あれから一か月。
川崎は宣言通り、学校での時間を俺と二人で過ごすことが多くなっていた。
毎日、一緒に昼食を食べ、ゲームをし、クラスの様子などたわいも無い雑談をする。それは傍から見れば付き合いたてのカップルのように初々しく映っていただろう。
こう話すと、俺も正直に言って悪い気はしていないと思われるかもしれないが誓ってそんなことはないのだ。その実態は、半ば強制であった。朝の挨拶は俺からしたことは無いし、昼も川崎が屋上まで勝手についてきているだけだ。ゲームは……リベンジしたいという俺の意地もあるか。
とにかく、無理矢理俺の学園生活に川崎美雨という存在が割り込んできていた。
毎日声をかけてきて、あげくの果てには休み時間に俺の席まで遊びにくる始末。
もう一度、確認のために言うが、川崎はクラスの人気者なのだ。そんな訳で教室では目立つ。凄く目立つのだ。
誰にでも分け隔てなく接するし、その整った顔立ちは、街ゆく人、誰に聞いても可愛いと答えるだろう。ただ誰にでも分け隔てなく接する。とは言え、例外もある。いやあったはずなのだ。
そう例えば俺とか。クラスの共通認識として、俺は川崎の話しかける誰にでもに属していなかった。自分から壁を作るように動いているし例外であること自体は全然いいのだが、問題は川崎がその共通認識を無視して俺に構うこと。俺に対しても平気で話しかけるなんて、本当にどうかしている。
そして、話していることによって、あることないこと噂が出回り、身に覚えないことを吹聴されるのは、俺にしてみれば心外という他ない。
余計な反感を買う気は毛頭ないし平穏に暮らす、ただそれだけが望みであったのに。
川崎のことを心配するわけじゃなく、俺と会話するなんて自分から地雷を踏みに行くような行為で、はっきり言ってバカ。
いっそ、俺のことを悪く思っていて嫌がらせのために絡んでいると言われた方が、俺の気持ちとしてはスッキリできていたのに、何のいたずらか、この一か月過ごした中で川崎はそういった下心は持ち合わせていないように思えた。
俺に害を成そうとしている訳ではない。結果、有害なだけであってそこに悪意は何もなかったのだ。こうなると余計に達が悪い。
当の川崎の話す内容は、相変わらず更生だ超能力だと常軌を逸していると言っても過言じゃないが、それが悪意から来るものでないことぐらい、ここまでの関係で流石に俺でも判別がついていた。
教室で一人本を読んでいる俺を一人にさせないように、なんて悲しいことを考えているのかもしれない。だとしたらなんて優しい人なんだ、と涙が出そうな感動ストーリーだが、生憎俺はそんな救いを求めてはいないし、現状維持で満足だ。つまり完全に悪手。
何故ならばそう。この関係はこんなトラブルを呼びこむのだから。
「ねぇ、美雨とどんな関係なの?」
俺はついにこの時が来たかと、内心、頭を抱えた。
今俺の目の前で質問を口にした女子生徒は、肩までのショートカットの毛先を指でクルクルと弄りながら気怠げに俺の机へともたれかかっていた。
彼女の名前は中村莉央。
女子にしては高い身長とその気怠げな雰囲気。どこか掴みどころのないクール系という言葉がしっくり来る。
本来俺なんかと関わりのない彼女は、川崎と同じく紛れもない一軍女子である。無い共通点を無理矢理挙げるとすれば、どちらも川崎と話していることだろうか。もちろんその話しているというのも実態は大分差があると思うが。
なにはともあれ、今、そのことについて裁判にかけられている真っ最中であった。
どんな関係なの?
この質問が一番恐れていたことと言ってもいい。要約するに、お前如きがなんで川崎と絡んでんの? の意だろ。
遅かれ早かれいつかこんな日が来るんじゃないかとは思っていた。分かっていたことではあるが、いざこの状況を目の前にするとうんざりする。
そんなこと言われたって、どんな関係かだなんてこっちが聞きたいぐらいだ。だる絡みされて困っているなんて素直に答えるわけにはいかなかった。調子乗ってると思われて嫌な顔されて状況が悪化するのがオチだ。
いかに穏便に済ませるか……。あぁ、めんどくさいこと、この上ない。
教室の中に川崎がいないのも、このタイミングを狙ってのことなのだろう。タイミングを計って声をかけてきた辺り、生半可な答えで納得してもらえるとは思えなかった。
どうにか波風立てずにやり過ごす方法を考えなければ。
「中村、だったよな。別に川崎とはなんの関係もないよ」
なるべく刺激しないように慎重に言葉を選び、飾ることない真実を伝える。
「何もないことはないでしょ? 最近、葛谷くん葛谷くんって美雨そればっかりなんだから。聞いてもはぐらかされるし絶対何かあるでしょ」
だが、当然その当たり障りのない回答は中村を満足させるものではなかったようで、見て分かる程に顔を顰める。
川崎は俺のことをそんな風に話していたのか。友達に対しても隠す気がないなんて益々何を考えているのか分からない。
「そんなこと言われたって知らないことは知らない」
「っ!」
中村は一層不機嫌そうな表情を浮かべる。だが、あいにく俺はそれ以上の答えは持ち合わせていないのだ。でもそれは中村にして見れば知る由もないことであった。
あんたなんかがどうして美雨と……、とでも考えているのだろう。その険しい表情には隠しきれない威圧感が滲み出ていた。
身の程を弁えろってか? そりゃそうだ、相手は人気者。住む世界が違う。それぐらいは俺だって分かっていた。でも俺にしてみれば自分から望んで川崎と関わっている訳じゃない。なんとも理不尽な話だ。
……さて、この言い合いもあまり長引かせるとまずい。
頭の中に過去の苦い思い出が蘇る。もうあんな思いはしたくないのに。
服の中を嫌な汗が流れるのを感じた。
段々と周囲も、この普段見ない組み合わせに気付き始め、ヒソヒソと噂をする声が聞こえ始めてきていた。
「昼も二人でどこか行ってるよね? 私ちゃんと知ってるんだから」
「そうだっけかな」
はぐらかすが、俺の内心は心臓バクバクだった。
バレてるじゃねーか! 俺の聖域だっていうのに一体どこから……。いや、そんなの川崎以外ありえない。ちゃんと隠しておいてくれよと脳内の川崎に訴えかける。
今この二人の間には、限りなく嫌な雰囲気が流れていて、それはいつの間にか穏やかな教室全体に広がっていた。この上なく気まずいことは言うまでもない。目立つのは嫌いなんだ。
誰かどうにかしてくれ。
そう願った時、あの凛とした声がこの不穏な空気をぶち破った。
「莉央! どうしたの?」
そこには、いつの間にか教室へと帰ってきていた川崎が立っていた。助かった。
その時の俺には、川崎が女神に見えていた。この絶望的な状況を覆せるとするならばそれは川崎だけだ。それはまさしく救いの手であった。
だが川崎が登場したとはいえ、依然として張り詰めた空気の重さは健在で、俺に口出すことなんてできそうにない。
「美雨……」
中村は、見つかったとでもいうように罰が悪そうな表情を浮かべる。
川崎は教室に漂うこの緊迫した空気を理解しているのかいないのか。いつもと同じように輝く笑顔を浮かべていた。今はその笑顔に頼るしかなかった。
川崎が来たからといって状況は未だ好転した訳ではない。と言うことは、俺はもうこの場を去るのが得策か。
「じゃあ俺はもう行くから」
後のことは川崎に任せて、それだけ言いもう話すことはないというように席を立つ。
「待って! まだ話は終わってない」
案の定慌てたように、中村が呼び止めようとしてくるが、それを聞く理由は俺にはない。舐められたら終わりなのだ。ここは強気に押し切る。
無視して離れようとするが、立ち去ろうとする俺の前に誰かが立ち塞がりその退路を絶った。誰がそんなことを! と叫びそうになって確認する。それは先ほどまで救いの女神に見えていた川崎だった。
どうして止めるんだ。助けに来てくれた訳じゃなかったのかよ?
そんな俺の悲痛な内心をスルーし、川崎は口を開いた。
「まぁまぁ葛谷くん。莉央の話ぐらい聞いてってあげてよ」
「いや、そうは言ったって……」
一刻も早く離れなければ背後の中村が、爆発しそうな雰囲気を纏っているのが感じられた。
「いいから」
何がいいのかは全く分からなかったが、川崎は任せてとでも言うように中村へと向き直った。
「莉央もだよ? そんな威圧的に話すと、誤解されるに決まってるじゃん。言いたいことがあったんでしょ?」
一体何を言い始めたのかと動揺するが、川崎の言葉に中村が纏っていた爆発しそうな敵意のような硬い雰囲気が一気に緩んだのを肌で感じた。
「え、嘘! 私そんな威圧的に見えてた⁉」
「……え?」
誤解とは何のことだ。何が起きたのか分からずぼんやりしていると、ほらほら座って、と川崎に席へと押し戻される。
「もっと笑顔でっていつも言ってるでしょ」
川崎が、中村を窘める。
「えっと……中村の言いたいことって、もう関わるなってことじゃないのか?」
俺の質問に、中村はきょとんとした表情を浮かべる。
「なんで私がそんなこと言わなきゃいけないの?」
あれ? てっきりそのことだとばかり。でも、違うとしたら一体、言いたいことってなんなのだろう。声をかけられる理由に心当たりがなかった。
威圧するつもりがなかったってことは、敵意がないってことで……それはつまり……? どういうことになるんだ。
恥ずかしそうにごにょごにょと言い籠る中村に、川崎が何かを小さく耳打ちした。
それを聞いて決心がついたように頷いた中村は、一息ついて切り出した。
「葛谷くん、今度の放課後私達と一緒に遊ばない?」
何を言われるのかと身構えていた俺に、その誘いは想像の斜め上をいくものだった。
一瞬意味が分からず、思考が止まる。言う相手を間違えてるんじゃないかというのが、第一印象だった。
「なんで俺なの? もしかして誰かと勘違いしてる?」
それぐらいしか、理由が思いつかなかった。
カースト上位の中村が俺なんかに絡むなんて何か裏があるとしか思えない。直接的じゃないだけで何かの隠喩だったり別の意図が……。
「はいはい、くだらないこと考えるのやめて帰ってきて葛谷くん。そんなに警戒しても何もないってば。ただ莉央は、葛谷くんに興味があっただけだから。ね、そうでしょ?」
俺の思考をぶった斬った川崎に、中村がこくりと頷く。
「最近美雨が仲良さそうにしてたから葛谷くんがどんな人なのかちょっと気になってて。私もその輪の中に入れて欲しいなって。あ、遊ぼうっていうのは、加賀達のことね。みんなも話してみたいって言ってたし」
中村の話にでてきた加賀というのは、同じクラスのサッカー部の男子だ。加賀も確か、川崎と同じ一軍に所属していたはずだ。
そして、ようやく言われている意味を理解した。
つまり、私達と遊ばない? とは一軍集団とどこかに行かないかという誘いってことか。理解してなおその意図が分からなかった。
「俺と一緒に遊ぶって……その大丈夫なのか?」
「……? やっぱり慣れてない人ばっかりだと嫌?」
中村のその疑問は、俺の心配とはとても見当違いなものだった。周りからの目だとか、住む世界が違うことを気にしている様子もない。
俺がしている心配はそういうことじゃなくて……と説明したいが、まるで伝わる気がしなかった。
そんな様子じゃ、俺ばかり気にしているのが馬鹿らしくなってくるじゃないか。本当に悪意があって話しかけにきている訳ではなかったのだから。
川崎といい中村といい、俺のリズムを悉く乱してくる。きっと善人なんだろう。
今の一連の会話だけでそれが分かりすぎるほどに伝わってきた。
「いや、何でもない。そっちさえ良ければ行かせてもらおうかな」
そう言うと、中村と、何故か川崎まで、ぱっと顔を明るくし嬉しそうに笑った。
「やった! どんな風に話しかけようかずっと迷ってたんだよね。葛谷くん近寄るものは斬る! って雰囲気だったから。最近は少しマシになってきてたけど」
「そんな、侍じゃないんだから……」
思わず苦笑いがこぼれる。
だが、俺が近寄りづらかったって言うのは本当なのだろう。クラスメイトと関わろうなんて気持ち、全くなかったのだから。
でも、その架け橋となったのはきっと川崎という存在がいたからだ。最近は少しマシになってきたというのも、川崎と関わることによって俺から少しずつ毒気が抜けてきたからだろうか。
最近の俺はどこかおかしい。信じて生きてきたものが崩されるというか、誰も本当に俺に対して悪意なんて持っていないんじゃないかと思い知らされることばかりだ。
思っていたより敵は少なくて、それがどこか心地いいと感じてしまっていて。その挙句に遊びに行く約束までしてしまった。
俺の中で何かが変わってきているということだろうか。
「それより美雨! この際はっきり聞くけど、葛谷くんとどういう関係なの?葛谷くんに聞いても何もないって教えてくれないし! 今日こそ白状しなさい!」
思索に耽る俺を横目に、中村が川崎に腕を絡めて拘束している。
最初に俺にも同じ質問をしていたな。あの時は、もう関わるなという牽制だと思ったが、そんな深い意味はなくただ単純に関係が気になったというだけだったというオチか。
その言い方からして、俺たちの関係をなにか誤解しているような気もするが……俺も川崎の口から語られる関係が気になった。
勿論、俺たちは恋人なんてキラキラしたものではないし、友達と呼ぶには川崎からの一方通行な気もする。だが、ただの知り合いにしては距離が近い気もしてならなかった。川崎は俺達の関係を一体どう思っているのだろう。
その答えが気になり、目を向けると、唸りながら顎に手を当てる川崎がいた。
「私と葛谷くんの関係か。そんなに気になる?」
「気になるよ、葛谷くんの話ばっかりしてるし」
「そんなことないと思うけど……強いて言うならそうだな」
面映ゆげにはにかむ川崎に思わず息を飲む。
「医者と患者、かな」
「もう! 美雨はまたそうやってはぐらかすんだから!」
だって本当だもん、と川崎はおどけていつもの様に笑う。
その答えは、俺からしてもなんだそれと言うような回答だった。何かを期待していた訳では無かったが、的を射ない回答に肩透かしを喰らったような気分である。
「じゃあまたね葛谷くん!」
「今度また連絡するから!」
戯れ合うように二人は次の授業に向け、自分の席へと帰っていった。それを見送り、俺は体に入っていた力を、吐く息と共に外へ吐き出した。
想像以上の疲労感で、自分が感じていたのよりもよっぽど緊張していたのだということにようやく気付く。
本当に、丸く収まって良かった。結果から言えば緊張するようなことは何も無かったわけだが、心臓に悪い出来事であったというのは言うまでもない。
その後の授業中も結局、遊びに誘われたという事実が頭の中を駆け回り、一日全く集中できなかった。
◆
その後日の昼休み、いつものように川崎と二人で過ごしている時間。
俺は、ずっと気になっていた疑問を確かめることにした。
「なぁ、川崎って人の心が読めるとか言ってたけど、あれってマジで言ってるのか?」
今でも人の心が読めるなんて有り得ないと思ってるし、オカルトに興味はない。
だが事として、川崎は内心を見透かすような発言が多かった。それも異常なほど。
極め付けは先日の出来事。
あの威圧的で険悪な様子の中村が、実はただ遊びに誘おうとしていただけなんて、普通の人に分かるもんか。今までの言葉と合わせて確かめてみたくもなる。
「だからそう言ってるじゃん。私は超能力者なんだよ?」
否定するでも誤魔化すでもなく、頬張ったサンドイッチを飲み込み、あっけらかんと川崎が頷く。
相変わらずその顔は、ふざけて言っているようには見えない。
「超能力者って……。んな訳ないだろ普通に考えて」
「だから、確かめようとしてるの?」
その言葉に俺は思わずぐっと息を詰まらせた。
川崎の言っていることは図星だった。俺は、いつも心が読めるという川崎を、今日こそは本当かどうかはっきりさせようと確かめる気で話しかけたのだ。
こう何度も考えていることを言い当てられては、もはや誤魔化すことは出来ないのかもしれない。バレているのなら、話は早かった。
俺は握り締めた右拳を川崎の目の前に突き出した。
「二十回勝負。今からじゃんけんをして俺に二十連勝出来るようなことがあれば、俺は川崎の言っていることを信じる」
その提案に、川崎は驚いたようにその大きな目を見開き、じーっと俺の顔を覗き込む。そのどこまでも透き通り、吸い込まれ落ちていきそうな程の漆黒の瞳からは何の感情も読み取れない。
でも、まるでこちらの全てを見透かされているかのような……胸を掻きむしりたくなるようなむず痒い気持ちに襲われる。
その無限にも思えるほどの時間。実際は十秒ほどだったが、川崎は同じように右手を前に掲げた。
「いいよ。それで葛谷くんが満足出来るって言うのなら」
乗ってきた。二十回という回数設定は、運が上振れたというだけじゃ説明がつかないようにと丁度いい回数を考えた結果だ。普通にじゃんけんして二十連勝なんてありえないし何かイカサマがあるに決まっている。それこそ、心が読めるとかな。
「じゃあいくぞ。最初はグー、じゃんけんぽん!」
緊張の第一回。
俺の手は無防備に開かれたパー。一方の川崎はと言うと。
チョキ、二本のハサミが表されていた。
思わず息を飲み戦慄する。負けた。確かに今俺は敗北した。
だがまだだ、まだ一回目。たまたま勝つことぐらいあるさ。続けていればいつか俺が勝つ時が来ると言い聞かせてはやる心を落ち着ける。勝負はこれからだ。
だが、その時は来なかった。
数分後、二十連敗という未だかつて経験したことのない連敗を喫した俺は、無様に地面へと這いつくばっていた。
いやいや⁉ 有り得ないだろ⁉
二十連敗は二十連敗で意味が分からない記録なのだが、現実はそれを上回るもっと有り得ないことが起きていた。
それはただの一度の例外なく、全て一手目で決着していることだった。
あいこすら存在せず、ストレートで二十連敗。完封負けと言ってもいい。じゃんけんに完封なんて概念が存在したのかと驚愕する。運がいいなんて言葉で説明できる次元を優に超えていた。
心から震える。まさか本当に……?
認めたくなくて、もう勝負はついたというのに勝負を挑み続けた。
「も、もう一回! じゃんけんぽん、ぽん、ぽん、ぽん……!」
その後何度負けたかは俺にも分からない。ただ唯一はっきりしていることは、俺が勝った回は一度たりとも存在しなかったということだけだ。
はぁ、はぁ、と息切れした俺だけが残っていた。全力でやりすぎた結果、たかがじゃんけんだと言うのに息が切れる始末だ。
どうしてこれだけやって勝てない⁉ ありえないだろ!
「流石に私もそろそろじゃんけんは飽きてきたんだけど。信じてくれる気になった?」
そう言って川崎は退屈そうにあくびする。
信じたく無かった。信じたく無かったのだが、これはもう認めざるを得ないのではないか。まさか本当に人の心が読める人間が存在するなんて……そんなの本当に超能力者じゃないか。
「これだけ見せつけられたんだ。人の心が読めるっていう川崎の言葉……信じるよ」
絞り出すような俺の言葉に川崎は目を輝かせた。
「ホント!ようやく私の言うことをまともに聞いてくれるようになったかー。最初から言ってたのに全然信じてくれないんだから!」
そう言って楽しそうにキャッキャと笑う。
その様子に、呆れと共に可愛いという感想が浮かぶが、心が透けているのなら筒抜けなんじゃ?と思い当たり、すぐに消し去り、誤魔化すように早口で尋ねた。
「とにかく! このことを知ってる人は他に誰かいるのか?」
「いや、葛谷くんだけだよ。だから誰にも言っちゃダメだからね?」
やはり誰にでも言えることじゃないのか。最初に、誰にも言ってはいけないと言っていたからそうなのではないかとは思っていた。悪用としようと思えばいくらでも方法が思いつく。きっと様々な事情があるのだろう。
「分かった。でも、どうして俺には最初から教えてくれたんだ? 誰にも言っちゃダメなんだろ?」
すると、関わってきた今までで、初めて川崎が返事に困るように言い淀む。
「それは、その……秘密!」
「なんだよそれ」
今の答えるまでの間といい、何かを隠しているのは明らかだった。
秘密ってなんだ?教えてくれないってことは何かしら理由があるのだろうが、あいにく俺は高校に入学して今日まで友達を作ってこなかったんだ。普通の人以上に心の読めない一般人で、川崎の考えていることなんて皆目、見当もつかない。
「それはもういいでしょ! そんなことよりさ、今日の放課後二人で遊びに行かない?」
誤魔化すように手をぶんぶんと振る川崎。だが、された提案は予定外のものであった。
「放課後? いつもは用事があるからって言ってなかったか?」
川崎は、放課後は別の用事があるからと言って早々に帰ってしまうのだ。
てっきり放課後は俺ではなく他の友達と遊ぶ時間、というように割り切っているものだと思っていたからこの誘いは正直意外だった。
「俺は全然いいけど随分急だな。別の日の方がいいんじゃないのか?」
そう言うと、川崎は首を横に振った。
「今日行きたい気分なの。ね、いいでしょ?」
いつになく譲らない姿勢。理由は分からないが今日で無ければならないと言われれば無理に断る理由はなかった。
俺が家に帰ってすることと言えば、ゲームにネットぐらいの物だし予定と呼べるものはないしな。
どうして突然そんなことを言い出したのか、少し引っかかったが、些細な問題であった。
「分かった、いいよ」
二つ返事でOKを出す。
すると川崎は嬉しそうに頬を綻ばせ飛び跳ねている。
「やった!」
一緒に遊びに行くってだけでそんな顔をしてくれるのか。何だか照れ臭い気持ちになる。
放課後、誰かと遊びに行くなんていつ以来だろうか?俺も不覚にも楽しみだと思ってしまう。
「それで、どこに行くんだ?」
そう聞くと、考えてなかったというように川崎は頭を捻った。
「あ、それじゃあ……」
◆
放課後、俺たちは近所のゲームセンターへと足を運んでいた。
「ほらほら、そんなんじゃ私は倒せないよ⁉」
「くっそ! なんでこれが避けられるんだよ」
楽しげな川崎の横で、俺は必死にコントローラーを操作する。
ガチャガチャと可能な限り素早く入力するのだが、そんなヤケクソすらも完全に受け流される。並んで座った対戦型の格闘ゲームで、案の定俺の操作しているキャラはボコボコにされているのであった。
「はい! これで私の三連勝ね! 負ける気がしないなー」
ゲームセンターの前にも二時間みっちりカラオケで歌った後だというのに、川崎はいつもの様に元気にはしゃいでいる。疲れとかいうものはないのか。
「いやいや、だってズルだろ! 心が読めるのにそんなの勝ちようないって」
「あー見苦しい! 言い訳ですか? 実力だよ実力!」
俺の悲痛な訴えも川崎には、まるで届かない。
よく言うよ。あれだけピンポイントで俺の技を見切っておいて白々しいにも程がある。
以前の俺であれば、俺はゲームで負けることは、負けず嫌いなのも相まってプライドを傷つけられたようで凄く嫌だった。
はずだったのだが、今は何故か凄く心が穏やかだ。むしろ楽しんですらいる。川崎相手になら負けても仕方ないと思えるのだ。
勿論、心が読めているのだから負けても仕方ない、と思っているというのもあるが、そんなことより楽しそうにゲームしている川崎を見ていると、勝敗なんて気にしている俺が小さく思えてくるのだ。きっと川崎は負けたとしても、同じように輝くような笑顔で笑うのだろうから。
勿論、だからと言ってただで負けてやる気はない。
「言ったな? 今度はあのゲームでスコア競おうぜ」
俺は、迫り来るゾンビ達を協力して銃で薙ぎ倒していくシューティングゲームを指差す。
「ははん、心を読まれても関係ないゲームで勝負する気ね。甘い、甘いよ! それぐらいで私に勝てるとでも?」
「言ってろ!」
そうして俺達は次々と様々なゲームを遊び倒した。シューティングゲームにメダルゲーム、クレーンゲームなど目につくものを片っ端から勝負し尽くした。完全にゲームセンターを満喫したと言ってもいいだろう。
気がついた頃には、相当な時間が経過していた。
放課後に誰かと遊ぶなんて、新鮮な体験で、気付けば俺はずっと笑っていた。川崎も、同じように感じてくれていたらいいなと考えて、あの笑顔で楽しんでいないわけがないと安心する。杞憂だった。
「流石にこれだけ遊ぶとちょっと疲れたね」
俺達は、ゲームセンター内の休憩スペースに置かれたソファーに肩を並べて座っていた。
川崎は、体をソファーの形にだらんと脱力させている。
くつろぎすぎだろ。俺はそんな無防備な様子を見ていいものかと葛藤するが、どうにか堪えて宙を見上げる。
「そりゃずっとあのテンションでいればな」
川崎は本当にずっとハイテンションだった。楽しくて仕方ないと言ったその様子は、こっちまで無条件でいい気分にさせられる。
ずっとあのテンションなら、流石の川崎でも疲れて当たり前だ。額に浮かんだ汗を満足げに拭っている。
だが、俺も本当に楽しかった。どうせ取り繕っても相手は心が読めるのだ。隠したってしょうがない。
こんな青春も良かったな、と思ってしまう程度には、心躍る体験だったと言えるだろう。
ずっとこの時間が続けばいいのに。柄にもなくそんなことを思う。
「それでこの後どうする? 私は疲れたからカフェでも行きたいかも」
「いいんじゃないの? 時間もまだ大丈夫だし、付いてくよ」
時刻は夕方七時。そろそろ日が沈み始める時間だが、終電にさえ間に合えば家には帰れる。
「やった! じゃあ行こっか。私行きたい店あるんだよね」
「全部お任せするよ」
疲れていたのが嘘のようにハイテンションになった川崎に安心する。まだ一緒にいられる。
◆
そうして、川崎に連れられ人通りの多い道を歩くこと十分。見るからにお洒落で洋風な建物のカフェへと到着していた。それはどう考えても俺とは無縁の建物であった。
ここかよ、と一瞬躊躇するが、躊躇うことなく入っていく川崎の後ろを、おっかなびっくりながらついていく。
今までの人生でこんなキラキラした若者向けのカフェに遊びに来たことなんてない。
店内を見渡せば、女子高生や大学生。基本女性ばかりでたまにいる男性はといえばカップルだけ。
どう考えても場違いとしか思えないが俺は果たしてここにいていいんだろうか。
側から見れば、俺たちもカップルに見えているのかもしれないが、それにしては容姿の釣り合いが取れてなさすぎるってもんだ。
なんの特徴もなくパッとしない男と、クラスの人気者。川崎は、贔屓目抜きで見ても世間一般的に可愛い部類に所属している。冷静に考えて、今こうして二人で遊んでいることは奇跡であった。
だが、川崎はそんな俺の様子を意にも介さず、熱心にメニュー表を眺めている。
「どれにしよっかな。ここのシュークリームは外せないでしょ? 後は何にすべきか」
気になってるカフェだって言っていただけあって、ある程度目処はつけていたのだろう。
「シュークリーム好きなの?」
その質問に、川崎はよくぞ聞いてくれたとでも言うように目を輝かせる。
「一番好きな食べ物と言っても過言じゃないね! 特にここのは最高らしくて……葛谷くんはどうなの?」
「あいにく甘いものはあんま好きじゃないんだ。俺はコーヒーでも頼もうかな」
川崎は、明らかに残念そうな顔を浮かべる。
「あーあ、勿体無い。人生の三割は損してるねそれ。まぁ葛谷くんらしいと言えばらしいけど」
俺らしいってなんだろう。そんなに甘いものが嫌いそうな顔をしているだろうか?だとすると俺の顔は渋い顔? いや、自分で言うのもなんだが、年相応だと思うんだけどな。
「人生の何割損してるって表現あんまり好きじゃないんだよな。だって、それを言ったやつは相手より三割増しで幸せなのかって話になるだろ? 人の幸せなんて人それぞれだと思うんだ」
川崎は驚いたような顔を浮かべる。
「葛谷くんにしては珍しくまともなこというね。確かに、私が葛谷くんよりも幸せなのかって言われるとそんなことはないか」
「いや……別にそうは言わないけどさ。川崎は毎日楽しそうだし」
「そうだね、今は凄く楽しいよ。……今は」
川崎はいつものように笑顔を浮かべたが、その顔はどこか愁いを帯びているように見えた。
いつも能天気に見える川崎にも悩みがあるのだろうか。
そんな思考は次の瞬間、跡形もなく消し飛んだ。
「あれ、もしかして葛谷じゃね?」
思わぬ方向から突然自分の名前を呼ばれ、一瞬世界が停止する。
そこに立っていたのはカフェの制服を身に纏った若い店員。恐らく俺達と同じ高校生ほどに見える。
だが、どうして店員が俺の名前を知っているんだ。どこかで会ったことがあっただろうかと、記憶を掘り下げ、検索にかける。
そして、それが誰かを認識した瞬間、俺の体から生気が吹き飛んでいた。
「久しぶりじゃん。なに、デート中?」
「大村……」
俺は今どんな顔をしているだろう。
そこに、さっきまでの楽しさは微塵もなく、あるのは青くなった絶望のみだった。
どうして、どうしてどうしてどうして。後悔と疑問と困惑が俺の中を無限に反芻して回る。
「その制服着てるってことは星恩には入れたんだな、おめでとう。こんな可愛い彼女出来てるなんて意外だわ」
話しかけられた声は耳には届いているのだが、全く頭に入ってこない。頭が真っ白でなにも考えられず、そのまま通り抜けていく。
「葛谷くんのお友達?」
下を向き青い顔をしている明らかに様子のおかしい俺を見兼ねたのか、川崎が心配するように声をかけてくれる。だが、俺にはその言葉すらまともに届かない。
「あ、初めまして! 俺は大村蓮って言います。葛谷とは中学の同級生で。……ってあれ、どこかで会ったことありますか?」
「お会いしましたっけ? 私は川崎美雨って言います」
どうして大村はそんなに馴れ馴れしく接して来られるんだ。俺に昔、あんなことをしたと言うのに。まさか何をしたかを忘れたとでも言うのか?
川崎と大村が何かを話しているが、その様子を見ているだけで脳が茹るようだ。自分の中にまだこんな熱くなれる感情があることに驚く。
これ以上、この光景を見ていられない。居ても立っても居られなくなった俺は無言で立ち上がり、店を後にした。待って、という川崎の呼び止める声が聞こえた気がしたが今の俺を止めるほどの力はなかった。
川崎は宣言通り、学校での時間を俺と二人で過ごすことが多くなっていた。
毎日、一緒に昼食を食べ、ゲームをし、クラスの様子などたわいも無い雑談をする。それは傍から見れば付き合いたてのカップルのように初々しく映っていただろう。
こう話すと、俺も正直に言って悪い気はしていないと思われるかもしれないが誓ってそんなことはないのだ。その実態は、半ば強制であった。朝の挨拶は俺からしたことは無いし、昼も川崎が屋上まで勝手についてきているだけだ。ゲームは……リベンジしたいという俺の意地もあるか。
とにかく、無理矢理俺の学園生活に川崎美雨という存在が割り込んできていた。
毎日声をかけてきて、あげくの果てには休み時間に俺の席まで遊びにくる始末。
もう一度、確認のために言うが、川崎はクラスの人気者なのだ。そんな訳で教室では目立つ。凄く目立つのだ。
誰にでも分け隔てなく接するし、その整った顔立ちは、街ゆく人、誰に聞いても可愛いと答えるだろう。ただ誰にでも分け隔てなく接する。とは言え、例外もある。いやあったはずなのだ。
そう例えば俺とか。クラスの共通認識として、俺は川崎の話しかける誰にでもに属していなかった。自分から壁を作るように動いているし例外であること自体は全然いいのだが、問題は川崎がその共通認識を無視して俺に構うこと。俺に対しても平気で話しかけるなんて、本当にどうかしている。
そして、話していることによって、あることないこと噂が出回り、身に覚えないことを吹聴されるのは、俺にしてみれば心外という他ない。
余計な反感を買う気は毛頭ないし平穏に暮らす、ただそれだけが望みであったのに。
川崎のことを心配するわけじゃなく、俺と会話するなんて自分から地雷を踏みに行くような行為で、はっきり言ってバカ。
いっそ、俺のことを悪く思っていて嫌がらせのために絡んでいると言われた方が、俺の気持ちとしてはスッキリできていたのに、何のいたずらか、この一か月過ごした中で川崎はそういった下心は持ち合わせていないように思えた。
俺に害を成そうとしている訳ではない。結果、有害なだけであってそこに悪意は何もなかったのだ。こうなると余計に達が悪い。
当の川崎の話す内容は、相変わらず更生だ超能力だと常軌を逸していると言っても過言じゃないが、それが悪意から来るものでないことぐらい、ここまでの関係で流石に俺でも判別がついていた。
教室で一人本を読んでいる俺を一人にさせないように、なんて悲しいことを考えているのかもしれない。だとしたらなんて優しい人なんだ、と涙が出そうな感動ストーリーだが、生憎俺はそんな救いを求めてはいないし、現状維持で満足だ。つまり完全に悪手。
何故ならばそう。この関係はこんなトラブルを呼びこむのだから。
「ねぇ、美雨とどんな関係なの?」
俺はついにこの時が来たかと、内心、頭を抱えた。
今俺の目の前で質問を口にした女子生徒は、肩までのショートカットの毛先を指でクルクルと弄りながら気怠げに俺の机へともたれかかっていた。
彼女の名前は中村莉央。
女子にしては高い身長とその気怠げな雰囲気。どこか掴みどころのないクール系という言葉がしっくり来る。
本来俺なんかと関わりのない彼女は、川崎と同じく紛れもない一軍女子である。無い共通点を無理矢理挙げるとすれば、どちらも川崎と話していることだろうか。もちろんその話しているというのも実態は大分差があると思うが。
なにはともあれ、今、そのことについて裁判にかけられている真っ最中であった。
どんな関係なの?
この質問が一番恐れていたことと言ってもいい。要約するに、お前如きがなんで川崎と絡んでんの? の意だろ。
遅かれ早かれいつかこんな日が来るんじゃないかとは思っていた。分かっていたことではあるが、いざこの状況を目の前にするとうんざりする。
そんなこと言われたって、どんな関係かだなんてこっちが聞きたいぐらいだ。だる絡みされて困っているなんて素直に答えるわけにはいかなかった。調子乗ってると思われて嫌な顔されて状況が悪化するのがオチだ。
いかに穏便に済ませるか……。あぁ、めんどくさいこと、この上ない。
教室の中に川崎がいないのも、このタイミングを狙ってのことなのだろう。タイミングを計って声をかけてきた辺り、生半可な答えで納得してもらえるとは思えなかった。
どうにか波風立てずにやり過ごす方法を考えなければ。
「中村、だったよな。別に川崎とはなんの関係もないよ」
なるべく刺激しないように慎重に言葉を選び、飾ることない真実を伝える。
「何もないことはないでしょ? 最近、葛谷くん葛谷くんって美雨そればっかりなんだから。聞いてもはぐらかされるし絶対何かあるでしょ」
だが、当然その当たり障りのない回答は中村を満足させるものではなかったようで、見て分かる程に顔を顰める。
川崎は俺のことをそんな風に話していたのか。友達に対しても隠す気がないなんて益々何を考えているのか分からない。
「そんなこと言われたって知らないことは知らない」
「っ!」
中村は一層不機嫌そうな表情を浮かべる。だが、あいにく俺はそれ以上の答えは持ち合わせていないのだ。でもそれは中村にして見れば知る由もないことであった。
あんたなんかがどうして美雨と……、とでも考えているのだろう。その険しい表情には隠しきれない威圧感が滲み出ていた。
身の程を弁えろってか? そりゃそうだ、相手は人気者。住む世界が違う。それぐらいは俺だって分かっていた。でも俺にしてみれば自分から望んで川崎と関わっている訳じゃない。なんとも理不尽な話だ。
……さて、この言い合いもあまり長引かせるとまずい。
頭の中に過去の苦い思い出が蘇る。もうあんな思いはしたくないのに。
服の中を嫌な汗が流れるのを感じた。
段々と周囲も、この普段見ない組み合わせに気付き始め、ヒソヒソと噂をする声が聞こえ始めてきていた。
「昼も二人でどこか行ってるよね? 私ちゃんと知ってるんだから」
「そうだっけかな」
はぐらかすが、俺の内心は心臓バクバクだった。
バレてるじゃねーか! 俺の聖域だっていうのに一体どこから……。いや、そんなの川崎以外ありえない。ちゃんと隠しておいてくれよと脳内の川崎に訴えかける。
今この二人の間には、限りなく嫌な雰囲気が流れていて、それはいつの間にか穏やかな教室全体に広がっていた。この上なく気まずいことは言うまでもない。目立つのは嫌いなんだ。
誰かどうにかしてくれ。
そう願った時、あの凛とした声がこの不穏な空気をぶち破った。
「莉央! どうしたの?」
そこには、いつの間にか教室へと帰ってきていた川崎が立っていた。助かった。
その時の俺には、川崎が女神に見えていた。この絶望的な状況を覆せるとするならばそれは川崎だけだ。それはまさしく救いの手であった。
だが川崎が登場したとはいえ、依然として張り詰めた空気の重さは健在で、俺に口出すことなんてできそうにない。
「美雨……」
中村は、見つかったとでもいうように罰が悪そうな表情を浮かべる。
川崎は教室に漂うこの緊迫した空気を理解しているのかいないのか。いつもと同じように輝く笑顔を浮かべていた。今はその笑顔に頼るしかなかった。
川崎が来たからといって状況は未だ好転した訳ではない。と言うことは、俺はもうこの場を去るのが得策か。
「じゃあ俺はもう行くから」
後のことは川崎に任せて、それだけ言いもう話すことはないというように席を立つ。
「待って! まだ話は終わってない」
案の定慌てたように、中村が呼び止めようとしてくるが、それを聞く理由は俺にはない。舐められたら終わりなのだ。ここは強気に押し切る。
無視して離れようとするが、立ち去ろうとする俺の前に誰かが立ち塞がりその退路を絶った。誰がそんなことを! と叫びそうになって確認する。それは先ほどまで救いの女神に見えていた川崎だった。
どうして止めるんだ。助けに来てくれた訳じゃなかったのかよ?
そんな俺の悲痛な内心をスルーし、川崎は口を開いた。
「まぁまぁ葛谷くん。莉央の話ぐらい聞いてってあげてよ」
「いや、そうは言ったって……」
一刻も早く離れなければ背後の中村が、爆発しそうな雰囲気を纏っているのが感じられた。
「いいから」
何がいいのかは全く分からなかったが、川崎は任せてとでも言うように中村へと向き直った。
「莉央もだよ? そんな威圧的に話すと、誤解されるに決まってるじゃん。言いたいことがあったんでしょ?」
一体何を言い始めたのかと動揺するが、川崎の言葉に中村が纏っていた爆発しそうな敵意のような硬い雰囲気が一気に緩んだのを肌で感じた。
「え、嘘! 私そんな威圧的に見えてた⁉」
「……え?」
誤解とは何のことだ。何が起きたのか分からずぼんやりしていると、ほらほら座って、と川崎に席へと押し戻される。
「もっと笑顔でっていつも言ってるでしょ」
川崎が、中村を窘める。
「えっと……中村の言いたいことって、もう関わるなってことじゃないのか?」
俺の質問に、中村はきょとんとした表情を浮かべる。
「なんで私がそんなこと言わなきゃいけないの?」
あれ? てっきりそのことだとばかり。でも、違うとしたら一体、言いたいことってなんなのだろう。声をかけられる理由に心当たりがなかった。
威圧するつもりがなかったってことは、敵意がないってことで……それはつまり……? どういうことになるんだ。
恥ずかしそうにごにょごにょと言い籠る中村に、川崎が何かを小さく耳打ちした。
それを聞いて決心がついたように頷いた中村は、一息ついて切り出した。
「葛谷くん、今度の放課後私達と一緒に遊ばない?」
何を言われるのかと身構えていた俺に、その誘いは想像の斜め上をいくものだった。
一瞬意味が分からず、思考が止まる。言う相手を間違えてるんじゃないかというのが、第一印象だった。
「なんで俺なの? もしかして誰かと勘違いしてる?」
それぐらいしか、理由が思いつかなかった。
カースト上位の中村が俺なんかに絡むなんて何か裏があるとしか思えない。直接的じゃないだけで何かの隠喩だったり別の意図が……。
「はいはい、くだらないこと考えるのやめて帰ってきて葛谷くん。そんなに警戒しても何もないってば。ただ莉央は、葛谷くんに興味があっただけだから。ね、そうでしょ?」
俺の思考をぶった斬った川崎に、中村がこくりと頷く。
「最近美雨が仲良さそうにしてたから葛谷くんがどんな人なのかちょっと気になってて。私もその輪の中に入れて欲しいなって。あ、遊ぼうっていうのは、加賀達のことね。みんなも話してみたいって言ってたし」
中村の話にでてきた加賀というのは、同じクラスのサッカー部の男子だ。加賀も確か、川崎と同じ一軍に所属していたはずだ。
そして、ようやく言われている意味を理解した。
つまり、私達と遊ばない? とは一軍集団とどこかに行かないかという誘いってことか。理解してなおその意図が分からなかった。
「俺と一緒に遊ぶって……その大丈夫なのか?」
「……? やっぱり慣れてない人ばっかりだと嫌?」
中村のその疑問は、俺の心配とはとても見当違いなものだった。周りからの目だとか、住む世界が違うことを気にしている様子もない。
俺がしている心配はそういうことじゃなくて……と説明したいが、まるで伝わる気がしなかった。
そんな様子じゃ、俺ばかり気にしているのが馬鹿らしくなってくるじゃないか。本当に悪意があって話しかけにきている訳ではなかったのだから。
川崎といい中村といい、俺のリズムを悉く乱してくる。きっと善人なんだろう。
今の一連の会話だけでそれが分かりすぎるほどに伝わってきた。
「いや、何でもない。そっちさえ良ければ行かせてもらおうかな」
そう言うと、中村と、何故か川崎まで、ぱっと顔を明るくし嬉しそうに笑った。
「やった! どんな風に話しかけようかずっと迷ってたんだよね。葛谷くん近寄るものは斬る! って雰囲気だったから。最近は少しマシになってきてたけど」
「そんな、侍じゃないんだから……」
思わず苦笑いがこぼれる。
だが、俺が近寄りづらかったって言うのは本当なのだろう。クラスメイトと関わろうなんて気持ち、全くなかったのだから。
でも、その架け橋となったのはきっと川崎という存在がいたからだ。最近は少しマシになってきたというのも、川崎と関わることによって俺から少しずつ毒気が抜けてきたからだろうか。
最近の俺はどこかおかしい。信じて生きてきたものが崩されるというか、誰も本当に俺に対して悪意なんて持っていないんじゃないかと思い知らされることばかりだ。
思っていたより敵は少なくて、それがどこか心地いいと感じてしまっていて。その挙句に遊びに行く約束までしてしまった。
俺の中で何かが変わってきているということだろうか。
「それより美雨! この際はっきり聞くけど、葛谷くんとどういう関係なの?葛谷くんに聞いても何もないって教えてくれないし! 今日こそ白状しなさい!」
思索に耽る俺を横目に、中村が川崎に腕を絡めて拘束している。
最初に俺にも同じ質問をしていたな。あの時は、もう関わるなという牽制だと思ったが、そんな深い意味はなくただ単純に関係が気になったというだけだったというオチか。
その言い方からして、俺たちの関係をなにか誤解しているような気もするが……俺も川崎の口から語られる関係が気になった。
勿論、俺たちは恋人なんてキラキラしたものではないし、友達と呼ぶには川崎からの一方通行な気もする。だが、ただの知り合いにしては距離が近い気もしてならなかった。川崎は俺達の関係を一体どう思っているのだろう。
その答えが気になり、目を向けると、唸りながら顎に手を当てる川崎がいた。
「私と葛谷くんの関係か。そんなに気になる?」
「気になるよ、葛谷くんの話ばっかりしてるし」
「そんなことないと思うけど……強いて言うならそうだな」
面映ゆげにはにかむ川崎に思わず息を飲む。
「医者と患者、かな」
「もう! 美雨はまたそうやってはぐらかすんだから!」
だって本当だもん、と川崎はおどけていつもの様に笑う。
その答えは、俺からしてもなんだそれと言うような回答だった。何かを期待していた訳では無かったが、的を射ない回答に肩透かしを喰らったような気分である。
「じゃあまたね葛谷くん!」
「今度また連絡するから!」
戯れ合うように二人は次の授業に向け、自分の席へと帰っていった。それを見送り、俺は体に入っていた力を、吐く息と共に外へ吐き出した。
想像以上の疲労感で、自分が感じていたのよりもよっぽど緊張していたのだということにようやく気付く。
本当に、丸く収まって良かった。結果から言えば緊張するようなことは何も無かったわけだが、心臓に悪い出来事であったというのは言うまでもない。
その後の授業中も結局、遊びに誘われたという事実が頭の中を駆け回り、一日全く集中できなかった。
◆
その後日の昼休み、いつものように川崎と二人で過ごしている時間。
俺は、ずっと気になっていた疑問を確かめることにした。
「なぁ、川崎って人の心が読めるとか言ってたけど、あれってマジで言ってるのか?」
今でも人の心が読めるなんて有り得ないと思ってるし、オカルトに興味はない。
だが事として、川崎は内心を見透かすような発言が多かった。それも異常なほど。
極め付けは先日の出来事。
あの威圧的で険悪な様子の中村が、実はただ遊びに誘おうとしていただけなんて、普通の人に分かるもんか。今までの言葉と合わせて確かめてみたくもなる。
「だからそう言ってるじゃん。私は超能力者なんだよ?」
否定するでも誤魔化すでもなく、頬張ったサンドイッチを飲み込み、あっけらかんと川崎が頷く。
相変わらずその顔は、ふざけて言っているようには見えない。
「超能力者って……。んな訳ないだろ普通に考えて」
「だから、確かめようとしてるの?」
その言葉に俺は思わずぐっと息を詰まらせた。
川崎の言っていることは図星だった。俺は、いつも心が読めるという川崎を、今日こそは本当かどうかはっきりさせようと確かめる気で話しかけたのだ。
こう何度も考えていることを言い当てられては、もはや誤魔化すことは出来ないのかもしれない。バレているのなら、話は早かった。
俺は握り締めた右拳を川崎の目の前に突き出した。
「二十回勝負。今からじゃんけんをして俺に二十連勝出来るようなことがあれば、俺は川崎の言っていることを信じる」
その提案に、川崎は驚いたようにその大きな目を見開き、じーっと俺の顔を覗き込む。そのどこまでも透き通り、吸い込まれ落ちていきそうな程の漆黒の瞳からは何の感情も読み取れない。
でも、まるでこちらの全てを見透かされているかのような……胸を掻きむしりたくなるようなむず痒い気持ちに襲われる。
その無限にも思えるほどの時間。実際は十秒ほどだったが、川崎は同じように右手を前に掲げた。
「いいよ。それで葛谷くんが満足出来るって言うのなら」
乗ってきた。二十回という回数設定は、運が上振れたというだけじゃ説明がつかないようにと丁度いい回数を考えた結果だ。普通にじゃんけんして二十連勝なんてありえないし何かイカサマがあるに決まっている。それこそ、心が読めるとかな。
「じゃあいくぞ。最初はグー、じゃんけんぽん!」
緊張の第一回。
俺の手は無防備に開かれたパー。一方の川崎はと言うと。
チョキ、二本のハサミが表されていた。
思わず息を飲み戦慄する。負けた。確かに今俺は敗北した。
だがまだだ、まだ一回目。たまたま勝つことぐらいあるさ。続けていればいつか俺が勝つ時が来ると言い聞かせてはやる心を落ち着ける。勝負はこれからだ。
だが、その時は来なかった。
数分後、二十連敗という未だかつて経験したことのない連敗を喫した俺は、無様に地面へと這いつくばっていた。
いやいや⁉ 有り得ないだろ⁉
二十連敗は二十連敗で意味が分からない記録なのだが、現実はそれを上回るもっと有り得ないことが起きていた。
それはただの一度の例外なく、全て一手目で決着していることだった。
あいこすら存在せず、ストレートで二十連敗。完封負けと言ってもいい。じゃんけんに完封なんて概念が存在したのかと驚愕する。運がいいなんて言葉で説明できる次元を優に超えていた。
心から震える。まさか本当に……?
認めたくなくて、もう勝負はついたというのに勝負を挑み続けた。
「も、もう一回! じゃんけんぽん、ぽん、ぽん、ぽん……!」
その後何度負けたかは俺にも分からない。ただ唯一はっきりしていることは、俺が勝った回は一度たりとも存在しなかったということだけだ。
はぁ、はぁ、と息切れした俺だけが残っていた。全力でやりすぎた結果、たかがじゃんけんだと言うのに息が切れる始末だ。
どうしてこれだけやって勝てない⁉ ありえないだろ!
「流石に私もそろそろじゃんけんは飽きてきたんだけど。信じてくれる気になった?」
そう言って川崎は退屈そうにあくびする。
信じたく無かった。信じたく無かったのだが、これはもう認めざるを得ないのではないか。まさか本当に人の心が読める人間が存在するなんて……そんなの本当に超能力者じゃないか。
「これだけ見せつけられたんだ。人の心が読めるっていう川崎の言葉……信じるよ」
絞り出すような俺の言葉に川崎は目を輝かせた。
「ホント!ようやく私の言うことをまともに聞いてくれるようになったかー。最初から言ってたのに全然信じてくれないんだから!」
そう言って楽しそうにキャッキャと笑う。
その様子に、呆れと共に可愛いという感想が浮かぶが、心が透けているのなら筒抜けなんじゃ?と思い当たり、すぐに消し去り、誤魔化すように早口で尋ねた。
「とにかく! このことを知ってる人は他に誰かいるのか?」
「いや、葛谷くんだけだよ。だから誰にも言っちゃダメだからね?」
やはり誰にでも言えることじゃないのか。最初に、誰にも言ってはいけないと言っていたからそうなのではないかとは思っていた。悪用としようと思えばいくらでも方法が思いつく。きっと様々な事情があるのだろう。
「分かった。でも、どうして俺には最初から教えてくれたんだ? 誰にも言っちゃダメなんだろ?」
すると、関わってきた今までで、初めて川崎が返事に困るように言い淀む。
「それは、その……秘密!」
「なんだよそれ」
今の答えるまでの間といい、何かを隠しているのは明らかだった。
秘密ってなんだ?教えてくれないってことは何かしら理由があるのだろうが、あいにく俺は高校に入学して今日まで友達を作ってこなかったんだ。普通の人以上に心の読めない一般人で、川崎の考えていることなんて皆目、見当もつかない。
「それはもういいでしょ! そんなことよりさ、今日の放課後二人で遊びに行かない?」
誤魔化すように手をぶんぶんと振る川崎。だが、された提案は予定外のものであった。
「放課後? いつもは用事があるからって言ってなかったか?」
川崎は、放課後は別の用事があるからと言って早々に帰ってしまうのだ。
てっきり放課後は俺ではなく他の友達と遊ぶ時間、というように割り切っているものだと思っていたからこの誘いは正直意外だった。
「俺は全然いいけど随分急だな。別の日の方がいいんじゃないのか?」
そう言うと、川崎は首を横に振った。
「今日行きたい気分なの。ね、いいでしょ?」
いつになく譲らない姿勢。理由は分からないが今日で無ければならないと言われれば無理に断る理由はなかった。
俺が家に帰ってすることと言えば、ゲームにネットぐらいの物だし予定と呼べるものはないしな。
どうして突然そんなことを言い出したのか、少し引っかかったが、些細な問題であった。
「分かった、いいよ」
二つ返事でOKを出す。
すると川崎は嬉しそうに頬を綻ばせ飛び跳ねている。
「やった!」
一緒に遊びに行くってだけでそんな顔をしてくれるのか。何だか照れ臭い気持ちになる。
放課後、誰かと遊びに行くなんていつ以来だろうか?俺も不覚にも楽しみだと思ってしまう。
「それで、どこに行くんだ?」
そう聞くと、考えてなかったというように川崎は頭を捻った。
「あ、それじゃあ……」
◆
放課後、俺たちは近所のゲームセンターへと足を運んでいた。
「ほらほら、そんなんじゃ私は倒せないよ⁉」
「くっそ! なんでこれが避けられるんだよ」
楽しげな川崎の横で、俺は必死にコントローラーを操作する。
ガチャガチャと可能な限り素早く入力するのだが、そんなヤケクソすらも完全に受け流される。並んで座った対戦型の格闘ゲームで、案の定俺の操作しているキャラはボコボコにされているのであった。
「はい! これで私の三連勝ね! 負ける気がしないなー」
ゲームセンターの前にも二時間みっちりカラオケで歌った後だというのに、川崎はいつもの様に元気にはしゃいでいる。疲れとかいうものはないのか。
「いやいや、だってズルだろ! 心が読めるのにそんなの勝ちようないって」
「あー見苦しい! 言い訳ですか? 実力だよ実力!」
俺の悲痛な訴えも川崎には、まるで届かない。
よく言うよ。あれだけピンポイントで俺の技を見切っておいて白々しいにも程がある。
以前の俺であれば、俺はゲームで負けることは、負けず嫌いなのも相まってプライドを傷つけられたようで凄く嫌だった。
はずだったのだが、今は何故か凄く心が穏やかだ。むしろ楽しんですらいる。川崎相手になら負けても仕方ないと思えるのだ。
勿論、心が読めているのだから負けても仕方ない、と思っているというのもあるが、そんなことより楽しそうにゲームしている川崎を見ていると、勝敗なんて気にしている俺が小さく思えてくるのだ。きっと川崎は負けたとしても、同じように輝くような笑顔で笑うのだろうから。
勿論、だからと言ってただで負けてやる気はない。
「言ったな? 今度はあのゲームでスコア競おうぜ」
俺は、迫り来るゾンビ達を協力して銃で薙ぎ倒していくシューティングゲームを指差す。
「ははん、心を読まれても関係ないゲームで勝負する気ね。甘い、甘いよ! それぐらいで私に勝てるとでも?」
「言ってろ!」
そうして俺達は次々と様々なゲームを遊び倒した。シューティングゲームにメダルゲーム、クレーンゲームなど目につくものを片っ端から勝負し尽くした。完全にゲームセンターを満喫したと言ってもいいだろう。
気がついた頃には、相当な時間が経過していた。
放課後に誰かと遊ぶなんて、新鮮な体験で、気付けば俺はずっと笑っていた。川崎も、同じように感じてくれていたらいいなと考えて、あの笑顔で楽しんでいないわけがないと安心する。杞憂だった。
「流石にこれだけ遊ぶとちょっと疲れたね」
俺達は、ゲームセンター内の休憩スペースに置かれたソファーに肩を並べて座っていた。
川崎は、体をソファーの形にだらんと脱力させている。
くつろぎすぎだろ。俺はそんな無防備な様子を見ていいものかと葛藤するが、どうにか堪えて宙を見上げる。
「そりゃずっとあのテンションでいればな」
川崎は本当にずっとハイテンションだった。楽しくて仕方ないと言ったその様子は、こっちまで無条件でいい気分にさせられる。
ずっとあのテンションなら、流石の川崎でも疲れて当たり前だ。額に浮かんだ汗を満足げに拭っている。
だが、俺も本当に楽しかった。どうせ取り繕っても相手は心が読めるのだ。隠したってしょうがない。
こんな青春も良かったな、と思ってしまう程度には、心躍る体験だったと言えるだろう。
ずっとこの時間が続けばいいのに。柄にもなくそんなことを思う。
「それでこの後どうする? 私は疲れたからカフェでも行きたいかも」
「いいんじゃないの? 時間もまだ大丈夫だし、付いてくよ」
時刻は夕方七時。そろそろ日が沈み始める時間だが、終電にさえ間に合えば家には帰れる。
「やった! じゃあ行こっか。私行きたい店あるんだよね」
「全部お任せするよ」
疲れていたのが嘘のようにハイテンションになった川崎に安心する。まだ一緒にいられる。
◆
そうして、川崎に連れられ人通りの多い道を歩くこと十分。見るからにお洒落で洋風な建物のカフェへと到着していた。それはどう考えても俺とは無縁の建物であった。
ここかよ、と一瞬躊躇するが、躊躇うことなく入っていく川崎の後ろを、おっかなびっくりながらついていく。
今までの人生でこんなキラキラした若者向けのカフェに遊びに来たことなんてない。
店内を見渡せば、女子高生や大学生。基本女性ばかりでたまにいる男性はといえばカップルだけ。
どう考えても場違いとしか思えないが俺は果たしてここにいていいんだろうか。
側から見れば、俺たちもカップルに見えているのかもしれないが、それにしては容姿の釣り合いが取れてなさすぎるってもんだ。
なんの特徴もなくパッとしない男と、クラスの人気者。川崎は、贔屓目抜きで見ても世間一般的に可愛い部類に所属している。冷静に考えて、今こうして二人で遊んでいることは奇跡であった。
だが、川崎はそんな俺の様子を意にも介さず、熱心にメニュー表を眺めている。
「どれにしよっかな。ここのシュークリームは外せないでしょ? 後は何にすべきか」
気になってるカフェだって言っていただけあって、ある程度目処はつけていたのだろう。
「シュークリーム好きなの?」
その質問に、川崎はよくぞ聞いてくれたとでも言うように目を輝かせる。
「一番好きな食べ物と言っても過言じゃないね! 特にここのは最高らしくて……葛谷くんはどうなの?」
「あいにく甘いものはあんま好きじゃないんだ。俺はコーヒーでも頼もうかな」
川崎は、明らかに残念そうな顔を浮かべる。
「あーあ、勿体無い。人生の三割は損してるねそれ。まぁ葛谷くんらしいと言えばらしいけど」
俺らしいってなんだろう。そんなに甘いものが嫌いそうな顔をしているだろうか?だとすると俺の顔は渋い顔? いや、自分で言うのもなんだが、年相応だと思うんだけどな。
「人生の何割損してるって表現あんまり好きじゃないんだよな。だって、それを言ったやつは相手より三割増しで幸せなのかって話になるだろ? 人の幸せなんて人それぞれだと思うんだ」
川崎は驚いたような顔を浮かべる。
「葛谷くんにしては珍しくまともなこというね。確かに、私が葛谷くんよりも幸せなのかって言われるとそんなことはないか」
「いや……別にそうは言わないけどさ。川崎は毎日楽しそうだし」
「そうだね、今は凄く楽しいよ。……今は」
川崎はいつものように笑顔を浮かべたが、その顔はどこか愁いを帯びているように見えた。
いつも能天気に見える川崎にも悩みがあるのだろうか。
そんな思考は次の瞬間、跡形もなく消し飛んだ。
「あれ、もしかして葛谷じゃね?」
思わぬ方向から突然自分の名前を呼ばれ、一瞬世界が停止する。
そこに立っていたのはカフェの制服を身に纏った若い店員。恐らく俺達と同じ高校生ほどに見える。
だが、どうして店員が俺の名前を知っているんだ。どこかで会ったことがあっただろうかと、記憶を掘り下げ、検索にかける。
そして、それが誰かを認識した瞬間、俺の体から生気が吹き飛んでいた。
「久しぶりじゃん。なに、デート中?」
「大村……」
俺は今どんな顔をしているだろう。
そこに、さっきまでの楽しさは微塵もなく、あるのは青くなった絶望のみだった。
どうして、どうしてどうしてどうして。後悔と疑問と困惑が俺の中を無限に反芻して回る。
「その制服着てるってことは星恩には入れたんだな、おめでとう。こんな可愛い彼女出来てるなんて意外だわ」
話しかけられた声は耳には届いているのだが、全く頭に入ってこない。頭が真っ白でなにも考えられず、そのまま通り抜けていく。
「葛谷くんのお友達?」
下を向き青い顔をしている明らかに様子のおかしい俺を見兼ねたのか、川崎が心配するように声をかけてくれる。だが、俺にはその言葉すらまともに届かない。
「あ、初めまして! 俺は大村蓮って言います。葛谷とは中学の同級生で。……ってあれ、どこかで会ったことありますか?」
「お会いしましたっけ? 私は川崎美雨って言います」
どうして大村はそんなに馴れ馴れしく接して来られるんだ。俺に昔、あんなことをしたと言うのに。まさか何をしたかを忘れたとでも言うのか?
川崎と大村が何かを話しているが、その様子を見ているだけで脳が茹るようだ。自分の中にまだこんな熱くなれる感情があることに驚く。
これ以上、この光景を見ていられない。居ても立っても居られなくなった俺は無言で立ち上がり、店を後にした。待って、という川崎の呼び止める声が聞こえた気がしたが今の俺を止めるほどの力はなかった。