「落ち着いて聞いてください。娘さんは心臓に重篤な病気を抱えています」
いつものように外で遊んでいれば、急に胸が苦しくなって気がつけば私は病院にいた。
隣に座る両親は、幼い私の手を握ったまま、医者に告げられた言葉に言葉を失っていた。私は、それが果たして何を意味するのかを理解することは出来なかったが、これからは普通でいられなくなるだろうなと子供ながらに思ったのを覚えている。
それから、その予想通り私の生活は一変した。通っていた幼稚園には行かず、毎日病院のベットの上で過ごす生活。幼い私には広すぎる友達も誰もいないその無機質な広い部屋は、酷く退屈で、絵を描いて暇を潰していた。
たまに私の部屋に尋ねてくるのは、看護師さんと、ごめんねと涙を流しながら謝るお母さん。
私は、泣いているお母さんに、私は元気だから心配しないで泣かないで、と声をかけたが、それを聞くと一層辛そうに顔をゆがめる理由が分からなくて、何故だか私まで泣けてきて二人して泣いていた。
私は、どうやら心臓が弱いらしいとはっきり自覚したのは、もう少し大きくなって小学生になった頃だった。その頃には、自分の置かれている状況もある程度理解していた。
相変わらずお母さんは私の前でよく泣いて謝る。私は今こうして元気に過ごしているのに本当に病気なのだろうかと病院内を歩いてみたことがあった。いつも過ごしていた病院だったが病室以外を一人で歩くのは初めてであった。それは、まるで知らない土地を歩く勇者の気分で、胸がどきどきして止まらなかった。
大人に見つからないようにこっそりと物陰に隠れながら慎重に移動して病院内をあらかた一周した頃だろうか。
胸に痛みを抱えて私は立っていなれなくなり、その場に蹲った。
まるで燃えるかのように体が熱いのに、指先など末端が冷えて仕方ない。全身からと血気が引きまるで私が私でなくなるかのよう。死を人生で最も間近に感じた瞬間だった。あぁ、私は普通じゃないのだとその時、改めて実感したのを覚えている。
幸い、その時は通りがかった男の子がすぐに私を見つけてくれてことなきを得たらしい。
だが、その一件以来、勝手に出歩かないことと厳しく制限をつけられて遊びたい盛りであった私は、酷くがっかりした。しかし、痛い目を見たことは身に染みて覚えていたので、勝手に抜け出すことはしなくなった。
誰もいなくなった病室で考える。きっと今頃、私と同じ年の子供は、外で元気に遊んで両親と暖かい部屋で温かいご飯を食べているのだろう。それが普通で、私のようにこんな暗くて寒い部屋に一人で取り残されているのは普通じゃない。両親が私を見て泣くのは、きっとそれが悲しいから。私がもっと普通なら。もっと元気で、昔のように一緒に旅行に行ったり、一緒に遊べるような子供だったなら、きっともっと笑顔を見せてくれて楽しく過ごせていたに違いないのだから。
もう両親の辛そう表情は見たくなかった。冷たい布団の中で、一人涙を流す。だが、それは誰にも届かず慰められることなく消えていった。
「看護師さん、具合悪い?」
それは普段通り、部屋に掃除をしに来てくれた看護師さん。何か根拠があったわけじゃなかった。ただ、何となくそう感じただけ。だが、私のその声に、顔馴染みの看護師さんが驚いた表情を見せる。
「よく分かったね、夜勤明けだったからかな」
「無理しないでね」
そう言うと、看護師さんは顔を綻ばせた。
「ありがとう。美雨ちゃんは優しいんだね」
その笑顔を見て、私は気付いた。何もできない私が相手を喜ばせるにはこれしかないんじゃないかと。相手のことを観察して欲しい言葉を与える。
それは天啓であり、私にはその才能があったのだと思う。注意して相手を観察すれば相手の考えていること、感じていることを私は読み取ることが出来た。そして、人は笑顔の人に対して良い感情を抱くのだということに気付くのに時間はかからなかった。
「お母さん、私もう泣かないよ」
いつもの様に、私を抱きしめて泣くお母さんにそう囁いて、私は私に出来る最高の笑顔を浮かべた。いつもお母さんに釣られて泣いてしまっていた自分を見て、お母さんが余計に辛くなってしまっていると知ったのだ。それが一体どれだけの力があったのかは分からないが、お母さんは呆気に取られた顔をしていた。
「どうしたの美雨」
「私、辛くないよ。お母さんの子供に生まれてこられて良かった」
それを聞くと、お母さんは涙で歪んでいた顔を、さらに歪めた。
私は、両親が私を健康な体で産んであげられなかったことに負い目を感じていたのを知っていた。だからこそ、この言葉はお母さんが一番言って欲しかった言葉に違いなかった。
私なんかが産まれてきてごめんなさい、私はちゃんと良い子でいるから私のことで泣かないで。
「ごめんね……」
お母さんは、泣くのは今日が最後だからと言って、より一層強く私を抱きしめて大きな声で泣いた。その温かさに私も涙が滲んだが必死に抑えた。
翌日からのお母さんは、人が変わったように明るく振舞ってくれるようになった。今まで泣いてばかりだった病室で、家であった出来事や、見たテレビ番組の話などを笑顔でしてくれるようになった。それに私も笑顔でいい子を演じる。
それが、私は嬉しくて自分の言った言葉、立ち回りは間違っていなかったんだと確信する。私には、人間観察の才能があったらしかった。
私はその力を使って、お利口な子供であり続けた。何もできない、何も生み出さない私が迷惑をかけないために少しでも関わる人を笑顔にさせる能力として磨き続けた。手のかかることは言わない。我慢して当たり前。だって私は普通ではないのだから。
お母さんは、病室に花を買ってきてくれるようになった。
「この花、ガーベラっていうのよ」
綺麗な花だった。無機質で何の華もない私の病室が、その一角だけ色鮮やかなガーベラで色づいたように思える。
「綺麗だね」
「ガーベラには、花言葉があるのよ」
そうして、お母さんはガーベラの花言葉について話してくれた。
ピンクのガーベラの花言葉は、『感謝』『崇高美』。崇高美というのが一体何を表しているのか私には分からなかったが、気高くて美しいという意味だと教えてくれた。私には、似合わない言葉だなと思う。私は、気高くなんてなくて人に媚びて自分の存在価値を証明する対極の存在だったから。
赤いガーベラの花言葉は、『神秘』『燃える神秘の愛』。私には、燃える神秘の愛の経験がなかった。これはきっと両親に向ける愛情ではなく、恋のことを言うのだろう。だが、私にはその経験も相手も存在しなかった。病院から出ない私にとって出会いなどどこにもなくて同じ入院患者の男の子と仲良くなってもみんなすぐに退院していく。いつまでもこの場所に縛られているのは私だけだった。
オレンジのガーベラの花言葉は、『神秘』『冒険心』。冒険心というのも、私には縁遠い感情であった。昔、その感情で病院を歩くという無茶を敢行した結果、謝って回れる人数以上の人に迷惑をかけた経験があったから。私の自我は必要ない。
黄色のガーベラの花言葉は、『究極美』『究極愛』。どちらも究極がついていて大袈裟だなと思う。病院のパジャマ姿でいることしかない私にとっては、お洒落なんて無縁のものだし、したいという願いもとっくのとうに枯れはてていた。
「そしてね、白のガーベラの花言葉は『希望』『律儀』。いつか美雨が良くなりますようにっていう願いが込められてるんだよ。絶対治る時が来るからね」
そういうお母さんの声は、私に言っているというよりはまるで自分に言い聞かせているようだった。いつか良くなってくれる、普通の子になってくれると信じているような口ぶり。
だが、私はそれが簡単なことではないと知っていた。医者は私の検査結果を眺めていつも難しい顔をしていて、私の前では泣かなくなった両親も私に隠れて泣いていた。どうして私の体は言うことを聞いてくれないのだろう。ここまで良い子にしているというのにどうして神様はこんなに酷いことをするのか。
十四歳の誕生日に、両親はスマホをプレゼントしてくれた。いつも一人で病室にいる私が寂しくないようにと。いつでも話しかけていいからねと言われたが、実のところあまり興味はなかった。両親は私に毎週のように会いに来てくれていたし、実際に会わなければ私の心を読む観察眼も意味をなさない。文章でのやり取りは、相手の感じていることが分からない分、私には恐怖であった。
だが、結果としてそのプレゼントは正しかったと言える。毎日が変わり映えせずに過ぎていく私にとって、外の世界と繋がれるのは貴重な体験だった。
私は、ゲームに熱中して、一人でいる時間の大半をそれに費やすようになっていた。その世界でなら、なりたかった普通に溶け込めていたことが嬉しかった。
私が十六歳の誕生日の日。お父さんから学校に通わないかと言われた。一体、何を言っているのだろうと聞き返してしまった。
「お父さんの知り合いの学校で、高校二年生の間だけ学校に通わせてもらえることになったんだ。もし、美雨さえよければ行ってみないか?」
どうやら私の最近の検査の結果が好調だったことによって計画されたものらしい。私は迷った。ずっと普通の生活に憧れてきたが、きっと実際に学校に通うとなると、周りへかける負担は凄まじいものになるだろう。なにせ、私はまだ治ったわけではないのだから。
「嬉しいけど、そんな迷惑はかけられないよ。私は今のままで大丈夫」
ただでさえ、私には多額のお金が掛かっていた。それに加えてさらに出してもらおうだなんて、とても言えたものではなかった。
「美雨、私たちのことなら心配しないで。したいようにしていいのよ」
お母さんが、そう言って私の手を握ってくれる。私の心を見透かしたように心配しないで欲しいと言われた。でも、その瞳の奥には私に普通の女の子のように生活してほしいという母の願いがあることを私の目は見抜いていた。
どうしようかと悩む。今の生活に不満はない。不満を言えるほど何かを成しているわけではないから。贅沢を言うつもりはなかった。
だが、両親は私にこの生活を強いていることに負い目を感じているらしく、これは説得でどうにかなるものでもないとも思った。
「俺たちの願いに応えると思って。行ってみてくれないか」
お父さんの縋るような目を見て私は覚悟を決めた。
「分かった。学校、行くよ」
そう言って微笑む。
それが無理に無理を押し通した選択であることは分かっていた。お父さんの顔は、仕事による疲労で年齢よりも更にこけて見えたし、私の体も仮初の健康である。きっと苦労が絶えないだろう。
だが、ここまで育ててくれた両親の願いを叶えてあげたかった。
そうして私は、星恩高校という、地元では有名らしい進学校に二年生から転入した。普段同年代の子と話す機会など滅多になかったため心配していたが、いざ入学してみれば私の人の考えていることを察することが出来る力によって、意外なほどあっさりと良好な人間関係を築くことに成功していた。この時には、自分の観察眼に感謝した。多少話しが合わないところがあろうと、いくらでも好意的に振る舞い挽回できた。
学校生活は想像していたより、ずっと楽しくてこのままずっと続けばいいのにと願う。だが何事も上手くいくことはなく、私の体は、学校が終わればすぐに病院へ帰るという生活を強いられていた。だが、それを差し引いても学校に通っていることを後悔はしなかった。
どうやら私は、特例の処理らしく、授業で先生から当てられることも、宿題を出す必要もなかった。私の体のことを知っているのは数人の先生だけ。勿論、体育はどんな種目であれ見学していたため不思議な目で見られたが笑って誤魔化した。そうして、私が馴染みやすいような環境が整備されていたおかげで何とか平穏に日々を過ごせていた。
意外と私もやれるじゃないか。学校生活は心配していたよりもずっと上手くいっていて、友達も出来て、クラスの中心人物グループに入ることができた。
放課後の学校で、教室にスマホを忘れた私は友達と別れて取りに戻っていた。自慢の笑顔の効果に、自然と笑みが零れる。私は普通だ。普通になれている。
教室の扉を開けようと手をかける。すると、誰もいないと思っていた教室内から声が聞こえてきた。
「ほんと、ばかじゃねーの」
こっそり中を窺えば、そこには同じクラスの葛谷啓太くんがいた。いつも目立たない彼を注目してみたことはそれが初めてで、その容姿は思いの外、整って見えた。
だが、彼が誰かと一緒にいるのを私は見たことがなかった。友達がいないのだろうかと心配に思う。
教室内に入っていくか躊躇って足が止まる。入ってもいいのだろうが、彼から溢れ出る敵意を感じたのだ。
何に対して、そんなに敵意を出しているのかと観察すればどうやら、先程まで教室内にいた私たちに対してだと気付く。
迷惑な話だと思う。葛谷くんに対して何かした訳でないし、誰も君のことを悪く思ってはいないのだから、ばかにされる筋合いはない。葛谷くんからは人と関わるのを諦めているような言葉に出来ぬ絶望が表れていた。
それが、何故だか非常に腹立たしかった。私と違って健康で時間もあるはずなのに、悲劇のヒロインのような雰囲気を纏って世界で一番不幸だという顔をしている。どうして私を差し置いてそんな顔をしている?
「誰も君のことを悪く思ってないよ」
私は、葛谷くんに話しかけてみることにした。
どうして話しかけてくるんだと言われた。そんなの、君のことがむかついたから。ただの八つ当たり。
私は、葛谷くんに嘘をつくことにした。誰にも言ったことがなかった人の心を察することが出来る力を超能力だと言って彼に話した。ただの気まぐれ。動揺しているようだったが、信じてはいないようだ。それもそうかと苦笑する。
私は捻くれた葛谷くんを更生させてあげることにした。それが、私が学校にいる意味になるんじゃないかと思ったから。
葛谷くんは話してみると意外と面白くて、相変わらず私のことが嫌いみたいだったけれど反応が面白くてついつい絡みにいってしまう。たまたま、私のやっていたゲームもやっているらしく意外な共通点があったことに驚く。彼も相当に、やり込んでいたらしいが、全ての時間を捧げてきた私にとっては赤子の手をひねるようなものだった。
「もう一回!」
二人だけで過ごす屋上の時間は、私が一方的に話してばかりだったけど楽しくて、気づけば自然に笑えていた。葛谷くんの前では、他の人と話すときのように欲しい言葉をかけてあげる必要がなかった。そんなことをしなくても、離れていこうとしなかったから。
その代わりに、思っていることを言い当てれば、なんで分かるんだよと戸惑う反応を見せるのが面白かった。
莉央が、葛谷くんに興味があったのは知っていたが、私のいない間に話しかけに言っていたのは驚いた。クールっぽい見かけによらず、誰にでも話しかけに行ける莉央は、誤解されることも多いが凄く優しい子だというのは知っていた。だが、その二人の相性はきっと良くないだろうということもまた分かっていたのだ。案の定、葛谷くんには誤解されていたみたいだけど。とにかく、私が仲を取り持ったおかげで二人は仲良くなってくれたらしかった。私は、ずっとはいられない。葛谷くんに友達が出来るのは嬉しかったが、何故だか寂しくもあった。
だが、その後の葛谷くんの様子には困ったものであった。
じゃんけんで、私の超能力が本当かどうかを確かめようとしてきたのだ。正直、この辺りで冗談だよと打ち明けても良かった。そんなものがなかったとしても、今の関係が急に変化するとは思えないほど打ち解けてきていたし、分かりやすく仲良くなっていた。だが、私は彼が私を特別視するこの関係がどこか心地よくて続けることを選択した。
じゃんけんであれば、私の観察眼を使えば必勝なのだ。直前の筋肉の動きから、出す手は予測できる。青い顔をして私の前にひれ伏す葛谷くんを見るのは申し訳なかったが、正直面白くて悪い気はしなかった。でも、この頃から葛谷くんの私を見る目に 変化がついてきていたのは、そのせいだけではないのだろうと心のどこかで気づいていた。
葛谷くんと一緒に放課後に遊びに行ったのもこの頃であった。その日は、たまたま病院の検査が休みの日であり、まるで時間制限付きのシンデレラのように縛られていた私の開放日であった。
まず最初に向かったのはカラオケであった。葛谷くんも慣れていないのと同様に私自身、放課後に友達と遊ぶという経験はあまりなかった。何をするか迷った私は、以前莉央に一度だけ連れていってもらったカラオケへと足を運んでいた。
私がエスコートするというのは初めてで、これでいいのかと内心ドキドキであったが、葛谷くんは文句も言わず私に付き合ってくれた。川崎の好きにしたらいいよ、という人任せな言葉は、言われて一番困るものであったが、言葉通りどこだろうと付き合ってくれるようだった。
葛谷くんは、今まで人とカラオケに来たことがないというわりには、中々どうしていい声で歌う。
「本当は来たことあるんじゃないの?」
「家で一人で歌ってるんだよ」
顔を赤らめて答える葛谷くんが可愛かった。
好きな曲は、今までの会話から何となく察していたため、近い選曲をすると、足でリズムを取ってくれていた。どうやら、退屈させずに済んだようだ。
その後は、ゲームセンターへ向かった。私と葛谷くんの共通の趣味であることを考えれば、無難な選択だと言えるだろう。
二人で過ごす放課後は、私にとって縁がないと諦めていた本や創作の中の世界の出来事であり、自分が男の子とこんな関係になるなんて思ってもいなかった。学校に通わせてもらえていなければこんな幸せを味わっていなかったのかと思うと、感慨深い気持ちになる。
余談だが、葛谷くんはゲームがそれほど上手くない。いや、正しくは私ほど上手くないだろうか。普通の人と比べてどうなのかは分からないが、クレーンゲームでは奥行や平衡感覚が曖昧で見当違いな所にアームを伸ばすし、対戦型ゲームでは、特有の癖があってとても扱いやすい。それに気づかない限りは、私に勝つことは出来ないだろう。
躍起になって勝負を挑んでくる葛谷くんが面白くて、それを負かすと本気で悔しがっているのがまた面白くて。とにかく私は笑ってばかりだった。人に嫌われまいと病室の鏡の前で練習した笑顔が、自然なものとして、産まれた時から出来ることのように出来た。
だからだろうか。私は少々無理をしすぎてしまったみたいだった。ゲームセンターをあらかた楽しみ尽くした頃、私を立ち眩みが襲った。しくじったなと思った。
「大丈夫か川崎」
「大丈夫、ちょっとくらっと来ただけ」
葛谷くん含め、友達には私が病気だと明かしていなかった。ここで倒れればきっと驚かせるし迷惑をかけてしまう。何より、元気で明るい私でないと価値なんてないのだから。
幸いなことに、葛谷くんは座って休む私に浮かんだ脂汗を単なる疲労によるものだと誤解してくれたようだ。だが、これ以上激しい運動をすることは体の負担になってしまうのが、分かりすぎるほど分かった。まだまだ、葛谷くんとやりたいことはあったというのに、それがこんな形で終わらせられるのは凄く癪であった。だから、これは抵抗だ。結果的に、この選択があんな展開を招いてしまうのであれば不正解だったのかもしれない。神様は、悉く私を見放す。
限界を訴える体を誤魔化して、私は行ってみたかったカフェへと葛谷くんを連れて行っていた。店内は、莉央が言っていた通り、若者向けの洒落た雰囲気で確かにこれはいいと思えるものだった。私は、好物であるシュークリームを頼むが、葛谷くんは甘い物が嫌いらしい。甘い物が嫌いだなんて、逆張り好きな葛谷くんらしいと妙に納得する。
注文をしようと店員を呼べば、その顔を見た葛谷くんの顔がみるみる蒼白へと変わっていった。相対する店員の顔も、葛谷君とは系統こそ違うものの深い反省と気まずさが表れて青い。
二人は、中学時代の知り合いらしかった。だが、二人の様子からして、それが望んだ再会でなかったことは想像に難くなかった。
ほどなくして注文することなく飛び出していった葛谷くんを見て、私に様々な思考がめぐる。どうして急に飛び出してしまったのかとか、以前何があったのかとか。追いかけなければならないとは分かっていたが、私は正直ここに来るのもやっとという状態でとても走れる状況ではなかった。だが、そのままにしておくことは出来ず、同じく呆気に取られた表情をしている店員に軽く一礼して、ふらふらとした足取りで、葛谷くんの消えていった方向へと歩みを進めた。
それから、また時間が流れた。あの日、公園で見つけた葛谷くんから過去にあった因縁を聞いた。申し訳ないことをしたと思った。私の意地によって、必要のない過去のトラウマを抉ってしまった。だが、それを聞けば、店員の表情から何を考えていたか推察することも不可能ではなかった。
結局、心が折れて自分の殻に引き籠る葛谷くんと、同級生の大村くんを引き合わせて過去のトラウマを払拭させることに成功した。そこで、私の葛谷くんを更生させようという目的は達成されたのだ。私の葛谷くんと関わる建前はそこでなくなったはずであった。
だが、私は関わるのをやめなかった。
すっかり明るくなった葛谷くんは、どうやら私のことが……好きなようだった。思い上がりではないかと何度も思ったが、やはり何度確かめても私の目には好意を抱いているとしか思えなかった。
その頃には、私も葛谷くんに対して特別な感情を抱いていたことを少しずつ自覚していた。
恋なんて、今まで一度もしたことがない人生だった。物心のついた時から病院以外の関係が制限されていたのだ。誰かを想って胸が熱くなるなんて、初めての経験で病気とはまた違う胸の痛みに困惑させられていた。
私たちは、お互いに両思いであることを薄々気付いていたと思う。そんな曖昧な関係は甘くて溶けてしまいそうだった。
葛谷くんは、告白してくることはなかった。きっとこれからも時間はあるのだから焦る必要はないと思っているのかもしれない。だが、私には告白を口に出来ない理由があった。
「美雨ちゃん、検査の結果。どんどん悪くなってるよ」
定期健診の結果を医者に言い渡された時、私は絶望の淵にいた。
「このままだと、学校に通い続けるのは無理かもしれない」
「そんな……!」
「近いうちにもっと大きな……東京の病院に移ったほうがいいと思う」
確かに、心当たりはあった。以前から体力はなかったが、最近は特に息が切れる。ちょっとした日常生活ですらそうなってきていたのだ。学校を休む日も増えてきて、嫌な予感はしていた。だが、学校を辞めなければいけないというのは初めての恋を経験している私にとってはとても酷な話であった。元々、二年生の間だけという話ではあったが、その期間が大幅に短縮されることとなったのだ。
私は、いつ振りか分からないぐらいに、母親の前で泣いた。母親には、私の学校での出来事などを事細かに話していたため、私の恋心についてもある程度気付いているようで一緒に泣いてくれた。私に涙を見せないようにしてくれていたのに、この時ばかりは我慢できなかったようだ。二人して抱き合って泣いた。
「ごめんね」
そうして、毎晩泣きながら布団の中で考えた結果。私は学校を辞める直前まで誰にも言わないことを選択した。勿論、この選択をすることによって今後誰との関りもなくなるだろうということは分かっていた。
だが、それ以上に私は、自分が普通でないとみんなに思われるのが嫌だった。心配せずとも、しばらくすればみんなの記憶から私はきっといつの間にか消えてなくなる。そのことはとても辛かったが、今まで一人で生きてきた私にとってそれは元に戻るというだけだった。幸せな夢だったと割り切ってもう終わりにしよう。
しかし、葛谷くんはそれを許してはくれなかった。私が思っていた以上に、葛谷くんは私のことを考えているらしかった。連絡の全てを無視していたというのに、未だ諦めることなく唯一の繋がりであったゲームにまで縋ってくる。最近、やっていなかったことは知っていたからきっとそれどころではなかったのだろう。そんな彼を諦めさせるにはどうしたらいいかを考えた結果、正直に話すことにした。
病室を見た葛谷くんは、とても辛そうな表情をしていた。それは、きっとどうして言ってくれなかったんだという私への怒りと、何も出来ない自分の無力さを呪っているのだろう。
葛谷くんはそんな私を見ても、好きだと言ってくれた。嘘まみれで本当のことを何一つ言っていなかった私が偽物だと知っても尚、好きだと。だが、私にはもう恋を楽しむ余裕などなかった。この体は今もゆっくりと死に向かっていて彼がこれから歩んでいく道を考えれば、彼がここで私に割く時間は無駄であると言わざるを得なかった。
だが、わざわざ会いに来てくれた彼のことを私は諦められなかった。最後の期待を込めて私は尋ねた。
「葛谷くんは、そんな私でもそばにいれる? いつ死ぬかも分からない、一人じゃ何も出来ない人間のために全てを捧げられる?」
ずるい質問だと思う。そんなことを言われれば誰だって委縮する。だが、私はその時の葛谷くんの顔が脳裏にやきついて離れなかった。一丁前に傷ついているなんて、普通の人間にでもなったつもりだろうか。
「もう私のことは忘れて」
彼の顔も見ずに背を向けて、拒絶した。それが最後だと思うと、涙が滲んだがそんな顔を見せるわけにもいかず布団に顔を埋めた。
それ以降も、葛谷くんは病院に遊びに来てくれていたが、結局私は東京の病院に移るまでの間、葛谷くんと対面することはなかった。
季節は冬。
学校は冬休みへと入り、冬季講習はあるものの自分の時間は格段に増えた。
だと言うのに、俺は何をする訳でもなくただ無為に時間を浪費していた。
『もう私のことは忘れて』
川崎の言葉が頭から離れない。
川崎の入院している古山第一病院の待合室で、俺は、今年一番のため息をついていた。
川崎にそう言われて以来、どうしても来られない日を除いて、ほぼ毎日足繫く通っているというのに、面会謝絶で俺は川崎の顔すら見られない状況が続いていた。そもそも俺が来ていることを彼女は知っているのだろうか。
ゲームも、オンラインになっている様子はないようだし、川崎の様子は何も分からなかった。せめて元気でいてくれればと願うが、あの痩せ細った体を見た後ではそう楽観的にもなれない。
東京の病院に移動するという話は聞いているため、その前にどうにかもう一度接触したいと思うのだが、それは叶わずにいた。
手土産として持ってきた蓮のカフェのシュークリームが入った箱を眺め、もう一度深くため息をつく。
「甘いもの、俺はあんまり好きじゃないんだけどな」
せめて受け取ってくれればと思うが、それすらも届かない。
どうやら川崎は、本当にもう俺と関わる気はないらしかった。
今日も変わらぬ受付の対応に、帰ろうと立ち上がった時。
俺を呼び止める声がかかった。
「あの! 葛谷くん、よね?」
そこに立っていたのは川崎……ではなく小綺麗に着飾った貴婦人という言葉が似合う女性。初めて会う顔で、見覚えがない。
俺のことを知っているようだが、声をかけられるような心当たりはまるでない。
「そうですけど……あなたは?」
警戒の色を隠しきれず目線が険しくなってしまった。
女性は慌てたようにバタバタと手を振る。
「怪しい人じゃないのよ? 私が一方的に葛谷くんのことを知ってるだけで。うちの美雨と仲良くしてくれてありがとうね」
「うちのってことは……川崎のお母さん……?」
そう言うと、女性は優し気な表情でこくりと頷く。
なるほど。言われてみれば目元や雰囲気がどこか面影を感じる……かもしれない。いや血の繋がりがあると言われたせいか?
「少し時間あるかしら?」
詰んだ状況だった俺には、まさに渡りに船とも呼べる誘いであった。
俺は深く考える前に、その誘いを承諾した。
そうして川崎の母親に連れられ、俺は病院の屋上へと訪れていた。
屋上と言うだけあり、この季節に来るべき場所ではないと思うほど、風が冷たい。そのせいか周囲には人っ子一人姿が見えなかった。
しっかりと防寒具を身につけてきていたことが唯一の救いだが、寒いのは俺だけではないようで川崎の母親も手を擦っている。
「こんな場所でごめんね。葛谷くんとはどうしても二人きりで話したくて」
今日初めて会ったばかりだというのに、随分と俺のことを知っているような口ぶりだった。
「……全然大丈夫です。それで、話っていうのは?」
どんな温度感で接するべきか測りかねる。印象が悪くならない程度に、無難な返答を返した。
「まずは自己紹介かしらね。私は、川崎小百合。美雨の母親です。まずは葛谷くんに、私と夫から精一杯の感謝を。美雨と仲良くしてくれてありがとう」
そう言って、小百合さんは頭を下げた。
「そんな、頭を上げてください」
突然の出来事に慌てて俺も反射的に頭を下げる。
話があるというので身構えていれば、まさか感謝を伝えられるとは思わなかった。
会って早々、頭を下げられるだなんて、何だか凄く悪いことをした気分だ。
俺のその言葉に、小百合さんが下げた頭を上げる。
「美雨のことはもうある程度聞いているのよね?……あの子の病気のことも」
それは、この間川崎から聞いた内容であった。
「ある程度は」
小百合さんはそれを確認し、言葉を続けた。
「美雨は、物心ついた時から、ほとんどの時間を病院で過ごしてたの。そんな自分の存在が、私達に迷惑をかけているとでも思ってたんでしょうね。自分の状況に、文句もわがままも言わずただいつもニコニコとしていて……凄く空気の読める子だった」
川崎の卓越した観察眼は、その責任感と環境ゆえの能力だったのだろう。空気の読める子、か。確かに外から見ればその言葉がぴったりだったのだろう。
欲しい言葉を欲しい時にくれる。それがどれだけ相手にとって心地良いことか。実に川崎らしくて大馬鹿な考えだ。
「でもね、本当はそんな強い子じゃないの。普通の子と何も変わらない。寂しさで一人夜泣いているのも私はずっと見てきたの……。
健康な体で産んであげたかったと何度悔んだかも分からないぐらい。あの子の前で、いつも泣いていたような情けない時期もあった。
だからね、あの子には罪滅ぼしをしたかったの。美雨にも普通の生活をさせてあげようと思って、体調が良くなってきたのを見計らって、夫が高校二年生の間だけでも学校に通えるようにって今の学校。星恩高校に転入させてくれたの。
美雨はそんなことしなくても良いって言ったけど、普通の生活をして欲しいっていうのは私達の願いだったから」
それが川崎がうちの高校に転入してきた真実。
俺は本当に、川崎のことを何も知らなかったのだと改めて突きつけられる。川崎が、夜一人で泣いているなんて俺には想像もつかなかった。
「だから、本当に嬉しかったの。美雨が、友達や学校のことを嬉しそうに話すのが。今まで同い年ぐらいの子と話すことなんて全く無かったから心配だったけど、みんないい子だよって笑顔で話してくれて……。そんな中でも葛谷くんの話をする時は目がキラキラしてた。本当に、年相応の女の子みたいで……」
いつの間にか小百合さんは少し涙ぐんだような声になっている。
川崎が俺のことをそんなふうに話してくれていたなんて。胸が締め付けられるようだ。
ここまで語られていたのは俺への感謝であった。だから、急な温度差についていけなかった。
「だからね、葛谷くん。葛谷くんには美雨をこれ以上傷付けないでほしいの」
今までの方向から一転し、急激に雲行きが怪しくなる。傷付ける? 俺が、川崎を?
「まって、ください。どういうことですか?」
そんなつもりは毛頭ないし、川崎のことを誰よりも考えているつもりだ。
小百合さんはゆっくりと語り始めた。
「毎日、お見舞いに来てくれてるわよね?それは美雨も知ってる。本当にありがとう。でもね……美雨にはどれだけの時間が残されてるか分からない。
まだ治療法も確立されていない病気で、いつ悪化してもおかしくないしそもそも治るかも分からない。そんな美雨の側に、軽い気持ちで近寄らないであげて欲しいの……大切な人が増えれば増えるほど別れが辛くなって、裏切られるリスクも増える。
いつかいなくなるのなら最初から近づかないで。あの子にそんな辛い思いはしてほしく無い……」
「俺は、軽い気持ちなんかじゃ……!」
だが、言いかけて先日の会話が頭を過る。
『私に全てを捧げられる?』
その川崎の質問に、俺は即答出来なかった。あれは俺に覚悟が足りなかったってことじゃないのか?
あの俺の行動はきっと深く川崎を傷つけた。信じていた人間に裏切られる辛さは誰よりも俺が分かっていた。分かっていたはずなのに、あの場で何も言えなかったのは誰だ? そのつけで、今こうして母親まで出てきて、これ以上はやめてくれと釘を刺されている。
そのことを俺はもっとちゃんと認識するべきだ。好きだから、なんて曖昧な理由を免罪符にして関わっていいほど、川崎の人生は軽くない。
文字通り全てを捧げられるかと川崎はあの時俺に問うたんだ。それに応えられなかった俺に……側にいる資格はない。
返す言葉なくぎゅっと手を握りしめる。血が出るんじゃ無いかと思うほど、硬く、強く。
俺は、次の日から病院へ通うのをやめた。
窓の外に広がるビル群が、太陽の日差しをキラキラと反射し、幻想的な様を映し出す。
そろそろ桜の季節だというのに、この街には緑なんてなく無機質極まりない。
忙しなく通りを歩く無数の人々を、私は病院の窓から羨ましく眺めていた。
東京の病院に移って来て一年が経った今でも、私の体はあいも変わらず病に侵されていた。学校に通っていれば、今頃卒業だったのだろうか。
今の医療では、進行を遅らせるのが精一杯であり、未来の医療に期待する他なかったのだ。
だが、それもいつになることやら。状況が芳しくないことは、医者や両親の反応から分かっていた。こんな時は、私の観察眼が憎い。せめて希望を持って生きられたのなら幾分かマシだっただろうに。
私の人生は一体何だったのだろう。そんなことをぼんやりと考える。
学校に通っていたあの頃の時間は、私にとって本当に夢のような時間だった。
病気のことを忘れられるほど、毎日がキラキラと輝いていて今でもたまに夢に見る。教室でみんなと一緒に授業を受けたり、文化祭の出し物を作ったり。放課後友達と遊ぶなんて私には無縁だと思っていたことを沢山経験した。
もし私が普通の体に産まれていたら、あんな未来もあったんだろうか?
……どうして私だけこんな思いをしないといけない? どうして、私だけ。
きっともうみんな私のことなんて覚えていないのだろうと考えると覚悟していたはずなのに体が震える。
たった数ヶ月行動を共にしただけの存在など、普通の人生の中で見ればほんの一ページ程度のもので次から次に塗り替えられていく記憶の一部でしかない。いなくなった人のことなんて、気がつけば記憶が風化し、私の名前など思い出話でも口にされることはなくなるのだろう。
私だけ。私だけが前に進めないまま、未だこの病室で過去に囚われている。
進みたいと願うばかりで、道がどこにも存在しないのだ。いつ途切れるかも分からぬ暗闇をただ一人、大丈夫だと騙し騙し言い聞かせて進んできた。でも、そうやって歩いてきたこの人生が誰の記憶にも残らず、役に立たず、気付かれることなく消えていく。私の存在価値とは一体何だったのだろう。
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。怖い怖い怖い、死にたくない、どうして私が、一人にしないで、忘れないで側にいて。
弱りきった心を守るように、私は布団を頭から被り、己を世界から隔離する。
コンコン!
病室のドアを叩く軽い音が部屋へと響き渡った。
……看護師さんだろうか?もうそんな時間になってたっけ。
「はい、どうぞ!」
私は、浮かんでいた涙をぐっと体内へ押し戻し、見る人に元気を与える自慢の笑顔を貼り付けた。この笑顔は私にとって鎧だ。
ニコニコと、どんな状況でも笑って生きていける強い人間。そんな人になりたいという、本当は弱い私を守る鎧。いくら弱っていても、それを表面に出してしまえば私はきっと壊れてしまうと分かっていた。
私の声に反応し、ガラッと病室のドアが開かれる。
「なん……で……」
そこに立っていた人物により私の自慢の笑顔は、一瞬で剥がされる。
それと同時に、ずっと忘れたいと思っていた感情が胸から溢れだした。
「久しぶり。遅くなって……ごめん」
そこに立っていたのは看護師でも親でもなく。私の人生で唯一、好きになった人。何度、普通の恋が出来ればと願ったか分からない。諦めて、諦めさせた人。
一年ぶりに会う彼は、罰が悪そうな顔で、立っていた。
「葛谷……くん?」
私は幻でも見ているのだろうか?過去のことを思い出しているうちに夢を見ていたり。そうだ、そうに違いない。
だが、全身で感じる痛みが空気が嗅覚が触覚が。紛れもなくこれが現実だと訴えている。
でもそんなことあるわけない。ないのだ。だって私は彼にちゃんと別れも告げずに過去にしたのだから。
「他の誰に見えるんだよ。それとも俺のこともう忘れた?」
くしゃっと笑う彼は、久しぶりの再会を喜んでいるように見えた。
でも……何で?
「どうして……来たの。だってここ東京だよ⁉ そもそも、私のことはもう忘れてって……言ったのに。どうしてまた会いに来たの」
本当に、分からない。どうして今更。どうして今頃。あの時、私と一緒に生きることを選んでくれなかったあなたがどうしてまた私の所に来るの?
葛谷くんは昔と同じキラキラとした感情を私に向けていた。それが酷く辛い。
私は、あなたが思っているような人間じゃなかった、強くない。そんなキラキラした感情を向けられても返してあげられる自信がない。
「あー……話さなきゃいけないことは沢山、あるんだよな。本当に沢山。まぁでも、今日ここに来られたのは、川崎の母親のおかげだ」
「お母さんの……?」
二人に接点があったなんて、初耳だ。一体、いつから?
「覚悟が出来たら、その時は連絡して欲しいって言われてたんだ。ようやくその覚悟が決まったから、今日はそれを伝えに来た」
覚悟? 一体何の覚悟が出来たというのだろう。
あの頃は、葛谷くんに心が読めるなんていう嘘をついていたが、所詮それは嘘。私に内容まで当てる能力はない。
葛谷くんがしたという覚悟が私には分からなかった。だが、葛谷君のその体から、もう迷わないという確固たる意志を感じた。
そうして、口を開く。
「川崎。これからはずっと一緒だ。俺はもう、どこにもいかない。俺を見て、不安なら俺を頼ってくれ。周りに誰もいないなんてそんな寂しい思い俺がさせない。俺が保証するから。大丈夫だっていつでも言う。だから、俺を信じてくれ」
……それは、以前私が葛谷くんに言った言葉だった。心が折れてしまった葛谷くんをもう一度奮い立たせるために、私の中にある最も安心できる言葉をつめこんだ台詞。
そしてそれは、私が言われたい言葉でもあった。ずっと言われたいと願っていた側にいるという言葉。言って欲しかった台詞を、ずっと言って欲しかった人にこんな風に貰えるなんて。
やっぱりこれは夢か、夢だ。
だってほら。何故だか視界が霞んで前が見えないのだから。
「何を、言ってるの。こんなとこまで来て……学校だって……早く帰らないと」
飛びつきたくなる本心を必死に押し殺す。ずっと一緒にいるなんて綺麗事だ。だって葛谷くんは普通の人なのだから。わざわざ私なんかを選ぶ理由がない。喜んだらダメだ、もっと辛くなる。
「帰らないよ。俺さ、四月から東京の大学に通うことにしたんだ。だから、ずっとこっちにいる。もう離れないっていう俺なりの覚悟だ」
どうして、どうしてそんなことをしたの?
わざわざこんな遠くまで。
葛谷くんの前では、私が私でなくなるような……見せかけの笑顔が使えない。
「どうして?」
葛谷くんは照れくさそうに、顔を背ける。
「好きな人がいるからに決まってるだろ?」
好きな人、という言葉に、私の心臓がどきりと跳ねる。
発作か? いや違う。これは私の感情だ。
葛谷くんの言葉に、嘘はどこにもない。私の目がそう言っている。
「どう……して……」
さっきと同じ質問をもう一度繰り返す。もう私は泣いていた。言い訳のしようもないほどに、目から涙が溢れて止まらない。
葛谷くんは優しく微笑む。
「川崎のことが好きだから」
その言葉で抑えていた感情が一気に溢れ出して葛谷くんの姿が見えなくなる。あれだけ拒絶したのに。それでも懲りずにこんな場所まで来てくれた。
私も恋をしていいんだろうか、普通の女の子になっていいんだろうか。もう全てどうでもよかった。この熱に全てを任せたい。葛谷くんさえいればいい。
泣きじゃくる私を、葛谷くんは優しく抱きしめる。
「返事を、聞かせてくれないか?」
その声は、凄く優しかった。溜まりに溜まって爆発寸前だった不安なんてものが嘘のように消えてなくなってゆく。
「私、心臓が悪くて」
「知ってる」
「いつまで生きてられるかも分からなくて」
「関係ないよ。ずっと側にいる」
「ずっと一人で」
「もう一人じゃない、俺がいる」
「普通の女の子じゃなくて」
「普通の女の子だよ」
「君の理想じゃない」
「俺の理想は川崎だけだ」
「いつからそんなことを言えるようになったの」
「毎晩後悔してたからかな」
葛谷くんは私の言葉を一つ一つ全て聞き、その全てを許容した。大丈夫だ、と抱きしめるその体はとても暖かい。
「私なんかで……いいの?」
最後の確認。でも、その答えをもう私は知っていた。
「川崎がいいんだよ。俺を救ってくれた川崎を、今度は俺が救いたい」
物心ついて以来、私は初めて両親以外の前で大きな声で泣いた。
弱い所は見せちゃいけない。ただでさえ、迷惑をかけているのだからその上不快にさせるなんてってずっと思ってきた。
でも、今だけは。今だけは涙が止まらなかった。いくらでも涙が溢れてくる。
そうして私が泣き疲れるまで、ずっと葛谷くんは私のことを抱きしめてくれていた。
我に帰って離れると、顔が熱くなる。
好きな人の胸であんな風に感情を晒して泣くなんて。
「泣いてたのはナイショだからね!」
必死になって抵抗する私に、葛谷くんはおかしそうに笑う。
「はいはい」
その言葉はまるで小さな子供の相手でもしているかのよう。
絶対分かっていない、あんな姿を見られたなんて恥ずかしくて死んでしまいそうだ。
「あぁ……誰にも弱音見せたことなかったのに」
落ち込む私に、葛谷くんはただ横にいてくれる。
「俺はもっと色んな川崎を知りたいよ」
久しぶりに話す会話は、以前と何も変わらず、一年会っていなかった気まずさなんてものもない。なんて心地良いんだろうと、酔いしれる。こんな時間がいつまでも続けばいいのに……いや、もうそんなことを考える必要はないのだ。これからはずっと一緒なのだから。
もう私は一人じゃなかった。
「その……川崎っていうのやめて。お母さんと被るでしょ。私のことは……美雨って呼んで」
せっかく両思いになれたんだからねと見せかけでない私の心からの笑顔で微笑む。これまでずっと我慢を積み重ねてきたんだ。これぐらいの贅沢許されてもいいだろうか。
葛谷くんの驚いたような顔が面白い。
「……美雨」
少しして、恥ずかしそうにそっぽを向きながら私の名前を呼ぶ。
ただ名前を呼ばれているだけなのに、胸が躍るように弾む。
「なーに?」
意地悪にそう尋ねれば、顔を真っ赤にした葛谷くん、いや啓太くんがいた。あぁ、本当に可愛い。
私を選んだこの道が啓太くんにとって幸せなのかどうかは分からない。でも、良いのだ。もう気を使うのはやめよう。だって私は今こんなに幸せなのだから。どこに繋がっていようと後悔はない。
「私ね、実は夢があったの。私みたいに一人ぼっちの子供達を救ってあげられる心理カウンセラーになる夢。いつか体が良くなったらさ、なれるかな」
誰にも打ち明けたことのなかった夢。
今なら口に出せる。
「なれるさ。だって君は、誰よりも人の心に詳しい超能力者なんだから」
その言葉は、私に勇気をくれる魔法の言葉だ。
それから私は二年と半年生きた。
「ねぇ、葛谷くんだよね? 暇だったらお話ししようよ」
酒の香りと共に、甘い声で身を擦り寄せてくる女性。それは、確か俺と同学年だという須藤さんだったはずだ。
それは明らかな好意の色で向けられて嫌な類の視線ではない。
だが、彼女の顔を見ると瞼の裏にいつかの思い出が重なり心に影が落ちる。
「ごめん、俺はそういうの興味ないから」
俺は短くそう言い残し、席を立つ。
「えぇ……ノリ悪くない?」
「あいつはそう言うやつだよ。気にすんなって」
立ち去る背中に俺の態度を冷笑する会話が聞こえるが振り返ることなくその場を後にする。
店を出ると夜はすっかり更けており、冷房に慣れた体に蒸し暑い熱気が押し寄せ、思わず顔を顰めた。
君がいなくなったあの日を思い出させる夏の到来に、ふと昔のことを思い出した。
俺は、覚悟を決めて美雨のことを迎えに行った日以来、足繁く病院へと通った。俺たちは、あの日確かに気持ちが通じ合い、お互い言葉にしないまでも付き合っているのだという確証があった。
美雨は俺が病室に顔を出すと、顔を綻ばせ、会えなかった分を取り戻すかのような、まるで子供のように喜んだ。幸せで仕方がなかった。美雨のいない空虚な時間は俺には耐え難い物であり、それはきっと美兎にとっても同様であったから。
俺たちは、この先に待っているのが希望だと信じていたのだ。
美雨の「啓太くん!」という言葉が何度も何度も頭の中を巡り焦げついたように張り付いている。
「私が良くなったらまた二人で遊びに行こうね?」
「あぁ、当たり前だろ。どこにだって連れて行ってあげるから」
俺たちは時折、そんな会話をした。
美雨はそれを聞き、恥ずかしそうに。でも確かに期待を込めて検査の結果を毎度心待ちにしていた。
だが、病状は好転などしなかった。
むしろ悪化する一方であり、次こそは次こそはと意気込んでいた検査も回数を重ねるにつれ辛いものへと変わって行った。どうせ次もダメなのだろうという、分かりやすすぎるほどの絶望。
美雨は、明らかに衰弱していき一人で出来ることの幅もどんどんと狭くなっていた。そして、ついには歩き回ることすらままならなくなり、支えなしでは動けなくなった。
「ごめんね。私のせいで啓太くんに何もさせてあげられなくてごめんね」
あれだけ生気に満ち溢れていた美雨は、こうして弱音を吐くことが増えた。そして、時折「もう来なくていいよ」「私のことは忘れて」と俺に八つ当たりをするようになった。俺はそれを黙って受け止める。
だが、それでも俺は通うのをやめようとはしなかった。
時間を空ければ、美雨は「大好きだよ」「本当にごめん。いてくれてありがとう」と口にしてくれたから。きっと本心では心細くて堪らないのだ。その小さな体にどれだけのものを背負っているのか。俺は少しでもその荷物を一緒に背負ってあげたかった。
でも、そんなのも結局はただの自己満足にしか過ぎなかった。
美雨は、俺を置いて二十歳という若さでこの世を去った。
誰もいない家に帰り、明かりもつけずにベッドへと倒れ込む。
まだ俺は君がいなくなったことを完全には受け入れられていなくて、今でも君が元気に過ごしている夢を見るし、君に囚われている。もしかしたら全部嘘で病気なんて無かったんじゃないかという、淡すぎる期待。
それでも、君が俺の隣にいないことだけはどうしようもない事実で日々だけは変わらず、無情に過ぎていく。
そんな憂鬱な気分を変えようと慣れない飲み会に参加してみたはいいものの、やっぱり君の影がチラついて離れなくて。
自分の弱さがどうしようもなく惨めで死にたくなる。
俺だって、ずっとこのままでいる訳にはいかないと分かっていた。それでも君を忘れようとする度に、君の顔が思い出されて忘れることを許してくれない。
そうして美雨のことを考えていると、ふとある存在を思い出した。
重い体を起こし、部屋の電気をつける。見ないように引き出しの奥底に仕舞い込んで埃を被っていたそれを取り出す。
それは、飾り気のない白の便箋だった。美雨の死後、美雨の母親から渡された物である。
見ているだけで息が詰まりそうになる。だが、そんな感傷を飲み込み俺は破らぬよう丁寧に封を開けた。
数日後、俺はとあるカフェにいた。人との待ち合わせをしているのだが、少々早く来すぎてしまっていた。このカフェでは、ケーキが人気らしいがあいにく俺は甘いものがいまだ好きではない。
どう時間を潰したものかと虚空を眺めて時間が過ぎ去っているのを待っていると肩をぽんと叩かれる。
その触覚に振り向くと、片手を挙げた懐かしい顔があった。
「よっ! 久しぶり!」
大村蓮が立っていた。
「でも、久しぶりだな。川崎さんの葬式以来だから……ちょうど一年ぐらいか? 啓太は元気か?」
「俺はぼちぼちかな。来年卒業だから何かと忙しい時期ではあるけれど」
「そっかそっか! 俺で良ければ相談は乗るからさ」
「ありがとう」
蓮は、久しぶりでも昔と変わらぬ輝く笑みを浮かべている。いや、違うか。俺に気を使ってそんな顔をしてくれているのだ。
久しぶりの友人との再会に積もる話も多い。お互いの近況についてをしばらく語り合った。
「でも川崎さんのことは本当に残念だったよな。まさに美人薄命を体現したような人だった。啓太が腐ってなくて安心したよ」
重くなりすぎないように、極めて明るく蓮がそう口にする。その気遣いを想像するだけで苦しくなるようだ。
「まだ全然忘れられて無いけどな」
俺の暗い言葉に、見て分かるほど蓮の顔に動揺の色が浮かんだ。やはり、今日呼び出した理由もそこに帰結するものであるらしかった。
「えっと、ほら。あれから、もう一年だろ? 忘れろとは言わないけどそろそろ前を向いて進まないと川崎さんも浮かばれないんじゃ……」
「勝手なこと言うなよ! 俺にとっては昨日のことのように思い出せるし、今でも信じられてないんだ」
俺を傷つけようと言っているので無いことぐらい分かっている。それでも、この友人の言葉が俺の心の弱い部分を抉っていることは間違いなくて強い拒絶反応を示してしまった。
「ごめん……」
あからさまにテンションが落ち、項垂れてしまった蓮を見ていられなくて目を逸らす。
「謝るなよ……そんなつもりじゃないことぐらい分かってる」
お互いに気まずくて無言の状態がそのまま数分続いた。
「俺、実は川崎さんに頼まれてたことがあるんだ」
しばらくして蓮がぽつりとそう呟いた。
「頼まれてたこと?」
俺の初めて知る情報であった。蓮は、東京まではるばる遊びに来た時に美雨のお見舞いに来てくれていたことがあった。その時の話だろうか。
だが、俺は頼まれていたことがあるなんて聞いたことがなかったし美雨の話をしたのも葬式以来初めてのことであった。
一体、何を頼まれていたというのだろう。
「もしも私に何かあって。啓太くんが私のことを忘れられていないようなことがあった時には助けになってあげて、って。だから今日こうして話を聞きに来たんだ」
思わず息を呑んだ。まさに、今この状況のことではないか。
美雨は、予感していたのだ。俺が、あれを読んでも忘れられないことがあるのでは無いかと。そのための保険として、蓮にこの伝言を託していたのだ。
「それ、いつの話だ?」
「去年の春だから……四月とかだと思う」
美雨が亡くなったのは八月の暑い日だった。その四ヶ月前から美雨は自分の死と、そして死後のことを考えていたのだ。
久しぶりに、美雨の生きていた証。新たな情報に胸がぐっと熱くなるのを感じる。
でもだからこそ出来ない。この熱を無かったことにして美雨の願いの通りにすることなど。
「俺はこんなに傷ついている啓太のことを無視できない。もちろん、辛いのは誰よりも分かってるつもりだ。でも、啓太の人生はまだまだ続いていく。いつまでも止まっているわけにはいかないんじゃないのか?」
それは、心からの心配の言葉であった。
だが、だからこそこ俺は首を振った。
「俺は、もうあの日に覚悟を決めたんだ。この先、何があろうと美雨のことを忘れないって。それが大病を患っている美雨と一緒にいる俺の覚悟だった。だから……ごめんな」
蓮は、「いつでも相談は乗るからな」と言い残してカフェを後にして行った。
これで良かったのだ。俺は、自分の選択を一度だって後悔していない。美雨と出会ったことにより、俺の人生は確かに色付き、考え方が一新された。それは文字通り世界が変わるほどの体験で、俺に沢山の希望を見せてくれた。
だからこそ、美雨の言う通りになんてしてやるもんか。いつまでだって覚えていてやるし好きでい続けて忘れてやらない。
俺は君が大好きで、大好きで仕方なくて。
それが俺を置いて先に行ってしまった君への俺からの最大の復讐だ。俺は君が大好きだった。君はきっと今でも俺のことを好きでいてくれているのだろうから。
『啓太くんへ
この手紙を読んでくれているということは、私が死んだ後にちゃんとお母さんが渡してくれたんだね。
死後に向けての手紙なら遺書ってことになるのかな? そう考えると、どうやって書いたらいいのか分からなくなりそうだね(笑)
だって今まで遺書なんて書いたことないよ。好きな人への手紙だって私には初めてなんだから。だからね、凄く緊張してる。力の入らない震える手で書いてるから読みにくくてもご愛嬌だからね。それだけ。それだけです。
では本題に入ります。
まずは思い出話からです。
啓太くんと初めて会った日は、正直よく覚えていません。クラスメイトの一人、ぐらいの認識だった気がします。個人として認識したのは放課後。私が初めて声をかけた日だよ。
啓太くんと出会ってからの日々は、病院で過ごしていた無機質で灰色な日々とは違い、色鮮やかで毎日が楽しかった。最初はなんて卑屈な人なんだろうと思っていたけれど関わるうちにその優しさに触れて、いつの間にか好きになっていました。明確に好きだと自覚したのは二人でゲームセンターに行った時かな。啓太くんの笑う顔を見て思わずドキッとしてしまいました。
なのに私は、啓太くんからも好意を感じていたにも関わらず何も言わずに君の前から去りました。でも諦め悪く病院まで来て好きだなんて言ってくれて。本当は、嬉しくて飛び上がりそうだったくらいなのに、それでも私は君を突き放しました。
それでもやっぱり諦めてなんてくれなくて。大学まで東京の大学にして私のことを追いかけてきてくれました。私の病室を訪ねてきてくれたあの日は、私の人生で間違いなくて1番嬉しかった日です。人前で絶対泣かないと決めていたのに思わず泣いてしまいました。
私は世界で1番不幸だと思っていました。でも違いました。啓太くんが来てくれたおかげです。そのおかげで私は希望を得ることが出来ました。でも、そんな啓太くんに私は到底不釣り合いでした。
私なんかのどこにそんな価値があるのだろうと何度も考えました。きっと私でなくても、今の啓太くんならもっと可愛くて健康な人といくらでも繋がれる。どうして私なんだろうって。
考えれば考えるほど思考が暗く沈んで、何もしてあげられていない私がもどかしくて、やっぱりまた啓太くんを突き放しました。
それなのにやっぱり啓太くんは諦めてくれなくてずっと私に付きっきりで。凄く胸が痛くなって。好きです。
何か私にできることを考えました。何もありませんでした。体は思うように動かないし、一緒に出かけようと言っていたのも、到底現実味はありませんでした。
返してあげられるものが何一つありませんでした。私はこんなにも啓太くんから貰ってばかりなのに。まだなにもしてあげられていないのに。
そう思うと、胸が痛くて痛くて堪りませんでした。病気なんて非にならない耐え難い痛みです。きっと想像出来ないと思います。
私はもうすぐ死にます。いや、きっともう死んでいます。だから、その先の未来で啓太くんの幸せを願うことにしました。
私は啓太くんに何かを遺すことはしません。遺してはいけないと思いました。
よく死んだとしても、心の中で生き続けているんだよなんて言います。そんなの綺麗事だと私は思うんです。死人は死人。もう喋ることも一緒にいることもできません。そんな人がいつまでも生きている人の足を引っ張っていくわけにはいきません。
啓太くんは優しいからきっと沢山悲しんでくれると思います。でも沢山泣いた後は笑ってください。私は笑っている啓太くんが好きです。
覚えていて欲しいとも思いません。私のことを忘れて、楽しく笑って幸せに暮らしてさえくれれば。私でない誰かとでも啓太くんが笑ってくれればそれでいいと本気で思えます。
私はそれぐらい啓太くんのことが好きです。だから、私のことは忘れて笑ってください。
本当はこの手紙も遺すべきではないのかもしれません。何も形として残っていなければ、いつか思い出も風化してなくなるかもしれないから。でも、私は啓太くんに沢山の物を貰いました。貰いすぎました。
感謝すら述べずに旅立つのは自分を許せませんでした。矛盾してるよね? 分かってる、無茶苦茶なことを言っているかもしれません。それでもこの手紙だけは書かせてください。読み終わったら処分していいですから。
私、川崎美雨は葛谷啓太くんのことが大好き。大好きです。きっと死んでも大好きです。何が起きようとも。それが例えば生まれ変わりだとしても。この気持ちが変わることはきっとありません。
だから、啓太くんは私を忘れて笑ってください。もう私のことを思い出す必要はありません。啓太くんのお陰で私は幸せになれました、最後の瞬間まで死が怖くありません。あなたのこれからを想像して楽しみで楽しみで仕方ないんです。
幸せに。私のことなんて気にならないくらい、幸せに生きてください。
愛してる。
願わくば……またいつか。
川崎美雨より』
いつものように外で遊んでいれば、急に胸が苦しくなって気がつけば私は病院にいた。
隣に座る両親は、幼い私の手を握ったまま、医者に告げられた言葉に言葉を失っていた。私は、それが果たして何を意味するのかを理解することは出来なかったが、これからは普通でいられなくなるだろうなと子供ながらに思ったのを覚えている。
それから、その予想通り私の生活は一変した。通っていた幼稚園には行かず、毎日病院のベットの上で過ごす生活。幼い私には広すぎる友達も誰もいないその無機質な広い部屋は、酷く退屈で、絵を描いて暇を潰していた。
たまに私の部屋に尋ねてくるのは、看護師さんと、ごめんねと涙を流しながら謝るお母さん。
私は、泣いているお母さんに、私は元気だから心配しないで泣かないで、と声をかけたが、それを聞くと一層辛そうに顔をゆがめる理由が分からなくて、何故だか私まで泣けてきて二人して泣いていた。
私は、どうやら心臓が弱いらしいとはっきり自覚したのは、もう少し大きくなって小学生になった頃だった。その頃には、自分の置かれている状況もある程度理解していた。
相変わらずお母さんは私の前でよく泣いて謝る。私は今こうして元気に過ごしているのに本当に病気なのだろうかと病院内を歩いてみたことがあった。いつも過ごしていた病院だったが病室以外を一人で歩くのは初めてであった。それは、まるで知らない土地を歩く勇者の気分で、胸がどきどきして止まらなかった。
大人に見つからないようにこっそりと物陰に隠れながら慎重に移動して病院内をあらかた一周した頃だろうか。
胸に痛みを抱えて私は立っていなれなくなり、その場に蹲った。
まるで燃えるかのように体が熱いのに、指先など末端が冷えて仕方ない。全身からと血気が引きまるで私が私でなくなるかのよう。死を人生で最も間近に感じた瞬間だった。あぁ、私は普通じゃないのだとその時、改めて実感したのを覚えている。
幸い、その時は通りがかった男の子がすぐに私を見つけてくれてことなきを得たらしい。
だが、その一件以来、勝手に出歩かないことと厳しく制限をつけられて遊びたい盛りであった私は、酷くがっかりした。しかし、痛い目を見たことは身に染みて覚えていたので、勝手に抜け出すことはしなくなった。
誰もいなくなった病室で考える。きっと今頃、私と同じ年の子供は、外で元気に遊んで両親と暖かい部屋で温かいご飯を食べているのだろう。それが普通で、私のようにこんな暗くて寒い部屋に一人で取り残されているのは普通じゃない。両親が私を見て泣くのは、きっとそれが悲しいから。私がもっと普通なら。もっと元気で、昔のように一緒に旅行に行ったり、一緒に遊べるような子供だったなら、きっともっと笑顔を見せてくれて楽しく過ごせていたに違いないのだから。
もう両親の辛そう表情は見たくなかった。冷たい布団の中で、一人涙を流す。だが、それは誰にも届かず慰められることなく消えていった。
「看護師さん、具合悪い?」
それは普段通り、部屋に掃除をしに来てくれた看護師さん。何か根拠があったわけじゃなかった。ただ、何となくそう感じただけ。だが、私のその声に、顔馴染みの看護師さんが驚いた表情を見せる。
「よく分かったね、夜勤明けだったからかな」
「無理しないでね」
そう言うと、看護師さんは顔を綻ばせた。
「ありがとう。美雨ちゃんは優しいんだね」
その笑顔を見て、私は気付いた。何もできない私が相手を喜ばせるにはこれしかないんじゃないかと。相手のことを観察して欲しい言葉を与える。
それは天啓であり、私にはその才能があったのだと思う。注意して相手を観察すれば相手の考えていること、感じていることを私は読み取ることが出来た。そして、人は笑顔の人に対して良い感情を抱くのだということに気付くのに時間はかからなかった。
「お母さん、私もう泣かないよ」
いつもの様に、私を抱きしめて泣くお母さんにそう囁いて、私は私に出来る最高の笑顔を浮かべた。いつもお母さんに釣られて泣いてしまっていた自分を見て、お母さんが余計に辛くなってしまっていると知ったのだ。それが一体どれだけの力があったのかは分からないが、お母さんは呆気に取られた顔をしていた。
「どうしたの美雨」
「私、辛くないよ。お母さんの子供に生まれてこられて良かった」
それを聞くと、お母さんは涙で歪んでいた顔を、さらに歪めた。
私は、両親が私を健康な体で産んであげられなかったことに負い目を感じていたのを知っていた。だからこそ、この言葉はお母さんが一番言って欲しかった言葉に違いなかった。
私なんかが産まれてきてごめんなさい、私はちゃんと良い子でいるから私のことで泣かないで。
「ごめんね……」
お母さんは、泣くのは今日が最後だからと言って、より一層強く私を抱きしめて大きな声で泣いた。その温かさに私も涙が滲んだが必死に抑えた。
翌日からのお母さんは、人が変わったように明るく振舞ってくれるようになった。今まで泣いてばかりだった病室で、家であった出来事や、見たテレビ番組の話などを笑顔でしてくれるようになった。それに私も笑顔でいい子を演じる。
それが、私は嬉しくて自分の言った言葉、立ち回りは間違っていなかったんだと確信する。私には、人間観察の才能があったらしかった。
私はその力を使って、お利口な子供であり続けた。何もできない、何も生み出さない私が迷惑をかけないために少しでも関わる人を笑顔にさせる能力として磨き続けた。手のかかることは言わない。我慢して当たり前。だって私は普通ではないのだから。
お母さんは、病室に花を買ってきてくれるようになった。
「この花、ガーベラっていうのよ」
綺麗な花だった。無機質で何の華もない私の病室が、その一角だけ色鮮やかなガーベラで色づいたように思える。
「綺麗だね」
「ガーベラには、花言葉があるのよ」
そうして、お母さんはガーベラの花言葉について話してくれた。
ピンクのガーベラの花言葉は、『感謝』『崇高美』。崇高美というのが一体何を表しているのか私には分からなかったが、気高くて美しいという意味だと教えてくれた。私には、似合わない言葉だなと思う。私は、気高くなんてなくて人に媚びて自分の存在価値を証明する対極の存在だったから。
赤いガーベラの花言葉は、『神秘』『燃える神秘の愛』。私には、燃える神秘の愛の経験がなかった。これはきっと両親に向ける愛情ではなく、恋のことを言うのだろう。だが、私にはその経験も相手も存在しなかった。病院から出ない私にとって出会いなどどこにもなくて同じ入院患者の男の子と仲良くなってもみんなすぐに退院していく。いつまでもこの場所に縛られているのは私だけだった。
オレンジのガーベラの花言葉は、『神秘』『冒険心』。冒険心というのも、私には縁遠い感情であった。昔、その感情で病院を歩くという無茶を敢行した結果、謝って回れる人数以上の人に迷惑をかけた経験があったから。私の自我は必要ない。
黄色のガーベラの花言葉は、『究極美』『究極愛』。どちらも究極がついていて大袈裟だなと思う。病院のパジャマ姿でいることしかない私にとっては、お洒落なんて無縁のものだし、したいという願いもとっくのとうに枯れはてていた。
「そしてね、白のガーベラの花言葉は『希望』『律儀』。いつか美雨が良くなりますようにっていう願いが込められてるんだよ。絶対治る時が来るからね」
そういうお母さんの声は、私に言っているというよりはまるで自分に言い聞かせているようだった。いつか良くなってくれる、普通の子になってくれると信じているような口ぶり。
だが、私はそれが簡単なことではないと知っていた。医者は私の検査結果を眺めていつも難しい顔をしていて、私の前では泣かなくなった両親も私に隠れて泣いていた。どうして私の体は言うことを聞いてくれないのだろう。ここまで良い子にしているというのにどうして神様はこんなに酷いことをするのか。
十四歳の誕生日に、両親はスマホをプレゼントしてくれた。いつも一人で病室にいる私が寂しくないようにと。いつでも話しかけていいからねと言われたが、実のところあまり興味はなかった。両親は私に毎週のように会いに来てくれていたし、実際に会わなければ私の心を読む観察眼も意味をなさない。文章でのやり取りは、相手の感じていることが分からない分、私には恐怖であった。
だが、結果としてそのプレゼントは正しかったと言える。毎日が変わり映えせずに過ぎていく私にとって、外の世界と繋がれるのは貴重な体験だった。
私は、ゲームに熱中して、一人でいる時間の大半をそれに費やすようになっていた。その世界でなら、なりたかった普通に溶け込めていたことが嬉しかった。
私が十六歳の誕生日の日。お父さんから学校に通わないかと言われた。一体、何を言っているのだろうと聞き返してしまった。
「お父さんの知り合いの学校で、高校二年生の間だけ学校に通わせてもらえることになったんだ。もし、美雨さえよければ行ってみないか?」
どうやら私の最近の検査の結果が好調だったことによって計画されたものらしい。私は迷った。ずっと普通の生活に憧れてきたが、きっと実際に学校に通うとなると、周りへかける負担は凄まじいものになるだろう。なにせ、私はまだ治ったわけではないのだから。
「嬉しいけど、そんな迷惑はかけられないよ。私は今のままで大丈夫」
ただでさえ、私には多額のお金が掛かっていた。それに加えてさらに出してもらおうだなんて、とても言えたものではなかった。
「美雨、私たちのことなら心配しないで。したいようにしていいのよ」
お母さんが、そう言って私の手を握ってくれる。私の心を見透かしたように心配しないで欲しいと言われた。でも、その瞳の奥には私に普通の女の子のように生活してほしいという母の願いがあることを私の目は見抜いていた。
どうしようかと悩む。今の生活に不満はない。不満を言えるほど何かを成しているわけではないから。贅沢を言うつもりはなかった。
だが、両親は私にこの生活を強いていることに負い目を感じているらしく、これは説得でどうにかなるものでもないとも思った。
「俺たちの願いに応えると思って。行ってみてくれないか」
お父さんの縋るような目を見て私は覚悟を決めた。
「分かった。学校、行くよ」
そう言って微笑む。
それが無理に無理を押し通した選択であることは分かっていた。お父さんの顔は、仕事による疲労で年齢よりも更にこけて見えたし、私の体も仮初の健康である。きっと苦労が絶えないだろう。
だが、ここまで育ててくれた両親の願いを叶えてあげたかった。
そうして私は、星恩高校という、地元では有名らしい進学校に二年生から転入した。普段同年代の子と話す機会など滅多になかったため心配していたが、いざ入学してみれば私の人の考えていることを察することが出来る力によって、意外なほどあっさりと良好な人間関係を築くことに成功していた。この時には、自分の観察眼に感謝した。多少話しが合わないところがあろうと、いくらでも好意的に振る舞い挽回できた。
学校生活は想像していたより、ずっと楽しくてこのままずっと続けばいいのにと願う。だが何事も上手くいくことはなく、私の体は、学校が終わればすぐに病院へ帰るという生活を強いられていた。だが、それを差し引いても学校に通っていることを後悔はしなかった。
どうやら私は、特例の処理らしく、授業で先生から当てられることも、宿題を出す必要もなかった。私の体のことを知っているのは数人の先生だけ。勿論、体育はどんな種目であれ見学していたため不思議な目で見られたが笑って誤魔化した。そうして、私が馴染みやすいような環境が整備されていたおかげで何とか平穏に日々を過ごせていた。
意外と私もやれるじゃないか。学校生活は心配していたよりもずっと上手くいっていて、友達も出来て、クラスの中心人物グループに入ることができた。
放課後の学校で、教室にスマホを忘れた私は友達と別れて取りに戻っていた。自慢の笑顔の効果に、自然と笑みが零れる。私は普通だ。普通になれている。
教室の扉を開けようと手をかける。すると、誰もいないと思っていた教室内から声が聞こえてきた。
「ほんと、ばかじゃねーの」
こっそり中を窺えば、そこには同じクラスの葛谷啓太くんがいた。いつも目立たない彼を注目してみたことはそれが初めてで、その容姿は思いの外、整って見えた。
だが、彼が誰かと一緒にいるのを私は見たことがなかった。友達がいないのだろうかと心配に思う。
教室内に入っていくか躊躇って足が止まる。入ってもいいのだろうが、彼から溢れ出る敵意を感じたのだ。
何に対して、そんなに敵意を出しているのかと観察すればどうやら、先程まで教室内にいた私たちに対してだと気付く。
迷惑な話だと思う。葛谷くんに対して何かした訳でないし、誰も君のことを悪く思ってはいないのだから、ばかにされる筋合いはない。葛谷くんからは人と関わるのを諦めているような言葉に出来ぬ絶望が表れていた。
それが、何故だか非常に腹立たしかった。私と違って健康で時間もあるはずなのに、悲劇のヒロインのような雰囲気を纏って世界で一番不幸だという顔をしている。どうして私を差し置いてそんな顔をしている?
「誰も君のことを悪く思ってないよ」
私は、葛谷くんに話しかけてみることにした。
どうして話しかけてくるんだと言われた。そんなの、君のことがむかついたから。ただの八つ当たり。
私は、葛谷くんに嘘をつくことにした。誰にも言ったことがなかった人の心を察することが出来る力を超能力だと言って彼に話した。ただの気まぐれ。動揺しているようだったが、信じてはいないようだ。それもそうかと苦笑する。
私は捻くれた葛谷くんを更生させてあげることにした。それが、私が学校にいる意味になるんじゃないかと思ったから。
葛谷くんは話してみると意外と面白くて、相変わらず私のことが嫌いみたいだったけれど反応が面白くてついつい絡みにいってしまう。たまたま、私のやっていたゲームもやっているらしく意外な共通点があったことに驚く。彼も相当に、やり込んでいたらしいが、全ての時間を捧げてきた私にとっては赤子の手をひねるようなものだった。
「もう一回!」
二人だけで過ごす屋上の時間は、私が一方的に話してばかりだったけど楽しくて、気づけば自然に笑えていた。葛谷くんの前では、他の人と話すときのように欲しい言葉をかけてあげる必要がなかった。そんなことをしなくても、離れていこうとしなかったから。
その代わりに、思っていることを言い当てれば、なんで分かるんだよと戸惑う反応を見せるのが面白かった。
莉央が、葛谷くんに興味があったのは知っていたが、私のいない間に話しかけに言っていたのは驚いた。クールっぽい見かけによらず、誰にでも話しかけに行ける莉央は、誤解されることも多いが凄く優しい子だというのは知っていた。だが、その二人の相性はきっと良くないだろうということもまた分かっていたのだ。案の定、葛谷くんには誤解されていたみたいだけど。とにかく、私が仲を取り持ったおかげで二人は仲良くなってくれたらしかった。私は、ずっとはいられない。葛谷くんに友達が出来るのは嬉しかったが、何故だか寂しくもあった。
だが、その後の葛谷くんの様子には困ったものであった。
じゃんけんで、私の超能力が本当かどうかを確かめようとしてきたのだ。正直、この辺りで冗談だよと打ち明けても良かった。そんなものがなかったとしても、今の関係が急に変化するとは思えないほど打ち解けてきていたし、分かりやすく仲良くなっていた。だが、私は彼が私を特別視するこの関係がどこか心地よくて続けることを選択した。
じゃんけんであれば、私の観察眼を使えば必勝なのだ。直前の筋肉の動きから、出す手は予測できる。青い顔をして私の前にひれ伏す葛谷くんを見るのは申し訳なかったが、正直面白くて悪い気はしなかった。でも、この頃から葛谷くんの私を見る目に 変化がついてきていたのは、そのせいだけではないのだろうと心のどこかで気づいていた。
葛谷くんと一緒に放課後に遊びに行ったのもこの頃であった。その日は、たまたま病院の検査が休みの日であり、まるで時間制限付きのシンデレラのように縛られていた私の開放日であった。
まず最初に向かったのはカラオケであった。葛谷くんも慣れていないのと同様に私自身、放課後に友達と遊ぶという経験はあまりなかった。何をするか迷った私は、以前莉央に一度だけ連れていってもらったカラオケへと足を運んでいた。
私がエスコートするというのは初めてで、これでいいのかと内心ドキドキであったが、葛谷くんは文句も言わず私に付き合ってくれた。川崎の好きにしたらいいよ、という人任せな言葉は、言われて一番困るものであったが、言葉通りどこだろうと付き合ってくれるようだった。
葛谷くんは、今まで人とカラオケに来たことがないというわりには、中々どうしていい声で歌う。
「本当は来たことあるんじゃないの?」
「家で一人で歌ってるんだよ」
顔を赤らめて答える葛谷くんが可愛かった。
好きな曲は、今までの会話から何となく察していたため、近い選曲をすると、足でリズムを取ってくれていた。どうやら、退屈させずに済んだようだ。
その後は、ゲームセンターへ向かった。私と葛谷くんの共通の趣味であることを考えれば、無難な選択だと言えるだろう。
二人で過ごす放課後は、私にとって縁がないと諦めていた本や創作の中の世界の出来事であり、自分が男の子とこんな関係になるなんて思ってもいなかった。学校に通わせてもらえていなければこんな幸せを味わっていなかったのかと思うと、感慨深い気持ちになる。
余談だが、葛谷くんはゲームがそれほど上手くない。いや、正しくは私ほど上手くないだろうか。普通の人と比べてどうなのかは分からないが、クレーンゲームでは奥行や平衡感覚が曖昧で見当違いな所にアームを伸ばすし、対戦型ゲームでは、特有の癖があってとても扱いやすい。それに気づかない限りは、私に勝つことは出来ないだろう。
躍起になって勝負を挑んでくる葛谷くんが面白くて、それを負かすと本気で悔しがっているのがまた面白くて。とにかく私は笑ってばかりだった。人に嫌われまいと病室の鏡の前で練習した笑顔が、自然なものとして、産まれた時から出来ることのように出来た。
だからだろうか。私は少々無理をしすぎてしまったみたいだった。ゲームセンターをあらかた楽しみ尽くした頃、私を立ち眩みが襲った。しくじったなと思った。
「大丈夫か川崎」
「大丈夫、ちょっとくらっと来ただけ」
葛谷くん含め、友達には私が病気だと明かしていなかった。ここで倒れればきっと驚かせるし迷惑をかけてしまう。何より、元気で明るい私でないと価値なんてないのだから。
幸いなことに、葛谷くんは座って休む私に浮かんだ脂汗を単なる疲労によるものだと誤解してくれたようだ。だが、これ以上激しい運動をすることは体の負担になってしまうのが、分かりすぎるほど分かった。まだまだ、葛谷くんとやりたいことはあったというのに、それがこんな形で終わらせられるのは凄く癪であった。だから、これは抵抗だ。結果的に、この選択があんな展開を招いてしまうのであれば不正解だったのかもしれない。神様は、悉く私を見放す。
限界を訴える体を誤魔化して、私は行ってみたかったカフェへと葛谷くんを連れて行っていた。店内は、莉央が言っていた通り、若者向けの洒落た雰囲気で確かにこれはいいと思えるものだった。私は、好物であるシュークリームを頼むが、葛谷くんは甘い物が嫌いらしい。甘い物が嫌いだなんて、逆張り好きな葛谷くんらしいと妙に納得する。
注文をしようと店員を呼べば、その顔を見た葛谷くんの顔がみるみる蒼白へと変わっていった。相対する店員の顔も、葛谷君とは系統こそ違うものの深い反省と気まずさが表れて青い。
二人は、中学時代の知り合いらしかった。だが、二人の様子からして、それが望んだ再会でなかったことは想像に難くなかった。
ほどなくして注文することなく飛び出していった葛谷くんを見て、私に様々な思考がめぐる。どうして急に飛び出してしまったのかとか、以前何があったのかとか。追いかけなければならないとは分かっていたが、私は正直ここに来るのもやっとという状態でとても走れる状況ではなかった。だが、そのままにしておくことは出来ず、同じく呆気に取られた表情をしている店員に軽く一礼して、ふらふらとした足取りで、葛谷くんの消えていった方向へと歩みを進めた。
それから、また時間が流れた。あの日、公園で見つけた葛谷くんから過去にあった因縁を聞いた。申し訳ないことをしたと思った。私の意地によって、必要のない過去のトラウマを抉ってしまった。だが、それを聞けば、店員の表情から何を考えていたか推察することも不可能ではなかった。
結局、心が折れて自分の殻に引き籠る葛谷くんと、同級生の大村くんを引き合わせて過去のトラウマを払拭させることに成功した。そこで、私の葛谷くんを更生させようという目的は達成されたのだ。私の葛谷くんと関わる建前はそこでなくなったはずであった。
だが、私は関わるのをやめなかった。
すっかり明るくなった葛谷くんは、どうやら私のことが……好きなようだった。思い上がりではないかと何度も思ったが、やはり何度確かめても私の目には好意を抱いているとしか思えなかった。
その頃には、私も葛谷くんに対して特別な感情を抱いていたことを少しずつ自覚していた。
恋なんて、今まで一度もしたことがない人生だった。物心のついた時から病院以外の関係が制限されていたのだ。誰かを想って胸が熱くなるなんて、初めての経験で病気とはまた違う胸の痛みに困惑させられていた。
私たちは、お互いに両思いであることを薄々気付いていたと思う。そんな曖昧な関係は甘くて溶けてしまいそうだった。
葛谷くんは、告白してくることはなかった。きっとこれからも時間はあるのだから焦る必要はないと思っているのかもしれない。だが、私には告白を口に出来ない理由があった。
「美雨ちゃん、検査の結果。どんどん悪くなってるよ」
定期健診の結果を医者に言い渡された時、私は絶望の淵にいた。
「このままだと、学校に通い続けるのは無理かもしれない」
「そんな……!」
「近いうちにもっと大きな……東京の病院に移ったほうがいいと思う」
確かに、心当たりはあった。以前から体力はなかったが、最近は特に息が切れる。ちょっとした日常生活ですらそうなってきていたのだ。学校を休む日も増えてきて、嫌な予感はしていた。だが、学校を辞めなければいけないというのは初めての恋を経験している私にとってはとても酷な話であった。元々、二年生の間だけという話ではあったが、その期間が大幅に短縮されることとなったのだ。
私は、いつ振りか分からないぐらいに、母親の前で泣いた。母親には、私の学校での出来事などを事細かに話していたため、私の恋心についてもある程度気付いているようで一緒に泣いてくれた。私に涙を見せないようにしてくれていたのに、この時ばかりは我慢できなかったようだ。二人して抱き合って泣いた。
「ごめんね」
そうして、毎晩泣きながら布団の中で考えた結果。私は学校を辞める直前まで誰にも言わないことを選択した。勿論、この選択をすることによって今後誰との関りもなくなるだろうということは分かっていた。
だが、それ以上に私は、自分が普通でないとみんなに思われるのが嫌だった。心配せずとも、しばらくすればみんなの記憶から私はきっといつの間にか消えてなくなる。そのことはとても辛かったが、今まで一人で生きてきた私にとってそれは元に戻るというだけだった。幸せな夢だったと割り切ってもう終わりにしよう。
しかし、葛谷くんはそれを許してはくれなかった。私が思っていた以上に、葛谷くんは私のことを考えているらしかった。連絡の全てを無視していたというのに、未だ諦めることなく唯一の繋がりであったゲームにまで縋ってくる。最近、やっていなかったことは知っていたからきっとそれどころではなかったのだろう。そんな彼を諦めさせるにはどうしたらいいかを考えた結果、正直に話すことにした。
病室を見た葛谷くんは、とても辛そうな表情をしていた。それは、きっとどうして言ってくれなかったんだという私への怒りと、何も出来ない自分の無力さを呪っているのだろう。
葛谷くんはそんな私を見ても、好きだと言ってくれた。嘘まみれで本当のことを何一つ言っていなかった私が偽物だと知っても尚、好きだと。だが、私にはもう恋を楽しむ余裕などなかった。この体は今もゆっくりと死に向かっていて彼がこれから歩んでいく道を考えれば、彼がここで私に割く時間は無駄であると言わざるを得なかった。
だが、わざわざ会いに来てくれた彼のことを私は諦められなかった。最後の期待を込めて私は尋ねた。
「葛谷くんは、そんな私でもそばにいれる? いつ死ぬかも分からない、一人じゃ何も出来ない人間のために全てを捧げられる?」
ずるい質問だと思う。そんなことを言われれば誰だって委縮する。だが、私はその時の葛谷くんの顔が脳裏にやきついて離れなかった。一丁前に傷ついているなんて、普通の人間にでもなったつもりだろうか。
「もう私のことは忘れて」
彼の顔も見ずに背を向けて、拒絶した。それが最後だと思うと、涙が滲んだがそんな顔を見せるわけにもいかず布団に顔を埋めた。
それ以降も、葛谷くんは病院に遊びに来てくれていたが、結局私は東京の病院に移るまでの間、葛谷くんと対面することはなかった。
季節は冬。
学校は冬休みへと入り、冬季講習はあるものの自分の時間は格段に増えた。
だと言うのに、俺は何をする訳でもなくただ無為に時間を浪費していた。
『もう私のことは忘れて』
川崎の言葉が頭から離れない。
川崎の入院している古山第一病院の待合室で、俺は、今年一番のため息をついていた。
川崎にそう言われて以来、どうしても来られない日を除いて、ほぼ毎日足繫く通っているというのに、面会謝絶で俺は川崎の顔すら見られない状況が続いていた。そもそも俺が来ていることを彼女は知っているのだろうか。
ゲームも、オンラインになっている様子はないようだし、川崎の様子は何も分からなかった。せめて元気でいてくれればと願うが、あの痩せ細った体を見た後ではそう楽観的にもなれない。
東京の病院に移動するという話は聞いているため、その前にどうにかもう一度接触したいと思うのだが、それは叶わずにいた。
手土産として持ってきた蓮のカフェのシュークリームが入った箱を眺め、もう一度深くため息をつく。
「甘いもの、俺はあんまり好きじゃないんだけどな」
せめて受け取ってくれればと思うが、それすらも届かない。
どうやら川崎は、本当にもう俺と関わる気はないらしかった。
今日も変わらぬ受付の対応に、帰ろうと立ち上がった時。
俺を呼び止める声がかかった。
「あの! 葛谷くん、よね?」
そこに立っていたのは川崎……ではなく小綺麗に着飾った貴婦人という言葉が似合う女性。初めて会う顔で、見覚えがない。
俺のことを知っているようだが、声をかけられるような心当たりはまるでない。
「そうですけど……あなたは?」
警戒の色を隠しきれず目線が険しくなってしまった。
女性は慌てたようにバタバタと手を振る。
「怪しい人じゃないのよ? 私が一方的に葛谷くんのことを知ってるだけで。うちの美雨と仲良くしてくれてありがとうね」
「うちのってことは……川崎のお母さん……?」
そう言うと、女性は優し気な表情でこくりと頷く。
なるほど。言われてみれば目元や雰囲気がどこか面影を感じる……かもしれない。いや血の繋がりがあると言われたせいか?
「少し時間あるかしら?」
詰んだ状況だった俺には、まさに渡りに船とも呼べる誘いであった。
俺は深く考える前に、その誘いを承諾した。
そうして川崎の母親に連れられ、俺は病院の屋上へと訪れていた。
屋上と言うだけあり、この季節に来るべき場所ではないと思うほど、風が冷たい。そのせいか周囲には人っ子一人姿が見えなかった。
しっかりと防寒具を身につけてきていたことが唯一の救いだが、寒いのは俺だけではないようで川崎の母親も手を擦っている。
「こんな場所でごめんね。葛谷くんとはどうしても二人きりで話したくて」
今日初めて会ったばかりだというのに、随分と俺のことを知っているような口ぶりだった。
「……全然大丈夫です。それで、話っていうのは?」
どんな温度感で接するべきか測りかねる。印象が悪くならない程度に、無難な返答を返した。
「まずは自己紹介かしらね。私は、川崎小百合。美雨の母親です。まずは葛谷くんに、私と夫から精一杯の感謝を。美雨と仲良くしてくれてありがとう」
そう言って、小百合さんは頭を下げた。
「そんな、頭を上げてください」
突然の出来事に慌てて俺も反射的に頭を下げる。
話があるというので身構えていれば、まさか感謝を伝えられるとは思わなかった。
会って早々、頭を下げられるだなんて、何だか凄く悪いことをした気分だ。
俺のその言葉に、小百合さんが下げた頭を上げる。
「美雨のことはもうある程度聞いているのよね?……あの子の病気のことも」
それは、この間川崎から聞いた内容であった。
「ある程度は」
小百合さんはそれを確認し、言葉を続けた。
「美雨は、物心ついた時から、ほとんどの時間を病院で過ごしてたの。そんな自分の存在が、私達に迷惑をかけているとでも思ってたんでしょうね。自分の状況に、文句もわがままも言わずただいつもニコニコとしていて……凄く空気の読める子だった」
川崎の卓越した観察眼は、その責任感と環境ゆえの能力だったのだろう。空気の読める子、か。確かに外から見ればその言葉がぴったりだったのだろう。
欲しい言葉を欲しい時にくれる。それがどれだけ相手にとって心地良いことか。実に川崎らしくて大馬鹿な考えだ。
「でもね、本当はそんな強い子じゃないの。普通の子と何も変わらない。寂しさで一人夜泣いているのも私はずっと見てきたの……。
健康な体で産んであげたかったと何度悔んだかも分からないぐらい。あの子の前で、いつも泣いていたような情けない時期もあった。
だからね、あの子には罪滅ぼしをしたかったの。美雨にも普通の生活をさせてあげようと思って、体調が良くなってきたのを見計らって、夫が高校二年生の間だけでも学校に通えるようにって今の学校。星恩高校に転入させてくれたの。
美雨はそんなことしなくても良いって言ったけど、普通の生活をして欲しいっていうのは私達の願いだったから」
それが川崎がうちの高校に転入してきた真実。
俺は本当に、川崎のことを何も知らなかったのだと改めて突きつけられる。川崎が、夜一人で泣いているなんて俺には想像もつかなかった。
「だから、本当に嬉しかったの。美雨が、友達や学校のことを嬉しそうに話すのが。今まで同い年ぐらいの子と話すことなんて全く無かったから心配だったけど、みんないい子だよって笑顔で話してくれて……。そんな中でも葛谷くんの話をする時は目がキラキラしてた。本当に、年相応の女の子みたいで……」
いつの間にか小百合さんは少し涙ぐんだような声になっている。
川崎が俺のことをそんなふうに話してくれていたなんて。胸が締め付けられるようだ。
ここまで語られていたのは俺への感謝であった。だから、急な温度差についていけなかった。
「だからね、葛谷くん。葛谷くんには美雨をこれ以上傷付けないでほしいの」
今までの方向から一転し、急激に雲行きが怪しくなる。傷付ける? 俺が、川崎を?
「まって、ください。どういうことですか?」
そんなつもりは毛頭ないし、川崎のことを誰よりも考えているつもりだ。
小百合さんはゆっくりと語り始めた。
「毎日、お見舞いに来てくれてるわよね?それは美雨も知ってる。本当にありがとう。でもね……美雨にはどれだけの時間が残されてるか分からない。
まだ治療法も確立されていない病気で、いつ悪化してもおかしくないしそもそも治るかも分からない。そんな美雨の側に、軽い気持ちで近寄らないであげて欲しいの……大切な人が増えれば増えるほど別れが辛くなって、裏切られるリスクも増える。
いつかいなくなるのなら最初から近づかないで。あの子にそんな辛い思いはしてほしく無い……」
「俺は、軽い気持ちなんかじゃ……!」
だが、言いかけて先日の会話が頭を過る。
『私に全てを捧げられる?』
その川崎の質問に、俺は即答出来なかった。あれは俺に覚悟が足りなかったってことじゃないのか?
あの俺の行動はきっと深く川崎を傷つけた。信じていた人間に裏切られる辛さは誰よりも俺が分かっていた。分かっていたはずなのに、あの場で何も言えなかったのは誰だ? そのつけで、今こうして母親まで出てきて、これ以上はやめてくれと釘を刺されている。
そのことを俺はもっとちゃんと認識するべきだ。好きだから、なんて曖昧な理由を免罪符にして関わっていいほど、川崎の人生は軽くない。
文字通り全てを捧げられるかと川崎はあの時俺に問うたんだ。それに応えられなかった俺に……側にいる資格はない。
返す言葉なくぎゅっと手を握りしめる。血が出るんじゃ無いかと思うほど、硬く、強く。
俺は、次の日から病院へ通うのをやめた。
窓の外に広がるビル群が、太陽の日差しをキラキラと反射し、幻想的な様を映し出す。
そろそろ桜の季節だというのに、この街には緑なんてなく無機質極まりない。
忙しなく通りを歩く無数の人々を、私は病院の窓から羨ましく眺めていた。
東京の病院に移って来て一年が経った今でも、私の体はあいも変わらず病に侵されていた。学校に通っていれば、今頃卒業だったのだろうか。
今の医療では、進行を遅らせるのが精一杯であり、未来の医療に期待する他なかったのだ。
だが、それもいつになることやら。状況が芳しくないことは、医者や両親の反応から分かっていた。こんな時は、私の観察眼が憎い。せめて希望を持って生きられたのなら幾分かマシだっただろうに。
私の人生は一体何だったのだろう。そんなことをぼんやりと考える。
学校に通っていたあの頃の時間は、私にとって本当に夢のような時間だった。
病気のことを忘れられるほど、毎日がキラキラと輝いていて今でもたまに夢に見る。教室でみんなと一緒に授業を受けたり、文化祭の出し物を作ったり。放課後友達と遊ぶなんて私には無縁だと思っていたことを沢山経験した。
もし私が普通の体に産まれていたら、あんな未来もあったんだろうか?
……どうして私だけこんな思いをしないといけない? どうして、私だけ。
きっともうみんな私のことなんて覚えていないのだろうと考えると覚悟していたはずなのに体が震える。
たった数ヶ月行動を共にしただけの存在など、普通の人生の中で見ればほんの一ページ程度のもので次から次に塗り替えられていく記憶の一部でしかない。いなくなった人のことなんて、気がつけば記憶が風化し、私の名前など思い出話でも口にされることはなくなるのだろう。
私だけ。私だけが前に進めないまま、未だこの病室で過去に囚われている。
進みたいと願うばかりで、道がどこにも存在しないのだ。いつ途切れるかも分からぬ暗闇をただ一人、大丈夫だと騙し騙し言い聞かせて進んできた。でも、そうやって歩いてきたこの人生が誰の記憶にも残らず、役に立たず、気付かれることなく消えていく。私の存在価値とは一体何だったのだろう。
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。怖い怖い怖い、死にたくない、どうして私が、一人にしないで、忘れないで側にいて。
弱りきった心を守るように、私は布団を頭から被り、己を世界から隔離する。
コンコン!
病室のドアを叩く軽い音が部屋へと響き渡った。
……看護師さんだろうか?もうそんな時間になってたっけ。
「はい、どうぞ!」
私は、浮かんでいた涙をぐっと体内へ押し戻し、見る人に元気を与える自慢の笑顔を貼り付けた。この笑顔は私にとって鎧だ。
ニコニコと、どんな状況でも笑って生きていける強い人間。そんな人になりたいという、本当は弱い私を守る鎧。いくら弱っていても、それを表面に出してしまえば私はきっと壊れてしまうと分かっていた。
私の声に反応し、ガラッと病室のドアが開かれる。
「なん……で……」
そこに立っていた人物により私の自慢の笑顔は、一瞬で剥がされる。
それと同時に、ずっと忘れたいと思っていた感情が胸から溢れだした。
「久しぶり。遅くなって……ごめん」
そこに立っていたのは看護師でも親でもなく。私の人生で唯一、好きになった人。何度、普通の恋が出来ればと願ったか分からない。諦めて、諦めさせた人。
一年ぶりに会う彼は、罰が悪そうな顔で、立っていた。
「葛谷……くん?」
私は幻でも見ているのだろうか?過去のことを思い出しているうちに夢を見ていたり。そうだ、そうに違いない。
だが、全身で感じる痛みが空気が嗅覚が触覚が。紛れもなくこれが現実だと訴えている。
でもそんなことあるわけない。ないのだ。だって私は彼にちゃんと別れも告げずに過去にしたのだから。
「他の誰に見えるんだよ。それとも俺のこともう忘れた?」
くしゃっと笑う彼は、久しぶりの再会を喜んでいるように見えた。
でも……何で?
「どうして……来たの。だってここ東京だよ⁉ そもそも、私のことはもう忘れてって……言ったのに。どうしてまた会いに来たの」
本当に、分からない。どうして今更。どうして今頃。あの時、私と一緒に生きることを選んでくれなかったあなたがどうしてまた私の所に来るの?
葛谷くんは昔と同じキラキラとした感情を私に向けていた。それが酷く辛い。
私は、あなたが思っているような人間じゃなかった、強くない。そんなキラキラした感情を向けられても返してあげられる自信がない。
「あー……話さなきゃいけないことは沢山、あるんだよな。本当に沢山。まぁでも、今日ここに来られたのは、川崎の母親のおかげだ」
「お母さんの……?」
二人に接点があったなんて、初耳だ。一体、いつから?
「覚悟が出来たら、その時は連絡して欲しいって言われてたんだ。ようやくその覚悟が決まったから、今日はそれを伝えに来た」
覚悟? 一体何の覚悟が出来たというのだろう。
あの頃は、葛谷くんに心が読めるなんていう嘘をついていたが、所詮それは嘘。私に内容まで当てる能力はない。
葛谷くんがしたという覚悟が私には分からなかった。だが、葛谷君のその体から、もう迷わないという確固たる意志を感じた。
そうして、口を開く。
「川崎。これからはずっと一緒だ。俺はもう、どこにもいかない。俺を見て、不安なら俺を頼ってくれ。周りに誰もいないなんてそんな寂しい思い俺がさせない。俺が保証するから。大丈夫だっていつでも言う。だから、俺を信じてくれ」
……それは、以前私が葛谷くんに言った言葉だった。心が折れてしまった葛谷くんをもう一度奮い立たせるために、私の中にある最も安心できる言葉をつめこんだ台詞。
そしてそれは、私が言われたい言葉でもあった。ずっと言われたいと願っていた側にいるという言葉。言って欲しかった台詞を、ずっと言って欲しかった人にこんな風に貰えるなんて。
やっぱりこれは夢か、夢だ。
だってほら。何故だか視界が霞んで前が見えないのだから。
「何を、言ってるの。こんなとこまで来て……学校だって……早く帰らないと」
飛びつきたくなる本心を必死に押し殺す。ずっと一緒にいるなんて綺麗事だ。だって葛谷くんは普通の人なのだから。わざわざ私なんかを選ぶ理由がない。喜んだらダメだ、もっと辛くなる。
「帰らないよ。俺さ、四月から東京の大学に通うことにしたんだ。だから、ずっとこっちにいる。もう離れないっていう俺なりの覚悟だ」
どうして、どうしてそんなことをしたの?
わざわざこんな遠くまで。
葛谷くんの前では、私が私でなくなるような……見せかけの笑顔が使えない。
「どうして?」
葛谷くんは照れくさそうに、顔を背ける。
「好きな人がいるからに決まってるだろ?」
好きな人、という言葉に、私の心臓がどきりと跳ねる。
発作か? いや違う。これは私の感情だ。
葛谷くんの言葉に、嘘はどこにもない。私の目がそう言っている。
「どう……して……」
さっきと同じ質問をもう一度繰り返す。もう私は泣いていた。言い訳のしようもないほどに、目から涙が溢れて止まらない。
葛谷くんは優しく微笑む。
「川崎のことが好きだから」
その言葉で抑えていた感情が一気に溢れ出して葛谷くんの姿が見えなくなる。あれだけ拒絶したのに。それでも懲りずにこんな場所まで来てくれた。
私も恋をしていいんだろうか、普通の女の子になっていいんだろうか。もう全てどうでもよかった。この熱に全てを任せたい。葛谷くんさえいればいい。
泣きじゃくる私を、葛谷くんは優しく抱きしめる。
「返事を、聞かせてくれないか?」
その声は、凄く優しかった。溜まりに溜まって爆発寸前だった不安なんてものが嘘のように消えてなくなってゆく。
「私、心臓が悪くて」
「知ってる」
「いつまで生きてられるかも分からなくて」
「関係ないよ。ずっと側にいる」
「ずっと一人で」
「もう一人じゃない、俺がいる」
「普通の女の子じゃなくて」
「普通の女の子だよ」
「君の理想じゃない」
「俺の理想は川崎だけだ」
「いつからそんなことを言えるようになったの」
「毎晩後悔してたからかな」
葛谷くんは私の言葉を一つ一つ全て聞き、その全てを許容した。大丈夫だ、と抱きしめるその体はとても暖かい。
「私なんかで……いいの?」
最後の確認。でも、その答えをもう私は知っていた。
「川崎がいいんだよ。俺を救ってくれた川崎を、今度は俺が救いたい」
物心ついて以来、私は初めて両親以外の前で大きな声で泣いた。
弱い所は見せちゃいけない。ただでさえ、迷惑をかけているのだからその上不快にさせるなんてってずっと思ってきた。
でも、今だけは。今だけは涙が止まらなかった。いくらでも涙が溢れてくる。
そうして私が泣き疲れるまで、ずっと葛谷くんは私のことを抱きしめてくれていた。
我に帰って離れると、顔が熱くなる。
好きな人の胸であんな風に感情を晒して泣くなんて。
「泣いてたのはナイショだからね!」
必死になって抵抗する私に、葛谷くんはおかしそうに笑う。
「はいはい」
その言葉はまるで小さな子供の相手でもしているかのよう。
絶対分かっていない、あんな姿を見られたなんて恥ずかしくて死んでしまいそうだ。
「あぁ……誰にも弱音見せたことなかったのに」
落ち込む私に、葛谷くんはただ横にいてくれる。
「俺はもっと色んな川崎を知りたいよ」
久しぶりに話す会話は、以前と何も変わらず、一年会っていなかった気まずさなんてものもない。なんて心地良いんだろうと、酔いしれる。こんな時間がいつまでも続けばいいのに……いや、もうそんなことを考える必要はないのだ。これからはずっと一緒なのだから。
もう私は一人じゃなかった。
「その……川崎っていうのやめて。お母さんと被るでしょ。私のことは……美雨って呼んで」
せっかく両思いになれたんだからねと見せかけでない私の心からの笑顔で微笑む。これまでずっと我慢を積み重ねてきたんだ。これぐらいの贅沢許されてもいいだろうか。
葛谷くんの驚いたような顔が面白い。
「……美雨」
少しして、恥ずかしそうにそっぽを向きながら私の名前を呼ぶ。
ただ名前を呼ばれているだけなのに、胸が躍るように弾む。
「なーに?」
意地悪にそう尋ねれば、顔を真っ赤にした葛谷くん、いや啓太くんがいた。あぁ、本当に可愛い。
私を選んだこの道が啓太くんにとって幸せなのかどうかは分からない。でも、良いのだ。もう気を使うのはやめよう。だって私は今こんなに幸せなのだから。どこに繋がっていようと後悔はない。
「私ね、実は夢があったの。私みたいに一人ぼっちの子供達を救ってあげられる心理カウンセラーになる夢。いつか体が良くなったらさ、なれるかな」
誰にも打ち明けたことのなかった夢。
今なら口に出せる。
「なれるさ。だって君は、誰よりも人の心に詳しい超能力者なんだから」
その言葉は、私に勇気をくれる魔法の言葉だ。
それから私は二年と半年生きた。
「ねぇ、葛谷くんだよね? 暇だったらお話ししようよ」
酒の香りと共に、甘い声で身を擦り寄せてくる女性。それは、確か俺と同学年だという須藤さんだったはずだ。
それは明らかな好意の色で向けられて嫌な類の視線ではない。
だが、彼女の顔を見ると瞼の裏にいつかの思い出が重なり心に影が落ちる。
「ごめん、俺はそういうの興味ないから」
俺は短くそう言い残し、席を立つ。
「えぇ……ノリ悪くない?」
「あいつはそう言うやつだよ。気にすんなって」
立ち去る背中に俺の態度を冷笑する会話が聞こえるが振り返ることなくその場を後にする。
店を出ると夜はすっかり更けており、冷房に慣れた体に蒸し暑い熱気が押し寄せ、思わず顔を顰めた。
君がいなくなったあの日を思い出させる夏の到来に、ふと昔のことを思い出した。
俺は、覚悟を決めて美雨のことを迎えに行った日以来、足繁く病院へと通った。俺たちは、あの日確かに気持ちが通じ合い、お互い言葉にしないまでも付き合っているのだという確証があった。
美雨は俺が病室に顔を出すと、顔を綻ばせ、会えなかった分を取り戻すかのような、まるで子供のように喜んだ。幸せで仕方がなかった。美雨のいない空虚な時間は俺には耐え難い物であり、それはきっと美兎にとっても同様であったから。
俺たちは、この先に待っているのが希望だと信じていたのだ。
美雨の「啓太くん!」という言葉が何度も何度も頭の中を巡り焦げついたように張り付いている。
「私が良くなったらまた二人で遊びに行こうね?」
「あぁ、当たり前だろ。どこにだって連れて行ってあげるから」
俺たちは時折、そんな会話をした。
美雨はそれを聞き、恥ずかしそうに。でも確かに期待を込めて検査の結果を毎度心待ちにしていた。
だが、病状は好転などしなかった。
むしろ悪化する一方であり、次こそは次こそはと意気込んでいた検査も回数を重ねるにつれ辛いものへと変わって行った。どうせ次もダメなのだろうという、分かりやすすぎるほどの絶望。
美雨は、明らかに衰弱していき一人で出来ることの幅もどんどんと狭くなっていた。そして、ついには歩き回ることすらままならなくなり、支えなしでは動けなくなった。
「ごめんね。私のせいで啓太くんに何もさせてあげられなくてごめんね」
あれだけ生気に満ち溢れていた美雨は、こうして弱音を吐くことが増えた。そして、時折「もう来なくていいよ」「私のことは忘れて」と俺に八つ当たりをするようになった。俺はそれを黙って受け止める。
だが、それでも俺は通うのをやめようとはしなかった。
時間を空ければ、美雨は「大好きだよ」「本当にごめん。いてくれてありがとう」と口にしてくれたから。きっと本心では心細くて堪らないのだ。その小さな体にどれだけのものを背負っているのか。俺は少しでもその荷物を一緒に背負ってあげたかった。
でも、そんなのも結局はただの自己満足にしか過ぎなかった。
美雨は、俺を置いて二十歳という若さでこの世を去った。
誰もいない家に帰り、明かりもつけずにベッドへと倒れ込む。
まだ俺は君がいなくなったことを完全には受け入れられていなくて、今でも君が元気に過ごしている夢を見るし、君に囚われている。もしかしたら全部嘘で病気なんて無かったんじゃないかという、淡すぎる期待。
それでも、君が俺の隣にいないことだけはどうしようもない事実で日々だけは変わらず、無情に過ぎていく。
そんな憂鬱な気分を変えようと慣れない飲み会に参加してみたはいいものの、やっぱり君の影がチラついて離れなくて。
自分の弱さがどうしようもなく惨めで死にたくなる。
俺だって、ずっとこのままでいる訳にはいかないと分かっていた。それでも君を忘れようとする度に、君の顔が思い出されて忘れることを許してくれない。
そうして美雨のことを考えていると、ふとある存在を思い出した。
重い体を起こし、部屋の電気をつける。見ないように引き出しの奥底に仕舞い込んで埃を被っていたそれを取り出す。
それは、飾り気のない白の便箋だった。美雨の死後、美雨の母親から渡された物である。
見ているだけで息が詰まりそうになる。だが、そんな感傷を飲み込み俺は破らぬよう丁寧に封を開けた。
数日後、俺はとあるカフェにいた。人との待ち合わせをしているのだが、少々早く来すぎてしまっていた。このカフェでは、ケーキが人気らしいがあいにく俺は甘いものがいまだ好きではない。
どう時間を潰したものかと虚空を眺めて時間が過ぎ去っているのを待っていると肩をぽんと叩かれる。
その触覚に振り向くと、片手を挙げた懐かしい顔があった。
「よっ! 久しぶり!」
大村蓮が立っていた。
「でも、久しぶりだな。川崎さんの葬式以来だから……ちょうど一年ぐらいか? 啓太は元気か?」
「俺はぼちぼちかな。来年卒業だから何かと忙しい時期ではあるけれど」
「そっかそっか! 俺で良ければ相談は乗るからさ」
「ありがとう」
蓮は、久しぶりでも昔と変わらぬ輝く笑みを浮かべている。いや、違うか。俺に気を使ってそんな顔をしてくれているのだ。
久しぶりの友人との再会に積もる話も多い。お互いの近況についてをしばらく語り合った。
「でも川崎さんのことは本当に残念だったよな。まさに美人薄命を体現したような人だった。啓太が腐ってなくて安心したよ」
重くなりすぎないように、極めて明るく蓮がそう口にする。その気遣いを想像するだけで苦しくなるようだ。
「まだ全然忘れられて無いけどな」
俺の暗い言葉に、見て分かるほど蓮の顔に動揺の色が浮かんだ。やはり、今日呼び出した理由もそこに帰結するものであるらしかった。
「えっと、ほら。あれから、もう一年だろ? 忘れろとは言わないけどそろそろ前を向いて進まないと川崎さんも浮かばれないんじゃ……」
「勝手なこと言うなよ! 俺にとっては昨日のことのように思い出せるし、今でも信じられてないんだ」
俺を傷つけようと言っているので無いことぐらい分かっている。それでも、この友人の言葉が俺の心の弱い部分を抉っていることは間違いなくて強い拒絶反応を示してしまった。
「ごめん……」
あからさまにテンションが落ち、項垂れてしまった蓮を見ていられなくて目を逸らす。
「謝るなよ……そんなつもりじゃないことぐらい分かってる」
お互いに気まずくて無言の状態がそのまま数分続いた。
「俺、実は川崎さんに頼まれてたことがあるんだ」
しばらくして蓮がぽつりとそう呟いた。
「頼まれてたこと?」
俺の初めて知る情報であった。蓮は、東京まではるばる遊びに来た時に美雨のお見舞いに来てくれていたことがあった。その時の話だろうか。
だが、俺は頼まれていたことがあるなんて聞いたことがなかったし美雨の話をしたのも葬式以来初めてのことであった。
一体、何を頼まれていたというのだろう。
「もしも私に何かあって。啓太くんが私のことを忘れられていないようなことがあった時には助けになってあげて、って。だから今日こうして話を聞きに来たんだ」
思わず息を呑んだ。まさに、今この状況のことではないか。
美雨は、予感していたのだ。俺が、あれを読んでも忘れられないことがあるのでは無いかと。そのための保険として、蓮にこの伝言を託していたのだ。
「それ、いつの話だ?」
「去年の春だから……四月とかだと思う」
美雨が亡くなったのは八月の暑い日だった。その四ヶ月前から美雨は自分の死と、そして死後のことを考えていたのだ。
久しぶりに、美雨の生きていた証。新たな情報に胸がぐっと熱くなるのを感じる。
でもだからこそ出来ない。この熱を無かったことにして美雨の願いの通りにすることなど。
「俺はこんなに傷ついている啓太のことを無視できない。もちろん、辛いのは誰よりも分かってるつもりだ。でも、啓太の人生はまだまだ続いていく。いつまでも止まっているわけにはいかないんじゃないのか?」
それは、心からの心配の言葉であった。
だが、だからこそこ俺は首を振った。
「俺は、もうあの日に覚悟を決めたんだ。この先、何があろうと美雨のことを忘れないって。それが大病を患っている美雨と一緒にいる俺の覚悟だった。だから……ごめんな」
蓮は、「いつでも相談は乗るからな」と言い残してカフェを後にして行った。
これで良かったのだ。俺は、自分の選択を一度だって後悔していない。美雨と出会ったことにより、俺の人生は確かに色付き、考え方が一新された。それは文字通り世界が変わるほどの体験で、俺に沢山の希望を見せてくれた。
だからこそ、美雨の言う通りになんてしてやるもんか。いつまでだって覚えていてやるし好きでい続けて忘れてやらない。
俺は君が大好きで、大好きで仕方なくて。
それが俺を置いて先に行ってしまった君への俺からの最大の復讐だ。俺は君が大好きだった。君はきっと今でも俺のことを好きでいてくれているのだろうから。
『啓太くんへ
この手紙を読んでくれているということは、私が死んだ後にちゃんとお母さんが渡してくれたんだね。
死後に向けての手紙なら遺書ってことになるのかな? そう考えると、どうやって書いたらいいのか分からなくなりそうだね(笑)
だって今まで遺書なんて書いたことないよ。好きな人への手紙だって私には初めてなんだから。だからね、凄く緊張してる。力の入らない震える手で書いてるから読みにくくてもご愛嬌だからね。それだけ。それだけです。
では本題に入ります。
まずは思い出話からです。
啓太くんと初めて会った日は、正直よく覚えていません。クラスメイトの一人、ぐらいの認識だった気がします。個人として認識したのは放課後。私が初めて声をかけた日だよ。
啓太くんと出会ってからの日々は、病院で過ごしていた無機質で灰色な日々とは違い、色鮮やかで毎日が楽しかった。最初はなんて卑屈な人なんだろうと思っていたけれど関わるうちにその優しさに触れて、いつの間にか好きになっていました。明確に好きだと自覚したのは二人でゲームセンターに行った時かな。啓太くんの笑う顔を見て思わずドキッとしてしまいました。
なのに私は、啓太くんからも好意を感じていたにも関わらず何も言わずに君の前から去りました。でも諦め悪く病院まで来て好きだなんて言ってくれて。本当は、嬉しくて飛び上がりそうだったくらいなのに、それでも私は君を突き放しました。
それでもやっぱり諦めてなんてくれなくて。大学まで東京の大学にして私のことを追いかけてきてくれました。私の病室を訪ねてきてくれたあの日は、私の人生で間違いなくて1番嬉しかった日です。人前で絶対泣かないと決めていたのに思わず泣いてしまいました。
私は世界で1番不幸だと思っていました。でも違いました。啓太くんが来てくれたおかげです。そのおかげで私は希望を得ることが出来ました。でも、そんな啓太くんに私は到底不釣り合いでした。
私なんかのどこにそんな価値があるのだろうと何度も考えました。きっと私でなくても、今の啓太くんならもっと可愛くて健康な人といくらでも繋がれる。どうして私なんだろうって。
考えれば考えるほど思考が暗く沈んで、何もしてあげられていない私がもどかしくて、やっぱりまた啓太くんを突き放しました。
それなのにやっぱり啓太くんは諦めてくれなくてずっと私に付きっきりで。凄く胸が痛くなって。好きです。
何か私にできることを考えました。何もありませんでした。体は思うように動かないし、一緒に出かけようと言っていたのも、到底現実味はありませんでした。
返してあげられるものが何一つありませんでした。私はこんなにも啓太くんから貰ってばかりなのに。まだなにもしてあげられていないのに。
そう思うと、胸が痛くて痛くて堪りませんでした。病気なんて非にならない耐え難い痛みです。きっと想像出来ないと思います。
私はもうすぐ死にます。いや、きっともう死んでいます。だから、その先の未来で啓太くんの幸せを願うことにしました。
私は啓太くんに何かを遺すことはしません。遺してはいけないと思いました。
よく死んだとしても、心の中で生き続けているんだよなんて言います。そんなの綺麗事だと私は思うんです。死人は死人。もう喋ることも一緒にいることもできません。そんな人がいつまでも生きている人の足を引っ張っていくわけにはいきません。
啓太くんは優しいからきっと沢山悲しんでくれると思います。でも沢山泣いた後は笑ってください。私は笑っている啓太くんが好きです。
覚えていて欲しいとも思いません。私のことを忘れて、楽しく笑って幸せに暮らしてさえくれれば。私でない誰かとでも啓太くんが笑ってくれればそれでいいと本気で思えます。
私はそれぐらい啓太くんのことが好きです。だから、私のことは忘れて笑ってください。
本当はこの手紙も遺すべきではないのかもしれません。何も形として残っていなければ、いつか思い出も風化してなくなるかもしれないから。でも、私は啓太くんに沢山の物を貰いました。貰いすぎました。
感謝すら述べずに旅立つのは自分を許せませんでした。矛盾してるよね? 分かってる、無茶苦茶なことを言っているかもしれません。それでもこの手紙だけは書かせてください。読み終わったら処分していいですから。
私、川崎美雨は葛谷啓太くんのことが大好き。大好きです。きっと死んでも大好きです。何が起きようとも。それが例えば生まれ変わりだとしても。この気持ちが変わることはきっとありません。
だから、啓太くんは私を忘れて笑ってください。もう私のことを思い出す必要はありません。啓太くんのお陰で私は幸せになれました、最後の瞬間まで死が怖くありません。あなたのこれからを想像して楽しみで楽しみで仕方ないんです。
幸せに。私のことなんて気にならないくらい、幸せに生きてください。
愛してる。
願わくば……またいつか。
川崎美雨より』