「……待ってください。凜の気持ちは置き去りですか?」

 納得したはずなのに、声に出たのは違う言葉だった。
 何が正解なのか考えるのは辞めよう。人生経験が乏しい俺には正解なんて分からないのだから。開き直るって怖い。開き直った瞬間に、押し込んでいた言葉が出てきてしまう。

「凜の気持ちはどうなんですか? 一番大事なのは凛の気持ちでしょ。だって、凜の人生は、俺でもない。凜のお母さんの人生でもない。凜自身のモノですよ」
「……」
「自由がほしいって言ってました」
「だから、それは……。もし自由を与えて、負担が掛かってしまったら……」
「そうならないように、話し合えばいいんじゃないですか? 強引に制限するのではなくて。凜の気持ちを大切にしながら……」

 俺の話にきちんと耳を傾けてくれている。今の凜の母なら、話が通じると思った。誰よりも凜を想っているいる人。俺だって、凜のことを想っている。

 立場は違うが、互いに凜の幸せを願っている。話し合えば寄り添えるのではないかと思えたんだ。


「あなたが言っていることは、綺麗ごとよ」
「……」 
「あなたはまだ若い。健康で普通の女の子といくらでも恋できるでしょ」
「俺が本気で好きだと思ったのは凜だけです」
「……それは今だけの感情でしょ。一年後、同じ気持ちでいられるか分からないでしょ?」
「一年後のことは正直分かりません! でも、今の気持ちは分かります」

 言葉が返ってこない。失言をしてしまったかと、すぐに後悔の念が押し寄せる。正直に話しすぎた。嘘でもいいから、10年後も。100年後も変わらず好きですと言えばよかった。

「ふ、ふふっ。この状況で分からないって。正直すぎるね」

 一瞬目を見開いて驚いた表情を浮かべた。次の瞬間、控えめな笑い声が聞こえた。
 初めてだった。凜の母が笑ったところを見るのは。やはり親子だと思った。柔らかい微笑みが凜とよく似ている。

「す、すみません。でも本当に好きです」
「……ありがとう。凜のこと、そこまで想ってくれて」

 その言葉は牽制するために放たれたモノなのか。認めてもらえたのか。どちらの意味なのか分からなかった。
 しばらくの沈黙が流れる。静寂を破ったのは、この場にいるはずのない凜の声だった。


「……ごめん。少し前から話聞いていた」
「え」
「凛、」
 

 物陰からっそっと現れた彼女は申し訳なさげに眉を八の字に下げた。その瞳は揺れていた。

「お母さん、ごめん。私、酷いこと言ってた。愛されていないと思って……」

 話を聞いていたということは、制限するという行動の裏に隠された深い愛を知ったのだろう。

「凜、お母さんこそ。ごめんね。凜のことが大切過ぎて……一線を越えていた」
「お母さん。凜のことを想ってくれてありがとう。私だって謝らないと……お母さんより早く死んでしまうかもしれない。親孝行するまえに死んじゃうかもしれない。他の子より親不孝でごめんね」
「何言っているの。親不孝なはずないでしょ。それに、親孝行ならもう終わっているから」
「え、だって、まだなにも……」
「凜が小さいころに、これでもかと無償の愛をもらった。ずっと私の周りを離れなくて。少し離れただけで大泣きして……。大変だったけどあんなに満ち足りた気持ちになれたのは、凜が母親にしてくれたから。母親になる幸せを教えてもらった。充分親孝行してる。凜が生きていてくれたら、それだけで……もう十分なの」

 凜の母は一筋の涙を流した。透き通った嘘偽りのない涙だ。釣られて俺まで鼻の奥がつんとする。母と娘の愛をまじかに見て、感動するな。という方が無理だ。


 凜は声を上げて泣きじゃくった。ここまで感情を表す彼女を見たことがない。
 母親に抱き着いて泣きじゃくる彼女は、幼い子供のようだった。俺がこの場にいるのは違うと思った。2人を残して談話室を後にする。

 娘を想うがあまり、行き過ぎた愛の形になってしまったのかもしれない。遠回りをしてしまったが、凜が母親から愛されていると知れてよかった。

 まだ、涙が止まらない。
 だって、深い親子愛を見せられたら、涙が止まるはずないじゃんか。泣きながら歩いた。周囲の人の好奇な視線が突き刺さる。だけど、涙は止まってはくれなかった。

 病院の入り口までたどり着いた時だった。
 

「咲弥くん!」

 名前を呼ばれて振り返ると、肩を揺らして走ってくる凜の母の姿が見えた。息をゆっくり吸い込んで苦しそうに言葉を綴る。

「……ありがとう。キミのおかげで凜と話せたよ。親子でもしっかり向き合わないとだめね」
「通じ合えて、よかったです」
「……咲弥くん、キミはよく学校さぼるの?」
「え、いや。この間が初めてです。いつもは真面目で、風邪もひかないので皆勤賞です。えっと、この間は本当にすみませんでした」
「そっか……」

 意味深に息を吐いた。凜を学校から連れ出したことを、怒られるのだと思った。全身に力が入る。

「もう1回くらいさぼれる?」
「へ?」

 予想とはかけ離れた言葉に、思わず声が裏返る。

「明日、凜は外出許可出ているの」
「が、外出許可……」
「凛の時間をキミにあげる」
「え、俺。俺が行っていいんですか?」

 微笑みを浮かべて、ゆっくりと頷いた。

「凛と向き合うきっかけをくれたお礼。本当はどこかで分かっていたの。いつまでも子供扱いしないで、子離れしないとって……。キミのおかげでそのきっかけができた」
「いや、俺はなにも」
「外出時間は2時間! 激しい運動をさせなければ、他に制限は特になし! 今度は咲弥くんが、凛と向き合って……」
「あの、認めてもらえたってことですか? 俺、バカなんで、そう思ってもいいですか」
「凜があなたを必要としてるならだけど……。凜の気持ちを大切にしてくれるんでしょ?」
「も、もちろんです! なによりも最優先です」

 これほど嬉しいことはあるだろうか。
 凛の母に認めてもらえたことが、何よりも嬉しい。

「あ、凜にはサプライズにしたいから。メールなどで連絡しないでね」

 悪戯にニヤリと笑った。その表情が陽気な時の凜の姿と重なった。

「よろしくお願いします」

 深々と頭を下げると、背中を向けて歩き出した。
 俺は大事なことを忘れていた。小さな背中に向かって投げかけた。

 大事なこと。確認しなくてはいけないことだ。
 
「あの! 凜の心臓は恋できますか?」
 
 返事を待つ間、心臓がドキドキと鳴り続ける。

「……できるよ。恋をしても心臓に負担にならない。私がつくった嘘だから」
「ほ、本当ですか!」
「うん。主治医の先生も日常生活には問題ないって言ってくれている。凜にも謝らないとね」

 その瞳には涙が滲んでいた。謝罪の涙か。後悔の涙か。どちらかは分からない。ただ、その涙は透明で綺麗だった。
 

 キミの心臓は恋ができる。
 そう伝えたら、キミは喜ぶだろうか。
 胸が高鳴る理由には十分すぎた。

 期待をにじませて足を一歩進める。
 足取りは驚くほど軽い。キミとの未来が見えたから。