そういう日に限って、嘘みたいに空は晴れやかだった。僕と理央は「なんだかんだ」理由をつけた洋に二人きりにされて、一緒に教室のドアを出た。
 これまでもC組の方が終わりが早かった時、このドアを二人で潜ったような気がするけど、そんなことは遠い昔のことだ。
 まるで今、初めてのような気分。
 背の低い理央を先に出して、後ろからついて行く。

 なんとなく視線を感じて振り向くと片品がこっちを見て親指を立てた。
 片品的には僕がこの件でがんばることをどう思っているんだろう? わかっているのは女の子は複雑だってことだ。

 一応、しばらく一緒に帰れないと告げた。別に約束をしてたわけではないけど。
 片品はなにも聞かなかった。
 そして「わかったよ」と、ただそれだけ言った。
 なんですぐにわかってしまうのか、そこになにか魔法があるのかと訝しむ程の理解の早さだった。

 理央の背中から少しズレた後ろを歩く。なんでもない顔をして。
 C組の前を通る時はさすがに緊張した。
 僕はまだなにも喋ってない。
 理央もまだなにも喋ってない。
 それでも僕たちは緊張を強いられた。

 C組はまだ終わってないようで、洋は前から二番目の席で、頬杖をついて難しい顔をしていた。
 理央もその顔を見たのかもしれない。
 見間違いでなければ、すっと顔を伏せた。
 二人は本当にすれ違っているのかもしれない。
 それは、そこに誤解があるからなのか、それとも本当に気持ちが離れてしまったからなのか、当事者でない僕にはわからなかった。

 黙ったまま歩みを進めて同じ下駄箱からそれぞれの靴を取り出す。片品がいつもキレイに拭いている、例の下駄箱だ。
 理央は黒字にNの文字がパステルカラーのピンクになっている、かわいいニューバランスをそっと三和土に下ろした。女の子らしいその靴は大切に扱われているようだ。
 僕のニューバランスは洋に会うために踵を潰してしまった。
 なんだか僕たちは似ているようでちぐはぐだった。



 陽光の下に出ると、理央が重い口を開いた。
「久しぶりだね、一緒に帰るの」
「そうだね。まぁ、本来僕はおまけだから」
「おまけ? なんの?」
「洋の」
 ここで理央は柔らかい微笑みを見せた。

「洋くんと付き合うと奏くんがおまけで付いてくるの? 面白い」
「なにがそんなに面白いの? そんなおまけ要らなくない? ほら、ガチャでハズレが出た時みたいに」
「······そんなことないよ? 寧ろ、お得感、ある」
 いけないことを口にしたように、お互いまた口を噤む。平行に歩きながら、同じように下を向いて足元を見ていた。

「······お得感はないだろう」
「なんでそう思うの?」
「いや、だって理央は洋がいればいいんじゃない? 二人の間に入るのは邪魔者でしかないよ」
 僕はきっと断罪されたかったのだと思う。そしてあわよくば、赦されたかったのだと。

 理央はなかなか口を開かなかった。
 日差しばかりが強く、真夏のような熱を失った太陽の光はなぜか首筋に汗をかかせた。下を向いたまま歩きすぎたのかもしれない。

 校門を出て、自転車と徒歩通学の生徒が行き交う中、僕たちはゆっくり短い坂道を下った。
 途中、自転車で通り過ぎる友だちに声をかけられる。「じゃあな」と言ったその友だちは明らかに不思議な顔をして、もう一度振り向いた。
 例のバスケで仲良くなったやつだ。
 つまり、理央と洋の関係も知ってるということだ。
 そこに僕が加わるのは、或いは洋に取って代わるのは、それは不可解なことに見えただろう。僕だってそう思うくらいだから。

 転ばないように足元を見ながら、一歩一歩、理央は足を動かす。その独特なリズムは雨だれのように、一定のようでいて整ってはいなかった。
 足取りはやがて軽くなり、坂道を下りきる頃にはまるで雨靴を履いた子供のような笑顔を見せた。

 胸がドキッとする。
 最初から組まれていたシステムのように。
 赤くなった顔を見られたくなくて、僕は反対側を向いた。汗をかく。

「奏くん」
「······なに?」
 理央はくるりと回って体ごとこっちを向いた。
「聞きたいことがあるの。三つ」
「うん······」
 それは聞かれたらダメなやつなんじゃないかという予感が胸をよぎる。
 なにも聞かずにただ、笑って歩いてくれればいい。それが洋に対してもフェアな気がした。

 人差し指がすっと目の前に立てられ、微笑む理央の目は真剣だった。
 胸が痛い。
 なにも聞かれたくない。
 こういうのは望んでない。
 嫌ならいやとはっきり言ってくれればいい。

「一つ目。奏くんは聡子ちゃんと付き合ってますか?」
「いや」
 片品の、外見とは違って飾るところのない笑顔が不意に胸を突く。白いシュシュがふと頭に浮かぶ。
 理央は胸に手を当てて、へへっと笑った。
「聡子ちゃんはとっても大切な友だちだから、傷付けたくないんだ」
「ああ。片品も理央は友だちだって言ってたよ」
「そっかぁ。良かった」

 理央の足取りは更に軽くなり、かえって躓いたりするんじゃないかと不安になる。そもそも後ろ向きに歩くなんて器用なことができると思わなかった。
「じゃあ二つ目の質問! 奏くんはどうして最近、わたしを無視してたの?」
「それは······」
「無理ないね、友だちの彼女だもん、わたし······」
 今度は少し寂しそうに、へへっと笑った。

 またくるりと回って今度は背中を見せた。
 白いうなじが髪が揺れる度にちらりと見える。
 僕はその質問は言わばパスした。答えらしいことはなにも言わなかった。
 弁解さえしなかった。

「じゃあね、じゃあ、三つ目の、最後の質問」
 背中の向こうから聞こえてくる声は、なにかに怯えているような、少し震えているような、それでいて決意を感じさせる透き通る声だった。
 最後の質問。
 それはやはりあれだろうか?
 洋と理央の間に、決定的ななにかをもたらすような? いや、それ違うな。それは洋に聞くよ。
 僕が聞かれるのは――なんだ?
 僕と二人きりにさせる洋の気持ち?

「ちゃんと答えてね。なんで······」
 なんで?
 混乱してくる。いろんな選択肢が頭を掠める。
「なんであの日、わたしにキス······したの?」
 ああ、そのことなんだ。
 やっぱりなかったことにはならなかったんだ。あの日、話し合ったことで消えてくれたりはしなかったんだ。
 理央の中にもしっかり残っちゃったんだ。

 別に油断してたわけじゃない。そういうことも、万が一あるかな、とは思っていた。
 でも理央はやっぱり本人が言った通り、洋の彼女のまま、僕のちっぽけなアクションひとつじゃ、なにも変えられないのかと思っていた。
 だけど今、ツケを払う時がやって来た。
 僕はもしその時が来たら、できるだけ誠実にすべてを伝えようと思っていた。
 ――例え傷ついても。例え傷つけても。

 理央はもうおどけてはいなかった。
 僕は「少し歩こうか」と言った。
 学校近くの神社の脇に、昔ながらの小さな公園があった。洋と行ったところとは真逆。長いこと手入れされてない様子だ。

 僕たちはペンキのほとんど剥げてしまった木製のベンチに腰を下ろした。その木陰のベンチには穏やかな空気が漂っていた。
 果たして僕は、この場に許されているのかわからなくなるくらい、空気が清い。
 隣には理央がいる。これ以上ないってくらい近くに。手を伸ばせばすぐ触れられるところに。

 理央はまだ質問の答えを待っていた。
 根気よく、じっと耐えて。
 僕はその答えを与えないわけにはいかないんだ。
 心の隅に押しやられてる、ほんのちょっとの勇気を引きずり出そうと思う。いっそ一息に。
 ······一瞬、洋を思い出す。真っ暗な公園で弁当を食べる洋を。
 その心の奥にある、誰にも見せない孤独を。

「本当にごめん。理央の気持ちを無視して悪かったと思ってる。許されなくても仕方ないことをした。ごめん!」
 勢い込んでそう言った。
 誠心誠意、謝らなくちゃいけないと思った。
 反面、唇と唇が重なった時に感じた微弱な電流のようななにかを、思い出した。

「······奏くん、『ごめん』じゃ奏くんの本心がわからないよ。謝ってくれるのは、その、うれしいとは思うけど。でもそればかりが何度も聞きたいわけじゃないの。わたしは『どうして』のところが知りたいの。つまり······」
「つまり······」
 手のひらにじっとり汗をかく。
 とっくに姿を消した蝉の声が重ね重ね聴こえてくるような錯覚に陥る。

 だから、つまり、その。
 やっぱりなかなか言葉にならない。
 頭の中でぐるぐる考えるけど、思考は同じところをさまよってどこにも着地しそうにない。

「つまり······」
 僕は喉の奥の塊を飲み込んだ。
「僕は理央が好きなんだ······」

 ああ、やっぱり蝉の声がわんわん耳の奥に反響してる。夏の落とし物。書きかけの読書感想文。
 そういう処理しきれないものの中に、その答えは仕舞われていた。

「奏くん······」
 ぽたっと、大粒の雫が理央のスカートに落ちた。
 雨の降り始めのように僕は驚いて、とにかく理央に傘を差し出さないと、とそう思った。
 要するに混乱した。
 どうしたらいいのか、洋なら知ってるのかもしれない。或いは片品なら。

 その大粒の雫は、下を向いた理央の髪に隠されてどこから溢れているのか見えなかった。
 おろおろした僕は「理央?」と声をかけるだけでなにもできずにいる。
 次第に理央の細い肩は震え出し、彼女は小さく嗚咽を漏らし始めた。
 ひっく、ひっくというその声は僕の中の蝉の声と奇妙に同居して、過ぎ去ってしまった夏を彷彿させる。
 夏は二度と帰ってこないというのに――。

「わたしが悪いの、多分」
 なんで、と思いながらただ戸惑う自分。
「だって本当はずっと憧れてたの。ずっと好きだったの。遠目でも、たまにしか見られなくても、ずっと」
「それって」
「聡子ちゃんに聞いてない? わたしたちの中で、中学の違う『藤沢くん』がどんなに特別な存在だったかってこと。わたしは本当に『藤沢くん』が好きだったの」

 にわかに信じられることじゃなかった。

 だって僕はモテる方じゃなかったし、地味で、できることと言えばバスケくらいで、そのバスケさえスタメン入りできなかったのに。
 片品に確かにそんな話は聞いたけど、半分くらいは盛ってるんだろうと決めつけてた。
 だって有り得ないと思うだろう? 自分が特別な立場に立つなんてこと。

 理央はまだしゃくりあげていた。
 涙で顔がぐちゃぐちゃだ。
 僕はキレイなハンカチを持ってるほどマメな男ではなかったので、カバンの中から少しよれたポケットティッシュを出して渡した。
 一瞬、理央は顔を上げて僕を見た。
 恨んでるだろうか――? その視線から読み取ることはできない。

「本当は······思ってたの。壁を乗り越えて、奏くんのもっと近くに、行きたいって······」
「だったらどうして?」
「だって! だって言えないじゃない? わたしみたいにそれこそ地味で、コミュ障で、陰キャなのがどうやったら奏くんみたいな人に言えるの? 一年の時、同じクラスになって、もうそれだけでもいいってくらいうれしかったの。なのにどうして言えるの? 『好きだ』なんて······おこがましいよ」

 目の前にキラキラしたなにかが横切って行ったように見えた。
 それは虹なのか、それとも妖精のようななにかなのか、或いは単なる錯覚なのか、正直なところどうでもよかった。
 ただ本当にキラキラしてたんだ。

 かわいそうなのは、土砂降りの中ずぶ濡れになった子猫のような理央だった。


 ごめん、と小さな声で呟いて、ポケットティッシュで理央は顔を拭いた。
 それでもまだ涙が止まらないようで、しばらく目からティッシュを離せないでいた。
 なにも言えなかった。
 そんなんじゃいけないのはわかってる。
 でも、なんにも。
 僕は理央のすすり泣く声を聞きながら、一人、考えていた。

 僕の好きな女の子が、僕を好きでいてくれている。
 こんなにしあわせなことはない。
 ······ないはずだった。
 なぜか頭の中に片品が出てきて、そんな僕に悲しげに微笑んだ。同情だろうか? 多分、そんな感じ。

 理央の気持ちを聞いたところで、僕が気持ちを伝えたところで、なんの進展もない。
 そこには越えなければならない壁があって、その壁を壊したいとは到底僕には思えなかった。
 それを壊すくらいなら、僕は自分の想いだけを抱えて生きていってもいいんじゃないかと思った。

 そうだろう?
 かけがいのないものは人それぞれ違う。
 僕が失いたくないものリストのトップいくつかに、あいつがいた。······悲しむ顔は見たくない。
 理央はまだ肩を震わせて泣いている。
 こういう時、どうしてあげたらいいのか、そういう知恵を僕は持たない。
 なにもせず、木偶の坊のようにただベンチに座っていた。
 相変わらず、あるはずのない蝉時雨が耳の奥で僕の心を揺する。

 なにを期待していたんだろう、僕は。
 理央が僕を好きだったら、両想いだったらハッピーエンドになると、そう思っていたんだろうか?
 おめでたすぎるだろう⋯⋯。

「このことは、洋くんには言わないでおいて」
 びっくりして言葉を失った。
「知られたくないの、本当の気持ち。でもね、洋くんが嫌いなわけじゃないんだよ、本当に。洋くんの好きなところ、いっぱいある。毎日少しずつ知っていく。だから、これからも付き合ってくつもり。
 洋くんがどういうつもりで奏くんとわたしを二人きりにしたのか、わかるようでわからないけど、洋くんの考える『最悪の結果』にはしないで。
 奏くん、お願い。我儘なのはわかってるけど」

 理央にはわかるその答えは僕には見つけられなかった。
 洋を傷付けたくないという気持ちは僕にもあるけど、だからと言って嘘をつき続けるのはどうなのか、それは良くないことのようにしか思えなかった。
 洋の知りたいのはそういうことじゃない、そう伝えたかった。

 背筋をすっと伸ばして、泣き止んだ理央は前を見ていた。まるでなにかの教本に出ている『座り方の例』のようだ。
 彼女は泣くのをやめて、多分、洋の彼女に戻った。
 その証拠に立ち上がって荷物を持つと「じゃあね」と言って立ち去っていった。しっかりした歩みだった。
 僕は追いかけなかった。手さえ伸ばさなかった······。



 その晩、ベッドでいつもと変わらない天井を見るではなく見ていると、乾いた空気の中にチリンとよく知った音が今日も鳴った。
 なんていうかせっかちなやつだよな、と思ってニューバランスを避けて出しっぱなしだった夏物のサンダルを履く。
 それは間抜けな姿だったけど、今はこれが一番お似合いのような気がした。

「よお」
「おう」
 男同士っていうのはどうも愛想に欠ける。あっても仕方ないけど。お互いの顔を、まるで久しぶりに会った人のように見合う。
 先に目を逸らしたのは洋の方だった。
 引きずる自転車のスポークの音が夜の隙間にカラカラ回る。なにも言わずに歩き出す。

「俺さぁ、フラれてもいいかなって思えるようになってきた」
「……なんでだよ」
「いや、だってさ、好きな子の一番じゃないなんて厳しくない? 俺には厳しい気がする。そんなんで毎日顔を合わせて、どんな顔しろって言うんだよ」
 まさかそんなことを言い出すとは思わなかった。
 想定外。
 なんて言っていいのか、わからなくなる。言葉はいつだって迷路の中だ。
 洋はなにがあっても理央の手を離さないと思っていた。

 カラカラ……という音が言葉の続きを綴る。
 僕は空っぽになったような気がして、無意識に足を動かしていた。
 どうしたらいいんだろう? 一番いい選択は?
 理央の決意を無駄にしないために、どうしたらいいんだろう?
 こんな時、隣に片品がいたらなんて言うんだろう? やっぱり悲しそうな微笑みを浮かべるんだろうか?
 いや、そんなことはしないか。彼女は僕に同情しない。

「ごめん、洋。僕がフラれたから。殴ってもいいよ」

 すらすらと嘘は口から滑り落ちた。
 銀色に光る滑り台より余程、優秀だった。
 僕の口がこんな風に上手く動くとは思ったことがなかった。
 洋は黙ったまま、雄弁なのは今、自転車だけだ。
 闇に吸い込まれるようにカラカラと回り続ける。
 考えている。僕が理央を好きだと、思ったことはなかったんだろうか?
 キュッと小さくブレーキ音が鳴った。
 公園前だった。

 洋は自転車のスタンドを立てると、僕の方を向いた。そして腕を振り上げ、そのまま……ぴたりと僕の顔の前で拳を止めた。
 防ごうか、それとも殴られた方がいいのか、焦った。でもそれ以上、腕は伸びてこなかった。
「自分より身長あるやつ、殴る気しねぇ」
 洋はそのまま自販機に向かうと、コーラを二本買ってきた。そして一本を僕に渡した。

「財布持ってきてないよ」
「別にいいよ。失恋したバカな男を励ましてやろうっていう、なんつーかやさしさってやつ?」
「いらんわ、そんなやさしさ」
 いいからもらっとけ、と洋は白い光の中でボトルをプシュッと開けた。続けて僕もキャップを捻る。同じ音がして、蓋が開いた。
 どちらから言うまでもなく、あの極彩色の真新しいベンチに腰を下ろす。

 なぜかこんな夜にはコーラが似合う気がした。
 温かいコーヒーより。例え肌寒くても。
 コーラは容赦なく冷えていた。
 口に含むと予想通り、強い炭酸で、一息に飲むのは少し苦しかった。
 いつからだろう? 二人でコーラを飲めるようになったのは。炭酸飲料を飲めるようなったのは。
 そう遠い昔のことではなかった気もするし、反してごく最近のことのようにも思えた。
 洋はすごい勢いでコーラを飲み込んで、当たり前のようにゲップした。そうしてボトルを脇に置いて、僕の方を見た。

「で、失恋て理央の方はなんて?」
「これからも洋の彼女でいるって言われたよ」
 僕はブツブツと告げた。
 ペットボトルの内側で細かな泡が弾ける。
 これは嘘じゃない、本当のことだ。
 そっか、と少しホッとしたような、気の抜けた声が聞こえた。
 相変わらず星は見えなかった。

「いつから理央のこと、好きだったんだよ」
「あー、お前がかわいい、かわいいって言うから意識するようになって」
「なって?」
「これは恋かなって」
「お前は少女マンガの読みすぎだろう!」
 洋が肘で小突いてきた。
 それはないよ。一生懸命作ってるんだからさ。僕の妄想力なんてその程度のものなんだ。

 でもそれじゃあ本当のところ、いつから、どんな風に好きになったのかはいくら考えてもわからない。わかっているのは、この気持ちが痛いくらい本物だってこと。

 はは、と苦笑いして、まだ半分以上残ってるボトルを体の真正面で両手で握りしめた。
「上手く言えないけど、かわいいなって思ってたんだ。そういうのって黙ってても伝わるのかな? 伝わらなくて困る話はよく聞くけど。
 要するに今回のケースは、僕が理央を好きだというのがバレてしまって、いろいろギクシャクしてたけど、洋が二人きりにしてくれたお陰でめでたく失恋したってことだよ。
 ――報告はこれくらいでいい?」

 残ってたコーラを持ち上げると、洋は喉を鳴らしてまたそれを飲んだ。まるでヤケ酒だ。
 おい、と声をかけようとしたところで「あのさ」と話を切り出される。
「あのさ、理央が中学の時、バスケ部だったって知ってる?」
「······片品から」
「ああそうか、片品さんからか」

 炭酸がキツかったせいかもしれない。
 胸の奥が圧迫されて苦しい。きゅうっとなるのは洋を欺いているからじゃない。
 洋は見えない星々を見上げていた。彼にだけ見える星がもしかしたらあるのかもしれない。
 本当は僕にもその星が見えるはずなのに。

「お前! なに泣いてんの!?」
「······失恋したからじゃないかな」
「泣くか、マジで? お前の泣くの見たの、小学校以来だわ」
「いつ泣いた?」
「えー、ああ、あれじゃね? バスケの試合でスリーポイント外した時······って、小学生でスリーポイント、無理だろ」

 うるせぇな、と言いながら服の袖で涙を拭った。
 なんとも言えない涙だった。
 それは本当に失恋の涙だったのか不明だった。
 でも心が引き裂かれたような痛みが僕を襲った。
 スリーポイントの入れられない僕、それはまったく普通の、ありふれた人間でしかなくて、誰からも特に評価されない存在でしかなかった。

 僕は誰かの『誰か』になりたかったのかもしれない。
 でも皆、同じじゃないだろうか?
 誰かの『誰か』になりたくて、自ら縛られにいく。緩い縛りが欲しいのかもしれない。
 無重力空間では、僕らは縛られないと無限遠まで流されてしまうから。

「まぁ、泣くなよ。お前がそんな風に思ってるなんて知らなかったよ。俺はなにも知らなかったふりしてるからさ、泣くな。いや、泣け。泣けば悲しくなくなる」
 泣きながら僕は笑った。

 洋は僕たちの間にあった紆余曲折を知らない。
 でもそれでいい。洋が笑ってくれてれば、僕も、そして多分、理央も笑っていられる。
 でなければ、僕たちが二人の間に作った高い壁の意味がなくなってしまう。
 越えようにも、爪さえ立たない高い壁。
 それが理央と僕の結論だ。

 思えば初めての失恋だった。
 洋みたいに明るくてモテたりしないから告られたこともないし、自分から告る勇気もなかった。
 今までは失恋しても心の中で勝手にしょんぼりしてるだけだったから、悲しみはすぐに拡散されていった。
 相手から拒絶されるのは、本当の痛みが伴うんだなぁと、コーラを一口飲んだ。
 じわーっと寒さが身に染みて、長居するのは勘弁だなと思い始める。

 ずっと思いつく限り、慰め続けられるのも性に合わないし、それより僕は見飽きた天井の下で、明かりを消して、僕の見えない星を見つめていたかった。
 僕の心の中にだけ住んでいたかわいい小動物のような理央。僕だけがかわいいって思うわけじゃないんだよなぁ。
 そして、恋は早い者勝ちだということを、学んだ。
 速い、歩く速度が。
 一歩が普通の女の子の歩幅じゃない。
 彼女は怖い顔をして、僕の隣を真っ直ぐに歩いていく。
「ねぇ、速くない? 怒ってるから?」
「怒ってなんかないよ。これで晴れて理央のことを忘れてくれるなら万々歳だわ。だからわたしは次の女に藤沢くんを盗られないように、防御することにしたの」
「······そんなもの必要なくないか?」
「あるの!」
 絶対、怒ってる。
 発散されないなにかが辺りに漂っていた。
 そんなに急がなくても、彼女には誰も近づきそうになかった。

「あのさ······」
「なに?」
 素早く振り返った彼女の細い髪が円を描く。
 白い肌とのコントラストが美しい。
「今更なんだけど、友だちなんだし付き合いもそこそこ長くなってきたから名前で呼んでいいよ」

 廊下の真ん中で僕たちは見つめ合う形になった。彼女の瞳はいつも以上に情熱的だった。

「奏」
「うん」
「敬称略でいいの?」
「別に。洋も同じだし」
 そう、と彼女は少し考え込んだ。
 廊下の真ん中だ。通り過ぎる生徒たちがチラチラ見ていく。
 なんと言っても彼女は美貌の持ち主だし。皆、彼女の外側を見て、内側を知りたいと思ってる。
 僕は知ってる。彼女はとても気のいいやさしい子だ。

「聡子」
「え? えっと、聡子ちゃんでいい?」
「今更『ちゃん』はないんじゃないの? 苗字だって呼び捨てだったのに。――それに、理央は呼び捨てだった」
「あー。そうだね、仲のいい友だちだから呼び捨てだよな。じゃあ、聡子、これからもよろしく」
 ぺこっと軽く形だけ頭を下げると、元バスケ部で背の高い彼女は、学年でもトップクラスに入る背の高い僕の頭を撫でた。
 ぽん、としたようにも感じたけど、あれは撫ぜたと言えると思う。
 彼女は時として慈悲深く非常に母性的だった。

「ここ、この先アンダーライン引いて。わたし、キスしたなんて知らなかったなぁ」
 聡子はカフェテーブルの向かいの席で、いつもの上品さをすべて投げ打ったかのようにバーンと座っていた。
 頼んだコーヒーはまだ届いてなかった。

「······いや、普通、他人には話さないことじゃないかな?」
「他人じゃない、友だち」
「うん、友だち」
 店員がタイミングよく現れて、彼女のソフトクリームたっぷりのクリームソーダをテーブルに置いた。
 彼女はコースターの代わりにペーパーナプキンを敷いた。水がこぼれるから嫌なの、と以前言っていた。
 たしかに今日もいい感じに結露していた。
 大きな口を開けると、パクッと真っ赤なチェリーを放り込んだ。

 なんだか叱られているような気分になる。
 でも一体なにを叱られているんだろう?
 キスしたことを話してなかったから?
 理央に告白したから? それともされたから?
 でなければ······。

「ねぇ、そんなにオドオドしないでよ。別になにも怒ってないんだから。第一まだ友だちというファーストステージにいるわたしに、藤······奏になにか言う権利があると思う!?
 残念だけどまだわたしにはそんな切り札的なものはないの。どちらかと言うとアドバンテージを握ってるのはそっちでしょう?」
「なんで僕?」
 彼女は僕を睨むように見ながら、チェリーの種を口から取り出した。
 ちらりと見えた舌先は真っ赤だった。

「忘れたの? わたしは奏に片想いなんだよ、今も」
 真っ赤なのは舌先だけじゃなくなった。
 さっきまでバーンと座っていたのに、今は小さくなって細長いスプーンでソフトクリームを食べている。
 元々なにもつけなくても真っ赤な唇に、そっとクリームが触れる。
 一度、どうしても不思議に思って聞いたことがある。唇にはなにか塗ってるのって。彼女は僕を振り返って斜めの視線で「なにも」と答えた。

 僕は多分、最初に声をかけられたあの日から、聡子に対して好意的だった。
「付き合って」と言われたのはいきなりだと思って処理落ちしたけど、彼女の本質的なものに関してはどこにも嫌悪感はなかった。
 でなければこんなに一緒にいないだろう。
 竹岡を始めとするバスケグループのやつらには定期的に「付き合えよ」と他人事なのにやや高圧的に言われてたけど、それはちょっと違うと頭のどこかのチャンネルが言っていた。

 ソフトクリームは順調に口に運ばれて、次第に底が見えそうになる。と、そこで彼女は緑色のソーダ水と残ったクリームをぐちゃぐちゃにかき混ぜた。
「嫌いなの。クリームの底が凍っちゃうの。じゃりってするのよ。言っておくけどほかの男の子の前では絶対やらないから」
 ぽかんとして、事の成り行きを見ていた。
 透き通ったソーダ水は、今は濁ってメロンシェイクのようだ。

「ああもう! 奏も嫌だって言うなら、もう奏の前ではやらない」
「そんなこと言ってない」
「目が呆れてるもん」
「呆れてないよ。そういうところがあってもいいと思う。聡子は完璧主義に見えるから、安心するよ」
 ストローをグラスに刺そうとしていた聡子の手が止まった。不思議に思って声をかける。

「ヤバい、ヤバい、ヤバい。わたしはまだ友だちでいるって決めてるのに、天然のたらしがここにいる!」
 笑うところじゃないかもしれないけど声に出して笑ってしまった。
 それは僕を指しているのかもしれないけど、そんなに何人もの女の子を虜にできるなら、恋の悩みなんて生まれないだろう。

「あの子、バカね。ていうか、勇気がない。奏みたいな男を手放すなんてさ。わたしなら誰になにを言われてもしがみついて離さないよ」
 なんだかうれしかった。
 聡子は確かに口が悪いところがあるけど、それを補って余りあるものがあった。
 僕は汗をかかないコーヒーカップを手に、まだ熱いコーヒーに口を付けた。和やかな気持ちになる。

「愚痴っても泣いてもいいんだよって、言うつもりだった。でも考えが変わった。今日はなにも言わないで。わたしだって傷心みたいなの。なにも言わないで、いつもみたいにしてて」
 彼女の瞳の中にいつも見える光が、今日は曇って見えた。

 そうだ、僕は少なからず彼女を傷付けた。
 失恋の苦しみは嫌ってほど履修したばかりなのに。
 女の子はいつもなんでも知ってる。僕たちより斜め上を歩く。
 でも忘れたらいけない。彼女たちは傷つきやすく、か弱いんだってことを。
 日差しは少しずつやさしく傾いていた。
 僕から見える彼女も輪郭がやさしくなって、普通の女の子のように見えた。
 普通の、いち女子高生に見えた。
 窓の外をなにも言わずに見ていた彼女は不意にこっちを向いた。
 見ていたことがバレてしまうと焦る。
 もっとも、彼女に見惚れない男は少ないんじゃないかと思うけど。僕もその中の一人だ。

「奏」
「どうしたの? そろそろ帰る?」
 僕は視線を彼女のクリームソーダに向けた。まるで砂浜に残った波の泡のようなものが内側に張り付いたグラスには、まだ氷が幾つも残っていた。
 はぁーっと、また一段と深いため息を彼女は吐いた。まるでこの世の終わりのようだった。

 彼女はまたメニュー表に手を伸ばし、パラパラとめくり始めた。
 そうしてそれを僕に押しやって「奢るからなにか頼んで」と言った。僕は「これからは奢りはなしって決めたじゃないか」と言った。
 聡子は角の丸くなった氷を見つめて腕組みをした。
 凝視された氷はまた凍ってしまうんじゃないかと思うほど、その視線は強かった。

「選んで。ポテトかチキン? ドリンクはまたコーヒーでいいの? コーラとかにしておく?」
「どうしたの、一体。僕はもうお腹いっぱいだし」
「男の子はたくさん食べた方がいい男になるってお父さんが言ってたから」
 どこのお父さんだよ、と思いながらテキパキと彼女の注文する姿を見ていた。
 僕のドリンクは今度はコーラになっていて、先日のことを思うと苦笑いするしかなかった。

「急にどうしたの?」
 彼女はテーブルに両肘をつき、自分の顔を手で支えるような姿勢で僕を真っ直ぐ見た。
 聡子がそういう顔をする時、僕はいつも審判されているような気分になった。
 善なのか、それとも悪なのか、情状酌量の余地があるのか、彼女の瞳には正義の女神が宿っているように思えた。

「受けたわよ、相談。ほんとはね」
 唖然としてなにも言えなかった。
 現在の理央と聡子の関係で、僕たちの件についての相談が成り立つとは思わなかったからだ。
 理央がなにを言ったのか、それを聞いた聡子がどう思ったのか、まるで想像がつかなかった。

「わたしだって驚いたよ。だってわたしはクラスの中でほぼ奏の彼女確定の位置取りなのに」
 いやそれは、と思ったけど今重要なのはそこじゃない。
「まぁちょっと待ってみようよ」
 ほとんどヤケになったように、聡子は皮付きのフライドポテトとチキンナゲットを交互に口に運んだ。そして僕にもそれを勧めた。

 そんな風に無理に時計の針を早回しするように時間を無駄に過ごし、二十分くらい経った時、ドアにかけてあった金属製のドアベルが鳴った。
 カランカランという、少し憂鬱そうなその鐘の音に続いて仲の良さそうなカップルが入ってきた。
 手を繋いで、席を探していた。

「理央!」
 腰を少し浮かせて軽く手を挙げると、聡子はそう呼んだ。
 理央はこっちを見て安心したことがわかる微笑みを漏らした。
 隣にいた洋はこっちに気づいて驚いた顔をすると「なんだよ、先に言えよ」と照れた顔をしたけど、二人の繋いだ手が離れることはなかった。

 聡子は自分の飲み物を――ホットのカプチーノをこちら側に回し、僕を奥に押しやりさっきまでの彼女とは思えないほど可憐に座った。
 それに合わせるかのように、洋は座ろうとしたけどちょっと考えた顔をしてから理央を奥に座らせた。

「三枝くんて気が利く。奏はそういうのちっとも。奥に座るのはやっぱり女の子だよね」
「わかる、わかる。でも悪いやつじゃないんだよ。なんつーか、気が回らない、あ、同じことか」
 ははは、ふふふ、と二人は笑っていた。

 なんなんだよ、と思いつつ、理央と目が合う。さっと理央が俯く。傷つく。もう顔も見たくないのかな?
 そりゃそうか。振った相手はもう要らない。目の内に入らなくていいか。
 僕はコーラを一気に飲んで大いにむせた。
「もう! バカなんだから」と叱られながら、聡子に背中をさすってもらう。

 僕を笑う絶好のポイントだったのに、理央が「大丈夫?」と真面目顔で聞いただけで、洋は黙って濡れたペラペラの紙のおしぼりで手を拭いた。
 聡子がメニュー表を二人に回す。
 相変わらず聡子は手際がいい。
 僕の咳が止まる頃、理央が「なににしようか?」と洋を促して、洋は「甘い物食べたい」とメニューを自分の方に引き、パラパラとめくった。ちょっと横暴じゃないかと思って、僕は少しムッとした。

 だからってなにもできない。
 ただ見てるだけだ。

 聡子はなんでもない顔をして、二人にシーズン限定メニューをお勧めしながら、シートの上で僕の、彼女のものとは違う無骨な手をぎゅっと握った。
 びっくりして感電した猫のように一瞬飛び上がりそうになった。
 言うまでもなく僕はその手の経験が少なかった。
 しかも彼女はそっと体を寄せてきて「ごめんね」とこそっと囁いた。
「ごめんね」と囁いたその声はくすぐったいほど小さく、彼女は不安そうな顔をしていた。
 それに対して「大丈夫だよ」と笑える度量は僕にはなかった。
 どんなサプライズがやって来たらこんなことになるのか、とりあえず最悪だ。もう謝ったじゃないか、理央にも、洋にも。
 それともまだ粛清が必要なんだろうかと僕は疑って考えた。

 ほかの皆が楽しそうでも、僕はちっともこの状況を楽しめなかった。
 聡子が握ったままだった指を、僕はするりと抜き取った。彼女の滑らかな指はどこにも引っかかることなく僕の指を逃がしてくれた。
 でもその手の持ち主は焦った顔をして僕を見た。

 とりあえずメニューを、と聡子がテキパキ二人に進める。「どれにしようか?」と理央が純粋な好奇心でメニュー表を開くと「甘いものがいい」と洋は乱暴にページをめくった。

 いつもあんなに横暴だったか?
 そんなことはない。いつだって洋は理央に弱くて、とにかくやさしくしてきた。
 いつもと違う洋の態度に僕は緊張した。
 なのに皆は何事もなかったかのように話を進めていた。
 理央が「食べ切れるかな」と中の一つを指さすと、洋は「半分こにすれば?」と理央の顔を覗き込んで言った。理央はほんのり赤くなって、じゃあそれで、と答えた。

 いつもしているような、なんでもない学校生活についての話が続いた。
 昨日の英語のミニテスト、何組の誰と誰が別れたらしいよ、外部模試の結果はヤバい、コンビニの新しいスイーツ食べてないんだよまだ。
 僕は薄まって水になったコーラを恨めしく思った。こういう時こそコーヒーをちびちび飲むふりをすべきなのに。

 場は一見、和やかなようで緊張している。
 多分、僕のせいだ。
 普段からほとんど喋らない僕だけど、やっぱり無言だと皆も都合が悪いらしい。
 だけどなにに合わせて話せばいいのかわからない。話のテーマも、この待ち合わせの目的も、僕にはわからないことだらけだった。

 その時、向かいに座った理央が僕の目を下から覗き込むように見た。
 すっかり気を抜いていた僕は、驚いて体が反り返るところだった。頬が熱くなるのがわかる。
 ここに来てまだ理央を好きらしい僕は「バカだな」と思った。本当なら有り得ない。まだ好きなんて有り得ないだろう。
 理央はいつも通り真っ黒な瞳をくりっとさせて「奏くん」とまろやかに僕の名を呼んだ。
 本当にバカげたことにドキドキが止まらなかった。

 ダメだ、ダメだ、ダメだ。
 嫌いになんてなれない――!

 改めて理央の目をじっくり見ると、彼女は問いかけるような瞳をしていた。
 なにを言いたいのか汲み取ろうと試みる。
 理央が僕に送ろうとしている信号を、僕は間違えずに受け取ろうと思った。
 優秀なキャッチャーみたいに。
 ······ところが健闘虚しく、ボールはキャッチャーミットからこぼれ落ちてストライクだと思ったその球はファウルボールになった。

「話し合ったんだけど」
 身を乗り出したまま理央が話し始めると、続きを洋が話す。
「今まで俺たちと奏が三人でいたみたいに、そこに片品さんが加わってもいいだろう? な?」
『今までとなにひとつ変わらない』というラッピングされたその言葉にどうリアクションしたらいいのか困惑する。
 そもそも僕に決定権があるの?

「奏が嫌だったらいいの、断って。ほんとに。無理にってわけじゃないから······」
 いつもは強気な聡子が俯きがちにしょぼしょぼ話した。言葉じりがすぼんで消え入る。
「どうして?」
「わたしが言ったの。奏くんと聡子ちゃんも仲良くなったし、これから四人で仲良くできたらいいなと思って。その······奏くんのいないところで話し合ったのは悪いことをしたと思うんだけど」

 理央のシュンとした顔を見るとなにも言えなくなった。僕の方が申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
 理央と聡子の顔には『黙っててごめん』と同じ紙が貼ってあった。剥がすことはできなそうだった。
「まぁ、大体今まで通りじゃん?」
 頭の後ろで手を組んで、目線上目に洋が言う。
 そう、確かに、大体。
 でも、本当に、大体でしかなかった。

 僕と理央、そして洋、更に聡子。
 夏が過ぎて秋の足音が聞こえるようになった、たったそれだけの時間でそれぞれの関係は微妙なカーブを描いて変化し続けていたのに。
 心が揺れる。
 小さな痛みが走る。
「いいよ」
 僕はそう言った。



「女ってなに考えてるかマジでわかんねぇよな」
 夜道をヤロー同士で歩きながら、静かな住宅街の舗道の上で洋はそう言った。
「洋にわかんないなら、僕にはもっとわからないよ」
 しばらく沈黙が続き、洋の引きずるような足音が夜の中を追いかけてくる。
 あ、目の前に見えるあの明るい星は惑星かもしれないなんて思ってる。木星か、金星か。そんなに詳しくはない。

 はぁーっと夜の空気が吹き飛ぶような深いため息を洋は吐いて、こっちを向いた。
 いつもと同じ顔、してる。
「悪い。理央はやれないわ」
「······そういう話題は繰り返すもんじゃないだろう?」
「そうかもしんないけど。俺にも悩んだり迷ったりすることあるんだよ」
 僕よりずいぶん背が低いくせにいつも態度はデカい洋。僕は洋が嫌いではない。
 嫌いではないから、言うまでもなく複雑なんだ。

「まぁ、少しあいつらに付き合ってみてよ」
「······なんだよ、女子の味方なのか」
「女子の敵にはなれねぇよ」
 闇に散らばるように洋が笑った。

 本当のところ、洋はいつもと変わらないようで僕は相当安心した。
 僕たちの過ごしてきた長い時間はまだ繋がっている。
 未来がどうなるのか、それはちっともわからなかった。
 でも今、ここにあるものは確かだということ、それは僕にもわかったし、深い安心感を感じた。それはすごく刹那的なものかもしれないけれど。
 いつものコンビニ。
 赤いポスト。
 その前に聡子が立っている。
 白いワイシャツの袖を折り、ブルーのニットベスト、グレーのチェックのスカート。首元の臙脂のレジメのリボンタイはやや緩め。
 いつも通りの彼女。
 僕不在で決定された『登下校グループ』。不満に思っていた。
 けど、普段は凛とした聡子の不安そうなソワソワした態度が目に入った時、気持ちにスイッチが入った。

「結構待った?」
「うん、まぁそこそこ。ほら、どれくらいに来たらいいのか初めてだと不安じゃない?」
「そうだね」

 初めての待ち合わせ。
 小学一年生の集団登校みたいだ。
 大体なんで四人になるんだ? 仲良く理央と洋で手を繋いで登校すればいい。
 学校前の短い坂を登るだけだろう?
 僕がちょっとイラついてる間もずっと、聡子の緊張は解けないようだった。
 僕は並んで隣に立って、不思議に思っていた。

「どうして今日はそんなに固まってるの?」
 彼女は「信じられない」という目で僕を見た。大きく開いた目は明るく澄んだ茶色だった。
「だって、初めてだもん」
「いつもと大して変わらないでしょう?」
「変わるよ! 奏と登校するの、初めてだもん。皆、見てるし……」
「なにそれ? 一緒に帰ることが多いのに?」
「……奏、背が高くて目を引くんだよ。本当に本人は気が付いてないものなんだね」
 見られてるのは僕というより寧ろ聡子の方じゃないかと思いつつ、まぁそういうことにしておく。

 背が高くて多少じろじろ見られるのは慣れているし、わざわざ反論するほどのことでもないだろう。
 ちらっと横目で聡子を見る。
 細く長い髪が、サラサラと流れるように肩に落ちている。それが天然のものかどうかに問題があるのか、僕にはわからなかった。
 彼女は頬を染めて、今日も変わらず美しかった。
 くせっ毛の彼女も見てみたいと思うのは悪趣味だろうか?

 そのうち仲のいい小さいカップルが手を繋いでやってきて、あれはあれで幼稚園の登園みたいだなと意地悪なことを思う。
 洋は眠そうで理央はこっちに気付いてはにかんだ。人波をそろそろ避けながらちょこちょこ近づいてくる。

「おはよう、聡子ちゃん、奏くん」
「理央は朝から元気だね」
「中学の時からテストの日以外に、朝眠そうな理央を見たことないよ」
 そんな恥ずかしいこと言わないでよ、と理央が反論する。僕の知らない理央を、聡子は知っている。
 そしてもちろん洋も、僕より理央を知っている。
 僕にアドバンテージがまだあるなら、あの日の短いキスだった――。
 どんなに否定されてもなかったことにはならないんだ。理央の顔を思わずじっと見る。
 理央は自然に花開くように微笑んだ。

 思っていた以上のことはやっぱりなにも起こらず、洋は低血圧気味で言ってることが後手後手だったし、結局、女子二人がお互いの好きなことについてなんだか喋っていた。
 誰々のインスタがどうの、とか、YouTubeのあの人のライブ配信見た、まだ見てないんだよ、とか、教室でもきっと話すであろうことをごく普通に話していた。

 あんなに意気込んでいた聡子も、楽しそうに話して、中学生の頃の二人を彷彿とさせる。
 身長差を飛び越えて、仲の良かった二人。
 それがどうして今は同じクラスになりながら、違うグループにいるのか、女の子はよくわからない。
 どうして当たり前のようにこの四人がグループになったのかも謎だけど。

 ――そう言えば、聡子に告白されたのに、なにもまともなことは言ってないかも。

 もし自分がその立場なら、今も相当居づらいだろう。普通の顔ができるかどうか。
 理央にだって今、完璧に普通を演じてるかと言えば、それは難しく思えた。
 あの時聡子は「少しずつ」と言った。
 そうして僕は一緒にいる時間、それは理央と洋に置いていかれて偶然できたものだったけど「少しずつ」聡子を知った。

 ゼロだった彼女についての知識は、今はいくつになったんだろう?
 彼女の特別ななにかを知っているかと言われたら、なんとも言えない。
 確かに彼女のちょっとした美貌の秘密は知った。けど些細なことだ。
 それで彼女をより深く好きになったり、嫌いになったりしない程度のこと。

「ねぇ、奏くんもそう思うでしょう?」
 前を歩いていた理央がくるっとターンして僕の顔を下から覗き込む。ナチュラルな仕草が悔しいけどかわいい。
 ハムスターのちよちゃんを思い出す。
「ごめん、聞いてなかった」
「えー? せっかく四人一緒なのに」
 気が付くと、理央はかなりテンションが上がっていて、聡子は苦い顔をしていた。

 坂道を上がったところで自転車の竹岡が僕たちを追い越す。吹奏楽部の朝練は今日は休みだったらしい。
 追い越しざまに僕に「よう」と言った。そうして少し不思議そうな顔をして先を行った。

 それはそうだ。
 いきなり僕達は箱の中に四つ一組で入れられた焼き菓子みたいになっていた。
 薄いボール紙の仕切りで互いに仕切られてはいるものの、同じ箱の中にいることには変わらない。
 そして、仕切られているという事実もまた変わらない。
 同じ箱の同じ製品のような顔をして、違うことを考えてるんだ。それがなんなのか、お互い知ることのないまま。

 ハイテンションだった理央の目が少しやさしく丸くなって「そんな言い方ないよね、ごめんね。無神経だった」と僕に言った。
「そんな風には思ってないよ」と僕は言い、少し慎重にならないと、と反省する。謝らせてしまうなんて申し訳ない。
 話を聞いてなかったのは僕だ。無神経と言われても仕方がない。

 例の下駄箱に着いた時、僕は靴を脱ぐのを躊躇った。そして小さな理央を見た。
 彼女はいつも通り生き生きとした目をして、まるで今日一日を過ごすための希望を取り出すように上履きを取り出した。
 また、あの時みたいに目が合わないかな、と思った僕の邪な考えは飛び散った。僕だけがあの日を特別に考え、額に入れて飾っているのかもしれない。

 不意に袖を引かれる。
「なんかごめん。わたし思い違いしてたかも」
 女の子にしては背の高いすらっとした聡子が、身を縮めて僕にそう告げた。
 咄嗟になにか言おうと口を開きかけた。
 聡子がなぜか今日は理央より小さく見えた。
 教室に着くと竹岡が、まるで自分の席だと言うように僕の席に座って待っていた。
 まぁいろいろ疑問に思うところがあるんだろう。それはそうだ。僕にだってわからない。
「おはよう」
「おはよう」
 素知らぬ顔で挨拶をする。背負っていたリュックを下ろす僕をなにも言わずに見ている。

 僕の方から竹岡を見た。
「言いたいことは言えばいいよ」
 面白くないな、という顔を彼はした。そりゃ、面白くはないだろう。
 もしも聞きたいことを聞いたとしても面白くないに違いない。
 でも好奇心には勝てないだろう。

 僕も答えを頭の中に用意する。
 大体、聞かれることはわかってるのだから、答えは簡単だ。いや、真実はそこまでの過程がややこしいけど。
「ねぇ、片品さんと付き合うことにした?」
 いつもの神経質そうな目は、子供が親に質問の答えを促すような、求めるような視線だった。
 なんだか上から目線のようで悪いけど、気の毒だった。

 竹岡が聡子を好きなのは見ていて明らかだったし、僕と言えば、どちらかと言うと聡子、そして理央に振り回されるばかりで自主性を持たない。
 そんな僕になにが言えるのか。
「いや、まだ。そんなんじゃないよ」
「まだってどういう意味?」

 難しい質問だった。
 こうして少しずつ聡子を知って、理不尽なほど運命を弄られたかのように一緒の時間を過ごすようになって、そして多分聡子はそれがいいと思っている。
 僕は知らないふりをしながらそれを知っている。
 彼女が自然に微笑みながら、その髪を耳にかける仕草、その美しさに時々胸を奪われる。
 それは形でしかないけど――。

「どっちにしても今は付き合ってないよ」
「その可能性は?」
 食い付いてくるなぁと思う。
 でも恋なんてそんなものだろう。
 僕だって理央と洋が付き合うことになった時、その過程を見ていたくせに「なんで?」と叫びそうになった。そんなこともあった。
「······正直に言うと、半々かな。僕だっていろいろあるんだよ」
「お前の方の都合なんだ?」
「まぁね、多分」

 そんなことを言う自分を嫌悪した。
 洋たちを散々見てきて、理央に対して少しでも偉そうな態度を取る洋を見ると一人、ムカムカしていたのに、自分はこんなに曖昧だ。
 割と最低の方に位置すると思う。
 女の子をずっと待たせるような、そんな価値は僕にはない。

 竹岡はここが朝の騒がしい教室だということを忘れさせるくらい深刻そうな顔をして、俯いた。
 そこには僕の机に描かれた木目しかないのに。
「わかった。これは俺が言ってどうなることでもないしな。気持ちの問題だし。でも奏がもしそうできるなら、あんまり傷つけないであげてほしいんだ」
 線の細い彼の横顔には冗談は少しも含まれていなかった。これは、男と男の約束だ。反故にはできないことを肝に銘じる。

「わかってる。僕だってそうしたいよ」
「そういうやつだと思ってた」
 打って変わったような笑顔を見せた。
 信頼されている。
 それがうれしくもあり、また、心に小さな痛みも感じた。
 今日もバスケやるだろう、と言って竹岡は席に戻っていった。



 ――秋はどこに行くんだろう?
 夏はあんなに激しくて長いものだったのに、秋は深まる一方だ。
 逃げ足が早いのか、空の色はどんどん薄くなり、また高くなっていった。
 時間ばかりが過ぎていく。

 さすがに「お昼も四人でしない?」とは言われなかった。もし言われたら断ろうと思っていた。
 僕にはバスケがあるし、グループ交際を始めた覚えもない。
 理央は迎えに来た洋とどこかに消えて、僕のところには聡子が、考えすぎかもしれないが申し訳なさそうにやって来た。
 いつも堂々としていた彼女は影を潜め、見た目はいつも通り、どの子より綺麗にしているのになぜか普通のほかの子たちと同じに見えた。
 かと言って僕にとって聡子は『その中の一人』では今はなかった。

「あのさ、今日も体育館行く?」
「そのつもり」
「あのさ、じゃあ、これはひとつの提案なんだけど、あくまで提案なんだけど」
「ん?」
 彼女にしては実に回りくどい表現だ。
 頭の回転が早く、気の利いた彼女のセリフとは思えない。まるでいつもおどおどしてる理央みたいだ。

「お弁当、作ってきていい? だっていつもコンビニのパンかおにぎりでしょう? わたしもおにぎりとかパンなら負担にならないし、それくらいは作れるし。勿論、嫌なら嫌って言ってくれて全然構わない。だって付き合ってるわけじゃないし」
 正にコンビニのサンドイッチの袋を開封していた僕の手は止まった。

 聡子の顔を見る。
「いや」
「いいんだよ、はっきり言ってくれた方が」
 違う、違うと僕は否定した。
「いや、僕の方こそこんなに曖昧なのにそんなことしてもらうのは申し訳ないなと思って」
 聡子は俯いて、しばらく口を開かなかった。
 なにを考えているのかな、とその長い睫毛を眺めていた。
 それはほんの一刹那だったに違いない。
 けれど彼女の影を落とす睫毛をもう少し見ていたいと思った。