「見つけた……」

 突然店を飛び出して行ってしまった葛谷くんの後を追って、同じように私も飛び出したが、腐っても男子。体力差は歴然で、追いつくまでかなりの時間を要してしまった。
 私の場合は、それだけが理由じゃないのだが……今はそれはいいだろう。とにかく、公園のベンチで一人項垂れている彼を見かけた時、思わずほっと安堵の息が出た。
 カフェであの大村くんという中学の知り合いだという店員さんが現れてから突然、見て分かるぐらい動揺していた。一体、何が彼をそこまで追い詰めていたのか。

「葛谷くん、大丈夫?」

 なるべく優しい声色で驚かせないように声をかける。そうでもしないと壊れてしまいそうな程、その背中は小さく見えたから。
 その声に少し遅れて、ゆっくりと私の姿を確認する。
 その顔はこの短時間でここまで変化がつくことがあるか? と思うほどやつれている。

「……川崎か」

 一瞬どんな風に声をかけたものか、迷う。
 そうして考えた結果、なるべく明るく元気に振る舞おうと決めた。

「もう急に飛び出すからびっくりしちゃったよ。こんな所に公園なんてあったんだね、初めてきたや」

 私は気にしていないとアピールする、これでちょっとでも気が逸れてくれればと願うがそんな思いは届かず、黙りこくったまま返事は返って来ない。
 その目線はもう私でなく地面へと向けられている。今、声をかけるのは無粋だ。そう判断し、葛谷くんの隣に腰掛ける。落ち着くまでせめて誰かが側にいてあげなくちゃ。今の彼を一人にしてはおけない。
 そうして、どれだけの時間が経っただろうか。夕暮れだった空は、もうすっかり太陽が落ち暗くなって、街灯でベンチがスポットライトのように照らされている。耳鳴りがしてきそうなほどの静寂で、まるで世界から隔離されているかとすら思える。そのことに心地よさを覚え始めた頃。
 葛谷くんはポツリポツリと語り始めた。


 ◆


 周囲の人間が全て敵に見えるようになったのは間違いなくこの日からだった。
 中三の七月。肌を焦がすような日光に陽炎が立ち昇る。
晴れ渡るような雲一つない青空は見るものの心を晴れやかにさせる。そんな日。
 体からは汗が止まらず、じっとりとした感覚に一刻も早くシャワーを浴びたくて堪らなかった。
 だが、その時流れていた汗は記録的猛暑の外気に由来するものではなく、むしろ別種の冷たい汗だった。

「お前なんかが星恩受けんの? 恥ずかしくないわけ?」

 放課後の教室で、俺が座る席の目の前に立つ大村蓮が『進路希望調査』と書かれた紙を見ながら、そう言った。
 大村蓮。その甘いルックスと、話したものを思わず笑顔にさせる抜群のユーモアで、女子だけに限らず男子からも人気がある学年の人気者。
 いつも彼の周りには人が沢山いて、俺はそれを遠巻きに眺めている、その程度の関係。
 まともに話したことなどほとんどなく、ただのクラスメイトとして、卒業までこんな調子なんだろうなと勝手に思っていた。

 だというのに。
 何が彼の逆鱗に触れたのか、明らかに不機嫌そうな大村が、今俺の前で仁王立ちしていた。突然のことすぎて驚きの方が大きく、喉から言葉が出てこない。

「なぁ、何とか言えよ。お前っていつもそうだよな。教室の隅の方で、こそこそしててさ。陰キャは陰キャらしくもっと底辺の高校がお似合いだよ」

 星恩高校。この辺りでは一番の私立高校で、とりあえずここを目指しておけば間違いないと言われている進学校だ。
 星恩を目指そうとしていたことがそこまで気に触ったのか?
 深く関わってきた訳では無いが、大村らしからぬ言いがかりと言うか、その程度のことでここまで感情を顕にしているのは、イメージと一致しなかった。

 教室内はクラスメイトが点在し雑談している、よくある放課後だった。
 ほんのさっきまでは。
 突然始まった公開処刑。普段交わることのない二人が何やら不穏な雰囲気ともなれば、教室内は、今、口を開いてはならないという暗黙の了解が共通認識となった。
 何せ、今俺の目の前で人を心底見下したような目で見下ろす大村は学年の人気者。大村の言葉を借りるのであれば生粋の陽キャラというやつで。
 片や俺はクラスの隅でなるべく目立たぬように数人の仲間達とゲーム談議に華を咲かせるような日陰者。
 その二人の相性なんて火を見るより明らかで、嫌でも周囲からの注目を集め、かつ、誰も口を挟めない地獄の雰囲気が完成していた。

「……」

 俯いたまま口を開かない俺に苛立ちを覚えたのだろう。
 ちっ、と舌打ちし思いついたように手に持っていた紙を宙に掲げる。

「皆。こいつ星恩に行きたいらしいんだけど相応しくないよな。なぁ? 相応しいと思うやつは手挙げて?」

 あぁ、これはやばい。
 体中から嫌な汗が噴き出すのを感じる。
 その嫌な予感をどうにか払拭しようと、助けを求めるようにいつも話している友達の方へと目を向けた。
 ……だが、「友達」からの視線はいつまで経っても返って来ることはなかった。
 声は確かに教室にいるもの全員に届いていたはずだ。
 だというのに、教室の中に手を挙げているものは誰一人いない。友達だってこの空間にいたはずなのに。
 その事実を認識した瞬間、視界がぐにゃりと歪んだ。

「なんで泣いてんのこいつ」

 言われて、俺の頬を伝う涙に気付く。必死に堪えようとするが、止めようとすればするほど止まらない。その事実が更に心を不安にさせ、溢れる涙に拍車をかけていく。
 できることは必死に声を上げないようにすることだけで、鼻を啜る音も立てぬよう俺は息を止めた。
ここに味方なんていない。この空間には最初から友達など存在しなかったのだ。みんな我が身が大切で、わざわざ自分からトラブルの種に首を突っ込んで来ようとしない。

 仕方ない、仕方ないと自分に言い聞かせる。逆の立場だったとして自分が助けに入れるかと言われれば断言は出来なかった。でも出来ないながら、それでも。それでも助けて欲しかった。だって友達だと思っていたのだから。
 この歳になってから人前でこんなふうに泣くことになるなんて。恥ずかしくて消えてしまいたい。誰か消してくれと願うが、現実は非情だ。
 罰が悪くなったのか大村はいつの間にか姿が消えていて、啜り泣く俺だけが取り残されていた。遠くから見ていた元友達も哀れなものでも見るかのような視線を向けていたが、ついに慰めることなく俺の視線を避けるように教室を後にした。
 せめて、嘘でもいいから謝罪の言葉を口にしてくれれば。まだやり直せたかもしれないのに。
 俺の心はそこで完全に壊れた。





「そこからは知っての通りだよ……。俺は人を信用することをやめたんだ。最初から期待しなければ裏切られることもない、単純な理屈だろ?」

 川崎の顔を俺は見ることが出来ない。今の顔なんて見せられたものじゃないし、どんな顔をしているのかも見たくなかった。

「それが……葛谷くんの人嫌いの根源だったんだね」

 川崎は悲しそうにそう言った。
 人嫌い、確かにそうなのかもしれない。あれ以来、誰にも心を許さぬようにと立ち振る舞って来たのだ。
 だというのに、最近の俺はどうかしていた。心が読める川崎に出会ったことをきっかけに、その気持ちが緩んでいた。挙げ句の果てにはあれほど嫌っていた一軍と遊びに行こうだなんて。
 久しぶりに会った大村は何も変わっていなかった。昔のことなど忘れたかのように軽いテンションで話しかけてきて、あろうことか星恩高校に入れたことをおめでとうだなんて。俺がどんな気持ちだったかなんて考えたこともないのだろう。
 忘れよう忘れようと、記憶の奥底に封印していたがこんな形で掘り起こされた。あの一件は、俺の中で人間関係を信用できなくさせたトラウマであった。
完全に事故。あんな所でバイトしてるなんて避けようがない不運だった。そう思ってもう忘れよう。忘れるしかないんだ。

「大村は何も覚えてなかった。俺に関する嫌な記憶なんて綺麗さっぱり消し去って、何事もなかったかのように、俺がどんな気持ちだったのかも考えずに」
「……」

 その言葉にはなんの反応もない。だが、そのことに気を使えるほど俺に余裕は無かった。言うことは言ったというように罰の悪さもあり、俺はそそくさと公園を後にすることにした。

「急に飛び出してきてごめん。今日はもう帰るよ」

 川崎はどうするのかと見やるが、何かを考え込んでいるようでまだ帰るような素振りはない。
 送って行った方がいいだろうか、という常識的な思考が巡ったが、今日これ以上一緒にいるのは、気まずいことこの上ないと判断し、結局、俺は一人で駅に向かった。
 だから、立ち去った後で呟いた川崎の独り言が俺に届くことはなかった。

「昔のことを忘れてた? じゃあどうして……」

 その川崎の呟きは夜の静けさに吸い込まれ、闇に溶けた。


 ◆


 翌日からの葛谷くんは見ていて痛々しくなるものだった。
 最近、ようやく纏っていた壁が段々と剥がれ始めていて、おかげで、周囲からの目もだいぶ柔らかくなり莉央も遊びに誘おうと思えたのだろう。
 だと言うのに、今の葛谷くんは逆戻りどころか、以前よりもさらに強固で高い壁のような、何人たりとも寄せ付けんとするオーラを纏っていた。
 気にしたら負けだ、と私がいつもの調子で話しかけに行っても、まるで取り付く島もないと言った様子で、完全に無視されてしまっている。
最近はかなり打ち解けて来られたと思ってたんだけどなと嘆く。心を閉ざすという言葉が正しいだろうか。あんな姿見ていられない。

 放課後、一緒に遊んだ時に見せた笑顔と今の人を拒絶するような冷たい無表情は、あまりの温度差でとても胸が苦しくなる。
 話しかけないでくれ。
 それだけが強く伝わってくる。救ってあげたい、そんなこと言わないで欲しいと胸が熱くなるがこちらの気持ちは、伝わらぬ一方通行だ。
 どうしたらまた話を聞いてくれるだろうか。やっぱりこの前のあれが原因だとしたらそれをどうにかしないことには……。

「美雨、顔険しいよ」
「莉央……」

考え事で、無意識に怖い顔になっていたのを莉央に指摘され、初めて気がつく。
莉央は話を聞くように私の隣に腰掛ける。

「それで? 葛谷くんどうしちゃったの? 私も話しかけてみたんだけどこないだと随分様子が違うみたいだから。喧嘩でもした?」

 周りから見ていても、私と葛谷くんの関係が良好でなくなったのは伝わったのだろう。心配そうに覗き込んでいた。
 莉央も話しかけたと言うことは、遊びに行く予定のことでも話したんだろうか。だとするなら、タイミングは最悪というやつだ。いまの葛谷くんの内心を考えれば、人気者が絡むような話は一番聞きたく無い話題だろう。

「なんでもない……ことはないんだけど。喧嘩とかではないよ大丈夫、ありがとね。
あと……気を悪くしないであげて」

 そう言うと、莉央の心配そうな顔が少しだけ緩む。

「そっか。私は全然大丈夫だから。なんかあったら言ってね、相談は乗るよ」

 そう言う莉央からは、負の感情はなく葛谷くんのことを本当に気遣っているのが伝わってきた。
 あぁ、私はなんていい友達を持ったんだ。心配してくれる人がいる。それがどれだけ心温まることか。葛谷くんにもそのことをちゃんと知ってほしい。
 でもだからこそ、辛さも計り知れない。信じていた友達に肝心な場面で裏切られ、孤立する。そんなの誰のことも信じられなくなって人間不信になるきっかけとしては、充分過ぎる。まずは話をしなければ始まらない。それにもしかしたら……私なら解決してあげられるやも……しれない。
 そう心に決め、毎日話しかけたが結果は惨敗だった。そもそもまともに会話する所まで辿り着けなかったのだ。明らかに避けられている。そのことに気づくまで時間はかからなかった。





 一人は楽だ。
 寂しさなんてもうとっくに慣れてしまったし、誰に対しても期待しないと言うことは誰に対しても失望しないということで、心の安寧が約束されていると言ってもいい。
 そりゃあ、俺だって最初の頃は一人でいることに人並み程度寂しさや恥ずかしさを感じていたが、一ヶ月もすればそれは気に留めるまでもない日常になっていた。

 高校に入ってから最近までは凄く順調にことが進んでいた。
 友達と遊びに行くだとか、青春だなんて物にはまるで興味がなかったし羨ましいという感情もなかった。
 本当の意味で一人だったのであれば俺も心を病んでいたかもしれない。だが、俺にはネットの世界があったのだ。ネットの世界での自分は、その有り余った時間を費やしたゲームで友達と呼べる存在が、現実では考えられない程に沢山出来ていたので、毎日退屈することはなかった。
 現実では一人だなんて関係ない。俺はネットの世界で生きていく。この生活を卒業するまで続けると、信じて疑わなかった。
 だからこそ最近の俺は本当に、どうかしていた。

 授業の終わりを知らせる鐘が鳴り、それを待ち侘びていたかのようにパタパタと足音が近寄ってくる。

「ねぇ、葛谷くん。ちょっと話したいことがあるんだけど」

 川崎であった。あんな話をしたというのに、それでも懲りずに毎日話しかけてくれるのは、きっと感謝すべきことなのだろうが、今の俺にはその気遣いですら重い。
 俺は、無言で鞄を持ち上げ、教室を後にする。
 関わらないで放っておいてくれ。
 心の読める川崎ならきっとこの気持ちが伝わっているだろう。いずれは諦めてくれる。ここ最近のことは全部幻。さっさと帰って、全部忘れよう。
 そう思い、階段を降ろうと足を踏み出そうとした時。行手を阻まれ足が止まる。どうして。

「今日は何としても私に付き合ってもらうから。悪いけど拒否権はなしね?」

 階段に両手を広げ、通す気はないと強い意志を示す川崎が立ち塞がっていた。無視して、横を通り抜けようとするが、俺の動きに合わせスライドし正確に進路を阻む。フェイントを入れ、躱そうとするがその動きに惑わされることなく完璧に俺に付いてくる。
 ……勿論、体格差があるし、強引に押し通ろうと思えば通れはするだろう。だが、俺がその選択を取ることはないし、そのことを分かっているからこそ、川崎はこんな強引な方法を取ったのだろう。
 そもそも読み合いで川崎に勝てるわけがなかった。そう気づき、大きくため息を漏らす。

「……なんの用」

 実に一週間ぶりの、川崎に発した言葉だった。川崎は、その言葉にぱっと表情を明るくさせ笑顔になる。

「やっと話してくれたね」

 そんな嬉しそうな顔で言われると、なんだか照れ臭い。
 罰の悪さも合わさり、斜め下を向きながらぶっきらぼうに返す。

「そりゃ……言わないと通して貰えなそうだったから」
「そうだよ。よく分かってるじゃん」
「そんな自信満々に言われたって」

 階段の真ん中で立ち往生している俺達を一体どうしたのかと不思議に思ったのか、周りにザワザワと人が集まり始めていた。

「とりあえず、場所変えよっか」

 注目を浴びて恥ずかしそうにそう言った川崎の顔は、とても可愛く見えた。


 俺達は、落ち着ける場所として二人だけの秘密基地である屋上前の階段へとやってきていた。
 着くや否や、川崎は口を開いた。

「それじゃあ、まず葛谷くん。色々言いたいことはあるけど最初にこれかな。どうして私を避けてたの?」

 うっ、やっぱり気づかれてるよな。気まずくて避けていただなんて当人を前に言えるわけがなかった。だが、相手は川崎だ。それを隠すことすら出来ないことを恨めしく思う。

「なんでって……。こないだ話しただろ? 俺はもう人を信用するのはやめたんだ。だから、本当は川崎とだってこんな風に話をするつもりもなくて」

 正直に答える俺の言葉を遮るように川崎が口を挟む。

「どうして?」

 その言葉には、疑問というよりもどこか怒りが込められているように感じた。

「どうしてって。そんなことどうだっていいだろ」

 その川崎の怒気を孕んだような声に釣られて、思わず語気が強くなる。言いすぎたかと、一瞬我に帰るが川崎はそんな俺を気にせず言葉を続けた。

「裏切られるのが怖いから?」

 諭すように語られる、静かな口調の川崎の言葉に息が詰まって、言葉が出てこない。
 何か否定しなければ。そう思うのに、息すら出ない。

「傷つきたくないから?」

 やめろ。考えるより先に体が動き、耳を塞ぐ。俺の体が、この先の言葉を聞くのを拒否していた。
 川崎に隠しことは出来ない。それがここまで恐ろしいことだとは思っていなかった。
 今から始まるものが公開処刑であることは間違いなかった。

「大村くんという理不尽な悪意に触れたから?」

 これ以上聞くとまずい。
 聞きたくないと固く耳を閉ざしているのに、指の間から川崎の透き通るような声が流れ込んでくる。
 お願いだからやめてくれ。聞きたくないんだ。俺はもう諦めている。これ以上傷を抉るようなことをしないで欲しい。

「一人だと言うのを認めたくなかったから?」

 きっと川崎は頭を抱えて蹲っている俺の姿を哀れな目で見ているのだろう。穴があったら入りたい、この場から消えてしまいたい。なんて惨めなのだろう。
 昔の記憶が蘇る。あの時は、周りに沢山の傍観者がいた。だが、今回は川崎一人。
だというのに、その恥ずかしさは非にならない。川崎が俺にとって特別だからだろうか。
特別? 頭の中に自然に浮かんだその言葉に戸惑う。
こんな姿を見られていることが屈辱であった。今すぐにでも逃げ出したい。

「私はここにいるよ」

そんな川崎は一拍置いて、こう呟いた。
 告げられた言葉の意味が咀嚼できず、頭に入ってこない。

「私はいなくならないよ。君の気持ちは誰よりも理解してるし、裏切らないし、傷つけたりしない。それを約束する」

 一体川崎は何を言い始めたというのだろう。

「何を……」

恐る恐る耳を塞いでいた手をゆっくりと解き、俯いた顔を上げる。そこには笑うでも見下すでもなく、ただ真剣な、真っ直ぐにこちらを見つめる川崎の顔があった。
 その大きな瞳は、いつものように俺の内を見透かしているようで……いや、実際に見透かしていて。それなのに不思議と嫌な気持ちがしなかった。

「私を見て。不安なら私を頼って。周りの人、全てが敵な訳じゃないんだよ。私が保証するから。不安になったら大丈夫だよっていつでも言ってあげる」

 まるで傷ついた子供をあやすような優しい口調。胸がきゅっと締め付けられるような痛みを感じる。心臓がうるさい。この熱に当てられたかのように必死に脈打っている。

「そんなの信じられない」

 最初から期待しなければ裏切られない。もうそれでいいじゃないか、何がダメなんだ。俺は一人でも生きていける。

「私は……葛谷くんと一緒にいたいと思ってるよ」

「嘘だ」

「嘘じゃない」

「結局誰もいなくなるんだ」

「今確かにここにいる」

「信じると裏切られる」

「他の誰でもない、私を信じて」

 ……なんだそれ、なんだよそれ。俺は一人でも大丈夫だと言っているのに。そう考えて過ごしてきたのに。そんなことを言われると考えてしまう。
 俺だって普通の学生生活を送りたいと考えたことがあった、普通に恋愛して普通に友達と遊んで。普通普通普通。どうして俺だけが普通になれないのだろうと頭を悩ませた夜があった葛藤があった。
 諦めた感情が溢れ出す。それは一度始まると、まるで決壊したダムのように止まらない。

「なんでそこまでしてくれるんだ」
「私は葛谷くんの味方だからね。笑っていて欲しいんだよ」
「答えになってないだろ……」

川崎の顔を見ることが出来ない。

「信じていいのか……?」

 絞り出すように言ったその声に、川崎はこくりといつもの笑顔で頷く。それは俺の暗く荒んだ心を再生させる恵みの光のようで。そう、まさに太陽のような笑顔だった。

「私を誰だと思ってるの? 誰よりも人の心に詳しい超能力者なんだから」

 超能力者は関係ないだろとつっこみたくなるが、そんなことすら気にならない。

「そうか。そうだな、それなら安心だ」

 閉ざされていた心が再び川崎によって開かれようとしていた。
 何が安心なのかは分からないが、何故だか笑みが溢れてくる。
 それに釣られたように川崎も笑い出し、二人してクスクスと笑い合っていた。

しばらくそうして笑い合った後、川崎は一仕事終えたというようにふー、と深く息を吐き出した。

「良かった。今日はどうしても葛谷くんに伝えたいことがあったんだ。聞いてくれる?」

 先程までと打って変わり、再び至って真剣な表情。

「伝えたいこと?」

 改まって伝えたいこと……? その表情からは見当もつかなかった。
 はっ! これはまさか、漫画やアニメなんかでよくある大事な話があるんです、っていう王道パターンか? 青春学園物のど定番。その王道から考えた場合、話の内容は十中八九告白。まずい、俺は心の準備がまだ出来ていない。
 あたふたと慌てる俺を冷めた目で見る川崎は「呆れた」とぼやく。

「葛谷くんは私が心が読めるってことを忘れてるのかな……頭いいのに馬鹿だね。悪いけど違うよ」
「違うのかよ。でも、だったらほんとになんだ?」
「今から、大村くんに会いに行こう」

 先程までの妄想で赤くなった顔が一瞬で冷める。
 大村? なぜ今その名前が川崎の口から出てくる。たった今、川崎のおかげで立ち直ったばかりだというのに、俺のトラウマの元凶に、どうしてまた会いに行くという言葉が出たんだ。
 その疑問に答えるよう川崎が口を開く。

「この間、葛谷くん言ってたよね。大村くんは昔のことをすっかり忘れて、どんな気持ちだったかも考えず、のうのうと暮らしてたって。本当にそうだったと思う?」
「どういう……意味だよ」
「気にしてなかったら名前なんて覚えてないし、声もかけないと思うんだ。私には、大村くんが何かを謝りたいと思ってるように見えたよ」

 謝りたいと思ってるように見えた? あの大村が?
 ……いやいやそんな訳あるか? ありえない。だってあの日、大村は昔と変わらぬ調子で話しかけてきて。
 頭の中で沢山のはてなが渦巻く。

「あの日、葛谷くんは大村くんの顔、ちゃんと見た?」

 そう言われて、はっとする。あの日の記憶に、大村の顔は、最初の驚いたような表情しかなかったことに。俺は、それ以降一度も大村の顔を見ていなかった。……でも信じられない。

「そんな訳……」
「私の言うことが信じられない?」

 言い淀む俺に被せるように川崎が言う。
 正直、これに関しては信じられないというのが率直な感想だ。そもそも俺からすれば、向こうが覚えているのかすらも怪しいレベルの話だ。今更川崎を疑っている訳ではないのだが、脳が受け入れるのを拒否しているような、認めたくない話であった。
 謝られるような心当たりなんて、当然あれ以外ない。川崎の話が本当なら大村は俺のことを忘れていなかったことになる。でも、そんなことあるのか? もう関わらない方がいいんじゃと心の中の自分が訴えてくる。
人の心が読める川崎と俺のトラウマ。その矛盾が俺の頭で渦巻く。

「だから、会いに行くんだよ。確かめないと本当の意味で葛谷くんが前に進めない」

 川崎の瞳には揺るがぬ意志が灯っていた。
 怖い。俺の体には、もうあの時の恐怖が刷り込まれている。考えただけで発汗し、指先から冷たくなっていくような錯覚に陥るのだ。
 ほんのさっき奮い立ったと思っていた心が、急速に萎んでいく。無理だ、行ける訳ない。あれは運の悪い事故だったんだ。もういいじゃないか、忘れて生きていけば。俺はもう一人じゃないのだから無理をしなくても。
 思考が暗く落ちていく。それは俺に深く根付いている諦め癖、逃げ癖であり自分を見失いそうになる。
そんな泥沼から掬い上げるように右手に温かいものが触れ、びくっと体が跳ねることにより、現実世界に引きずり戻される。
 それが、冷たくなっていた俺の手を川崎の両手が包んでいるんだと理解して顔が赤くなる。

「川崎⁉」

 冷え切って青くなりかけていた顔に、一気に熱が張り巡る。

「大丈夫、私も一緒にいくよ。一緒に行って確かめよ? そしたら心から笑えるようになるよ」

 その言葉が、手から伝わってくる熱とリンクするように俺の胸へとじんわりと染み込んでいく。どうして川崎の言葉はここまで俺の心に響くんだろう。不覚にも涙が溢れてきそうになるが、何とか流すことなく瞳を潤わせるに留める。
 先程まで不安に感じていたことが、今はもう気にならなくなっていた。大丈夫、この今感じている熱は嘘じゃない。確かめに行こう。
川崎と一緒なら何も心配はない。

「……分かった、会いに行こう」

 それが川崎の願いだと言うのなら、俺はそれに従うだけだ。

 そうして俺達は、またあのカフェの前へと足を運んでいた。今日、大村がバイトに入っているかどうかは正直賭けだったが、図らずも前回の丁度一週間後。時間帯も同じとなれば、いる期待値は相当高い。不審にならない程度に中の様子を伺えば、案の定、大村の姿があった。
 もしかしたら川崎は今日大村がいることを知っていたのかもしれない。今日こそは、と当たりをつけていたようだったし心が読めることを考えれば……いや考えるのはよそう。

 開けようと扉にかけた手がまるで鉛にでもなったかのように重い。いつまでもこうしていてはいられないが、体が素直に言うことを聞かないのだ。ついさっき覚悟を決めたばかりだというのに、いざ目の前にすると息が詰まる。深呼吸すれば、走馬灯かの如く中学の頃の記憶が蘇った。
 もう二度とあんな思いはしたくないと、そう誓った苦い記憶。それに相対するのは身を削る苦行のようだ。でも、今回はあの時とは違う。
後ろに視線を向ければ川崎がいた。それに気付くと、川崎はこくりと頷く。俺に人の心を読む能力はない。だが、伝わってくる。
 大丈夫。葛谷くんなら出来るよ。

 そんな風に思われてちゃ引けないじゃないか。退路を絶たれ追い詰められている。だけど、俺を信じてこの状況を作ってくれたのは川崎だ。今更投げ出して、その信頼を裏切るなんてできない。
 小さく息を吸い込み、扉にかけていた手に力を込め直す。それに呼応するかのようにドアがギギっと鈍い音を立てて、漏れ出すコーヒーの香りとともに少しずつ開いていった。

「いらっしゃいま……せ」

 出迎えてくれた店員は大村で。俺達を見たその顔は驚いたように呆気に取られたものだった。


 そうして俺と川崎は、まるで前回このカフェに来た時のリプレイかのように、またあの公園へと来ていた。
 もうすぐバイト終わるから、公園で待っててくれないか?
 その大村の言葉に従い、例の如く、前回と同じベンチに腰掛けて待っている最中である。この場所に来るのも二回目だがどうやらここは吉塚公園というらしい。
十一月の空はもうすっかり暗くなって息が白くなるほどの冷え込みを見せる。指先が悴むのを、ポケットに突っ込むことで紛らわせた。

「緊張してる?」

 川崎の声だけが、誰もいない公園によく通る。さらさらと木の葉の揺れる音と混ざり、とても耳当たりが良く、いつまでも聞いていたいとすら思う。

「……してないよ。だって一緒にいてくれるんだろ?」

 それは不安から来る言葉じゃない。信頼。君がいてくれる、ただそれだけの確認。

「うん、私はここにいる。さぁ、行ってらっしゃい」

 その言葉に顔をあげれば、夜の闇からこちらに駆け寄ってくる人影が見えた。近づいてくるにつれその輪郭ははっきりと形取る。

「悪い……! 待たせた!」

 その人影は、赤のマフラーを首に巻き、ベージュのコートを身に付けた大村だった。息が上がるほどではないが、走ってきたのだろう。頬が紅く火照っている。
 いざ大村を目の前にすれば、思わず身が硬くなる。

「……大丈夫、急に来たのは俺達なんだから。来てくれてありがとう」

 そう答えると、大村はどんな感情か分からないはにかみを浮かべた。川崎は、私はここまでというように、声が聞こえるかどうかギリギリの距離にあるベンチに腰掛ける。
 大村と向かい合ったまま、会話が止まり、動きがないまま、時間だけが過ぎる。
 まずい。呼び出したのはこちらなのだから、何か言わないと。でも何を? 昔のこと覚えてる? 何か言いたいことがあるんじゃ?
ダメだ、どう考えても自然な流れで話せる自信がない。どちらからも切り出せない。そんな睨めっこ状態の重い雰囲気を破ったのは大村だった。

「ごめん……!」

 大村は体を大きく、くの字に曲げて……つまり俺に向かって深く、大袈裟なほど頭を下げた。
 それは俺にとって全くの予想外とも言える行動で、何が起きたか一瞬わからなかった。

「な……え⁉」

 大村は頭を下げたまま言う。

「ずっと謝りたいと思ってたんだ、中学の時のこと。言い訳にならないけど、あの頃俺ほんとおかしくて……!」

 そう言って大村が語り始めたのは、俺が何度も忘れたいと記憶の奥底に沈めたあの日の記憶だった。





「……は? 今なんて?」

 母親から告げられた耳を疑いたくなるような内容に、俺、大村蓮は思わず聞き返していた。

「だから、悠馬(ゆうま)の治療費を払わないといけないからうちにそんなお金はないの。それぐらいあなただって分かるでしょ? 星恩高校は諦めなさい。」

 半ば投げやりとも取れるような、母親の言葉は俺の心を酷く混乱させていた。
 どうしてこんなことになったのかは、俺が学校から進路希望調査を持ち帰り、志望校を伝えたことから始まる。
 悠馬というのは、俺の兄。悠馬は、運動が得意で外が大好きだった俺とは違い、病弱で気が弱くいつも一人だった。でも誰よりも優しくて、俺のことをずっと見ていてくれる。一緒に遊ぶことは出来なくても、俺にとって自慢の兄だった。
 でも、そんな兄の名前を出して、母親は何を言った? 治療費?
兄の体調が良くないことは分かっていた。最近は特に入退院を繰り返していて大変なんだろう、程度の認識はあったが……でも、うちはそこまで貧乏な家庭だったのか? 星恩高校は諦めろって、いきなりそんなことを言われてもこっちにも予定がある。

「そんなの納得出来ない! だって俺は何の為に今まで!」

 当然、反抗した。この辺りで一番の私立高校、星恩高校。勉強だけでなく部活動も強く、入ることが出来ればそれだけで周りからの賞賛と大学以降の道も大きく広がる。
 その制服を着る為に、俺は得意だった部活に打ち込むだけでなく、勉強にも力を注いで来たのだ。
 うちの状況を考えれば、わがままを言えるような状況ではなかった。当然、塾に通いたいなんて言えるはずがない。
 だから俺は、レベルを落とせばもっと楽になれるという誘惑を断ち切り、遊びたい気持ちをグッと我慢して。持てる時間を全て、独学で勉強に注いできた。
 そんな生活を続けた成果がようやく身を結び、現実的に星恩高校を目指せるレベルの学力にまでなってきた所だというのに。このタイミングでどうして。
 季節は中三の夏、そろそろ秋になろうかという時期だ。今更進路変更など、全く考えていなかった。

「高校は好きなとこに行けって言ってたじゃん!」

 それを聞いた母親は、申し訳なさそうに。だが、同時にこれ以上の会話を嫌うよう、めんどくさそうに背を向けた。

「私だって行かせられるものなら行かせてあげたいわよ。でも無理なものは無理。諦めなさい」

 その言葉はとても冷たいものだった。議論の余地もないほど簡潔に、否定された。
 あぁ、この人からすれば俺の進路などその程度の認識だったのだろうと頭が怖いほど冷えていく。……どうにもならない事情があるのは分かっている。でもそんな簡単に諦めろだなんて俺の気も知らないで。どれだけ努力してきたと思っている。
 兄のことは大好きだ。遊びたくても一緒に遊べなかったり、ずっと病院にいてばかりで親からもずっと気にかけられている。             そのことを兄ばかり可愛がられている、と羨み妬んでいた時期もあった。
 だが、兄はそんな俺に対してもいつも優しかった。その気持ちに嘘はない。
 でも、今日初めて。初めてこの家に生まれてしまったことを俺は後悔してしまった。

そんな暗く沈んだ気持ちの時に、あの会話が聞こえてきたのだ。

「葛谷は高校、どこ目指してんの?」

 それは、いつも教室の隅の方で話しているような少人数グループの会話。普段なら、気にも留めないが進路の話に敏感になっていた俺は、気付けばこっそり耳を傾けていた。

「俺は星恩高校かな」

 葛谷と呼ばれた男子生徒が発した、星恩という単語に、ぴくっと俺の体が反応する。

「頭良いってずるいな、いつもゲームしてるのにいつ勉強してんだよ。あとなんで星恩?」
「勉強なんかする訳無いじゃん、才能だよ、才能。理由は……そうだな。正直どこでもいいけど、親から言われてるのと、まぁ家から近いし? なんか楽そうじゃね」

 適当すぎだろ、と数人で笑い合っているその様子に、俺の中で何かが弾けた。
 どこでもいいなんて舐めてるのか? 目指したくても目指せない人間がいることを無神経に逆撫でする言葉に目の前が白くなった。
 気づけば、俺は、葛谷から進路希望調査の紙を奪い取っていた。

「お前なんかが星恩受けんの? 恥ずかしくないわけ?」

 もう止められなかった。





「ごめん。謝って済むことじゃないかもしれない。でも、謝らせてくれ。」

 そう言って、大村はもう一度深く頭を下げた。

「あれから、ずっと気にしてたんだ。普段なら絶対あんなことしないのに、俺らしくもないことで突っかかって八つ当たりして。この間うちのカフェに来てくれたとき、星恩の制服を着てるのを見て、俺は安心したんだ。あぁ、俺のせいで葛谷の将来が歪まなくてよかったって。でも、こないだはそれを伝える前に帰っちまって……」

 みんなの人気者で、俺にとっては恐怖の対象であった大村が、今、目の前で頭を下げている。その事実が未だに信じられなかった。
 あの時のことをずっと大村は覚えていたのか……? 俺は、昔の自分の発言なんて、言われるまで何一つ覚えていなかった。大村が星恩を目指していたなんて、今初めて聞いた。

「大村は……今、どうしてるんだ?」

 今の話からすれば大村は……。
 その質問に、大村はどこか寂しそうに。だが、確かに微笑んだ。

「俺は、知っての通り星恩高校には行かなかった。いや、行けなかった、の方が正しいかな。結局学費の安い公立高校に進学したよ。それでもお金が足りないから、放課後はこうしてバイトしてるって訳。でもいいこともあってさ、さっき兄ちゃんが病気だって言ったろ? 最近は容体もかなり良くなって来てるんだ。色々あったけど楽しくやってるよ」

 その言葉には、半分諦めのようなものが含まれていたが、後悔は感じられなかった。きっともう、自分の中で散々考えて消化しきったことなんだろう。
 大村は、俺なんかとは比べ物にならないほど強かった。ふさぎ込んで逃げてばかりだった俺とは正反対で、理不尽に正面から向き合い自分の中で結論を出している。そして、今こうして謝罪の言葉をかけてくれているのだ。
 大村は俺と違って友達を作るのがとても上手い。今の学校でも人気者で、楽しいというのも嘘じゃないんだろう。
 だがそれでも、描いていた道筋と大きく逸れたことは疑いようもない。
 俺の中の大村は、みんなの中心に立つような人物で、穴なんてないどこか完璧超人のような印象だった。でも、そんな大村でも悩みはあって、変えられない事情があって。その地雷を俺は知らず知らずのうちに踏み抜いてしまっていたのだ。

「ごめん。俺、あれからずっと大村のことを恨んでたんだ。
理不尽に、何も理由なく、ただ目に付いたからって理由だけでいじめられたって。でも……違った。原因は俺にもあったんだ。俺は、昔から勉強だけはそこまで苦労することなく、出来たから。努力してる人の気持ちを蔑ろにしてた。星恩を目指してたのだって本当に何となくだ。
行く高校なんて、本当にどこでも良かったし近くて楽そうだってただそれだけの理由で……。本気で目指してて、行きたくても行けなかった人間からすればそんなの鼻について当然で、怒って当たり前だ」

 俺の発言は、重く沈んでいた大村の心を逆撫でするような行為だったと、今なら分かる。ましてや、俺に傷付けた自覚など全くなかったのだから。自分から喧嘩を売っておいて、被害者面しているなんてどうしようもない最低人間だ。

「葛谷が謝るなよ。悪いのは俺で、何と言われようとあれはただの八つ当たりだ。俺のこと情なんて気にすることはないし、知っててどうにか出来ることじゃない。
本当に悪かった……!」

 こんな、今にも泣き出すんじゃないかと思うほど暗く沈み、申し訳なさそうな顔。ここまで反省が現れた表情があるだろうか。
 今なら、川崎の言っていたことが分かる。きっとこの間も、大村はこんな顔をしていたんだろう。
 俺は、一体いつから人の顔を見るのを避けていたんだろう。

「それでも俺は大村を傷つけた……。それは事実だ。謝らないといけない」

 それだけはどうしようもなく変えられない真実。言われれば俺は、何だってする覚悟があった。
 だが大村は中学の頃、遠くから見て憧れていた人当たりのいい、あの優しい笑みを浮かべた。それは周りにいる人間を安心させる、不思議な引力のある微笑み。あぁ、これだ。きっとみんなこの表情を見たくて大村のそばに居たんだ。

「もう気にしてないよ。……もし、葛谷さえ良ければ俺と友達になってくれないか?あんなことしておいて言うのは虫がいいかもしれないけど」

 どこか照れくさそうなその表情に、俺は、言葉に出来ぬ感情が湧きあがっていた。

「大村がそれで許してくれるなら」

 そうして気づいた。そうか。俺は、あの日以来大村が怖かった。でも、それは彼の人気が怖くて。人気者である彼に嫌われているという事実が辛くて、そのことを認めたくないという気持ちがあって。
 友達なんていらないと、俺はあれ以来ずっと思っていた。でも本当の俺は、みんなの中心である大村に憧れていて羨ましかったんだと今気付いた。そんな憧れの対象だった大村が友達になりたいだなんて信じられない。そう、まるで夢のようだ。

「俺のことなんだと思ってるんだよ……良かったら俺のことは蓮って呼んでくれ。俺も啓太って呼ぶから」

 大村はそう言って、にかっと笑った。そこにもう先程までの気まずさや暗さは感じられない。俺の気持ちも不思議なほどすっきりしている。長年の憑き物が落ちたような感覚だ。

「分かったよ、蓮」

 下の名前で呼ぶのも、呼ばれるのも新鮮で何だか心地よかった。
 そうして、俺達は二人、ベンチに腰掛ける。

「本当はさ、啓太はもう来てくんないんじゃないかと思ってたんだ。こないだ、初めて来た時は俺があそこで働いてるなんて知らなくて、偶然だったみたいだし」

 蓮は、冷えてきたな、と手に白い息を吹きかける。

「確かに、俺一人だったら、そもそもあのカフェにすら行ってなかったと思うし、今日大村に会いに来ることもなかったと思う。ここに来られたのは川崎のおかげだ」

 俺一人じゃ今もずっと一人でいることになっていただろう。友達なんていらない、一人の世界で生きていくという軸は変わってなかったはずだ。そんな、俺を変えてくれたのは、間違いなく川崎だ。

「じゃあ今こうして話せてるのは彼女のお陰ってことだな。感謝しないと」

 川崎がこちらの視線に気づき、にこやかに手を振ってくるのに蓮が、同じく輝く笑顔で手を振りかえす。
 この二人、どっちもキラキラした人種なだけあって、同じ画角に入るだけで絵になるななんて凄く他人事な感想が浮かぶ。

「じゃあそろそろ邪魔者は消えようかな! これ、俺の連絡先。平日なら大体バイトしてるからまた二人で来てくれな、お幸せに!」

 連絡先の書かれたメモを渡して、蓮は立ち上がった。

「俺達はそんなんじゃないって! じゃあ……またな!」

 友達と別れる時に、どんな言葉をかけたらいいのか。久しぶりすぎて上手く言葉に出来ず詰まってしまった。
 だが確かに、またな、とそう言えた。そのことが酷くむず痒い。
 蓮は、そんな俺の言葉を背中でうけ、後ろ姿のまま手を振りながらゆっくりと夜の住宅街に消えていった。もう姿は見えなくなったと言うのに、俺はその消えていった方向から目を離せなかった。





「お疲れ様、葛谷くん」

 ぼんやりしていると、いつの間にか川崎が近くに来ていた。川崎は、何を言うでもなくただ黙って俺の隣へと腰を下ろす。

「何があったか聞かないのか?」

 その質問に川崎は、いたずらっ子のように可愛い笑みを浮かべる。

「聞かなくても分かるよ。頑張ったね」

 お見通しって訳か。本当に川崎には敵わないなと思う。頑張ったねという、その一言で胸が暖かくなるのを感じる。

「川崎。本当に、ありがとう」

 俺の言葉に、びっくりしたように川崎が目を見開く。

「どうしたの急に。葛谷くんじゃないみたい」

 川崎の中の俺は感謝も言えないような人間だったのか。あながち間違っていないだけに何も言い返せない。少し前までの俺は捻くれてたからなと苦笑する。

「川崎のおかげで、友達が出来たよ。俺一人じゃ絶対蓮と話そうなんて思わなかった。ありがとう」

 改めて感謝を伝えると、川崎は誇るでもなく、ただ優しげに微笑んだ。

「どういたしまして」

 その表情はまるで、親から向けられているような。慈愛に溢れた暖かく気持ちが落ち着く安心感。あぁ、なんて優しい微笑みなんだろうか。
 俺は気になっていたことを聞くことにした。

「なぁ、どうして川崎はここまで俺のことを手伝ってくれるんだ?」

 今までも何度かして来た質問だが、何故だか今なら答えてくれる気がした。二人きりの深夜だというこの状況で、変なテンションになっていたのかもしれない。

「何で、かぁ。やっぱり、君を更生させるためかな。もうその必要はないかもしれないけど」

 川崎はそう言っていつもと同じように笑う。今なら聞けるかと思ったがまだその心内を語る気はないらしい。
 まぁ、それでもいいじゃないか。だってこれからも沢山時間はあるのだから。川崎のお陰で俺は変われた。いくら感謝しても足りない恩。今はそれだけで十分だ。

「中村から誘われてた遊び。まだあれ有効かな?」

 一軍達と一緒に遊びに行くという例の約束。
 この一週間のうちに、中村が声をかけて来てくれたこともあったが、俺はそれを無視してしまった。いくら闇落ちしていたとは言え、酷い対応だったことは間違いない。もう嫌われてダメになっていたとしても自業自得というやつだ。

「大丈夫、莉央はそれぐらい気にしてないよ。葛谷くんから声をかけてあげたら喜ぶかな。私が保証する」

 この世で一番安心できる川崎からの保証だった。心配だった気持ちが一気に吹き飛ぶ。

「それなら間違いない。安心だ」

 俺の気持ちは、大仕事を終えた後のように凄く晴れやかだ。
 もう時刻は遅く、辺りに人の気配はないというのに、走り出したくなるほどの高揚感。長年心を沈ませていたトラウマに終止符を打ち、まるで青空のように澄み切った気持ちだ。
 今なら何でも出来ると、根拠のない無敵感が気持ちいい。

「家まで送ってこうか?」

 この前は言えなかったが、今なら言える。
 どうして送って行くのか。心配だからなんて建前はやめよう、俺がそうしたいのだ。
 でも、その言葉に川崎はふるふると首を横に振った。

「親に迎えに来てもらうから大丈夫。葛谷くん、また明日ね」
「そう……か。じゃあまた明日」

 正直、断られるとは思ってなかったため拍子抜けだった。誘えば川崎はきっとOKしてくれるなんていう思い上がりがあったかもしれない。
 がっかりした気持ちがあるのが本音だが、ここで食い下がることはせず結局俺は、前回と同じく一人、帰路に着いていた。
 月明かりだけを頼りに、静かな夜道を歩く。
 今日は、俺の人生の上で大きな分岐点になったと、自分でも分かる。大村との過去の因縁を払拭して、高校に入って初の友達も出来た。
 友達、なんて心地いい響きなんだろうか。ついこの間までいらないと切り捨てていたものが、今はこんなに輝いて思える。俺はなんて現金な男だろうか。
 それもこれも、川崎がいてくれたから。頭の中に川崎の色んな表情が浮かぶ。
 放課後に初めて声をかけてくれた時、クラスで皆と会話している時、一緒にゲームセンターに行った時。笑った顔、怒った顔、悲しそうな顔、俺に向けられた顔全てが昨日の出来事のように鮮明に思い出せる。
 あぁ、この気持ちは一体いつからだったんだろう。もう俺は自分の気持ちに嘘をつけない。


どうしようもなく川崎美雨が好きだ。