穴の当直室にあるベッドが二段ベッドからカプセルベッドに変わったのは素晴らしい。寝返りを打てる幅があり、遮音と遮光性能も二段ベッドより格段に快適だ。
 支給されるスクラブスーツは、まるで神の如き福利厚生だ。クリーニングは病院が無料でしてくれるし、汚れが目立たず動きやすい。自宅で洗うのが肌着と靴下だけで済むのも、高ポイントだ。実費負担が安くなる。
 乾燥機付き洗濯機も、お得な良い買い物だった。中古価格で購入に1万円。水道代、電気代で1回の洗濯に82円。更に洗浄力が高く、安価な粉末洗剤が900グラム入りで1回の使用量は25グラム。36回洗える。洗剤1箱、ネットショッピングでストアが定める送料無料となる金額にまとめ買いすれば、なんと412円。ポイントまで還元されるのに、だ。つまり、1回の洗濯にかかる費用は94円。病院で合計300円も払うコインランドリーより、206円のお得。合計49回洗濯すれば、洗濯機を買った方が得になる。もうとっくに採算が取れている。洗って自宅で仮眠している間に、職場へ持って行ける状態まで整えてくれているのに、だ。全く計画通りの素晴らしい買い物だった。
 これで電気料金も最低料金制を採用しているエリアなら、今のアンペア性よりもっと安く済むのにな。集合住宅だから変更することは不可能と言われてしまった。30アンペアで、基本料金月額は858円だ。何も電気を使っていないのに、それだけかかる。一個下のプラン、20アンペアなら572円。差額で月々286円も得をする。年間なら、3432円も変わる。
 だが口惜しいことに、今より間取りが狭くアンペア数も低い賃貸物件となれば、今度は防犯面が不安になる。我が家で最も高価な物、それが医学書籍だ。べらぼうに高価で、大学病院の図書館には置いていない稀少なものもあるからな。蔵書してくれるよう交渉しても、採用されない場合がある。そう言う場合は、泣く泣く自腹を切るしかない……。
 俺は医者としての仕事柄、殆ど家に帰れない。今頃、空き巣に盗まれているかもしれんと思いつつ働くのは、パフォーマンスが著しく低下する。
 だからこそ、今住んでいる6階の1LDK物件だ。1階に防犯カメラ付きのエントランスホールがあり、屋内階段なのが素晴らしい。
 1階を店舗にしているワンルームなら、人目もあるし良いのでは。一時はそう考えたが、よく考えればその店舗の店員や常連客が盗人に変身することもあり得る。内部側の立場にある人間なら、侵入も容易いだろう。やはり頼るべきは、文明の力である防犯カメラだ。
 人の善意なんてものを盲信せず、俺は科学を信じる。後は地上に近い低層階や、角部屋は危険性が増すと研究結果が出ている。意外にも高層階だろうと他の建物から乗り移れるベランダがあれば、侵入されることがある。当然だろう、ベランダにさえ入れば、ゆったりと窓を割れるのだから。
 初期投資として、有刺鉄線3560円、忍び返し2099円は必須の経費だった。それにしても、日本の100円均一ショップは凄い。精巧な防犯カメラ風のアイテムまで、税抜100円で手に入るのだ。外から見ると、カーテンとガラス戸の間に防犯カメラが見える。それ1つだと偽物に見えてしまうが、有刺鉄線や忍び返しという万全な備えがあれば、まるで本物のように映るだろう。我が家のセキュリティは万全。だからこそ俺は家に帰れずとも、安心して仕事に集中出来る。
 などと考えている間に、もう我が家に到着した。やはり、眠い時には益体もないことへ思考を巡らせるに限るな。過去を振り返り、自分の行動が適切だったかを考え直すだけで眠気が誤魔化せる。
 自転車置き場に自転車を停め、俺はマンションの屋内階段を上り自室である602号室へと入る。
「……空気が酷いな」
 玄関を空けた瞬間、長く換気していなかった自室の弊害が出た。
 急いで戸を開け、網戸から入ってくる晩春の冷たい夜風を楽しむ。外はまだ肌寒い時期だったのか。不幸の巣窟である病院に住むモグラには、分からなかったな。常時管理された病院内には季節感など関係ないから。
 僅かな時間しか滞在しないのだから、一々電気などは灯さない。照明器具は点灯させるというアクションで負荷がかかるし、電気代も発生するからな。
 真っ暗でも、どこに何があるかなんて手探りで分かる。
 乾燥機付き洗濯機に汚れた肌着を突っ込む。そしてスマホの灯りで照らした計量スプーンで精確に必要量をすくった洗剤を投入する。後はスタートボタンを押せば終了。真っ暗闇の中で、洗濯機が稼働を始めた。
「よし、これで帰って来る頃には出勤が出来る肌着になっているな」
 満足だ。頬を緩めながら、クローゼットへと向かう。学会で着用することが多い為、スーツは取り出しやすい場所へ掛かっている。
「ネクタイの大剣と小剣のバランスも模範通り。後は窓を閉めて……時間は、ジャスト7分か」
 スマホの時計を見れば、入室から退室までの時刻はプラン通り。
「正に無駄のない完璧な時間予測に行動。実に良い気分だ」
 後は自転車で32分で到着すれば完璧だ。帰りはアルコールが入っているから、自転車は押して歩けば良い。
「よし、行くか。飯と久しぶりのアルコールを堪能しに、な」
 もはや耳にするのも煩わしい、婚活などという忌々しいイベントは忘れよう。
 俺は高級ホテルで出されるビュッフェやアルコールに思いを馳せ、施錠をする。そして鼻歌交じりに移動を開始した――。

「――予想外だ。クソ……」
 まさか信号にここまで引っかかるとは……。ホテルに到着した時刻は20時5分。駐輪場を聞いて、会場に到着するまでになんと20分。結局、開始5分前に受付が終了するというギリギリさになってしまった。ここまで予定が狂った原因は、何も信号だけじゃあない……。
「客用の駐輪場がどこか分からないなんて、受付はどうなっているんだ……」
 ホテルの受付男性に駐輪場はどこかと聞いたら、駐車場のみで自転車は……などと、妙な顔をされてしまったのだ。なんという対応力の低いマニュアルだ。自転車なんて一般的な乗り物だろうが。それでも、高級ホテルなのか?
 やっとのことで会場入りを果たせたのだが……。
「いかん……。怒りの分のエネルギー消費は、計算していなかった」
 既に疲労と栄養不足は限界に近づいている。早く栄養摂取をして、休息を取らなければ……。
 眠気と疲労、そして飢餓感に抗い、フラフラとしながら主催者の説明を聞き流す。立ちながら眠りそうになっては身体をビクンと起こす。その度に、周囲に立っていた人が減っているような……。いや、気のせいだろう。
 眠るな、俺。早く余計な説明を終えろ、主催スタッフ。まだ元を取るだけの飲食をしていないんだ。それに、ここで眠って財布でも盗まれたらどうする。眠る訳にはいかん、絶対にだ!
「――それでは、存分にお楽しみください」
 主催者の説明と挨拶が終わったらしき言葉だ。見れば周りの人々も食事を皿へ取ったり、アルコールを受け取りに動き出している。
「来たか、やっとか、待っていたぞ!」
 俺はカッと目を見開き、手に取った皿へと食事を盛ってゆく。
「タンパク質、脂質、炭水化物をバランス良く……。いや、まずは素早く吸収されるゼリーや液状のものからか? よし、そうしよう。バランスと料金の元を取るのは、それから再計算だ」
 皿に盛り付けた食事をテーブルに運び、次々と口へ運ぶ。
 美味い……。なんという美味さだ! 砂場に水が染み渡るように、身体に栄養素が吸収されてゆくのを感じる……。飢餓状態にある患者が点滴栄養を輸液されている時には、こんな心地なのだろうか?
 周囲がこちらを見ながら小声で何かを囁いているが、もはや今の俺には些事に過ぎん。今は兎に角、栄養吸収が最優先だ。
「よし。だいぶ回復してきたぞ。ここからは栄養バランスを考えつつ、元を取る作業だ。酒税がかかるアルコールなんか、自腹では飲む気もせんからな。この機に、たらふく頂戴するとしようか!」
 中央に置かれた長テーブルには、銀色に光り輝くトレーに色とりどりの料理が並んでいる。
 俺が目指すは――動物性タンパク質だ! タンパク質はやはり、重要かつ高単価になりがちだ。大豆製品などの植物性タンパク質に比べ、肉は兎に角、高価だ。日本人に足りない栄養素と言われているのに、どうにかならんものか。鳥肉は比較的安いが、牛肉などあり得ん価格だ。ビタミンB群が豊富な豚肉も捨てがたい。だが牛肉は自分で買おうなんて気持ちはサラサラ起きない価格。この機に摂取しておかねば……。
「多くのビュッフェでは、人気の食品は早々と姿を消す……。人の流れから人気を読み取りつつ、高タンパクな肉を確保するには……。やはり、これだな!」
 どこの会場でも、早々と姿を消して、二度と出て来ないことが多い人気料理――ローストビーフだ。
 俺は一皿へ丸々、ローストビーフを盛り付ける。ああ……。絶妙な熱加減で、やや赤身を残した牛肉。そして肉にかかるソースの煌めき。まるで栄養と旨味が織り成す、恵みの太陽だ。
 今の俺は、ハンターだ。高価な酒、コストパフォーマンスの高い料理を、狙い続ける! アルコールで正常な判断能力を失って行くのは恐ろしいが……それも、自分との闘いだ。
「――それでは、続いての参加者の方、自己紹介をお願いします。受付番号42番の南昭平先生。自己紹介の為に、こちらへご登壇頂けますでしょうか?」
 あ? 今、俺の名前が呼ばれたか?……主催スタッフが何かをしているとは思っていたが、そうか。今回は婚活パーティーだったな。ああして、受付番号順に自己紹介を促しているのか。
 登壇させられて、女に自分の売り文句を言えという催しか。――ハッ。まるで、市場のセリのようだな。いかに優れた商品かを語り、自分を高く買ってくれる人と色恋沙汰になれと?……冗談じゃない。本当なら、パスしたい。だが、主催の進行を邪魔するような真似は出来ん。飲食時間を削れられるのは惜しいが、進行に従いつつ、誰も近寄って来なくなるようなインパクトをかましておくか。
 席を立ち、ゆっくりと歩き寄る。俺の姿を認めた司会進行スタッフが、笑顔で「スタンドマイクの前へどうぞ」と促してくる。俺は、軽く頷きながらマイクの前に立つと、軽く咳払いをして口を開く。
「南昭平と申します。俺は皆さんのお邪魔をするつもりはありません。俺には、他にやるべきことがある。街コンや婚活というものに、興味はありませんから。それでは、良い夜をお続けください」
 ざわめく参加者やスタッフに軽く頭を下げ、壇上から降りる。まるでモーゼが海を割るかのように、俺の行く手から人が避けてゆく。歩きやすくて助かる。少し焦りながらも、気を取り直して進行を続けるスタッフの声を背に、俺は再び食事へと戻った――。
 開始から1時間以上が経過し、だいぶ腹も満ちてきた。ワインを手に高層階のパーティー会場の窓際から夜の街を見下ろす。様々な光が灯る街並みは、一言では言い表せない。
「……街灯、ビル灯り。そこに人が生活していて、必要な灯りを提供する。公共の物から、一般企業の物。オフィスビルやホテルの光は、人が汗水垂らして働いている証拠、か。夢へ向かって努力する光か、それとも……。やむを得ず心を殺して残業する為の灯りか」
 高層ビルから夜景を見下ろしていると、暗澹たる気分になる。東京という街は、成功者とそれ以外が混生している街だ。低賃金で高パフォーマンスを求め働かされる者と、金を持って使用する支配者が居る。支配者側は、夜にパーティーを楽しむ光の下に集い、労働者は俺のように定時とは一体何か、という環境に身を置いている。刑務所以下の粗末な部屋に住まいながら、だ。
 労働者が生きる糧を得る為に働いているのだとしたら、街の灯りとは非情な光だ。生きる為に心身を削り、動労時間に寿命を食い潰されている。生き甲斐や自由を感じることもなく、縛られたまま気が付けば命の炎を燃やしている状態だ。気が付く時は、過労による労災認定されないまでも、労働に身を捧げて倒れた時。もう手遅れではあるが、俺はそんな不幸を幾度となく見て来た。ストレスによる因子が強い、急性心筋梗塞や心不全を始めとする突発性の心疾患。若年での脳卒中など、労働だけが原因だと断言は出来ないせいで、正当な労働災害や保障が受け取れないケースを多々目にしてきた。家族の突然死で呆然とする遺族、路頭に迷う遺族……。不幸の集う巣窟が――病院だ。
「せめて、家に帰った時には安らぐ環境、落ち着く家の灯りでゆったりとして欲しいもんだ……。いや、それは俺も、か。俺みたいに病院という不幸に住むモグラに、明る過ぎる世界は毒だ」
 徐に、パーティー会場の中央へと視線を向けてみる。
「悍ましい姿だ……。結婚相手という一生のパートナーを決めるのに、財力や将来性、美貌。あらゆるもので参加者を秤にかけている。この浅い繋がりの場で仮に選ばれたとして……。本当に、永久に協力し合い、支え会える家庭を築けるものなのか? 秤にかけて選んだ関係など、より良い条件が転がって来れば、直ぐに心変わりするだろうに。他にやりたい目標はないのか、仕事に夢や目標を持ったりだとか……」
 あの連中は自身や相手の将来を考え、覚悟を持って婚活をしているのだろうか。そうでないとしたら……。
「全く、下らないわね……」
「実に、下らないな」
 ん? 今、俺が下らないと吐き捨てるより早く、誰かが同じことを口にしたか?……いかんな、かなり酔いが回っている。視界がぼやけ、状況判断力や思考力全般も低下しているようだ。
「あら、貴方も……私と同じように感じられているのですか?」
 女性の声か。ぼやける目の焦点を合わせると……。黒く長い髪を、上品にハーフアップへ整えている。服装は、どこかのブランド品だろうか? 持っているバッグは、俺でも見たことがあるロゴが入っている。どこかの有名ブランド品だとは思うんだが……やはりブランド品などとは縁がないから、よく分からん。医療ブランドなら知っているのだが。他の女性参加者と同様、フォーマルなスカートスタイルだ。白を基調としていて、かなり清潔感があるように見える。下品でない範囲で華やかだ。
 懸命に視界を定めようとしても、ぐらついて良くは見えないが……。背筋を伸ばしながら物憂げに佇むその姿には、気高さまで備わっているように映る。
「ええ、まぁ」
 それにしても、俺はかなり話しかけづらくなる挨拶をしたつもりだが……。構わず話しかけて来るとは、どんな鋼のメンタルだ。この女性は、俺の挨拶を気にもしていないのだろうか?
「失礼ですが、貴女は俺の自己紹介を聞いていなかったんですか?」
「あ、失礼しました。この場には、あまり乗り気で参加した訳ではなかったものでして……。どうせ無駄な時間に終わると思いつつも、周囲に圧をかけられて仕方なく婚活をしていると言いますか……。会場を離れ、仕事のタスク管理をする為に席を外させて頂くことが多かったもので。ご不快にさせてしまったのなら、大変申し訳ございません」
 ほう、素晴らしい。仕事に追われているのかとも思うが、イヤそうな顔を見せていない。己の仕事にやり甲斐や成したいこと、矜持を持っている表情として俺には映る。そういった人間性は、好感度が高い。仕事でなくとも良いが、己のやることに芯を持っている人間は素晴らしい。
 それに、周囲に圧をかけられて参加せざるを得ない、という境遇だ。俺と重なる。この人も本当は結婚などに時間を割く暇などないのだろう。それでも結婚した方が良いという同調圧力から、参加せざるを得なくなったのだな。分かる、よく分かるぞ。この女性に対し、シンパシーを抱かずにはいられんな。
「いや、中々どうして……。世の中には、結婚することが当然。そうでないと肩身が狭くなるという場合がありますからね。かく言う俺も、親や同僚に圧力をかけられた1人でして」
「まぁ、それでは私と一緒ですね。……あ、申し遅れました。私は東央ニューホテルでウェディングプランナーをしております、川口雪華と申します」
 しっかりと両手で名刺を差し出してくる女性――川口雪華さんに、俺は慌ててワイングラスをテーブルへと置く。礼を尽くされたなら、相応の礼で返すべきだ。
「ああ、これはご丁寧にどうも。名刺、頂戴します。俺は東林大学病院で医者をしています、南昭平と言う者です」
 スーツに入れていた名刺入れから、俺も自分の名刺を差し出す。受け取った川口さんの目が、驚愕に見開かれた。
「え、お医者様だったのですか? 凄いですね!」
「何も凄くないですよ。所詮は、人の不幸がなければ飯を喰えない仕事ですから」
「ご謙遜を。お医者様になられるのは大変でしょうに……」
「どんな世界でもそうかと思いますが、ピンキリですよ。貴女こそ、ウェディングプランナー、ですか? 俺には縁のない仕事なもので、知的好奇心が湧くのですが……やはり、色々と大変なのでは?」
「そうですね。大変なことがないと言えば、嘘になります。ですが、やはりお客様の大切なウェディングを契約からプランニング、各所との調整を繰り返し……。本番、幸せな姿を拝見させて頂くと、これ程やり甲斐のある仕事はないと思えます」
「ほう、つまり貴女は人の幸福で飯を喰っている、という訳ですな」
「そして貴方は、人の不幸でご飯を……と言うと、余りに失礼ですよね。失礼致しました」
 申し訳がなさそうに川口雪華さんは頭を下げる。だが、俺は気にしていない。好きな物について語れば、口も軽くなるものだ。川口雪華さんは仕事のことで、ついつい饒舌になっていたんだろう。そもそも、だ。不幸や幸せで飯を喰っていると言い出したのは俺だ。
「いえ、構いませんよ。それは事実ですから。貴女は自分の仕事へ精力的に励み、誇りを持っているんですね」
「勿論です。この仕事に就いて良かったと想っていますし、これからも多くの人を最高の笑顔にしたいと思っています」
「実に素晴らしい価値観ですな。俺はその姿勢を、心から応援していますよ」
「ありがとうございます。仕事が第一の私からすると、何よりも嬉しいお言葉です」
「そうですか、それは良かった。貴女も今は恋愛どころではない、という所ですか?」
「ええ。過去に男性から手酷くフラれてしまったトラウマもありますし……。今は仕事が恋人、ですね」
「仕事が恋人! 成る程……。それは、本当に素晴らしい言葉だ。いや、掛け値なしにそう思いますね」
「ありがとうございます。……それにしても、高身長でお顔だって整っていて、素敵ですね」
「ああ、それはどうも。ありがとうございます」
「ふふっ、言われ慣れていらっしゃる反応ですね?」
「いえ、特に興味がないだけですよ」
「え、そうなのですか? そのルックスでいて、お医者様ですのに……。失礼ですが、良い方はいらっしゃらないのですか?」
「ああ、俺は恋愛に興味がないんです。貴女と同じで、仕事が第一です。恋だの、結婚だのに現を抜かす時間も気持ちもないんですよ」
「そうなのですね! 私と同じお気持ちの方と、この街コン会場でお会い出来るなんて……。思ってもおりませんでした」
「ははっ、そうですね。俺たちは同じように、恋愛などへ現を抜かす間もない同志といった所ですか」
「その通りです。今は多様性が認められるべき社会。それなのに、皆して結婚や交際をしないのは変人のように扱って来ます」
「俺も同じですよ。同調しなければ生きがたい日本社会に、嫌気が差しますね」
「本当ですよ。いくらウェディングプランナーという職業と言えど、恋愛しないという選択肢を選ぶことも認めて欲しいものです」
「俺は……。明るい話題が少ない病院だからこそ、でしょうかね」
「ああ、そうかもしれませんね。私には想像しか出来ない世界ですが、やはり人の恋愛話は娯楽なのでしょう」
 本当に意見が合う人だ。人の結婚式をプランニングするような仕事で、俺とは全く違う生き方なはずなのに。
「俺たちは互いに仕事第一で生きながらも、対極の世界に生きているんですね」
「ふふっ、そうですね。このような場でもなければ、お互いを知ることもなかったでしょう」
「違いない」
「……あれ? ということはもしかして……。私の同僚とも、基本的には接することがない人?」
「ああ、俺もそうですが……。住む世界の明るさが違いますからね。暗い世界で生きる我々のことなんて、余程の病気にならなければ関わることもないでしょう」
「……」
「ん? どうかしましたか?」
 何やら、俺のことを見定めるかのようにジッと見つめている。病院という暗い世界とは関わりがないという言葉が、気にかかったのか?
「あの、失礼ですが……。お医者様になられてからは、何年ぐらいなのでしょうか?」
 どうやら、違ったらしい。川口雪華さんは、見た目こそ若いが相当にしっかりとした受け答えをしている。そうか、俺が医者としては若造に見えるのに、業界を語っているのが気になったのか? 仕事に誇りを持ってそうだからな。軽い気持ちで仕事を語ることに嫌悪した、と。分かる、その気持ちも理解出来る。
「今、8年目ですよ。俺もこの歳にして……やっと目標に近づいて来ました」
「えっと、医学部は6年制ですから……。今は、32歳でいらっしゃいますか?」
「ああ、いえ。学費を稼ぐ為に3年間程、民間会社で期間工をしていましてね。今年で36歳です」
「まぁ! それでは、庶民――いえ、お金に関するご苦労も、されているんですね?」
「ええ、それはもう」
「それは……大変だったのですね。だからでしょうかね、貴方は価値観が私のような庶民と……かけ離れていないと感じるのです。正直、お医者様の中には経済観がかけ離れていて、お話が合わない方もいらっしゃるのですが……」
「ああ、それは間違いないですね。俺もそういった医者とは話が合わず、困っているんですよ。とは言え、上手く付き合っていかなければ、ですがね」
 思い出すだけでイヤになる。一晩に十万以上の金を、飲食などというものに平気な顔をして使うヤツらが多いことに……。それでも、医者同士の繋がりは大切だ。理解不能の経済観念だろうと、医者としてやるべきことをしっかりやっていて、議論が出来れば良い。それが円滑な仕事や、伝手で利益へと繋がるのだから。多少は我慢して、目を瞑るべきだ。
「……ゆとりある経済だけでなく、常識まで持っている、と。嘘がバレるリスクも少ない。仕事にプライドがあってイケメン、更に人の心情に寄り添う世渡りまで――」
「――は? 今、何か?」
「いえ、何でもありませんよ!………あの、つかぬことをお伺いしますが……お車も、お持ちで?」
「ええ、まぁ……。大したことはありませんが、持っていますよ」
「それは……とても素敵ですね! さすがです!」
 なんだ、妙に興奮しているな。自転車を持っているのが、さすが?……いや、そうかもしれない。我ながら、よくやっていると思うからな。東京に暮らしていれば、電車と自転車で問題なく生きていける。それでも医者ってのは、財力を誇示するように高級な自動車を購入し、目と鼻の先ぐらいの距離でも自動車で移動することがある。俺は多少遠くても自転車で移動する。それは地球へのエコロジー的にも、経済的にも褒められるべき行為だろう。よく分かっている人だ。
「と、突然話が変わりますが……犯罪行為について、どう思われますか?」
「最低な行為ですな」
「即答、ですね」
「俺は犯罪が許せないんです。守るべき線引きがあるのに破るなど、もっての外。常に警戒しているぐらいですよ」
 家の有刺鉄線然り、忍び返し然り。空き巣やその他の犯罪行為、明確に線引きされた秩序を乱すようなことは、あり得ないと思っている。事故と違い、事件は起こすものだ。心から反省し、キチンと弁済していれば同情の余地はあるが。
「倫理観にも問題がない男の人……。何より、犯罪行為で失う物が大きい人は、安全……。これは、ありかな?」
 川口雪華さんは、小声で呟いた。俺の酔いが回っているせいだろうか。声は耳に入ってきても、意味を理解するのに時間がかかる。失う物が大きい人間の方が、犯罪を犯すリスクは少ないだろう。社会的制裁で、身分を失うのを怖れるからな。それは理解出来るが……。何がありなんだ?
「色々とハイステータスの貴方なら、見る目が厳しい私の両親でも納得してくれるかも……」
「ご両親、ですか?」
「……はい。実は私の親は、過保護で考えが古くて……。相応しい人と結婚をしないのなら、実家に帰り婿を取れと言っておりまして……」
「それは……由々しき問題ですな。今の仕事に全力を注ぎたい貴女からすれば、余計に」
「そうなんです。両親だけじゃなくて、同僚も……。結婚の話で圧をかけてきてばかりでして。安心して仕事に集中出来ないんです」
 なんだって? 俺と、全く同じ境遇だと? こんなバカげた話、俺以外にないだろうと思っていたが……。世の中は狭いな。まさか同じ悩みを共有する同志と、こうも簡単に出会うとは。
「俺の両親や同僚も、同じです。どうしても結婚させたがって、仕事の弊害にまでなっている。結婚しないことは、変人の証とでも言うように」
「私も全く同じ状況に悩んでおりまして……。本当に悩んでいて、その……」
 川口雪華さんは、言い辛そうに口をまごつかせている。少し思い悩んでから、流し目を俺に向けながら、恐る恐る口を開いた。
「そこで提案なのですが――私と偽装同棲をしませんか?」
 自分の耳を疑った。アルコールで酔っていようと、確かに聞き取った言葉だが……理解出来ない。なんだ、それは。
「……偽装同棲、ですか?」
「……はい。一緒に生活し、恋人のフリをするんです。そうすれば両親は諦め、同僚も結婚や交際に関する圧をかけて来なくなるかと……」
「しかし、若い女性とそれは……」
「私も今年で30歳を超えてしまいましたので……。それに、互いの勤務先まで知っているのです。もしどちらかが間違いを起こそうなんて気が生じても、それが楔となるのではないですか?」
 それはそうだ。この人の危機管理意識には、感心してしまう説得力がある。一見すると、よく知らぬ男女が偽装とはいえ1つ屋根の下に住むのだ。警戒すべきだろう。だがしかし、お互いの勤務先を知っているという大きな武器がある。もし問題行動を起こせば、お互いに職を失いかねない。もっと言えば、だ。この婚活パーティーが原因で犯罪にでもなれば、主催者側にも多少なり責があるだろう。参加者の身分や連絡先は把握しているはずだし、誤魔化しも効かない。大したプランだ。より一層、好感が湧いてきた。
「成る程、俺に関してはその通りです。一時の情欲なんかの為に、医者の資格を失う訳にはいかない。……ですが、同棲までする必要があるのですか? 偽装交際ぐらいでも、良いんじゃ?」
「私の両親は、娘想いが行き過ぎてる節がありまして……。同棲ぐらいにならなければ、きっと別れた時の為に代役を用意させようとします」
「それは、なんとも……。凄いご両親ですな」
「ええ、愛情を持って育てて頂いたことは感謝しているのですが……。私は仕事に集中したいのに。個々人のライフスタイルを、受け入れてはくれなくて……。結婚は幸せで、するのが当然と。少し古い考えには、賛同が出来ないのです」
「それも、お気持ちはよく分かります。……しかし、同棲。同棲、か……」
「もしよろしければ、貴方……南さんのお家に住まわせて頂けないか、と。私の部屋では、手狭なので」
「……我が家に、ですか」
 同じ私的空間を、共にする……。防犯的には、身元を更にハッキリさせて、逃げられないようにすればむしろプラスかもしれない。あの家はいつも誰も居ないとなれば、空き巣にも目をつけるかもしれないし。人の気配がするだけで違うだろう。家には書籍だけでなく、実印も置いてある。逃げ道は塞ぐとは言え、やはり他人を置くというのは……。やはり、断るか。不安要素なら、消した方が良い。
「私の給料では足りないかもしれませんが……。勿論、家賃や光熱費は折半とさせて頂きますので」
「やりましょう」
「え?」
「偽装同棲は、犯罪でもルール違反でもない。互いにとって、メリットのある行為です。俺も心から、そう思いますよ」
「……あ、ありがとう、ございます?」
 川口雪華さんは不思議そうな表情を浮かべている。何をそう不思議がるんだ。貴女が提案したことだろうに。そして貴女の提示する条件や説得が素晴らしいから、俺も同意をした。唯それだけのことだろう?
「で、では……その。偽装同棲と同時に互いの両親へ挨拶をして、恋愛圧力問題の解決を図りませんか?」
「ほう、それは素晴らしいですな!」
 これで俺の親が勝手に婚活パーティーなどへ申し込むこともなくなるな。相手側への挨拶は面倒だが……。その程度で煩わしさから解消されるなら、休日を少し削るぐらい、なんてことはない。
 おっと。偽装とは言え、同棲するならばだ。確認しておかねばならないことがある。
「その前に……。俺はどうやら少々、倹約家らしいのですが……。大丈夫ですか?」
 一緒に生活をするのだ。お互いに無理なく、生活でもストレスが溜まらないような相手でなければいけないだろう。確認はしっかりとせねば。
「倹約家、ですか? ふふっ、大丈夫ですよ。それでも、私の年収の何倍もございますでしょうし……。いえ、収入なんて言う無粋な話、失礼しました」
「ほう……。問題ない、と?」
「ええ。私の仕事は、結婚式費用を抑えたい倹約家な方にも、幸せで記憶に残るウエディングプランを提案し、笑顔を提供致します。なんの問題もございませんよ」
「なんという、素晴らしい言葉だ……。それでは本当に、俺と偽装同棲を?」
「ええ、貴方さえよろしければ、是非ともお願い致します」
 素晴らしい……。素晴らし過ぎる。俺が倹約家だと言っても――むしろ、当然だろうと余裕な顔をして笑っているとは。ここまで来ると、運命論さえも信じたくなる。
 親父が勝手に申し込みした街コンで、同じ悩みと価値観を共有出来る相手と、利害関係を結ぶ。それもお互いに抱えている苦悩を消す、素晴らしい相手だ。しかも仕事が第一だから、面倒毎に発展するリスクも極めて低い。素晴らしい、素晴らし過ぎるな……。
「貴女のように利害も一致して、好感の持てる素敵な方と出会えるなんて……。今日は参加して良かったです」
「こちらこそです。それでは、詳細については……。あ、そうです! 連絡先を交換しませんか?」
「ええ、それが良いでしょう。互いに仕事もあるでしょうし、転居関係や両親への挨拶日程は、メッセージでやり取りするのが好都合でしょう」
「分かりました。それでは、お互いの利を得る為――これから、どうぞよろしくお願い致します」
「ええ、こちらこそ、ですよ」
 そうして連絡先を交換してから、川口雪華さんは頭を下げて会場を後にして行った。最後まで残らなかったのも、目的を遂げたからなのだろう。彼女は俺の住む部屋に転居してくるつもりらしいからな。手続きなど諸々で忙しくなるからと、帰ったのかもしれない。その思い切りの良い判断力も、また人として好ましい。
「素晴らしい時間だった……」
 なんて利害関係の一致した良い交渉が出来たんだろうか。なんの期待もしていなかったパーティーで、思わぬ拾い物だ! 両親や同僚に余計なことを言われず、仕事に集中出来るようになるのは、実に素晴らしい。
「だが――何よりも生活費が半額になるというのは、最高だ! 偽装同棲すれば、換気頻度も上がって家の風化も防げる!」
 そうか。婚活パーティーへ参加するというのは、こういう利点もあったのか。参加費が7600円というのは割高だと思ったが、先行投資と思えば悪くない。
 東央ニューホテルでウェディングプランナーをしている、川口雪華さんか。詳細はまた、メッセージで詰めるということだが……良い出会いだった。後は、後日こっそり本当に在籍しているかを確認すれば良い。嘘であれば、この話は全てなしだ。もっとも、嘘はないと半ば確信しているが。まぁ、それは後日するべきことだ。
「……さて、思いがけぬ幸運にも恵まれた。最後にもう少し栄養を吸収すれば、文句なしだ」
 最初に食事を口にしてから、既に1時間以上が経過している。会場に残っている料理は少ないが、少し休憩した今なら、胃にまた詰め込める。
 気を抜けば、コクコクと船を漕いで意識が落ちそうだが……。もうひと踏ん張りだ。耐えろ、俺。
 元を取り、栄養を蓄える為にも、締めの食事と行こうじゃないか――。