「凜! 何してんの!」

 甲高い怒鳴り声が鼓膜を刺した。目の先の方には鬼の血相をして顔を真っ赤に染めた女性がいた。
 驚く間もなく、俺たちを睨みつけて凄い勢いで駆け寄ってきた。

「お、お母さん、ち、違うの。送ってもらっただけで」
「凜! 塾に行ってないってどういうこと? 最近の様子がおかしいから、塾に電話したらずっと来てませんって。嘘ついて、男となんて遊んでたの?!」
「痛っ」

 凜がお母さんと呼ぶ女は、俺のそばから引き剝がすように、凜の腕を力いっぱい引っ張った。あまりの突然の出来事に固まって動くことが出来なかった。ただ、分かったことは普通じゃない。娘のことを心配している母親の顔ではなかった。

「あ、あの!」

 心配で言葉を投げかけた瞬間、鋭い視線が俺に向けられる。怒りがこれでもかと表情に現れていた。血管が浮き出るほどだ。

「あなた! 自分が何してるか分かってるの? 凜は心臓に疾患を抱えてるのよ。それなのに、こんな時間まで連れまわして……。凜になにかあったら、あなた責任取れるの?」

 早口でまくし立てられた。圧倒されて息継ぎする間もない。

「ちょっと! 聞いてるの? あなた、責任取れるんの? 取れるわけないわよね。親のすねかじってる高校生の分際で。親の顔を見てみたいわ。年頃の病気を持っている娘を連れまわすなんて」

 延々と繰り返される罵倒。大人に大声で罵倒され続ける経験がない俺は思考がシャットダウンしてしまった。

 何も言い返せない。俺に責任なんて取れない。それは事実だったから。
 血管が浮き出るほど怒りを表している母親の後ろに凜の姿は隠れていた。俯いていて表情が見えない。この状況に、困っているのか悲しんでいるのか、凜の感情を汲み取ることが出来ない。俺はどうしていいか分からなかった。凛の母親の甲高く鋭い怒鳴り声が辺りに響きわたる。

「お母さん、違うの。さっ……彼は送ってくれただけだから。ただそれだけだから。遅くなった理由は家で話すから。ほら、ご近所の目もあるし」

 凜は冷静に、母親をなだめるかのように優しい声を掛けた。「ご近所の目」という言葉に反応したのか、怒鳴り狂っていた母親はやっと止まった。帰り際に、一段と鋭い目つきで俺を睨みつけた。それはもう、凜に近づくな。そう牽制しているようにしか感じ取れなかった。

 その後は、凜は俺を見ることなく母親と去っていった。
 人の親を悪く言いたくはないが、違和感しか抱けなかった。
 ただ、違和感を抱いたところで、凜を追いかける勇気も度胸も、持ち合わせていなかった。
 遠くなる背中を見つめることしか出来ない。

 
 大人から殺意を感じるほどの狂気が溢れた視線を向けられるのは初めてだった。
 凜のお母さんが俺を見る目は、殺意や狂気が滲み出るほど怖いと思った。

 温厚な凜からは想像できない母親の姿だった。
 凜は母親と喧嘩をしたことがないと言っていた。あの様子だと、凜の母は日常的に怒っているのではないだろうか。道端で怒鳴り散らすなんて、驚くはずなのに、凜は至って冷静だったのだ。

 人の親を悪く言いたくはないが、凜の母親についてはどうしても嫌な言葉しかでてこない。
 とぼとぼと考えながら歩いていると、いつの間にか家に辿り着いていた。
 

「……ただいま」
「おかえりー」

 いつも通りのやる気のない声に、どこか安心感を感じた。
 
「凜ちゃんのこと、ちゃんと送ってきたの?」
「あー、うん」

 母の顔をまじまじと見つめる。頭の中に残る凜の母親と、目の前の母を比べていた。母は怒ることはあるが、きちんと俺の意見も聞こうとしてくれるし。一方的に怒鳴ったりはしない。

 何度考えても、凜の話を聞こうともしないで怒鳴り散らす凜の母が許せなくて、ふつふつと怒りの感情が込み上げる。あの時、去り行く凜を追いかける勇気もなくて。凜の母親に怒鳴られても、気迫に負けず遅くなった理由を説明する度胸もない。一番はそんな自分に怒りが湧いていた。

 何もできずに小さくなる背中を見つめることしか出来なかった。
 きっと、出来ることはあったはずなのに。

 やるせなくて悔しい気持ちを拳に込めた。
 左の心臓辺りをごつんと叩く。
 ゴツっと、鈍い音と共に痛みが広がる。広がる痛みとは関係なく、俺の心臓は正常に鼓動し続ける。
 
 俺は健康で。平凡な家庭に産まれて。
 凜の痛みを1つも分かってやれない。

 分かち合いたいと願えば願うほど、交じり合うことのない他人なのだと実感させられる。

 ――幸せの終わりは突然訪れるのだから。


 
  ♢
 

 次の日、校内で凜の姿を探すが、どんなに探し回っても見つけられない。心にモヤが広がっていく。
 昨日見た凜のお母さんの姿は普通じゃない。娘に向ける言葉や眼差しではなかった。

 凛は自分の両親をごく普通と言っていた。心配性なお母さん、お父さんは地方に単身赴任中で年に数回しか会えない。話を聞いただけではごく普通の家族だと思っていた。しかし、実際に凛に怒鳴る母親の姿を見て「私はお母さんに愛されていない」その言葉と結びついてしまうような気がした。

 俺の家族は、何かと口うるさい母に、母さんの言いなりな父、親ガチャに成功したとは思っていない。正直、ドラマに出てくるような美人でおしとやかな母、仕事が出来てカッコいい父。そんな両親を羨ましいと思ったことがある。

 だけど、凜の両親はそういうんじゃない。……なんだろう。直感だけでしかないけれど、なにか嫌な予感がする。人の家庭環境に口を出す資格はない。分かっているけど、心配でたまらないんだ。

 探し回った末にやっと凜を見かけて思わず名前を叫んだ。

「凜!」

 一度振り返って目が合ったはずなのに、慌てて視線を逸らして足早に歩く。走ることが出来ない凜の必死な抵抗だとすぐに分かった。走ることが出来ない凜に、駆け足の俺はすぐに追いついてしまう。腕を掴んで制止させた。
 
 見つけた時は気づかなかったが、まじかで見た凜の姿を見て驚いた。腕を掴んだまま言葉をかけることが出来ない。
 驚いたのは包帯が身体に巻かれていたからだ。白い陶器なような肌に、真っ白な包帯がぐるぐると巻かれている。

「凜……。探したよ!」
「……さっくん」
 
 勢いよく腕を掴んだ拍子に、腕に巻かれていた包帯がはらりと落ちた。包帯が解けた隙間から青黒いあざが現れた。凛の白く透き通った腕に不釣り合いのあざを見て、やり場のない怒りに苛立ちを感じる。
 
「凜、なんだよ……それ、腕どうしたんだよ!」

 驚きと込み上げてくる怒りの感情で高圧的な口調になってしまった。いつもと違う声に驚いたのか凜の肩がビクッと震えた。瞬時に後悔する。凜を責めてどうすんだ。俺は。
 息をゆっくり吸い込み、怒りの感情を心の奥に押し込んだ。返事をしない彼女に再度問いかける。

「それ……母親にやられたのか?」

 一秒も考えることなく出てきた言葉だった。俺の視線が腕に向けられていると気づくと、慌てて露わになった腕のあざを隠した。凜は一向に俺に視線を合わせようとはしてくれない。

「こんなことおかしいだろ? なんでこんなあざができてるんだよ」
「……転んだ」
「そんな典型的な言い訳通用しねーよ」
「本当に違うの。お母さんに叩かれたわけじゃない。本当に転んだの!」

 凜の言葉を信じたいのに、昨日の母親の姿がそれを邪魔する。どうしてもやりかねないと思ってしまうんだ。
 しかし、この想いを伝えることは出来ない。彼女の瞳に潤んだ涙が見えたから。顔を上げた凜は、唇を震えさせて泣かないように我慢してるのが分かった。責め立てるような言葉を飲み込んだ。
 
「これは私が悪いから。本当に」
「なあ、他に行く当てないのか?」
「行く当てって何?」

 今まで聞いたことがないくらい冷たい口調だった。いつもの柔らかな話し方と正反対で簡単にたじろぐ。
 
「いや、そんな親元離れてさ……」
「親元離れて、一体どこに行けばいいの? たとえどこかに行っても環境に適応できるか分からない。私の心臓は普通じゃない」

 声を震わせながらも、冷静に事実を述べている。
 俺はなんて言えばいい。
 なんて言えば凜を救えるんだ?
 
「凜を救いたいんだ」
「……」
「わかんねーけど、わかんねーけど。放っておけない。何もできないけど、助けたいんだよ」
「……ありがとう。その言葉だけで十分だよ」

 彼女の瞳が揺れていた。全部包み込んでやりたい。何も言わずに抱きしめて「大丈夫。俺がいるから」とくさい台詞を伝えたい。しかし、それが出来なくて伸ばそうとした手が止まった。

「私の心臓は、ドキドキしたら発作に繋がる」

 凜の言葉を思い出したからだ。

 俺は震える肩を抱きしめてやることが出来ない。
 凛の心臓に負担の掛かることはできないからだ。母親のところから連れ出せる財力もない。何もできない自分が憎い。大人だったら連れ出せたのか。この時ほど、大人になりたいと願ったときはなかった。

 子供だと思われたくない。高校三年生は、もう大人なようなモノだと思っていた。今わかった。俺は大人じゃない。自分の力で好きな女も助けられない。

 俺は無力だ。


 手を伸ばせば届く距離にいる。
 このまま手を引いて、どこかに消えてしまいたい。

「あのさ……先生に言った方が……」
「やめて! 昨日びっくりしたよね。お母さんは悪くないの。私の身体が普通じゃないから。心配してくれているだけで……」
「でも……」
「お母さんがいなくなったら、発作が起きた時。誰が助けてくれるの?」
「お、俺が……」
「また入院になったら、着替え持ってきてくれる? 入院費払ってくれる?」
「……」
「他人のさっくんには、出来ないことの方が多いんだよ。私にはお母さんが必要なの。お母さんにも私が必要なの」
「だからって、暴力は……」
「だから違うって! 暴力なんてされてない! もう、お終い。塾行ってないこともバレちゃったし、もう恋とかどうでもいいや。さっくん、バイバイ!」

 初めてだった。凜が声を荒げて叫ぶのは。ここまで感情を表に出す彼女を見るのも初めてだった。
 困惑する俺に視線を向けて、今にも崩れ落ちそうな笑顔を貼り付けた。そして、もう一度言い放つ。

「さっくん、私のわがままに付き合ってくれてありがとう。……ばいばい」

 それは紛れもなく別れの合図だと分かった。
 繋ぎ留めたい、失いたくないのに。その場から離れていく細い腕を繋ぎとめることができない。
 震える肩を抱きしめることは出来なかった。
 自分の不甲斐なさを痛切に感じている。悔しさと助けられないもどかしさが交差して、胸の中がぐちゃぐちゃだった。

 なんでだよ。
 あんなに楽しそうに笑っていたじゃんか。

 なんで、無理やり笑顔の仮面を貼り付けてんだよ。
 
 凜が独りで抱え込んでいる闇があるなら、一緒に背負いたいと思うのに。背負わせてもくれなかった。
 唇を震わせて拒否する彼女を、無理やり抱きしめる勇気もない。
 
 行き場のないこの怒りは自分に向けられたものだ。
 俺は無力だ。俺は別れを告げられたんだ。

 ――始まってもいない恋なのに。


 怒りをぎゅっと拳に込めて、自分の太ももを叩いた。

 痛い。だけど、凜の痛みはこんなものじゃない。
 俺の何十倍も痛いんだ。

 ぶつけようのない怒りは、何度叩いても、消えてはくれなかった。