高校二年生の九月。
 空は嫌になるほどの快晴で、まだ暑さが冷め切らぬ放課後の教室に夕陽が差し込んでいる。夕暮れ時の教室には、もうあまり生徒の姿はない。
 汗で服が肌に張り付くのをパタパタと襟元を仰ぐことによって誤魔化すが、大した気休めにもならない。
 こんな日は嫌な記憶を思い出し、無条件で憂鬱な気持ちにさせられる。
 思わず顔をしかめて、視界に映る全てを呪う。

「なぁ、この後どうする⁉」

 そんな教室で、興奮した様子でこの後の予定を考えるのは、丸刈りのいかにも野球少年と言った見た目の男子生徒。
 そんなに大きな声を出さなくてもちゃんと聞こえているというのに。授業中はあれだけ眠そうに目をこすっていた癖に、その元気は一体どこから湧いて来たのだろうか。
 だが、その彼の質問の対象は目の前に座っていた俺ではない。

「あ、私駅前に行きたい店あるんだよね! とりあえずそこはマストでしょ」

 その問いに答えたのは、学校指定のリボンをだらしなく解き制服を緩く着こなす、今の時代にも存在したのかと思うほど前時代的でいかにもギャルらしい女子生徒。

「いいんじゃね? 俺も行きたいとこあるし」

 誰かがまたそれに反応し、ワイワイと騒ぎながらその集団は教室を後にした。
 俺、葛谷啓太は、その集団が離れるにつれゆっくりと遠ざかっていく声をただぼんやりと聞きながら自分の席で頬杖をついていた。
 教室の左隅に位置する自分の席でスマホを眺めていれば、聞きたくもない一連の会話が耳に届いていたのだ。
 先程までは人の気配のあった放課後の教室もついに残ったのは俺ただ一人で、数瞬前までの喧騒はどこにも感じられなかった。

「ほんと、バカじゃねーの」

 無意識に口から溢れた恨み事だったが、幸いそれを聞く者はもう誰も残っていない。誰にも届くことなく霧散する正真正銘の独り言であった。

 毎日毎日、学校が終わるたびにバカ騒ぎして、何が楽しくてあんなにはしゃいでいるというのだろう。彼らに言わせればあれこそが青春ってやつなのだろうか。何をしても許される、どんなことでも出来る、友達といれば無敵程度に世の中を見下しているのだろう。だからこそ、今という時間を全力で楽しんでいられるのだと思えば皮肉なものだ。
 楽しくて仕方ない自分を見せつけたくて仕方ないという様子で、それはあからさまに教室で一人過ごす俺にわざと聞こえるような声量で話していた。嫌味なことだ。

 学校には形にされていないだけでカースト制度が存在する。生徒一人一人に序列の書かれた、見えない名札が付けられているのだ。
 最下層は俺みたいな教室の隅で一人、スマホを弄っているぼっち。いや、もはやそのカーストの枠組みからすらも外れてすらいるかもしれない。勿論そんな存在に発言権など存在しないし、さながら空気のような扱いである。スペースを取り目障りだと言う点では、空気以下の存在価値ともいえるだろう。俺も、それを自覚しているから存在感を消し、目立たぬように全ての神経を使う。

 それに引き換え、先程教室から出て行った彼らは上位者。一軍とでも言うのだろうか。
 クラス内の発言力、行動力、カリスマ性。諸々の立ち振る舞いが上位の者が位置していて、その実態は中世もびっくりの独裁政権である。
 この場での主役は俺たちだと言わんばかりの立ち振る舞いに、俺のような下々はまともに目を合わせることすら許可されないし、何か気に障ることでもしてしまえば一発アウトだ。

 本当に、何が楽しいのだか。
 ゲーム画面を映し出していたスマホの電源を落とし、帰り支度を始める。
 もちろん、俺にこの後誰かと待ち合わせや遊ぶ予定などある訳がなく、本当に家へと帰るのみだ。
 教科書を鞄に詰めながら考える。
 あいつらからしたら俺のような存在はきっと見えてすらいないのだろう。気にもならないだろうし、興味すらないだろう。気が向いた時に思い出したように絡んでストレスを発散するただの憂さ晴らしでしかない。
 来年が受験であることを考えれば遊んでいられるのは今年が最後だった。とはいえ、はしゃぎすぎである。帰って勉強でもしてろ、時間を無駄にしてんなよ。

 かくいう俺も家に帰ったとしてもただダラダラとゲームをするだけなのだが、そんな自分のことは綺麗に棚にあげた。
 どうせ内心では周りのことを見下しているんだろ? いいさ、こっちだってお前らを馬鹿にしている。
恨み言をもう一度心の中で呟いた。


「誰も君のことを悪く思ったりしてないよ」


 静まり返った教室に突然響いたその透き通る声に、思わずビクッと体が飛び跳ねる。
 俺に声をかけたのかと、声の方向を振り返ると、そこに立っていたのは。確か同じクラスの……川崎?だったか。

川崎美雨(かわさきみう)。クラスメイトの名前ぐらい覚えなよ? そんなだから友達も出来ないんだよ」

 やれやれと皮肉を含んだようにそう言う女子生徒は、そう名乗った。
 そうだ、確かそんな名前だった。これでも俺にしては、覚えているうちなのだが彼女からすればそんなことはどうでもいいことであるのだろう。

 彼女の特徴的なのは、その綺麗に手入れされた胸辺りまでの艶がかった長い黒髪。よほど気を使って手入れされているのだろうと男の俺でも分かる程輝いて見え素直に綺麗だという感想を抱く。加えて、まるで人形か何かのようにくりくりと作り物のような大粒の瞳に、すらりと通った鼻筋。どこか日本人離れしていて全体的に整った顔立ちが印象的だ。
 制服なのだから他の生徒と服装は同じはずだ。だというのに、川崎からは何故だか目を惹くようなキラキラとしたオーラのようなものを感じた。

 どうしてこんなことを思うのかと理由を探せばすぐに思い当たる。
 あぁ、そうだ。川崎はさっき教室から馬鹿騒ぎしながら出て行ったグループの中に所属している、いわゆる、一軍女子というやつだった。やはり、こういった人種は雰囲気でどこか周囲と違うものを感じる。率直に言って、俺の苦手であり嫌いなタイプだ。

「嫌いだ苦手だって、よく知りもしないくせに」

ため息をつく川崎に、俺もうんざりとする。
 知らなくてもわかる。そっちだって散々俺のことを馬鹿にしてきたのだからお互い様だ。
 ここまで考えて、冷静になると同時に奇妙な感覚を覚えた。

 さっきから川崎は俺に対して話しかけているのか?俺は何も言っていないのに、何故か俺の内心と会話が成立している。
ここまで俺は、川崎の前で一言も言葉を発していなかった。だと言うのに、俺の内心とまるで会話しているかのように自然に語りかけてくる。

「君は、気にしすぎなんだよ。悪く言うと自意識過剰?みんなが内心ではバカにしてるだなんてそんなことあるわけないのに」

 まただ。俺の思考を完全に分かっているかのような物言い。でも、そんなことある訳なかった。

「……何を言っているのか分からない」

 何とか絞り出した俺の声には全く覇気がなかった。川崎の言っていることはあまりにも俺の内心とリンクしていて、知らん顔してしらばっくれるには具体的すぎた。

「分かってるくせに」

 そう言って川崎は肩をすくめてみせる。
 突然話しかけてきたと思ったら、いきなりなんだっていうんだ。
 当然ながら関わりはないし、そもそも俺はこの川崎美雨という人物のことを全くと言っていいほど知らない。
 知っていることと言えば、その整った顔立ちと受けのいい笑顔でいつもクラスの中心にいる印象があることだけだ。周囲からの評判も良く、何の悩みもなさげな底抜けの明るさ。でもそんなのはただの客観的な感想で、彼女自身の核に当たることは何も分からなかった。

 ……思い出してみれば、さっき帰って行った一軍集団の中に川崎の姿もあったような気がする。そうして考えると、一つの可能性に思い当たった。
 俺のことをからかっているのか。そう考えると全ての辻褄が合った。放課後、クラスに一人残っているようなぼっちに声をかけて惑わせるなんて、こんな意味の分からない絡み方、嫌がらせ以外ないだろう。流石、人気者様はいい趣味してる。俺なんかには到底、理解できない暇つぶしである。

「だーかーら! 誰も君を馬鹿にしようだなんて思ってないんだって。ね、葛谷啓太くん?」

 川崎は不機嫌そうに頬を膨らませた。
 俺の思考をぶった斬るように川崎の透き通るようなよく通る声が二人だけの教室によく響く。
 またしても、こちらの思考を見透かすような物言いだったが、今回はそこではなく別の点に気を取られた。

「……俺の名前、知ってるんだ」

 そういうと、川崎は呆れたような顔を浮かべる。

「もう九月なんだし、クラスメイトの名前ぐらい全員覚えてるって……。まぁ葛谷くんは私の名前を覚えてなかったみたいだけど?」

 川崎は名前ぐらい当たり前だと言うが、正直驚いた。こういった手合いは見下す対象のことなんて、何一つ気にも留めていないだろうと思っていたから。
 ちなみにだが、俺はクラスメイトの名前なんて興味が無さすぎて覚えていない。顔は分かるが、名前と一致しないやつが大半だ。その中でも、川崎という名前が出てきたのは、彼女が普段からよく目立つ性質だったことが大きいだろう。
 というか本当に何なんだ? こんなに何度も考えていることを言い当てて会話するなんて、まるで本当に思考が読めているかのような……。

「そうだよ。私は葛谷くんの考えてることが分かる」

その思考に応えるように川崎が口を開いた。
 川崎は俺の反応を見るように、じっと目を見つめてくる。まるで本当に心を見透かしているようなその視線に、思わず身が固くなる。
 そして、少しの沈黙の後再び口を開き、信じられない内容を口にした。

「私、人の心が読めるの。誰にも言っちゃダメだよ?」
「……は?」

 思わず口から間抜けな声が溢れた。人の心が読める?急に何を言い出すんだ。
 馬鹿にするのも大概にしてくれ、そんな訳ないだろ。今時小学生だってそんな冗談真に受けたりしない。
と言いたい所だが川崎は、冗談でも何でもなく大真面目そのものといった表情だった。
 尚更ありえない、イカれてる。

「いやいや……人の心が読めるとかそんな訳ないだろ。嘘にしたって何も面白くないし」

 昔から、俺はテレパシーやオカルトチックなものは一ミリも信じたことがなかった。何より非科学的だ。そんなものが本当にあるのなら、もっと世間で話題になっていなければおかしいではないか。全員が全員隠していられる訳がない。俺は実際に自分の目で見るまでは信じることはないだろう。
百歩譲って本当だとしても、そんなことを今このタイミングで俺に言う必要がどこにあるというのだ。

「嘘じゃないよ。その証拠に私がさっき言ったこと、心当たりがあるんじゃない?」

 言われて、先程までの奇妙なやり取りが思い浮かぶ。
 まるでこちらの思考が透けているような会話。だが、あんなの偶然当たったっていうだけだろ?たまたま考えていたことと被っただけで心が読めるなんて話が飛躍しすぎている。動揺する内心を押し殺して極めて平静を装った。

「もし仮に。仮に心が読めるとしても。いつもクラスの中心にいるような川崎が、俺に絡んでくる理由はなんだ? 馬鹿にしてる以外ないだろ。……それに、そもそも人の心なんて読めるはずがない」

 これ以上ない正論である。これで少しは怯むと思ったのだが、そんなことはなかった。

「どうしてそんな考え方しか出来ないかな。信じる信じないは勝手だけど、人の心なんて読めるわけないって葛谷くんは言うなら、どうして私が君を馬鹿にしてるって決めつけるの?葛谷くんは人の心なんて読めないのに」

 その川崎の返答に思わず言葉が詰まった。人の心が読めないのなら私の考えていることがどうして分かるのか。その問いに対して納得させられるような明確な答えは、すぐには出てこなかった。

「そんなの……ただの屁理屈だ。心なんて読めなくたって分かることはあるだろ」

 苦し紛れに吐き出した俺の言葉に、川崎は心底呆れたと言うふうにため息をつく。
 と、次の瞬間、思いついたと言うように、パッと顔を明るくし手を叩いた。

「凄くいいこと考えた! 周りの人は全て敵だっていう、捻くれた君を私が更生させてあげます!ね、いいアイデアだと思わない?」

 本当に。今度は何を言い出したんだ? ますます意味が分からない。そもそも俺のどこに更生しなきゃいけない所があるって言うのだ。いい加減、この意味の分からない会話にも嫌気が差してきた。

「捻くれてないし。更生だとかさっきからまじで何なんだ」
「ほら、そう言うとこも含めて捻くれてる。ふふん、これはやりがいがあるね、私の腕の見せ所だ!」

 そんな俺などまるで眼中にないとでも言わんばかりに、川崎はお気に入りのおもちゃを見つけた無邪気な子供のように、上機嫌ではしゃいでいる。
 勝手にテンションが上がり盛り上がっている所悪いが、俺は全くついていけていない。どんなテンションの振れ幅しているんだ。

 川崎がクラスで話している所は今までも何度か見たことがあったが、実際こうして話すと、ここまで変わった人物だとは思っていなかった。やっぱりスクールカーストの上位者は、みんなこれぐらい頭のネジが飛んでいるのだろうか?そうでなければ人と関われないというのならこちらから願い下げである。

「すごーく失礼なこと考えてるみたいだけど、とりあえず今日は勘弁してあげようかな。私もこの後用事があることだし。忙しいのです!」

 川崎の言う用事とは、きっと先程までグループで話していた、駅前に遊びに行くというあれのことだろう。それを忙しいなんて表現をしていることに反吐が出る。
 結局川崎はあっち側の人間で、俺は一人家に帰る側の人間なのだ。この差がある限り、お互いを分かり合えることなんてないだろう。
 これ以上絡むとろくなことがないと、俺の全神経が語り掛けてくる。

「奇遇だな。俺もこんな意味が分からない話は忘れて、帰ろうとしてるところだったんだ。じゃあこれで」

 それだけ言って鞄を担ぎ、振り返ることなく颯爽と教室を後にする。

「あっ! 待ってよ、そんな逃げるように帰らなくたって! もー、また明日ねー?」

 背中に呼び止めるような川崎の声が聞こえたが俺は返事もせずその場を後にした。


 ◆


 その後、家に着く頃には川崎に絡まれたことなんてすっかり忘れて、日常に戻っていた。
 確かに、不思議な経験ではあったが、もう話すこともないだろう。
 制服から動きやすい部屋着へと着替え、ベッドへとダイブする。寝転がったままスマホを操作し、慣れた手付きでSNSを開く。

『今日もやっぱり学校はクソだったよ。みんなお疲れ様』

 そう投稿すると、すぐにスマホが通知の音を立て震え始める。

『お疲れ様!!』
『まじで分かる』
『おかえり!』
『ほんと行きたく無いわー』

 俺は、ネットの「友達」からの反応を満足気に眺めていた。
 沢山の友達の反応が、現実で疲れて荒んだ心を癒していく。帰ってきた反応を眺め、またそれに一つ一つ返信を返していく。そうしていれば時間なんてあっという間に過ぎていくのだ。

 ネットの世界は暖かい。俺を見下す学校の連中は存在しないし、葛谷啓太と言う存在を皆が認めてくれる。誰も否定しない。
 現実の繋がりなんて必要ないのだ。そんなものなくたって俺にはこの世界がある。ここが全てで、俺にとって現実なんてものはどうでも良い。
 むしろネットの繋がりこそがリアル。何にも変え難い絆のようなものすら、俺はこの世界に感じていた。この時間が生きていて一番落ち着く。
 電気も点けずカーテンを締め切った暗い部屋でただ一人。いつまでもスマホの明かりだけが灯っていた。


 ◆


 翌日、いつもの様に登校した俺は、教室に入った瞬間。頭がくらっとするような出来事に襲われていた。

「おはよう、葛谷くん!」

 満面の笑みで川崎美雨が挨拶をしてくるという異常事態に遭遇したのだ。
 たったそれだけと思うかも知れないが、日陰者である俺にしてみれば立派な異常事態。こんなこと、今までの生活からじゃありえなかった。俺の特技は、いつからいたかも察せられない程に存在感を消し、しれっと教室に溶け込むことだった。目立つことは極力避け、誰の視界にも入らず、気分を損ねぬよう黒子に徹する。
 せめて俺のことを名指ししなければ、間違えて挨拶しちゃったのかなとか、気付かないふりでしらばっくれることが出来たかもしれないのに、その逃げ道すら完全に潰された。

 焦る脳内でこっそり周りの様子を伺えば、案の定、クラスの人気者である川崎が俺に向けて挨拶するという異常な光景に、周囲からの注目を集めていた。
そりゃ不審がるよな。普段全く絡みのない二人が急に親しげに挨拶を交わし始めるのだから。どうしてこんなことに、と軽く立ち眩みを起こしそうになる。

 人前で声をかけてくるなんて正気か?昨日は二人きりだったからきまぐれもあって会話しただけで、こんな人目につく場所でも声を掛けてくるとは思っていなかった。
 周りからどう思われるのかとか考えていないのか?俺みたいなスクールカースト最下層の空気に絡むなんて川崎の立場も危うくなる可能性がある。
 川崎のことを心配する訳では無いが、俺の平穏な生活を破壊しないで欲しい。俺からは何も干渉しないからそっちからも干渉してこない。それがお互い気持ちよく過ごす約束みたいなものだろ?
 そうアイコンタクトで必死に伝えようとするが、川崎はいつものようにニコニコと人当たりのいい笑顔を浮かべるばかりで、まるでこちらの意思が伝わっていると思えない。
 くそ、心が読めるってのはどうしたんだよ。都合よく伝わらなくなってんじゃないぞ。

 とりあえず、起こってしまったことはもう取り返しがつかない。こうなると俺にできることは、これ以上傷を広げず素早く逃げることだけだ。
 そう判断するや否や、挨拶を返すことなく素早く自分の席に座り、周囲からの干渉を拒むように机に突っ伏した。それはどこからどう見ても会話の拒否。川崎とは何の関係もありませんよというアピール。
 これだ。これこそが俺の平穏を取り戻す術! 変に波風立つ前にキッパリと関わる気がないという意思表示をしておこう。

「あ、逃げた!」

 川崎の声が聞こえた気がするが、流石に俺の席まで追いかけてくる気はないようだ。
 それでいい。というか、そもそも俺に話しかけるなんて面倒なことしないでくれ。俺は、平穏無事に暮らしたいだけなのだ。これで皆が忘れてくれればいいが。
 クラスの雰囲気も、そんな俺の願いあってか、ザワザワとしていたもののすぐにいつもの朝へと戻っていった。
 どうにか難は逃れたらしい。その様子に、内心ホッと胸を撫で下ろした。





 昼休み。俺は決まって屋上で弁当を食べると決めている。
屋上とは言ったが、現実はアニメのように誰でも入れるように開放されている訳ではない。実際、うちの学校も屋上は鍵が掛かっていて一般生徒は特別な用事でもない限り入ることが出来ない。
 ではどうするのかと言うと。俺が昼休みを過ごすのは鍵のかかった屋上のドアの目の前。屋上へと続く階段の踊り場でドアにもたれかかるのが習慣的な体勢であった。
 解放されていない屋上へとわざわざ登ってくる生徒なんて滅多にいない。程よく陽が差し込み、校内の騒がしさが遠くに感じられるこの場所は校内で唯一、俺の心休まる場所であった。その過ごしやすさから昼寝にも使えるお気に入りのぼっちスポットである。
 だが、今日はそんな場所に俺以外の姿があった。

「いつも教室にいないと思ってたら、こんなとこにきてたんだ。どうりで見たことない訳だね。……こういうのってあれだ! 秘密の場所って感じでワクワク!」

 そう言ってはしゃぐ川崎に俺は、はぁ、と今日一番のため息が漏れた。
 言うなればこの場所は俺にとっての聖域のような場所だった。誰にも見つかっていないというその事実に、密かに胸踊っていた。
 どうしてこんなことになったんだ? それは、時間を少し遡る。

 昼休みになり、いつものようにこの場所へと向かおうとしていた俺の背後に気配を感じ振り返ると、そこには川崎の姿があった。
 俺の視線に気付くと、何を言う訳でもなく川崎は嫣然と微笑んだ。
 その時点で嫌な予感はしていた。たまたま方向が同じなだけだよな。そんな願望の籠った淡い期待は見事に打ち砕かれ、川崎は俺の後ろをピタリとくっついて離れない。
 早足で学校中を歩き回り撒こうとしたのだが、校内を一周しても結局振り切れず、聖域への侵入を許してしまっていた。
幸い、ここに俺たち以外の姿はない。追い払うことは諦め、持ってきた弁当を食べながら問い詰めることにした。

「なぁ、なんで俺に付き纏うんだ? それに今日の朝だってあんな目立つようなことして一体なんのつもり?」
「どうしてって。昨日言ったじゃん。葛谷くんの捻くれた価値観を更生させるためだよ」

 川崎は俺の横に腰掛け、昼ご飯であろうコンビニのおにぎりを口一杯に頬張っている。

「またそれか……」

 更生させるって、昨日の放課後のは冗談で言っていた訳じゃなかったのか。だが生憎、更生されるような心当たりも筋合いもない。
 今、唯一分かっていることは、俺の平穏な学校生活が脅かされそうになっているというそれだけ。はっきり言って迷惑だ。朝のように注目を集めることが重なれば、安定である俺の立場が揺らいでしまうかもしれない。
 もう俺は周囲に期待することはやめたんだ。

「更生なんて頼んでないし、そもそも今のままで何も問題ない。人前で俺に絡むなんて周りからどう思われるかぐらい、自分でもよく分かるだろ? 川崎もどうせ自分の立場が一番大事なんだったらほっといてくれよ」

 言葉に精一杯の拒絶を示した。
 関わることで、川崎が自分の優位性を確認しようとしているのだとしたら、そんな踏み台になんて使われてやるもんか。
ここまで言うのはやりすぎかとも思ったが、下手に希望を残すよりはましかと言い聞かせる。

「あー出た出た。葛谷くんのその卑屈さは、もはや病的だね。全ての人が自分に敵意を持ってるなんて凄く傲慢な思考だっていうのにどうして気付けないかな。私は君のそんな考え方を変えたいの。だって葛谷くん。学校楽しくないでしょ?」

 その言葉に、俺は思わず手にグッと力が入った。
 傲慢な思考だなんて、一体川崎が俺の何を知っていると言うんだ。
 俺は知ってる。人なんてものは信用しちゃいけない。信用するから裏切られるんだ。初めから期待なんてものをしなければ何も問題なんて起きないし失望もしない。
 それに、学校が楽しいか?だって。考えるまでもなく楽しくないに決まってる。
 行きたくないのを、毎朝我慢して通っているんだ。だというのに、それを他人にどうこう言われるのは酷く不愉快だ。

「そもそも、誰が上で誰が下かなんてみんな気にしちゃいないんだよ。自分のことで手一杯で人のことにまで気を回してる余裕なんてない。葛谷くんは、あのクラスにいて誰かに直接馬鹿にされたことがあるの? ないよね。それなのに目に入る人は全て敵だなんて枠に囚われすぎじゃない?」

 川崎の言っていることは理屈としてはあっているかもしれない。実際は俺に敵意を抱いている人間はそう多くないだろう。でも理屈がそうだとしても事実が同じとは限らないだろ?人の考えていることが分からない以上、俺のことを下に見ていないという断言だって出来ないはずだ。

「分かるよ。私には分かる」

 先程から黙って話を聞いているだけなのに、そんな俺の内心を見透かしたかのような言葉に、思わずぎょっとする。
 昨日から度々あったが川崎のこれは本当に何なんだ。心をピタリと正確に言い当ててくる。
 勘が鋭いとでも言うのか?鋭すぎて気味が悪いとまで思う領域だ。

「言ったでしょ? 私は人の心が読めるんだって。誰も葛谷くんのことを悪く思ったりしてない。それは私の名に賭けて断言してもいいよ。君のそれは被害妄想のレベルだね。みんな君の作る壁で話しかけるタイミングを見失ってるだけ」

 相変わらず川崎の言っていることは何一つ分からない。

「何の保証だよ……人の心が読めるなんてそんなこと、信じるとでも思ってるのか? それこそ人のことを馬鹿にしてるじゃないか。俺はただ、今のまま平穏に何となく暮らして行ければ文句がないんだ。関わらないでくれ」

 心が読めるだなんだと、こんな変人と真面目に会話していると話が通じなくて疲れる。あいにく、信じられるのは自分だけだともう心に決めているのだ。
 人気者の彼女に俺の気持ちなんて理解出来るわけがないしされたいとも思わない。何事もなかったかのように、今まで通りの交わることの無い関係へと戻りたい。
 そこでちょうど、弁当を食べ終えた。言いたいことは言ったし、これ以上川崎と絡む必要もない。
 会話を拒否するようにスマホを操作し、最近ハマっているゲームを立ち上げた。だがそんな俺の拒絶を意にも留めず、川崎は横からゲーム画面を覗き込んでくる。

「あ、このゲーム私もやってるよ! 私の周りやってる人いなくてさ」

突然、真横に現れた顔に不覚にもドキッとしてしまう。

「え? やってんの⁉」

 少々大袈裟に驚いてしまったかも知れないが、俺が驚くのも無理はない。
 今、俺がプレイしているのはいわゆるFPSという人間と人間同士が撃ち合うシューティングゲームだ。ゴリゴリの軍服を着たおじさん同士が銃を用いて戦う絵面は、川崎のようなキラキラ女子とはまるで無縁だった。むしろこう言ったオタク趣味のゲームを、川崎のような人種は毛嫌いしているような印象すらあった。
 実際、このゲームの主なプレイヤー層は男性で女性プレイヤーはそれだけでチヤホヤされるというような状況だ。

「失礼な。私だってゲームぐらいするよ」

 そう言って川崎は頬を膨らませる。
 でも本当に意外だった。そこまで有名なゲームでも無いというのに、同じゲームのプレイヤーが、こんな近くにいたなんて。しかもそれがよりによって一軍女子である川崎。

「良かったら対戦しない?」

 川崎が嬉し気に誘ってくる。もう話す気はなかったのだが、そう言うことなら話は別だった。

「いいよ、やろうか」

 初めて同じゲームをやっている人に現実で会ったのだ。内心は正直テンションも上がっていたが、その対戦相手が川崎だと言うのは凄く奇妙な感じだ。

「おーけい、じゃあフレンドなろう!」

 川崎が慣れた手つきで俺の画面を操作し、ゲーム内で友人になる。やっているというのは嘘ではなさそうだ。
 ロビーに現れた川崎の操作するキャラは、やっぱりと言うべきか、現実とは似ても似つかない筋骨隆々の大男だ。本当に目の前の女子高生がこのキャラを動かしているのかと疑いたくなる。
 プレイヤー名は『覚』。

「プレイヤー名。なんて読むんだ?かく?」

 尋ねると、川崎は首を横に振った。

「覚って書いてこれで、さとりって読むの。まぁ初見じゃ分かんないよね。そういう葛谷くんの方は、『Keita』って。本名だなんて安易だなぁ」
「いいだろ別に。これが慣れてるんだよ」

 俺のプレイヤー名の『Keita』は確かに本名の啓太からそのまま引用していて、安易だなと自分でも思う。だが、一々新しい名前を考えるのもめんどくさくてネットの世界では全てこれで統一していた。結局使い慣れたものに限る。

「それじゃ、始めようか! 手加減しないからね!」

 心なしか、川崎のテンションも先程までより高い気がする。それもそうか。
 川崎も周りにゲームをやっている人がいなかったと言っていたし、そもそも、このゲームはそこまで知名度がある訳じゃない。
 こうして面と向かって対戦できるのは本当に偶然が重なった結果なのだ。

 俺も初めての経験に、少し胸が高鳴っているのを感じていたが、いざ始まると急にこの状況が恥ずかしくなってきた。
 落ち着いて考えれば、ここで変なことは出来ないのじゃないか?
 相手は川崎だ。調子に乗った発言をしたり過度なオタクを見せつければ、変な噂を流され、この後の学校生活が地獄になる可能性も充分にありえる。かと言って、ゲーマーとしてのプライドもあった。わざと負けることは許されない。板挟みだ。
 だとするなら、俺の取るべき行動は一つ。負けない程度に適当に相手してご機嫌を取ることにする。どうせ川崎のようタイプはゲームなんて、ろくにやったことがないような人種だ。どうとでもなるだろう。

 今回の対戦ルールは、一対一で時間内により多く相手を倒した方が勝ちというとてもシンプルなものだ。シンプルな分、小細工は効かず実力差も出やすくなっている。
 小さく息を吸い込み、始まったゲームへと意識を向けた。
 俺のキャラは、スタートと同時に敵陣地へと攻め込む。それはもう定石であり、何度も繰り返してきた動きは手が覚えている。
 自慢じゃないが、俺はこのゲームを相当やりこんでいるし、初心者相手なら何回やろうが負けることはないという自信があった。だから、まさか負ける訳がないと一ミリも自分を疑っていなかった。

 『パァァン!!』

 俺の操作しているキャラは次の瞬間、頭を撃ち抜かれ初期位置へと戻されていた。何が起きたのか分からず、フリーズする。

「は……?」
「ふふん、甘いんじゃないの『Keita』くん」

 何をされたのかすら分からないまま、一瞬で俺のキャラは倒されていた。
今の一瞬でヘッドショットを喰らって倒された……のか? 俺視点では、川崎の姿が見えてすらいなかった。いくらなんでも早過ぎる、反応すら出来ないなんて。

 ……いや、そんな訳ないきっとまぐれだ。落ち着いてやれば勝てる勝負なのだから。そう自分に言い聞かせ、額に流れた汗を拭った。
 今度は正面から突っ込むんじゃなくて側面から回り込んで……。
 先ほどの反省を踏まえ修正した俺の動きは、周り込んだ先の足元に仕掛けられた罠に気付かず、体勢を崩され、あれよあれよという間にまた一本取られていた。
 いやいや⁉ 普通あんな位置に罠を置いておくか?まず間違いなく初心者じゃない。こちらの動きを完璧に把握しての、見事な立ち回りだ。

 この時点で俺は自分の見積もりが間違っていたと気づいた。このゲームを長くプレイしているからこそ分かる。こいつは……いや川崎は。想像していたよりはるかに強い。恐らく格上、そこそこでやって勝てるような相手ではなかった。本気で気合いを入れてやらねば。
 内心、凄く焦っていた。
 まさかクラスの中にこんな強者がいて、しかもそれが女子だなんて。このゲーム、相当マニアックだぞ? 一体どんな確率だよ。

「ほらほら、どうしたの! こんなもんかね?」

 おどけて煽る川崎の声で、俺の中のゲーマー魂に火が付いた。
 普段からゲームを遊んでいるオタクとしての意地がある。ゲームで一軍女子に負けるなんて俺のプライドが許さない。

「ここからだよ。さっきまでは油断してたけど、今からは本気で行くから」
「お、言ったね? 頑張りたまえ!」

楽し気に笑う川崎を横目に、俺はより一層ギアを上げ、スマホを握り直した。


 十分後。試合終了と書かれたゲーム画面には、『Keita 四ポイント───覚 一二ポイント』と圧倒的なスコア差をつけられ敗北したリザルトが表示されていた。
 画面上部には大きな文字でLOSEと敗北を意味する単語が浮かんでいる。
負けた。言い訳のしようがないほどに。

「いぇい! 私の勝ち!」

 川崎が満面の笑みでピースサインを送ってくるのに対し、俺の表情は正反対。この世の終わりのような絶望が張り付いていた。
 俺の……唯一のアイデンティティ。ゲームでなら誰にも負けないと思っていたのに、まさかその自信をこんな形で壊されるとは、思ってもいなかった。
 俺を圧倒した川崎のプレイスタイルは、狙いを外さない正確なエイムもさることながら、何よりもこちらの腹の内を見透かすような、圧倒的な先読み能力が見事だった。ここまで完璧な立ち回りはそう見られるものじゃない。
 俺のやりたいことを潰す川崎の動きで、俺はいつもの動きが実質的に封じられていた。

 ……くっそ、こんな伏兵がいたなんて。完全にゲーマーじゃないか。
 人は見かけによらないと言うのはこんな場面で使うのかと、初めて実感する。ここまで圧倒的にボコボコにされては、言い訳の言葉すら出てこない。

「完敗だよ。正直、川崎がここまでゲームが上手いと思ってなかった」

 川崎は誇らしげに胸を張る。

「いやー照れちゃうね。実は、家ではずっとこのゲームばっかりやってるからね。下手だと思って舐めてたでしょ?」

 それは図星で、川崎のことを舐めていなかったと言えば嘘になる。手を抜いて、程々に相手しようと思っていた程だ。だからこそ、川崎の想定外の腕前に俺は翻弄されていた。
そんな俺の様子に川崎は満足げに指をくるくると宙で回す。

「まぁ、つまりね。やってみないと分からないことも多いってことだよ。現実もそうだよ?葛谷くんは思い込みが多いけど、そうじゃないことも沢山あるんだって気づいてくれれば嬉しいな!」

 言い終えると、川崎はあの輝くような眩しい笑顔を浮かべた。俺はそのキラキラした目を直視できず、思わず逸らしてしまう。
 ……確かに川崎は俺よりもこのゲームが上手かった。ただ、だからと言って、言っていること全てその通りだとは思えない。思い込みが多いって言うのは、俺が言っていたみんなが俺に敵意を抱いているってことについてだろう。考えすぎだと言いたいのは分かる。でも過剰なぐらいが丁度いいのだ。油断を見せればすぐに足元を掬われる。
 その考え自体は揺らいでいないが、たった今、自分の固定観念。一軍女子にゲームで負ける訳ないという俺の思い込みが打ち砕かれた所だ。それを無かったことにして反論することは流石の俺でも出来なかった。
 何も言い返せず黙ったままの俺を見て、川崎は楽し気に頷く。

「葛谷くんの更生第一歩目だね!」

 何を持って一歩目なのかは全く分からないがどうやら川崎の中では何かが進行したらしい。と言うか、まだ更生計画とやらは続けいてたのか。
本当に川崎は何を考えているんだか、見当もつかない。一体何の目的があってこんなことをしているのだろう。

「ふふっ、秘密だよ」
「……何も言ってないけど」
「私は心が読めるんだって」

 不思議な人だ。相変わらず、川崎は冗談混じりに。だがからかうような様子でなく、心が読めると言うのを心の底から真実だと信じているようにそう言った。
 どうやら変わり者だという俺の認識に、間違いはないらしい。
 まだまだ聞きたいことはあったが、昼休みの終わりを告げるチャイムにより俺たちは強制的に教室へと帰ることとなった。